しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場・47都道府県を制覇し,南天・皆既日食・オーロラ,空の3大願望を達成した「不良老人」の日記

カテゴリ:日本国内 > 奈良

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【Summary】
Before viewing the Kitora Tomb murals, I visited the Shijin no Yakata museum, which explains the tomb’s cosmology through replicas. The actual murals, removed for preservation, are shown only partially during limited exhibitions, making replicas clearer despite the value of seeing originals.

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 キトラ古墳壁画の見学時間まで,キトラ古墳壁画体験館「四神の館」を見学しました。前回も見学したのですが,今回は説明を聞くこともできました。
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 キトラ古墳壁画体験館「四神の館」は,2016年9月に,キトラ古墳の壁画や出土品を保存・公開しながら古代の文化や宇宙観を体験的に学べる場をつくるという目的で,国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区の整備に合わせて設けられた施設です。最新の技術で再現された青龍,白虎,朱雀,玄武の四神や天文図などを間近で見ることができるようになっています。また,石室のレプリカもあります。
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 やがて時間になったので,案内について,壁画が展示される部屋に向かいました。
 前回来たときは,キトラ古墳壁画を見ることはできませんでしたが,この建物には入ることができて,説明パネルはすでに見たので,私の目的は,壁画の実物を見ることだけでした。
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 キトラ古墳の壁画は,古墳の石室からはぎ取られて保存されています。これは壁画を守るためにやむを得ず行われた処置でした。キトラ古墳の壁画は1972年に発見されたのですが,発見当初からすでに劣化が進んでいて,カビや湿気,微生物の影響で絵の具が剥がれ落ちる危険性がありました。特に,石室内の湿度や温度の変化が激しく,保存環境が厳しい状態でした。
 そこで,文化庁と専門家は,壁画を守るために石室から壁画をはぎ取って保存・修復することを決断しました。2004年から作業がはじまり,慎重に少しずつ進められました。現在は,奈良文化財研究所の保存修復施設で保管・修復されていて,年に4回,期間限定で公開されています。
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 キトラ古墳の壁画は,高松塚古墳とともに,日本ではじめて発見された彩色壁画で,飛鳥時代に描かれたとされています。壁画には,天井に天文図が描かれ,側面には東西南北を守る青龍,白虎,朱雀,玄武の四神や,十二支の動物たちが描かれています。四神の配置は東アジアの伝統的な方位思想に基づいていています。
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●天文図
 現存する東アジア最古の星図ともいわれ,星座や天の川が精密に描かれています。これは,被葬者が死後も天上の世界で安らかに過ごせるようにという願いが込められていると考えられています。
●青龍(せいりゅう)
 東の壁に描かれています。長い体をくねらせた龍の姿で,春と木の気を象徴しています。
●白虎(びゃっこ)
 西の壁に描かれています。鋭い爪と牙を持つ虎で,秋と金の気を司る守護神です。
●朱雀(すざく)
 南の壁に描かれています。翼を広げた赤い鳥で,夏と火の気を象徴しています。
●玄武(げんぶ)
 北の壁に描かれています。亀と蛇が絡み合った姿で,冬と水の気を表しています。
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 私は,この公開で,それらをすべて見ることができると思っていたのですが,それは間違いで,今回公開されたのは,西の壁と東の壁の部分だでした。キトラ古墳の見ものは,天文図と玄武だと思っていたので期待したのですが,ともに見ることはできませんでした。尋ねてみると,年に1回公開していて,毎回別のものを展示するということでした。ならば,何度も足を運ぶ必要があるのでした。
 ホンモノを見るということに意義があるのですが,キトラ古墳壁画体験館「四神の館」にあった模型のほうがわかりやすいや,と思いました。ここに載せた写真は,ホンモノは撮影禁止なので,模型を写したものです。いずれにしても,こんな昔に,すばらしい絵画を,しかも,あざやかな色彩で描くことができたとは,人類というのはすごいものだと改めて思いました。

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【Summary】
The Tosa Kaido was an Edo-period route used for travel, transport, and religious practice. In Nara’s Yoshino and Asuka areas, historic landscapes remain well preserved. The Kitora Tumulus area is a pleasant historical park, where visitors can calmly learn about ancient burial murals with relatively little crowding.

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 2026年1月24日。京都市交響楽団の定期演奏会に行った折り,午前中,奈良・飛鳥のキトラ古墳壁画を見にいきました。昨年末の2025年12月13日に行って,キトラ古墳の壁画公開が行われていることを知り,応募したものです。
 前回は,京都駅から近鉄電車の奈良線で橿原神宮前行きに乗って終点の橿原神宮前駅で降り,そこから飛鳥駅まで歩いて,レンタサイクルを借りて,キトラ古墳まで行ったのですが,ことのほか坂が多く,歩いたほうが楽だと後悔しました。今回は,キトラ古墳に行くことだけが目的だったので,橿原神宮前駅で吉野線に乗り換えて壺阪山駅で降り,そこから歩きました。

 壺阪山駅からキトラ古墳までは15分ほどですが,途中,土佐街道を横切りました。
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 土佐街道は,江戸時代,高取藩の城下町として栄えた高取町のメインストリートでした。当時は500軒もの商家が軒を連ねたといい,今も低い軒先や連子窓といった古い家並みの随所に,往時の繁栄ぶりを偲ぶことができます。
 街道に土佐の名がつく由来は,飛鳥時代の初期,大和朝廷の都造りに駆り出された土佐とよばれた高知の人々が帰郷できず,この地に住み着いたことが起源とされています。
 土佐の名は古くから住民に愛着がもたれていて,1889年(明治22年)に町村が合併した際には,高取か土佐かで村名が争われたほどでした。高取山を正面に望む細長い城下町は,現在の上土佐と下土佐を中心に発展し,1640年(寛永7年)に植村氏が藩主となって以後,山城での生活は不便と藩主や家臣の屋敷は街道筋に移されました。
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 ということですが,日本はどこへ行っても本当に奥が深い。知らないことがまだまだたくさんあります。
 奈良県は,まだ行ったことがないところが多くあります。一度,このあたりを気の向くまま観光してみたいと思っているのですが,調べてみると,宿泊するところがほとんどないので,どのようなコースをとればいいのやら,未だよくわからないでいます。また,飛鳥地方はとてもよいところで,住みたいくらいですが,どうしていつまでも古きよき日本の姿が残っているのか,不思議です。

 キトラ古墳のある地帯は,国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区として整備されていて,とても気持ちのよいところです。ここには,キトラ古墳に隣接して,キトラ古墳壁画体験館「「四神の館」という博物館があって,キトラ古墳について学ぶことができるのです,開館は午前9時30分ということで,私は,壺阪山駅に着いたのがその30分ほど前だったので,のんびりと歩いてその時間の少し前に到着しました。そして,開館までまだ時間があったので,展望台に行って,景色を楽しみました。そして,開館の時間になったので,中に入って受付をしました。
 私がキトラ古墳壁画の見学で指定された時間は午前10時35分だったのですが,受付をするときに,午前9時55分に変更できますよ,といわれたので,願ったりかなったり,と変更してもらいました。
 キトラ古墳壁画の見学は抽選ですが,午前中なら定員に達しないことが多い,と言われました。ただし,今後,この地域が世界遺産に指定されると,おそらく,現在よりも混雑するようになるかも,ということです。

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【Summary】
Walking from Toshodaiji to Yakushiji in late December, I enjoyed rare tranquility and fine weather. Seeing Yakushiji after its long restoration, especially the balanced East and West Pagodas, was moving. I finally found and photographed the famous viewpoint across the pond, preserving Yakushiji’s timeless landscape.

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 唐招提寺から薬師寺まではじめて歩いたとき,感動しました。これだけすばらしい寺が徒歩圏内にふたつある,というだけで特筆ものでした。それ以来のお気に入りの場所です。今回私が行ったのは12月27日でしたが,この時期は,学校の遠足や修学旅行も全くなく,団体観光客もおらず,閑散としていて最高でした。しかも,天気がよかった。行くならこの時期です。
 薬師寺は680年(天武9年)に天武天皇が後の持統天皇となる皇后の病気平癒を祈って飛鳥の藤原京で建立を発願し,718年(養老2年)に現在の西ノ京へ移されました。唐招提寺は759年(天平宝字3年)に唐から来日した鑑真が開きました。このように,薬師寺のほうが先に造られています。 
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 薬師寺に到着しました。
 長年の修復工事が終わったところで,私は,完成された美しい姿をはじめて見ることができました。
 大学生のころに来たときは,薬師寺は東塔しかありませんでした。それも悪くなかった。その後,西塔ができて再び訪れたとき,古びた東塔と真新しい西塔の対比があまりに異なっていて,逆に違和感を覚えました。しかし,今は,東塔の改修工事が終わり,美しく貫禄のあるある意味ピカピカになった東塔と,時が経ち,しだいに堂々としてきた西塔のバランスが悪くないものとなっていました。

 度重なる火災や台風で多くの伽藍が失われた薬師寺でしたが,一般の人々が写経を奉納した浄財で,1976年に金堂,1981年に西塔,大講堂などが次々と復興されました。その後に東塔の修理が行われました。
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 薬師寺の伽藍の復興は,高田好胤(たかだこういん)管主の「お写経勧進」によって,金堂,西塔,大講堂などがほぼ完了し,残るは,回廊の北側が少しとなっています。
 東塔は創建時の姿を唯一伝えるものですが,約110年ぶりの解体修理を終えて,2023年に落慶法要が開催され,これが復興事業の集大成となりました。また,境内には、かつて存在した延寿院,護摩堂,弥勒堂などの「子院」(しいん)跡が更地や礎石として残っていて,これらの廃絶子院の復興(再建)が,「残された課題」として存在しています。
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 高田好胤管主は,私が大学生でこの地をよく訪れていたころ,テレビ番組に出演したり,また,薬師寺では修学旅行生に自らが寺の説明をしていた姿をよく見かけました。高田好胤管主の尽力で,今の姿があるのでしょう。

 さて,薬師寺といえば,大きな池の対岸から見える東塔を写した入江泰吉の写真があまりに有名です。はじめて写真を見たとき,周りを見渡しても池などなく,いったいどこから撮っているのだろうか? と思いました。その後,忘れていたのですが,この日,そのことを思い出しましたが,このときもまだ,あまりに有名なその場所を私は知りませんでした。ぜひ今回その場所を探そうと GoogleMaps で調べてみると,薬師寺の近くにある池といえば大池と書かれたところしかないと確信しました。そして行ってみることにしました。しかし,きっと現在は,高いビルでも建ってしまい,もう入江泰吉の写したころのような姿は見られないのではないか,とも危惧しました。
 少し距離があるのですが,歩いて行ってみると,ああ,確かにこの場所だ,今も同じだと感激しました。ビルもなく,当時のままの姿でした。ただし,入江泰吉がはじめに写したころは東塔しかなかった薬師寺でしたが,現在は,西塔も金堂も見ることができます。この日は,私以外にはだれもおらず,ここまで歩いてきて薬師寺を見ようというもの好きは私くらいのものなのか,と思いました。
 ちょうど,地元に住んでいて,散歩をしている初老の人がいたので声をかけて聞いてみると,それはそれはていねいに話をしてくれました。薬師寺の借景になっているのは若草山で,若草山焼のときは,この場所は多くのカメラマンでごった返すということでした。また,この風景を守るために条例があって,じゃまになるような建物は作ることができない,という話でした。今ではそんな有名な場所になっていたのです。いつものように,無知な私です。
 こうして,期せずして,私は,長年の謎だったこの場所に来ることができて,その美しい姿を写真に収めることができました。

 大池について詠った和歌を探しました。勝間田(かつまた)の池について詠ったものが万葉集に1首あったのですが,勝間田の池というのが,奈良の薬師寺の西にある大池とされています。
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 勝間田之池者我知蓮無然言君之鬚無如之
 勝間田の池は我知る蓮無し然言ふ君が髭無きごとし
 勝間田の池は私は知っております。蓮などありません。そう言うあなたに鬚がないのと同じです。
  「万葉集」巻16・3835
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 新田部親王が都の域内の地に出かけて勝間田池を見て深く感動し,帰ってから喜びを隠しておけませんでした。そこで傍らの婦人に「今日勝間田池を見てきたよ。水面にさざ波が立ち,蓮の花が咲き揃っていてとってもきれいだったよ。そのすばらしさといったらもう格別で,言葉にできないくらいだった」と話すと,婦人はこの戯れの歌を作り,興のおもむくままに吟詠したということです。

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薬師寺


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【Summary】
Toshodaiji Temple in Nara is admired for its refined beauty and harmonious layout, often called a “symphony of buildings.” Founded by the Chinese monk Ganjin, it was central to establishing Buddhist precepts in Japan. The temple preserves the spiritual legacy of formal ordination and disciplined monastic life.

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 唐招提寺に到着しました。観光客はほとんどおらず,静寂に包まれていました。奈良の寺院めぐりはこの時期が最適のようです。
 私は,唐招提寺が好きです。なんといっても,品があります。この美しさに勝るところはありません。そしてまた,長い期間の修復作業が終わって,その気品がさらに増していました。
 唐招提寺は「伽藍の交響楽」といわれます。
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 唐招提寺が「伽藍の交響楽」と称されるのは,その建築群がまるで交響曲のように調和し,静けさと荘厳さを奏でているからです。
 奈良時代の天平文化を代表するこの寺は,鑑真和上が創建したことで知られていて,建物ひとつひとつがまるで楽器のようにそれぞれの役割と美しさをもっています。
 金堂は,重厚な低音のようにどっしりと構え,仏の存在感を響かせています。
 講堂は,中音域のように人々の学びと祈りを支える場所。
 鼓楼や経蔵は,リズムを刻む打楽器のように,伽藍全体にリズムと秩序を与えている。
 そして,それらが一直線に並ぶ伽藍配置は,まるで楽譜に並ぶ音符のよう。
 というように,風が吹き抜け,光が差し込むたびに,建物たちが静かに語り合い,ひとつの壮大な「音楽」を奏でているように感じられるのです。
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 唐招提寺は,奈良時代の756年(天平勝宝8年)に唐から日本に渡ってきた高僧・鑑真(がんじん)によって創建されました。鑑真はは日本に仏教の正しい戒律を伝えるために,6度目にしてようやく来日に成功しましたが,命がけの渡航で失明してしまいました。
 戒律を学ぶための道場として建てられた唐招提寺。「唐」は唐の国を意味し,「招提」は僧侶が集まり修行する清らかな場所という意味です。
 学生時代,教科書に載っていた鑑真和上坐像(がんじんわじょうざぞう)を見たいと思いました。鑑真和上坐像は,日本最古の肖像彫刻で,奈良時代に作られた脱活乾漆像(だっかつかんしつぞう)です。鑑真が亡くなった直後にその姿を忠実に写し取って作られたとされているものです。
 調べてみると,鑑真和上坐像は御影堂(みえいどう)に安置されていて,通常は非公開ですが,鑑真が日本に到着した旧暦の6月6日にちなんで行われる「開山忌」(かいざんき)の前後,6月5日から6月7日までの3日間だけ特別公開されている,ということだったので,これを見に行きました。厳かですばらしいものでした。
 当時は,この時期を待たなければ,何らかの特別公開が行われるとき以外は,見ることができなかったのですが,今は,開山堂という小さな祠に「御身代わり像」という鑑真和上像の精巧なレプリカがあって,これを見ることができるようになっていました。このレプリカは,東京藝術大学の技術陣が精巧に模刻したもので,材質や表面の質感,細部の表情までが,まるで本物のように再現されています。本物でないと気が済まない,という人もいますが,このレプリカを見れば十分だな,と本物を見たことのある私は思いました。

 ところで,私が習った50年以上前の日本史の教科書には
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 遣唐使にともなわれて中国にわたった多数の留学僧や,はるばる唐から渡来して戒律を伝えた鑑真などの活動もあずかって…
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と書かれているだけで,それ以上の説明がなかったので,私は,戒律とは何ものか? ずいぶんと疑問でした。現在の教科書には詳しい説明があるようですが…。
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 戒律を授けるというのは,仏教において僧侶として生きるためのルールや誓いを正式に授けることで,これを「授戒」(じゅかい)ともいいます。
 仏教では,ただ出家して頭を剃っただけでは本当の僧侶とはいえず,正式な儀式を通して戒律を受けることが必要でした。しkし,日本に仏教が伝わった当初は,戒律を正しく授けられる僧侶がいませんでした。そこで,唐で戒律を極めた高僧である鑑真が,日本ではじめて正式な授戒を行い,仏教界に本物の「律」を根づかせたのです。
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 唐招提寺に今も存在する戒壇(かいだん)は,戒律を授ける場所でした。唐招提寺の戒壇は,土壇(どだん)式といって,土を盛って壇を築いたものです。そこに仏像を安置し,仏・法・僧の三宝を象徴する空間がつくられていました。
 戒壇では,厳粛で荘厳な儀式が行われていました。
 戒律が「個人の誓い」だけでなく,僧団全体の承認によって成り立つという考えに基づき,授戒には,三師七証という3人の授戒師と7人の証人僧が必要でした。戒子(かいし=受戒する人)は,身を清め,こころを心を整えたのち,衣を正し,合掌して,仏・法・僧の三宝に帰依することを誓います。そして,授戒師が「殺してはならぬ,盗んではならぬ,偽りを言ってはならぬ」と問いかけ,戒子はひとつひとつ「守ります」と答えていきます。三師七証がその誓いを認め,正式に「戒を授けた」と宣言することで,戒子は正式な僧侶となります。
 平安時代以降になると,戒律よりも信仰や念仏を重視する天台宗や浄土宗などが広まり,戒壇での授戒は次第に行われなくなっていきました。さらに,明治時代の廃仏毀釈や宗教制度の変化によって,正式な授戒制度は廃止されていき,現在は,唐招提寺では実際の授戒は行われていません。

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【Summary】
On December 27, 2025, before a much-anticipated Beethoven Ninth concert by the Kyoto Symphony Orchestra, I visited Nara’s Saidaiji area. Rediscovering Yakushiji and Toshodaiji after decades of restoration, I also explored the massive Hōraiyama Kofun, traditionally attributed to Emperor Suinin but historically uncertain.

