しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場・47都道府県を制覇し,南天・皆既日食・オーロラ,空の3大願望を達成した「不良老人」の日記

カテゴリ:東北旅行LIVE > LIVE・2025春

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【Summary】
I visited Aomori and was satisfied with the trip, especially enjoying local food again. I found Hachinohe confusing, with no clear city center and complex bus routes, and hope to stay there next time to understand it better.

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これまで行くことができなかったところに行こう,ということでやって来た青森県ですが,そのほとんどを達成することができました。
すっかり満足して,青森空港にもどりました。
帰りは,午後7時30分発と遅いので,空港の食堂でゆっくり食事をして,そのあとラウンジで時間をつぶしました。
はじめて青森県に来たのはわずか2年前ですが,そのときに食べたのを思い出して,食事は,ふたたび,青森県のソウルフードである味噌カレー牛乳ラーメンにしました。なつかしい味がしました。
今回もいい旅になりました。

最後に。
青森県は西側の旧津軽藩であった津軽地方と東側の旧南部藩であった南部地方で,方言や文化などが大きく異なります。
戦国時代,青森県と岩手県の北部は南部家の支配下にありましたが,南部家の家臣として津軽地方の統治を任されていたのは津軽家でした。安土桃山時代になったころ,南部家で起きた相続争いに巻き込まれた津軽家は,謀反の疑いをかけられたのですが,このピンチを独立のチャンスととらえ,反旗を翻して,豊臣秀吉に働かけて本領を安堵してもらい,南部家から独立を果たしました。それ以来,津軽家と南部家は対立するようになり,400年にわたる確執がはじまりました。
関ヶ原の戦いで,ともに徳川方に味方したことで本領が安堵され,江戸時代,青森県の西側は津軽家が統治する津軽藩(弘前藩),東側は南部家の統治する南部藩(盛岡藩)となりました。
津軽家はもともと南部家の家臣だったので,南部家からみれば津軽家は「主家に反逆した裏切り者」とり,津軽家からみれば,南部家とは対等な立場となります。そこで,津軽藩が南部藩から格下と見られることは許せるものではありません。

南部地方の最も大きな都市は八戸市です。
津軽地方から車で走っていくと,明確にその違いを感じます。リンゴ畑がおおい津軽地方から田んぼがほとんどの南部地方では気候も全く異なります。また,八戸市は,知らずに行くと戸惑うことが多々あります。簡単に言うと,どこが中心なのかわからないということです。新幹線の八戸駅は,市街地から5キロメートルほど西に離れていますし,もともとの中心地は,現在,本八戸駅という名前に変わっていて,そこに市役所があるのですが,繁華街はそこから少し歩く必要があるのです。
今回,太平洋の海岸線まで行ってみて痛切に感じたのですが,八戸市は青森市のある西側からアクセスするのではなく,岩手県から北上したほうが便利だということでした。

次のようなことが書かれたブログを見つけました。
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私(ブログの筆者)が八戸を訪れて最初に感じたのは,バス路線のわかりにくさだった。バスの路線は町の中心にあるターミナルを中心として放射状に広がっているものだが,八戸市は中心街にターミナルがなく,郊外を出発したバスが中心街を通り,別の郊外へと去っていくというパターンで運行されていて,はじめての人にとって非常にわかりにくい。
なぜそのようになっているかというと,八戸という都市の構造に問題があるからだ。まず,八戸市には市の代表とよべる駅がない。八戸駅は新幹線が乗り入れているにもかかわらず町外れで,駅前には何もない。では,中心街はどこにあるかというと,八戸駅から八戸線というローカル線に乗って2駅目の本八戸という駅の周辺になる。しかし,本八戸駅は列車の本数も少なく,市の代表駅には相応しくない。また,駅前広場も狭く,バスが沢山集まってくることができない。本八戸駅付近には市役所などの行政機関が集まっているが,中心市街地の範囲は狭く,デパートも閉店し,その敷地跡が空地になっていたりする。さて,八戸市といえば,巨大な漁港が有名だが,海岸へいくと,無機質な防潮堤が冷たく視界をふさいでいる。
  ・・・・・・
実際に行ってみると,この意見はもっともだと感じてしまいます。
とはいえ,私は,八戸市へ2度行っただけなので,まだ,本当のところはよくわかりません。機会があれば,今度は,八戸市に宿泊して,実際はどうなのか知りたいものだと思いました。

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Thank you for coming 444,444+ blog visitors.

ブログをはじめて148か月・4,443回の更新で,総訪問者数が44万4,444となりました。
読んでいただいて,どうもありがとうございます。


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【Summary】
While traveling without much prior research, I visited Hachinohe and learned that Hachinohe Castle was the seat of the Hachinohe-Nanbu clan, while the restored Ne Castle had earlier been home to the Nejo-Nanbu clan, offering deep historical insights despite its modest appearance.

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私は,日本各地を旅すると,江戸時代,その地を支配した殿様に興味があるので,城や菩提寺を訪ねることにしています。では,八戸市はどうなのかな? きっと八戸市には八戸城があったのだろう,と思いました。それもこれも,いつものように下調べをせずに旅をしているから,適当なのです。
ということで,前回,八戸城跡を見つけて行ってみたのですが,そこは単なる公園になっていただけでした。のちに,八戸市には,八戸城跡ではなく根城跡というのがあって,そちらはきちんと整備されていると知りました。そこで,今回,改めて行ってみました。

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八戸の地には,南北朝時代から江戸時代初頭までの約300年間にわたって根城に城を構え八戸地方を支配していた「根城南部氏」がいましたが,「根城南部氏」は,1627年(寛永4年)に南部氏27代で盛岡藩初代藩主・南部利直の命により遠野へ移封されてしまい,南部利直は八戸を盛岡藩の直轄地として,自らが縄張りをして城塁を築き,町割りをはじめました。
1664年(寛文4年),南部家28代で盛岡藩2代藩主・南部重直は,跡継ぎを決めずに急死してしまいましたが,南部重直のふたりの弟・南部重信と南部直房が,幕府から家名の存続を認められ、遺領10万石のうち,8万石は南部重信に,2万石は南部直房に与えるとの命により,南部重信は盛岡藩を継ぎ29代藩主となり,南部直房は現在の八戸市内丸に八戸城を構え居城として「八戸南部氏」となり八戸藩2万石が誕生しました。
  ・・・・・・
私が前回訪ねた八戸城跡は「八戸南部氏」の居城だったわけです。

