しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:日本国内 > 京都

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【Summary】
On November 26, 2024, after a night in Kyoto, I visited Murasaki Shikibu's grave, walked to the tombs of Emperor Sanjo and Emperor Ichijo, and took a bus to Seimei Shrine, revisiting it due to its connection with Hikaru Kimi e. Later, I saw the "maneki" signs raised for the annual Kabuki event at Minami-za, enjoyed sweets at Sasaya Shouen, and attended Seiichi Nakai’s Leica photography exhibition, Leica and Tetsutabi, at Leica Gallery Kyoto.

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 京都で1泊した翌2024年11月26日。
 この日は,まず,紫式部の墓までバスで行って,そこから,三条天皇陵,一条天皇陵とかなりの距離を歩いたのち,竜安寺のバス停から晴明神社の最寄りの堀川今出川までバスに乗りました。
 晴明神社は小さな神社で,これまでにも行ったことがあるのですがほとんど記憶になく,今回「光る君へ」で安部晴明が出てきたこともあり,これを機会に再び行ってみることにしたのでした。

●晴明神社
 一条戻橋のたもとにあった安部晴明の屋敷跡に鎮座する村社である晴明神社は,安倍晴明を主神とし,倉稲魂命(うかのみたま)を合祀します。
 1005年(寛弘2年)に安部晴明が亡くなると,一条天皇はその遺業を賛え,安部晴明は稲荷神の生まれ変わりであるとして,1007年(寛弘4年)屋敷跡に晴明を祀る神社を創建しました。当時は広大な境内でしたが,次第に縮小し,荒れたままの状態となりました。また,隣接して千利休の屋敷がありました。
 平成以降,映画化された夢枕獏の小説「陰陽師」のヒットで安倍晴明ブームが起こり有名となりました。2017年(平成29年)に二の鳥居の社号額が新調されました。また,一の鳥居の社号額には、五芒星の社紋が描かれています。

●一条戻橋
 一条戻橋は堀川に架けられている一条通の橋です。
 794年の平安京造営に際し,平安京の京域の最北・一条大路に堀川を渡る橋として架橋されました。平安中期以降,堀川右岸から右京にかけては衰退著しかったために,堀川を渡ること,即ち,戻橋を渡ることに特別の意味が生じ,伝承や風習が生まれました。歌舞伎に「戻橋」という演目があります。
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 1890年(明治23年),5世尾上菊五郎(鬼女)と初世市川左岡次(渡辺綱)により初演されましたた。
 渡辺綱は源頼光の使いの帰途,戻橋で美しい扇折の娘小百合に逢います。夜道のこととて同道しましたが,実際は愛宕山の悪鬼で,いろいろと渡辺綱を誘惑します。が,ついに正体を見破られ立廻りとなり,鬼は片腕を切られて逃げ去ります。
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 かつて,一条戻橋のそばに妓楼があり,一条戻橋で渡辺綱が鬼である美女と遭遇したという伝説に因んだ源氏名「綱」という遊女がいました。彼女の馴染客のひとりに与謝蕪村がいて「羽織着て綱も聞く夜や河ちどり」(川千鳥の哀切な鳴き声を娼妓「綱」も客の羽織を借り着して聞き耳をたてている)という艶冶な句を詠んでいます。
 現在の橋は1995年(平成7年)に架け直された情緒もたわいもないものですが,晴明神社にそれ以前の一条戻橋を実際の部材を使って再現したミニチュアがあります。

●京都南座
 四条通の南側に位置していることからその名がある南座は,日本最古からその場所にある劇場です。
 江戸時代初期,四条河原には幕府公認の芝居小屋が七座存在しましたが,火事で幾度も焼失したり,興行の中心が大坂に移ったため数を減らし,江戸時代中期には四条通りの南の芝居と北の芝居,大和大路の西の芝居の三座となりました。
 西の芝居は1794年(寛政6年)の大火後は再建されず,北の芝居は1892年(明治25年)四条通の拡張に伴い閉鎖されたので,南の芝居だけが残りました。
 1913年(大正2年)に大改築を行い,さらに,1929年(昭和4年)に建替えられました。
 1991年(平成3年)に改修工事が行われ,桃山風の外観を残しつつ最新設備を備えた劇場として新装開場,また,耐震補強と内装設備の更新を併せた「耐震補強大規模改修工事」が2018年(平成30年)に完了しました。
 出雲阿国が1603年(慶長8年)の春,京市中においてかぶき踊りを披露したことが歌舞伎の起源とされ,南座の前には「阿国歌舞伎発祥地」の石碑があります。
 毎年11月末日から12月末まで行われる吉例顔見世興行は京都の風物詩となっていて,このときに役者の名前を勘亭流で書いた「まねき」とよばれる白木の看板が劇場の入り口上にずらりと並べられますが,まさに,この日がまねき上げでした。

 その後,祇園の四条通にある「笹屋昌園・八坂祇園店」でスィーツを食べてから,祇園花見小路にあるライカギャラリー京都へ行って,中井精也の写真展 「ライカと、てつたび。」 を見ました。

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【Summary】
This account details a visit to various historical sites in Kyoto. Starting at Uji Mausoleum, I took the JR Nara Line to Tofukuji Station and explored Tofukuji Temple, a Zen temple known for its autumn foliage and historical significance. I then visited the nearby mausoleum of Empress Teishi and Imakumano Kannonji Temple, dedicated to Kannon and linked to Kukai’s legend. The journey ended at Sennyuji Temple, a prominent Shingon temple and imperial mausoleum with exquisite architecture, gardens, and artistic treasures like Kano Tanyu’s dragon paintings.

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 今回は,「光る君へ」の登場人物お墓巡りの間に訪れたいくつかの場所について書きます。
 2024年11月25日。
 宇治陵に行ってから再びJR木幡駅から奈良線に乗ってJR東福寺駅で降りました。私の目指したのは泉涌寺の近くにあるという一条天皇の皇后だった藤原定子の陵だったのですが,まずは東福寺を通りました。

●東福寺
 京都五山の第四位の禅寺東福寺は臨済宗東福寺派の大本山の寺院で,山号は慧日山(えにちさん),本尊は釈迦如来です。京都五山は,天竜寺,相国寺,建仁寺,東福寺,万寿寺です。なお,鎌倉五山は,建長寺,円覚寺,寿福寺,浄智寺,浄妙寺です。
 今なお25か寺の塔頭を有する大寺院で,かつては,雲居寺の大仏,方広寺の大仏に次ぐ高さを有する身の丈五丈の釈迦如来座像を有し,威容を誇っていました。
 紅葉の名所として有名で「東福寺の伽藍面」(がらんづら)とよばれます。
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 1236年(嘉禎2年)に九条道家が九条家の菩提寺として大寺院を建立することを発願し,奈良の東大寺と興福寺から1字ずつ取って「東福寺」としたのがはじまりです。
 1319年(元応元年)の大火災で伽藍と釈迦如来座像が全焼。以降,たびたび再建されましたが,1881年(明治14年)の失火で主要な建物は焼失してしまい,現在の本堂、方丈、庫裏などは明治以降の再建です。
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 臥雲橋(がうんきょう)から眺めた東福寺内の通天橋あたりの紅葉が有名な風景です。
 紅葉の時期はJR東福寺駅あたりからすでにすごい人混みなのですが,私が行ったときは,まだ紅葉には早く,予想以上に観光客がおらず,少し拍子抜けでした。  
 臥雲橋の少し手前を東に向かっていくと,観光客もほとんどいなくなり,静かな住宅街となります。そのあたりにあったのが藤原定子の陵ですが,それを過ぎると,今熊野観音寺に突き当たります。

●今熊野観音寺
 今熊野観音寺は真言宗泉涌寺派の寺院で,泉涌寺の塔頭,山号は新那智山,本尊は十一面観音です。
 唐で真言密教を学んで帰国した翌年の807年(大同2年)に東山から光が出ているのを見つけた空海が不思議に思って当地にやってきたところ,老人の姿をした熊野権現が天照大神御作の一寸八分の十一面観音菩薩像を手渡して,この地に一宇を建ててこの観音菩薩を祀り衆生を救済するようにと言いました。そこで,空海は自ら一尺八寸の十一面観音菩薩像を刻み,授かった一寸八分の像をその体内仏として中に納め,熊野権現のいうようにこの地に一宇を建てて奉安したのがはじまりであるとされます。
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 平安時代後期,熱心な熊野三山の信者であった後白河上皇がこの地一帯に目をつけ,新たに熊野権現を勧請し,「新那智山」の山号を授けて東山観音寺を観音寺に改め,山麓に新熊野神社を造営しました。現在の本堂は1712年(正徳2年)に建立されたものです。
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 今熊野観音寺はボケ封じの御利益があるということで,他人事ではなくなった私は,普段は信心がないのに,お守りを買いました。
 坂を下ると泉涌寺に出ました。私は,これまで泉涌寺には何度も来たことがありました。

●泉涌寺
 泉涌寺は真言宗泉涌寺派の総本山の寺院で,山号は東山(とうざん),本尊は釈迦如来,阿弥陀如来,弥勒如来の三世仏。皇室の菩提寺として御寺(みてら)とよばれています。
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 平安時代に弘法大師空海が草創したと伝わりますが,実質的な開山は鎌倉時代の月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)で,霊泉が湧いたので寺号を泉涌寺としたといいます。東山の一峰である月輪山の麓に広がる寺域内には,鎌倉時代の後堀河天皇,四条天皇,および江戸時代の後水尾天皇から孝明天皇に至る天皇陵があります。
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 長い参道の先にある大門をくぐると左手に楊貴妃観音堂があり,正面には伽藍の中心をなす仏殿,舎利殿が建ち,これらの背後に霊明殿,御座所など皇室ゆかりの建築があり,その背後に月輪陵があります。
 仏殿は1668年(寛文8年)徳川家綱の援助で再建したもので,内部は禅寺風の土間とし,柱,窓,組物,天井構架等の建築様式も典型的な禅宗様です。本尊は過去・現在・来世を表す伝運慶作の釈迦如来,阿弥陀如来,弥勒如来の3体を安置し,天井の「雲龍図」,本尊背後の「飛天図」,裏壁の「白衣観音図」は狩野探幽の筆になります。
 また,舎利殿は,1600年ごろの慶長年間に京都御所の建物を移築・改装したもので,天井の「雲龍図」は狩野山雪筆で,「鳴龍」ともよばれ,手を叩くと響きます。現在公開中で見ることができました。
  本坊は1818年(文化15年)に建立されたもので,女官の間,門跡の間,皇族の間,侍従の間,勅使の間,玉座の間などがあります。また,御座所では美しい庭園を見ることができました。

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The 2024年12月8日は土星食でした。

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【Summary】
On November 26, 2024, after staying at Toyoko Inn Kyoto Gojo-Karasuma, I visited the graves of Murasaki Shikibu and Ono no Takamura, then walked to the mausoleums of Emperor Sanjo, Emperor Ichijo, and other Heian-era emperors. These sites revealed rich historical ties, including Murasaki's life, her The Tale of Genji, and Takamura's legendary role in the underworld.