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 2025年12月27日。この年最大の楽しみだった沖澤のどか指揮京都市交響楽団の特別演奏会「第9コンサート」を控え,午前中,どこに行こうかと考えました。はじめは伏見桃山あたりを考えていたのですが,天気もよく,この時期は修学旅行や遠足もないからきっと閑散としているだろうと期待して,私の好きな唐招提寺から薬師寺あたりを散策することにしました。
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 「古都奈良の文化財」のひとつとして世界遺産に登録されている薬師寺と唐招提寺。
 白鳳様式の伽藍を現代によみがえらせた薬師寺,鑑真和上の思いが今も受け継がれる唐招提寺。 趣きの違う奈良時代の2大寺で気持ちのいい西ノ京散策を。
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 私は,この地が好きで,学生時代から何度も訪れていたのですが,唐招提寺では,平成の大修理が行われ,2000年(平成12年)からおよそ10年間,ありのままの姿を見ることができませんでした。また,薬師寺も1968年(昭和43年)から,金堂,西塔,中門,大講堂などが復興され,終了後の2009年(平成21年)からは12年間,東塔の解体修理が行われたりと,ありのままの姿を見ることができませんでした。
 つまり,ここ20年は,その美しい姿を見ることができなかったのです。
 12月23日に,飛鳥地方へ行ったとき,近鉄電車の車内から偶然,薬師寺を見て,すべて完成したんだ,と気づきました。それを思い出して,今行くしかない,と気づきました。

 いつものように,午前7時37分。京都駅から近鉄電車に乗りました。
 唐招提寺は午前8時30分開門,薬師寺は午前9時開門だったので,尼ケ辻駅で降りて,先に唐招提寺へ行き,そこから南に歩き,次に薬師寺に行くことにしました。
 地図を見ると,尼ケ辻駅の南西に巨大な前方後円墳があることがわかりました。この古墳は宝来山古墳といい,現在,菅原伏見東陵(すがはらのふしみのひがしのみささぎ)」として11代垂仁天皇の陵に治定されています。そこで,散歩がてら,宝来山古墳を通って,唐招提寺に向かいました。
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 宝来山古墳の墳形は前方が南向きの前方後円形。墳丘は3段築成で,墳丘長は227メートルあり,全国で第20位の規模という巨大なものです。また,墳丘周囲には鍵穴形の周濠が巡らされていて,周濠を含めた古墳総長は330メートルにも及びます。
 また,垂仁天皇陵の周濠にある小さな島のように見えるのは田道間守(たじまもり)が葬られたとされる「湟内陪冢」(こうないばいちょう)です。垂仁天皇は田道間守に命じて,常世国にあるという不老不死の「非時の香菓」(ときじくのかぐのみ=橘)を探しに行かせます。10年後,苦労の末に田道間守は「非時の香菓」を持ち帰りますが,すでに垂仁天皇は崩御していました。という逸話があります。
 宝来山古墳は,古墳時代前期の4世紀後半ごろの築造と推定されています。
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 機会があれば, 奈良時代以前の天皇陵についてまとめてみたいと思っているのですが,「欠史八代」(けっしはちだい)というように,神武天皇の次の2代綏靖(すいせい)天皇から9代開化天皇までの8代の天皇は歴史学的には実在が疑われ,創作された天皇と考えられていて,「日本書紀」の巻4には,粛々と8代の天皇についてそれぞれ短く書かれています。そして,実在していた最初の天皇といわれる10代崇神天皇から42代文武天皇までの宮内庁が治定している天皇陵も,現在,実際にそれがそうであったのか疑わしいものがほとんどということです。
 10代崇神天皇の第3皇子だった垂仁天皇は「日本書記」には140歳,「古事記」ではで153歳で亡くなったと書かれていますが,垂仁天皇陵とされる宝来山古墳は,山辺道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)として次の12代景行天皇陵とされる渋谷向山古墳(しぶたにむかいやまこふん)より新しく,発掘された埴輪による推定造成時期は,垂仁天皇の皇后であった日葉酢媛命(ひはすひめのみこと)の陵とされる佐紀陵山古墳より遅く,狭城盾列池上陵(さきのたたなみのいけのえのみささぎ)として14代仲哀天皇の皇后とされる神功皇后の陵に治定される五社神古墳(ごさしこふん)より前とされ,垂仁天皇陵である確率は低いとされます。
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此天皇御年壹佰伍拾參歲 御陵在菅原之御立野中也 又 其大后比婆須比賣命之時 定石祝作又定土師部 此后者葬狹木之寺間陵也
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此の天皇御年(みとし)壱佰伍拾参歳(ももとせあまりいそとせあまりみとせ)にて,御陵(みささき)菅原之御立野(すがはらのみたちの)の中に在り。
  ・・
この天皇は御年百五十三歳,御陵は菅原の御立野の中にあります。
   「古事記」中つ巻
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九十九年秋七月戊午朔 天皇崩於纏向宮 時年百卌歲 冬十二月癸卯朔壬子 葬於菅原伏見陵
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九十九年(ここのそとせあまりここのとせ)秋七月(ふみづき)戊午(つちのえうま)の朔,天皇纏向宮(まきむくのみや)に崩(ほうず)。 時に年(みとし)百四十歳(ももとせあまりよそとせ)。冬十二月(しはす)癸卯(みづのとう)朔壬子(みづのえね=十日) 菅原伏見(すげはらのふしみ)の陵(みささぎ)に葬(はぶ)りまつる。
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九十九年七月一日 天皇は纏向宮に崩御しました。時に御年百四十歳でした。十二月十日 菅原伏見の陵に葬られました。
   「日本書記」巻8
  ・・・・・・

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月齢18.4の月の出。

今日も天気がよく,雲がなかったので,美しい月の出を見ることができました。
毎日約1時間ほど月の出が遅くなります。
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【Summary】
Returning to Asuka Station, I enjoyed a hearty lunch at a former factory cafeteria, visited the Saruishi stone figures and imperial tombs, then went to Kashihara Shrine. Though modern, the shrine’s vast, serene grounds conveyed solemn grandeur tied to Japan’s mythic origins.

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 飛鳥駅に戻ってきました。
 ちょうどお昼どきになったので,どこかで昼食を,と思ったら,目の前に「とんかつ喫茶豚とエスプレッソと明日香村工場」という店を見つけました。何でも,奈良市にある人気店「ブタとエスプレッソ」の工場内食堂だそうで,当初は「ブタとエスプレッソ」の工場だったのを,2025年1月に工場内食堂として店内で飲食ができるようにしたものです。思った以上にすごいボリュームで,お得感がありました。
 食事のあとは,まだ,時間があったので,別の日に行こうと思っていた橿原神宮に寄ることにしました。橿原神宮は,飛鳥駅から2駅です。しかし,電車が来るまで30分ほど時間があったので,飛鳥駅から北に少し行ったところにある猿石を見にいくことにしました。
 猿石は,思っていたものとは違い,吉備姫王(きびつひめのひめみこ)墓古墳として柵に囲われた中に置かれた4体の石像でした。4体はそれぞれ男像,女像,山王権現像,僧形像などとよばれているそうです。現在,猿石は吉備姫王墓の南側の一角に並べられていますが,もともとはこの場所にあったわけではなく,江戸時代の記録では,「鬼の雪隠」のあたりにあって,明治時代になって現在の場所に移されたとされています。

 今回私がまわっただけでも,吉備姫王の墓と称される古墳がすでに3か所ありました。吉備姫王は欽明天皇の孫で,斉明天皇(皇極天皇),孝徳天皇の母,天智天皇,天武天皇の祖母にあたるといわれます。また,現在の岡山県あたりである吉備地方と大和政権とのつながりを示す人物かといわれていたり,天智天皇の皇女や天武天皇の妃のひとりとする説さえあるようです。
  ・・・・・・
 天豊財重日足姬天皇 渟中倉太珠敷天皇曾孫 押坂彥人大兄皇子孫 茅渟王女也
 母曰吉備姬王
 天皇順考古道 而爲政也。
  ・・
 天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかひたらしひめのすめらみこと=斉明天皇)は,渟中倉太珠敷天皇(ぬなくらたましきのすめらみこと=敏達天皇)の曽孫(ひひこ),押坂彦人大兄(おしさかのひこひとおほえ)の皇子(みこ)の孫(ひこ),茅渟王(ちぬのみこ)の女(むすめ)也。
 母(みはは)は吉備姫王(きびつひめのひめみこ)と曰ひたまふ。
 天皇(すめらみこと)古(いにしへ)の道の順考(まにまにかむが)而(へて)政(まつりごと)を為したまふ。
   「日本書記」巻24
  ・・・・・・

 その近くにあったのが,檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)29代欽明天皇陵とされる巨大な前方後円墳でした。欽明天皇は仏教が伝来したとき,つまり,552年ごろの天皇ですが,江戸時代の地誌や「延喜式」などの古記録をもとに,明治時代に宮内省がこの地を欽明天皇陵と判断して決めたもので,確かでなく,実際の欽明天皇陵は,700メートルほど北にある見瀬丸山古墳だという学者もいます。
  ・・・・・・
 是月 天皇遂崩于內寢
 時年若干
 五月 殯于河內古市
 秋八月丙子朔 新羅遣弔使未叱號失消等 奉哀於殯
 是月 未叱號失消等罷
 九月 葬于檜隈坂合陵
  ・・
 是の月 天皇遂に于内寝(ねどの)に崩(ほうず)。
 時に年(よはひ)若干(そこばく)。
 五月(さつき) 于河内(かふち)の古市(ふるいち)に殯(もがり)しまつる。
 秋八月(はつき)丙子(ひのえね)を朔(つきたち)とし 新羅弔(とぶらひ)の使(つかひ)未叱号失消(みしこしせう)等(ら)を遣(まだ)して 於殯(もがり)に奉哀(かなしびまつらしむ)。
 是の月 未叱子失消等(ら)罷(まか)る。
 九月(ながつき) 于檜隈坂合陵に葬(はぶ)りまつる。
   「日本書紀」巻19
  ・・・・・・

 飛鳥に戻り,自転車を返却して,ホームに急ぎました。やがて,橿原神宮駅行きの電車が来たので乗り込みました。
 私はこれまで,橿原神宮には行ったことがありません。多くの見どころがある飛鳥地方で,あえて,橿原神宮に行くよりも,行ってみたいところがたくさんあったのが理由なのですが,一度は,ということで,今回,寄ってみることにしました。
 橿原神宮の創建は1890年(明治23年)で,古いものではありません。祭神は神武天皇とその皇后である媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)です。神武天皇は「日本書紀」や「古事記」に登場する初代天皇ですが,橿原の宮で即位したと伝えられ,近くには畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのみささぎ)初代神武天皇陵とされる陵墓があることから造られたもののようです。
 思った以上に巨大な神社でした。また,境内は驚くほども広く,静謐で荘厳な雰囲気に満ちていました。本殿は伊勢神宮の外宮に似た神明造(しんめいづくり)で,正月の準備真っ盛りでした。橿原神宮は,まさに,明治期に近代国家としての日本が国力を内外に示す役割を果たしたものなのでしょう。

 本殿からさらに奥に進んでいくと,神武天皇陵がありました。ここは「日本書紀」に記された「畝傍山の東北」にあたるところとされています。
  ・・・・・・
 七十有六年 春三月甲午朔甲辰 天皇崩于橿原宮 時年一百廿七歲
 明年 秋九月乙卯朔丙寅 葬畝傍山東北陵
  ・・
 七十有六年(ななそとせあまりむとせ) 春三月(うづき)甲午(きのえうま)を朔(つきたち)とし甲辰(きのえたつ=十一日) 天皇橿原の宮に崩す 時に年(よはひ)一百二十七歳(ももとせあまりはたとせあまりななとせ)。
 明年(くるつとし) 秋九月(ながつき)乙卯(きのとう)を朔(つきたち)とし丙寅(ひのえとら=三日) 葬畝傍山東北陵に葬(はぶ)りまつる。
   「日本書記」巻3
  ・・・・・・
 神武天皇は,天照大神の子孫とされ,日向から東征して大和の地に都を開いたと伝えられている人物です。即位が紀元前660年,崩御が127歳とされ,実在の人物というよりは神話的,象徴的な存在と考えられています。また,神武天皇陵とされているのは,円墳状の墳丘で周囲には濠もありますが,この時代に古墳があるとは考えられないので,実際には後世のだれが埋葬されているかは不明です。

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【Summary】
While visiting Asuka, I reflected on how this quiet, non-touristy area suits deep, reflective travel. I revisited the Takamatsuzuka Tomb, famous for its wall paintings and preservation challenges, then cycled to the nearby Kitora Tomb, another late seventh-century mural tomb, appreciating both the history and the tranquil landscape.

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 私は,若いころから古代史が好きだったので,飛鳥地方にはずいぶん行きました。
 そのころのある日。高松塚古墳に行こうと歩いていると,定年退職をして,さあ,旅行をするぞ,という感じの初老の人が,そんな私を見て「専門家の人ですか? いいですね,ここは」。と話しかけてきました。今でもそれをよく覚えています。そのころは,奈良といっても,飛鳥の地は,マニア向けのところらしく,一般の観光客はあまりいませんでした。だから,さも慣れた様子で歩いていた私をそう思ったのでしょう。そしてまた,初老の人も,この地を旅するのをずっとこころ待ちにしていたのでしょう。
 今の私は,そのとき話しかけてきた人よりもずっと年上になってしまいましたが,国内外,行きたいと思っていたところはほぼ行きつくしてしまったその果てに,こころは,再び,飛鳥の地に戻って来たようです。この先は,のどかなこの地を深く,静かに,何度も巡りたいものだと改めて思ったことでした。ここは,インバウンドもほとんどおらず,観光客も多くなく,最高です。

 高松塚古墳は
  ・・・・・・
 7世紀末から8世紀初頭にかけて築造された終末期古墳で,直径23メートル,高さ5メートルほどの円墳です。石室の壁画,特に,色彩鮮やかな西壁の女子群像は歴史の教科書などにも紹介されているので有名です。被葬者は特定されていません。
 1972年(昭和47年)に極彩色の壁画が発見されたことで注目されるようになりました。
 1962年(昭和37)年ごろ,明日香村檜前の村人がショウガを貯蔵しようと直径約60センチメートルの穴を墳丘南側に掘ったところ,穴の奥で擬灰岩の四角い切石が見つかりました。1972年(昭和47年),関西大学と龍谷大学の研究者と学生グループによって高松塚古墳の発掘調査がはじまり,3月21日には極彩色の壁画が発見されました。
 極彩色壁画の出現は考古学史上まれにみる大発見として報じられました。
  ・・・・・・
というものですが,発見当時の報道を,私はよく覚えています。
 とはいえ,当然,壁画は非公開だったので,壁画そのものを見ることはできなかったのですが,このときの私は,高松塚古墳の外観を見にいってみたところだったのです。