それ以前に支配していた「根城南部氏」の居城だったのが根城で,その場所が復原されているのです。このようにして,八戸市には,現在,根城跡と八戸城跡があるのですが,そのうちで,根城が復元されたのは,中世の城郭の姿をはじめて再現したという点で歴史的価値が高いと評価されたためということです。
根城は,本丸をはじめ中館,東善寺館,岡前館,沢里館など堀で区画された8つの郭となっていて,本丸からは門,橋,馬屋といった多くの建物跡や生活用具が発見されました。現在は,それらが復元されていて,見学することができました。
歴史好きには興味深い場所ですが,何せ,天守があるわけでもなく,豪華な御殿があるわけでもないので,観光名所としてはインパクトが弱く,来ている人はほとんどいませんでした。私には,それがまたよかったのですが…。
また,根城に隣接して,八戸市博物館があって,そちらもまた,魅力的なところでした。

南部氏は,もともとは甲斐の出身で,鎌倉時代は幕府の御家人として活躍し,やがて南北朝時代に北東北へ拠点を移しました。
一族には,三戸南部氏や根城南部氏,九戸氏,新田氏などがあり,ときに協力しときに反発し合い,主導権争いを繰り返していました。
戦国時代には,豊臣秀吉の小田原征伐に参陣した南部家26代・南部信直は,三戸南部氏の下に勢力を結集させ生き残りを果たしました。
このように,南部藩は多岐にわたり,八戸市には,今回私が訪れた根城南部氏の根城がありますが,さらに,今回は行くことができませんでしたが,南部氏のルーツである南部町には,1539年(天文8年),南部家24代・南部晴政の代に焼け落ちた「聖寿寺館」(本三戸城)」の跡や桃山建築の様式がそのままに取り入れられた「南部利康霊屋」,三戸町には聖寿寺館の後に南部宗家の居城となった「三戸城」の跡があります。
というように,八戸市とその周辺は,私にはとてもおもしろいところなのですが,どこが中心なのかよくわからず,詳しいガイドブックもなかなか見つからず,広すぎて把握しづらく,観光するにはいろいろ下調べが必要のようです。青森県の旅はこれで最後にしようと思っていましたが,また,新たな興味が湧いてきました。

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【Summary】
I visited Hachinohe and was surprised by its industrial character but later discovered Kabushima Shrine and Tanesashi Coast. Visiting during the gull nesting season, I found the scenery beautiful but smelly. I now hope to return, traveling north along the coast from Iwate.

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青森県が西部と東部で異なった文化圏であるというのは誰しもがいうことですが,私はこれまで西部についてはほぼすべての場所に行ったのですが,東部にはほとんどなじみがありませんでした。前回はじめて八戸市に行ってみたのですが,市街地と鉄道の駅が離れていたり,思った以上に工業地帯だったりして,おどろきました。
その程度の印象だったのですが,テレビの旅番組で蕪嶋神社(かぶしまじんじゃ)という場所をしって,は八戸市にはこのような観光地があるということをはじめて知りました。そして,今回は行ってみようと思っていました。
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蕪嶋神社は,蕪島に鎮座する神社で,主祭神として市杵島姫(いちきしまひめ)を祀っています。市杵島姫は弁財天と習合され,商売繁盛や漁業安全,財運向上の神として信仰を集めています。
蕪島は,かつて小さな島でしたが,埋め立てにより陸続きとなり,現在は市街地からもアクセスしやすい場所にあります。また,神社の創建時期については明確な記録が残っていませんが,古くから地元の漁師や商人たちの信仰を集めてきました。特に「蕪」(かぶ)という地名が「株」と同じ読みであることから,株価や人望の「かぶ」にも通じるとして,投資家やビジネスマンの間でも縁起のよい神社として知られています。
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蕪島物産販売施設「かぶーにゃ」というところがあったので,まず,ここで昼食をとりました。そして,蕪嶋神社に向かいました。
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蕪島はウミネコの繁殖地としても有名で,春から夏にかけて多くのウミネコが飛来し,島全体が白く染まるほどの光景が広がります。ウミネコの鳴き声が響き渡り,訪れる人々に季節の訪れを感じさせます。
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ということで,私が訪れた時期はまさにウミネコだらけでした。それはそれでいいのですが,いたるところにフンが。置いてあった傘をさして階段を登らないと悲惨なことになるのでした。また,それが臭いこと。蕪嶋神社は遠いところから景観を眺めるに限るのでした。

その後,太平洋岸に沿って,南に走りました。そのあたりは種差海岸(たねさしかいがん)といいます。幸い天気にもめぐまれ,その海岸線の美しさは類を見ないものでした。
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種差海岸は八戸市鮫町棚久保にある三陸復興国立公園内の海岸で,国の名勝地に指定されています。
海沿いの遊歩道を散策すると,天然芝生,奇岩怪石,樹齢100年もの松林など,変化に富んだ自然美が楽しめます。
種差海岸は,荒波による浸食でできた奇岩や海食崖など,変化に富んだ景観が特徴です。
650種を超える植物が自生し,季節ごとに多彩な花々が咲き誇る「花の渚」としても知られていますが,特に,初夏から秋にかけては種差天然芝生地の緑が美しく,ニッコウキスゲやハマギクなど四季折々の花々が咲き誇ります。
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まさにベストシーズンでした。
どうやら,ここは,青森県というより,岩手県。津軽地方よりも南部地方に近い場所だということが行ってみて実感できました。また来ることがあれば,今度は岩手県から海岸沿いを北上してみたいと思いました。

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【Summary】
In May 2025, I finally rode the Hakkōda Ropeway, which I had missed on previous trips due to bad weather or lack of knowledge. Though the hiking trails were still closed due to snow, the breathtaking view from the summit was unforgettable. I also visited the Snow March Memorial, honoring soldiers lost in the 1902 Hakkōda Mountains incident.