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 京都の東横イン五条烏丸で1泊した翌日2024年11月26日は,まず,市バスに乗って紫式部の墓に行きました。
 紫式部と小野篁の墓は隣同士にあります。場所は堀川北大路を下った西側で,平安時代に式部が生まれ、晩年を過ごしたと言われる雲林院白毫院があった場所になります。
 紫式部は,26歳のとき46歳の藤原宣孝と結婚,賢子をもうけました。2年後,夫が亡くなったあと一条天皇の中宮彰子に女房兼家庭教師として仕え,1012年ごろまで「源氏物語」を書き続けていたようです。晩年は雲林院百毫院で過ごしました。
 小野篁は,閻魔大王が任命したあの世の冥官で,地獄行きかどうかの判決の助言をしていたとされます。閻魔大王からおよびがあると,夜中に六道珍皇寺の「冥土通いの井戸」から冥土の世へ出向き,朝方に嵯峨野にある福成寺の「黄泉がえりの井戸」から現世に戻って宮中に出仕しました。
 「源氏物語」は好色を描きすぎたことで,紫式部は地獄へ落ちましたが,地獄に落ちた紫式部を助け出すため,小野篁は閻魔大王に彼女を地獄から出してくれるようにお願いし,助け出したのち,自分の墓の隣に埋葬したのではないかといわれています。

 ここから歩いて,三条天皇陵へ行きました。
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 67代三条天皇は,976年(天延4年)に生まれ,1017年(寛仁元年)に41歳で亡くなりました。
 63代冷泉天皇(64代円融天皇,65代花山天皇,66代一条天皇)の第2皇子です。
 冷泉・円融両統の迭立に基づき東宮となりましたが,一条天皇より4歳年上でした。1011年(寛弘8年)に一条天皇が崩御数日前に譲位したので,36歳で即位しました。
 3年後,眼病を患い,内裏の焼失や病状の悪化もあり、1016年(長和5年)に後一条天皇に譲位しましたが,翌1017年(寛仁元年)に崩御しました。
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 三条天皇陵は鹿苑寺金閣の東側にありました。付近は超高級住宅地ですが,三条天皇陵はとても小さなものでした。
 
 次に向かったのが一条天皇陵でした。
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 66代一条天皇は,980年(天元3年)に生まれ,1011年(寛弘8年)に亡くなりました。
 円融天皇の第1皇子で,母は藤原兼家の娘・藤原詮子。花山天皇が内裏を抜け出して出家したため,数え年7歳で即位しました。
 一条天皇の時代は藤原氏の権勢が最盛に達し,皇后・藤原定子に仕える清少納言,中宮・藤原彰子に仕える紫式部,和泉式部らによって平安女流文学が花開きました。
 1011年(寛弘8年)ごろに病が重くなり,居貞親王(三条天皇)に譲位し32歳で崩御しました。
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 一条天皇陵は竜安寺の東にありました。麓には後朱雀天皇陵,後冷泉天皇陵,後三条天皇陵がならんでいましたが,その傍らに参道があって,その向こうには鹿よけの柵があり,柵を開けて登っていくと,かなりの標高のところに,巨大な一条天皇陵が,そのとなりの堀河天皇陵とともに存在しました。想像をこえる立派さでした。

 なお,69代後朱雀天皇は,1009年(寛弘6年)に生まれ,1045年(寛徳2年)に亡くなった一条天皇の第3皇子です。70代後冷泉天皇は,1025年(万寿2年)に生まれ,1068年(治暦4年)に亡くなった後朱雀天皇の第1皇子で,紫式部の娘大弐三位が乳母です。71代後三条天皇は,1034年(長元7年)に生まれ,1073年(延久5年)に亡くなった後朱雀天皇の第2皇子です。  73代堀河天皇は,1079年(承暦3年)に生まれ,1107年(嘉承2年)に亡くなった白河天皇の第3皇子です。

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【Summary】
On November 25, 2024, I toured the newly renovated Kansai Shogi Hall before traveling to Kyoto to visit graves of historical figures featured in Hikaru Kimi e. I avoided crowded tourist spots and began at Uji Ryō, a burial site for Fujiwara clan members like Michinaga. Despite some decay, I found sites like Akiko's grave. Later, I visited Empress Teishi’s grander tomb near Tōfuku-ji, reflecting on the stark contrasts between the two and how graves often symbolize the power dynamics of the surviving era.

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 2024年11月25日の午前中,新装なった関西将棋会館の内覧会に行った後,京都へ出ました。京都で1泊して,NHK大河ドラマ「光る君へ」に登場する人たちの墓巡りをしようと考えました。
 昨年の今ごろ,紀伊半島を1周した後で混雑覚悟の京都へ寄って仁和寺に行ったのですが,すでに紅葉のライトアップも終わり,予想とは違い京都はがらがらでした。しかし,今年は,紅葉が遅く,おそらくどこもまだすごい人混みろうから紅葉の観光地を避けようと思ったことと,私が「光る君へ」に凝っていることもあって,墓詣ならいくらなんでも来る人など稀有に違いないと考えたからでした。
 古墳を巡ることを趣味としている人たちがいるらしく,こうした人のことを「古墳マイラー」というそうです。私は特にそうした趣味はないのですが,持ち前の好奇心で,こうなったらもれなく巡ってみようと考えました。
 これまでは,そんな興味もなく,行く先々に天皇陵があっても,まったく気にも留めませんでしたが,調べてみると,天皇陵はあちこちに散らばっていて,「光る君へ」に登場していた天皇の陵墓をまわるだけでも不可能に近かったので,主だったものだけにしました。さらに,藤原道長と紫式部の墓も加えました。

 まず行ったのが,藤原家の人々が葬られているという宇治陵でした。ここに藤原道長の墓があるということでした。
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 宇治陵は地蔵山および御蔵山に散在する古墳群を総称したもので,宇治市にある古墳群と藤原氏とその関係者の陵墓群です。
 地蔵山及びその北側浄妙寺山の南北約1.8キロメートル,東西0.9キロメートル,総面積89,332平方メートルに点在する大小320もの陵墓群で,明治10年に宮内庁によって調査され17陵3墓を木幡陵と定められ,後に宇治陵として1号から37号までの番号が付けられました。
 宇治陵は,藤原冬嗣,藤原基経,藤原時平,藤原道長,藤原頼通などと藤原家から入内した中宮などの女性の埋葬地とされています。
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 JR京都駅から奈良線に乗って,木幡駅で降りるということだったのですが,考えてみれば,奈良線というのは,沿線には,紅葉の名所である東福寺,また,インバウンド名物の伏見稲荷とあるから,それを考えるだけで憂鬱になりましたが,ともかく,満員の列車に乗り込みました。
 さすがに木幡駅まで来ると車内は人が少なくなり,木幡駅で降りたのも,この辺りに住んでいる人くらいのものとなりました。木幡駅から南に県道7号線に沿って歩いていくと,右手に1号墳がありました。1号陵は総遙拝所に当てていて,宇治陵に葬られた藤原家から入内した中宮など皇室関係の人たちの名前がずらりと並んでいました。その中に,藤原彰子の名前もありました。
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 藤原彰子は988年(永延2年)に生まれ,1074年(承保元年)に86歳で亡くなった66代一条天皇の中宮です。後一条天皇、後朱雀天皇の生母です。
 女房には,紫式部,和泉式部,赤染衛門,紫式部の娘・大弐三位,伊勢大輔などがいます。
 藤原道長の長女で,母は左大臣源雅信の女・倫子です。
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 木幡駅の北の住宅街に32号墳がありましたが,何の標示も存在しませんでした。ここが藤原道長の墓とする説があるのだそうです。
 宇治陵は,そのほとんどが朽ちていて,住宅街に埋没していました。

 泉涌寺のちかくに,一条天皇の皇后だった定子の陵があるということだったので,再び木幡駅から列車に乗って,東福寺駅で降りました。東福寺から歩いて,定子の陵に着きました。大きな陵でした。
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 藤原定子は,976年(貞元元年)に生まれ,1001年(長保2年)に25歳で亡くなった66代一条天皇の皇后です。数え15歳の春に一条天皇に入内し,藤原定子に仕え,「香炉峰の雪」の逸話でも知られた女房が清少納言です。
 藤原定子は,第2皇女・媄子内親王を出産した直後に死去しました。
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 一条天皇の中宮だった彰子の陵である宇治陵と比べ,この差はなんだろう? と思いました。とはいえ,わずか25歳で亡くなったこの人の一生は何だったのだろう,と思いました。
 墓というものは,生きていたときとは関係なく,残された者の力関係で決まるものです。

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【Summary】
After crossing the Uji River, I visited Byodoin Temple and was surprised by its newly renovated appearance, contrasting with their previous visit. They were also struck by the large number of foreign tourists. Reflecting on the temple's historical background, they contemplated the Amitabha Buddha and the depiction of the Western Pure Land inside the Phoenix Hall. For lunch, they ate regular soba at a restaurant called "Kangetsu," although they had expected to have green tea soba. On the way home, they enjoyed soft-serve ice cream at the Konan parking area.

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 宇治川を渡り終えたところに平等院がありました。拝観料を払って中に入りました。
 この日,これまでに行った,「光る君へ」大河ドラマ展,宇治市源氏物語ミュージアム,宇治上神社,宇治神社といった宇治の場所とはまったく違い,多くの観光客が外国人で,すごく混み合っていました。
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 国宝の鳳凰堂で世界に広く知られている平等院は,単立の寺院で,山号は朝日山,本尊は阿弥陀如来。開基は藤原頼通,開山は明尊です。
 宗派は17世紀以来天台宗と浄土宗を兼ね,現在は特定の宗派に属しておらず,塔頭である本山修験宗聖護院末寺の最勝院と浄土宗の浄土院が年交代制で共同管理しています。
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 私は,以前,平等院は来たことがあります。そのときは古びて,威厳のある佇まいに感動しましたが,その後改修工事が行われたらしく,新しくて,驚き,また,少しがっかりしましtた。また,思ったより小さくて狭いところだと思ったのは,様々なところに行ったからでしょう。
 宇治は,平安時代初期から貴族の別荘が営まれていたところで,平等院もまた,9世紀末ごろに52代嵯峨天皇の第12皇子源融(みなもとのとおる)が営んだ別荘だったものが,57代陽成天皇,59代宇多天皇と渡り,61代朱雀天皇の離宮「宇治院」となり,それが宇多天皇の孫である源重信を経て,998年(長徳4年)に藤原道長の別荘「宇治殿」となったものです。

 1027年(万寿4年)に藤原道長が没すると,その子・藤原頼通は1052年(永承7年)に「宇治殿」を寺院に改めようと考え,小野道風の孫で天台宗寺門派で園城寺長吏を務めて京都岡崎の平等院の住持となっていた明尊大僧正によって開山しました。
 本堂は,元は「宇治殿」の寝殿で,それを仏堂に改造したものです。
 平等院は,南北朝時代の争乱以降,鳳凰堂のみが焼け残りました。そして,室町時代になると,平等院は次第に荒廃していきました。戦国時代の明応年間(1500年ごろ),浄土宗の栄久が,廃れていた平等院を修復するために,塔頭・浄土院を創建しました。以降,浄土院が平等院を管轄し1654年(承応3年),住心院の天台宗寺門派の僧が,塔頭・最勝院を創建し,1662年(寛文元年)からは最勝院住持が平等院の住持を兼ねるようになったことで,平等院は,浄土宗と天台宗寺門派の共同管理となりました。
 江戸時代の末期には荒廃が進みましたが,1902年(明治35年)から1907年(明治40年)にかけての明治修理で半解体修理が行われ,1950年(昭和25年)から1957年(昭和32年)にかけて解体修理が行われました。
 2001年(平成13年)には「宝物館」に代わり「平等院ミュージアム鳳翔館」がオープン,また,2012年(平成24年)から2014年(平成26年)まで,屋根の葺き替え・柱などの塗り直し修理が行われました。

 鳳凰堂の堂内に入りました。堂内は,以前来たときと変わっていませんでした。ここには,阿弥陀仏,壁扉画壁画や供養菩薩像があって,浄土真宗の根本経典である「浄土三部経」のひとつで,どんなに罪深い凡夫でも南無阿弥陀仏のお念仏を称えることで救われ極楽に往生できることを説く「観無量寿経」(かんむりょうじゅきょう)の所説に基づいた西方極楽浄土を観想するという説明がありました。
 今とは異なり,医学も発達していなかった時代。こうして仏に祈るしか生きるすべもない当時の人たちは,苦悩を越えた極楽浄土への夢を思い描きました。
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 これで,この日の目的は終わりです。
 最後に昼食をとることにして,平等院近くにあった「観月」という店でそばを食べました。宇治の茶そばを食べたかったのですが,この店のそばは茶そばではありませんでした。どうして平等院近くに店を開いていて茶そばでないのか腑に落ちませんでしたが,どうりで空いていたはずでした。まあ,私は特にこだわりはないし,茶そばを食べたければまた来ればいいと思いました。
 帰りも,新名神高速道路を走りました。途中の甲南パーキングエリアでソフトクリームを食べました。

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【Summary】
After leaving the Uji Genji Museum, I visited Ujigami Shrine, Uji Shrine, and crosses the Asagiri Bridge. I passed through an island with a thirteen-story stone pagoda before crossing Kisen Bridge, ending at Byodo-in Temple. The narrative highlights historical details, such as Ujigami Shrine's ancient origins and the significance of the monuments related to "The Tale of Genji".