 それから50年以上が経過したわけですが,その間に,壁画の保存には,さまざまな困難が起きました。
  ・・・・・・
 古墳の壁画は現状のまま現地保存することになり,文化庁が石室内の温度や湿度の調整,防カビ処理などの保存管理,そして,1981(昭和56)年以降年1回の定期点検を行ってきました。
 しかし,2002年(平成14年)から2003年(平成15年)にかけて撮影された写真を調べた結果,雨水の浸入やカビの発生などにより,壁画の退色,変色が顕著になっていることが,2004年(平成16年)に明らかになりました。 
 壁画の劣化防止策や保存方法について種々の検討が続けられ,壁画の描かれている石室をいったん解体,移動して修復し,修復完了後に元に戻すという方式が採用されました。
  ・・・・・・
 その方針に従って,壁画は歴史公園内に完成した修理施設に移され,修復されたのですが,現在も,修理施設で保存管理されていて,年に数回行われる一般公開で,それを見ることができるそうです。
 それとは別に,高松塚古墳の横に壁画館ができ,そこで,模写が展示されていたので,見てきました。これだけで私は十分に満足しましたが,機会があれば,一般公開のときにまた来てみたいと思いました。

 そんな高松塚古墳の1キロメートルほど南にあるのがキトラ古墳です。
 ここもまた,壁画古墳として有名なのですが,私は,これまで行ったことがなかったので,今回行ってみることにしました。高松塚古墳からキトラ古墳まではずっと上り坂で,自転車では大変でした。むしろ,自転車なしで歩いたほうが楽だったと後悔しました。
  ・・・・・・
 キトラ古墳もまた,7世紀末から8世紀初頭にかけて築造された終末期古墳で,直径14メートル,高さ4メートルほどの円墳です。高松塚古墳に続き日本で2番目に発見された大陸風の壁画古墳です。
 中を覗くと亀と虎の壁画が見えたため「亀虎古墳」とよばれたという説,古墳の南側の地名である小字北浦(こあざきたうら)がなまってキトラになったという説,キトラ古墳が明日香村阿部山集落の北西方向にあるため四神のうち北をつかさどる亀(玄武)と西をつかさどる虎(白虎) から亀虎とよばれていたという説などがあるそうです。
 被葬者は天武天皇の皇子・高市皇子,高官であった百済王昌成,右大臣・阿部御主人などが想像されています。
  ・・ 
 高松塚古墳壁画発見の直後,付近の住民から,近くに似たような古墳があると知らされたことで,1983年(昭和58年)にファイバースコープによる探査が行われ,石槨の奥壁に玄武と思われる壁画を発見,15年後の1998年(平成10年)には,青龍,白虎,天文図が発見されました。さらに,2001年(平成13年)の調査で,南壁の朱雀を確認し,獣頭人身十二支像の存在も確認しました。
  ・・・・・・

 キトラ古墳で壁画が発見されたのは高松塚古墳とさほど違わないころだったのですが,キトラ古墳の調査は,高松塚古墳の調査よりもかなり後で行われたので,すでに社会人だった私はあまり印象がありません。
 キトラ古墳の壁画は,そのままではやがて崩れてしまう極端なもろさであることがわかったため,2004年(平成16年)に本格的な取り外しを行い,取り外した壁画は修理,強化処理を行い保存管理しているので,非公開となっています。ただし,こちらも,年に数回,一般公開が行われているそうです。
 現在,キトラ古墳のとなりにキトラ古墳壁画体験館「四神の館」があって,ここで,さまざまな展示がされていました。充実した展示で,楽しむことができました。
 この建物の一部に,キトラ古墳壁画保存管理施設があります。

 キトラ古墳のある場所は,高松塚古墳のあるところ以上にどのかな,山深き場所ですが,このようなところに,1,300年以上も昔から,人々が活動していたのが不思議な気がしました。また,いい意味であまり開発されていないので,その時代のままの姿が想像できる印象を受けました。
 私は,何度も訪れたいところ,というより,むしろ,住んでみたいところだなあと思いました,

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Moon and Marcury.

早朝の東空
月齢27.6の月と水星です。
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【Summary】
After visiting the Kengoshizuka Tomb, I returned toward Asuka Station and explored several late-period kofun by rental bicycle. Along the way, I visited Iwayayama Kofun, Oni-no-Manaita and Oni-no-Setsuin, and the confirmed tomb of Emperors Tenmu and Jitō, before heading on to Takamatsuzuka Kofun.

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 この日私が行きたかったのは牽牛子塚古墳でした。その目的を果たして,さて,このあとどうしようかと思いました。とりあえず,近鉄電車の飛鳥駅まで戻ることにしました。
 その途中で見つけたのが岩屋山古墳でした。
 岩屋山古墳は終末期古墳です。ここは,石室に入ることができます。
 墳丘は1辺約40メートル,高さ約12メートルの2段築成の方墳で石英閃緑岩の切石を用いた南に開口する両袖式の横穴式石室があります。被葬者は吉備姫王(きびつひめのひめみこ)などが候補として挙げられているそうです。

 飛鳥駅まで戻ってきました。
 一般に,京都,奈良とひとくくりにされますが,私が一番好きなのは,奈良に中でも,今回来た飛鳥地方なのです。この地には古代天皇の古墳やら都やらの跡が多くあって,もっとも興味が湧くところで,学生時代によく来ました。広い場所なので,レンタサイクルを借りて走り回るのでした。今回やって来たのはかれこれ30年ぶりくらいなのですが,雰囲気がほとんど変わっていなかったのに驚きました。そして,再び興味が湧いてきました。そこで,今回も,レンタサイクルを借りて,走り回ることにしました。
 なお,明日香と飛鳥,ふたつの書き方があります。どちらも「アスカ」ですが,明日香は明日香村を指し,飛鳥は歴史的な時代や文化を表すときによく使われるそうです。つまり,場所としての村なら明日香,時代や文化の名前なら飛鳥ということです。 
 駅前に多くのレンタサイクル店があったので,そのうちの1軒で借りたのですが,この時点で間違えました。学生時代なら十分だったのでしょうが,飛鳥という地は坂が多く,今の年齢を考えれば,電動自転車を選ぶ必要があったのでした。

 さて,まず高松塚古墳に行こうと思い,飛鳥駅から西に向かって走っていくと,国営飛鳥歴史公園館があったので,一旦,そこに自転車を停めて,中に入りました。
 国営飛鳥歴史公園館は明日香村にある歴史公園の中核施設で,飛鳥時代の文化や暮らしを体感できる場所,この地を観光するときの案内所のようなところでした。
 ここで思い出しのですが,これまで何度も来ているとはいえ,見逃しているところが少なからずあるので,そうしたところに行ってみようと思いました。「鬼の爼」(まないた),「鬼の雪隠」もそのうちのひとつでした。そこで,高松塚古墳に行く前に,「鬼の爼」「鬼の雪隠」に行ってみることにしました。場所は国営飛鳥歴史公園館からさほど遠くはかなったのですが,けっこうな坂を上ることになって,この時点で,すでに,電動自転車を借りなかったことを後悔しました。
  ・・・・・・
 「鬼の爼」「鬼の雪隠」というのは,もともと古墳の石棺式石室の1組の石材であったものが何らかの原因でわかれ,底石が残り,蓋が転げ落ちたものと考えられていて,29代欽明天皇陵の石室の底石と蓋ではないかと説明されています。鬼が旅人を霧で迷わせ捕らえて爼で料理し,満腹になったあとに雪隠で用を足したという伝説があるそうです。なお,欽明天皇陵とされている巨大な前方後円墳が,飛鳥駅の北にあります。
  ・・・・・・

 「鬼の爼」「鬼の雪隠」の近くに,檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)40代天武・41代持統天皇陵があったので,寄ってみました。ここは以前来たことがあります。この地にある多くの天皇陵は,実際は,それが正しく治定されているのか不明なものが多く,というか,むしろ,そのほとんどが信ぴょう性に欠けているのですが,1235年(文暦2年)に盗掘され,このときの実検記「阿不幾乃山陵記」(あふきのさんりょうき)に記された記事と「日本書紀」「続日本紀」の記述が一致したことから,天武・持統天皇陵は,正真正銘,天武天皇と持統天皇が葬られた古墳であることがわかっています。
 東西38メートル,南北45メートル。まさに,この時代の天皇陵らしく八角墳で,天武天皇のために築かれ,のちに持統天皇が火葬され合葬されました。
  ・・・・・・
 冬十月辛卯朔壬子
 皇太子 率公卿百寮人等幷諸國司國造
 及百姓男女 始築大內陵
 十二月辛卯朔庚子
 以直廣參路眞人迹見 爲饗新羅勅使
 是年也 大歲丁亥
  ・・
 冬十月(かむづき)辛卯(かのとう)を朔(つきたち)として壬子(みづのえね=二十二日)
 皇太子(ひつぎのみこ) 公卿(まへつきみ)百寮人(もものつかさびと)等(たち)
 及びに百姓(おほむたから)の男女(をのこをみな)を率(ゐ)て 始めて大内陵(おほちのみささぎ)を築(つ)きたまふ。
 十二月(しはす)辛卯(かのとう)を朔(つきたち)として庚子(かのえね=十日)
 直広参(ぢきくわうさむ)路真人(みちのまひと)迹見(とみ)を以ちて 新羅(しらき)を饗(みあへ)する勅使(みかどつかひ)と為(し)たまふ。
 是年(このとし)は 大歲(おほとし)丁亥(ひのとゐ)。
  「日本書紀」 巻30 持統紀
  ・・・・・・
 從四位上當麻眞人智徳
 率諸王諸臣
 奉誄太上天皇
 謚曰大倭根子天之廣野日女尊
 是日
 火葬於飛鳥岡
 合葬於大内山陵
  ・・
 癸酉(みずのととり=12月17日)
 従四位上当麻真人智徳(たいまのまひとちとこ)が
 諸王諸臣を率いて
 太上天皇に誄しのびごと(貴人の死を悼んで読み上げる弔辞)を奉った。
 大倭根子天之広野日女尊(おおやまとねこあめのひろのひめのみこと)と諡おくりなを奉った。
 この日
 飛鳥岡において太上天皇を火葬し奉った。
 壬午(みずのえうま=12月26日)大内山陵に合葬し奉った。
  「続日本紀」 文武紀
  ・・・・・・
 盗人乱入事文暦二年三月廿日癸  
 件陵形八角石檀一迊一町許歟五重也是五重ノ峯有森十余株南面有石門々前ニ有石橋此石門ヲ盗人等纔人一身通許切開御陵ノ内ニ有内外陣先外陣方丈間許歟皆馬脳也天井高七尺許此モ馬脳無継目一枚ヲ打覆云内陣ノ広南北一丈四五尺東西一丈許内陣有金銅ノ妻戸広左右ノ扉各三尺五寸七分扉厚一寸五分高六尺五寸左右ノ腋柱広四寸五分厚四寸フクサ三寸鼡走三寸冠木広四寸五分厚四寸
 已上金銅扉ノ金物六内小四三寸五許分大二四寸許皆金已上形如蓮花返花古不ノ形師子也内陣三方上下皆馬脳歟朱漆也御棺張物也以布張之入角也朱塗長七尺広二尺五寸許深二尺五寸許也御棺蓋ハ木也朱塗御棺ノ床ノ金銅厚五分互上ヲ彫透左右ニ八尻頭ニ四クリタカ歟四尻二頭二御骨首ハ普通ヨリスコシ大也其色赤黒也御脛骨長一尺六寸肘長一尺四寸御棺内ニ紅御衣ノ汚タル少々在之
  ・・
 盗人乱入の事【文暦二年(1235年)三月二十日】
 件(くだん)の陵形は一巡り約1町 五重である。五重の峰に森十株余りがある。南側に石門があり,門前に石橋があり,その石門を盗人は僅かに人一人が通れる分だけ切り開いた。 御陵の中には内外陣がある。まず外陣は一辺約一丈で,皆瑪瑙である。天井高約7尺,これも瑪瑙で継ぎ目のない一枚板で覆うという。
 内陣の広さは南北約1丈4~5尺,東西約1丈,内陣には金銅の妻戸があり,広さは左右の扉は各3尺5寸7分,扉厚1寸5分,高さ6尺5寸。左右の腋柱の幅は4寸5分, 厚さ4寸,袱紗(ふくさ)3寸,鼠走り3寸,冠木は幅4寸5分,厚さ四寸【以上金銅製】, 扉の金物6点のうち小4点【約3寸5分】,大2点【約4寸】,形は蓮花返花の如くで,古くて形をなさないが獅子である。
   「阿不幾乃山陵記」
  ・・・・・・

 国営飛鳥歴史公園館に戻る途中,カナヅカ古墳がありました。墳形は方形で1辺約35メートル。被葬者は明らかでなく,吉備姫王の真墓とする説が挙げられているそうです。
 坂を上って来た,というから,帰りは降ることになるわけで,今度は快適でした。国営飛鳥歴史公園館に戻り,次に,高松塚古墳をめざしました。

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【Summary】
After seeing an NHK BS program, I finally visited the Kengoshizuka Tumulus in Asuka in December 2025. This rare octagonal 7th-century tomb is now thought to be the grave of Empress Saimei and was carefully excavated, restored, and opened to the public in 2022.

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 NHKBS「英雄たちの選択」の2025年3月10日に放送された「シリーズ古墳の時代(2)八角墳に眠る女帝~斉明天皇の石の王都~」で牽牛子塚(けんごしづか)古墳が紹介されました。それ以来,ずっと行ってみたかったのですが,2025年12月13日,実現することができました。
  ・・
 牽牛子塚古墳があるのは,近鉄電車の飛鳥駅から西に歩いて10分ほど行ったところです。
 午前7時19分に京都駅に着いた私は,意気揚々と午前7時35分発橿原神宮駅行き特急の指定席券をネットで購入して乗り込みました。橿原神宮駅着が午前8時30分。ここで,午前8時46分発吉野駅行きの特急に接続し飛鳥駅着が8時49分になるので,飛鳥駅までの指定席券を購入すべきだったのですが,私は間違えて,橿原神宮駅までの特急券を購入してしまったのでした。こうなると,再び,橿原神宮から飛鳥駅までの特急券を購入する気にはなりません。ならば,次の午前8時ちょうど発の吉野駅行きの急行に乗ればいいのですが,待ち時間が30分もあり,こんなくらいなら,午前7時36分発の橿原神宮行きの急行に乗っても,同じだったのです。
 ということもあって,橿原神宮駅で下車した私は,橿原神宮駅から牽牛子塚古墳まで約40分,歩くことにしました。狭い田んぼのあぜ道,それもまた,けっこうな坂道でしたが,不幸中の幸い,なかなか楽しい散策で,ついに,待望の牽牛子塚古墳に到着しました。

 思ったより巨大でなかった,というより,あたりが広々としてるので,思ったより小さく見えた,というほうが適切でしょう。見学者が2人から3人ほど来ていました。ガイドさんがふたりいて,予約制だったようですが,そうでなくても詳しい説明を聞くことができました。
  ・・・・・・
 牽牛子塚古墳は,飛鳥時代の終わりごろの7世紀後半に築かれたとされる八角墳です。八角形の古墳は珍しく,この時代の天皇やそれに準ずる高貴な人物の墓と考えられています。
 牽牛子塚古墳は,長らく,誰の墓なのか謎に包まれていました。発掘調査の結果,今は37代斉明天皇の墓である可能性が高いとされています。斉明天皇は,のちの天智天皇である中大兄皇子の母です。
 ちなみに牽牛子は朝顔の古いよび名です。
  ・・・・・・
 2000年代に入り,牽牛子塚古墳は,石室の崩落の危険性や風化による劣化が進んでいたことから,文化財としての保護と学術的な解明のために本格的な発掘調査がはじまりました。
 調査が進むにつれて,古墳の八角形の形状が明らかになり,石室がふたつ並ぶ「両袖式横穴式石室」が判明しました。また,石材の産地や築造技術から7世紀後半の築造と推定されました。
 また,牽牛子塚の手前には,越塚御門(こしづかみかど)古墳も存在します。
 発掘調査の結果,「日本書紀」の天智天皇称制六年(667年)二月二十七日の条より,牽牛子塚古墳が斉明天皇の陵墓で,間人皇女(はしひとのひめみこ)との合葬である可能性が極めて高いとされました。さらに,越塚御門古墳は,大田皇女(おほたのひめみこ)の墓である可能性が高いということです。

  ・・・・・・
 六年 春二月壬辰朔戊午 合葬天豐財重日足姬天皇與間人皇女 於小市岡上陵
 是日 以皇孫大田皇女葬於陵前之墓
  ・・
 六年(むつとせ),春二月(きさらぎ)壬辰(みずのえたつ)朔(ついたち)とし戊午(つちのえうま=六日),天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)と間人皇女を,小市岡上陵(をちのおかのえのみささぎ)に合葬(あはせはかむ)りき。
 是の日,皇孫(すめらみま)大田皇女を以て,陵の前の墓。
  ・・
 天智天皇6年(667年),2月27日天豊財重日足姫天皇=斉明天皇と間人皇女を,小市岡上陵に一緒に葬りました。
 この日,皇孫である大田皇女も,その陵の前の墓に葬られました。
   「日本書記」巻27
  ・・・・・・

 文化庁や地元自治体が,この貴重な遺跡を後世に伝えたいという目的で,発掘で得られたデータをもとに,築造当時の姿を忠実に再現する形で整備されることになりました。そして,2022年,整備が完了して一般公開がはじまりました。復元に使われた石材も,当時と同じ二上山の凝灰岩を使っています。
 古墳のある高台から見まわすと,稲刈りの終わった田んぼでは,野焼きをしていました。いま,都会では野焼きは禁止です。まだそれが行われているほど,開発されていないというのが,今もなお,どのかな飛鳥を示しているようでした。まさに,私の好きな万葉集の
  ・・・・・・
 山常庭 村山有等 取與呂布
 天乃香具山 騰立 國見乎為者
 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都
 怜𪫧國曽 蜻嶋 八間跡能國者
  ・・
 大和には 群山あれど とりよろふ
 天の香具山 登り立ち 国見をすれば
 国原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ
 うまし国そ 蜻蛉島 大和の国は
  ・・
 大和には 多くの山があるが とりわけて
 りっぱに装っている天の香具山 その頂に登り立って 国見をすると
 国土には 炊煙がさかんに立ち 海上には 鴎がしきりに飛び立っている
 美しい国よ 蜻蛉島 大和の国は
   巻1・2 舒明天皇
  ・・・・・・
を思い起こす,そんなところでした。

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【Summary】
I visited Koriyama Castle’s historic sites, including the retro Joushi Kaikan and the goldfish-themed shopping street. Despite limited time, I enjoyed the nostalgic townscape and explored the Machiya Monogatari Museum, a former 1924 geisha house. Koriyama’s compact, walkable castle town was charming, and I hope to return for a longer visit.