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今回,やっと八甲田ロープ-ウェイに乗ることができました。はじめて青森県を旅した2023年5月は,酸ヶ湯温泉に宿泊したものの,八甲田ロープウェイの存在すら知らなかったので,乗ることができませんでした。そもそも,そのときは,酸ヶ湯温泉が八甲田山麓にあることすら知らなかったのです。
私は,八甲田山というのは,新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」とそれを原作とする日本映画でしか知らず,険しく,人を寄せつけないところ,という印象だったので,ロープウェイがあるなど思ってもいませんでした。
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「八甲田山死の彷徨」は,1902年(明治35年)に青森に駐屯していた歩兵第5連隊が雪中行軍の演習中に遭難し,演習に参加した210人中199人が死亡した事件(=八甲田雪中行軍遭難事件)を題材にした作品です。
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帰ってから,八甲田ロープウェイがあることを知り,2024年7月に行ってみたのですが,悪天候で運休していて乗ることができませんでした。
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昨年「酸ヶ湯温泉」に行ったときはその存在すら知らず行くことができなかった八甲田ロープ-ウェイに乗ることにしました。山の中を延々と走っていって,やっとロープ-ウェイ乗り場に着いたのですが,この日も運休でした。まったくツイていません。八甲田ロープ-ウェイはずっと運行しているのではないかと思ったのですが,私に縁がないだけのようでした。また来いよ,といっているのでしょう。 こうなったら,八甲田ロープ-ウェイに乗ることができるまで,何度でも青森に行ってみよう! と決心するのでした。
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と昨年書きました。
今回の旅でもあきらめていたのですが,何と何と,この日2025年5月13日は朝から快晴でした。
この旅では,この日は八戸市から太平洋岸に行くことにしていたので,ずいぶんと迷ったのですが,これを逃したら今度このチャンスがいつ来ることができるかわらない,と思い直して,ともかく八甲田ロープウィに乗ることにしたのです。

早朝,宿泊していた黒石温泉郷落合温泉「かねさだ旅館」をチェックアウトして,八甲田ロープウェイ山麓駅に向かいました。始発は午前9時でこれに乗ることにしました。
始発とはいえ,けっこうな乗客がいました。また,常連のスキー客もいました。八甲田ではこの時期でも雪があって,スキーが楽しめるのです。何といっても,日本一の豪雪地帯です。
ロープウェイで約10分,山頂駅に着きました。ここでハイキングコースがあるのですが,今年は雪が多く,まだ,ハイキングコースは閉鎖されていて,歩くことができず,山頂駅の周りを少しだけ散策できただけでした。しかし,雄大な景色に魅了されました。
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八甲田山という山はなく,標高1,625メートルの岩木山に次ぐ高さを誇る標高1,585メートルの大岳(おおだけ)を主峰とする18の山々からなる複数火山の総称です。
東北地方の脊梁(せきりょう=山の連なり)・奥羽山脈の北端で,青森県のほぼ中央にあって,約20キロメートル南には十和田湖が位置します。
  ・・・・・・

八甲田ロープウェイを降り,ついでに,雪中行軍遭難記念像に寄ってみました。
これは,八甲田雪中行軍遭難事件で,旧陸軍の青森歩兵第5連隊第2大隊210人が吹雪に遭い遭難したとき,雪の中に仮死状態で立つ兵士の姿(後藤房之助伍長といわれている)を捜索隊が発見し,救援活動のきっかけになったと伝えられているのを全国の将校たちの寄付によって,靖国神社の大村益次郎像などを製作した大熊氏広により創られ,馬立場の頂上に高さ7メートルの歩兵第5連隊遭難記念碑として建立し霊を慰めたものです。

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【Summary】
In this trip, I stayed at Kanesada Ryokan in the quiet, historic Ochiai Onsen. Though I originally hoped to stay at Yamani Senyukan, I was very satisfied with the peaceful atmosphere, private bath, and excellent meals—just the kind of lodging I seek while traveling.

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今回の旅で,津軽地方では行きたかったところはすべて行くことができました。この日の宿は黒石市の落合温泉「かねさだ旅館」でした。
実は,私が泊まりたかったのは,大鰐温泉の「ヤマニ仙遊館」だったのです。
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「ヤマニ仙遊館」は,大正時代の風情と太宰治の足跡を体験できます。
ここでは,大正ロマンが息づくレトロなお風呂でリラックスしたり,太宰治が滞在したとされる部屋で静寂を楽しんだりできます。
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というのが理由でした。
しかし,予約が取れず,変更したのです。いずれにしても,黒石市郊外の温泉郷にも泊ってみたかったから,それはそれで満足でした。また,黒石市郊外の温泉郷でランプの宿として有名な「青荷温泉」がありますが,そこは前回,日帰りで入浴したので,パスしました。いずれにしても,観光客が多いところは泊まりたくありません。

黒石市に向かう途中で,「平舘不老ふ死温泉」のあたりを通ってみました。深浦町の黄金海岸にも「不老ふ死温泉」があって,よく混同されますが,そちらはすでに泊ったことがあります。
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不老ふ死のいわれはおよそ2,200年前,中国・秦の始皇帝が不老長寿の仙薬をもとめ, 家臣徐福を遥か東の海に浮かぶ蓬莱の島に派遣しました。この島こそ日本列島であったといわれ,徐福はその時に当地も訪れたと伝えられていて,「平舘不老ふ死温泉」は,創始者がこの伝説にちなみ 「この湯にひたりいつまでも健康で長生きしていただきたい」という願いをこめて名づけたものです。
温泉は300年も前からあったといわれ,津軽半島で最も古い温泉です。
  ・・・・・・
ということで,今回は宿泊しませんでしたが,いつか泊まってみたいものだと思っています。

やがて,黒石市に到着しました。黒石市の市街地は前回訪れました。
黒石市は,なぜか,青森県に来るたびに通ったことがあり,大きな「津軽こけし館」の看板が掲げられているのですが,これまで訪れたことはありませんでした。
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黒石市は自然と歴史が調和した素敵な街。伝統的な温泉地や「津軽こけし館」などがあります。
1982年(昭和57年)に開館した「津軽こけし館」は,津軽地方に伝わるこけしの伝統文化を保存し,広めるために設立されたので,伝統的な津軽こけしや地元の文化に触れることができるところです。
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見学してわかったのですが,黒石市とこけしというのは,けっこう無理やり結びつけた感があって,おそらく町おこしとして考えたもので,1億円創生事業で金と銀のこけしを展示したときはかなりの観光客が訪れたのですが,それも今は昔のことで,さびれた感も半端でありませんでした。

この日に泊る落合温泉は,小さな温泉地で,歴史ある雰囲気が漂っていて,その静かな環境がとても魅力的でした。「かねさだ温泉」は,カルシウムやナトリウムを含む硫酸塩・塩化物泉が特徴で,リウマチや神経痛、冷え性などに効果があるということです。
落合温泉もまた,さびれた感があって,宿泊客はわたしひとりでしたが,そのため,温泉も独占できたし,何といっても,食事も豪華で,大変満足しました。
私が旅先で理想とするのは,こういう宿なのです。

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【Summary】
I couldn’t visit Gikeiji Temple last time due to steep stairs, learned later that it’s accessible via Ajisai Road without climbing. This time, I visited by car. Though the temple was quiet and simple, the view from its grounds was magnificent.