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 宇治市源氏物語ミュージアムを出ました。
 このあとは,宇治上神社(うじかみじんじゃ),宇治神社を経て,宇治川にかかる朝霧橋(あさぎりばし)を渡り,中洲の浮島を通り,再び宇治川にかかる喜撰橋(きせんばし)を渡り,最後の目的地は平等院です。このあたりは旅番組などで宇治がテーマとなるときに必ず出てくるところですが,私は行ったことがなかったので,一度は訪れてみたいと思っていました。
 宇治市源氏物語ミュージアムの裏手の小道を歩いていくと,宇治上神社の古びた建物が見えてきました。私はこうした場所を散策するのが好きですが,それにしても,この日は暑すぎました。
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 宇治上神社は式内社で,隣接する宇治神社とは対をなします。祭神は,大鷦鷯尊(おおささぎのみこと=後の仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと) ,15代応神天皇,16代仁徳天皇です。創建年代などの起源は明らかではありませんが,第15代応神天皇の離宮「桐原日桁宮」の旧跡で,菟道稚郎子命の宮居跡と伝えられていて,菟道稚郎子命の薨御後に御神霊を祀ったのがはじまりとされます。2004年(平成16年)の調査で,本殿は1060年頃のものとされて「現存最古の神社建築」であることが裏付けられました。
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 宇治上神社に行ってから,その次の宇治神社に向かいました。
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 宇治神社(うじじんじゃ)も式内社で,隣接する宇治上神社とは対をなします。祭神は菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)で,本殿に菟道稚郎子像と伝える神像が祀られています。創建年代などの起源は明らかではありません。
 1052年(永承7年)に平等院ができると,宇治上神社と宇治神社はその鎮守社とされ,明治以前は宇治上神社は「上社」「本宮」,宇治神社は「下社」「若宮」,両社を合わせて「宇治離宮明神」「宇治離宮八幡宮」と総称されていましたが,明治に入って分離しました。
  ・・・・・・
 宇治神社を出て,宇治川に向かうと,朝霧橋のたもとに「源氏物語」の「宇治十帖」で,浮舟と匂宮が小舟で宇治川に漕ぎ出す情景をモチーフとするモニュメントがありました。

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 いとはかなげなるものと,明け暮れ見出だす小さき舟に乗りたまひて,さし渡りたまふほど,遥かならむ岸にしも漕ぎ離れたらむやうに心細くおぼえて,つとつきて抱かれたるも,いとらうたしと思す。
 有明の月澄み昇りて,水の面も曇りなきに「これなむ、橘の小島」 と申して,御舟しばしさしとどめたるを見たまへば,大きやかなる岩のさまして,されたる常磐木の蔭茂れり。 「かれ見たまへ。いとはかなけれど,千年も経べき緑の深さを」 とのたまひて
  年経とも変はらむものか橘の 小島の崎に契る心は
 女も,めづらしからむ道のやうにおぼえて
  橘の小島の色は変はらじを この浮舟ぞ行方知られぬ
 折から,人のさまに,をかしくのみ何事も思しなす。
  「源氏物語」 51帖「浮舟」
  ・・・・・・
 朝霧橋は1972年に宇治川に架けられた長さ74メートルの橋です。朝霧橋を渡ると浮島があって,そこに十三重石塔(じゅうさんじゅうせきとう)がそびえています。
  ・・・・・・
 十三重石塔は,現存する石塔としては日本最大である15.2メートルの供養塔です。
 鎌倉時代後期にあたる1284年(弘安7年(1284年),僧・叡尊が,宇治橋の大掛かりな修造を手がけた折り,宇治川に舟を模した形の人工島を築き,島の中央に大塔婆を造立しましたが,氾濫の被害をたびたび受けて,川底の泥砂に深く埋もれてしまいました。1905年(明治38年)に復興が発願され,1908年(明治41年)に再建されました。
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【Summary】
After visiting the "Hikaru Kimi e" Taiga Drama exhibition, I walked to the Uji City Tale of Genji Museum, which was about a 10-minute walk. The museum is located in Uji because the last ten chapters (45-54) of the Tale of Genji are set there. The exhibits provided detailed explanations of the "Uji Jujo" and offered a calm atmosphere, though it was later disrupted by a large tour group.

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 「光る君へ」大河ドラマ展の次に,宇治市源氏物語ミュージアムまで歩いていきました。歩いて10分ほどでした。
 どうして宇治市に源氏物語ミュージアムがあるのかというと,紫式部の書いた「源氏物語」54帖のうち,45帖「橋姫」から54帖「夢浮橋」までが「源氏物語」第3部「宇治十帖」(うじじゅうじょう)といって,宇治を主要な舞台としていることからです。

 「源氏物語」第1部の1帖「桐壺」から41帖「幻」(まぼろし)までの主人公は光源氏ですが,「幻」と「匂宮」の間にあるとされ,巻名だけが伝えられ内容は伝存しない「雲隠」(くもがくれ)で光源氏の死が暗示された後は,光源氏(実は柏木)と女三宮の子である薫と今上帝と明石中宮の子である匂宮(におうのみや)が主人公となります。
 「宇治十帖」は,光源氏亡き後の子孫とその縁者の後日談を書く42帖「匂宮」から44帖「竹河」の「源氏物語」第2部「匂宮三帖」の次にあたります。
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●45帖「橋姫」
 光源氏の弟・八宮(はちのみや)は宇治に隠棲し仏道三昧の生活を送っています。
 自らの出生に悩む薫は,八宮の生き方を理想として邸を訪れるうちに,八宮の長女・大君(おおいぎみ)に心を引かれるようになります。薫が宇治の有様を語ると匂宮もこれに興味をそそられます。
●46帖「椎本」 (しいがもと)
 匂宮は宇治に立寄り,八宮の次女・中君(なかのきみ)と歌の贈答をします。
 八宮が薨去(こうきょ)し,ふたりの姫君たちは薫に托されました。薫は中君と匂宮の結婚を計画し,自らはを大君に思いを告げるのですが,返答はつれないものでした。
●47帖「総角」(あげまき)
 薫は大君から受け入れられず,むしろ,大君は中君と薫の結婚を望みます。
 やがて,薫の計画通りに,匂宮と中君は結婚を果たしますが,心労が重なった大君は病に臥し,亡くなってしまいます。
●48帖「早蕨」(さわらび)
 大君の喪が明け,中君は匂宮の元に引き取られます。薫は後見として中君のために尽くしますが,かえって匂宮に疑われます。
●49帖「宿木」(やどりぎ)
 匂宮と夕霧の娘・六君が結婚し,懐妊中の中君は行末を不安に思います。
 中君は無事男子を出産して安定した地位を得ます。
 一方,薫は今上帝の皇女・女二宮と結婚しますが傷心は癒されません。しかし,初瀬詣の折,故大君に生き写しである中君の異母妹(八宮と中将君の子)・浮舟を垣間見て,心を動かされます。
●50帖「東屋」
 浮舟の母・中将君は,浮舟が高貴の男性と婚姻することを望んで,浮舟を中君のもとに預けます。ある夜,匂宮が浮舟と強引に契りを結ぼうとしたため,薫はあわてて浮舟を引き取り,宇治の山荘に移します。
●51帖「浮舟」
 浮舟への執心やまぬ匂宮は彼女の居所を察し,薫を装って宇治に赴き強引に浮舟との関係を結びます。浮舟も匂宮を思うようになりますが,何も知らない薫は彼女を京に移そうとし,匂宮もこれに対抗して自らのもとに彼女を連れ去る計画を立てます。
 匂宮とのことは薫の知るところとなり,浮舟はふたりの男のあいだで懊悩します。
●52帖「蜻蛉」(かげろう)
 浮舟は行方不明になり,入水自殺を図ったと,遺骸のないまま急遽葬儀を行います。
 薫は,新たに,匂宮の姉・女一宮に心惹かれるものを感じます。
●53帖「手習」
 浮舟は,横川の僧都によって入水自殺後に助けられていました。
 健康が回復した彼女は,入道の志を僧都に告げて髪を下ろします。やがて,このことが薫の知るところとなります。
●54帖「夢浮橋」
 薫は横川に赴き,浮舟との対面を求めるのですが僧都に断られ,還俗を求める手紙を浮舟の弟・小君に託します。しかし,浮舟は一切を拒んで仏道への専心を願い返事さえしません。
 浮舟に心を残しつつ薫は横川を去るのでした。
  ・・・・・・

 宇治市源氏物語ミュージアムは,私がずいぶん前に来たときの印象とはだいぶ違っていましたが,「宇治十帖」に関して,詳しい説明や展示があって,落ち着いたところでした。
 「源氏物語」の世界にこころを移していたころ,ここにも団体旅行ツアーの人たちがどっとやってきて,せっかくの雰囲気が一変してしまいました。

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【Summary】
While visiting the Taiga Drama exhibition, I also stopped by the Uji City Tale of Genji Museum and Byodoin Temple. After parking near Byodoin, I walked across Uji Bridge, one of Japan's three oldest bridges. I then visited the Taiga Drama exhibition and explored the Uji River embankment (Taikō-dote), a major engineering project initiated by Toyotomi Hideyoshi to alter the river's course. Despite his negative reputation, Hideyoshi's political foresight and execution of large-scale projects continue to impress me.

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 話題は,2024年9月3日,京都・宇治の「光る君へ」大河ドラマ展に行ったときに戻ります。
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 大河ドラマ展に行くついでに,長らく行っていなかった宇治市源氏物語ミュージアムと宇治の平等院にも寄ることにしていました。このときもまた,いつものように,何も調べずに車でやって来ました。
 案内標示に従って走って,平等院に着きました。
 大河ドラマ展,宇治市源氏物語ミュージアム,最後に平等院へ歩いて行くことにしていたので,最終目的の平等院の近くに車を停めるのが便利だろうと,平等院近くに駐車場を見つけたのでそこに車を停めました。歩いてまわることができるほどの距離なのですが,蒸し暑い日だったので,少し躊躇しました。

 まずは,「光る君へ」大河ドラマ展が開催されているという,お茶と宇治のまち歴史公園交流館「茶づな」へ向かいます。平等院の駐車場からは,歩いて宇治橋を北に向かって渡ることになります。
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 大化2年(646年)建造といわれる宇治橋は,200年ごろに神功皇后が建造したとされる瀬田の唐橋,行基が725年(神亀2年)に架けたとされる山崎橋とならび,日本三古橋にひとつに数えられます。
 宇治橋は奈良元興寺の僧・道登によって架けられたと伝えられます。現在の橋は1996年(平成8年)に架け替えられたもので,長さは155.4メートル,幅25メートル。桧造りの高欄,青銅製の擬宝珠を冠した伝統的な形状をしています。
 また,上流側に張り出した「三ノ間」は,守護神「橋姫」を祀った名残りとか,豊臣秀吉が茶の湯に使う水を汲ませたところともいわれ,宇治の茶まつり「名水汲み上げの儀」が行われます。
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 宇治橋を渡ると,京阪電車宇治駅に到着しました。ここから宇治川に沿って歩いていくとお茶と宇治のまち歴史公園交流館「茶づな」に到着します。ここを会場とする「光る君へ」大河ドラマ展についてはすでに書いたので,きょうは太閤堤について紹介します。
 このあたりの宇治川の堤防が宇治川太閤堤といわれるものです。
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 宇治川太閤堤跡は,宇治川の右岸,宇治橋下流,現在の京阪宇治駅付近から北へ400メートルほどの長さにわたって発掘された護岸遺構で,秀吉時代の堤防(太閤堤)工事関連遺構と考えられています。
 近世以前の宇治川は,宇治橋より下流ではいくつもの流れに分かれ,広大な遊水池・巨椋池(おぐらいけ)に流入していました。なお,現在,巨椋池は干拓されて農地に変わっています。
 豊臣秀吉は,1594年(文禄3年)の伏見城築城を機に,伏見城の南方を流れる宇治川の流路変更をともなう大規模な築堤工事を諸大名に命じて実施しました。太閤堤によって宇治川の流路を一本化し,川が宇治橋から北流して伏見へ向かって流れるようにするとともに,宇治川と巨椋池の分離を図りました。
 従来,太閤堤はこの付近では左岸側のみに築堤されたとされていましたが,右岸護岸跡にも発見されました。右岸護岸跡には,「石積み護岸」「石出し」「杭出し」などが南北400メートルに渉って点在します。太閤堤の多くは,現在は失われましたが,右岸の護岸は,砂州に埋もれていたため地中に保存されたものです。
  ・・・・・・・
 豊臣秀吉といえば,晩年は悲惨だし,成金趣味だし,異常な女好きだし,いったいこの男のどこがいいのだろうと,私はまず思うのですが,こうした施策の数々を知ると,立派な政治家です。大した教育も受けていないのに,どうしてこういう発想が浮かぶのだろうか,この実行力はどこからくるのだろうか,など,単なる独裁者とは違う姿に,私はいつも戸惑うのです。

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 2024年9月3日。暑い8月も終わり,台風も去った平日,念願の宇治へ行きました。目的は,「光る君へ」大河ドラマ展,宇治源氏物語ミュージアム,そして,平等院でした。
 私は「光る君へ」にすっかりはまっていて,これまで,石山寺と越前の大河ドラマ館には行ったので,残された宇治にも行ってみることにしたのです。また,宇治源氏物語ミュージアムと平等院は,以前,行ったことがあるのですが,ずいぶんと古いことゆえ,すっかり忘れていたので,この機会に再び行ってみました。
 今日は,大河ドラマ展について書きます。

 午前6時前に家を出ました。宇治までは,車で新名神高速道路と京滋バイパスを経由して約2時間です。午前9時開館ということだったので,それより早く到着して,まず,付近を散策することにしました。以前宇治に行ったときは,単に目的地に行っただけで,宇治橋すらのんびりと渡ったことがなかったからです。このことは,また,後日書きます。
 さて,大河ドラマ展です。会場はお茶と宇治のまち歴史公園交流館「茶づな」という建物の2階で,京阪電車宇治駅の近くでした。開館と同時に入ったのですが,ほかに来ていた人はおらず,拍子抜けでした。とはいえ,静かな中で,十二分に堪能することができました。
 8月27日にリニューアルしたということで,展示の内容は,8月18日に放送された第31回「月の下で」に沿ったものでした。ドラマで実際に使われたものが展示されていて,とても興味をもちました。