######
 大和郡山城の最後は,追手門から入ったところにある城址会館でした。
 城址会館は,1908年(明治41年)に奈良公園内に建てられた奈良県初の県立図書館を,1970年(昭和45年)に現在の郡山城跡に移築されたものです。
 図書館の役割を終えた後は,さままざまな用途に使われていましたが,耐震などの問題があって,現在は保存されているだけのようです。建物自体が和洋折衷のレトロで荘厳な雰囲気をまとっていて,土日のみ見学可能ということだったので,中に入ることができました。
 館内に案内をする人がいて,ていねいな説明をしてもられました。

 大和郡山の城下町は,近鉄の郡山駅とJRの郡山駅に挟まれたところに集中しています。
 この日,あまり時間がなかったので,このあと,大和郡山の城下町をゆっくり散策することができなかったのが残念でしたが,せっかくなので,近鉄の郡山駅まで行く途中で,金魚ストリートと名づけられたやまぎまち商店街を歩きました。
 金魚ストリートは,金魚づくしのユニークな観光スポットで,実際に金魚が泳ぐ水槽が商店街のあちこちに設置されていて,改札型の水槽や自販機型の水槽,金魚カフェなど,「生きた金魚図鑑」のような空間になっています。
 大和郡山市の市街地は,昭和の時代に舞い戻ったようなところで,道も狭く,車社会では不便を感じるところですが,歩くには楽しいところでした。

 最後に,「町屋物語館」というところに寄ってみました。
 「町家物語館」は,旧川本家住宅を活用した歴史的建築です。ここは,かつての遊郭建築を今に伝える貴重な場所として,保存公開されています。
 1924年(大正13年)に建てられた木造3階建てで,当時は「川本楼」という名の遊郭でした。1959年(昭和33年)の売春防止法施行で廃業した後は下宿として使われていました。
 2018年(平成30年)に「町家物語館」として一般公開がはじまりました。内部には,意匠を凝らした欄間や数寄屋造りの小部屋,そして,遊郭建築ならではの造形美が残されています。
 大和郡山の城下町は半日程度,きままに散策するにはとてもすてきなところなので,また,次回,今度は,もう少し時間をとって来てみたいと思いました。

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【Summary】
The visit to Yamatokoriyama Castle covered its origins from the medieval Ganjin-no-shiro, major expansions under Toyotomi Hidetsugu and Hidenaga, and the reuse of stones such as the “upside-down Jizō.” The tour included the Bishamon Bailey’s Yanagisawa Library and the restored tenshudai with clear views toward Heijō Palace and Nara’s mountains.

######
 大和郡山城に着きました。
 大和郡山城は,もともとは平安時代末期に郡山衆が築いた雁陣之城(がんじんのしろ)が前身です。名前の由来は,鎌倉時代後期ごろに郡山の地にいた土豪たちが雁行(がんこう)状,つまり,雁が飛ぶ形のなV字形の隊列で居館を構えていた(=雁陣)ことにあるそうです。やがて,その地に築かれた城が雁陣之城とよばれるようになりました。
 戦国時代に,筒井順慶が織田信長の命で大規模な改修を行い,1580年(天正8年)に本格的な城郭として整備がはじまり,そののち,1585年(天正13年)に豊臣秀吉の弟・豊臣秀長が入城し,大和,紀伊,和泉の3国100万石を治める大名として,郡山城をその拠点に選びました。
 豊臣秀長は城をさらに拡張し,春日大社の水谷川から大石を切り出したり,寺院の石仏や墓石を石垣に転用したりして,威容を整えました。このように,天守台の石垣には転用石がたくさん使われていて,特に有名なのが「逆さ地蔵」という,地蔵だった石が上下逆に石垣に組み込まれているもので,現在も見ることができます。ほかにも,平城京羅城門跡の礎石が使われているそうですが,これは,堀の下の部分にあって,船を浮かべてそこから見るしかないということでした。

 大和郡山城の一角,毘沙門曲輪(びしゃもんくるわ)に,柳沢文庫(やなぎさわぶんこ)があったので,入ってみました。
 柳沢文庫は,地方史専門の図書館・資料館で,もともとは郡山藩主だった柳沢家から寄贈された古文書や典籍をもとに,1960年(昭和35年)に設立された施設です。、
 建物自体は,旧柳沢邸を活用した近代和風建築で,庭園も美しく整備されていました。小さな施設でしたが,貴重なものが多く展示されていました。
 その次に,天守台に上ってみました。
 大和郡山城の天守台は城の中心に位置する高台で,かつて天守が建っていた場所です。
 昔の天守は,筒井順慶の時代に望楼型3重の天守があったとされていて,その後,豊臣秀保によって5重6階の巨大天守が築かれたという説もあるそうですが,実際はよくわからないということです。
 豊臣秀保(とよとみひでやす)は,豊臣秀吉の姉・瑞龍院日秀(ずいりゅういんにっしゅう)の子,つまり,豊臣秀吉の甥にあたる人物で,幼名は辰千代や御虎(おとら)ともよばれていました。豊臣秀長の養子となり,豊臣秀長の死後にその遺領を継いで大和・紀伊・和泉の3国100万石の大名となり,官位が中納言ということで,権大納言(ごんだいなごん)に任じられ大和大納言(やまとだいなごん)という尊称でよばれた豊臣秀長に対して,大和中納言ともよばれていました。しかし,1595年(文禄4年)に17歳で急死してしまいました。
 現在の天守台は,2013年から4年間かけて石垣の修復と展望施設の整備が行われ,2017年に完成したものです。天気がよく,透明度が高かったので,この日は,展望施設からは,平城京の大極殿,薬師寺,若草山まで見渡すことができました。

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【Summary】
In October 2025, I stopped at Koriyama in Nara, inspired by the 2026 Taiga drama on Toyotomi Hidenaga. I visited Hidenaga’s grave, the “Dainagon-zuka,” then walked to Yamatokoriyama Castle. On the way, I explored Eikeiji Temple, the Yanagisawa clan’s former bodaiji with historic gates and statues.

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 2025年11月29日大和郡山市へ行きました。
 10月11日に京都駅から近鉄電車で八木西口駅まで行きましたが,途中で,郡山駅を通ったとき,そういえば,大和郡山市には行ったことがないなあ,と気づきました。2026年のNHK大河ドラマは「豊臣兄弟!」。ということもあり,主人公の豊臣秀長の居城が大和郡山城ということで,ぜび,今度は,郡山駅で降りてみようと思いました。
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 「豊臣兄弟!」は,豊臣秀吉とその弟で「天下一の補佐役」と称された豊臣秀長の兄弟愛と絆を描く物語です。豊臣秀長の視点から,戦国の荒波をどう乗り越え,兄を支え続けたのかが描かれます。
 豊臣秀吉の暴走を抑え,政権を支えた豊臣秀長の冷静な知略と人間力,兄弟の絆と葛藤,そして,天下統一への道のりを,高取城や大和郡山城など,奈良ゆかりの地を舞台に描きます。
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 豊臣秀長はあまりなじみのない名前ですが
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 豊臣秀長は,戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将で,豊臣秀吉の実弟(異父弟,または同父弟とする説もあります)です。豊臣秀吉の天下統一を陰で支えた名参謀で,政治・軍事の両面で大きな功績を残しました。
 温厚で誠実な性格で知られ,豊臣秀吉からの信頼も厚く「大和大納言」として知られるほどの高位にまで昇進。大和,紀伊,和泉の三国と河内の一部を領有し,約110万石の大名となりました。
 また,千利休とともに政権の要として機能し,内政,外交の調整役としても活躍。また,徳川家康や伊達政宗といった外様大名との関係構築にも貢献しましたが,1591年(天正19年),52歳で病没しました。
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 豊臣秀長の死後,豊臣政権のバランスが崩れ,豊臣秀吉の晩年の暴走を止める者がいなくなったともいわれ,「あと10年生きていれば…」と惜しまれる存在です。

 はじめて来たので,郡山駅を降りて,どこへ行けばよいのかわかりませんでした。駅前にあった地図をみて,ともかく,豊臣秀長の町ならば,はじめに,豊臣秀長の墓に行ってみようと思いました。殿様の墓がきちんと保存されていれば,その町で,その時代も今も,そこを治めていた殿様が慕われていたかがわかる,というのが私の持論です。
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 豊臣秀長の墓は,「大納言塚」(だいなごんづか)」といい,近鉄電車の郡山駅から徒歩約15分ほど西南に行ったところにあります。高さ約2メートルの五輪塔で,地輪には秀長の戒名「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」が刻まれています。
 1591年(天正19年),豊臣秀長は郡山城内で病没し,ここに葬られました。
 墓は,もともとは豊臣秀吉が建立した大光院という菩提寺が管理をしていました。しかし,豊臣家滅亡後に京都へ移転してしまい,墓所は荒廃してしまいましたが,1777年(安永6年)に地元の僧や町民の手で再建されました。
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 次に,大和郡山城へ行こうと思いました。その途中に永慶寺(えいけいじ)という立派な寺がありました。
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 豊臣秀長の死後,養子の豊臣秀保が継ぎましたが早世し,増田長盛に代わりましたが,関ヶ原の戦いで改易され,幕府直轄領になりました。
 1615年(慶長20年),水野勝成が6万石で入封し,大和郡山藩が立藩しました。その後,松平忠明,本多政勝などを経て,1724年(享保9年)に柳沢吉里が甲府から15万石で入封し,以後,明治維新まで柳沢家が6代にわたって治めました。
 その柳沢家の菩提寺が永慶寺です。
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 黄檗宗の寺院である龍華山永慶寺は,本尊が釈迦三尊。1705年(宝永2年),柳沢吉保が甲府に創建し1724年(享保9年)に大和郡山へ移転しました。以後,柳沢家の菩提寺として代々の藩主の供養を担ってきました。
 山門は,豊臣秀長時代の郡山城の南御門を移築したものです。
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 立派な境内には,柳沢吉保とその正室・定子の木造坐像が安置された「香厳殿」,さらに,俳人・高浜虚子が詠んだ句碑などがありました。

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【Summary】
After visiting the Fujiwara Palace site, I explored Imai Town, enjoying its quiet atmosphere and lunch at the traditional café Café Ikiya. The town’s preserved streets have also been used as filming locations for many movies and TV dramas.

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 橿原神宮へ行ってみようと京都駅から近鉄電車に乗ったのですが,車内にあった藤原京跡にコスモス畑があるという広告を見て予定を変更して,藤原京跡の最寄りの八木西口駅で降りて,藤原京跡へ行ったことは前回書きました。
 八木西口駅で降りたとき,今井町という案内を見つけました。これまで意識をしたことはなかったのですが,今井町は,昔の街並みが残る,しかも観光客があまりいないところだということは知っていたので,行ってみたくなりました。そこで,藤原京跡へ行った後,今井町へ行くことにしました。
  ・・・・・・
 今井町は,戦国時代,浄土真宗の称念寺を中心とした寺内町として誕生しました。町は環濠で囲まれ,外敵から守るための防御機能を備えた「武装宗教都市」でした。その後,織田信長との関係や明智光秀のとりなしを経て武装を解き,商業都市として発展し,「海の堺,陸の今井」とよばれるほどの繁栄を誇りました。 江戸時代には「今井札」という独自の紙幣も流通し,自治都市として特別な権利をもっ ていました。町民たちは茶道や能楽などの文化にも親しみ,経済と文化の交差点でした。
  ・・・・・・

 途中で雨が降って来たので,傘をさして歩いていくと,今井町に着きました。
 今井町の一角は,今も江戸時代の町家が約500軒も残る日本最大級の重要伝統的建造物群保存地区で,まるでタイムスリップしたみたいな景観が広がっていました。思った以上に広いところでした。
 戦国時代の惣年寄の邸宅で,八つ棟造りの屋根が圧巻。内部には茶室や庭園もある今西家住宅を見学しました。
 雨が降っていたのが幸いしたのか,土曜日なのに訪れる人も少なく,静かな町を散策することができました。歩いていると,古民家カフェやレストランが点在していました。ちょうどお昼どきになったので,その中で「cafe粋や」という店に入りました。品のよい,とてもいいところでした。
  ・・・・・・
「cafe粋や」は,今井町の歴史ある町並みにぴったりの落ち着いた雰囲気の店でした。私は,お昼の定食を食べましたが,四万十川産のうなぎと若狭産コシヒカリを使った名物のうな重,香ばしさとふっくら感がたまらないもっちり餅に塩気の効いた豆と粒あんがぎっしり豆大福,さらには,みたらし団子や蒸羊羹もありました。
 この店に入っただけでも,来た甲斐があったというものでした。

 今井町は時代劇の舞台のような町並みを生かして,テレビや映画のロケ地としてたびたび使われているということでした。
 明治・大正期を思わせる和風ファンタジー映画「わたしの幸せな結婚」では,今井町の町並みが重要なシーンに登場し,呉服店「すずしま屋」のシーンは今井景観支援センターで撮影されたものです。また,NHK連続テレビ小説「ごちそうさん」や「あさが来た」では,大阪の下町の設定で,町家の風情が物語の雰囲気を引き立てました。さらに,映画「燃えよ剣」では,岡田准一さんが演じた土方歳三が登場するシーンが高木家住宅で撮影され,CM「伊右衛門」シリーズは,旧米谷家住宅で撮影されたそうです。
 こころが和む,とてもいい空間でした。リピートしたいところです。

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【Summary】
On October 11, 2025, before a Kyoto Symphony concert, I visited the Fujiwara Palace site, admired the blooming cosmos and vast ancient capital, and stopped by Ofusa Kannon Temple.