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昨年来たとき,三厩の高台あった義経寺(ぎけいじ)に行くことができませんでした。それは,義経寺へ行くには,かなりの階段を上る必要があったからでした。
帰ってから地図を見ると,海岸に沿って国道339号線を走るのではなく,高台に並行して県道281号線「あじさいロード」を走れば,義経寺へは,登らずとも行くことができたということがわかりました。
そこで,今回,行ってみることにしたのです。
以前のブログに次のように書きました。

   ・・・・・・
奥州平泉で最期を遂げたとされる源義経は,実はその後も存命し,さらに北へと逃避行を続け最後は蝦夷地へと渡ったという伝説があります。蝦夷へ渡ろうとした源義経は,海が荒れていたため船を出すことができませんでした。老人が現れ「三頭の竜馬を与えるのでそれで海を渡るとよい」と告げられます。すると,岩窟にいた3頭の駿馬を得ることができて,て無事に蝦夷へ渡ることができたたという。これが三厩の地名の由来です。
  ・・
源義経の伝説から500年ほど経った1667年(寛文7年)にこの地を訪れた円空は,源義経ゆかりの厩石に上り,そこで小さな観音像を見つけました。それが源義経の守り本尊であることを知り,円空は観音像を彫り上げ,厩石を見下ろす小高い丘の上に庵を結びました。これが義経寺のはじまりとされます。
  ・・・・・・
義経寺は,源義経が奥州へと落ち延びる途中に立ち寄った場所とされ,その際に建てられたお寺が義経寺,ということです。

「あじさいロード」を走っていくと,義経寺の広い駐車場に着きました。車を停めて外に出ました。義経寺は駐車場から少し下がったところにありました。
海岸を走る国道339号線から見上げた義経寺はさぞかしすばらしい寺だろうと思っていたのですが,実際に行ってみると,観光客もおらず,静まり返った古刹に過ぎませんでした。
ただし,寺の境内からの景色はすばらしいものでした。

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【Summary】
During my visit to Cape Tappi, I decided to walk the “Staircase National Highway” — a unique pedestrian-only section of Route 339 with 362 steps. Climbing was tough but rewarding, offering views of the port below. I made it to the top and descended smoothly while filming.

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せっかくここまで来たのだからということで,今回私はあるひとつのことを達成しようと思いました。
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「階段国道」は,青森県外ヶ浜町の龍飛岬にある国道339号線の一部で,車両が通行できない階段状の国道です。全長388.2メートル,362段の階段が続くこの区間は,日本で唯一の「歩行者専用の国道」として知られています。
もともとは地域住民の生活道路として存在していましたが,国道指定時にこの区間も含まれ,そのまま残されたことで「階段国道」として有名になりました。
  ・・・・・・
ということで,それは,前回は歩く気力もなかった階段国道を歩いてみよう,ということでした。おそらくこの機会を逃せば,二度とその機会はないだろうと思ったからです。

階段国道は上側と下側のどちらにも車を停めるスペースがあるのですが,上れば降りるしかなく,降りれば上るしかありません。ということで,私は,先に登って降りてくるほうを選びました。
果たしてどのくらいかかるものか? とにかく行ってみるしかありません。
標高差は約70メートル,15分程度,ということでした。下から見上げると,高台にあるのが,前回宿泊した「龍飛岬温泉ホテル竜飛」でした。また,階段を上る途中で眼下を見ると,龍飛岬の先端にある龍飛漁港が見られます。
上るのはけっこう大変でしたが,なんとかたどり着きました。降りるのはそれほどのこともなく,動画を撮りながらあっという間に降りきることができました。

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【Summary】
ChatGPT: In July 2024, I visited Cape Tappi and learned about the former Okutani Ryokan, which I hadn’t known beforehand. It was closed by the time I arrived, but unexpectedly, I returned less than a year later and was finally able to enter. Deeply moved, I even received a souvenir badge from the staff.

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龍飛岬の手前に,観光案内所(旧奥谷旅館)があります。 ここは,太宰治が「津軽」執筆の折に親友N(中村貞次郎)君と泊まった宿です。
奥谷旅館は,1902年(明治35年)に創業し,1999年(平成11年)まで営業していました。この旅館は,津軽三味線の大家・高橋竹山や作家・太宰治,版画家・棟方志功など,多くの著名人が宿泊したことで知られています。
現在、奥谷旅館は廃業し、「龍飛館」として観光案内所に生まれ変わりました。館内では、太宰治が宿泊した部屋の再現や、棟方志功の作品紹介、竜飛岬を題材にした絵画や映画・ドラマの資料などが展示されています1。また、太宰治の小説『津軽』にもこの旅館が登場し、彼と親友が宿泊した際のエピソードが描かれています。持ち主である奥谷福太郎さんと隣接する土地の人達によって外ヶ浜町へ無償譲渡され,2008年(平成20年)に龍飛岬観光案内所として生まれ変わり,今も現存するのです。
ここには,太宰治をはじめとして,数多くの作家や画家の筆跡が残る宿帳や,当時の龍飛にまつわる記録資料,著名人がしたためた色紙や作品など,貴重な文化遺産が展示されています。
太宰治が泊まった部屋も復元・公開されています。

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露路をとほつて私たちは旅館に着いた。お婆さんが出て来て,私たちを部屋に案内した。この旅館の部屋もまた,おや,と眼をみはるほど小綺麗で,さうして普請も決して薄つぺらでない。まづ,どてらに着換へて,私たちは小さい囲炉裏を挟んであぐらをかいて坐り,やつと,どうやら,人心地を取かへした。
「ええと,お酒はありますか。」N君は,思慮分別ありげな落ちついた口調で婆さんに尋ねた。答へは,案外であつた。
「へえ,ございます。」おもながの,上品な婆さんである。さう答へて,平然としてゐる。N君は苦笑して,
「いや,おばあさん。僕たちは少し多く飲みたいんだ。」
「どうぞ,ナンボでも。」と言つて微笑んでゐる。
私たちは顔を見合せた。このお婆さんは,このごろお酒が貴重品になつてゐるといふ事実を,知らないのではなからうかとさへ疑はれた。
「けふ配給がありましてな,近所に,飲まないところもかなりありますから,そんなのを集めて,」と言つて,集めるやうな手つきをして,それから一升瓶をたくさんかかへるやうに腕をひろげて,「さつき内の者が,こんなに一ぱい持つてまゐりました。」
「それくらゐあれば,たくさんだ。」と私は,やつと安心して,「この鉄瓶でお燗をしますから,お銚子にお酒をいれて,四,五本,いや,めんだうくさい,六本,すぐに持つて来て下さい。」お婆さんの気の変らぬうちに,たくさん取寄せて置いたはうがいいと思つた。「お膳は,あとでもいいから。」
  ・・・・・・

昨年2024年7月上旬に龍飛岬に来たときは,来るまでここを知らず,現地で知って来てみたときはすでに開館時間が過ぎていて,中に入ることができませんでした。こう来ることはないだろうとあきらめていたのに,1年も経たないうちにまたここにやって来て,今回は中に入ることができました。
感激しました。あまりに感激しているものだから,係の人がお土産として缶バッチをくれました。

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【Summary】
I visited the Seikan Tunnel Entrance Plaza to watch Shinkansen trains emerge from and enter the tunnel, timing their visit precisely.I then explored Okutsugaru-Imabetsu Station, a remote, low-traffic station linked to the tunnel, and saw a freight train stop there. It was a fascinating, far-flung place.