 大河ドラマ館(展)というものは,以前はなく,渋谷のNHK放送センター内の見学コースがその役割をしていたのですが,NHK放送センターは改築工事で見学コースがなくなり,こういった形で開催すれば銭になる,ということを知ってしまったのか,ゆかりの地方で開催されるようになりました。しかし,「麒麟が来る」や「鎌倉殿の13人」のころは,岐阜城や鎌倉というように一箇所だったものが,さまざまな場所で開催されるようになり,そうなれば,当然,展示も少なくなります。今回も,それほど見もの,というものもなく,その点は物足りませんでした。したがって,客の入りがいいとはいえません。もう,こういうやり方も終焉を迎えているようにも思えます。
 とはいえ,私のような暇人には,これを口実に,その土地を旅すると思えば,それはそれで楽しいものです。特に,「光る君へ」は,京都と越前というように,出かけるには最高の場所でもあります。

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 いまから30年近く前,突然京都に目覚めました。
 ある年の10月に何かのきっかけで京都を訪れました。当時は,紅葉前の京都は観光客も少なく,気候もよく,静寂に包まれていました。私は,京都のすばらしさを知ってしまったのです。京都は,見るもよし,写真をとるもよし,そして,おいしいものを食べてもよし。それまでの私は,日本にこんなところがあるということすら知りませんでした。
 そこで,購入したのが山と渓谷社から出ていた「歩く地図S・京都」というガイドブックでした。そして,この本を片手に,月に1回は京都に行くようになりました。こうなると,何事もすべてやってしまいたい性格から,この本に載っている寺社仏閣にすべて行こうと思うようになりました。
 今では考えられないのですが,冬の寒いときであっても,夏の暑いときであっても,また,雨が降ろうが雪が降ろうが,例外なく,毎月京都に向かうのでした。
 その結果,梅に雪が積もった景色やら,桜満開の風景やら,紅葉のうつくしいライトアップやら,はたまた,春の都おどりやら,貴船の川床料理やら,節分の舞妓さんの豆まきまで,何から何までを体験することができました。
 現在の,インバントでいつ出かけても人混みだらけの状況では考えられないことです。よき月日でした。

 真夏の過酷な日,私は,山科の北にある毘沙門堂へ行きました。
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 護法山安国院出雲寺,通称・毘沙門堂は,山科区にある天台宗の寺院で,山号は護法山,本尊は毘沙門天です。妙法院,三千院,青蓮院,曼殊院とならぶ天台宗京都五門跡のひとつです。ちなみに私はすべて行きました。
 毘沙門堂の前身は出雲寺で,文武天皇の勅願により703年(大宝3年)に行基が開いたといいます。1195年(建久6年)に平親範が平家ゆかりの平等寺,尊重寺,護法寺を統合し,出雲寺の地に護法山出雲寺として再興し,最澄自刻の毘沙門天像を本尊としました。
  1467年(応仁元年)に応仁の乱によって焼失しましたが,1469年(文明元年)に再建され,1571年(元亀2年)に再び焼失してしまいました。 江戸時代初頭,南光坊天海によって復興が開始され,江戸幕府は山科の安祥寺の寺領の一部を出雲寺に与え,現在地に移転・復興されました。毘沙門天を祀ることから出雲寺は毘沙門堂とよばれるようになりました。
 江戸時代初期,111代後西天皇皇子の公弁法親王がこの寺で受戒し,晩年に毘沙門堂に隠棲したことで,以後,門跡寺院となりました。
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 由緒ある寺はすばらしかったのですが,この季節で物足りなかったのが花でした。夏には,梅も桜も藤もカキツバタもありません。
 と思っていたのですが,セミの鳴く寺の入り口で目にしたのが,美しいサルスベリの花でした。今とは違って,当時の私は,花の名前もほとんど知らなかったので,真夏にもこんな花が咲くんだ,と驚きました。それ以来,私には,京都の夏は,サルスベリ,という印象ができあがりました。
 それ以来,毘沙門堂に行くこともなく,また,夏に京都に行くのは五山の送り火だけとなりましたが,私は,そのときの印象が忘れられず,夏になると,五山の送り火とともに,サルスベリの咲く風景が重なるのです。


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☆☆☆☆☆☆
 花山天文台は京都市山科区の花山山山腹に位置する天文台。京都大学大学院理学研究科附属の施設で,1929年(昭和4年)に設立されました。 天文台のある山は標高221メートルの花山山で「かざん」あるいは地元では「かさん」とも読まれています。
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 京都大学における天文学研究は1897年(明治30年)に設立された京都帝国大学理工科大学にさかのぼります。当初は大学敷地内において観測を行っていて,佐々木哲夫によるフィンレー彗星 (15P/Finlay) の観測はこの時期のことです。
 1921年(大正10年)に理学部物理学科が分割されて宇宙物理学科が設置されましたが,大学付近における市電の開通などに伴い観測環境が悪化したので移転が検討されるようになりました。
 花山山にある土地が地主から大学に寄付されたので,2年の工事によって天文台が建設され, 1929年(昭和4年)に花山天文台が設立されました。初代天文台長は山本一清でした。
 京都帝国大学附属の花山天文台は,東京帝国大学附属の東京天文台(現・国立天文台)と並んで日本における天文学研究の拠点でしたが,京都と東京では天文学用語が異なっていることもしばしばでした。東京で「惑星」とよんでいたのに対して,京都では「遊星」,また,1930年(昭和5年)に発見されたPlutoについて,東京では「プルート」を用いたのに対し,京都では野尻抱影が提唱した「冥王星」を早くから受け入れていました。

 設立から長い間,観測施設施設として利用されてきましたが,京都市の人口増加に伴って光害や大気汚染などの環境の悪化により,1968年(昭和43年)に新設されたの飛騨天文台設立にその地位を譲りましたが,現在でも「教育施設」として重要な役割を果たしています。
 花山天文台は,2013年「京都を彩る建物や庭園」に選定され,2014年に「京都を彩る建物や庭園」に認定されました。

●口径45センチメートル屈折赤道儀
 この望遠鏡は,1927年(昭和2年)理学部宇宙物理学教室で購入し,1929年(昭和4年)に花山天文台が創設されたとき移設されました。
 当初は口径30センチメートルのレンズがついていましたが,1969年(昭和44年)に性能向上のため,カール・ツァイス製の45センチメートルレンズに換装され,これによって,焦点距離が675センチメートルと伸びたので鏡筒が長くなってしまいました。
 そこで,架台とのバランスが崩れるのを防ぐために,対物レンズから入った光を末尾の反射鏡で受けて折り返し,鏡筒の真ん中付近に接眼レンズを設けるというユニークな工夫がされているので,一般的な屈折式の望遠鏡とは少し違った外観となっています。
 これがまあ,京都らしいというか,私は好きです。
●口径70センチメートルシーロスタット
 1961年(昭和36年)に設立された太陽館に設置されて,太陽の分光スペクトル観測望遠鏡として活躍しています。現在は大学院生の研究指導や理学部学生に対して課題研究と課題実習の実習教育を実施しています。


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 当初の予定では,仁和寺だけを拝観して帰るつもりだったのですが,人の少ない京都という,うれしい誤算で,すっかりやる気になった私でした。そして,思い出したことがありました。それは「俵屋吉富」(たわらやよしとみ)です。
 2015年から2017年にかけて5回NHKBSPで放送された「京都人の密かな愉しみ」という番組で,常盤貴子さんが主役として「久楽屋」の若女将・三八子を演じたのですが,「久楽屋」のモチーフだった創業260年を超える老舗の京菓子屋「俵屋吉富」がどこにあるか,一度見てみたい,ということでした。
 「俵屋吉富」は,京都御所の北西の室町,つまり,室町幕府のあった場所にあります。仁和寺からは,御室仁和寺駅から嵐電に乗って,終点の北野白梅町で降りて,バスに乗り換え,上京区総合庁舎前で降りて北に歩けばいい,ということがわかったので,そのようにしました。
 今回は,単に場所がわかればいいということで,お店の前を通っただけでしたが,これで納得したので,次回来ることがあれば,お店に入って和菓子でも買おうと思いました。

 こうして,期せずして,京都御所の近くまで来たので,次に,京都御所を横切って蘆山寺に行くことにしました。蘆山寺を思い出したのは,来年のNHK大河ドラマ「光る君へ」の主役・紫式部ゆかりの寺だということからです。蘆山寺は以前にも行ったことがありますが,あまり記憶にありません。また,宮中で元三大師の修法を妨害する悪鬼を退散させた故事にちなむ節分行事「鬼法楽」でも行ったことがありますが,すごい人で拝観するどころではありませんでした。
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 広い京都御所もまた,ほとんど観光客がいませんでした。ただし,清所門(せいしょもん)に差しかかると,まばらに人がいて,みな門から中に入っていくのが見えました。門にいた守衛さんに聞いてみると,京都御所の中に入ることができるというではないですか。以前は,事前に予約をして,やっと見学ができたのですが,今は,一般公開されていて,予約なしでだれでも入ることができるということでした。私は,全く知りませんでした。ということで,これもまた,期せずして,京都御所の見学ができました。
 京都語御所の見どころとしては,襖絵が印象的な「諸大夫の間」,即位式などの重要な儀式が行われる伝統技法で作られた屋根の「紫宸殿」,天皇の日常生活の場で獅子と狛犬の2匹の「守り神」がいる「清涼殿」,四季折々の表情が楽しめる「御池庭」,明治天皇が過ごした「御常御殿」とあるのですが,これらもまた,NHK大河ドラマ「光る君へ」の舞台となるから,おそらく,2024年は脚光を浴び,多くの観光客が押し寄せることでしょう。

 京都御所の見学を終えて,蘆山寺に向かいました。
 廬山寺は天台圓淨宗の寺院で,紫式部の邸宅跡として知られ,源氏の庭やお土居などが残ります。
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 938年(天慶元年)に船岡山の南麓に建てられた與願金剛院,1245年(寛元3年)に出雲路に建てられた廬山寺,このふたつの寺の住持を兼務していた明導照源が,1368年(応安元年)に與願金剛院が廬山寺を吸収合併し,廬山天台講寺となりました。
  豊臣秀吉の寺町建設によって,天正年間に現在地に移りました。たびたびの火災で,現在の本堂は1794年(寛政6年)に仙洞御所の一部を移築して作られたものです。1872年(明治5年)に天台宗の寺院となり,1948年(昭和23年)に天台圓淨宗として独立しましたた。
 1965年(昭和40年)に歴史学者の角田文衞によって,蘆山寺のある場所が紫式部邸跡とされました。
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 こうして,予想していた以上に人が少なかった京都を十分に楽しんで,地下鉄に乗ってJR京都駅に着き,コインロッカーに預けてあった荷物を取り出して,途中下車扱いになっていた乗車券と新幹線の自由席特急券で「ひかり」に乗り込みました。ジパング倶楽部では「のぞみ」には乗ることができない,いや,厳密にいえば,「のぞみ」に乗ることはできますが特急料金が安くならないのです。しかし,京都駅から名古屋駅は「のぞみ」でも「ひかり」でも「こだま」でも,何に乗ってもほとんど所要時間に大差ありません。また,何に乗っても空いているので,JR名古屋駅からJR東京駅に行くときのように,グリーン車にこだわることもないので助かります。むしろ,「こだま」はがらがらなので快適です。
 JR名古屋駅に着いて,駅弁を購入して,自宅まで持って帰りました。家で夕食として,買ってきた駅弁を食べながら,旅の余韻に浸りました。
 すべてがうまくいった2泊3日紀伊半島1周の旅でした。しかし,ただひとつ,やり残したことができました。それは…。

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 「国内旅行の最大の問題は,天候です。とにかく,天気が悪ければ,すべてが台なしですが,これは,自分の運を信じることにしましょう」と書きましたが,毎日とてもよい天気,しかも,冬とも思えない暖かな日々でした。今回も晴れ男の面目躍如です。
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 2023年12月9日土曜日。旅の最終日です。
 JR名古屋駅からJR名古屋駅の紀伊半島1周片道の旅は,今回のように2泊しなくとも,1泊でできるのですが,私が天王寺でもう1泊したのは,最終日に大阪か京都を観光しようと思ったからです。そして,JR京都駅からJR名古屋駅へは新幹線自由席で帰ろうと,切符を持っていました。ただし,大阪か京都のどこに行くかは全く白紙でした。というか,迷っていました。
 大阪を観光してもいいのですが,強いて行きたいところもありません。また,京都は,あまりの人混みで行く気が失せていました。ただし,先日行った将棋の竜王戦第2局の前夜祭のお土産で,対局場となった仁和寺の拝観券をもらったので,これを持参していました。そこで,いろいろと考えたあげく,混雑覚悟で,仁和寺に行ってみることにしました。