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 2025年10月11日,今月も,京都市交響楽団の定期演奏会を聴きに京都へ行きました。演奏会は午後2時30分からなので,午前中は,インバウンドが行かない,さらに,できれば,団体ツアー客のいない静かなところを探して,散策をしています。
 この日は,橿原神宮へ行ってみようと京都駅から近鉄電車に乗りました。
 奈良県も,これまでずいぶん多くの場所に行ったことがあるのですが,ところどころまだ行ったことがないところがあります。橿原神宮あたりもそんな場所のひとつでした。ところが,車内にあった藤原京跡にコスモス畑があるという広告を見て,行ってみたくなりました。藤原京跡も,また,行ったことがなかったし,コスモスが満開,というのは,この時期だけのことです。橿原神宮はいつでも行くことができます。
 予定を変更して,藤原京跡の最寄りの八木西口駅で降りました。藤原京跡は,八木西口駅の南東,歩いて30分というところです。駅を出て,南東に向かって歩いていくと,その途中で,おふさ観音を見つけたので,寄ってみました。
  ・・・・・・
 おふさ観音は,高野山真言宗の別格本山で「花まんだらの寺」として知られる寺です。
 1650年,地元の娘おふささんが鯉ヶ淵という池のそばを歩いていたとき,白い亀の背に乗った観音様が現れました。それを祀るために小さなお堂を建てたのがはじまり,やがておふさ観音とよばれるようになったそうです。
 現在の本堂は明治時代に地元の人々の寄付で建立されたもので,本尊は十一面観世音菩薩です。
  ・・・・・・
 現在は提灯まつりが行われれていて,境内に提灯が並び暖かな光で包まれていました。

 やがて,藤原京跡に着きました。
  ・・・・・・
 藤原京は,約1,300年前の694年(持統天皇8年),耳成山・畝傍山・天香久山の大和三山がそびえる地に造営された日本初の本格的な都城で,710年(和銅3年)に平城京に遷都するまで,持統・文武・元明,3代の天皇の都でした。唐の長安をモデルにした条坊制を日本で初めて採用し,碁盤の目のような街並みが広がっていました。中央の藤原宮の建物には,日本ではじめて屋根に200万枚以上瓦が使われました。
  ・・・・・・
  現在は広大な原野が広がっていて,この時期は,コスモスが満開でした。広大な平原に立つと,古の都を思い出します。
 藤原京を詠んだ万葉集の歌には,つぎのものがあります。
  ・・・・・・
 高山波雲根火雄男志等耳梨與 相諍競伎神代従如此尓有
 香具山は畝傍ををしと耳成と 相争ひき神代よりかくにあるらし
   第1巻・13 額田王
  ・・
 春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
 春過ぎて夏来るらし白妙の 衣干したり天の香具山
   第1巻・28 持統天皇
  ・・
 磐走淡海乃國之衣手能 田上山之真木佐苦檜乃嬬手乎
 石走る近江の国の衣手の 田上山の真木さく檜のつまでを
   第1巻・50 柿本人麻呂
  ・
 近江の田上山から伐り出した檜材を宇治川に浮かべて藤原宮の建築に使った様子を描きます。「石走る」は近江の枕言葉です。
  ・・
 飛鳥明日香能里乎置而伊奈婆 君之當者不所見香聞安良武
 飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば 君があたりは見えずかもあらむ
   第1巻・51 志貴皇子
  ・・
 宇都曽見乃人尓有吾哉従明日者 二上山乎弟世登吾将見
 うつそみの人にあるわれや明日よりは 二上山を弟と我見む
   第2巻・163 大伯皇女
  ・
 弟・大津皇子が謀反の罪で亡くなり,二上山に葬られたときに詠まれた挽歌。「うつそみ」は空蝉からきた言葉「現し身」で,この世に生きる人を意味し,「私はまだこの世に生きているけれど明日からは二上山を弟と思って眺めることになるのだろう」という深い悲しみと別れの覚悟が込められている歌です。 
  ・・・・・・

 帰り,藤原京資料室へ寄ってみました。
 ここには,瓦や柱の出土品,1,000分の1のスケールのジオラマ,再現CGなどがありました。係の人に聞くと,藤原京は平城京より広かったと聞いて驚きました。藤原京は1辺が約5.3キロメートルの正方形からなる約25平方キロメートル,平城京は東西約4.3キロメートル,南北約5キロメートルで約22平方キロメートでした。
 そんな藤原京から平城京へ遷都したのは,次のような理由からといわれます。
  ・・・・・・
●風水的な地のよさ
 平城の地は「四神相応」(ししんそうおう)の理想的な配置とされ,東西南北に守護神が揃っていて縁起がよいと考えられていました。
●疫病や飢饉の影響
 藤原京では疫病が流行し,縁起が悪いとされていました。
●唐の都・長安との違い
 遣唐使の報告で,藤原京が唐の都・長安とは大きく異なっていたことが判明し,より本格的な模倣を目指して平城京が造られました。
●政治的な思惑
 実力者・藤原不比等の権力誇示や皇族の意向が強く影響し,元明天皇は,周囲の声に押されて遷都を決断しました。
  ・・・・・・

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【Summary】
On May 16, 2025, I visited the special exhibition “Super National Treasures: Radiance of Prayers” at the Nara National Museum, featuring 143 Buddhist and Shinto art treasures. Arriving early, I was able to view masterpieces like the Kudara Kannon and Seven-Branched Sword up close before the crowds.

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 2025年5月16日,奈良国立博物館で「超国宝-祈りのかがやき-」と題した展覧会を見ました。
  ・・・・・・ 
 奈良国立博物館(当時は帝国奈良博物館)は,1895年(明治28年)4月29日に開館し,2025年(令和7年)に130周年を迎えます。これを記念して,これまでで最大規模となる国宝展を開催します。  神仏にまつわる祈りの造形を生み出し,守り伝えてきた先人たちの深い思いが込められている多くの「国宝」は,私たちの歴史・文化を代表する国民の宝として広く知られています。
 この特別展では,奈良の歴史に関わりの深い国宝を中心に,未来の国宝ともいうべき重要作品など,日本が世界に誇る名品の数々をご紹介します。
  ・・・・・・
ということで,国宝112件,重要文化財16件の143件におよぶ仏教・神道美術が展示されていました。
 タイトルの「超国宝」は,この展覧会を観ずして,仏教・神道美術を語ることなかれと心から思っているという意味がこめられているといいます。

 私は,当日,京都駅午前7時50分発の近鉄特急で奈良駅に向かいました。
 奈良国立博物館といえば,正倉院展に代表されるように,いつも多くの人でごった返していて,展示を見るというよりも人の頭を見にいくようなものです。今回もまた,あまりに混雑していたらどうしよう,という危惧がありました。時間制限をして,もっとゆっくりと鑑賞できればいいのに,と思います。
 そんなわけで,前売りチケットを購入し,開場1時間ほど前に行って,並ぶことにしました。それでも,すでに20人くらいの人が並んでいました。
 時間になったので,中に入りました。会場は広いので,私が入ったときは閑散としていて,ホッとしました。会場の中は,見渡す限りの国宝の山で,まず,目についたのが,この展覧会最大のよびものである「観音菩薩立像(百済観音)」でしたが,まだほかに見ている人がおらず,独占状態でした。
 すでに法隆寺で見たことがあるのですが,これほど身近に,しかも,360度から拝観することができたのには驚きました。下から見上げる角度なので,非常に背が高く思えましたが,実際,210.9センチメートルもあるといいます。
  ・・・・・・
 「観音菩薩立像(百済観音)」は,法隆寺では「虚空蔵菩薩」とよばれていました。和辻哲郎が「古寺巡礼」で,「縹渺(ひょうびょう)たる雰囲気を漂わせてたたずむ」と表現し「われわれは観音として感ずる」と述べています。その結果,優雅で神秘的な姿が百済の仏像の特徴と似ていることから「百済観音」というよび名が定着しました。仏像の様式や美的印象に基づいてそう名づけられたもので,百済から伝来したことを意味するわけではありません。
  ・・・・・・

 もうひとつの見ものは,石上神宮(いそのかみじんぐう)の神宝で唯一無二の形状を持つ鉄剣「七支刀」(しちしとう)でしたが,これは,混雑をさけるために,出口の近くにありました。
 高等学校の教科書に載っていて,一度は見たいものだと思っていたのですが,通常は公開されていないということで,長年残念に思っていました。しかし,ずいぶん前に,名古屋市博物館で公開されたことがあって,そのときに夢がかないました。そこで,今回展示されているといっても,私は,それほど興味があるわけではありませんでした。
 とはいえ,私がその展示されている場所に着いたときには,まだ,ほかにだれもいなかったので,じっくりと鑑賞することができました。
  ・・・・・・
 「七支刀」の剣身には,金象嵌(きんぞうがん)による銘文が刻まれています。この銘文は表面に34字,裏面に27字が記されています。
●表面
 「泰□四年(□□)月十六日丙午正陽造百練釦七支刀□辟百兵供供侯王□□□□作」
●裏面
 「先世以来未有此刀百済□世□奇生聖音故爲倭王旨造□□□世」
 この銘文から,七支刀は百済王が倭王に献上したものであると考えられています。百済は高句麗の圧迫を受けていたため,倭国との同盟を求め,その象徴としてこの刀を贈ったという説が有力です。
 「泰□四年」は「泰和四年」(西暦369年)とし,七支刀の製作年と考えられています。
  ・・・・・・

 非常に多くの国宝を見ることができましたが,私はそのほとんどはすでに見たことがあったものでした。ただし,このように,開館と同時に入ったこともあり,また,平日だったこともあり,思ったほど混み合っておらず,その点ではよかったです。
 また,仏像館にも入ることができて,特別公開されていた金峯山寺仁王門の巨大な金剛力士立像を見ることができました。
  ・・・・・・
 奈良県吉野町に位置する金峯山寺(きんぷせんんじ)の木造金剛力士立像2体は,国宝の仁王門に安置されている5メートルに達する巨像ですが,仁王門の修理のために搬出され,仏像館で公開されています。
  ・・・・・・
 私が博物館を出るころには,混雑がはじまっていました。
 この季節の奈良は,修学旅行生とインバウンドばかりで,奈良公園あたりはすごい人だったので,奈良国立博物館を出ると,早々に奈良を後にしました。

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 十津川温泉に泊まる以外は何の計画もなく,天気予報も雨だったし,何となくあらぎ島と瀞峡へ行けたらいいなあ,と思っていたのに,2日ともよい天気になって,瀞峡での川舟観光までできてしまうという望外な結果に大満足して,これで帰ることにしました。
 はじめは新宮に出て,そこから国道42号線を北上するつもりでしたが,お土産代としてもらった金券3,000円が奈良県内でしか使えないことで,今回は国道168号線を北に,奈良から東名阪道で帰ることにしました。その途中で十津川村観光協会の2階にあるレストランで昼食をとりました。このことはまた次回。

 国道168号線をずっと北上していくと,大塔町あたりが峠となって,天文台もありました。それを過ぎると次第に民家も多くなってきました。そして,五條市に入るあたりから車が増えて交差点は信号機ばかりとなり,渋滞気味になりました。
 やはり私は都会は嫌いです。
 そのまま天理市まで行って東名阪道に入ろうと思っていたのですが,大和三山が見えるようになったころ,昔夢中だった奈良時代以前の日本史への好奇心がよみがえってきました。そこで,せっかく来たのだからどこかに寄ってみようと少し考えて,箸墓古墳と纒向遺跡に寄ることに決めました。
 というわけで,今日は,紀伊半島の旅とはうって変わって,古代史のお話になります。

  ・・・・・・
 邪馬台国の女王・卑弥呼の墓という説もあり,私がそれを信じている箸墓古墳は,最初の巨大古墳として知られ,第7代孝霊天皇と妃の意富夜麻登玖邇阿礼比売命(おほやまとくにあれひめのみこと)との間に生まれた皇女・倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の大市墓として管理されています。
 箸墓古墳は3世紀はじめごろに出現した当時国内最大の集落跡である纒向遺跡にある全長約276メートルの巨大な前方後円墳です。
  ・・ 
 巻向遺跡の巻向という名前は発掘調査で旧纒向村の多くの大字にそって遺構が確認されたので命名されたものです。本来,巻向というのは,このあたりに宮があったとされる第11代垂仁天皇の「纒向珠城宮」,第12代景行天皇の「纒向日代宮」にちなんで名づけられたものです。纏向遺跡は纒向川の扇状地に広がる東西約2キロメートル,南北約1.5キロメートルの広大な遺跡です。
 纒向遺跡は3世紀はじめに突如として大集落が形成されました。
 農業を営まない集落であることや他地域から運び込まれた土器が多いこと,特殊な掘立柱建物が存在し高床式住居や平地式住居で居住域が構成された可能性があることなどから,日本最初の「都市」の機能を持つ初期ヤマト政権の中心地であった可能性が考えられていましたが,2010年に卑弥呼の宮殿跡との説もある大型建物跡のそばで見つかった祭祀に使ったとされる桃の種が西暦135年から230年の間の卑弥呼の時代であることが判明し,桃は卑弥呼が行った祭祀に使われたものではないかという指摘がされ,そのため,邪馬台国の遺構ではないか,といわれるようになりました。
  ・・・・・・

 「魏志倭人伝」という魏の国の歴史書に記述されているだけの卑弥呼や邪馬台国。もし,魏志倭人伝がなかったとしたら,これらの古墳や遺跡はどんな解釈がされていたのでしょう。そもそも,その時代に書かれた,しかも他国の様子の記述だけでこれだけの議論がなされているのは,単に学問的な話だけではなくロマンがあるからでしょう。
 歴史学者でもない私は,真実であろうとなかろうとそんなことはどっちでもいいわけで,それよりも,箸墓古墳が卑弥呼の墓で巻向遺跡が邪馬台国だと思ったほうが楽しいので,自分勝手にそうだと固く信じて,想像を膨らませています。
 ということで,この場所に寄ってみたのですが,そんなことを考えているうちに,若いころの興味がもどってきました。涼しい季節になったら,この地を目的に,また,来てみたいなあと思いました。

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 大阪市美術館で開催されている「ドレスデン国立古典絵画館所蔵フェルメールと17世紀オランダ絵画展」を見にいくついでに,2022年7月21日から7月22日,1泊2日で大阪と奈良へ旅行しました。
 まず,自宅から車で直接大阪に行って,天王寺の適当なところに車を停めて大阪市美術館に行き,せっかくだから,帰りはどこか適当なところに1泊して帰ってこようという計画でした。

 現在,県民割とかブロック割とかで結構な補助が出るので,ずいぶんと安価に宿泊ができます。先月行った木曽駒高原でもその恩恵にあやかりました。
 そこで,もともと都会や人混みは大嫌いな私は,今回もまた,どこかのどかなところはないかと探しました。はじめは和歌山県のどこかと思ったのですが,残念ながら,和歌山県は,愛知県に住む人はブロック割の対象外でした。次に探したのは滋賀県や京都府だったのですが,いずれも対象外でした。
 あきらめかけていたのですが,なんと奈良県はブロックなどというケチなことはいわず,割引は全国対象でした。そこで奈良県に1泊することにしました。さすがわが愛する奈良県です。奈良県は,全国の旅行者を対象に,宿泊代から5,000円,さらにお土産代として3,000円分の補助が出るのです。
 次に,奈良県のどこにするか,だったのですが,昨年の冬に今回と同様大阪市美術館に行ったとき,帰りに紀伊半島を半周した,そのときに立ち寄った十津川温泉を思い出して,そこへ行くことにしました。
 私がイメージしたのは,数年前に行った岩手県花巻の台温泉で宿泊した家族経営の小さな温泉宿。そういところに平日に行くなら,ほかに宿泊客もほとんどいないだろうから,温泉は独占できるし,豪華な食事は部屋で食べることができるだろうと思いました。そして楽天トラベルで見つけたのは平谷荘というところでした。

 さて,準備ができたのでいよいよ出発です。途中どこに寄るかは行きながら決めることにしました。5月に山形に行ったときもそうだったのですが,事前に決めておいてもうまくいけるかどうかわからないし,そもそも,いろいろ調べるのが面倒だったからです。
 しかし,行ってみてわかったのは,もともと観光客が少ないところなので,事前の予約がないと利用できない施設などがあったということでした。しかし,それは止むを得ません。まあ,またいつか行くこともできるだろうから,そういうところはその次の機会でいいや,と思いました。ところが,これがまた,望外な結果を生んだのです。このことはまた後日。

 「ドレスデン国立古典絵画館所蔵フェルメールと17世紀オランダ絵画展」のことはすでに書いたので,今日は,その前に時間つぶしに寄ってみた四天王寺と竹本義太夫の写真を紹介します。
 私は,東京や京都はほとんどのところに行ったことがあるのですが,大阪は意外なほど知りません。四天王寺も行ったことがないので,寄ってみたわけです。
 入口で石鳥居が迎えてくれました。これは,鎌倉時代の1294年(永仁2年)に四天王寺の別当となった忍性が再建したもので,現存する最古の石造鳥居だそうです。
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 四天王寺は「和宗」の総本山の寺院で,山号は荒陵山,本尊は救世観音です。「和宗」というのは,聖徳太子の「十七条の憲法」の第1条「和をもって貴しとなす」からとったもので,特定の宗派に分かれる以前の仏教の伝統を今も守り続けているというものだそうです。
 「日本書紀」によれば,四天王寺は,聖徳太子によって,593年(推古天皇元年)に造立が開始されたといいます。蘇我馬子の法興寺と並び日本における本格的な仏教寺院としては最古のものです。
  587年(用明天皇2年),崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生しました。厩戸皇子は蘇我氏の軍の後方にいましたが,白膠木という木を伐って四天王の像を作り,「もしこの戦に勝利したなら必ずや四天王を安置する寺塔を建てる」という誓願をしました。
 その甲斐あって,味方の矢が敵の物部守屋に命中し,蘇我氏の勝利に終わりました。その6年後,聖徳太子は摂津難波の荒陵で四天王寺の建立に取りかかりました。寺の基盤は物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたといいます。
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  聖徳太子の草創を伝える寺は四天王寺と法隆寺のみです。とはいえ,法隆寺が飛鳥時代・奈良時代にさかのぼる建築や美術工芸品を多数残すのに対して,四天王寺は,早くも平安時代の836年(承和3年)には落雷で五重塔が破損し,960年(天徳4年)には火災によって全山焼失してしまうなど,度重なる災害のために古い建物はことごとく失われてしまいました。現存の中心伽藍は1957年(昭和32年)から再建にかかり,1963年(昭和38年)に完成したもので,五重塔はこれで8代目となり,鉄筋コンクリート造りです。
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 四天王寺から大阪市美術館に戻る途中で見つけたのが超願寺にあった竹本義太夫の墓でした。
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 竹本義太夫は1651年(慶安4年)に生まれ1714年(正徳4年)に亡くなった義太夫節浄瑠璃の創始者です。近松門左衛門の「出世景清」「曽根崎心中」を独特の節回しで語って大当たりをとったことで,以降,浄瑠璃を義太夫節というようになりました。
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 私は竹本義太夫の名前を知っているだけで,浄瑠璃はまったくわかりません。


