十津川温泉に泊まる以外は何の計画もなく,天気予報も雨だったし,何となくあらぎ島と瀞峡へ行けたらいいなあ,と思っていたのに,2日ともよい天気になって,瀞峡での川舟観光までできてしまうという望外な結果に大満足して,これで帰ることにしました。
はじめは新宮に出て,そこから国道42号線を北上するつもりでしたが,お土産代としてもらった金券3,000円が奈良県内でしか使えないことで,今回は国道168号線を北に,奈良から東名阪道で帰ることにしました。その途中で十津川村観光協会の2階にあるレストランで昼食をとりました。このことはまた次回。
国道168号線をずっと北上していくと,大塔町あたりが峠となって,天文台もありました。それを過ぎると次第に民家も多くなってきました。そして,五條市に入るあたりから車が増えて交差点は信号機ばかりとなり,渋滞気味になりました。
やはり私は都会は嫌いです。
そのまま天理市まで行って東名阪道に入ろうと思っていたのですが,大和三山が見えるようになったころ,昔夢中だった奈良時代以前の日本史への好奇心がよみがえってきました。そこで,せっかく来たのだからどこかに寄ってみようと少し考えて,箸墓古墳と纒向遺跡に寄ることに決めました。
というわけで,今日は,紀伊半島の旅とはうって変わって,古代史のお話になります。
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邪馬台国の女王・卑弥呼の墓という説もあり,私がそれを信じている箸墓古墳は,最初の巨大古墳として知られ,第7代孝霊天皇と妃の意富夜麻登玖邇阿礼比売命(おほやまとくにあれひめのみこと)との間に生まれた皇女・倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の大市墓として管理されています。
箸墓古墳は3世紀はじめごろに出現した当時国内最大の集落跡である纒向遺跡にある全長約276メートルの巨大な前方後円墳です。
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巻向遺跡の巻向という名前は発掘調査で旧纒向村の多くの大字にそって遺構が確認されたので命名されたものです。本来,巻向というのは,このあたりに宮があったとされる第11代垂仁天皇の「纒向珠城宮」,第12代景行天皇の「纒向日代宮」にちなんで名づけられたものです。纏向遺跡は纒向川の扇状地に広がる東西約2キロメートル,南北約1.5キロメートルの広大な遺跡です。
纒向遺跡は3世紀はじめに突如として大集落が形成されました。
農業を営まない集落であることや他地域から運び込まれた土器が多いこと,特殊な掘立柱建物が存在し高床式住居や平地式住居で居住域が構成された可能性があることなどから,日本最初の「都市」の機能を持つ初期ヤマト政権の中心地であった可能性が考えられていましたが,2010年に卑弥呼の宮殿跡との説もある大型建物跡のそばで見つかった祭祀に使ったとされる桃の種が西暦135年から230年の間の卑弥呼の時代であることが判明し,桃は卑弥呼が行った祭祀に使われたものではないかという指摘がされ,そのため,邪馬台国の遺構ではないか,といわれるようになりました。
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「魏志倭人伝」という魏の国の歴史書に記述されているだけの卑弥呼や邪馬台国。もし,魏志倭人伝がなかったとしたら,これらの古墳や遺跡はどんな解釈がされていたのでしょう。そもそも,その時代に書かれた,しかも他国の様子の記述だけでこれだけの議論がなされているのは,単に学問的な話だけではなくロマンがあるからでしょう。
歴史学者でもない私は,真実であろうとなかろうとそんなことはどっちでもいいわけで,それよりも,箸墓古墳が卑弥呼の墓で巻向遺跡が邪馬台国だと思ったほうが楽しいので,自分勝手にそうだと固く信じて,想像を膨らませています。
ということで,この場所に寄ってみたのですが,そんなことを考えているうちに,若いころの興味がもどってきました。涼しい季節になったら,この地を目的に,また,来てみたいなあと思いました。
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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは