しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ: 四季のエッセイ

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【Summary】
In 2024, I pursued all my desired travels and classical music concerts, gaining insights into transportation, accommodations, and less-crowded, relaxing destinations. I also learned the importance of venue and seating for enjoying music. For 2025, I look forward to relaxed days and following conductor Nodoka Okisawa.

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 2025年になりました。
 2024年は,行ってみたいところへはすべて行ってみよう,聴きたいクラシックのコンサートはすべて聴きにいこう,と思って実行して,それらはほぼすべて実現することができました。
 これで,おおよそのことは気が済んだので,2025年は,気の向くままの日々がすごせそうです。
 ということで,今日は,これまでに経験してみて,自分なりにわかったことを書いておくことにします。

●旅をすること
 さまざまなとところにいろいろな方法で行ってみて,これまで知らなかった公共交通のこと,宿泊のことなど,いろいろなことがわかりました。
 そしてまた,人が少なく,必要以上に気をつかうことのないところが最もくつろげると知りました。しかし,これが難しいのです。
 ともかく,今は,どこもかも人が多すぎるのです。とはいえ,探せばいいところがあるものです。そのコツは,有名でなく人が知らないところ,観光地化されていないところですが,そうしたところにも,それなりにすばらしいことが存在しています。それを探すのが楽しみです。

●音楽を聴くこと
 2024年は,NHK交響楽団,読売日本交響楽団,東京都交響楽団の3大オーケストラに加えて,神奈川フィルハーモニー管弦楽団,東京交響楽団,新日本フィルハーモニー交響楽団,オーケストラ・アンサンブル金沢,愛知室内オーケストラ,名古屋フィルハーモニー交響楽団,京都市交響楽団のコンサートに行きました。
 その結果知ったのは,音楽を聴きに行くときに考えなければならないのは,どんな曲を演奏するのか,とか,だれが演奏するか,といったこと以上に,会場だということでした。そして,座席でした。これは本当にまちまちで,せっかくすばらしい演奏でも,それを聴く環境が悪いと,よい思いをして帰ることができません。
 さまざまな会場に行ってみて,ここはいい,いろいろな座席に座ってみて,この場所がいい,というところがわかってきたので,これからは,それを考慮することを忘れずに,指揮者とオーケストラ,そして会場を吟味して,引き続き,いい音楽に接していきたいと思っています。
 私の2025年の推しは,指揮者の沖澤のどかさんです。

 今年も楽しい年になるといいな。

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 いまから30年近く前,突然京都に目覚めました。
 ある年の10月に何かのきっかけで京都を訪れました。当時は,紅葉前の京都は観光客も少なく,気候もよく,静寂に包まれていました。私は,京都のすばらしさを知ってしまったのです。京都は,見るもよし,写真をとるもよし,そして,おいしいものを食べてもよし。それまでの私は,日本にこんなところがあるということすら知りませんでした。
 そこで,購入したのが山と渓谷社から出ていた「歩く地図S・京都」というガイドブックでした。そして,この本を片手に,月に1回は京都に行くようになりました。こうなると,何事もすべてやってしまいたい性格から,この本に載っている寺社仏閣にすべて行こうと思うようになりました。
 今では考えられないのですが,冬の寒いときであっても,夏の暑いときであっても,また,雨が降ろうが雪が降ろうが,例外なく,毎月京都に向かうのでした。
 その結果,梅に雪が積もった景色やら,桜満開の風景やら,紅葉のうつくしいライトアップやら,はたまた,春の都おどりやら,貴船の川床料理やら,節分の舞妓さんの豆まきまで,何から何までを体験することができました。
 現在の,インバントでいつ出かけても人混みだらけの状況では考えられないことです。よき月日でした。

 真夏の過酷な日,私は,山科の北にある毘沙門堂へ行きました。
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 護法山安国院出雲寺,通称・毘沙門堂は,山科区にある天台宗の寺院で,山号は護法山,本尊は毘沙門天です。妙法院,三千院,青蓮院,曼殊院とならぶ天台宗京都五門跡のひとつです。ちなみに私はすべて行きました。
 毘沙門堂の前身は出雲寺で,文武天皇の勅願により703年(大宝3年)に行基が開いたといいます。1195年(建久6年)に平親範が平家ゆかりの平等寺,尊重寺,護法寺を統合し,出雲寺の地に護法山出雲寺として再興し,最澄自刻の毘沙門天像を本尊としました。
  1467年(応仁元年)に応仁の乱によって焼失しましたが,1469年(文明元年)に再建され,1571年(元亀2年)に再び焼失してしまいました。 江戸時代初頭,南光坊天海によって復興が開始され,江戸幕府は山科の安祥寺の寺領の一部を出雲寺に与え,現在地に移転・復興されました。毘沙門天を祀ることから出雲寺は毘沙門堂とよばれるようになりました。
 江戸時代初期,111代後西天皇皇子の公弁法親王がこの寺で受戒し,晩年に毘沙門堂に隠棲したことで,以後,門跡寺院となりました。
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 由緒ある寺はすばらしかったのですが,この季節で物足りなかったのが花でした。夏には,梅も桜も藤もカキツバタもありません。
 と思っていたのですが,セミの鳴く寺の入り口で目にしたのが,美しいサルスベリの花でした。今とは違って,当時の私は,花の名前もほとんど知らなかったので,真夏にもこんな花が咲くんだ,と驚きました。それ以来,私には,京都の夏は,サルスベリ,という印象ができあがりました。
 それ以来,毘沙門堂に行くこともなく,また,夏に京都に行くのは五山の送り火だけとなりましたが,私は,そのときの印象が忘れられず,夏になると,五山の送り火とともに,サルスベリの咲く風景が重なるのです。


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Happy New Year 2024.
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 2024年になりました。今年はどんな1年になるでしょうか。
 1年前の今日,「おわりのはじまり」と書きました。
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 テレビもほとんど見なくなったし,新聞や雑誌の類も,恥ずかしいような内容ばかりなので,読む気にならなくなりました。
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 そうした生活にすっかりなじんできたので,かなり世情には疎くなったのですが,それで,何の問題もなかったし,精神的にも健全になりました。現役でない私には,自分に関わりのない情報や自分にはどうしようもできない情報を知ったところで,それは不安になるだけのことで,意味がないのです。そこで,余生は,わずらわしいことは現役世代に任せて,悠々自適,好きなことだけを楽しむのです。
 現代はSNSの時代ですが,SNSとつき合うにもコツが要ります。
 TwitterがXというなじまぬ名前に変わったのですが,それはともかくとして,Xは「おすすめ」は無視して,「フォロー中」だけを見るのがコツです。こうすれば,不快なものを見ることがなくなります。YouTubeもまた,「ホーム」は無視して「登録チャンネル」だけを見ればいいのです。そしてまた,コメントには無礼なものも少なくないので,これもまた,見ないに限ります。いずれにせよ,長年つき合ってきたおかげで,自分にふさわしいものだけがフォローされたり登録されたりしているおかげです。
 それにしても,YouTubeには「外国に比べて日本はすばらしい」という番組がやたらと目につくのですが,そんなことはないですよ。どの国にも,いいところもあれば悪いところもあります。本当にこの国を愛するのなら,自画自賛して,他国を批判して浮かれているよりも,冷静に現状を捉えて,もっとよくしようと考えた方がいいと,私は思います。

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 今もっともやりたいことは,人の少ないどこかに出かけて,時間を忘れ,ゆったりと過ごすことです。今年は,まず,水戸へ行って梅が見たい,そして,佐渡島で飛んでいるトキを見たい,と思って,計画を立て,予約をしました。
 海外は,私がまた行きたいと思うのは,オーストリアとニュージーランドだということが確信できるようになりました。オーストリアでは鉄道で旅したい,そして,ニュージーランドでは車で走りたいのです。
 次に,良質のクラシック音楽をコンサート会場でたくさん聴きたい,ということです。クラシック音楽はとてもこころが休まります。
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と昨年書いたことは,今年も変わりません。
 水戸へ行って梅が見たい,佐渡島で飛んでいるトキが見たい,は実現しました。それに伴って,さらに,行きたいところがどんどんと湧き出てきたのは,うれしい誤算でした。そこで,その後,ずいぶんと多くの場所に行くことができました。日本国内には知らないところがたくさんありました。
 ただし,昨年は海外に行くことはできませんでした。それは,まとまった時間がなかったからです。2023年は,頼まれ仕事をすべて引き受けたことで,ちょっと働き過ぎました。そこで,2024年は,もっと自由な時間を増やして,海外旅行しまくるぞ! と思っています。
 多くのコンサートには行くことができました。2024年で引退する井上道義さんが指揮する演奏会に足繁く通うようになったことで,NHK交響楽団の定期公演に加えて,読売日本交響楽団や東京都交響楽団も聴くことができました。そしてまた,何と,「弓よりも刀が似合う」という石田泰尚さん率いる石田組のコンサートの追っかけもはじめてしまいました。
 コンサートは,そのどれもが上質ですばらしいものでした。2024年も,引きつづき,というより,さらにエスカレートしそうです。もうすでに,多くのチケットを購入してあります。
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 そして,最後に,もっと星を見たい,そして,宇宙に溶け込みたい,ということです。だれもいない深夜に宇宙と会話をするのはすばらしいことです。
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 これもまた,働き過ぎたのが原因で,2023年はほとんど宇宙と会話ができませんでした。これが2023年で最もよくないことでした。今は,再始動に向けて準備中です。

 2023年に悟ったのは,私のような年寄りは時間に追われて生活をしてはいけない,ということでした。仕事であれば,しないと他人が困りますから,たとえ気が乗らないことがあってもすることになります。しかし,仕事から離れて,自分の意思で好きなことをするのは,しなくても他人が困ることはないので,しなくても他人が困ることはないことをするのは,結構たいへんなのです。おっくうになって,しなくてもいいや,と思ってしまうのです。だから,「しなくても困らないこと」をするのは気力がいるのです。その気力こそが,若さの源となるのです。2023年の猛暑にやられてへばってしまった私は,やっとそんなことがわかりました。
 だから,「しなくても困らないこと」をいかに楽しく行うかが,2024年を過ごすためにもっとも大切なことなのです。


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 2023年は夏が異常で,特に,7月から9月は地獄でした。もう秋は来ないのか,と思っていた10月になって,突然涼しくなりました。しかし,あっという間にそんな季節も過ぎ去って,今は12月,師走です。10月,11月は天候にも恵まれて,すがすがしい日々を過ごすことができました。紅葉もまた,思う存分楽しむことができました。
 あれだけ夏が暑いと,少しばかり寒くても感謝です。酷暑の3か月は二度と御免です。来年もそうだとすれば,何か策を考えなければいけません。

 ということですが,食欲のない暑い夏に,唯一,あれだけ食べたかったウナギですが,涼しくなると,まったくその気がなくなるのが不思議なところです。それに対して,食欲の秋,といいますが,秋から寒くなってきた初冬の季節は食がすすみます。豊かな日常を過ごすには,何といっても,おいしいものを食べるに限ります。
  ・・
 私が最も好むのは,味噌煮込みうどんです。私の住む地方では,他県から来る人は「名古屋めし」とかいって,みそかつ,手羽先,ひつまぶしなどを真っ先にあげますが,地元に住む私たちには,何といっても,味噌煮込みうどんです。世の中にこれ以上おいしいものはないのではないか,とさえ思います。
 味噌煮込みうどんは,味噌仕立ての汁でうどんを煮込んだもので,蒲鉾やネギ,シイタケなどの具材がたっぷりと入っています。味噌仕立ての煮込みうどんは各地にあるそうですが,豆味噌仕立ての愛知県のものが特に有名です。かしわや玉子を入れることも多く,かしわとして,名古屋コーチンを使うのが高級品です。
 戦国時代,武田信玄の陣中食であったほうとうが,のちに徳川家に召し抱えられた武田家遺臣によって伝えられたとか,明治時代に一宮市周辺で繊維産業に従事していた女性従業員たちがほうとうを参考にして豆味噌で煮込みを食していたものが伝わったというように,その起源はほうとうにあるようです。
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 また,次に私が好きなのは,菜めし田楽です。こちらは豊橋市の名物です。
 菜めし田楽は,米の飯に大根葉を乾燥させ炊き込んだものと味噌田楽を合わせた料理です。江戸時代初期,尾形乾山の道中記に,現在の豊橋市である吉田宿の隣にある現在の豊川市の御油宿で,菜めし田楽を名物として看板に掲げる店に入ったという記述があるそうで,渥美半島産の大根や三河国産の八丁味噌を用いた菜めし田楽が発祥ではないかということです。
 豊橋市にある文政年間創業の「菜飯田楽・きく宗」が老舗ですが,豊橋の菜めし田楽が有名になったのは明治時代以降ということです。
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 この地方のものではないのですが,スープカレーも好きです。体が温まります。
 スープカレーは,スパイスの香り,刺激,辛みのきいたスープと大振りの具が特徴であるカレー料理です。札幌市に開店した喫茶店「アジャンタ」が1975年ごろに発売した「薬膳カリィ」が原型といわれているそうで,その後,30年ほどをかけて札幌市内を中心に発展し,1990年代から2000年代に大ブームを引き起こしました。また,自分の店のカレーを「スープカレー」と命名したのは札幌市白石に開店した「マジックスパイス」で,これらが「スープカレー第1世代」。そして,第1世代の店に影響を受けて開業した「スープカレー第2世代」の店によって,スープカレーは一般に浸透したといいます。
 私の住む地方では,まだ,提供する店が少なく,食べる機会がなかなかないのが残念です。

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 愛知県稲沢市山崎地区では,晩秋になると,10,000本以上のイチョウが色づき,町全体が黄金色に染まります。 その山崎地区において,毎年11月下旬に「そぶえイチョウ黄葉まつり」が開催されます。
 2023年11月21日。天気がよかったので,ふらりと「そぶえイチョウ黄葉まつり」に行ってみました。  
 この時期は,雨が多い年もあれば,ほどんど雨が降らない年もあります。雨が降らない年は,桜の花とは違って,ずいぶん長い間,イチョウの黄葉を楽しむことができます。しかし,今年は,11月,雨はほとんど降らなかったのですが,夏が長く暑かったので,色づきが遅く,まだ,町全体が黄色く染まる,というところまではいっていませんでした。
 それでも,ここ数年のコロナ禍で自粛ムードが続いた後ということと,何かの話題が欲しいテレビ局が連日放送するので,ものすごい人がやってきました。また,これまでは,この場所に特に広い公園があるわけでもなく,道も狭く,駐車場すらないというありさまだったのですが,2021年,名鉄山崎駅の東側に「祖父江ぎんなんパーク」が開園して,そこの多くの屋台が並んだので,やっと,お祭りにふさわしい場所となりました。「祖父江ぎんなんパーク」では,ぎんなんの,久寿(きゅうじゅ),藤九郎(とうくろう),栄神(えいしん),金兵衛(きんべえ)という代表的な4種が実るイチョウをすべて見ることができます。