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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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 「源氏物語絵巻」「鳥獣人物戯画」「伴大納言絵詞」と並ぶ4大絵巻物のひとつとされる国宝・信貴山縁起絵巻は,平安時代末期の絵巻物です。私は,日本史の教科書に載っていてその名を知っていたので,一度は見たいものだと思っていました。しかし,奈良に何度訪れても,なかなか信貴山まで行く機会がありませんでした。それは,数年前についに行くことができた京都と大阪の中間にある岩清水八幡宮や生駒山の宝山寺もまた同様でした。こんなことをしていては,ずっと見る機会がないと思って,今回,訪れることにしました。
 しかし,いつものように,いい加減な私は,この絵巻は,信貴山に行けばいつでも見れらるものだと思っていたのだから,お気楽なことです。確かに信貴山縁起絵巻は信貴山朝護孫子寺が所蔵しているのですが,ホンモノは奈良国立博物館に寄託されていて,朝護孫子寺の霊宝館では複製が展示されているのです。
 なのですが…
 いつも強運の私は,今回もまた,現在朝護孫子寺の霊宝館では特別展が行われていて,ホンモノの信貴山縁起絵巻から「尼公の巻」を見ることができたのです。
 こうして期せずしてホンモノに出会った私は,すっかりこの絵巻に魅せられてしまったのです。絵巻に書かれている人物はとても上手で,その姿から当時の人々の暮らし向きがよくわかり,時間を忘れて見入ってしまいました。私は今回見るまで,信貴山縁起絵巻という名前を知っていただけだったのですが,これを機会として,絵巻物にとても興味がわきました。

 信貴山縁起絵巻は平安時代後期の12世紀頃にかかれたとされます。信貴山の中興である命蓮法師を主人公とした霊験譚で,絵巻は「山崎長者の巻」「延喜加持の巻」「尼公の巻」の3巻からなっています。
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 「山崎長者の巻」は,命蓮法師が神通力を行使して山崎の長者のもとに托鉢に使用する鉢を飛ばしたところ,その鉢に校倉造りの倉が乗って倉ごと信貴山にいる命蓮法師の所まで飛んできたという奇跡譚です。
 今は昔,信濃国に命蓮法師がいました。奈良の東大寺で受戒をしたのち,「故郷へ帰るよりもこのあたりで仏道に励みながらゆったりと暮らせる場所はないものだろうか」とあたりを見回すと,未申の方角にはるかに霞んで見える信貴山があったので,その山に毘沙門天を祀る堂を建て修行に励みました。
 命蓮法師は法力で鉢を麓の長者の家へ飛ばしその鉢に食べ物などを乗せてもらっていました。ある日,鉢をいつものように長者の家へ飛ばしたところ,長者は「いまいましい鉢よ」と言って鉢に食べ物を入れることもなく倉の隅に放っておきました。長者は鉢のことを忘れて倉の鍵をかけてしまいましたが,やがて,倉がゆさゆさと揺れ始めたかと思うと地面から一尺ほども浮き上がり,倉の扉がひとりでに開き,鉢は浮き上がった倉を上に乗せると山のかなたへ飛び去って,命蓮法師の住房の脇に落ちました。
 長者は命蓮法師に面会し,「鉢を倉の中に置き忘れたまま鍵をしてしまったところ倉がこちらへ飛んできてしまったのです。なんとかこの倉を返していただけませんか」と相談したところ,命蓮法師は「飛んで来た倉はお返しできかねるが,倉の中味はそっくりお返ししましょう」とこたえました。長者が「一千石もある米をどうやって運べばよいのでしょう」と問うと,命蓮法師は「まず米一俵を鉢の上に置きなさい」と言いました。すると一俵を載せた鉢が飛び立ち,残った米俵も続いて次々と舞い上がり長者の家に落ちたのでした。
 空飛ぶ倉を人呼んで「飛倉」といいます。
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 「延喜加持の巻」では,命蓮法師の加持祈祷の力で病いが平癒した醍醐天皇の使者が命蓮法師に対面し,僧位や荘園を与えようと言いますが,命蓮法師はそれを固辞します。
 都では醍醐天皇が重い病に苦しんでいましたが,さまざまの祈祷や修法,読経をしても全く効き目がありません。ある者が「信貴山に住む命蓮法師を召して祈祷させれば帝の病も癒えることでありましょう。」と言うので,ならばということで,帝の使者の蔵人が信貴山へ行き命蓮法師に面会しましたが,命蓮法師は山を下りず,信貴山に居ながらにして祈祷するとこたえました。「それでは帝の病が癒えたとて,それが貴僧の祈りの効き目であるとどうやってわかるのか」と蔵人が問うと「帝の病が癒えた時には「剣の護法」という童子を遣わしましょう。剣を編み綴って衣のようにまとった童子です」とこたえました。
 それから3日ほど経て,帝が夢うつつでまどろんでいると,きらりと光るものがやってきました。これが法師の言っていた「剣の護法」でした。帝の病はすっかり癒え,帝は「感謝のために僧都,僧正の位を与え,荘園を寄進したい」との帝の意向を伝えるために信貴山へ使いを走らせたのですが,命蓮法師は「僧都,僧正の位などは拙僧には無用です。また,荘園などを得ると管理人を置かねばならず仏罰にあたりかねない」と言って,それを固辞しました。
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 「尼公の巻」では,信濃国から姉の尼公が信貴山まで命蓮法師を訪ねてやって来ます。
 信濃国に命蓮法師の姉の尼公がいました。東大寺で受戒すると言って出て行ったきり戻ってこない命蓮法師に一目会いたいものよと思った尼公は,奈良をめざして旅に出ました。道行く人に命蓮法師の消息を尋ねるのですが,知っている人もいないので,東大寺大仏の前で「なんとかして弟の命蓮法師の居所がわからないものか」と一夜祈り続けました。すると,夢に「未申の方に紫の雲のたなびく山がある。そこを訪ねてみよ。」という声が聞こえました。目覚めて未申の方をみると,紫の雲のたなびく山がはるかに霞んで見えるではありませんか。
 尼公は信貴山に着き「ここに命蓮はおるか」と声をかけると,堂から命蓮法師が顔を出します。「どうしてここを尋ねあてたのか」と問う命蓮法師に,尼公はみやげに持ってきた衲という衣料を渡します。今まで紙衣一枚で寒い思いをしていた命蓮法師は喜んでこの衲を着ました。その後,姉の尼公も信濃へは帰らず,命蓮法師とともに仏に仕える生活を送りました。
 衲は命蓮法師がずっと着ていたためにぼろぼろになって,倉に納められていました。人々はその衲の切れ端を争って求め,お守りにしたのでした。飛倉も時が経って朽ちてしまいましたが,朽ちた倉の木片をお守りにしたり,毘沙門天の像を刻んで念持仏にした人は皆金持ちになったといいます。朝夕参詣者でにぎわう信貴山の毘沙門天はこの命蓮法師が修行して感得した仏です。
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 こうして調べていくと,さらにこの絵巻のおもしろさがわかって,また,ゆっくりとホンモノをすべて見てみたいと思うようになってきました。こうして,私は,いつも,ますますやりたいことしたいことが増えてきてしまうのです。

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 私が奈良でもっとも好きな散歩道は,唐招提寺から薬師寺にかけての界隈と,新薬師寺界隈です。唐招提寺から薬師寺にかけての界隈は,発展? しすぎて,以前のような素朴さがなくなってしまいました。しかし,新薬師寺界隈は,今もなお,以前と同じ静けさと上品さを残しています。
 私は,学生のころから,新薬師寺という名前を不思議に思っていました。
 同じことを思っている人が多いらしく,薬師寺と新薬師寺の違いといったブログも探せばたくさん出てきます。新薬師寺の「新」というのは「新しい」ということでなく,「あらたか」という意味で,新薬師寺が薬師寺のVer.2ということではありません。「薬師寺」は,飛鳥にあった「元薬師寺」のVer.2ですが,「新薬師寺」とはつながりがありません。

 新薬師寺の創建は747年の天平時代で,聖武天皇の眼病平癒を祈願して建てられたといわれています。
 創建当時の新薬師寺は南都十大寺の一つとして繁栄し,その伽藍は壮大であったといわれています。ふたつの塔や金堂などが存在しました。奈良時代以降は次第に衰退し,災害などで多くの建造物が失われました。現在の本堂は奈良時代のものですが,もともとの本堂でなく,残った建物を本堂としている状態です。そこで,今は寺としては規模も小さく,伽藍としてはほかになにもないのですが,その小さなお寺は美しい境内が心休まります。なかでも,その圧倒的な存在が,本堂内部にある本尊薬師如来坐像とそれを取り囲み守護する十二神将像です。暗がりの中にみせるその圧倒的威容に見とれると,時間を忘れてしまいます。この十二神将像は,現在の高円山周辺にあったとされる岩淵寺にその由来を持つともいわれているそうです。
 私がこれまでに見て感動した仏像がふたつ。それは京都広隆寺の弥勒菩薩像とかつて京都勝持寺にあって現在は勝持寺のとなりの願徳寺にある如意輪観音像ですが,ここの薬師如来坐像と十二神将像もまた,それと同じくするものでした。

 この大好きな界隈は東大寺から南に歩いて行くとあります。
 人だらけでごった返す奈良公園を過ぎると,急に静寂が訪れます。数年前,この雰囲気を味わおうと行ってみたのですが,あいにく,新薬師寺は改修工事で入ることができませんでした。今回は,それも終わり,昔の面影が戻っていました。
 この辺りでいいことは,しゃれたカフェがあることです。
 特に平日の午後,時間を忘れて,このあたりを散策し,カフェでゆったりと時間を過ごすのは格別です。そんな場所がいつまでもそのままであってほしいと願うばかりです。
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 春日山から飛火野辺り
 ゆらゆらと影ばかり泥む夕暮れ
 馬酔木の森の馬酔木に
 たずねたずねた帰り道
    さだまさし「まほろば」

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Thank you for coming 280,000+ blog visitors.

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 興福寺の広い境内は,ここの駐車場に停めた観光バスから降りてきた団体客でにぎわっています。しかし,その多くは東大寺の方向に向かって歩いて行くので,思ったほどの混雑ではありません。
 興福寺には五重塔と三重の塔のふたつの塔があります。知らない人も多いのですが,塔というのは本来は仏舎利をおさめるためのものですが,実際は,それに倣った別のものがそのの代わりをしています。

 興福寺の五重塔の初代は730年(天平2年)に興福寺の創建者である藤原不比等の娘光明皇后が建てたもので,その後5回の被災・再建を経て,現在建っているのは1426年(応永33年)というから室町時代に再建されたものです。高さは約50メートルで,初層の四方に創建当初の伝統を受け継ぐ薬師三尊像,釈迦三尊像,阿弥陀三尊像,弥勒三尊像が安置されています。

 一方,三重塔は1143年(康治2年)に崇徳天皇の中宮が創建したのですが,1180年(治承4年)に被災,その後間もなく再建されたもので,北円堂とともに興福寺最古の建物です。高さは約20メートルあって,初層内部の四天柱をX状に結ぶ板の東に薬師如来像,南に釈迦如来像,西に阿弥陀如来像,北に弥勒如来像が各千体,さらに四天柱や長押,外陣の柱や扉,板壁にも,宝相華文や楼閣,仏や菩薩など浄土の景色,あるいは人物などが描かれているのですが,通常は閉じられて見ることができません。ところが,この日,なんとその扉が開かれていて,私はそれを見ることができました。扉が開いていたのはどういう理由なのかはわかりませんが,とても幸運なことでした。
 しかし,そんなことはお構いなくオーストラリアから来たという夫婦と地元に住むという女性がいただけで,ほとんど見にきている人はいなかったので,それを承知の人もいないように思われました。地元に住んでいるという女性も,いつも閉じられているのに珍しいですね,どうして開いているのでしょう,と言っていました。夕刻に再び行ってみたときには閉じられていたので,やはり,かなり運がよかったのかもしれません。

 元来,日本における塔は,法起寺のそれのように,屋根が大きく,そして傾斜が緩やかだったのですが,それでは雨が掃けないということで,再建されるたびに屋根が小さく傾斜がきつくされていったようです。興福寺の五重塔も三重塔も新しいので,法起寺とはまったく異なる形をしています。
 そのことがよくわかるのが薬師寺の東塔と西塔です。興味深いのは,古いほうの東塔が屋根の傾斜がきつい再建されたものであるのに対して,近年再建された新しい西塔のほうが,初代のものを模したためにむしろ古い形に作られていることです。薬師寺に行って比べてみるのも一興ですが,現在,東塔は改修工事中で見られないと思います。

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 法輪寺は三井寺ともよばれる聖徳宗の寺で,法隆寺東院の北方に位置します。
 創建は,「聖徳太子伝私記」では,聖徳太子の子である山背大兄王が太子の病気平癒を祈るため,622年(推古天皇30年)に建てたとし,「上宮聖徳太子伝補闕記」および「聖徳太子伝暦」では,創建法隆寺の焼失後に百済の開法師,円明法師,下氷新物の3人が建てたとする,ふたつの説があります。いずれにせよ,発掘調査で,焼失後再建された現在の法隆寺の伽藍に近い瓦と,それよ古い瓦とが出土していることから,創建は飛鳥時代末期の7世紀中頃までさかのぼると考えられています。
 1367年(貞治6年)に炎上,また,1645年(正保2年)には台風に罹災し,三重塔を除く建造物が倒壊しました。その後,伽藍の復興が行われ,さらに,1760年(宝暦10年)には,三重塔が修復されました。しかし,1944年(昭和19年)に三重塔は落雷により焼失してしまいました。焼失した塔は,法隆寺,法起寺の塔とともに「斑鳩三塔」とよばれた貴重な建造物でした。
 現在の三重塔は,幸田文の尽力で寄金を集め,1975年(昭和50年)に西岡常一棟梁により再建されたものです。「五重塔」の作者である幸田露伴の娘幸田文は,1904年(明治37年)に生まれ1990年(平成2年)に亡くなった随筆家ですが,1965年(昭和40年)の夏,法輪寺井上慶覚住職から焼失した三重塔の再建について話を聞いたことをきっかけに,自らも奈良に移り住み,三重塔の再建に尽力しました。

 奈良の古寺を歩くと,私は和辻哲郎が20代の1918年(大正7年)に書いた「古寺巡礼」を思い出します。和辻哲郎は,1889年(明治22年)に生まれ1960年(昭和35年)に亡くなった哲学者です。法輪寺に関する記述は,この「古寺巡礼」とともに,「四十年前のエキスカージョン」にも見つけることができます。
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「古寺巡礼」
 中宮寺を出てから法輪寺へまわった。途中ののどかな農村の様子や,蓴菜の花の咲いた池や,小山の多いやさしい景色など,非常によかった。法輪寺の古塔,眼の大きい仏像なども美しかった。荒廃した境内の風情もおもしろかった。鐘楼には納屋がわりに藁が積んであり,本堂のうしろの木陰にはむしろを敷いて機はたが出してあった。
  ・・
「四十年前のエキスカージョン」
 幸いにそのあとわたくしたちは,法隆寺の裏山の麓を北へ歩き出したのである。いかにも古そうな池や,古墳らしい丘などの間を北へ七八町行くと,法輪寺がある。法輪寺の観音は奈良の博物館に古くから出ているが,それとよく似た本尊のある寺である。その法輪寺から東へ七八町,細い道をたどって行くと,法起寺がある。古い三重の塔がある。
  ・・・・・・
 法輪寺の荒廃ぶりを愛でていた和辻哲郎は焼失前の三重塔を見ていたわけです。