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東北新幹線は新青森駅を過ぎると北海道新幹線となります。そして,津軽半島の中央部を突き抜け,先竜飛岬の直前にある奥津軽いまべつ駅を通り,青函トンネルで津軽海峡の海面下を通って北海道に至ります。現在は,新函館北斗駅が終点です。
前回,龍飛岬に行ったとき,行くことができたのにもかかわらず,その存在を知らなかったために,奥津軽いまべつ駅へ寄ることができませんでした。また,調べてみると,今別市は,青函トンネル入口付近に青函トンネル入口広場を整備して,北海道新幹線が青函トンネルを出入りする様子を間近で見ることができるスポットとなっていることを知りました。
そこで,今回,行ってみることにしたのです。

まず,青函トンネル入口広場へ行ったのですが,北海道新幹線は1日に,上り下りそれぞれ13本しか走りません。この地を訪れた人のブログにも,時間が合わず,新幹線を見ることができなかった,というものが多くありました。そこで,私は,通過時間を事前に調べて,それに合うように行くことにしました。
都合がよかったのが,新青森駅から新函館北斗駅に向かう下り線を「はやぶさ」1号が午前10時10分,そして,その反対方向の上り線を「はやぶさ」19号が午前10時19分に通過するものでした。これを逃すと,次が1時間以上先になってしまうのです。
午前10時ころに到着しました。観光客がどのくらいいるのかな,と思ったのですが,ひと組だけでした。しかも,新幹線の通過する時間を知らず,通過する以前に行ってしまい,私だけになりました。
やがてやってきた「はやぶさ」1号は,ものすごいスピードで青函トンネルから出てきて,そのつぎの「はやぶさ」19号もまた,青函トンネルに消えていきました。迫力がありました。

青函トンネルは,新幹線だけでなく,貨物列車も通ります。レール幅が違うので,青函トンネル内は3本のレールがひかれています。私は,新幹線以上に貨物列車が青函トンネルに入っていく姿が見たかったのですが,貨物列車の通過する時間がわからず,断念しました。実際は,貨物列車は1日に40本以上通過しているので,しばらく待っていれば,確実に見ることができたのでした。残念なことをしました。
さて,新幹線を見終えて,青函トンネル入口広場から少し南に行ったところにある奥津軽いまべつ駅に行ってみました。
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奥津軽いまべつ駅は,今別町にある北海道新幹線の駅です。
本州最北端の新幹線停車駅であり,JR北海道が管轄する唯一の本州の駅でもあります。
津軽線の津軽二股駅と隣接していて,連絡通路で接続されています。
この駅は,青函トンネルの本州側の拠点として重要な役割をもち,避難・消火設備や保守拠点が併設されています。また,周辺には道の駅「いまべつ」があり,地域の観光拠点としても利用されています。
利用者数は少なく「秘境駅」ともよばれることがあります。
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広い駐車場に車を停めました。
津軽線は現在,蟹田駅から北が水害のために破損していて運行していません。そこで,津軽二股駅は機能していません。また,奥津軽いまべつ駅に停車する新幹線は1日にわずか14本しかなく,これでは利用する人がほとんどいないのはもっともです。
とはいえ,併設されている道の駅「いまべつ」の食堂は混雑していました。この付近,ここ以外に食事をするところもほとんどないのが理由です。私も,ここで昼食をとりました。
また,この駅は,貨物列車のターミナルともなっていて,私が着いたときに,ちょうど,青函トンネルからやってきた貨物列車が停車しました。どうやら,この駅で新幹線に追い抜かれるようでした。
最果て感満載のおもしろい場所でした。

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【Summary】
I stayed at Tsugaru Fujimi-so, with a stunning view of Mt. Iwaki, known as the "Tsugaru Fuji." Though cloudy at first, the sky cleared, revealing the bridge and mountain beautifully. I enjoyed the night illumination, a morning hot spring, and a delicious breakfast—an unforgettable stay.

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この2泊3日の旅の1泊目の宿は「つがる富士見荘」でしたが,ここで富士というのは岩木山のことです。青森県の最高峰である岩木山は標高1,625メートルの火山で,「津軽富士」ともよばれ,その美しい円錐形の姿が特徴的です。初心者でも約3時間で登頂できるということですが,私はまだ登ったことがありません。
前回,2024年の7月上旬に来たときは鶴の舞橋が目的地のひとつで,観光客用の駐車場に車を停めて,橋を渡りました。
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鶴の舞橋は1994年(平成6年),岩木山の雄大な山影を湖面に美しく映す津軽富士見湖に,日本一長い三連太鼓橋として架けられました。 全長300メートルもの三連太鼓橋はぬくもりを感じさせるような優しいアーチをしていて,鶴と国際交流の里・鶴田町のシンボルとして,多くの人々に愛されています。
  ・・・・・・

このように,鶴の舞橋は,比較的新しいものですが, 津軽富士見湖は,元来は岩木山を水源とする白狐沢からの自然流水によってできたものを,1660年(万治3年)に4代藩主津軽信政が柏村地方の用水補給のための堤防を築き用水池にしたものです。
鶴の舞橋は,岩木山を背景にした姿が鶴が空に舞うように見え,夜明けとともに浮かび上がる湖面の橋,夕陽に色づく湖と鶴の舞橋,さらには,季節による異なった美しさなど,一年を通してすばらしい姿を見せます。
ということですが,到着したころは曇っていたものの,次第に雲が切れて,岩木山を借景としたすばらしい姿を見ることができました。
何といっても,今回は宿泊するので,ライトアップされた姿をみることもできました。
翌日の朝は,早朝に温泉に入り,その後,雲ひとつないあざやかな姿に見入りました。朝食もおいしく,最高の1泊となりました。

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【Summary】
ChatGPT: The writer stayed at Tsugaru Fujimiso, a hot spring inn near Tsuru-no-Mai Bridge, during a 3-day trip. They were deeply moved by the beautiful apple blossoms in full bloom and learned about Aomori's apple farming history. The inn offered delicious food, local sake, and relaxing hot springs.