 まず,東横インの朝食を取るか取らぬか迷っていたのですが,とにかく1階に降りてみると,人がほとんどいなかったので,東横インで朝食を取ることになりました。天王寺に泊るような人は,前日の夜遅くまで出歩いていたのでしょう。朝が遅いのです。これもまた,うれしい誤算でした。朝食後,早々にチェックアウトして,JR天王寺駅に行きました。京都へは,JR天王寺駅から大阪環状線,東海道線と乗り継ぎます。
 しかし,JR天王寺駅が複雑でわからないこと! 近鉄の難波駅もそうでしたが,大阪は案内板がわかりにくいです。駅員さんに聞いて,何とか大阪環状線のホームにたどり着きました。この国で,東京や大阪を列車で旅することは,海外旅行をすることよりもずっと難解なのです。
 それにしても,JR西日本は,京都線,琵琶湖線,神戸線,嵯峨野線など,どうしてこんな名前をつけるのでしょう。これでは,この地に住んでいない人には理解不能です。東海道線上り・下り,山陰線でいいではないですか。そんな話をすると,東海道線ではわからない,琵琶湖線でなきゃ,と地元の人はいいます。私には,琵琶湖線というと何だか,私鉄やローカル線のように思います。どうやら,頭の中の地図のスケールが違うようです。関西の人は,関西地方だけをイメージし,私は,日本地図をイメージしているのだと,このごろ気づきました。
 ともかく,大阪環状線に乗って,JR大阪駅に着きました。ここで京都線とやらの東海道線上りに乗り換えです。私は,先に来た快速に乗ったのですが,途中で新快速に追い越されました。ほんとうにこれもまた,訳がわかりません。快速がどの駅に停まり,新快速がどの駅に停まるかという経路図が見あたらないのです。ともかく,このようにして,まがりなりにもJR京都駅に着きました。
 これでは,ヨーロッパを鉄道で旅するほうがずっと簡単です。

 JR京都駅で一旦途中下車して,コインロッカーに荷物を預けて,今度はSuicaで改札を入り,嵯峨野線とやらの山陰線に乗ってJR花園駅で降りました。仁和寺はここから北に歩くつもりでした。JR京都駅で降りて,京都市内を混雑するバスやら地下鉄に乗るよりマシだと思ったのです。私は歩くことは苦になりません。
 JR花園駅から北に向かって歩いていったのですが,観光客がほとんど見当たりませんでした。街中だからかな,と思ったのですが,やがて,仁和寺の二王門が見えてきても,やはり,ほとんど観光客はいませんでした。これもまた,うれしい誤算でした。
  ・・・・・・
 知恩院の三門,南禅寺の三門とともに京都三大門のひとつに数えられる仁和寺の二王門は,3代将軍徳川家光の寄進によって,1641年(寛永18年)から1645年(正保2年)ごろに建立されました。
 知恩院三門,南禅寺三門が禅宗様であるのに対し,仁和寺の二王門は平安時代の伝統を引き継ぐ純和様で建てられています。門正面の左右に金剛力士像,後面には唐獅子像が安置されています。
  ・・・・・・
 御室の仁和寺には久しぶりに来ました。仁和寺はさすが門跡寺院,立派です。門跡寺院とは皇族や公家が住職を務めたお寺のことです。
  ・・・・・・
 仁和寺は平安時代の886年(仁和2年)に58代光孝天皇によって発願され,888年(仁和4年)59代宇多天皇によって完成しました。897年(寛平9年)譲位した宇多天皇が出家し,仁和寺1世宇多法皇となりました。以降,皇室出身者が仁和寺の代々門跡を務めました。
  ・・・・・・

 12月だというのに,まだ,紅葉がきれいだったし,竜王戦で対局場となった「宸殿」(しんでん)も見ることができました。さらに,国宝の金堂北側部分に当たる空間「裏堂」の公開を見ることもできました。これもまた,ツイていました。2018年(平成30年)に372年ぶりに公開されて以来,5年ぶりの公開だそうです。
  ・・・・・・
 金堂内の本尊阿弥陀三尊の後壁裏に描かれた五大明王像の公開は,寛永年間に御所・紫宸殿を下賜移築されたものです。
 長期間光を受けず人の呼気にもあたらなかったので,輪郭は細部まではっきりしていて,朱が大変鮮やか,ということです。左から大威徳明王,降三世明王,不動明王,軍荼利明王,金剛薬叉明王と並んだ5人の明王は,恐ろしささえ感じます。
  ・・・・・・
 人が少なかったのが幸いして,久々に京都らしさを堪能しました。
 ゆっくりと仁和寺を鑑賞してから,二王門の前にある「松風」というおそば屋さんで昼食をとりました。紅葉のライトアップが終わって,急に観光客が減った,ということでした。
 京都はこうでなくちゃ。

 ところで,御室の仁和寺といえば,御室桜とともに有名なのは徒然草です。
  ・・・・・・
 仁和寺にある法師,年寄るまで石清水を拝まざりければ,心うく覚えて,ある時思ひ立ちて,たゞひとり,徒歩より詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて,かばかりと心得て帰りにけり。
 さて,かたへの人にあひて,「年比思ひつること,果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも,参りたる人ごとに山へ登りしは,何事かありけん,ゆかしかりしかど,神へ参るこそ本意なれと思ひて,山までは見ず」とぞ言ひける。
 少しのことにも,先達はあらまほしき事なり。
  「徒然草」第52段
  ・・・・・・
 学生のころ知った「徒然草」でその名前を知ったのが,仁和寺とともに石清水八幡宮でした。そこで,石清水八幡宮へも一度は行ってみたいと思っていたのですが,なかなかかないませんでした。
 やっと,2016年になって,「仁和寺の法師」の教訓を得て,石清水八幡宮参道ケーブルで男山へ登って,石清水八幡宮を拝んでくることができました。

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 まず,2020年の秋に私が写した京都の姿をご覧ください。
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 今から30年ほど前の京都は,本当にすばらしいところでした。桜の季節,紅葉の季節はもちろんのこと,夏も,冬も,そして,とりわけ,ハイシーズンが来る少し前の10月の京都は,私が最も好きだった季節で,静寂に包まれて,おだやかな時間を過ごすことができました。
 それが何ということでしょう。
 2019年のころには,京都は,すでに,行くべき場所ではなくなりつつありました。インバウンドやらで,やたらと外国人が押し寄せるようになって,それまでの暗黙の秩序もなくなり,他人の家に土足で踏み込むようなマナーの悪さから,街中には注意書きが溢れていました。また,食事をしようにも,どの店も満員,交通機関も満員,そして,市内の繁華街はカオス状態と化していました。私の大好きだった京都はどこに行ってしまったの? と思いました。

 それが,天の恵みというか,天の裁きというか,2020年の春になると,外国人どころか日本人観光客すらまったくいない京都になりました。私は,こんなことはもう二度と起こらないから,今こそ,京都へ出かける千載一遇の機会が来た,と思って,春も秋も,毎週のように,車で京都へ出かけました。
 そこには,静寂に包まれたむかしの古都の姿がありました。
 そのとき私は,しばらくしたら,再び,2019年のころの京都が戻ってくるだろうから,もう,この街のこの静寂に包まれた姿は二度と来ないだろうと思って,別れを告げてきました。
  ・・
 そして,今年2023年の秋。
 はやり,聞くともなく聞こえてくるのは,大渋滞の京都です。しかも,そのほとんどは外国人で,日本人はどこに行ってしまったの? 状態だそうです,私の周囲の京都好きだった人たちも,もう行かない,と言っています。私も同様です。
 すでに書いたように,私は,今年の10月,別れたはずの京都に行きました。それは,将棋竜王戦第2局の前夜祭に出るためでした。それでも,10月ならまだ大丈夫だろう,というのが甘い考えでした。そこで見たのは,2019年の時と変わらぬ無秩序な京都の姿でした。そこで,このときも,前夜祭に行っただけで,京都見物をすることはありませんでした。

 いつも思い出すのは,今から30年ほど前に,毎週のように京都に出かけて,ほとんど全ての神社仏閣を訪ねたときのことです。
 あのころは,本当によかったな。あの京都はもう,どこにもない。それは,まるで,亡き人を懐かしむのと同じ気持ちです。
 そうだ京都,もう行くのよそう。よき思い出を忘れないために。

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 前回「夏といって私が思うのは,京都・五山の送り火と郡上おどりと徳島の阿波おどりです。これぞ,日本の夏です」と書きましたが,8月16日は,京都・五山の送り火です。
 今年は,このお盆の伝統行事も3年ぶりに通常開催されるそうです。私は,数年前まで,毎年のように五山の送り火を見るために,この日に京都へ行きました。
  ・・
 現在は,「大文字」「松ケ崎妙法」「船形万灯籠」「左大文字」「鳥居形松明」の五山で炎が上がり,お精霊さんとよばれる死者の霊をあの世へ送り届けるとされますが,五山の送り火の起源は,平安時代とも江戸時代ともいわれています。盂蘭盆会や施餓鬼の行事として行われていたと古文書にあり,江戸時代前期から中期まではそんな性格で,大文字,妙法,船形,加えて,「い」「一」「竹の先に鈴」「蛇」「長刀」なども,所々の山,原野で灯されていたといいます。

 1994年のNHK大河ドラマ「花の乱」は,室町幕府第8代将軍・足利義政の妻である日野富子の生涯と応仁の乱,および,その前後の状況を描いたものでした。視聴率は,当時,大河ドラマ歴代ワースト1位だったそうで,人気のない作品のようですが,私は,ちょうど,京都に惹きつけられていたときだったので,とても興味深く見ました。このように,私がちょうど興味をもったころに,それに関する何がしかの番組が放送されることが結構あって,それもまた,運がいいと思っています。
 このドラマは,今放送されるのなら,もっと評価されるだろうといわれています。それは,ドラマの凝った演出やストーリーの展開などが,その時代の大河ドラマの概念と異なっていたからです。

 それはともかく,私が最も印象に残っているのが,ドラマの結末,応仁の乱で破壊された京の町に,その所業を懺悔するかのように,はじめて五山の送り火が灯るシーンです。それは,まったく史実とは異なることでしょうが,私は,それがとても象徴的に思えました。
 いつの時代も些細なことが原因で,日々,人は苦悩にあえいでいるのですが,自然災害と病魔と戦火だけは,そうした些細なスケールとはまったく違う大きさで,世界を一変させてしまいます。室町時代は今以上に社会が混乱していて,応仁の乱によって都が焼きつくされてしまいました。京都に住む人は,今でも「さきの戦」というと応仁の乱を指しているのです。だから,私は,五山の送り火は,古人が京の町に散々悪事を行った,そして,そうした悪事によって死んでいった人たちへのわび状だと,私には思えます。

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 本当に地球はどうなってしまったのでしょう。おかしな病気が蔓延するし,天候は不順だし,経済もおかしいし,相変わらず人間は軍拡に忙しいし…。
 インバウンドでいやだったけれど,それでも数年前の世の中が懐かしいです。
 ということで,四季折々の懐かしい思い出を語りましょう。

 京都にはさまざまな祭りがあります。先日も祇園祭をやっていました。そんな,見て楽しむ祭が多いなかで,だれでも参加できるのが「みたらし祭」で,平安時代の貴族が季節の変わり目に禊をして罪や穢れを祓っていたものが庶民に伝わりました。「みたらし祭」は,下鴨神社の御手洗池に足を浸して無病息災を願うもので,別名「足つけ神事」といいます。毎年7月の「土用の丑の日」前後に行われます。私も数年前に一度行ったことがあります。
 受付でお供え料をおさめてロウソクを受け取り,靴とロウソクを手に持って御手洗池へと向かいます。御手洗池にかかる輪橋の真下から水の中へ入り,御手洗池の中を進み,種火のある小さな祠があるのでそこでロウソクに火を灯すのです。そのままロウソクを手に持ち火を消さないようにさらに先へと進みます。そして,最終地点の御手洗社前の祭壇にロウソクを献灯し無病息災を願うというものです。
 最後に,祭壇にロウソクをお供えして池から上がったところで神水をいただいて終了です。
 下鴨神社はみたらし団子発祥の地です。「加茂みたらし茶屋」のみたらし団子は御手洗池から出てくる泡を形どったもので,串に5個のだんごが刺してあるのは,人間の身体・五体を表しているとされていて,1個は頭を表しているので離れて刺さっているのです。