 また,稲沢市祖父江町山崎にある祐専寺(ゆうせんじ)という古寺の改装も終わり,きれいになった境内に,樹齢推定250年のイチョウがあって,山崎地区に植えられる品種の原木とされています。「そぶえイチョウ黄葉まつり」の時期は,このお寺の周りにもたくさんの屋台が出て,お祭りムードを盛り上げていました。
 さらに,そこから少し離れた民家に久寿の原木,そして,もう少し北の民家には樹齢200年以上といわれるイチョウの古木があって,どちらも公開されています。祐専寺から歩けば数分の距離なのに,そこまで行く人が少なく,閑散としていました。もったいないことです。
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 稲沢市の町おこしに一役買うのがこのぎんなんです。この時期,4種のぎんなんの食べ比べというもの悪くないのですが,ぎんなんだけではブランド化してもたかがしれているので,多くの人がやってきても,お金が落ちません。どうそれを生かしていくかというのが今後の課題でしょう。今は,何事もイメージが大切なのです。

 ということで,いろいろな工夫がはじまっているのですが,稲沢市の地酒を造っている内藤酒造さんでは,イチョウ花酵母純米酒「プリンセスギンコ」というお酒を販売しています。
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 「プリンセスギンコ」は,イチョウの花から分離した酵母によって醸された純米酒です。ほんのりスモーキーな香りと甘酸っぱい味わいは大人の貴女にピッタリのお酒かも…。 
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というのがウリです。
 私も,旅に出るとその地の地酒を冷酒で味わう,というマイブームが手伝って,今回「プリンセスギンコ」を1本購入してきました。この時期しか手に入らないということです。
 「少し冷やして,食前酒とするのが最適」と,一見強面風,実はやさしかったお店の人に言われたように,夕食のまえに1杯味わうと食がすすみました。連休が終われば人が少なくなるだろうから,また,早朝,こっそりと出かけて,黄色く染まったイチョウを堪能してきたいと思っています。

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 今年ほど,秋がすばらしい,と思った年はありません。ともかく,夏がひどすぎました。
 先日行った高知県立牧野植物園では,アサギマダラやツマグロヒョウモンがヒヨドリバナのまわりを,モンキアゲハがアザミのまわりを舞っていました。歩いていても,汗をかくこともなく,ほんとうに気持ちがいい時間を過ごすことができました。
 秋といえば,食欲の秋でもあります。多くのおいしい食べ物がありますが,私には,秋の食べ物といえば,マツタケよりも,何といってもサンマです。以前は,安物の魚と位置づけられていたサンマですが,近年は不漁で,なかなかお目にかかりません。ウナギよりも貴重なほどです。私は,先日,やっと1匹所望することができました。
 しかし,蝶もサンマも,それぞれを詠ったものは,残念ながら万葉集にはありません。蝶については以前書きましたが,サンマは,そもそも,それを食べはじめたのが江戸時代のころだからです。

 とはいえ,サンマには「目黒のサンマ」という有名な古典落語があります。当時,低級な下魚として扱われていたサンマを,庶民的な流儀で無造作に調理すると美味だが,丁寧に調理すると不味い,という内容の滑稽噺で,3代目三遊亭金馬が得意とした演目です。
  ・・・・・・
 ある殿様が目黒まで鷹狩に出ました。供の者が弁当を忘れたために腹を空かせている殿様のもとに,うまそうな匂いが漂ってきました。殿様が匂いの元を尋ねると,家来が「これはサンマというものを焼く匂いですが,サンマは庶民の食べる下魚なので,殿のお口に合うものではありません」と答えました。
 しかし,空腹に耐えかねた殿様は,サンマをを持ってくるよう命じました。家来が,農家から直接炭火で焼いた「隠亡焼き」のサンマをもらってきました。サンマは黒く焦げて脂がしたたっていましたが,はじめて食べた殿様は,そのうまさに大喜びしました。
 そのうまさが忘れられず,殿様は,ある日,サンマを出すよう家来に申しつけました。家来は慌てて日本橋の魚河岸でサンマを買い求めたのですが,焼くと脂が多く出て体に悪いということで,蒸籠で蒸して脂をすっかり抜き,骨がのどに刺さるといけないと骨を1本1本抜いて椀にして出しました。
 殿様が食べてみると,目黒で食べたものとは比較にならぬまずさです。どこで求めたか尋ねると,家来は「日本橋魚河岸で求めてまいりました」と答えます。殿様はしたり顔で「ううむ,それはいかん。さんまは目黒に限る」。
  ・・・・・・

 サンマという名前は、元は「さいら」とよばれていたようで,「細長い魚」という意味から来ているという説と「大きな群れを作る魚」から来ているという説とがあります。「秋刀魚」の表記が一般的になったのは大正時代のころで,佐藤春夫の「秋刀魚の歌」という詩が発表されて広く知られるようになったとされていて,明治時代に書かれた夏目漱石の「我輩は猫である」の中では「三馬」の表記が使われていました。
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 あはれ秋風よ 情あらば伝へてよ
 ――男ありて
 今日の夕餉にひとり さんまを食ひて
 思ひにふける と
    佐藤春夫「秋刀魚の歌」 

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 吾輩は猫である。名前はまだない。
 どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
  ・
 吾輩は再びおさんの隙を見て台所へ這い上った。すると間もなくまた投げ出された。吾輩は投げ出されては這い上り,這い上っては投げ出され,何でも同じ事を四,五遍繰り返したのを記憶している。その時におさんという者はつくづくいやになった。この間おさんの三馬を偸んでこの返報をしてやってから,やっと胸の痞が下りた。
    夏目漱石「我輩は猫である」 

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 サンマが食べられるようになったのは江戸時代のころからです。当時は淡白な味わいが最上とされていたので,脂の乗り切った房総のサンマは粋ではないといわれました。贅沢な話です。その後,江戸の人口増加で安い大衆魚として食生活に定着し,それとともに,おいしい物として人気になっていきました。
 いつまでもサンマが食べられますように。

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 2023年10月27日は,旧暦の9月13日。この夜の月を「十三夜の月」といいます。「十三夜の月」は「中秋の名月」,つまり「十五夜の月」の次の満月の直前であることから「後の月」ともよばれます。 「中秋の名月」を愛でる風習は中国から伝わったものですが,「十三夜の月」を愛でる風習は日本独自のものです。
 松尾芭蕉が
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 仲龝(=中秋)の月はさらしなの里,姨捨山になぐさめかねて,猶あはれさのめにもはなれずながら,長月十三夜になりぬ。今宵は宇多のみかどのはじめてみことのりをもて、世に名月とみはやし
  「笈日記」(おいにっき) 松尾芭蕉
  ・・・・・・
と書いたように,王朝文化華やかなりし平安時代の前期,59代宇多天皇が十三夜の月を「無雙」(むそう),つまり最高だ,と賞したのがはじまりだとも,60代醍醐天皇が「月見の宴を催した」のがはじまりだともいわれています。
 完全よりも少しだけ劣るものを愛する,なんて,いかにも日本らしいと私は思います。よくいえば,謙虚,悪くいえば,へそ曲がりなのです。

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 雲消えし 秋の半ばの 空よりも 月は今宵ぞ 名におへりける
   「山家集」 西行
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 八月十五日・九月十三日は,婁宿(ろうしゅく)なり。この宿,清明なる故に,月を翫(もてあそ)ぶに良夜とす。
   「徒然草」239段 吉田兼好
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 古代中国の天文学では,天球の黄道にある星々を28のエリア(=「星宿」といいます)に分割し,これを「二十八宿」としましたが,婁宿はその「二十八宿」のうちのひとつで月を鑑賞するのに適した宿のことを指します。
 「中秋の名月」は「芋名月」,「十三夜の月」は「豆名月」「栗名月」といいます。 また「十五夜の月」と「十三夜の月」をあわせて「二夜の月」といって,どちらか一方の月しか見ないことを「片見月」といって忌み嫌うそうですが,これは,江戸時代,吉原遊郭が紋日(もんび=遊郭で五節句や松の内など特別な日のこと)だった「十五夜」に登楼した客を「十三夜」にも再訪させるためにそういいはじめたとも,もともとあった「片見月」の伝承を吉原遊郭が利用したともいわれているようです。
 なお,吉原遊郭の遊女たちは,このどちらかの日にしか登楼しない客のことをも「片見月」とよんで忌み嫌ったということです。

 まあ,そうした話はともかく,私は,今年,「中秋の名月」も「十三夜の月」も美しく眺めることができたので,「方見月」にはならず,ホッとしました。

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 2023年夏。これほど自然が敵に思えた年はありませんでした。ひどかった7月,8月,9月でした。こうした3か月が老化を進めるのです。一挙に10年は齢をとります。毎年これではたまりません。
 もう秋は来ないのか,と思っていたのですが,10月になったら,突如,すずしくなって天気もよく,忘れていた気持ちのいい季節が戻ってきました。今や,春は,黄砂がひどく,雨ばかりで,気持ちのよい季節ではありません。かろうじて残るよい季節が10月から11月にかけてのたった2か月なのです。

 秋といえば,私には彼岸花とコスモスですが,彼岸花の季節は終わってしまい,コスモスだけが野山に咲き誇っています。しかし,コスモスが日本にやってきたのは明治以降のことなので,コスモスを読んだ「万葉集」の歌はありません。コスモスはメキシコ原産のキク科の1年生植物で,ヨーロッパに移入されて,Cosmos bipinnatus Cav. と名づけられ,これが和名にもなっています。
 彼岸花とコスモス以外に,秋といえば,柿の実,萩,ススキです。
 しかし,昔から食べられていたのに,「万葉集」には柿の実を詠んだ歌はないそうです。
 それに比べて,多くの歌が詠まれているのが,ススキに萩。
 ススキはイネ科の多年草で,花穂の形から尾花ともよばれます。「万葉集」には,ススキとして詠われているのが17首,カヤが10首,尾花が19首あります。
  ・・・・・・
 賣比能野能 須々吉於之奈倍 布流由伎尓 夜度加流家敷之 可奈之久於毛倍遊
 婦負の野の すすき押しなべ 降る雪に 宿借る今日し 悲しく思ほゆ
 婦負(ねひ)の野(=富山県射水市付近の野)に ススキを押さえて雪が降っている この中で宿を取らねばならない(=野宿)と思うと 今日は悲しい日に思われる
   巻17・4016 高市黒人
  ・・
 黒樹取 草毛苅乍 仕目利 勤和氣登 将譽十方不有
 黒木取り 草も刈りつつ 仕へめど いそしきわけと ほめむともあらず
 黒木を伐採しかやを刈り取って懸命にお仕えしても 勤勉な小僧だとほめて下さいませんよね
   第4巻・780 大伴家持
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 人皆者 芽子乎秋云 縦吾等者 乎花之末乎 秋跡者将言
 人皆は 萩を秋といふよし我れは 尾花が末を 秋とはいはむ
 どの人も萩こそ秋の代表のようにいうようだが 私は尾花の穂先こそ秋の代表選手といいたい
   第10・2110 詠み人知らず
  ・・・・・・

 萩は秋の風物詩として「万葉集」に最も多く詠まれ,その数は141首とも142首ともいわれているそうです。
  ・・・・・・
 吾妹兒尓 戀乍不有者 秋芽之 咲而散去流 花尓有猿尾
 我妹子に 恋ひつつあらずは 秋萩の 咲きて散りぬる 花にあらましを
 彼女に恋い焦がれ悶々としているくらいなら たとえいっときでも咲いて散る秋萩になりたい
   巻2・120 弓削皇子
  ・・
 高圓之 野邊乃秋芽子 徒 開香将散 見人無尓
 高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
 高円(=奈良県春日山)の野辺いっぱいの秋の萩 いたづらに咲いて誇っているのだろうか 愛でる主人もいなくて
   巻2・231 笠金村(かさのかなむら=万葉歌人)
  ・・
 如是耳 有家類物乎 芽子花 咲而有哉跡 問之君波母
 かくのみに ありけるものを 萩の花 咲きてありやと 問ひし君はも
 こんなことにおなりになるとは知らず 萩の花は咲いただろうか とおたづねでしたね
   巻3・455 余明軍(よみょうぐん=渡来人)
  ・・・・・・

◇◇◇
藤井聡太八冠誕生。

大逆転の勝利でした。
おめでとうございます。
無題


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 日本の夏の代名詞といえば,セミの鳴き声です。今住んでいるところは,夏になるとうるさいくらいセミが鳴いています。
 若いころは,ニーニーゼミやアブラゼミが多かったと思うのですが,ちかごろはクマゼミばかりです。それは,クマゼミが暑さに強いから,という説があります。
  ・・・・・・
 木に産みつけられた卵からセミの一生ははじまります。卵はそのまま冬を越して,翌年に卵からかえった幼虫は木から落ちて土の中に潜ります。そして,土の中で3年から17年という長い間を過ごしたあと地面に出てきて,木に登って羽化し,セミの成虫になります。このときのぬけがらが木に残っているのを見ることができます。そして,3週間から1か月くらいで一生を終えてしまいます。
  ・・・・・・
 セミが鳴くのはオスだけで, 大きな声で鳴くことで仲間に存在を知らせたり,メスへの求愛アピールです。鳴き声が力強くよく通る声の方がモテるようです。

 毎日セミの鳴き声を聴いていて,どうやらセミの鳴く時間が決まっているようだ,と思うようになったので,調べてみました。
 すると,セミが鳴く時間はセミの種類によって決まっているということを知りました。
 私の住むところに大量にいるセミはクマゼミで,およそ午前5時30分ごろに第一声が発せられて,それを合図にはじまります。そして,午前11時を過ぎるとすっかり鳴きやむのです。つまり,セミの鳴き声は目覚まし代わりとなり,昼食の時間だよ,という合図にもなるわけです。
 夜に鳴いている別のセミもいるのですが,探してみたら,これはニイニイゼミやアブラゼミでした。
 セミは基本的に夜は鳴かないのですが,条件さえ満たせば夜でも普通に鳴くそうです。その条件というのは,街灯が明るいことと,気温が暑いことです。