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この旅は2泊3日ですが,1泊目の宿は「つがる富士見荘」というところでした。絶景の宿という触れ込みで,2食つきの温泉宿ということだったので,とても楽しみでした。予約した後で,場所が鶴の舞橋に面したところだと知りました。いつもいい加減な私です。
鶴の舞橋は一度は行ってみたいと思っていたところだったのですが,前回青森へ来たときにすでに実現したので,あたりの様子はわかってると思っていました。
とろろが,木造から向かう途中,あたりが満開のリンゴの花だらけにはびっくりしました。そして,感動しました。この時期の青森では,リンゴの花が満開で,とても美しい景色が広がっていたのです。桜の花以上にすばらしいと思いました。

青森県にリンゴ農家が多いのは,寒暖差が大きく降水量も適度にあるため,リンゴの栽培に最適な環境であるからです。特に,昼夜の気温差が大きいことで甘みのあるリンゴが育ちやすくなります。
土地がリンゴ栽培に向いている青森県には広大な果樹園地帯があって,リンゴ栽培に適した土壌が広く確保されています。特に,岩木山周辺の火山灰地は水はけがよく,果樹栽培に適しています。
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江戸時代,津軽藩ではコメ作りが奨励されていましたが,やませの影響で,3年に一度冷害となり,農民は苦しみました。明治になって政府が果樹栽培を推奨し,青森県庁の職員だった菊池楯衛がリンゴ栽培の技術を広めたことで,県内でリンゴ栽培が盛んになりました。これで救われました。リンゴは貯蔵性が高く,安定した収入源となるため,多くの農家が今も栽培を続けています。
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青森県の中でもリンゴ農家が多い地域は津軽地方です。津軽地方には世界でも有数のリンゴ生産団地が形成されています。花は白や淡いピンク色をした可憐なリンゴの花は,4月から5月に開花します。青森県では桜の開花から約2週間後にリンゴの花が咲きはじめるため「桜の次はリンゴの花!」と楽しみにされることもあります。
リンゴの花は5つから6つの花がまとまって咲く「花そう」とよばれる形態をもち,中心に咲く花を「中心花」,周囲に咲く花を「側花」というそうです。リンゴの花は他家受粉が必要であり,異なる品種の花粉によって受粉・結実し,花が咲いている約10日間の間に受粉が完了しないとリンゴの実がならないため,農家にとって重要な時期だそうです。 
私はリンゴが大好きなので,このけなげな花たちから,おいしいリンゴの実がなるかと思うと,泣けてきました。この時期に来てよかった,と思いました。

「つがる富士見荘」に着きました。
思った以上のところでした。おいしい食事を地酒とともにいただきました。そして,温泉。これぞ旅の醍醐味でした。 
さあ,雲が切れたことだし,岩木山を借景にした鶴の舞橋の夜景を見にいくとしましょう。

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【Summary】
Aiming to visit places I had missed before, I stopped by Kizukuri Station on the JR Gono Line, known for its unique building featuring a giant Shakoki Dogu motif from the Kamegaoka Site, which I also visited. Though little remains to see, imagining life there in the Jomon era felt mysterious.

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これまで行きそびれたところに行ってみようという目的でやって来た今回の青森県の旅。次にやって来たのはJR五能線の木造(きづくり)駅でした。木造駅は五所川原駅の次の駅ですが,五能線に乗っても,降りたことはありませんでした。列車が停止するたびに,木造といえば,力士だった旭富士の出身地だなあ,と何となく思い浮かべるだけでした。それが,旅番組で,木造駅が出てきたときに,その駅の建物がユニークであることを知って,一度見てみたいものだと思うようになりました。
そこで,今回,車で木造駅に立ち寄ってみました。
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私は金木を出発して五所川原に着いたのは,午前十一時頃,五所川原駅で五能線に乗りかへ,十分経つか経たぬかのうちに,木造駅に着いた。ここは、まだ津軽平野の内である。私は、この町もちよつと見て置きたいと思つてゐたのだ。降りて見ると,古びた閑散な町である。人口四千余りで,金木町より少いやうだが,町の歴史は古いらしい。精米所の機械の音が,どつどつと,だるげに聞えて来る。どこかの軒下で,鳩が鳴いてゐる。ここは,私の父が生れた土地なのである。
  太宰治「津軽」
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JR五能線の木造駅はユニークな駅として知られています。
駅舎の外壁には,亀ヶ岡遺跡から出土した遮光器土偶(しゃこうきどぐう)をモチーフにした巨大なデザインが施されていて,インパクトが群を抜いています。この土偶は「しゃこちゃん」という愛称で親しまれていて,列車の発着時には目を点滅させる「いらっしゃいビーム」で乗客を迎えたり見送ったりする仕掛けがあります。そのユニークさから,木造駅は「東北の駅百選」にも選ばれています。
遮光器土偶は縄文時代に作られた土偶の一種で,目の部分が特徴的でイヌイットやエスキモーが雪の反射光を防ぐために使用する遮光器(スノーゴーグル)のような形をしていることからこの名前がつけられたということです。 最も有名な遮光器土偶は青森県の亀ヶ岡遺跡から出土したものです。
木造町(きづくりまち)は,2005年に周辺の村と合併し,現在はつがる市となっていますが,この地域が縄文時代の遺跡である亀ヶ岡遺跡があることから,駅舎がこの形となりました。
ということで,亀ヶ岡遺跡に行ってみました。
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亀ヶ岡遺跡は縄文時代晩期の集落遺跡です。
遺跡は津軽平野の西南部に位置し,標高7メートルから18メートルの丘陵上に広がっています。遺跡内には土坑墓が多数存在し,副葬品として土器や玉類が出土しています。また,祭祀場としての捨て場もあり,漆塗りの土器や土偶などが発掘されています。
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遺跡のあるる場所は詳しい説明版はあれど,それ以外には特に何が見られるというものではありません。しかし,この場所に縄文時代に人が住んでいたのかと想像すると,何か不思議な気がしました。

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【Summary】
In a trip to Aomori to visit overlooked places, I stopped at Takayama Inari Shrine after Fukaura. I saw the Tsugaru literary monument at Senjōjiki Coast and then visited the shrine, known for its winding rows of red torii gates. I finished with coffee and a sweet at a new rest spot opened in 2023.