 法輪寺と法起寺はほんの500メートルほどしか離れていないので,法起寺から法輪寺の三重塔が見えるかのように思えますが,林などの陰に入ってしまって歩いている道から見ることはできません。しかし,稲刈りの終わった田園風景はとてものどかで,さらに,この夏の酷暑で咲くのが遅れたコスモスがまだ満開で,それがこの日の快晴の空に映えてとても美しく,私は,忘れていた奈良への想いがまたよみがえってきました。

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 私が今回奈良に行って,とてもうれしかったのは,私が思い続けていた奈良が今もあったことでした。オーバーツーリズムで日本もまたどこも観光客であふれ,そこには,ただ有名だから来たといった無知な人がそれまでの情緒を踏みにじってしまっている場所も少なくありません。私が,京都や奈良,高山といった場所から遠ざかってしまったのは,それが原因でした。しかし,実際に行ってみると,奈良にはまだ多くのそうしたオーバーツーリズムに毒されていない場所が残っていたのです。
 そうしたなかでも,私がずっとイメージしていたのは,秋の法起寺あたりの風景。昔はじめて出かけて以来,虜になっていました。幸い,この日は天気もよく,しかも11月というのに暖かく,周りにはコスモスが咲き乱れていて,私が思い続けていたその姿を見ることができました。

 「斑鳩三塔」といって,奈良斑鳩の地には飛鳥時代から奈良時代以前に建立された法隆寺の五重塔,法起寺と法輪寺の三重塔があります。最も古く,かつ,規模が大きい法隆寺の五重塔はあまりに有名ですが,私はそれよりも,法起寺と法輪寺の三重塔がすきです。しかし,法輪寺の三重塔は落雷のために焼け落ち,1975年(昭和50年)に再建したものです。
 法起寺の三重塔は706年(慶雲3年)頃に完成したもので,高さ24メートル,三重塔としては日本最古のものです。この塔は江戸時代の延宝年間(1673年から1681年)の修理で大きく改造されていまっていましたが,1970年から1975年の解体修理の際に,部材に残る痕跡を元に創建当時の形に復元したものです。

 斑鳩の地に行くと思い出すのが,深代惇郎さんのことです。深代惇郎さんは1929年(昭和4年)に生まれ1975年(昭和50年)に46歳で急性骨髄性白血病で急逝した朝日新聞の記者です。1973年から1975年に入院するまで「天声人語」の執筆を担当していました。深代惇郎さんが書いた最後の天声人語は,「かぜで寝床にふせりながら,上原和著「斑鳩の白い道のうえに」という本を読んだ。・・・いつかもう一度、法隆寺を訪ねてみたい」と結ばれていて,これが絶筆となりました。
 「斑鳩の白い道のうえに-聖徳太子論-」というのは,美術史家で成玉虫厨子研究をライフワークとした上原和さんの著作です。斑鳩の白い道のうえを黒駒を駆って戦さに赴く聖徳太子の姿から,若き日の多感な太子の「血塗られし手」の経験こそ彼の人生の原点とみて,同時に法隆寺創建や勝鬘経講経など深く仏教に帰依した姿を玉虫厨子に描かれてある「捨身飼虎」図と重ね合わせ,そこにまぎれもない捨身の思想を見出すという,歴史の転換期を生きた一人の古代知識人・聖徳太子の華麗にして哀切な運命を描いた本です。
 日本を旅するというのは,今の姿からこうした歴史を思い浮かべることなのです。

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 毎年出かけていたように思っていたのですが,3年ぶりの正倉院展だったようです。
 正倉院展,混雑しすぎです。人の頭を見にいくようなものなので,私はあまり気乗りがしません。毎年同じように展示がしてあるのですが,もっと展示法を工夫して,ゆっくりと見ることができるように改良すればいいのにといつも思います。
 しかし,ついでに奈良のさまざまなところにいくことができることと,秋というもっとさわやかな時期だということが後押しします。
 奈良というのは混雑するのが奈良公園周辺だけだということを考えてみても,この地を訪れる人の多くは,さほど歴史など興味がないのでしょう。おそらくは,正倉院展もまた,それほど興味もない人が,やれ〇〇ブームだとかいうとワーッとそれに群がる人たちが支えているのでしょう。
 地元の人に聞いてみると,平日の夕方に行くと比較的空いているということだったので,今年は11月5日,連休後の平日の午後3時くらいに行ってみました。待ち時間はほとんどなく,これならいいか,と思いました。展示品に対する説明会も聞くことができました。

 正倉院に保存されているもので,有名なものというのは,それほど多いものではありません。有名なものというのは,学校の歴史の教科書で見たことがあるものとか,さまざまな形でどこかで聞いたことがあるもののことです。毎年,そのうちのひとつかふたつをその年の目玉商品? として小出しにして展示しているわけです。おそらく,10年も通えば,そのほとんどは見ることができることでしょう。
 ここで,そうした有名なものを書いておくことにします。
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●「瑠璃の坏」
 22個のガラスの輪の装飾が施されたペルシャ・ササン朝からもたらされた宝物。
●「白瑠璃碗」
 円形の文様が約80個あり,隙間なく敷き詰められたデザインをしているガラス細工。
●「漆胡瓶」
 水瓶。
●「螺鈿紫檀五絃琵琶」
 制作された中国にも現存していない正倉院だけに現存している琵琶。
●「金銀平脱背八角鏡」
 中国の工芸技術が惜しみなく注ぎ込まれた鏡。
●「平螺鈿背円鏡」
●「金銀花盤」
 東大寺の重要な法要で使用されていた皿。
●「紫檀木画槽琵琶」
 正倉院を代表する琵琶。
●「桑木木画碁局」
 碁盤。
●「蘭奢待」
 香木。
  ・・・・・・
 このように並べてみると,そのほとんどを私は正倉院展ですでに見たことがあります。このなかで今年展示されているのは「金銀花盤」です。

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 2019年もやっと秋の気配が感じられるようになった11月4日と5日,1泊で奈良に行ってきました。奈良に行くのは3年ぶりのことでした。
 私はこのところの「オーバーツーリズム」とやらで観光客が多すぎてすっかり嫌気がさし,京都や奈良に出かけるのは敬遠していたのですが,奈良は奈良公園から外れるとそれほどでもないよ,という周囲の言葉を信じて,出かけることにしました。いざ,出かけるときになって,すっかり忘れていたのですが,ちょうど正倉院展をやっている時期だと思い出して,合わせて,それも予定に加えることにしました。
 結果として,やはり奈良は奈良公園から少し外れると,ほとんど観光客がいなくなって,昔の奈良のままでした。これなら毎年この時期に来てもいいかなと思い直しました。私は昔から秋の奈良が好きでしたが,行くときはほぼ毎回日帰りで,しかも,いつも車でした。しかし,私は,車でなく近鉄を使って,しかも,1泊するのがずっと夢でした。ということで,今回はその夢を実現するために,往復近鉄を利用し1泊することにしました。幸い,天気にも恵まれて,最高の奈良の旅となりました。
 そこで,今回から,思いつくまま,この旅をふりかえってみることにします。

 私が今回行きたかったのは,信貴山や斑鳩の里です。斑鳩もまた,法隆寺ではなく,法起寺や法華寺でした。さらに,新薬師寺やささやきの小径といった,私の大好きな場所でした。そして,それ以外には,奈良県庁の最上階から奈良を一望したいと思いました。何度出かけても,そうすることを忘れてしまっていたからです。
 奈良というのは京都と違って,どこも行くのも,結構離れていて不便なのです。それもあって人が少ないともいえます。私は歩くのは苦でないし,むしろ好ましいのです。 
 今日はまず,奈良県庁最上階から見た奈良の姿をご覧ください。
 私の好きな歌に,
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 やまとはくにのまほろば たたなづく青がき山ごもれる やまとしうるはし
  ・・
 大和の国は国々の中で最も優れた国だ。重なり合って青々とした垣のように国を囲む山々…。その山々に囲まれた大和はほんとうに美しい。
 Yamato(=Nara) is the best place in Japan. Yamato surrounded the mountains like the blue fences overlapped with green trees is really really beautiful.
  ・・・・・・
があります。この歌は「古事記」には倭建命の歌として,そしてまた,「日本書紀」には大足彦忍代別天皇(景行天皇)の歌として,
  ・・・・・・
 夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯
 夜麻苔波 區珥能摩倍邏摩 多々儺豆久 阿烏伽枳 夜麻許莽例屡 夜麻苔之于屡破試
  ・・・・・・
として記されているものです。
 快晴の空の下,奈良の昔の姿を思い浮かべると,古人にとって,やまとはほんとうにうつくしかったんだろうなあ,と思いました。

 奈良のよいところは,観光化されていなくて自然が残っている,貸自転車で古墳や遺跡をまわれるのがよい,といったことが書かれてありました。反対に至らないところは,回るのに時間がかかる,店が閉まるのが早い,ということだそうです。どちらにせよ,ここに書かれているのは端的にいうと「奈良は京都に比べれば田舎」ということに尽きるわけで,それを長所ととるか短所ととるか,という話でしょう。つまり,何の目的で観光するのか,というひとそれぞれの問題なわけです。
 ただし,奈良といっても様々で,奈良市を奈良と思っている人もいるし,昔私の好きだった西大寺の駅から南に唐招提寺と薬師寺に行くあたりを奈良と思うのなら,まったく別の感想になりそうです。また,甘樫丘のあたりは奈良としては格別なところですが,そこはもう観光地というよりも歴史好きの散策コースです。いずれにしても,奈良の魅力もまた「旅はこころでするもの」という感じで,歴史を知らねばただの小川やらため池としか思えない場所がそれを知っていると燦然と輝いていたりするのです。

 つまり,日本であれ海外であれ,「旅=グルメ,ショッピング」と考える人は奈良に行こうと京都に行こうと,あるいはハワイに行こうと,結局のところ食べ物がおいしいお店や「か~わいい~」~を連発する女性が好きそうな土産物さんがあるかどうかというのが判断の基準だし,それは私の考える旅とは別の人種です。
 したがって,観光地としての奈良をこの先,どのように開発するか,あるいは保存するか,というのが難しい問題でしょう。私個人としてはあまり観光地化してほしくないのですが,何でもお金を儲けれればいい,というせこい日本人は保全などど~でもよくて人が来てお金を落としてくれればそれでいいわけす。

 ところで,奈良と京都と比べたとき,「奈良は仏像,京都は庭園」とか,「奈良の寺は地,京都の寺は畳」とか,「奈良は心のふるさと,京都は憧れの街」という印象だそうです。
 いずれにせよ,奈良があって京都がある,平城京が平安京に遷都されたおかげで,奈良時代以前の日本の姿が残ったと考えると,平安京に遷都した桓武天皇に感謝しなくてはならないのかもしれません。

◇◇◇
奈良か京都か?①-日本の旅はこころでするもの
奈良か京都か?②-京都の好きなことと嫌いなこととは?

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 12月16日の朝日新聞のBe版に「奈良と京都,訪れたいのはどっち?」という記事があって,結果は奈良が39%で京都が61%でした。奈良も京都もガイドブックに載っている見どころはすべて行ったことがある私としてもこれには書きたいことが山ほどあるので,思いつくままに書いてみたいと思います。

 私は,どちらといわれると文句なく奈良と答えます。しかし,名古屋近郊に住む私としては,奈良は非常に遠いのが最大の難点です。距離的には遠くないのですが,交通がとても不便なのです。ずっと以前,名古屋からはJRの急行が奈良駅まであって,これは便利で,日帰り旅行ができました。今,鉄道で行くとなると,新幹線を使って京都を経由していくか,あるいは,近鉄で行くかということになるのですが,近鉄は奈良市まで行くにはぐるりと遠回りする必要があるのです。
 車は名阪国道というのがあるのですが,この道路は高速道路でもなく,一般国道でもない,という非常に中途半端な道で,おそらく,もっと後で作られていたのなら,いまよりもずっと走りやすいように建設できたと思うのですが,いまさらどうにかなるものでもなく,しかも,この道路,制限速度などあってないようなもので,無法地帯なのです。特にトラックが危険です。というわけで,鉄道にしても車にしても,行くのが楽しくないのです。

 新聞の記事には,さらに「訪れたい観光名所は?」というのがあって,有名なお寺が羅列されていました。確かに奈良や京都に出かける観光客のお目当てはそうした場所なのでしょうが,私としては,もちろん,そうした場所も見どころにはちがいないのですが,それよりも,その土地の町を歩いたり,地元の人が行くような食事処などで時間を費やすことのほうに魅力を感じます。そうしたとき,記事にもあったように,このごろの京都はあまりに観光客が多すぎて,これではまったく旅情がなくなってしまいました。
 日本の旅はこころでするもの,とは,私がいつも書いていることですが,そう考えると,「万葉集」や「日本書紀」をこころに描いて奈良の普通の町を散策することこそ,最も落ち着く旅になると,これは私がずっと思っていることなのです。

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 唐招提寺から平城京跡まではバスで3区。寺の前のバス停にちょうどバスが来たので,歩く計画を変更してバスに乗りました。

 子供のころ学校で習った日本の歴史で出てきた史跡,弥生時代の登呂遺跡,聖徳太子の法隆寺,平城京,平安京… は,それを知って以来,そのどこへも一度は行ってみたと思っていたのですが,その後何十年も経つと,様々な研究がすすみ,発掘も行われて,ずいぶんと変化しました。
 私は,平城京とか,織田信長の作った安土城とか,そういう巨大な建築物が,わずか数年~数十年の間に完成したとはとても思えません。もし,その時代に行けたとすれば,現在のわれわれが復元したようなものは,作りかけだったり不完全なものだったりしたに違いがないと思うのです。しかしそれにしても,その時代の遺構がさまざなま形で現在もなお存在することに,不思議な気がします。

 今は京都の市街地となってしまった平安京とは違い,平城京の中心地はその後も市街地とならなかったために,発掘調査をしたり,復元したりして,再び姿を見せようとしています。
 ただし,現在の京都御所を平安京の時代の大極殿と思っている人もいるかもしれませんが,それは大間違いです。その時代の中心は現在の千本通りです。
 私は大学生のときに平城京跡をはじめて見て,敷地のまんなかを近鉄が横切っていることも驚きだったし,広大な平城京跡が,今もその時代の面影を残していることにも驚きました。

 その後,整備がすすみ,朱雀門や大極殿が復元されたということで,私はそれらを見たときは感動しました。
 以前,九州の吉野ケ里遺跡に行ったときにも同じことを思いましたが,国の予算が入ると,これほど大規模な整備ができるのですね。しかし,こうした国の歴史の根幹をなすものにはもっと多額の予算を講じてもいいのに,と私は思います。
 平城京は奈良時代の日本の首都だったのですが,中央の朱雀大路を軸として右京と左京に分かれていたのですが,さらに左京の傾斜地に外京が設けられていたのが平安京と違うところで,そのため左右対称でなく,子どものころはそれがずっと奇妙でした。しかし,外京にある東大寺へ行って平城京という地をその高台から見下ろす形で見たときに,その場所に外京を作る必要があった理由がわかったような気がしました。
 平城京は東西は一条から十条の大路,南北には朱雀大路と左京一坊から四坊,右京一坊から四坊の大通りが設置されていてそれぞれの大通りの間隔はなんと500メートル以上,大通りで囲まれた坊とよばれる場所は堀と築地によって区画され,さらにその中を東西・南北に3つの道で区切って町としていました。その区域は東西が約4.3キロメートル,外京を含めると6.3キロメートル,南北が約4.7キロメートルにも及ぶものでした。
 その大路を,役人が中国語を話しながら歩いていたと,大学の日本史で習いました。

 内裏は朱雀大路の北端に位置し,そこに朱雀門が設置されていました。朱雀門の北には大極殿があって,このふたつの建物が復元されているのですが,その広さは歩いてみると実感します。
 仮想敵国中国に対抗するには,これくらいの「見栄」が必要だったのでしょう。
 平城宮の東の張り出し部分には奈良時代の東院庭園が発見されましたが,それは東西70メートル,南北100メートルにもわたるもので,そこには池を掘り橋をかけ建物を建てていたということです。
 また,唐招提寺の講堂は平城宮朝堂院にあった建物のひとつである東朝集殿を移築したものであり,平城宮唯一の建築遺構としても貴重なものとされています。

 現在,文化庁による「特別史跡平城宮跡保存整備基本構想」に基づいて遺跡の整備と建造物の復元が進めています。そこで,この地を広く知らせる意味で,毎年平城京天平祭が開催されています。
 2006年にはそれまで朱雀門の南側だけを会場としていたものを「平城宮跡院地区」に移すことになりました。
 私が行ったときは,ちょうどこの年の平城京平安祭の時期であり,会場では,衛士隊の再現やらオリジナル劇「阿倍仲麻呂伝 ・天空の月」をやっていました。天平衣装体験という企画もやっていて,その企画で衣装を来た人たちがこの劇を見ていたのが,面白い風景となっていました。
 劇は,阿倍仲麻呂や吉備真備らが遣唐使に任命され日本国の代表として唐の国にわたり異国文化を学び日本国の発展に役立つ人生模様を描くいたものだったのですが,私は若いころと違って,人間が生きるというのは今も昔も不自由で大変で苦労ばかりだったんだなあと,歴史にロマンを感じるよりもむしろ生きることの不条理と苦痛を感じてしまうのです。