 また,アメリカに住む私の友人が,アメリカではセミがいない,と言ったので,これもまた調べてみました。これもまた,いないという人と,いるという人がいます。セミは,アメリカでは比較的あまり見ない昆虫で,東部では少数のセミがいますが,西海岸ではそもそもセミを見たことがない人も多いそうです。考えてみれば,私も,夏に結構な回数でアメリカへ行きましたが,西海岸にせよ,東海岸にせよ,セミの鳴き声は聴いたことがありません。
 そんなアメリカですが,2021年に「ブルードX」(BroodX)というセミが大量に発生したという報道がありました。
  ・・・・・・
 2021年,アメリカでは,地下から数十億匹のセミが出てきました。
 「ブルードX」とよばれるそのセミは,17年に一度のサイクルでアメリカの大西洋に面した中部諸州や中西部などで大量発生する周期ゼミの一種で,2021年がその発生年に当たりました。
 「ブルードX」が出現しはじめるのは地面の温度が約18度に達する5月上旬から中旬ごろですが,インディアナ州とオハイオ州の南部からメリーランド州へ広がり,その後,ペンシルバニア州やニュージャージー州までの範囲で発生しました。しかし,5,6週間するとすべて死んでしまいました。
  ・・・・・・
キャプチャ
 ところで,「万葉集」には,「せみ」について詠んだ歌が10首あります。そのうちの9首は
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 隠耳 居者欝悒 奈具左武登 出立聞者 来鳴日晩
 隠りのみ居ればいぶせみ慰むと出で立ち聞けば来鳴くひぐらし
   巻8・1479 大伴家持
  ・・
 黙然毛将有 時母鳴奈武 日晩乃 物念時尓 鳴管本名
 黙もあらむ時も鳴かなむひぐらしの物思ふ時に鳴きつつもとな
   巻10・1964 詠み人知らず
  ・・
 日倉足者 時常雖鳴 我戀 手弱女我者 不定哭
 ひぐらしは時と鳴けども片恋にたわや女我れは時わかず泣く
   巻10・1982 詠み人知らず
  ・・
 暮影 来鳴日晩之 幾許 毎日聞跡 不足音可聞
 夕影に来鳴くひぐらしここだくも日ごとに聞けど飽かぬ声かも
   巻10・2157 詠み人知らず
  ・・
 芽子花 咲有野邊 日晩之乃 鳴奈流共 秋風吹
 萩の花咲きたる野辺にひぐらしの鳴くなるなへに秋の風吹く
   巻10・2231 詠み人知らず
  ・・
 由布佐礼婆 比具良之伎奈久 伊故麻山 古延弖曽安我久流 伊毛我目乎保里
 夕さればひぐらし来鳴く生駒山越えてぞ我が来る妹が目を欲り
   巻15・3589 秦間満
  ・・
 故悲思氣美 奈具左米可祢弖 比具良之能 奈久之麻可氣尓 伊保利須流可母
 恋繁み慰めかねてひぐらしの鳴く島蔭に廬りするかも
   巻15・3620 詠み人知らず
  ・・
 伊麻欲理波 安伎豆吉奴良之 安思比奇能 夜麻末都可氣尓 日具良之奈伎奴
 今よりは秋づきぬらしあしひきの山松蔭にひぐらし鳴きぬ
   巻15・3655 詠み人知らず
  ・・
 日晩之乃 奈吉奴流登吉波 乎美奈敝之 佐伎多流野邊乎 遊吉追都見倍之
 ひぐらしの鳴きぬる時はをみなへし咲きたる野辺を行きつつ見べし
   巻17・39511 詠み人知らず
  ・・・・・・
 このように,「日晩」「日倉足」「比具良」「日具良」とありますが,すべて「ひぐらし」です。
 ヒグラシは,夏の終わりから秋にかけての日暮れどき。つまり,物思う,特に恋する人と別れて寂寥感を覚えるときです。カナカナという鳴き声も「カナシ=愛・哀・悲」の語幹を表しているわけです。

 「蝉」つまり「せみ」という言葉を歌の中に詠みこんでいるのは次の1首です。
  ・・・・・・
 伊波婆之流 多伎毛登杼呂尓 鳴蝉乃 許恵乎之伎氣婆 京師之於毛保由
 石走る瀧もとどろに鳴く蝉の声をし聞けば都し思ほゆ
   巻15・3617 大石蓑麻呂
  ・・・・・・
 この歌で「ひぐらし」という言葉を使わなかったのは,人恋しさや物悲しさなどといった個人的な憂いではなく,うるさいほどに鳴くセミの鳴き声から都の雑踏を思い出して,また戻りたいなあ,と思って詠んだ歌だからで,この時代,「ひぐらし」と「せみ」はまったく異なるものと思われていたのかもしれません,という解釈があるようです。
 セミといっても,私は,真夏に鳴くクマゼミ,ニイニイゼミ,アブラゼミなどの多くのセミは,いかにも夏,というポジティブな陽気さを感じますが,やがて鳴きはじめるツクツクボウシは,夏が終わるというネガティブな憂鬱さを感じてしまい,若いころは好きではありませんでした。また,晩夏の夕暮れに聞くヒグラシの鳴き声は,セミというより,秋の虫の音のようで,哀愁を感じます。このように,セミといっても,その鳴き声によって,別のものと感じるのは,今も同じです。
 なお,「万葉集」には「うつせみ」を詠んだ歌が40首ばかりあります。「うつせみ」は,「空蝉」「虚蝉」「打蝉」「欝蝉」「宇都蝉」「打背見」「宇都世美」「宇都勢美」などと書かれています。「うつせみ」は「現身=うつしみ」が転じたもので、「蝉」の字は単に借字であって,セミとはまったく関係がありません。

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◇◇◇
Chinese Space Station.

中国宇宙ステーションが明るく見えました。
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 カレンダーに書いてある「甲寅」のような「干支」(かんし)というのは,古代中国で考えられた暦法上の用語です。甲(きのえ)乙(きのと)丙(ひのえ)丁(ひのと)戊(つちのえ)己(つちのと)庚(かのえ)辛(かのと)壬(みずのえ)癸(みずのと)の「十干」(じっかん)と子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の「十二支」を組み合わせることで年や日を表します。10と12の組み合わせなので,最小倍数の60が周期となります。つまり「還暦」です。
 また,1年を春夏秋冬の「四季」に木火土金水の「五行」をあてようとしましたが,「四季」に「五行」を割り当てるのはむりなので,「四季」のはじまりである立春,立夏,立秋,立冬後の73日間を木火金水にあて,余ったそれぞれの「四季」の終わりの18日あまり,つまり,立春,立夏,立秋,立冬の前の約18日間,計73日を土にあてることにしました。この期間を「土用」といいます。
 つまり,「土用の丑の日」というのは「土用」の期間内の「丑の日」という意味です。2023年では,1月19日,1月31日,4月25日,7月30日,10月22日,11月3日と6回ほどありますが,その中で,一般に「土用の丑の日」といえば,立夏の直前の「土用」にある「丑の日」のことを意味すると認識されています。2023年の立夏は8月8日だから「土用」の期間は7月20日から8月7日となりますが,7月20日は「己卯」なので,そこから数えて9日後の7月30日が「己丑」となり,この日を「土用の丑の日」というわけです。

 日本では,「土用の丑の日」にうなぎを食すという習慣があります。これは,江戸時代,平賀源内の提案で,夏に売上げが少なかったうなぎ屋さんに「本日土用丑の日」という看板を出させたところ大繁盛になり, ほかのうなぎ屋もまねするようになったことで習慣が定着したということです。近年,セブンイレブンが恵方巻を節分の日に食べるなどということ流行らせたのと同じようなものでしょう。
 ちなみに,節分というのは立春,立夏,立秋,立冬の前日のことですが,これもまた,一般に立春の前日のことをさすようです。それにしても,これだけ「干支」が生活に根づいているのに,こういうこともまた,ほとんど使わないような知識で「頭のよさ」をランクづけするだけの日本の学校教育では全く教えないのです。
  ・・
 縄文時代の貝塚から,食べた形跡のあるうなぎの骨が発掘されたことから,日本では,すでに縄文時代からうなぎを食べるという習慣があったと考えられています。
 また,奈良時代に作られた「万葉集」にもうなぎを捕って食べなさいという歌が残されています。
 うなぎが蒲焼として食べられるようになったのは室町時代からで,うなぎを筒切りにして串にさし焼き,その姿が「蒲の穂」に似ていたことから蒲焼とよぶようになったそうです。江戸時代になると,開発によって干拓ができ,その湿地にうなぎが多数生息するようになり,労働者の食べ物へと定着していきました。
  ・・
 私は,夏の暑い日の夕食は,冷やし中華,ざるそば,お寿司,カレーライス,うなぎくらいしか,食欲がわかないので,そればかりを食べています。お寿司とカレーライスは1年中食べたくなりますが,冷やし中華,ざるそば,うなぎは,涼しくなるとまったく食べる気がなくなり,ラーメンと味噌煮込みに変わってしまいます。
 夏になるとあれほど食べたくなるうなぎなのに,すずしくなるとまったく食べたいと思わなくなるのが不思議です。名古屋メシといって「ひつまぶし」が有名ですが,地元に住む私は,「ひつまぶし」以上に味噌煮込みなのです。

 「万葉集」に残された歌は次のものです。
  ・・・・・・
 石麻呂尓 吾物申 夏痩尓 吉跡云物曽 武奈伎取喫
 石麻呂に 我れ物申す 夏痩せに よしといふものぞ 鰻捕り食せ
 石麻呂さんに物申しましょう。夏痩せによいといううなぎを捕まえてお食べなさい。
   巻16・3853 大伴家持
  ・・
 痩々母 生有者将在乎 波多也波多 武奈伎乎漁取跡 河尓流勿
 痩す痩すも 生けらばあらむを はたやはた 鰻を捕ると 川に流るな
 痩せに痩せても生きていればいいのだから,まちがっても鰻を捕ろうとして川に流されないでおくれよ。
   巻16・3854 大伴家持
  ・・・・・・
 天然物の鰻は腹が黄色をしているので,万葉仮名の「武奈伎」は「胸黄」(むなぎ)で,これがうなぎの語源。
 歌のはじめに「嗤咲痩人歌二首」(痩せている人を笑う歌2首)とあるので,生まれつき体がひどく痩せていた石麻呂=吉田連老(よしだのむらじおゆ)という人に,大伴家持はからかって,うなぎを食べなさい,けれど,捕まえるときに川に流されないようね,と詠ったといういうわけです。

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 「文化のみち」の散策で,最後に紹介するのは,旧豊田佐助邸と旧井元為三郎邸です。

 豊田佐助は,発明王とよばれ,現在に至るトヨタグループの礎を築き上げた創始者・豊田佐吉の弟でした。当時,長塀町に豊田佐吉邸,白壁町に豊田喜一郎邸と豊田利三郎邸もありましたが,現存するのはこの豊田佐助邸のみで,豊田利三郎邸は門と塀だけが残っています。
 太平洋戦争後に米軍に接収され将校の住宅となっていた時期もありますが,その後アイシン精機の所有となり,現在は名古屋市が借用し一般公開しています。
  ・・
 旧豊田佐助邸は,1923年(大正12年)に建てられた白いタイル張りの木造の洋館と広い間取りの和館で構成されています。洋館と和館が併設する大正時代に流行した建築様式で,1階には,蓮の蕾の形の照明と吊元の装飾,鶴にトヨダの文字をデザインした換気口が見られます。
 関東大震災以前の時代でありながら耐震構造を取り入れているなど,豊田佐助がいかに先進的な考えの持ち主であったかがわかります。
 2階に上がると非常に広い面積の和室が広がっています。 この大広間の風通しをよくするためにさまざまな工夫がなされています。 欄間の上下に隙があったり左右に開ける雪見障子なども見られます。
 また,和室の周りを洋風建築の廊下が取り囲んでいるという非常に特殊な構造で,敷居ひとつ挟んで和洋の全く異なる様式が隣り合わせになってるのに,違和感なくまとまっています。

 次に,旧井元為三郎邸です。ここは「文化のみち橦木館」(しゅもくかん)といいます。
 この地域は,江戸時代,約600坪に区画割りされた武家屋敷町がありました。この広い敷地と陶磁器の生産地で有名な瀬戸・多治見の両街道や堀川にも近く,船積みにも便利だったことから,明治半ばには陶磁器の絵付け・加工業者などが集まるようになりました。
 昭和初期には,この界隈に600をこえる上絵付け工場があり,最盛期には,日本で作られた輸出用の陶磁器の7割以上がこの地域で生産されていたといいます。
  ・・・・・・
 井元為三郎は,1874年(明治7年)に生まれた,明治から昭和時代前期の実業家です。
 16歳で有田系の商店に入り,1897年(明治30年),24歳で独立。橦木町に隣接する飯田町に井元商店をかまえました。明治40年代にはサンフランシスコに貿易会社を設立し,大正に入ると、シンガポールやビルマにも進出して,陶磁器以外に医薬品や雑貨も扱うようになりました。1924年(大正13年),名古屋陶磁器貿易商工同業組合の組合長に就任しました。加工問屋「五人衆」のひとりに数えられるなど,陶磁器業界の重鎮として活躍しました。
  ・・・・・・
 建物は,2階建てのステンドグラスの色鮮やかな光に満たされた洋館,懐かしい薫りにあふれる平屋の和館と東西2棟の蔵,さらに京都から移築された茶席,四季折々の趣が時を忘れさせる庭園で構成されています。洋館にはステンドグラスが贅沢に使われていて,井元為三郎は輸出陶磁器の商談を行うため、多くのバイヤーを招待していたそうです。

 私がこの建物でいたく気に入ったのは,2階の窓の大正ガラスでした。
 大正時代,ガラスは高価なもので,財力のある家でないと購入することができませんでした。一般の家庭でもガラスが入るようになるのは昭和になってからのことです。
 当時はイギリスで確立された「手吹円筒法」とよばれるガラスの製造方法が主流で,1枚1枚が手作りがゆえの不規則な歪みがあり同じ形はふたつとありませんでした。そこで,ガラス越しに見る庭は,ゆらりと歪んでとても味わい深く,またレトロな雰囲気があり,やさしい気持ちにさせてくれるのです。
 旧井元為三郎邸は,かつて住む者が居なくなってからは荒れ放題だったそうですが,1996年(平成8年)から2002年(平成14年)にかけて市民グループが借り上げて「橦木館」という名前をつけ,演劇やコンサート,ファッションショーなど各種イベントが行われる文化サロンとして使用されてきました。
 2004年(平成16年)頃からは毎週土曜日のみの公開していましたが,2006年度末に名古屋市が土地・建物を取得し,2009年(平成21年)7月17日から再び公開されたものです。


◇◇◇
桜と金星と木星。

咲き誇る桜の花の後ろに美しく輝くふたつの惑星。
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◇◇◇
藤井聡太「五冠」終わる。

「史上最年少六冠」
(竜王,王位,叡王,棋王,王将,棋聖)
に加えて,
「史上初一般棋戦グランドスラム」
(NHK杯,朝日杯,JT杯,銀河戦)
達成。
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 「文化のみち」でシンボル的存在なのが「文化のみち二葉館」です。かつて,名古屋市東区東二葉町にあったこの邸宅は「日本初の女優」とうたわれた川上貞奴と「日本の電力王」といわれた福沢桃介が大正から昭和にかけて暮らしていたものです。東二葉町という地名は今はありませんが,「文化のみち二葉館」の場所から北西へ出来町通りを越えたところで,清水口の交差点の北東の場所です。
 二葉館は,ひときわ目を惹くオレンジ色の洋風屋根をもつ大正ロマンの香り高い館で,5年の歳月をかけて,2005年(平成17年)に現在の地に移築し復元されました。移築したころ,突然,こんな派手な建物ができたので,私は驚いたことがありますが,中に入れることはずっと知りませんでした。