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これまで行きそびれたところに行ってみようという目的でやって来た今回の青森県の旅では,深浦町に行った次に向かったのが,津軽半島の高山稲荷神社でした。私は,そんな有名なところを見逃していたのです。
西海岸に沿って,国道101号線を走ります。JR五能線の線路が道路に沿って伸びています。そして,最も風光明媚なのが千畳敷海岸です。何もわからず,はじめて青森県の西海岸を走ったときに,何だ,この見事な景色は,と思いました。最果て感満載の地でしたが,その後,何度もここを訪れるとは,そのときは思いませんでした。

千畳敷海岸の駐車場に車を停めました。そここもまた,すでに何度も車を停めてその景色を眺めているのですが,今回の目的は,太宰治の文学碑でした。それもまた,私がこれまでに見逃していたものです。
車から出て,海岸を目をやり探すのですが,目的のものが見当たりません。それらしき案内標示すらないのです。そうして,何度も別の場所に車を停めて探していくうちに,有名な民宿「望洋館」のあるところに車を停めて海岸を眺めて,やっと見つけました。
この文学碑は,太宰治の小説「津軽」の一節を刻んだもので,1993年(平成5年)に建立されました。文学碑には
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木造から,五能線に依つて約三十分くらゐで鳴沢,鰺ヶ沢を過ぎ,その辺で津軽平野もおしまひになつて,それから列車は日本海岸に沿うて走り,右に海を眺め左にすぐ出羽丘陵北端の余波の山々を見ながら一時間ほど経つと,右の窓に大戸瀬の奇勝が展開する。この辺の岩石は,すべて角稜質凝灰岩とかいふものださうで,その海蝕を受けて平坦になつた斑緑色の岩盤が江戸時代の末期にお化けみたいに海上に露出して,数百人の宴会を海浜に於いて催す事が出来るほどのお座敷になつたので,これを千畳敷と名附け,またその岩盤のところどころが丸く窪んで海水を湛へ,あたかもお酒をなみなみと注いだ大盃みたいな形なので,これを盃沼さかづきぬまと称するのださうだけれど,直径一尺から二尺くらゐのたくさんの大穴をことごとく盃と見たてるなど,よつぽどの大酒飲みが名附けたものに違ひない。この辺の海岸には奇岩削立し,怒濤にその脚を絶えず洗はれてゐる,と,まあ,
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とありました。

さて,ここからさらに北に向かって走ると,高山稲荷神社に着きました。広い駐車場がありました。
ここは,多くの観光客が「何もない青森」と思っているの中でかろうじて観光地を名乗る場所で,多くの団体ツアー客やらインバウンドがいました。私にはふさわしくないところでしたが,まあ,それはそれとして,青森好きの私が一度は訪れるべき場所でした。
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高山稲荷神社の創建は鎌倉時代から室町時代にかけてと伝えられています。鎌倉時代に安藤五郎がこの地で蝦夷との対応を任されたことではじまる豪族・安藤家によって境内社である三王神社が創建されたことがはじまりとされています。かつては,この場所が「山王,転じて三王坊山」とよばれ,十三の宗寺が建ち並ぶ霊場だったそうです。
祭神は,,宇迦之御魂は須佐之男と神大市比売(かむおおいちひめ)の間に生まれた宇迦之御魂(うかのみたま),稲荷神社で祀られる佐田彦(さたひこ),宮廷の平安を守る大宮能売(おおみやめ)です。
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ちなみに,安藤家は戦国時代には秋田家と改姓し,秋田藩主となりましたが,関ヶ原の戦いで勢力を失い,佐竹家に代わりました。
観光客が押し寄せるのは,美しい千本鳥居が目的です。この千本鳥居は,1980年(昭和55年)に地元の農家が鳥居を奉納したことがきっかけではじまったものです。鳥居をまっすぐ並べるのが難しかったために龍のように蛇行させた独特の形状になって,それが有名となり,現在も全国各地から奉納が続いているのだそうです。
帰りに,参集殿の隣に2023年にオープンしたというお休み処というのがあったので立ち寄って,高山まんじゅうとコーヒーで一服しました。ここにはほかに観光客もおらず,静かな時間を過ごすことができました。

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【Summary】
During the Edo period, Fukaura thrived as a port for Kitamaebune ships linking Ezo and Hokuriku. Though I expected many temples, only Engakuji stood out—a refined Shingon temple founded by Sakanoue no Tamuramaro. Its sacred cedar once guided ships. Like Dazai Osamu, I left for my next destination after visiting.

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日本海の沖合は中世から蝦夷地と北陸地方を結ぶ西廻り海運が開かれて多くの北国船が往来しました。江戸時代には幕府および松前藩による蝦夷地経営の確立とともに,日本海の海上交通は北前船とよばれる交易船によって益々繁昌し,弘前藩の各湊も当然のように重要視され,領内の重要湊として深浦,鰺ヶ沢,十三,青森の四浦が定められました。
深浦湊は,中世に安藤家が十三湊を拠点に活躍した時代から,蝦夷地と日本海沿岸の各湊を結ぶ北国海運の重要な寄港地として利用されてきました。西津軽の最も南に位置し,北の行合崎と西の入前崎にいだかれた深い入り江は,北前船の「風待ち湊」となっていました。

そんな深浦町には多くの神社仏閣があると思っていたのですが,それは誤解で,あったのは円覚寺だけでした。
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円覚寺は真言宗醍醐派の寺院で,山号は春光山,本尊は十一面観音です。
807年(大同2年)に征夷大将軍・坂上田村麻呂が観音堂を建立し,厩戸皇子の作となる十一面観世音菩薩像を安置したとあるそうです。また,868年(貞観10年)に円覚が諸国の霊山を遍歴したのちこの地に来て坂上田村麻呂が建立した観音堂を再興して円覚寺と称したとあります。
江戸時代には,津軽藩の祈祷寺院となり,歴代藩主の庇護のもとで修復再建がされました。
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なかなか風流な寺でした。
境内に「竜灯杉」とよばれる巨木があって,これが日本海を航行する船の目印でした。信心すれば闇夜で光を放って守護したということで,漁師達からは「助けの杉」とよばれていたといいます。
  ・・・・・・
駅からまつすぐに一本路をとほつて,町のはづれに,円覚寺の仁王門がある。この寺の薬師堂は,国宝に指定せられてゐるといふ。私は,それにおまゐりして,もうこれで,この深浦から引上げようかと思つた。完成されてゐる町は,また旅人に,わびしい感じを与へるものだ。
  太宰治「津軽」
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私も,太宰治のように,円覚寺を後に,次の目的地に向かうことにしました。
その途中,深浦町歴史民俗資料館と美術館があったので,しばし,鑑賞しました。

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【Summary】
While I hadn't read much of Dazai Osamu's work, I felt drawn to visit places connected to him. At Fukaura's former Akitaya Inn, where Dazai once stayed, I encountered moving traces of his journey and writings, which made my visit deeply worthwhile.