 みたらし川は,土用のころになると池の周辺や川の底から清水が湧きでるところから「下鴨神社の七不思議」のひとつにかぞえられています。
 「下鴨神社の七不思議」とは次のものです。
  ・・・・・・
●連理の賢木(れんりのさかき)
 「相生社」の左側にあって2本の木が途中で合体しているものです。縁結びのご利益があります。 
●何でも柊(なんでもひいらぎ)
 「比良木社」,正式名称は「出雲井於神社」の左手の植栽のまわりに植えた木はすべて「ひいらぎ」のように葉がぎざぎざになっています。
●御手洗池の泡(みたらしいけのあわ)
 御手洗社は池の上に建っていますが,その池には玉のような泡とともに清水が湧き出ています。
●泉川の浮き石,烏縄手(からすのなわて)
 この細い流れは「瀬見の小川」とよばれています。烏は下鴨神社の御祭神で,縄手は細い長い道。そこで,烏縄手はヤタガラスの神様にお参りする道という意味で,紅葉橋は烏縄手のひとつです。紅葉橋のたもとに,昔,雨乞いのための「こがらし社」があって,雨乞いの願いがかなうと小石がはねたそうです。
●赤椿
 下鴨神社の神主は位が高く,他から来る位が低いお使いに気を使って赤い椿を植え,下鴨神官の装束が派手にならないように目立たないようにしたということです。
●船ヶ島・奈良社旧跡
 日照りや戦乱時に川の流れをかき回すと小石がはねて願い事がかなうということです。
●切芝
 糺の森のねそ,つまり,中心で,古代からの祭場です。
  ・・・・・・
 「みたらし祭」以外にも,下賀茂神社の御手洗池では,立秋の前夜に「矢取りの神事」が行われます。「矢取りの神事」は池の中央に50本の斎串を立てて裸男がうばいあうお祓いの神事です。また,「葵祭」にさきだって斎王代の禊の儀が行われています。

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 やっと月輪寺を過ぎて,あとは下るだけ。と思ったのに,まだまだ先が長いのでした。
 下山する道を変えたのは,せっかく別のコースがあるのなら,ということと,月輪寺に寄ってみようということと,こちらのコースは人が少ない,ということが理由だったのですが,すべて誤算に終わりました。
 まず,こちらのコースは,思った以上に険しかったのです。道は狭く,しかもずっと急坂で,休憩する場所すらほとんどありませんでした。また,楽しみにしていた月輪寺にも失望しました。
 さらに,人が少ない,登ってくる人はいない,と聞いていたのに,そうでもありませんでした。
 それにしても,これほどの急坂,私は降りるのにも苦労していたのに,それを登るなんて,考えただけでもぞっとします。

 滑って転ぶと大事なので,ゆっくりと下ります。石段ならともかく,ずっと天然の石の間をかき分けて行く感じなので,大変でした。おそらく登るときよりもはるかに時間がかかりました。
 そしてやっと登り口まで来ました。
 ところが…。
 私は,この先,すぐに車を停めた駐車場だと思い込んでいたのですが,まったくそうではなく,清滝川に沿ってさらに林道を何キロか歩く必要があったのです。
 さすがに,登山道とは違って,歩くのは楽でしたが,それでも,へとへとになりながら降りてきて,さらに数キロ平坦な道を歩くのもひと苦労でした。しかも,午前7時から登りはじめてすでに6時間,お腹もへってきました。とはいえ,清滝の駐車場は車を停める場所があるだけで,食堂すらないのでした。
 やっと車までたどり着きました。まさにたどり着いた,という感じでした。
 この日はとても暑く,愛宕神社は地上よりも気温が10度は低いと書かれてあったので持ってきた防寒具はまったくの無駄に終わり,汗だくになっていました。

 帰り道,桜満開の京都,しかも,このあたりは,愛宕の念仏寺とか,二尊院,清凉寺,大覚寺などの観光名所が目白押しでした。しかも,「カムカムエヴリバディ」で出てきた東映太秦映画村さえあります。お昼においしいものを食べるお店も事欠きません。
 しかし,そういったすべてが,もう,どうでもよくなってきました。
 ということで,まだ,午後1時すぎだったけれど,帰宅することにしました。
 あまりの空腹に,私が食べたくなったのはアンパンでした。そこで,途中でコンビニに寄って,アンパンを買って,それをお昼にしました。
 私は,午前4時に起きて,春爛漫の京都まで行って,往復6時間かけて登山をして,桜の名所にも寄らず,京都の食事を楽しむこともせず,アンパンを食べて帰ってきたのでした。
 何とぜいたくな旅だったのでしょう。これこそが,自他ともに認める京都通の真の楽しみ方なのでした。高いお金を出して,時間を惜しみ,さまざまなお寺を観光して,普段食べなれない京懐石を堪能する,などというのは下々の,普段旅慣れない人のする初心者の旅の姿なのです? くやしいでしょう?!
 こうして,私は,長年の念願だった愛宕神社を見ることできたのでした。


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 私は,登り口に置いてあった「愛宕山登山安全マップ」というチラシを持って登りました。
 登る途中で出会った80歳を過ぎの女性に「帰りはどの道を通りますか」と聞かれたので,何も知らない私は「月輪寺を通る別の道があるそうなので,そちらから降ります」と答えたら,「そうですね,そちらからの方が登っている人と出会わないので,私も好きです」と言われました。ということで,すっかりそれが定番だと思い込みました。
 登りながら,すでに降りてくる人に何度も出会ったので,どうして別の道から降りないのかな? と不思議に思っていました。
 愛宕神社に参詣して,いよいよ下ろうとするとき,7歳くらいの女の子が登ってきました。それも,まったく疲れた顔もしていません。その女の子のおそらくお母さん,あるいは,おばあさん? だと思われる女性がふらふらになりながら遅れて,というか,連れられてついてきました。子供はタフなのです。私は情けなくなりました。

 さて,はじめに決めた下山道ですが,その道がどこなのか見つかりません。ちょうど休んでいる人がいて,何度も登っていそうだったので聞いてみると,社務所の横の目立たない狭い道がそうだと教えてくれたので,下りはじめました。
 少し行くと,今日の1番目の写真の場所に差しかかりました。しかし,私の持っているチラシを見ても,そこがどこなのか見当がつきません。どう考えても,左側のほうが広くて右側がけもの道のように思えたのですが,標識だと右側です。しかし,そこがチラシで10番とある場所だとすれば,左です。私はとまどってしまいました。
 そのとき,下る道がどこかを聞いた人が,確か,少し行ったところで,下に行く方の道があるからそちらへ行くのだよ,と言われたことを思い出しました。
 どうやらそこは,チラシで10番ではなく6番と書かれた場所だったようで,右の狭いほうの道で正解だったのです。

 その先,狭いほうの道は思った以上に急で,どんどんと坂を下ることになって,しかも,登ったときのルートとは違い,道はずっと狭く,険しく,けっこう大変でした。しかも,チラシではすぐ月輪寺に着くように思えるのに,ルートの半分以上を下って行っても,一向にお寺につかず,だんだん心配になってきました。
 このルートは,月輪寺参道というらしいのですが,もう少し整備しないと,私のような一元さんは遭難しかねません。
  ・・
 さらにずいぶんと降ると,やっとお寺というか,古びた民家というか,そんな建物が遠くに見えてきました。それが月輪寺でした。
 私は,もっと立派な寺を想像していて,そこで,一休みをする気持ちでいたのですが,がっかりでした。さらに,まず私が目撃してしまったのは,立ち入り禁止の立て札でした。道にはロープが張られ,この先は寺の敷地だから入るべからず,入るなら拝観料を払え,とか,書かれてありました。立ち入り禁止といっても,そこを通らねば下れません。しかも,寺内は休憩を遠慮しろという言葉さえありました。なんだか,来るなといわれているように感じました。頑固で変わり者の住職がいるか,あるいは,2年ほど前までのインバウンドでわけのわからぬ観光客に手を焼いたのかのせいだったのでしょう。
 しかし,下りねばならぬ私は,こうなると,強行突破しかりません。ということで,お寺を拝観する気持ちもすっかり失せて,立ち入り禁止の紐を跨ぎ,境内を通る道を急ぎ足で通過しました。拝観料を払おうと思っても,お寺にはだれも人がいませんでした。

  ・・・・・・
 月輪寺は701年から703年の大宝年間に泰澄大師が開き,770年から781年の宝亀年間に慶俊僧都が中興した天台宗の古刹。境内からの展望もよく,宿坊に泊りがけですばらしい夜景を楽しみにくるひともいる。
  ・・・・・・
と,帰宅してから読んだ「歩く地図・京都」には書かれてあったのですが,そんな記事とは裏腹に,月輪寺に対する私の印象は最悪でした。これでは,わざわざこちらのルートを選んだ意味もないということです。
 足早に通り過ぎ,寺の境内を通過すると,そこに待っていたのは,野生のシカでした。

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 東京にも愛宕神社があって,ネットで「愛宕神社」と検索すると,むしろ,東京の愛宕神社がヒットします。東京偏重なのは,NHKだけではないようです。
 それ以外にも愛宕神社は全国に900社ほどあるのですが,その総本社こそが私の参詣した京都の愛宕神社です。

 愛宕神社は,701年から704年の大宝年間に修験道の祖である役行者と白山を開いた泰澄が朝廷の許しを得て朝日峰,つまり,愛宕山の頂に社殿を建立したのがはじまりだといいます。
 さまざまなところでよくきく役行者という名前ですが,役行者というのは,7世紀末に大和国の葛城山を中心に活動した呪術者のことで,生没年不詳です。後世,修験道の開祖として尊崇されるようになったのですが,おそらく,実在というよりも,その類の人たちをまとめて偶像化したものだったのでしょう。
 また,泰澄(たいちょう)は682年(天武天皇11年)に生まれ,767年(神護景雲元年)に亡くなった修験道の僧です。
 まあ,こうした人の名をあげることでお墨つきを得るというわけでしょう。
 そして,781年(天応元年),この地に和気清麻呂,慶俊が白雲寺を建立し,愛宕大権現として鎮護国家の道場としたと伝えられています。
 和気清麻呂は733年(天平5年)に生まれ,799年(延暦18年)に亡くなった貴族です。769年(神護景雲3年),道鏡が皇位をのぞんだとき,宇佐八幡宮の神託をうけてこれを阻止したことは日本史の教科書にも記述があります。そのため,道鏡に皇位を譲ろうした称徳天皇に名を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と変えられ,鹿児島県大隅に流されました。大人げない話に聞こえます。のち許され,桓武天皇に仕えました。
 慶俊は奈良時代の大安寺の僧で,756年( 天平勝宝8年)学業を称され律師となります。律師とは,仏教の僧官の職位で,僧正・僧都に次ぐものです。766年(天平神護2年),道鏡によって排斥されますが,770年(宝亀元年)に少僧都(浄土宗における第五級の僧階)となりました。

 東京にある愛宕神社は徳川家康の命で創建されたものです。
 愛宕神社は勝軍地蔵が本尊だったため,中世から軍神として信仰され,徳川家康が愛宕愛宕神社を勧請したのは,軍神だったからです。
 また,古くから火事を恐れる京の人々は火伏・防火への関心が高く,「お伊勢七度,熊野へ三度,愛宕山へは月参り」といわれるほどの信仰を集めていました。愛宕神社で授与される「火迺要慎」(ひのようじん)のお札は,京都でも有名なお札のひとつです。
 明治の神仏分離・廃仏毀釈の荒波で愛宕権現は廃され、天台宗・真言宗両義の白雲寺も廃寺となり,現在は,本宮に伊弉冉尊(いざなみのみこと)など,若宮に迦遇槌命(かぐつちのみこと)などを祀る愛宕神社になっています。

 その昔,標高740メートル付近にケーブルカーの愛宕駅がありました。そして,その付近にはホテルと遊園地があったそうですが,今は廃墟と化しています。歩いていると,この痕跡らしきコンクリートの創造物に出会います。
 その地を冒険した人のブログがあります。読んでみると,荒れた山道をかき分けかき分け,トンネルの跡やら壊れた建物がたくさん出てきますが,私は,それがどこなのかよくわかりませんでした。
 それにしても,どうして日本人はこうした廃墟を作るのが好きなんでしょうか? 使われなくなったら撤去してもとの自然に戻せばいいのに,そうした場所はどこもかしこもこうしてほったらかしになって,そこで,ゴミだめのようになってしまい,美観のかけらもないのがこの国です。
 ということで,一時は740メートルまではケーブルカーで登れたらしいのですが,そこからは今も昔も徒歩で登るしか手段がありませんでした。今は,古と同じく登山口の清滝から歩くしかありません。
  ・・
 私が登ったのは,行きは表参道の清滝ルートでした。
 「歩く地図・京都」には1時間半とありましたが,登山口で,私が車を停めたさくらや青木駐車場で聞くと,徒歩で2時間から3時間ということでした。3時間かけても登れなかったら下山してくださいとのことでした。私は急いで登って転んだり足でもくじくと大事なので自分なりにゆっくりと歩いて,2時間30分ほどかけて到達しました。

 前回も書きましたが,戦国時代,明智光秀は本能寺の変の直前,1582年(天正10年)5月27日,梅雨空の愛宕山に参詣し,山上の太郎坊で三度みくじを引きます。
 翌日の5月28日に愛宕山五坊のひとつ威徳院で連歌の会「愛宕百韻」を催し,「ときは今あめが下知る 五月かな」(その意は,「とき=土岐氏」で光秀のことを表し,「あめ=天下」「下知る=命令」で,「五月雨が降りしきる今こそ私が天下を取るとき」)という歌を奉納したと信長の旧臣・太田牛一の記した「信長公記」にあって,司馬遼太郎さんの「国盗り物語」にそのくだりが描かれてあり,1973年のNHK大河ドラマ「国盗り物語」でも,そのシーンがありました。
 また,2020年に放映されたNHK大河ドラマ「麒麟がくる」でも愛宕山参詣のシーンがあり,長谷川博巳さんが演じた明智光秀が愛宕権現の前で打倒信長を誓っている姿が印象的でした。