 そもそも,私は川上貞奴という女性もまったく知りませんでした。
  ・・・・・・
 1871年(明治4年)に東京日本橋の両替商の家に生まれた川上貞奴は,生家の没落により7歳で日本橋芳町の芸者置屋・浜田屋の亀吉の養女となりました。才色兼備で,伊藤博文らにひいきにされました。
 のち,自由民権運動の活動家で書生芝居で人気を博していた川上音二郎と結婚し芸妓から引退します。川上音二郎の影響で演劇へ転向,持ち前の芸の力と人柄とで日本初の女優として活躍し「マダム貞奴」とよばれ,ロダン,ピカソ,ジイド,プッチーニなど芸術家らをも魅了することになりました。
 川上音二郎が亡くなると,7年にわたる追悼興行を行ったのち芸能界を引退し,第3のステージとして,旧知の間柄であった福澤桃介の木曽川の水力発電事業を支えました。
 川上貞奴は,人生の前半を川上音二郎,後半を福澤桃介というふたりの男性のパートナーとして,そばに寄り添いながら社会を変えていったのです。1946年(昭和21年)に亡くなりました。
  ・・・・・・

 これもまた,私は知らなかったのですが,というのは,このころ,私の家にはテレビがなかったからですが,1985年(昭和60年)のNHK大河ドラマ「春の波涛」の主人公は川上貞奴でした。
  ・・
 国道19号線を北に木曽川に沿って走って長野県南木曽町に着くと,大きな古い吊り橋が目につきます。この吊り橋は「桃介橋」といって,福沢桃介が大正時代に架けた木製の吊り橋で,日本最大級といわれ,独特の外観は異国情緒にあふれています。
 吊り橋を渡ると福沢桃介記念館があります。福沢桃介が木曽川水系の発電所建設の監督のために建てたモルタル造りの旧別荘を記念館として公開しているもので,福沢桃介のパートナーであった川上貞奴も滞在したため,福沢桃介と川上貞奴のロマンの館としても知られているということでした。ここには行ったことががありますが,この地がどうして有名なのか,訪ねたころの私はわかりませんでした。それは,要するに,大河ドラマの影響なのでした。
 そしてまた,その川上貞奴が南木曽町とは遠く離れた名古屋市の「文化のみち」と関係があるのかも,はじめはわかりませんでしたが,調べていくうちに様々な糸が繋がり,興味が湧いてきました。

 和洋折衷の斬新で豪奢な建物は「二葉館御殿」とよばれ,政治家や財界人,文化人が訪れるサロンとでした。当時としては驚くほどの電気装備が施され,また,ほうぼうに川上貞奴の好みを取り入れたしつらいがなされました。
 当時の記録では,玉砂利の道を入っていくと,車寄せの前がロータリー。そこには,松の木などが植えられ,芝生の庭にはしだれ桜やもみの木,電気仕掛けの噴水やサーチライトがあったようです。
 円形に張り出したソファがある大広間では,ステンドグラスが柔らかい光を投げかけていました。 ここで川上貞奴は,毎日やって来る大勢の客への茶菓や晩餐の手配に追われる傍らで,川上絹布の経営者としての仕事もこなしていました。また,電車で3時間かかる木曽のダム建設現場へ出かける福沢桃介に同行することもあるというように,忙しくとも充実した暮らしでした。
 その後,病気がちになった福沢桃介は東京へ戻り,川上貞奴もまた,「川上児童楽劇園」の指導のため,拠点を東京へと移しました。
 建物の2階の展示室には,坪内逍遥,城山三郎をはじめとする名古屋を中心とする郷土ゆかりの文学者や文学作品が資料やパネルで紹介されていて,これもまた,私には,とても興味深いものでした。

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 名古屋市の繁華街・栄の東側である名古屋市東区泉二丁目と三丁目を隔てる南北の道路は,いろいろ調べても名前がわからないのですが,この通りの「桜通泉二」交差点から「芳野二」交差点北まで全長約1. 4キロメートルにわたって「オオカンザクラの並木道」があって,毎年この時期は,名古屋市内でいち早く花見ができる名所となっています。
 私はそのことをまったく知らなかったのですが,昨年のこの時期,偶然,車で通りかかって,桜が満開なのに驚きました。しかし,この通りや付近には,ほとんど駐車場がなく,また,車が頻繁に行き来しているので,車を停めることができないので,桜を愛でることもなく通り過ぎてしまいました。
 そこで,今年は,事前に車を停める場所を調べておいて,そこに駐車して,名古屋市市政資料館を経由して歩いていきました。
 今年もまた,桜は美しく咲き誇っていましたが,天気もよく,暖かで,どうやら私が行った3月15日が最も美しいときだったようです。

 1961年(昭和36年)の春,「名古屋で1番早く咲く桜を植えていただきたい」という地元の希望がかない,16本の苗木が植えられました。今では,当時植えられた木で残っているのはわずか6本ということですが,その後に新たに植えられたものも含めて,現在では約140本の桜が並木道をつくり,今,桜の花が見ごろをむかえているわけです。
 ここに植えられている淡紅色の桜は,オオカンザクラ(大寒桜)です。
  ・・・・・
 オオカンザクラは,バラ科サクラ属の落葉高木で,樹高は5メートルから10メートルあって,花は中輪,一重咲きで淡紅色。花は半開状で,下を向いて咲きます。開花時期は,ソメイヨシノ(染井吉野)より1週間ほど早く3月初旬に咲きはじめます。
 オオカンザクラは,カンヒザクラとヤマザクラ(山桜),またはカンヒザクラとオオシマザクラ(大島桜)の雑種といわれています。カンヒザクラは,バラ科サクラ属で,桜の原種のひとつです。樹高は5メートル程度です。花は小輪,一重咲きで濃紅紫色。また,釣り鐘状の花が特徴で,下向きに咲く花や,パッと大きく開かない花が多く見られます。開花時期は3月中旬です。カンヒザクラはヒカンザクラ(緋寒桜)ともいわれますが,ヒガンザクラ(彼岸桜)と区別するために,現在はカンヒザクラとよぶようになりました。
  ・・・・・・

 この通りの一部は,前回書いた「文化のみち」になっているので,「文化のみち」を歩いていると出会います。
 かなり知れ渡ったので,こんな春の日は,平日にもかかわらず,私のような老人がほとんどですが,すごい人混みになっていました。誰しも考えることは同じです。また,歩道の端には,絵を描いている人たちがたくさんいました。 
 この通りに沿って北に向かって歩いて行くと「白壁」の交差点があります。交差点の南西一帯は,名古屋で有名な女子校である金城学院高等学校があります。また,交差点の北西に少し行ったところに,金城学院中学校があります。
  ・・・・・・
 金城学院は,1889年(明治227年)にアメリカの長老教会,南長老ミッション宣教師ミセス・ランドルフ(Anne E. Randolph)が開校したもので,1921年(大正10年)に日本ではじめてセーラー服を採用した学校です。高等学校の構内にある栄光館講堂は国の登録有形文化財建造物に指定されています。
  ・・・・・・ 
 この日は,金城学院中学校の卒業式だったようで,卒業式を終えた生徒やその親がたくさん歩いていました。

 名古屋市市政資料館から出発した私は,「文化のみち」を散策する前に,この「オオカンザクラの並木道」まで行って,十分すぎるくらいの桜の景色を堪能したのちに,「文化のみち」を歩こうと思っていました。
 というわけで,「オオカンザクラの並木道」を北に「白壁」の交差点まで歩いて,そこで引き返し,このあとは,二葉館を通って,撞木館,旧豊田佐助邸,そして,旧春田鉄次郎邸へと向かうことになります。「オオカンザクラの並木道」から1筋入ってしまうと,それまでの喧騒はどこへやら,静寂の「町並み保存地区」になります。
 このことは,また,次回。

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 何もない,と揶揄される名古屋市内ですが,それでも,楽しめる一帯があります。というか,近年できました。それは,私が長年住んでいたところからさほど遠くないのに,これまでゆっくり歩いたことがない場所で「文化のみち」と名づけられた一帯です。
  ・・・・・・ 
 名古屋の近代化の歩みを伝える歴史的な遺産の宝庫ともいえる名古屋城から徳川園に至る地区一帯を「文化のみち」として育み,イベントの実施や貴重な建築遺産の保存・活用をすすめています。
  ・・・・・・
とホームページでは紹介しています。

 私が高校生のころは,今のようには整備されていなかったのが,近かったのになじみがない理由ですが,今考えてみると,自宅から私の通った高校までは,名古屋でも最も文化的水準の高いところだったのです。それがまあ,知らないというのは恐ろしいもので,毎日往復していたのにも関わらず,どこにも寄ったこともないわけで,非常にもったいないことをしました。
 近年になって,引っ越ししてしまってまったく縁もゆかりもなくなったのに,この辺りを通ってみたら,名古屋にもこんなところがあるんだと,すばらしく景観がよいのに驚いたのです。
 2021年に行われた第6期将棋叡王戦第3局,豊島将之叡王と藤井聡太当時2冠の対局が行われた料亭「か茂免」(かもめ)があるのも,また,この場所です。2022年の第7期将棋叡王戦第4局もここで行われる予定でしたが,第3局までで藤井聡太叡王が挑戦者の出口若武六段から防衛をしてしまったために行われず,祝賀会に変更になりました。
 そんなわけで,それ以来ずっと「文化のみち」が気になっていたのですが,特に今の時期は,早咲きの桜が満開なので,天気のよい3月15日に行ってみました。

  まず,名古屋市市政資料館から出発です。
 名古屋市市政資料館は名古屋市役所のやや東に位置します。レンガ造りの建物は,1922年(大正11年)に建てられたもので,ネオ・バロック様式,かつ,日本国内ではこの時代以後ほぼ造られなくなった最後の大規模なレンガ造りの建造物です。
 もともとは,名古屋控訴院,地方裁判所,区裁判所庁舎で,およそ60年もの間使用されていましたが,1979年(昭和54年)に移転のため使われなくなったのち,1989年(昭和64年)に名古屋市市政資料館として開館しました。現在は,市政関連資料の閲覧ができるほか,建物・市政・司法に関する展示がされています。私は,現役時代,ここで会議をしたことがあります。
 今回は中には入りませんでしたが,館内に入ると,まず,ゴージャスな大階段があります。2階から3階部分にかけては吹き抜けになって,ところどころ部材が大理石でできていて,その重厚感に圧倒されます。アーチ型の屋根,立ち並ぶツートーンの柱,左右対称の作りなどは,大聖堂のような荘厳さを感じることができます。この建物は「坂の上の雲」「華麗なる一族」「花より男子2」といったテレビドラマや,映画などでロケ地として使用されました。何もロケ地が水戸ばかりではなく,こんな身近なところにもあるのです
 名古屋市市政資料館の庭には,ソメイヨシノより早く咲くオオカンザクラが植わっていて,この時期満開になります。多くの人が散歩をしたり,写真を写していました。大通りからひとつ入っているので,知っている人だけの穴場的存在です。あまり,紹介もされていません。それがまた,いいのです。

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 今日は啓蟄です。今年は特に,ここ3年間のうっ憤を晴らすかのように,さまざまな場所が混雑しているようです。陽気に誘われて,もぞもぞと土からはい出してくる虫たち同様,天気がよい日は朝から多くの人が外に出てくるのです。
 人混みの嫌いな私がわからないのが,どうして人は群れたがるのか,ということです。そもそも,人と同じことをやっていて得なことはひとつもありません。外食産業も,報道されると人気に火がついて過剰にお客さんが集まります。また,ものを選ぶにも,人気度とか売れ筋とかいうものがあって,盛んに購買意欲を煽ります。しかし,よほどのものでない限り,そうした人気はすぐに下火になってしまって,一時のブームが仇になることも少なくありません。
 また,投資なども,少し前に騒がれた円安のように,こうしたニュースが流れると,もっと安くなるぞ,といって煽るのですが,私が長年生きてきて,このような記事が出たときは終焉です。なのに,多くの人はそういう報道に煽られて大損するのです。
 旅もまた,あまりに多くの人が集まると,楽しいどころか,人混みを見にいくだけになってしまいます。コロナ禍以前のインバウンドは,まさに悪夢でした。それに比べたら,これまで何度も書きましたが,2020年の春と秋は最高でした。京都もからがらで,桜も紅葉も,最高に楽しめました。また,私は2020年の初夏に北海道にも行ったのですが,人の少ない旭山動物園を楽しむことができました。そもそも,この年の観光地は,どこも人がいないのだから,出かけても最も安全でした。しかし,お客さんの来ないお店は大変そうでした。
 それに対して,今年は,これまで我慢をしてきたのだからと,どこへ行っても密状態です。

 人は群れたがる,という傾向を利用して,「サクラ」というものがあります。「サクラ」というのは,客や行列の中に紛れ込んで,特定の場面やイベント全体を盛り上げたり,商品の売れ行きがよい雰囲気を偽装したりする人のことですが,これは,江戸時代,芝居小屋で歌舞伎を無料で見させてもらうかわりに芝居の見せ場で役者に掛声を掛けたりしてその場を盛り上げるのを,その場限りの盛り上がりを「桜がパッと咲いてサッと散ること」にかけて「サクラ」といったのが語源だそうです。
 人気のないお店など,さも人気があるかのように「サクラ」に頼んで列を作ってもらうと人が寄ってくるとか,だれもいない店内では入りずらいから客を装うとか。そうすると,それを見て群れたがる人たちが寄ってくるようになるのです。
 私のように,人がいればいや気がさしてそのお店に入るのをやめるし,人気があるといえば,それを避けるように旅をするというへそまがりは,まれな話なのでしょう。
 そこで,不良老人が平原を彷徨うには,雨が降っていてもこれから天気が回復する,という雨の朝に出かけるとか,人出がはじまる時間以前の早朝に到着してしまうとか,あるいは,ガイドブックにはかかれていない,一見何もないところを選んであえてそこに行って楽しみを見つけるとか,そういう苦労をすることになるのです。
 おそらく,観光地は今後V字回復することでしょう。そこで,私はこの先,人がいないところをさがすのに苦悩の日々が続くのです。ガラガラだった2020年の春がなつかしいです。