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 薬師寺を訪れたあと,歩いて唐招提寺へ向かいました。
 その道すがら,私のこの日の関心事は正倉院展以上にMLBワールドシリーズの最終戦でした。スマホで始終ゲームの進行をチェックしては興奮していたので,今いる場所が古都奈良なのかはたまたイリノイ州シカゴなのか,といった状況だったのですが,カブスの優勝が決まったちょうど同じころ,唐招提寺に到着しました。

 唐招提寺といえは鑑真,鑑真といえば戒壇ですが,高等学校の日本史の教科書には次のように書いてあります。
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 日本への渡航にたびたび失敗しながら,ついに日本に「戒律を伝えた」唐の鑑真らの活動も,日本の仏教の発展に寄与した。
 当時,正式な僧侶となるには,得度して修行し,さらに「戒を受けること」(受戒)が必要とされたが,受戒の際の正式な戒律のあり方を鑑真が伝えた。鑑真はのちに唐招提寺をつくり,そこで死去した。
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 私は,高校生のころに,この文章を読んでもさっぱりわかりませんでした。第一,「戒律を伝えた」ってどういうことなのでしょう?
 私は今ではすっかり考え方が変わったので,読んでもわかりもしないような難解な教科書を作って,しかも一社がシェアのほとんどを占めて,それを生徒に与えるのは学校教育が間違っていると思うようになったのですが,以前は,この小難しい日本史の教科書こそ日本人のバイブルだと信じて疑いませんでした。
 しかし,高校生の私はさっぱりわからないにも関わらず,妙に「鑑真」「唐招提寺」「戒律」という言葉がずっと気になっていました。また,当時の私は今と違ってものすごく日本史が好きだったので,大学生になったとき,さっそく憧れの唐招提寺に行きました。

 「戒律を受ける」とは仏教の戒を受ける儀式のことだそうです。といわれてもさらにさっぱりわかりません。
 そこでさらに調べてみました。
 自分がそれまでに行った悪を懺悔して心をきよめ,沐浴して身をきよめ,清潔な衣服を着けて,高徳の戒師の面前で仏法僧の三宝に帰依する,つまり,不殺生,不盗,不妄語といった「戒の規則」を終身守ることを誓う儀式をすることで受戒が成立し戒体が身に備わる,のだそうです。
 結婚式やら卒業式みたいなものですね。ただし,そこには高徳の戒師さんの立ち合いが必要であるというわけです。
 そして,その受戒を行う場所を戒壇というのです。

 鑑真が来日する以前の日本には戒律を授ける資格をもった高僧,つまり高徳の戒師さんがいなかったので,僧がいくら戒律を守っていたとしても正式には戒律を授かっていないということになりました。
 その当時,多くの日本の僧が朝鮮半島や中国大陸に留学したのですが,正式な戒律を受けていなかったために,留学先では正式な僧とは認められず半人前扱いだったわけです。そこで戒律を授ける資格をもった高僧に来日してもらいたいというのが日本仏教界の悲願だった,というわけです。
 こうした理由で多くの苦難のに来日した高僧の鑑真は,東大寺で5年を過ごした後,この唐招提寺の地に宅地を下賜されて,759年に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開きました。
 当初は講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵,宝蔵などがあるだけでしたが,鑑真和上の弟子のひとりであった如宝の尽力によって現在のお寺が完成したといわれます。
 現在,唐招提寺は南都六宗のひとつである律宗の総本山です。

 この寺にある金堂は,井上靖の小説「天平の甍」でも有名です。
 第9次の遣唐使派遣が決まったのは天平四年(732年)のことでしたが,このときの遣唐使に留学僧として選ばれたのが普照,栄叡でした。戒律が備わっていなかった日本に伝戒の師を連れてくることが二人に課せられた仕事でした。
 栄叡は戒師として名高い鑑真の弟子を何人か連れ帰りたいと考えていました。そのことを鑑真にお願いに行くと,あらんことか鑑真本人が日本へ行くというではありませんか。栄叡は感激し,鑑真を日本へ連れて行くための準備に入り,普照も手伝うことになったのです。
 しかし,日本への渡航は困難を極めました。最初は出航することすらできずに失敗,そして次は船が難破して…。
 これが「天平の甍」のあらすじですが,こうした知識があればこそ,そして,鑑真の情熱と苦労を知ればこそ,この寺の金堂を見上げたときに,その甍を見るだけで先人の苦労が偲ばれて胸がいっぱいになるのです。
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 若葉して御目の雫拭はばや  芭蕉
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 ときは初夏。みずみずしい若葉でもって鑑真の盲いたお目の涙をそっと拭ってさしあげたい。
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 私は今から40年ほどまえ,はじめて薬師寺と唐招提寺に行きました。
 そのとき,近鉄の西大寺を降りてそのまま歩いたのか,あるいは,今回と同じように西ノ京駅で降りたのか,今となってはまったく記憶がないのですが,高等学校で習った,というより授業中はほとんど寝ていたから,自分で教科書を読んで覚えた,ほんものの薬師寺東塔と唐招提寺が隣どうしにあったのが,ものすごく衝撃的でした。

 当時の薬師寺は,今とは違って東塔しかなく,教科書にのっていたこれもほんものの薬師三尊像の安置された金堂は再建されたばかりで,すごく素朴なお寺でした。
 当時の管主であった高田好胤さんが修学旅行生あいてにお話をされていました。
 また,唐招提寺は,何もない薬師寺とは打って変わって,すべてがそろっていて,その気品のある美しさと「伽藍の交響楽」といわれる堂々とした風格で,私は,一瞬にして魅了されました。

 高田好胤さんがやり手で,金堂,西塔から始まって,中門,回廊の一部,大講堂などが次々と再建されていきました。
 そこで,現在まで,この寺は,どこかしかがずっと工事中で,薬師寺は私がはじめて行ったときの素朴な雰囲気が全くなくなってしまいました。
 20年ほど前の暑い夏の日に,再び薬師寺と唐招提寺を訪れたときに,今度は,唐招提寺が解体修理に入ると聞かされて,薬師寺だけでなく,私の好きだった唐招提寺もこれでその素朴な姿をしばらく見ることができなくなるのだなあとものすごくがっかりしたのを思い出しました。

 そして今回。
 唐招提寺金堂の解体修理は終了していて,再び,以前の様子を取り戻していました。
 一方,薬師寺は,今度は東塔を修復工事するということで,すっかり覆いにかけられていました。その美しい姿を再び見られるのは4年先のことだそうです。
 私は,40年前に行っておいて本当によかったと思ったことでした。
 こういう寺の保存・維持は本当に難しいものだと思います。しかし,薬師寺のように,どんどんと新しくなっていくのも,また,考えものでなにかとても残念な気がします。
 唐招提寺に行ったとき,寺の方が,うちは薬師寺のようにはいたしません,と言っておられました。
 話がずれますが,もし,京都の鹿苑寺金閣が燃えていなかったとしたら,現在の金ぴかの建物はなかったわけだし,それでは観光という意味から考えると魅力がありません。だから,そのほうがよかったのかどうかは,私にはよくわかりません。

 今回も,まず,薬師寺に行きました。
 薬師寺は法相宗の大本山です。天武天皇により680年に発願され,持統天皇によって697年に本尊開眼し,更に文武天皇の代に飛鳥の地で堂宇の完成を見ました。その後,平城遷都に伴って718年に現在地に移されたものです。
 20世紀半ばまでの薬師寺は江戸時代後期に仮再建された金堂,講堂が建ち,創建当時の伽藍をしのばせるものとしては焼け残った東塔だけだったのですが,1960年代になると「白鳳伽藍復興事業」が進められ,先に書いたように,1976年に金堂が再建されたのをはじめとして,西塔,中門,回廊の一部,大講堂などが次々と再建されていきました。
 現在の金堂の内陣は鉄筋コンクリートであり,西塔は鉄の使用を極力少なくし木材の乾燥収縮を考慮して東塔より約30センチ高くして再建されています。また,入母屋造だった旧金堂は現在興福寺の仮中金堂として移築されました。
 また,薬師寺の北には玄奘三蔵院伽藍と大唐西域壁画殿が作られて,その内部には平山郁夫画伯が描いた壁画があります。
 このように,今回見られなかった東塔以外には,日々新しくなっていって,創建されたころの面影をしのぶ壮大な寺院となりました。
 ここでの一番の見ものは,やはり,金堂にあった薬師三尊像なのですが,その昔初めてきたときに,金堂の薬師三尊像とならび大講堂にもおなじような弥勒三尊像があって,混乱したのを思い出しました。

 この寺の西側,近鉄の線路の向うに大池があります。この池から薬師寺を写した写真があまりにも有名です。特に明け方は日の出の太陽と東塔が幻想的に池の水に光り,また満月のころは月と塔が同じように浮かび上がります。以前は東塔だけが寂しく,しかし美しい構図で多くの写真が写されました。その後,西塔が作られて,東塔と西塔が並ぶ姿になったのですが,西塔のできた当初はあまりにそれが新しくて,ふたつの塔の違いに違和感さえあったのですが,西塔もまた年月を重ねて,次第によい意味でくすんできました。
 私は残念ながらその写真を撮ったことがないので,ぜひ,4年先,東塔が再び姿を見せたときに,今度は夜明けの大池からの写真をうつしたいものだと思いました。またひとつ楽しみができました。
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 ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲 佐々木信綱
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 今年もまた,正倉院展の季節が来ました。私は11月3日に行ってきました。
 昨年の秋は過ごしやすく天気のよい日が続きましたが,正倉院展に出かけた11月8日だけはめずらしく雨が降りました。しかし,雨が幸いして,日曜日だというのに観光客は少なく,しかも,雨に濡れて色づいた木々がとても美しい1日でした。正倉院展のあとは京都に行って,泉涌寺別院・雲龍院と,京都国立博物館で「琳派・京を彩る」展を見ました。
 あれからもう1年がすぎたのですね。
 今年は正倉院展のあとは,久しぶりに薬師寺と唐招提寺,そして,平城京跡に行くことにしていました。

 昨年も書きましたが,奈良市というのは,名古屋からはアクセスが不便なところです。
 以前はJRで急行「かすが」に乗れば奈良駅まで直行だったのですがそれもなくなりました。現在は,京都から行くか,近鉄で西大寺まで行って戻らなくてはいけません。車は,東名阪自動車道が新名神とつながったせいで四日市付近で慢性的に渋滞するようになってしまいましたが,幸運にもこの日は行きだけは渋滞もなく,スムーズに到着することができました。
 正倉院展の待ち時間が45分とありましたが,それほど待つこともなく,入ることができました。

 今年の見ものは「漆胡瓶(しっこへい)」です。
 丸く張った胴部に鳥の頭を思わせる注口をのせ,裾広がりの台脚と湾曲する把手を備えたペルシャ風の水瓶です。テープ状にした木の薄板を巻き上げる「巻胎技法」によって素地を成形し,全体に黒漆を塗った上に文様の形に切り透かした銀板を貼る平脱技法で山岳や鹿,オシドリなどを施し,広々とした草原に禽獣が遊ぶ様子を表しています。
 西方に由来する器形と,東アジアで編み出された巻胎技法・漆芸技法とが融合した,まさに当時の国際的な交流の産物といえる品ということです。
 高等学校の日本史の教科書に載っているのでおなじみです。

 しかし,それよりも私が興味をもったのは「続々修正倉院古文書第四十六帙 第八巻」でした。
 これは経典の貸し借りや写経所に関係する文書を貼り継いで成巻したもので,その一部に著名な「写経司解司内穏便事」という文書があります。「解」とは上級の役所に提出する上申書のことです。
 書かれていた内容は,写経を行う写経生の待遇改善を具体的に箇条書きにしたもので,紙が少なく書き手が多いので,紙が供給されるまで経師(書写係)の招集を停止すること,装潢(装丁係)と校生(校正係)の食事を改善すること,など全6箇条の要求です。
 写経生の労働環境とそれに対する不満が垣間見える興味深い文書ということなのですが,奈良時代でも,働くというのは今と同じで大変だったのだなあ,と気が重くなりました。日本の「ブラック」企業の源流ここにあり,ということでしょうか。でも,要求できるだけ今よりましかも。
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 さて,私はそんなことは忘れて,正倉院展を見終わってから,中華料理の桃谷樓製の正倉院展記念特別薬膳弁当を所望することにしました。
 昔も今もかわらず,食べることは人生の一番の楽しみであり,喜びのようです。

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 今年の秋は過ごしやすい毎日が続きました。しかも,晴れることが多く,冷房も暖房も必要のない時期がすでに2か月以上続いています。それでも,季節は確実に冬に向かっています。
 そんな秋の1日,暦の上では立冬である11月8日に,奈良と京都へ行きました。
 自他ともに認める晴れ男の私にはめずらしくこの日は雨。しかし,雨が幸いして,日曜日だというのに観光客は少なく,しかも,雨に濡れて色づいた木々がとても美しく,すばらしい1日になりました。さらに,車に乗っているときは雨が結構強く降っていたのですが,車を降りるといつも雨が上がりました。
 出かけた先は,奈良国立博物館で9日まで開催していた恒例の正倉院展,京都非公開文化財特別公開の泉涌寺別院・雲龍院さん,そして,京都国立博物館で11月23日まで開催されている「琳派・京を彩る」展でした。
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 きょうは,正倉院展について書きます。

 奈良市というのは,名古屋からは本当にアクセスが不便なところです。
 電車だと,京都から行くか,近鉄でくるりと西大寺まで行って戻らなくてはいけません。車だと,東名阪自動車道が四日市付近で慢性的に渋滞するようになったので,早朝に出発する必要があります。今回ははじめて,名神高速道路から,京滋バイパス,京奈自動車道と経由して行くことにしました。
 いつも書いていることですが,本当に,日本の道路は無計画に作られていて,今回も,これで事故が起こらないのが不思議だと思いました。
 ともかく,これもまた雨が幸いして,道路は空いていて,名古屋から2時間,9時に奈良市に到着しました。

 毎年,正倉院展に行っているのですが,車で行くときは,9時までに到着して,奈良県庁の駐車場に停めるのが楽です。今回もそうしたのですが,駐車場に停める車も少なく,いつもとは違った状況に,まず,びっくりしました。そして,車を降りて,博物館に行く途中,いつもなら,ものすごい人の行列ですが,それもなく,このことにもびっくりしました。もうひとつのびっくりは,この時期なのに,すっかり木々が紅葉していたことでした。
 今年は,残暑がなかったので,色づくのが早いとは思ったのですが,ひとつ心配だったのは,急に寒くなるという状況でなかったので,紅葉がきれいでない,ということだったのですが,思ったよりも鮮やかでした。

 正倉院展は前売り券を手に入れておくのがスムーズに入るコツです。待ち時間は30分と書いてありましたが,それほど待つこともなく,中に入ることができました。
 今年の「目玉」は,紫檀木画槽琵琶(したんもくがそうのびわ),七条褐色紬袈裟(しちじょうかっしょくのつむぎのけさ),彫石横笛(ちょうせきのおうてき),彫石尺八(ちょうせきのしゃくはち)などでしたが,特にビッグなものはなかったので,見るまでに長蛇の列,といったものがなかったのが幸い?でした。展示品の詳しいお話は,正倉院展のホームページをご覧ください。
 私は,この正倉院展の展示が,これだけ多くの人が訪れるのに,そのことを考慮していないことが不満です。古文書のように平らに置かなくてはいけないものは仕方がありませんが,つるすようなものは,もっと高く展示できないものでしょうか?そうすれば,人の頭で見られないということもなくなります。
 それよりも,NHKEテレの「日曜日美術館」11月1日の番組で正倉院展が特集された最後に,正倉院展が誤って11月6日までと紹介されたのにはびっくりしました。私は8日に行くことにしていたので,一瞬凍りました。

 正倉院展は2時間もあれば十分に見学できるので,その後は,天気がよけれは,東大寺から散策するか,私の大好きな馬酔木の森から志賀直哉旧宅へ向かうか,あるいは,入江泰吉・写真美術館へ行くか,というコースが定番なのですが,今回は,このあと京都へ行くことにしていたので,後ろ髪をひかれる思いで,奈良を後にしました。
 雨の奈良も,また,よきものです。また,こころの中に幸せがひとつ増えました。
 次回は,お馴染みNHKBSプレミアム「京都人の密かな愉しみ」で放送された泉涌寺別院・雲龍院さんのお話です。

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