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昼食をとった海の駅ふかうら「深浦まるごと市場」から国道101号線を隔てた山側に「太宰の宿・ふかうら文学館」がありました。ここは,太宰治が宿泊した深浦の旧・秋田屋旅館を改築したものでした。太宰治,と知れば,行かない選択肢はありません。
私は,太宰治の小説を熱心に読んだこともないのに,なぜか惹かれて,太宰治にゆかりの地のほとんどを訪ねたのですが,まだ,残っていました。
1階は深浦町の図書館になっていて,2階に太宰治宿泊の間がありました。太宰治宿泊の間では,太宰治が宿泊した当時の部屋が再現されていて,書簡や貴重な資料が展示されていました。

1944年(昭和19年),太宰治は,小説「津軽」の執筆に際して「いちど見ておきたい」という理由で,それまで行ったことのなかった青森の西海岸の深浦町へ旅行したのですが,津軽半島にある金木町の生家から遠く離れたこの地でも兄の勢力が及んでいることを旅館の主人から知らされるのです。
また,太宰治の妻であった津島美知子さんによる回想記「回想の太宰治」によれば,翌1945年(昭和20年)にも,金木町の生家に疎開する道すがら,太宰治は妻子とともに再び秋田屋旅館に1泊しました。太宰治は秋田旅館で酒を期待して足を運んだのですが,あいにく主人は病床に伏していて,期待した待遇は受けられませんでした。
  ・・・・・・
たまらない気持がして私は行きあたりばったりの宿屋へ這入り,汚い部屋に案内され,ゲートルを解きながら,お酒を,と言った。すぐにお膳とお酒が出た。意外なほど早かった。私はその早さに,少し救われた。部屋は汚いが,お膳の上には鯛と鮑の二種類の材料でいろいろに料理されたものが豊富に載せられてある。鯛と鮑がこの港の特産物のようである。
  ・・
翌る朝,私がわびしい気持で朝ごはんを食べていたら,主人がお銚子と,小さいお皿を持って来て, 「あなたは,津島さんでしょう。」と言った。「ええ。」私は宿帳に,筆名の太宰を書いて置いたのだ。 「そうでしょう。どうも似ていると思つた。私はあなたの英治兄さんとは中学校の同期生でね、太宰と宿帳にお書きになったからわかりませんでしたが,どうも,あんまりよく似ているので。」「でも,あれは,偽名でもないのです。」 「ええ,ええ,それも存じて居ります,お名前を変えて小説を書いている弟さんがあるという事は聞いていました。どうも,ゆうべは失礼しました。さあ,お酒を,めし上れ。この小皿のものは,鮑のはらわたの塩辛ですが,酒の肴にはいいものです。」 私はごはんをすまして,それから,塩辛を肴にしてその一本をごちそうになった。塩辛は,おいしいものだった。実に,いいものだった。こうして,津軽の端まで来ても,やっぱり兄たちの力の余波のおかげをこうむっている。結局,私の自力では何一つ出来ないのだと自覚して,珍味もひとしお腹綿にしみるものがあった。要するに,私がこの津軽領の南端の港で得たものは,自分の兄たちの勢力の範囲を知ったという事だけで,私は、ぼんやりまた汽車に乗った。
  太宰治「津軽」
  ・・・・・・
私は,これだけでも,深浦町に来てよかったと思いました。

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【Summary】
From May 11 to 13, 2025, I traveled to Aomori Prefecture for three days, aiming to visit places I had missed in previous trips. After arriving at Aomori Airport, I drove along the scenic west coast to Fukaura Town, where I stopped for the first time and enjoyed a local seafood lunch.

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今回から書くのは,2025年5月11日から5月13日まで2泊3日で出かけた青森県の旅です。
これまで行ったことがほとんどないところにすべて行ってみよう,とはじめた旅のひとつとして,2年前に何となく出かけた青森県でした。このころは,青森県に何があるのだろう,と思っていたのですが,のめり込みました。
  ・・・・・・
●第1段階:2023年5月18日から5月20日。
奥入瀬渓谷,十和田湖,弘前城,酸ヶ湯温泉,黄金海岸,三内丸山遺跡。
●第2段階:2024年3月6日から3月8日と4月15日。
津軽鉄道のストーブ列車と五能線の「リゾートしらかみ」,そして,弘前の桜。
●第3段階:2024年7月4日から7月7日。
津軽半島と下北半島。
  ・・・・・・
この4回で,ほぼ行きたかったところに行くことができたのですが,ところどころ行きそびれたところができました。そこで,●第4段階の今回は,行きそびれたところに行ってみようというのが目的でした。とはいえ,2泊3日でどれだけのところに行くことができるのかもわからず,また,天気次第,というところもありました。

ともかく,いつものように,午前7時45分,FDA で県営名古屋空港から旅立ちました。天気予報では晴れ,ということでしたが,雲が多く,飛行機も揺れました。かろうじて反対側の座席の窓から富士山が見えました。そのうち,八甲田山が眼下に見え,やがて,青森空港に着きました。
青森空港は,アメリカの地方空港のようなところで,空港ビルのとなりにレンタカーのターミナルがあって,とても便利です。ゴールデンウィーク後ということで,もっと空いているのかと思ったのですが,レンタカーを借りる観光客でずいぶん賑わっていました。
少し待って,レンタカーを借りることができました。

まず向かったのは,深浦町でした。
青森県の西海岸は,はじめて行ったときに,その最果て感に感動し,また,驚きました。それ以来,ここには,十二湖に行ったこともあり,「リゾートしらかみ」に乗ったこともあり,と,青森県に来るたびに行くことになりました。とはいえ,私は,深浦町で足を止めたことがなかったのです。そして,気になってしました。
青森空港からは,国道101号線を西の岩木山方向に走り,五所川原市,木造町,鰺ヶ沢町と経由して日本海側に出ます。五所川原市,木造町,鰺ヶ沢町と聞くと思い出すのが,相撲です。五所川原市からは現役の尊富士,木造町からは旭富士,鯵ヶ沢町からは舞の海の名が浮かびます。青森県は相撲どころなのです。
そして,国道101号線は日本海側に出ると,風光明媚な海岸線となります。やがて,深浦町に到着しました。道路沿いに,海の駅ふかうら「深浦まるごと市場」があったので,そこで昼食として,ミニ海鮮丼・そばセットをとりました。深浦は大間以上にマグロの産地なのです。

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