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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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 ここ10年近く,毎年,年に4回から8回海外旅行をしていたので,パスポートのスタンプがほぼいっぱいになりつつありました。近ごろは出国と入国が機械化されてスタンプが不要になっていたのですが,パスポートがスタンプで一杯になることを夢見ていたので,あえて,スタンプを押してもらっていました。あと2年でその夢が実現すると皮算用をしていたときにコロナ禍になってしまい,海外旅行ができなくなって,その夢は,残念ながら実現しませんでした。そして,私のパスポートの有効期限が2022年の3月で切れてしまいました。
 短時間ならともかく,10時間近くの間,マスクをして過ごす気にもならないので,国際線には乗る気もしなかったから,また海外旅行に出かけることがあるのかな? もうないのかな? と思って,しばらく新しいパスポートを作らずにいたのですが,国際線の機内でマスクが不要になりそうだという話を聞いて,再び,海外旅行に行きたくなってきたので,このたび,新しいパスポートを手に入れることにしました。
 しかし,新たに10年パスポートを作ったところで,私の寿命が10年あるのかどうかもわかりません。ついにそんな齢になってしまいましたが,人生一度っきり,そんな後ろ向きな話をしても何の意味もないので,ずっと前向きに生きようと,10年パスポートを申請しました。そこで,今回,新しいパスポートの申請を機に,車も新しくなったし,引っ越しをして住むところも新しくなったし,ちょうどいい機会なので,海外旅行にとどまらず,今後の10年計画を立てることにしました。

 断捨離をしたおかげで,身の回りに必要のないものがすべてなくなりました。それを機に,さらに,いろいろなことを見直して,精神的にも断捨離をすることにしました。
 まず,やったのは,情報をすべて遮断することです。すでに,以前からテレビやネットのニュースはまったく見ないようにしていたので,私の唯一の情報源は新聞でした。しかし,新聞の定期購読も辞めることにしました。それは,内容がとてもつまらないというのが理由でした。新聞の定期購読を辞めるにあたって,まず,この1か月,本当に自分に新聞が必要なのかどうかを考えながら読んでいましたが,その結果,やはり,必要がないという結論になりました。
 次に,FODなどのサブスクもやめました。一時,FODで,主に民放のテレビドラマをずいぶん見ていて,このブログにもいろいろなことを書いていたのですが,何シーズンかそういったことをした結果,いつもワンパターンで,完全に飽きてしまいました。また,FODでは動画だけでなく,多くの雑誌も読むことができたので,しばらくはそれを重宝していたのですが,その内容がすべてあまりにくだらないので,そんなものを読む価値はないと思うように,というよりも,嫌悪感をいだくようになりました。
 そのような生活をはじめたら,毎日,とても多くの時間が生まれました。こころも落ち着きました。時間が静かに流れていくのです。これには驚きました。つまり,これまで,どうでもいいことに多くの時間を消費し,しかも,こころが乱れていたわけです。

 さて,パスポートが手に入り,これで,また,海外旅行にも出かけられるので,急がず,慌てず,旅行の計画を立てていこうと思っているのですが,その前に,ここしばらくは,まだ,国内の,これまで行ったことのないところに行ってみようと考えています。今がラストチャンス。いつかは1度は行ってみたいと思ってはいても行くことができなかった多くの場所は,今行かねば,もう,行く機会は訪れないと思うようになりました。
 果たして,この10年間で,何ができるのか? どこに行くか? 今はそれがとても楽しみです。

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金星と海王星の大接近。

2月15日の夕方。
沈む直前の西の空です。DSC_1069an


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 私の「はじまり」は,旅と音楽と星。これだけで十分です。
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と書いた2023年は,ZTF彗星ではじまりました。しばらく星見に行っていなかったことと寒さでためらっていたのですが,私のポリシーは「人生において人はしなかったことだけを後悔する」なので,出かけて写真を撮ることができてホッとしました。
 星見というもの好きな趣味は,「月刊天文ガイド」を創刊された1965年のころから読んでいた,今は65歳から75歳くらいの人たちが若かったころにはじめたもので,昨年末になくなった藤井旭さんによる天体写真の撮影と,彗星を7個発見した池谷薫さんの影響による新天体の発見,というふたつの柱で夢中になったものです。
 こんな趣味は,いまや絶滅危惧種です。それはどうしてかというと,やたらとお金がかかるわりに,自然条件に左右され過ぎる,ということと,それにも増して,自然が破壊され,夜空には人工の光が満ち満ちて星自体がほとんど見えなくなった,ということにあります。そんな現状なのに,未だにこの趣味をやっている人は,高額な望遠鏡を購入するとか,コンピュータによる画像処理に凝るとか,ひとそれぞれです。いずれにせよ,人の欲望は限りがないわけで,もっときれいな写真が撮りたい,とか,できるだけ多くの新しい天体を発見したい,とか,海外に出かけて,日本では見られない天体現象を見たい,というように,エスカレートしていったわけです。
 そこで,天体写真1枚写すのに,いくら使ったと考えると,ぞっとします。また,そもそも,晴れなければどうにもならないわけだから,これほどコストパフォーマンスの悪い趣味はないのです。
 しかし,その一方で,美しい星空を一度は見てみたい,という希望は多くの人にあるようで,そうしたイベントやツアーが数多く行われていたり,また,惑星を望遠鏡で見てみたい,という人も少なくなく,天文台で観測会が行われていたりします。しかし,そういった人たちは,一度見ればそれで十分満足してしまい,その次に発展するような余地もありません。

 では,私にとっての星見というのは,どんなものなのでしょう。
 私は,日ごろ,ほとんど星の見えないところに住んでいたから,まずは,満天の星を見てみたいという想いからはじまり,それがかなったら,今度は,いつかは皆既日食が見たい,とか,南十字星が見たい,とか,オーロラを見てみたいとなったのですが,そのすべてを達成したら,もう,そういう夢はなくなりました。
 しかし,その後,高額な機材を買うとか,田舎に天体観測所をつくるとか,幸い,そういうことには興味がなく,星を見るということよりも,そうした場所にでかける,その雰囲気が好きだった,ということに気づいたわけです。
 今日の1番目の写真は,生まれてはじめてニュージーランドに行ったとき,なんとか南十字星とマゼラン雲を見てみたいと思ったのですが,ニュージーランドであってもやはり都会は空が明るく,ではどこに行けばそれができるかも皆目わからないまま,当てもなく,クライストチャーチの郊外に出かけ,なんとか高台を見つけて写したものです。その場所は空もそれほど暗くはなく,条件もよくなかったのですが,それでも,生まれてはじめて見たマゼラン雲には感動しました。だから,この写真は私の宝物だし,私には,この写真が一番印象に残っているのです。
 また,2番目の写真は,オーストラリアでの,まさに満天の星ですが,ろうそくの明かりすらないような真っ暗な大地で見た星空に勝るものはありませんでした。
 このような条件のよい場所は日本にはありませんが,今の私には,深夜,だれもいない高台で,ひとり星空と会話する,とか,日が暮れたあとや太陽が昇るまえの「かたわれどき」と「かわたれどき」の美しさを味わうことが最高の楽しみなのです。なので,星の見える夜は,いつも,そんな気持ちを味わっていたい,それだけです。

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 私の「はじまり」は,旅と音楽と星。これだけで十分です。
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と書いた2023年ですが,すでに,2023年もこれまで何度か旅をしました。
 コロナ禍以前は,ほとんど日本国内に興味がなく,出かける価値があるのは,京都と奈良だけだ,と思っていました。たまに別のところに旅をしても,宿泊先の予約やらレンタカーの貸出やらで,海外とシステムが違っていて,戸惑うことのほうが多いくらいでした。すでに何度も書いたように,2020年もすでにいくつかの海外旅行の予約をしていたのに,2月にハワイ・モロカイ島に行ったのを最後に,その後の旅行はすべてキャンセルとなってしまいました。そこで,しばらくは,自分の立ち位置がわからなくなって,一体どうしたものか,と思いめぐらせていましたが,これがいい冷却期間となりました。
 思い返すに,私は,海外で行きたかったところのほぼそのすべての場所に,すでに行っていたので,行くことができなくても,別にどおっていうこともなかったのでした。

 コロナ禍以前,私が日本国内を旅する気がなかったのは,インバウンドとやらで,やたらと多くの外国人が日本に来るようになったことが最大の原因でした。以前,阿蘇山の近郊の温泉を旅したことがありましたが,その温泉に来ていた客のほとんどは外国人で,そのマナーの悪さから,温泉に入る気力をすっかりなくしました。また,大好きだった京都も,秩序というものがまるでなくなってしまい,京都らしさが失われ,行く気が失せました。白川郷に行ったときも,ソフトクリームをなめながら自撮り棒を振りかざす外国人の団体客に失望しました。
 そこに突然襲った新型コロナウィルス。
 海外からの渡航客がまったくいなくなった2020年の春は,これがチャンスだとばかりに毎日のように京都へ出かけ,外国人どころか日本人すらまったく人のいなくなった丸山公園の枝垂れ桜や高台寺の界隈を独り占めしました。また,静寂に包まれた信州の奈良井宿を堪能することもできました。

 こうして,すっかり,静けさの中にこそ日本のよさがあることを知って,また,日本国内での旅の仕方を知ることで,私は新たな楽しみを見つけてしまったのです。結局,この国を旅するには,団体ツアー客が来るような観光地と大きな旅館を避けて,観光客のいないところに行くことなのです。リゾートなんて論外です。そもそも,大自然の中に空中回廊などの人工の建設物を作るなんて,神を,いや,自然を冒涜しています。そのうち,これもまた,朽ち果てて廃墟となることでしょう。
 私がガイドブックを見るのは,そこに載っているレジャー施設を探すことではなくて,ガイドブックに載っているような観光地なのかどうかを調べるためのものであり,載っていないところこそが魅力のある地なのです。また,宿泊する場所も,なるべく無名なところを探し出して,できれば,ほかに宿泊客のいない平日に,温泉を独り占めしゆっくりと日本の料理を堪能するのです。
 そうしたところの地元の小さなお店を訪ねたり,地元の人と会話をしたり,自然の中を歩いたりする。そこに,決して海外旅行では味わえない楽しみが存在するわけです。
 「何もないところ」こそ,日本のよさのすべてがあるのです。

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 私の「はじまり」は,旅と音楽と星。これだけで十分です。
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と書いた2023年も,早いものですでに1か月が過ぎました。年末からの引っ越しであわただしかったのですが,やっと落ち着いて毎日をすごすことができるようになりました。その結果,ずいぶんと時間ができたので,このごろは家にいるときは,ずっとクラシック音楽を聴いています。

 2020年の春からはじまった新型コロナウィルス騒動。そのおかげで,海外旅行に行くことができなくなり,多くのコンサートも中止になったり,プログラムが変更になりました。NHK交響楽団の定期公演も,2020年の4月から6月までは中止となり,チケット代金が戻ってきました。そして,2020年9月から2021年6月までは定期公演としてのコンサートは行われず,発表されていたプログラムの多くが変更された演奏会が実施されました。そして,やっと定期公演が復活したのが2021年9月でした。その間もNHKFMによるライブ中継は行われ,いつものように私はそれらをすべて録音したのですが,あまり聴く気も起らず,多くはそのままとなっていました。
 この時期の演奏会の指揮者やソリストは,海外からの招聘が困難になったので,その多くは,普段は海外を拠点に活躍していた日本人ソリストや指揮者が帰国していたので,そうした人たちと,新進気鋭の若手を抜擢したものでした。また,曲目も,大規模なものは取りやめとなって,これまであまり聴くことがなかった小規模なものがほとんどでした。
 私がこのところ聴いているのは,やっとそれらを聴く気になったそのころの録音です。今聴いてみると,いろいろな発見がありました。
 この時期の演奏会は,抜擢された若手の演奏家にとっては千載一遇のチャンスだったことでしょう。こうした場を有効に生かすことも大切なのです。実際,このときに認められ,現在も活躍している人が少なくありません。また,普段は聴く機会がない名だたる多くの有名なソリストの演奏をたくさん聴くことができました。
 ただし,この時期は,コンサートを行う,ということだけでも大変だったので,必ずしもできのよいものばかりでもありませんでした。

 音楽に限らず,こうした時代の荒波をどう乗り切るかということは,第2次世界大戦直後の日本でどのように生き延びたか,ということと共通するものがあったように思います。現在大きな会社となっているその多くは,この時期に誕生したものです。つまり,こうした非常時こそ,その人の実力があからさまになるわけです。
 そのことは,さまざまな国が,どのようにしてこの荒波を乗り越えてきたかということとも通じます。はたして,この国はどうだったのでしょうか。やがて,この時代も歴史となったとき,その答えが出るのでしょう。
 …などということをぼんやり考えながら,私は,苦悩にあえぎながらも音楽を奏でた芸術家に敬意を表しながら,そのころの演奏会の録音を楽しむこのごろです。

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Happy New Year 2023.
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 2023年になりました。今年はどんな1年になることでしょうか。
 「おわりのはじまり」と書きましたが,これは,日本の現状を憂いて書いたのではありません。私自身がおわりにむけて,何かをはじめよう,という意味なのです。若い人にとっては,日本の現状は大変なのでしょうが,過去は忘れ何の後悔もなく,また,将来への憂いも夢も展望もなく,とはいえ,日々,楽しく充実した生活をおくっている私には,もはや,そんなことはまったく関係がなく,やりたいことばかり,行きたいところだらけ,なのです。今年もまた,夢いっぱいです。
 この齢になると,自分が何をしたいのか,何が必要なのかがよくわかります。そこで,要らないものは買わないし,したくないことはしないで済みます。今回,断捨離をしてみて,若いころは,いかにムダなものを買ったのか,しなくていいことをしたのかが身に染みました。しかし,そうしたムダな買い物や不要な行動があったからこそ,そうしたことがわかるのでしょう。

 私は,若いころにしたかったことをすべて実現し,行きたかったところにすべて行ってしまった今,喪失感に襲われるどころか,不思議なことに,それを越えた楽しみが洪水のように押し寄せてきました。
 今もっともやりたいことは,人の少ないどこかに出かけて,時間を忘れ,ゆったりと過ごすことです。そんな心境になって以来,昨年までに行ってよかったと思うところは,北海道の留萌,東北の花巻温泉と湯野上温泉,紀伊半島の十津川温泉,四国の四万十川近郊の松葉川温泉,そして,石垣島をはじめとする八重山諸島でした。今年は,まず,水戸へ行って梅が見たい,そして,佐渡島で飛んでいるトキを見たい,と思って,計画を立て,予約をしました。その先はまだ未定なのですが,また,どこかに行きたくなってくることでしょう。
 海外はいつになったら行くことができるかわかりませんが,紆余曲折のあげく,私がまた行きたいと思うのは,オーストリアとニュージーランドだということが確信できるようになりました。オーストリアでは鉄道で旅したい,そして,ニュージーランドでは車で走りたいのです。
  ・・
 次に,良質のクラシック音楽をコンサート会場でたくさん聴きたい,ということです。クラシック音楽はとてもこころが休まります。
 マスコミは何らかの思惑があって報道しているだけで,そこにきちんとした方針もなければ正義もありません。売れると思うことを伝えているだけです。そしてまた,購買意欲を煽るために人を不安にしているだけです。そんなことがわかってしまった今は,テレビもほとんど見なくなったし,新聞や雑誌の類も,恥ずかしいような内容ばかりなので,読む気にならなくなりました。
 それよりも,純粋に音楽に浸って過ごすほうが,ずっと幸せだなのです。いい音楽を聴き,創造者とこころの中で向き合うのです。そして,音楽を聴いた後でおいしいものをこころおきなく食べる,これ以上の幸せがあるだろうか,と思うのです。
  ・・
 そして,最後に,もっと星を見たい,そして,宇宙に溶け込みたい,ということです。だれもいない深夜に宇宙と会話をするのはすばらしいことです。
 昨年は忙しかったことと天気があまりよくなかったことで,なかなか星見をすることができませんでした。年末の引っ越しを機会に,これまでに買いためた多くのカメラや望遠鏡を処分して,自分の必要とする機材だけを手元に残しました。そこで思ったのは,物質欲から一線を引いて少ない機材を使い込んで,それ以外はなるべくこの目で星見ることのほうが楽しいということでした。