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 愛宕山登山は,前半がとてもきつく,5合目を過ぎるころから坂というよりも林道のようになってきて,楽になりました。
 途中はずっと同じような山道で,たくさん写真を写したのですが,それを載せていても退屈なだけでしょうから,残念ながらすべてカットします。
 40分の30を過ぎたあたりから,気持ちが楽になってきましたが,体は重くなってきました。それでも,足を一歩ずつ踏み出せば,確実にゴールが見えてきます。
 不思議なことに,最後は40分の40ではなく,40分の41でしたが,ともかく,黒門が見えてきました。

 黒門を通過すると,さらに参道が続き,ついに社務所に到着しました。
 すでに参詣を終えた人が昼食を食べていたり,あるいは,トレーニング姿でジョギングをしている女性がいたりして,私の日ごろの鍛錬不足を反省させられました。
 いずれにしても,たどり着くことができてホッとしました。
 そういえば,1昨年の春,コロナ禍がはじまって観光客がめっきりいなくなった京都,こりゃチャンスだと連日出かけ,満開の桜咲く醍醐寺へも行き,標高450メートルの上醍醐に登りました。その時もけっこうきつかったのですが,今回はそれとは比べ物になりませんでした。

 心配していた雪はなく,というより,かなり暑く,せっかくパーカーを持ってきたのに,無駄になりました。 
 社務所のある場所からさらに高い石段を登って,やっと愛宕神社の鳥居をくぐることができました。
 本能寺の変のときの明智光秀はたしか54歳くらいでしたが,今とは違って,草鞋を履いて,梅雨時にこの山を登ったのですから,昔の人の体力はすごいものだなあと今更ながら感心しました。今日の最後の写真は,NHK大河ドラマ「国盗り物語」で近藤正臣さんが演じた明智光秀が愛宕神社で戦勝祈願をしたときのシーンです。

  ・・・・・・  
 愛宕山は古くより比叡山と共に信仰を集め,神仏習合時代は愛宕権現を祀る白雲寺として知られました。江戸時代には,白雲寺の多くの社僧の住坊があって繁栄していましたが,明治の神仏分離によって白雲寺は廃絶されて愛宕神社になりました。
 愛宕神社は,火伏せ,防火に霊験のある神社として知られます。「愛宕の三つ参り」として,3歳までに参拝すると一生火事に遭わないといわれるそうですが,3歳児が登れるなんて,私には信じられません。
 明治期には参詣道の途中にいくつか茶店があり,名物の土器投げで賑わったという跡がありました。また,茶店では疲れた客への甘味として、しん粉が振舞われていたといいます。
 昭和初期には愛宕山鉄道の平坦線とケーブルカーが存在し,ホテルや山上遊園,スキー場が設けられて山上リゾート地となっていたそうですが,戦時体制下に撤去され,現在は,再び信仰の山に戻っています。
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明智光秀


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 普段山登りをしている人にとっては,たかが標高1,000メートルにも満たない山に登るのにふらふらになっているのをあまりに情けないように思えるでしょうが,日ごろ運動などしたことがない私がトレーニングもしないで登りはじめたのだから,自業自得というものでしょう。それに,この1,2年,すっかり年老いてしまい,体力全般に自信がなくなってしまいました。
 ただ,毎日けっこうな距離を歩いているので,歩くことにかけては何時間でも大丈夫なのですが,坂道はまったく違い,地球が味方をしてくれません。

 2年ほど前,家の近くだったこともあって,大河ドラマ「麒麟がくる」ゆかりの明智光秀の遺構を訪ねて様々なところに出かけていたのですが,その多くが標高400メートルほどの山城で,行くまではそんなところとは知らず,登る気もなかったのに,結局全部登って,いつも後悔していました。
 愛宕神社はその倍の標高があります。それでも石段だから山登りとは違うと思っていたし,多くの人が,それも結構年配の人たちが参詣に登頂しています。また,私は2019年に標高863メートルのオーストラリアのエアーズロックに,これもまた登頂する気もなかったのに結局登った,というか鎖にしがみつきながらよじ登ったこともあったので,内心,大したことないんじゃないか,という気持ちもありました。
 しかし,1週間にひとりほど救出者がでるから注意と書かれてあるのを見ると,急に不安になってきます。

 それにしても,こうして山歩きをしていつも感じるのは,日本はどこもかしこも山だらけだということです。
 もともと国土自体の面積が狭いのに,さらに平地がわずかしかないから住む土地もなく,これだけの人口がいては,どんな山の中でさえも,少しでも平地があれば家があります。
 また,標高が500メートルほどのちょっとした山はどこもかしこも山頂には城跡があるので,いかに昔は戦ばかりしていたのか,そして,そんな山城を作るのに,どれだけの人が働かされていたのかを考えると気が重くもなります。
  ・・
 さらに,もっと標高が高くなると,今度は,城跡でなく,その多くは聖地となっていて,修行の場として位置づけされています。
 日ごろの生活だけでも苦であるのに,さらに,苦業を味わうために険しい山の中に修行に出かける,というか,それ以上の苦を味わうことで,日ごろの生活に打ち勝つ「精神」を鍛えるという,そんな自虐的なことが,この国の人の根底にあるのかもしれません。
 それにしても,人の目があるときだけはしおらしく,また,人と同じことを他人にも強いることが得意なのに,その反対に,人の目がなければ何をやってもいいというか,道徳心もなくなり,ゴミを捨てまくり,また,神仏に祈りさえすれば,あとはどうにでもという感じで山を切り崩し,国全体を破壊して,どこもかしこも美観のかけらもないという,傍若無人なこの国の有り様が,私には,まったくもって理解不能です。

 さて,そんな話はともかく,意を決して登りはじめました。
 奥嵯峨の鳥居本にある一の鳥居から山頂までが50丁だそうで,ところどころに目印として石標がありました。1丁というのは約100メートルです。また,清滝の二の鳥居の登山口から山頂までは4キロメートルで,それを40等分して,40分の1からわかりやすいように新しく作られた目印も設置されていました。
 私は,それを励みに登るすることにしました。
 はじめのうちは,これまで登った山城と同じだなと楽観していて,これなら何とななるだろうと思っていたのですが,散々歩いたところがやっと40分の1では,この先が思いやられるものでした。


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 今から30年ほど前のこと。
 それまでは仕事が忙しく,ほとんど旅行をしていなかったのですが,突如京都に目覚め,それ以来,毎月のように京都へ行くようになりました。そのときいつも持参していたのが「歩く地図・京都」という小さなガイドブックでした。この本の「清滝」のところに,こうありました。
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 西側には標高942メートルの愛宕山がそびえ,その頂上には「愛宕参り」で有名な愛宕神社がまつられている。清滝の集落の北側から険しい山道の表参道が伸び,約1時間半の登山で参拝できる。
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 私は,この本に載っていた京都の神社仏閣はほぼ制覇したのですが,今よりずっと若かったのに,愛宕神社は,1時間半ということにたじろいで,いつかは,と思ってはいても,なかなか行くことができませんでした。

 愛宕神社は,太田牛一が書いた「信長公記」に
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 5月26日,坂本城を発した光秀は,別の居城である丹波亀山城に移った。27日,光秀は亀山の北に位置する愛宕山に登って愛宕権現に参拝し,その日は参籠した。
 光秀は思うところあってか太郎坊の前で二度,三度とおみくじを引いたそうである。
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とあります。本能寺の変が起こったのが6月2日,旧暦の5月は29日までなので,そのわずか4日前の戦勝祈願でした。
 司馬遼太郎さんの書いた「国盗り物語」で,近藤正臣さん扮する明智光秀が何度みくじを引いても凶しか出ないというシーンがあって,それを今でもずっと覚えていて,愛宕神社は一度は行ってみたいと思ってはいました。よほど衝撃的なシーンだったのでしょう。
 齢をとって,私の「やっておきたいリスト」の,そのほとんどはやってしまったのですが,残り僅かな「やっておきたいリスト」の中にある愛宕神社に参詣する,というものを,今やらねば,もうできないという想いが募ってきました。
 しかし,一昨年も昨年も,行きたいと思ったときは暑かったり寒かったりと,なかなか実現しませんでした。今年の3月こそは,と思っていたのですが,例年と違って春が遅く,3月下旬でもまだ愛宕山山頂には雪があるということでのびのびとなっていました。急に暖かくなり,天気もよさそうだったので,ついに4月7日に決行することにしました。

 とはいえ,どこから登るのかもわかりません。
 時節柄,現在私はどこへ行くにも車です。愛宕山への登山口には駐車場があると書かれていたので,やはり,車で行くことにしたのですが,それがどこなのか,どういった駐車場なのかがよくわかりません。各地の日帰り登山をするような場所にある数台のスペースがあるだけの空き地なのか,それとも,観光地化されていて,広い民間の駐車場があるのか…。
 調べてみると,駐車場というのは,「さくらや(青木駐車場)」であることがわかりました。
 とはいえ,この名前からして,「さくらや」なのかホームページにあったように漢字で「櫻屋」なのか,では,「青木」というのは何なのか? それは,今もって不明です。とにかく,怪しげでないことはわかったので,そこに車を停めることにしました。
 駐車場は愛宕山登山口の入口にあるということでした。カーナビを頼りにして,駐車場の開場時間である6時30分をめざして,朝4時30分ごろに家を出ました。弥冨インターチェンジから新名神高速道路経由で走り,京都南インターで降りました。そこから,嵐山を通って北上しました。
 嵐山は桜満開でした。2年前の2020年3月はコロナ禍がはじまったころで,それまで外国からの観光客でごった返していて行く気の失せていた京都に人がいなくなり,私はこれが千載一遇のチャンスだと思って,今年(2020年)こそは京都の春の桜景色を満喫しようと毎日のように通ったのですが,それでおなか一杯になって,今年(2022年)はもう京都の花見をする気にはならず,一目散に清滝を目指しました。清滝の手前,道路が狭くなって,その先は,1車線しかない片側交互通行のトンネルがありました。本当にこの先で大丈夫か? と不安になりましたが,長くて狭いトンネルを抜けると,それこそ,私の目指した「さくらや(青木駐車場)」がありました。午前7時前でした。駐車場はだだっ広い空き地で,すでに車が2,3台停まっていました。
 車を停めて,準備して,さあ,出発です。


◇◇◇
カムカム・ロス

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 私は,子供のころ貧しい家で育ったので,家にはクーラーもなく,夏休みは,暑いお昼間は狭い部屋でごろごろするしかありませんでした。1日か2日,海水浴に連れていってもらった以外,特に何かしてもらったこともありませんでした。しかも,父親は。普段はまったく子供に関心もないくせに,海に行くのに宿題を持参させて,午前中は海の家で「お勉強」をさせられました。
 そんな毎日,夕方,玄関先でデッキチェアーに座って夕涼みをするのだけが楽しみでした。
 昆虫採集をしたくても街中では虫もいないし,星も見えないし,駆け回る野原もありませんでした。
 だから,夏がきらいでした。
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 学校から課せられた夏休みの宿題なんて,究極的な時間のムダでした。子供の目にも適当につくったとしか思えないドリルなんて,やったところで,ときめきがあるわけでもなく,簡単すぎて知っていることが書かれているだけで,ただページを埋める作業をしたものでした。
 自由研究といっても,どうするかという事前の指導があるわけでもなく,上手にやってきた仲間はほとんど親の手が入っていただけだったし,親が何もしてくれない私は,お小遣いだけでどんな研究ができるの? という感じでした。他人の親を羨む気持ちだけが育まれました。
 そんな宿題など一切やめて,小汚い山の家にでも泊まりこんで,1日中川遊びをしたり,魚釣りをしたり,夜は星を見たり花火をしたりするほうがずっといいと思っていました。そのほうがどんなに有意義なことだろうと…。
 今もそう感じます。

 そんな日本の夏。さらに私の気持ちを暗くするのが,終戦記念日と高校野球でした。
 この時期になると,きまって太平洋戦争の番組が放送されて,気が重くなりました。私が子供のころは,テレビで「同期の桜」というドラマが放送されていたりと,まだまだ戦争は身近な時代でした。
 また,夏の暑い日差しの中でどうしてお昼間に野球なんてやるのか,それもまた不思議でした。しかも,選手はグランドで監督に叱られ,練習ではしごかれ,そんな姿が放送されていました。そこには,青春という飾り文句に隠された忍耐とか根性とか。そして,坊主頭の強制とか。感動の押し売りとか。だから,私はスポーツを美談として語ってほしくないし,それは今も同じです。
 高校野球は,リベラルで知られる朝日新聞が手のひら返しをしている季節でもあり,そしてまた,朝日新聞となかよしのNHKが公共の電波を使って私立高校の宣伝をしている季節でもあります。