 このように,私の「はじまり」は,旅と音楽と星。これだけで十分です。
 ということで,私にとって2023年は,まさに「おわりのはじまり」。過去の自分をすべて捨て去って,新たな一歩を踏み出すのです。
 果たして,どれだけのことができることやら。それにしても,時が過ぎるのが早すぎると感じるこのごろです。


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 2022年初秋。
 私は,コロナ禍以降のあまりにくだらない報道ばかりと,小学生以下の政治家の知能と言い訳と茶番にすっかり嫌気がさしたことで,もはやこの国には何も期待することもなくなりました。しかし,これでは将来ある若者たちがかわいそうです。ところが,当の若者たちは何を勘違いしているのか保守化してしまい,何の反発もせず,立ち上がりもしません。
 その一方で世界に目をやると,相変らず,おかしな権力者たちが何を勘違いをしているのか騒がしく火遊びをし,これでは,世界の覇権争いをしていた19世紀の帝国主義と同じです。19世紀との違いといえば,人類が地球を破滅できる武器を手に入れたということでしょう。これが科学の発達の成れの果てだと思うとむなしい限りです。結局,創造主が作ったというか,偶然に偶然の重なった化学反応の結果,しかも,作った創造主自身も思いもよらなかった欠陥商品である人類というものはこの程度のものだったのでしょう。この調子では,ひょっとして,今地球上に生きている人たちは,SF小説の世界でしか知らなかった人類の滅亡に実際立ち会うことになるのかもしれないなあ,などと私は思ってしまうのですが,これは杞憂なのでしょうか。
 そもそも,地球上に人類がいる必要など全くないわけだし,やりたいことをほぼすべてやってしまった私はそれでもかまわないのですが,夢がある若い人たちには気の毒です。これが正夢でなければいいのですが…。

 さて,ここでそんな心配をしてもどうにもならないので,視点をぐっと身近に戻して…。
 そのような世の中ですが,私の残りの時間をこころ穏やかに優雅な日々を過ごすには,できるだけ外界からの情報を遮断するに限ります。ということで,テレビは自分の気に入ったわずかなドラマと,前回書いたMLBと大相撲中継,そして,音楽や美術,天文学などの教養番組を録画してあとで見るくらいのものになりました。どうやら私にはテレビはほぼ不要な存在となりつつあるようです。
 待合室などにあるテレビ,あれは見たくもない映像を見せられるだけの迷惑な存在ですが,そういったものを強制的に見せられると,しろうとがひな壇に座って勝手なことをしゃべっているような自称報道番組やお笑いタレントが無知丸出しで受けをねらうだけのおしゃべりをするような,未だにこんな番組をやっているのか,と驚くとともに,多くの人たちは貴重な時間を費やしてこんなものを見て生活しているんだというある種の感慨すら覚えます。
 私は旅先で宿泊するときも,まず,テレビは見ません。
 気持ちのよい夕方,あてもなく近所を散歩していると,それとなく他人の家の中が見えたりするのですが,いや,決して覗いているわけではありませんが,そうしたとき,居間に巨大なテレビがどんと構えていることも少なくありません。おせっかいな話ですが,私は,そんな大画面のテレビで何を見るのだろう,と思ってしまうのです。そしてさらに,この家に住む人は,テレビを見るくらいしか楽しみがないのかなあ,などとさえ,気の毒に思うのですが,これはいらぬおせっかいですな。
  ・・
 テレビドラマといえば,それまではほとんど見ることもなかったのに,ここ数年,暇に任せて,というか暇つぶしに見るようになったわけですが,2022年の夏ドラマで私が見はじめたのが,以前「テレビドラマを見る。2022夏Ⅰ」で紹介した「競争の番人」「魔法のリノベ」「純愛ディソナンス」 「石子と羽男-そんなコトで訴えます?-」「初恋の悪魔」 でした。しかし,結局,最後まで見終えたのは「競争の番人」と「初恋の悪魔」だけで,それ以外は,途中で嫌になり断念しました。
 このように,テレビドラマ,はじめのうちは物珍しさでいろいろなものに手を出していたのですが,結構のところ,およそ飽きてしまいました。そのほとんどはワンパターンで大した深みも感動もないのでした。
 この齢になると,気に入った役者さんもほとんどなく,それどころか,だれを見ても,街なかで歩いている高校生や大学生が学芸会や文化祭で劇をやっているようにしか見えません。そこで私が悟ったのは,暇つぶしにこうしたテレビドラマを見るなら,放映後に,評価が高かったものを,FODとかAMAZONのPrimeVideoでまとめて見れはいいや,ということでした。
 そんなわけで,結局,今,私がおもしろいと思うドラマは,スーパー!ドラマTVで見ているアメリカのドラマ以外には「鎌倉殿の13人」のみとなってしまったわけです。「鎌倉殿の13人」は,これほどおもしろい大河ドラマがほかにあろうか,と思うほどの傑作です。

 予想外の出来事だったコロナ禍によって海外旅行に出かけられなくなった私がここ数年選択したのは,実はこのようなテレビドラマを見ることも含めたさまざまな「彷徨」でした。
 「彷徨」というのは,高校生のころ,クラスにいたちょっとクールな奴が好きだったことばですが,当時の私は「彷徨」などということばは知らず,何か,すごい特別な意味をもつことばのような気がしたものです。
 「彷徨」とは,あてもなく歩きまわること,さまようことをいいます。「彷徨」などという小難しい漢字をあてるのだから,もっと深い意味があるのかなと思って,手元にある数冊の国語辞典を調べてみましたが,期待に反して,それ以上のことが書かれたものはありませんでした。わずかな使用例として「青春の彷徨」と書かれていたものが見つかりました。ちなみに,「彷徨く」という動詞は「うろつく」と読みますが,それでは,不良が盛り場をうろつく,という感じになって,さらに意味が軽くなってしまうように感じます。
 そんな「彷徨」ということばですが,そんな軽い意味だけでは元も子もないので,「青春の彷徨」に関してここでひとつ紹介すると,20歳のジュンの冒険を求めた「青春の彷徨」を描いたという,1967年に五木寛之さんの書いた小説「青年は荒野をめざす」があります。そして,1968年,五木寛之さんの詞に加藤和彦さんが曲をつけ,それを歌ったのが,ザ・フォーク・クルセイダースの「青春は荒野をめざす」です。
 いいなあ,栄光の1960年代。
  ・・・・・・
 今 青春の河を越え
 青年は 青年は 荒野をめざす
  ・・・・・・

 私がここ数年選択したという「彷徨」とは,これまでやったことのない私の知らなかった世界に「何か」ときめくことがあるのではないか,と,シーズンが終わって片づけるために石油ストーブの残りの灯油を燃やすように,あえて,気持ちだけ若者に戻って,残りわずかなエネルギーを使ってあてもない行動をしていた,というわけですが,それはすべて迷ってしていたわけではなく,その結果を予測して,また,そうした結果になることを期待して,自分で意図してやっていたことだったのです。そうすれば,何の憂いも後悔もなく,穏やかな日々が過ごせるようになるだろうと…。それはまさに,このブログのサブタイトルである「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」に通じるものです。
 それもほぼ終焉。
 「彷徨」がもたらしたのは,私自身が期待していたように,私の知らなかった世界に「何か」はありませんでした。そして,結局,そんな精神状態から舞いもどり,以前の私のように,安直なテレビドラマともほぼ縁がなく,クラシック音楽を聴いたり,専門書を読んだり,星見に出かけたり,ときどき旅に出るといった,以前のような平常が一番自分に合った過ごし方だということを再認識したのです。
 やはりそうでした。これこそが,私が最も望む豊かな日常なのでした。


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 やっと秋らしくなってきました。
 暑くやる気の起きない夏が過ぎると,食欲の秋,読書の秋,芸術の秋,スポーツの秋,行楽の秋などと,人は行動的になるものです。私もそろそろ活動開始です。
  ・・
 ところで,人は,仕事から引退したり,子育てが終わって自分の時間ができるようになると,今度は,その時間をどのように使うかが問題になります。結局,人は,再び学問をしたくなるようですが,そうしたとき,若いころに,自分がどれだけそうしたことを身につけていたのか,が問われることになります。たとえば,若いころにピアノが弾けるようになって,それからしばらく遠ざかっていたけれど,再び楽しみたい,というのと,これからはじめたい,というのとでは,楽しみの深さが違うわけです。
 そこで,時間に余裕ができたときに自分がやりたくなったことを優雅に楽しむためには,若いころに一度身につけておくことはとても大切なことなのです。
 さて,10月1日,つまり,先週の土曜日,朝日新聞be版「be tween 読者とつくる」に「もう一度,学び直したいですか?」という読者アンケートが掲載されていました。回答には,学び直したいという意見が80パーセントありました。このアンケートで回答した人の意見もいくつか載っていましたが,その回答者は50代以上の人がほとんどでした。記事に「中高年の学びの姿勢を垣間見ることができました」とあるように,このアンケートに回答した人の多くは,子育て卒業世代とか,現役引退世代なのでしょう。
 記事によると,どんな分野を学び直したいかという内容に対して,英語,歴史,自然科学,音楽,文学,数学,第2外語語,プログラミング,と続きます。私は,これを読んでいて,一体,この人たちは若いころに学校で何を学んできたのかな? と考えてしまいました。これだけでも,学校での教育が身についていないということのように感じます。結局のところ,日本の教育は,いつも書いているように,単に順位を争い,学歴というブランドを手に入れるためのドリル学習に過ぎなくて,学問を楽しむとか身につけるということには程遠いのでしょう。
 それもまた,いかにも,やったふりが好きなこの国らしい話ですが,それでは,若いころの貴重な時間がもったいなく,かつ,むなしいです。

 ところで,私は,上記に書いた学び直したいという内容の多くは,自分で楽しめるほどのレベルであれば身につけているので,もはや,そうしたことを学び直したいという気持ちはなく,むしろ,これまでに学んだことをより楽しみに活用したいという気持ちの方が強いです。
 ただし,第2外国語と音楽だけはだめでした。これだけはずいぶんと後悔しています。
 まず,第2外国語は,もっとまじめにやっておけばよかったと今でも思うので,ボケ防止を口実に,今になってラジオ講座でドイツ語を聴いているのですが,覚えるより忘れるほうが勝っていて,一向に上達しません。しかし,これを機会にドイツ語圏の文化や歴史に接することができるのはとても有意義なことです。
 また,私がもっとも後悔するのは,まったく楽器が弾けないということです。これはまあ,才能がないのであきらめた,と自分に言い聞かせていますが,本音は,楽器が弾けるというのは継続が大切で,そうした時間が自分には惜しいと思うことにあります。音楽は聴くことは大好きですが,演奏することに楽しみを見いだせない自分がいます。残念です。本当は,演奏できるほうが,聴いていてより楽しみが深くなる,ということは承知しているのですが。

 そのようなことを前提として,私は,時間だけはありあまるほどある不良老人として,日々,優雅にすごそうと思っているのですが,いろいろと試行錯誤をした結果,どのようにして時間を過ごすのが自分なりに快適なのかが次第にわかってきました。
 今日からはそんな話題です。
  ・・
 まずは,クラシック音楽を聴くことです。
 これは,NHKFMのクラシック番組が1週間前の番組までほぼすべて「らじる☆らじる」で聴くことができるようになったことで,とても助かっています。以前は,NHK交響楽団のコンサートはあとで聴くことができませんでした。
 次に,MLB中継を見ながら現地の音声で聴くことです。
 MLB中継は,特定のチームに限られるのが残念ですが,NHKBS1で連日放送されているので,中継のある午前中はこれを見ています。
 音声は現地ものに限ります。それは,日本のスポーツ中継のアナウンサーとか解説者の話している内容が,私が観戦するときに知りたいものとは違い過ぎるからです。もうひとつは,現地の音声を聴きながら見ていると,アメリカにいるような気持ちになって,とても満ち足りるからです。幕引きのできない金融緩和同様,いつまでもコロナ禍の亡霊にうなされているだけの,これもまた,やったふりの日本とは別世界の,平常のアメリカの姿が見られて爽快です。
 また,スポーツ中継としては,大相撲中継も見ます。
 大相撲中継は,解説が北の富士さんのとき以外は,英語放送を聴きます。それは,解説がつまらないことに加えて,もちろんMLB中継とは違ってアメリカにいるような気持ちになるわけではないのですが,英語で相撲がどのように表現されているのかに好奇心があるからです。
 いずれにしても,MLBも大相撲も,英語音声のほうが気持ちが安らぎます。
 以下,次回に続きます。

◇◇◇
十三夜。

十五夜と対をなす十三夜。または,後の月。
このふたつをあわせて「二夜の月」。
どちらか一方の月しか見ないと「片見月」。
十三夜は栗の収穫の時期なので「栗名月」とも。
十三夜のころは、高気圧に覆われることが多く
「十三夜にくもりなし」といわれます。

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「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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 やっと秋らしくなってきました。とはいえ,相変らず晴れ上がることもなく,次々に台風がやってきます。満足に星を見たのはいつのことでしょうか? 今のこの国の姿のようです。
 さて,日本の秋といえば紅葉ですが,紅葉は晩秋のことで,早秋はコスモスとヒガンバナと,そして,トンボです。しかし,トンボを見ることも少なくなってしまいました。
 トンボといえば,日本を「秋津洲」といいます。「秋津洲」とはトンボのことです。私は,このような季節に奈良,特に,飛鳥地方のようなところを散策することが昔から好きでした。そして,古に想いを馳せるのです。現実逃避です。
  ・・・・・・
 山常庭 村山有等
 取與呂布 天乃香具山 騰立
 國見乎為者
 國原波 煙立龍
 海原波 加萬目立多都
 怜憾國曽
 蜻嶋 八間跡能國者
  ・
 やまとには むらやまあれど
 とりよろふ 天の香具山 登り立ち
 国見をすれば
 国原は けぶり立つ立つ
 海原は かまめ立つ立つ
 うまし国そ
 あきづしま 大和の国は
  ・
 大和にはたくさんの山々があって
 中でも立派に足り整っている天の香具山に登って
 国の中を見渡すと
 国の広い所には煙があちらこちらに立っている
 池には水鳥があちこち飛び立っている
 美しくてよい国
 この秋津洲大和の国は
   「万葉集」巻1・2 舒明天皇
  ・・・・・・

 「秋津洲大和の国は」というのは,日本はトンボの国だと詠っているわけですが,これにはいわれがあります。
  ・・・・・・
 卅有一年夏四月乙酉朔 皇輿巡幸
 因登腋上嗛間丘而廻望國狀曰
 妍哉乎 國之獲矣
 妍哉 此云鞅奈珥夜
 雖内木錦之眞迮國 猶如蜻蛉之臀呫焉
 由是 始有秋津洲之號也
  ・
 神武天皇は即位して31年4月国内を見て回りました
 腋上(わきがみ)の嗛間丘(ほほまのおか)に登り国を見渡して言いました
 妍哉(あなにや)国を獲つること(なんと素晴らしい国を獲たことか)
 内木綿(うつゆふ)の真迮(まさ)き国といえども(狭い国ではあるが)
 なお蜻蛉(あきつ=とんぼ)の臀占(となめ=交尾)せる如くあるかな
 これが日本の国号を「秋津洲(あきつしま)」といういわれです
   「日本書記」巻3
  ・・・・・・
 つまり,神武天皇は,日本はトンボが交尾をする姿に似ていると言った,というわけです。

 腋上の嗛間丘というのは,奈良県御所市にある標高229メートルの国見山で,この国見山での出来事が日本書紀における神武天皇の最後の業績記載ということだそうです。日本書紀によると,初代神武天皇は,辛酉(かのととり)の年,紀元前660年に即位し,76年後の紀元前585年に127歳で没していますが,これは作り話。この辛酉にあたる年には大変革が起こるという「辛酉革命説」が,紀元前660年2月11日に神武天皇が即位したという根拠となっているのです。日本書紀の年代は,数式を用いて復元すると中国史書の倭国に関する記録ときちんと対応するといいます。
 どこの国にもこうした「神話」があって,その土地に住む人の矜持となっている,というか,されているわけですが,島国日本もまた,昔から,海の西にある大国に恐れおののきながら,こうした矜持をもとに国を作っていったのです。そして,それは今も相変わらずです。
 それはそうとして,めっきり早くなった秋の夕暮れどきに,飛鳥地方にある小高い丘に登って「国見」をしながら,古に想いをめぐらすのもまた,秋の楽しみのひとつです。


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☆☆☆☆☆☆
 今年2022年の中秋の名月は9月10日でした。
 今年はずっと天気が悪く,この晩も月が見られるかどうかわからなかったのですが,雲間に美しい月が輝きました。とはいえ,この暑さでは,例年のように秋らしい雰囲気はまるでなく,虫の音も聞こえず,まったくもって情緒がありませんでした。
  ・・
 中秋の名月は,旧暦8月15日の月のことをいいます。「十五夜」「芋名月」ともよびます。
 平安時代に「お月見」「望月」という月を見る風習が中国から日本の貴族社会に入ってきて「月見の宴」が催されるようになりました。室町時代に入ると,遊宴は簡素になっていき,やがて月を拝みお供えをする風習となりました。そして,江戸時代には家庭で供え物が行われるようになりました。
 毎年このブログに書いているように,日本では,旧暦の9月13日,今年の10月8日が「後の月」。この晩は「十三夜」「栗名月」というお月見を行う習慣もあって,このどちらか片方の月見しかしないとき,それを「片見月」といって忌み嫌います。さて,今年の「十三夜」は晴れるでしょうか。
 さて,もともとは「十五夜」というのは旧暦の8月15日の月だけではなく,毎月15日の月のことをいうのですが,その中でも旧暦8月の「十五夜」を中秋の名月というわけです。旧暦は月の満ち欠けを基準とした数え方ですが,月齢と一致しているわけではありません。満月は太陽,地球,月の位置関係で決まり, 月の公転軌道が楕円なので,新月から満月までにかかる日数は13.9日から15.6日と大きく変化するからです。そこで,「十五夜」は満月とは限りません。しかし,今年は正真正銘,満月となります。

 中秋の名月といえば,月見団子とススキ。月見団子を供えることで収穫に感謝し,ススキは,古くから魔除けの効果があるといわれているので,悪霊を追い払う役割を果たします。
  しかし,古人は
  ・・・・・・
 春のはじめより,かぐや姫,月のおもしろう出でたるを見て,常よりももの思ひたるさまなり。
 ある人の月の顔を見るは,忌むこと,と制しけれども…
    「竹取物語」
  ・・・・・・
 とあるように, 月見の宴とはいえ,月自体を見るという行為自体は「不吉な行為」だったようです。
 また
  ・・・・・・
 おほかたは月をも愛でじこれぞこの
 つもれば人の老いとなるもの
   「古今和歌集」879 在原業平
  ・・・・・・
とも詠われていて,月が積もれば年をとって老いてしまう,というのです。
 やがて時代も下ると
  ・・・・・・
 いかばかりうれしからまし秋の夜の
 月すむ空に雲なかりせば
  ・
 どんなにか嬉しいだろう 秋の夜の
 月が澄んだ空に雲がなかったら
   「山家集」西行
  ・・・・・・
と,雲ひとつない夜空の月を存分に眺めたいと,ただ一途に月への恋慕を詠うようになるのです。
 
 「十五夜」の翌日は「十六夜」。今年の「十六夜」は明るい木星が月の左脇に寄り添い,とてもきれいでした。
  ・・・・・・
 君や来むわれや行かむのいさよひに
 真木の板戸もささず寝にけり
  ・
 あなたが来るだろうか 私の方から行こうか
 そうためらっているうちに十六夜の月が出て
 真木の板戸を閉ざさずに寝むってしまったよ
   「古今和歌集」690 詠み人知らず
  ・・・・・・
 「十六夜」の月の出は「十五夜」よりも遅く,それを,当時の人々は「十五夜」に遠慮してためらっているように思い,「いざよふ」といえば「ためらう」ことを表しているのです。

 「十六夜」というと「十六夜日記」を思い出します。「十六夜日記」は,藤原為家の側室・阿仏尼によって記された紀行文日記です。
 女性が京都から鎌倉への道中の紀行を書くといった,他の女流日記とは大きく趣きを異としているもので,鎌倉時代の所領紛争の実相を当事者の側から伝える資料としても貴重です。この日記が成立したころ,この日記に名前はついていなくて,単に「阿仏日記」とよばれていましたが,のち,日記が10月16日にはじまっていることを由来として後世「十六夜日記」と名づけられたもので,月見の「十六夜」とは関係がないようです。


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 以前,ちょうどアメリカの独立記念日にミズーリ州ニューオリンズにいたことがあって,パレードを見ましたが,それぞれのグループが順番に出てきてマーチングバンドをやっていました。また,サンフランシスコのプライドパレードにも遭遇したことがあるのですが,地元の企業が順番に行進をするものでした。
 山形市の花笠まつり,盛岡市のさんさおどりなどの日本の夏祭りもまた,およそ同じようなもので,人の考えることはどこの国でも同じだなあと私は思います。

 しかし,郡上おどりは少し趣が違います。それは,地元企業の協賛というよりも,住んでいる人たちが自然発生的にやっているように見えるからです。おそらく,山里の小さな町でのお祭りは,企業のような経済効果がないからでしょう。この素朴さとともに,三味線と笛と太鼓の音に合わせて唄う郡上音頭がたまらなくいいものです。これは魔性です。
 先に書いた,阿波おどりと五山の送り火とは違って,私は,郡上おどりを見に,あるいは,踊りに,わざわさ行ったことがないのです。それは,郡上に親類がいたこともあって,子供のころに家族旅行で郡上に行って,ちょうど徹夜踊りの日に出会っていたことで,郡上おどりにはすでに慣れ親しんでいて,好奇心が湧かなかったからです。
 親類がいるということで当然ではあるのですが,私の母親が亡くなったときに戸籍謄本(はらこせき)をとろうとさかのぼっていたら,郡上に行きつきました。つまり,私にはもともと郡上の血が流れているのです。
 私は人混みと暑さがだめなので,今や,郡上おどりの時期に行くことはありませんが,混み合うこの季節を避けて,私は,静かな郡上という山里の町を歩くのが好きなのです。

  ・・・・・・
 亡者おどりの異名のある秋田県羽後町(うごまち)の西馬音内(にしもない)の盆おどり,徳島市の阿波おどりと並んで,「日本三大盆おどり」に数えられている郡上おどりは,中世の「念仏踊り」や「風流踊」の流れを汲むと考えられています。
 郡上おどりは,江戸時代,初代藩主・遠藤慶隆が領民親睦のため奨励したのが発祥とも,江戸時代中期の藩主・青山氏の時代に百姓一揆後の四民融和をはかるため奨励したのが発祥とも伝えられているそうです。いずれにしても,日本らしい,民衆を群れさせて踊ることで日ごろのうさを発散させ,その一体感から仲間意識を高めて同調意識を煽るという,お上の畏き施策から奨励されたのです。
 しかし,それが高じると,逆に,民衆の結束が反権力となって爆発するので,今度はお上がそれを迫害するのです。ということで,1874年(明治7年)には明治政府によって禁止令が出されたことがありますが,したたかな日本人はそんなことにはへこたれず,まつりは存続し,1923年(大正12年)には郡上踊り保存会が発足しました。
 第2次世界大戦中も国威高揚とかなんやかやと理屈をつけて軍部を説得し,まつりは続けられ,1945年(昭和20年)8月15日の終戦の日にも開催されました。しかし,病魔にだけは勝てず,2020年と2021年は,コロナ禍で中止となりましたが,2022年の今年,3年ぶりにまつりは復活しました。
  ・・・・・・

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 前回「夏といって私が思うのは,京都・五山の送り火と郡上おどりと徳島の阿波おどりです。これぞ,日本の夏です」と書きましたが,8月16日は,京都・五山の送り火です。
 今年は,このお盆の伝統行事も3年ぶりに通常開催されるそうです。私は,数年前まで,毎年のように五山の送り火を見るために,この日に京都へ行きました。
  ・・
 現在は,「大文字」「松ケ崎妙法」「船形万灯籠」「左大文字」「鳥居形松明」の五山で炎が上がり,お精霊さんとよばれる死者の霊をあの世へ送り届けるとされますが,五山の送り火の起源は,平安時代とも江戸時代ともいわれています。盂蘭盆会や施餓鬼の行事として行われていたと古文書にあり,江戸時代前期から中期まではそんな性格で,大文字,妙法,船形,加えて,「い」「一」「竹の先に鈴」「蛇」「長刀」なども,所々の山,原野で灯されていたといいます。

 1994年のNHK大河ドラマ「花の乱」は,室町幕府第8代将軍・足利義政の妻である日野富子の生涯と応仁の乱,および,その前後の状況を描いたものでした。視聴率は,当時,大河ドラマ歴代ワースト1位だったそうで,人気のない作品のようですが,私は,ちょうど,京都に惹きつけられていたときだったので,とても興味深く見ました。このように,私がちょうど興味をもったころに,それに関する何がしかの番組が放送されることが結構あって,それもまた,運がいいと思っています。
 このドラマは,今放送されるのなら,もっと評価されるだろうといわれています。それは,ドラマの凝った演出やストーリーの展開などが,その時代の大河ドラマの概念と異なっていたからです。

 それはともかく,私が最も印象に残っているのが,ドラマの結末,応仁の乱で破壊された京の町に,その所業を懺悔するかのように,はじめて五山の送り火が灯るシーンです。それは,まったく史実とは異なることでしょうが,私は,それがとても象徴的に思えました。
 いつの時代も些細なことが原因で,日々,人は苦悩にあえいでいるのですが,自然災害と病魔と戦火だけは,そうした些細なスケールとはまったく違う大きさで,世界を一変させてしまいます。室町時代は今以上に社会が混乱していて,応仁の乱によって都が焼きつくされてしまいました。京都に住む人は,今でも「さきの戦」というと応仁の乱を指しているのです。だから,私は,五山の送り火は,古人が京の町に散々悪事を行った,そして,そうした悪事によって死んでいった人たちへのわび状だと,私には思えます。

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 私は,子供のころ,学校へ行くのが好きでなかったから,夏休みは出校することなどほとんどないのが快適で,たまにあった出校日なんて嫌で嫌でたまりませんでした。私には行く意味がわからない出校日など作らなくても,潔く,8月31日まで休みにすればいいのに,と思いました。そんなわけで,高校のころは,幸いなことに,私の通った学校は補習などは全くありませんでしたが,たった1日だけあった出校日もさぼって行きませんでした。アメリカでは,3か月,出校日すらない長期の休みがあると聞いて,うらやましくて仕方ありませんでした。
 とはいえ,家にいても,日本の夏は,テレビをつけると終戦記念日の何とか特集と高校野球ばかり。このふたつもまた,暑さを助長するようで,嫌いでした。私が子供のころは,ブカツといえば,しごき。高校野球も例外でなく,テレビの画面では,甲子園のグランドで,監督が選手を小突いていたりして,野球とは何と野蛮なものか,と思いました。そして,窓を開ければ,セミの鳴き声。お盆のころを過ぎると,セミの鳴き声が,アブラゼミからツクツクボウシに代わり,そうなると,秋の足跡が聞こえてくるようで,また学校に行く日が来るのかと切なくなりました。

 そんな若き日々もとうの昔に過ぎ去り,今は,夏といって私が思うのは,京都・五山の送り火と郡上おどりと徳島の阿波おどりです。これぞ,日本の夏です。
 コロナ禍で四苦八苦していたこれらの行事もまた,3年ぶりに復活だそうです。
 その中で,今日の話題は徳島の阿波おどりです。阿波おどりは,今年は,8月12日から8月15日に開催されて,徳島市内をおどりが埋め尽くします。
 今の私は,人が群れるのと暑いのがまったくだめなので,もう,見にいくことはありませんが,数年前は,この阿波おどりをひと目みたいものだと,わざわざ徳島まで出かけたものでした。
 記憶に残るのは,第一に,めちゃくちゃ暑かったということです。見ているだけでも暑いのに,この暑さの中,衣装を着けて踊るなんて,尋常ではないと,見ていただけの私は思ってしまうのですが,やっている人たちはこころから踊ることが好きなのでしょう。第二に,阿波おどりは,有名連という,とてもおどりが上手な集団と,にわか連という,完全にしろうとの集団があって,有名連以外は,見るには値しなかったということです。「踊る阿呆に見る阿呆」というように,阿波おどりは見るのではなく参加するものだそうですが,見る専門の私としては,上手な踊り以外は,ちょっと耐え難いものでした。

 何が違うかといえば,踊り以上に鳴り物の存在です。
 有名連は鳴り物が上手,そして,にわか連に至っては,鳴り物は単なる景気づけでした。
  ・・・・・・
●鉦(かね)
 鉦が金属音を鳴らして阿波踊りのリズムをリードします。
 阿波おどりにはじめて使われた楽器といわれていてよく耳に響きます。叩くバチは撞木(しゅもく)とよばれ,棒に鹿の角の切れ端がついています。
● 笛
 笛は「篠笛」とよばれる楽器で,阿波おどりのメロディーを奏でる主役です。「ぞめき」の入り乱れる中にふと聴こえる澄んだ笛の音はとても心地よく,日本の風情を感じさせてくれるものです。
●三味線
 歯切れのよい音色が特徴的な三味線は,目でも耳でも楽しませてくれます。阿波おどりでは,絶妙な音色を奏でる重要な楽器です。
 主に細棹や中棹の三味線が用いられ,三味線の調子は使用する笛の調子に合わせて,六本調子三下がりで調律されます。
●大太鼓
 ドドンガドンという腹の底に響き渡るような豪快な太鼓の音がお囃子のベースの役割を務めます。
 阿波おどりの迫力と躍動感を表現しています。平胴太鼓とよばれる約10キログラムの和太鼓を肩から胸の前に抱えるように持ち,使用します。
●締太鼓
 和太鼓を肩から吊り下げて叩き,甲高くかわいたような音を出します。裏打ちによって「ンタンタ」という軽快なリズムを生み出すことで,踊り子や周りのお客様の心を浮き立たせてくれるので,リズムに合わせて自然と身体が踊り出します。
●鼓
 お囃子のアクセントとなる鼓には,打ち方によって音色が変化する小鼓と突き抜けるような甲高い音が鳴る大鼓があります。
  ・・・・・・
 これらの中で,笛と三味線の音こそが阿波おどりの醍醐味です。有名連ではこれが粋なのです。そうした粋な鳴り物がないと,阿波おどりは,単に,ドンドンと異常に大きな太鼓の音とカンカラという甲高い鐘の音だけが響く中で,踊っているというよりも単に騒いでいるだけのようになってしまい,不快でした。
 これが,私が阿波おどりを見たときの正直な感想です。
 今日の写真は,私が写した有名連の優雅で美しい姿です。


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 今日は立秋。
 朝日新聞の「天声人語」,新聞紙上には題名はありませんが,ウェブページ「アサヒコム」に掲載されているものにはあります。そのウェブページに「百日紅には申し訳ないが」と題した8月1日の「天声人語」は本当にひどく,私はこれを読んで不快になりました。
 冒頭
  ・・・・・・
 咲きはじめたころの百日紅(さるすべり)は,色の鮮やかさに目を奪われた。しかし猛暑や酷暑といわれるこの時分になると,あの赤色や濃いピンク色が暑苦しく思えてしまう。がんばって長いこと咲いている花には申し訳ないのだが
  ・・・・・・
からはじまって,この「天声人語」は,白を身にまとう人を見ると涼しく想い,床屋ですっきりした髪になっていく女の子の様子で涼を感じるといった内容に展開し,その一方で,セミの鳴き声が暑さを助長し,赤い色が気持ちがなえさせる,とあります。
 要するに,人は,物理的な気温だけでなく,視覚や聴覚で涼を感じたり,その反対に,暑さを増幅してしまうことがある,というようなことを書きたいのでしょうが,百日紅を愛する私が読むと,この文章は耐え難いものです。
 そんなテーマで書きたいのなら,今日,立秋の日に
  ・・・・・・
 8月7日。暦の上では立秋だが,まだ,暑さが和らぐ気配もない。こうしたとき,今より涼しかったとはいえ,クーラーもなかった昔の人は,視覚や聴覚からも涼をとる工夫をした
  ・・・・・・
とでもいった文章を書けばいいのであって,何も,この暑さに腹を立てて百日紅を敵に回す必要などないではないか,と私は思わず腹立たしくなりました。こうした文章もまた,体を暑くさせるのです。

 今日の写真は,ずいぶん前の8月16日,ちょうど五山の送り火の日に私が京都で写したものですが,この写真にある百日紅を見て,人は暑さを感じるでしょうか? 百日紅に失礼です。
 百日紅は,鎌倉時代に渡ってきた花で,夏の花の代表格といいます。鎌倉時代には「さるなめり」とか「なめら木」といったらしく,また,幹をさすると木全体が揺れるので「さすり木」の別名もあるといいます。
  ・・・・・・
 あしひきの山のかけぢのさるなめり
 すべらかにても世を渡らばや
   「夫木和歌抄」藤原為家
  ・・・・・・
 「百日紅」は,字のごとく,花が100日も咲き続けることからきているのですが,実際は咲き続けるのではなく,一度咲いて散った枝先からまた芽が出て花をつけるというのが本当の姿です。
  ・・
 私が今も思い出すのは,すっかりその魅力取りつかれて,毎月のように京都に足繁く通っていた今から30年ほど前のこと。夏の暑い日に行った山科の毘沙門堂で美しく咲いていた百日紅の花を見て,ああ,あまり花のない夏でもこうして美しくけなげに咲く花もあるんだんあ,と思ったことです。

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 本当に地球はどうなってしまったのでしょう。おかしな病気が蔓延するし,天候は不順だし,経済もおかしいし,相変わらず人間は軍拡に忙しいし…。
 インバウンドでいやだったけれど,それでも数年前の世の中が懐かしいです。
 ということで,四季折々の懐かしい思い出を語りましょう。

 京都にはさまざまな祭りがあります。先日も祇園祭をやっていました。そんな,見て楽しむ祭が多いなかで,だれでも参加できるのが「みたらし祭」で,平安時代の貴族が季節の変わり目に禊をして罪や穢れを祓っていたものが庶民に伝わりました。「みたらし祭」は,下鴨神社の御手洗池に足を浸して無病息災を願うもので,別名「足つけ神事」といいます。毎年7月の「土用の丑の日」前後に行われます。私も数年前に一度行ったことがあります。
 受付でお供え料をおさめてロウソクを受け取り,靴とロウソクを手に持って御手洗池へと向かいます。御手洗池にかかる輪橋の真下から水の中へ入り,御手洗池の中を進み,種火のある小さな祠があるのでそこでロウソクに火を灯すのです。そのままロウソクを手に持ち火を消さないようにさらに先へと進みます。そして,最終地点の御手洗社前の祭壇にロウソクを献灯し無病息災を願うというものです。
 最後に,祭壇にロウソクをお供えして池から上がったところで神水をいただいて終了です。
 下鴨神社はみたらし団子発祥の地です。「加茂みたらし茶屋」のみたらし団子は御手洗池から出てくる泡を形どったもので,串に5個のだんごが刺してあるのは,人間の身体・五体を表しているとされていて,1個は頭を表しているので離れて刺さっているのです。

 みたらし川は,土用のころになると池の周辺や川の底から清水が湧きでるところから「下鴨神社の七不思議」のひとつにかぞえられています。
 「下鴨神社の七不思議」とは次のものです。
  ・・・・・・
●連理の賢木(れんりのさかき)
 「相生社」の左側にあって2本の木が途中で合体しているものです。縁結びのご利益があります。 
●何でも柊(なんでもひいらぎ)
 「比良木社」,正式名称は「出雲井於神社」の左手の植栽のまわりに植えた木はすべて「ひいらぎ」のように葉がぎざぎざになっています。
●御手洗池の泡(みたらしいけのあわ)
 御手洗社は池の上に建っていますが,その池には玉のような泡とともに清水が湧き出ています。
●泉川の浮き石,烏縄手(からすのなわて)
 この細い流れは「瀬見の小川」とよばれています。烏は下鴨神社の御祭神で,縄手は細い長い道。そこで,烏縄手はヤタガラスの神様にお参りする道という意味で,紅葉橋は烏縄手のひとつです。紅葉橋のたもとに,昔,雨乞いのための「こがらし社」があって,雨乞いの願いがかなうと小石がはねたそうです。
●赤椿
 下鴨神社の神主は位が高く,他から来る位が低いお使いに気を使って赤い椿を植え,下鴨神官の装束が派手にならないように目立たないようにしたということです。
●船ヶ島・奈良社旧跡
 日照りや戦乱時に川の流れをかき回すと小石がはねて願い事がかなうということです。
●切芝
 糺の森のねそ,つまり,中心で,古代からの祭場です。
  ・・・・・・
 「みたらし祭」以外にも,下賀茂神社の御手洗池では,立秋の前夜に「矢取りの神事」が行われます。「矢取りの神事」は池の中央に50本の斎串を立てて裸男がうばいあうお祓いの神事です。また,「葵祭」にさきだって斎王代の禊の儀が行われています。

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 私の好きなドラマのひとつ「コンフィデンスマンJP」に次のような紹介文があります。「目に見えるものが真実とは限らない」のあとは毎回文章が異なるのですが,たとえば「スーパードクター編」では
  ・・・・・・
 目に見えるものが真実とは限らない。
 医学は本当に進歩しているのか。
 長生きすることは本当に幸せなのか。
 医療モノやると本当に視聴率が上がるのか。
 コンフィデンスマンの世界へようこそ。
  ・・・・・・
です。
 まあ,何事も,結局のところ,何が真実なのかわからない,ということです。
 専門家と称する人の言うことも,それがすでに起きた事象に関する分析は確かに専門であっても,それをもとにした予測は当たりません。専門家がどれほど専門であるか,素人のわれわれがもっとも明白にそれがわかるのは,将棋の解説だったりします。あれだけ強いプロの棋士が解説しているのに,AIの発達によって,AIがすべて正しいとは限らないにしても,それが指し示す手順と全く異なるちんぷんかんぷんなことを説明していたりすることが多々あって,それはまず正しくないのです。
 要するに,いかに学問が発達しようと,わからないことはわからないのです。それは,学問を否定することではなく,現在の学問ではこの先はわからない,という領域は,推測で言うのではなくわからないと言うべきだということです。素人が語ればそれは単なる感想であっても,専門家が語ればそれが真実と受け止められてしまう。それが専門家です。だから,専門家は,わからないことは安易に語らないほうがいいと思うのです。

 と,前書きが長くなりましたが,今日,私が季節を感じるのは,どうでもいいといえばいい「梅雨入り」と「梅雨明け」です。「梅雨入り」やら「梅雨明け」,そこに学問的な厳密な定義などないらしいのですが,それでも毎年気になる「梅雨入り」と「梅雨明け」。
 なのに…。
 それにしても,今年の天気は不順すぎます。というより,梅雨前線がどうのこうのといった難しい話は抜きにして,素人の私は,感覚的には,今年は「梅雨明け」と報道されたときが実際には「梅雨入り」で,今が梅雨末期の豪雨,だから,未だ梅雨は明けていない,と考えたほうがいいような気さえします。
 今日の写真は,ちょうど昨年の今ごろに写したものです。
 思い出すに,昨年の「梅雨明け」は7月17日でした。その後はずっと天気がよくて,毎日,日没ごろに散歩をしたり写真を写したりして楽しみました。ひまわりもきれいに咲いていました。思えはいい季節でした。
 それが今年はどうでしょう。6月の中旬に早くも「梅雨明け」したらしいということで,その後わずか数日間だけ晴れたら摂氏40度近い猛暑になりました。しかし,その後は一転して雨ばかり。ここ数日は,太陽すら見ていません。
 若いころ,職場の登山好きの同僚が「梅雨明け10日」という話をしていました。それは梅雨明け後の10日間が最も天気が安定するので登山には最適だという話でした。私は,梅雨明けという報道があると,いつもそれを思い出すのですが…。
 「梅雨明け10日」。それもまた,「真実とは限らない」のでしょうか…。

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 二大巨頭。強い横綱がふたりがいて,しのぎ合う,というのが最も理想の姿,なのかもしれませんが,そんな理想の姿を見たことは,これまでほとんどありませんでした。最もそれに近かったは,栃錦と若乃花,そして,輪島と北の湖だったでしょうか。
 あるいは,絶対王者がいて,その王者に挑む若手。それならこれまでもありました。
 しかし,現在の大相撲はそのどちらとも異なっていて,幕内上位はほとんど実力に差がなく,だれが勝つのかわからない,という状況を呈しています。つまり,どの取組も結果がわからないので好一番となるのです。

 また,幕下以下を見ても,将来有望という力士が少なからずいて,その力士見たさに早くから足を運ぶ,ということがありました。古くは,富樫,納谷。このふたりは,のちの柏戸,大鵬です。また,若花田,貴花田。のちの若乃花,貴乃花です。のちに稀勢の里となった萩原もそうでした。 
 しかし,残念ながら,現在は,探してもそういう力士すら見当たらないのです。
 おそらくそれは,高校や大学の相撲部出身者が増えたことで,中学卒のたたき上げが減ったことも理由のひとつでしょう。コロナ禍以前に場所前の稽古を見にいったことがあるのですが,昔の,竹刀でひっぱたくというのがいいわけではありませんが,そんな恐ろしげな稽古場風景とはまるで違っていて,学校の部活動のような感じでした。

 時代が違うからそれはそれでいいのでしょうが,もはや,横綱,大関という,単に強いだけでなく,名誉とか権威を伴った地位というものは,今や,それにそぐわないのかもしれません。だから,横綱になるような力士もほとんど現れないし,大関は横綱をめざすというよりも,その地位を保つだけで精一杯です。
 しかし,それは力士に限らず,何と,行司もまた,木村庄之助が長く空位になっているように,権威のある行司もいないのです。呼出しもしかりです。さらには,以前なら,審判長はほどんど横綱出身者だったのに,そういう親方さえ少なくなってしまいました。現役時代冴えなかった力士が親方となって偉そうにしてもたかが知れています。
 もはや,大相撲も,レーティングで毎場所のランキングを決めて,先場所優勝した力士が次の場所で一場所限りの横綱として土俵入りをする,といった制度に変えたほうがいいのかもしれません。が,それではファンは納得しません。

 私は,権威やら名誉やらというものが本質的には大嫌いだから,今の混沌とした状況はむしろ楽しいです。とはいえ,全体を見回しても,将来の横綱候補もなかなか存在しないし,以前のように,突然覚醒して横綱になった千代の富士のような夢のある力士も見当たらないので,ずっとこんな調子が続くかもしれません。だから,今の大相撲はアマチュアの相撲選手権みたいです。こんな状態が続くと,そのうち,優勝が10勝5敗とか,優勝決定戦に10人,などということが起きるかもしれません。
 ということで,だれが強いのか弱いのかさっぱりわからないけれど,みんなそれぞれ個性があって好感がもてるから応援したくなるし,ある意味,これほどおもしろい大相撲はこれまでにないものです。はたして,来年はどうなっているのだろう…。
 などと思いながら,私が見にいった4日目の好一番は若隆景対阿炎でした。


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「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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