 それでも,大人になってからの夏は,嫌なことばかりでもなくなって,特に近年は海外旅行の絶好の時期でした。これまでずいぶんといろんなところへ出かけたし,いい思い出がたくさんできました。海外は日本のように蒸し暑いという気候でないのと,人々の明るさに救われました。
 日本に目を向ければ,私は,夏にぜひ見たいと思っていた行事がふたつありました。そのひとつは京都・五山の送り火です。もうひとつは次回書きます。
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 五山の送り火を,ずいぶん以前から一度でいいから京都で見てみたいものだと思っていたのですが,おそらくすごく混雑するだろうと,行くのをためらっていました。それが,一度行ってみて,その様子がわかってからは,毎年のように出かけるようになりました。 京都の夏はものすごく暑いのですが,それでも,お昼間を快適にすごす方法はたくさんあります。洛北に出かけてもいいし,街中を歩いても,冷たいものを食べる気の利いたところがたくさんあります。
 そして,日が沈むと鴨川べりは涼しい風が吹いてきます。そして,やがて,送り火が灯ります。
 私は,五山の送り火の中で嵐山で見ることができる船形だけはちょっぴりしか見たことがないのですが,それ以外はしっかりと見ました。写真もたくさん写しました。「妙」と「法」は山が低いので見るのが難しいのですが,鴨川べりを北に歩いていくとその姿が眺められます。
 そんな五山の送り火ですが,この行事もまた,このコロナ禍で縮小して行わざるをえなくなりました。今となっては,これまでに行っておいて本当によかったと思います。コロナ禍でも名所旧跡は行くことができますが,こうした行事は今後も同じようにできるとは限りません。
 果たして,コロナ禍が収束して,以前のように行うことができる日は戻ってくるのでしょうか。


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 今日書こうとするお話は,私の無知を告白するようなものですが,このブログは私の覚書のようなものなので,気にせずすすめます。
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 これまで,私は,ガイドブックに載っているところはもちろん,載っていないところも含めて,京都と奈良の一般に公開されているか,あるいは特別公開したお寺には,ほとんど行きました。また,博物館もたくさん行きました。そして,そこで多くの仏像を見ました。
 しかし,その姿には感動しても,如来だとか菩薩だとか天だとか,そういうものが何を意味するのか,というようなことはほとんど興味もなく,また,調べても頭に入らず,過ぎてきました。だから,真言宗は大日如来が本尊で,浄土真宗では阿弥陀如来が本尊だということも,大日如来と阿弥陀如来がどう違うかということも,さっぱりわかりませんでした。
 それが,歳のせいか,そういうことに興味がわいてきました。

 先日,京都に行った折,東寺を訪れたら,特別公開で五重塔の内部を見る機会がありました。また,講堂でも多くの仏像を見る機会がありました。帰ってから,なんとなくテレビ番組を見ていたら東寺が取り上げれていて,講堂内部に安置されている仏像や,東寺の五重塔の内部を紹介していました。しかも,東寺の五重塔の内部が普段は未公開だと知って,えらく貴重な経験をしたものだと,いつものことですが,私の強運に驚き,これを機会にきちんと知りたくなりました。
 ということなのですが,ここでそれを紹介したところで,そんなことはほとんどの人は知っているでしょうし,また,きちんと紹介したブログも山ほどあるので,ここに書くつもりはありません。そうでなくて,私がここで書きたいのは,極楽浄土もまた階級社会なのか,とがっかりしたというお話です。いや,階級社会というのはおそらくは私の誤解なのでしょう。が,誤解だろうが何だろうが,私はそう思いました。

 九州・佐賀県の吉野ケ里遺跡に行ったときに,すでにその時代に,職業によって階級社会ができていることに驚き,また,ショックを受けたことがあります。現代の社会でも,人は平等の権利をもってはいても,生まれながらにして平等の能力はもっていません。だから,能力の違いによって差別されるべきではないのです。それよりも,自分がもって生まれた能力を十分に生かして楽しく生きているかどうかを問うべきだと私は思います。
 また,極楽浄土に行くためには,生きている間に善を積むことが大切,といわれても,ならば,生きるというのは極楽浄土に行くために勤務評定をされるところなのか,と思ってしまいます。もしそうなら,そんな窮屈な人生は嫌いです。
 たとえ罪を犯しても,その償いは生きている間になされるわけだから,生を全うしたときは平等であると私は思います。つまり,罪を犯したら天国に行けないぞ,ではなくて,罪を犯せば生きているときに罰をうけて償わなければならないぞ,であるべきでしょう。そして,生を全うしたら,現世では善人であっても悪人であっても平等に極楽浄土に行って,阿弥陀如来さんのやさしい保護のもとで,みんななかよくわけへだてなく,というものであるべきだと思うわけです。でないと,救いがありません。
 なのに,横綱の土俵入りでもあるまいし,如来さんは菩薩さんを従え,また,多くの仏を眷属(けんぞく=従者)とする,なんて,まるで実社会ではないですか。現世を背負った来世,考えるだけでゾッとします。救いを求める宗教の価値観がそういうものであるとすれば,何かすごいショックです。


☆ミミミ
1月15日の夕方午後5時35分ごろの月と水星と木星です。月齢2.1。とても美しい姿を見ることができました。
昨日は月齢1.1でしたが,写すことができませんでした。しかし,それを実際に確かめたことに意義があります。

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 ここ数年は異常なインバウンドでした。それは日本のことだけだと思っている人も多いでしょうが,世界中の観光地がそうだったのです。それでもまだ,都会を離れれば,交通が不便なだけ,アメリカやオーストラリア,また,ハワイもオアフ島を除けば,観光客も少なかったので,私が行くようなそんな場所のほとんどは,移動途中の空港を除けば,インバウンドの影響も少なく,ストレスがありませんでした。
 それに対して,日本は狭く,公共交通が隅々まで発達しているので,どこもかしこも外国人だらけで,行き場がありませんでした。至る所に観光客があふれ,それまでの静寂は消え去り,温泉に行ってもマナーを知らない客に圧倒され,どこにも行く気がなくなっていました。特に京都は最悪だったので,私は2,3年足が遠ざかっていました。それが,2020年は一変しました。まるで沸点を越えた水がすべて水蒸気となったかのように,観光客が蒸発してしまいました。

 そこで,2020年の春は,観光客の去った京都でゆったりと桜を愛でることにしました。
 多くの人はそれどころではなかったかもしれませんが,実は,今年の春は天気に恵まれ,例年とは違って,満開の桜は散ることを忘れたかのように長い間見ることができたのです。おそらく,こんな落ち着いた京都の春はもう二度と来ることはないだろう,そう思いました。しかし,久しぶりに京都に行ってみてがっかりしたのは,以前の京都と違って,街中にあふれた注意書きでした。無断に入るな,写真を撮るな,などなど。これが,インバウンドの結果なのでした。
 それでも,満開の美しい桜は変わってはいませんでした。

 2020年の秋は「Go To Travel」がはじまって,再び,多くの観光客が京都に殺到しました。私はがっかりして,京都の紅葉を見にいくことをやめました。
 しかし,思いもよらず,期せずして京都に行くことになりました。その事情はすでに書いたので,ここで繰り替えすことはしません。いずれにしても,私が京都に行ったのは,紅葉の時期には少し遅れたので,思ったほどの観光客はいませんでした。
 私は,人混みが嫌いですが,たとえ観光地であっても,早朝かあるいは雑誌などで取り上げられる有名な観光地を避けると,急に人がいなくなります。しかし,そんな場所であっても,行くべきところも見るべき場所もたくさんあります。私は,そんなところを散策するのが好きなのです。こころが落ち着きます。そこで,思った以上に,美しい京都の紅葉を楽しむことができました。
 美しい紅葉もいつもと変わってはいませんでした。
 そんなわけで,春の桜と秋の紅葉,2020年は静寂が戻った京都を楽しむことができた年でした。


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 ロンドンナショナルギャラリー展を開催している国立国際美術館にはこれまで行ったことがありませんでしたが,以前行ったことのある大阪市立科学館のとなりということだったので,場所はわかりました。JR大阪駅からさほど遠くないので,歩いていくことにしました。
 私は,3月以来,飛行機と新幹線以外の公共交通機関に乗ったことがなく,今回,JR京都駅からJR大阪駅まで,はじめてJR在来線の新快速に乗りましたが,空いていたので助かりました。

  ・・・・・・
 国立国際美術館は独立行政法人国立美術館が管轄する美術館で,第2次世界大戦以後の国内外の現代美術を所蔵,また,今回のような企画展を開催しています。1977年(昭和52年)の設立で,当初は万博記念公園にあったものが2004年(平成16年)に現在地へ移転しました。
 また,ロンドンナショナルギャラリー(National Gallery)はロンドンのトラファルガー広場に位置する美術館です。1824年に設立され,13世紀半ばから1900年までの作品2,300点以上を所蔵しています。
 ロンドンナショナルギャラリーはコレクションの基礎が王室や貴族のコレクションの由来ではないという点でヨーロッパでもあまり例のない美術館です。私はかつてロンドンに行ったとがあるので,そのときに訪れる機会があったのでしょうが,若き日ゆえ,そのころはまったく興味ががなかったのが惜しまれます。
 ナショナルギャラリーのコレクションの基礎となったのはジョン・ジュリアス・アンガースタイン (en:John Julius Angerstein) が収集していた38点の絵画です。
 他のヨーロッパ諸国の国立美術館と比べてコレクション数は多くはないのですが,西洋絵画が大きな革新を見せた「ジョットからセザンヌまで」美術史上重要な絵画が収蔵されています。
  ・・・・・・

 私は11時からの予約をしてあったのですが,国立国際美術館に到着したのはそれよりも30分ほど早い時間だったので,外で待ちました。
 やがて時間が近づいたので,入口の列に並びました。十数人程度集まりました。やがて定刻に入場が開始となりました。
 私は,これまで,日本で開催される美術展がいつも黒山の人だかりで全く好きになれませんでした。結構高価な入場料を払って,結局,人の頭を見にいくようなものだったからです。
 美術展ではないのですが,毎年奈良で開催される正倉院展など最悪でした。日ごろ歴史に興味もないような人たちまでバスで大挙して訪れて群がるだけでなく,展示方法が最悪で,鑑賞どころではありませんでした。
 それも,今年のコロナ禍で,私は正倉院展は今年の展示品のほとんどはすでに見たことがあるので行かなかったでわかりませんが,どうやら人数制限が実施されたようで,好ましい状況となりました。

 このロンドンナショナルギャラリー展もまた落ち着いた状況となって,絵画を十分に鑑賞できたのは幸いでした。フェルメールの「ヴァージナルの前に座る女」,ゴッホの「ひまわり」,モネの「睡蓮の池」,レンブラントの「34歳の自画像」といった,今回初来日の作品が目白押しだったのですが,それらの作品を,ほぼ独り占め状態で鑑賞することができました。
  ・・
 そもそも,クラシック音楽のコンサートを行うホールにしても,旅客機の座席にしても,美術展にしても,そうした何もかもが,近年は人を不快にさせるほどの詰め込み状態で,利益優先の傾向に歯止めがかからない状態だったように思います。特にこのごろは,許容の限界ギリギリというか,そういう状況にまでなっていました。それを考えると,密をさけるという現在の状況はよほど快適です。
 今年のコロナ禍は,インバウンドによるオーバーツーリズムも含めて,そうした何もかもを,一度立ち止まって考え直すよい機会となったように思います。私も,これまでの,そして,これからの,旅行をはじめとするいろんな楽しみについて改めて考えるよい機会となりました。


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 お昼間は大阪に行ってロンドンナショナルギャラリー展だけを見て,早々に京都に戻ってきました。
 京都駅で共通クーポンを使って,ほかにお客さんのほとんどいないカフェで昼食をとり,午後は八条口から歩いて東寺へ行きました。
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 東寺は真言宗は真言宗の根本道場であり,東寺真言宗の総本山,教王護国寺ともよばれます。「教王」は王を教化するということで,教王護国寺とは,国家鎮護の密教寺院という意味です。古来より,公式の文書には「東寺」という表記が用いられていて,正式の文書に「教王護国寺」がみられるのは1240年(仁治元年)といいます。
 797年(延暦16年)ごろより,東寺,西寺が造営されましたが,やがて,西寺は火災などもあって衰退し,13世紀には廃寺になったと考えられています。
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 東寺は平安京鎮護のための官寺として建立がはじめられた後,嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され,のち,真言密教の根本道場として栄えました。まあ,民営化というようなものでしょうか。
 平安後期には一時期衰退しましたが,鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになりました。
 1994年(平成6年)「古都京都の文化財」の構成資産として世界遺産に登録されました。
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 お昼過ぎということで,観光客が少なからずいて,観光バスも1台停まっていましたが,敷地が広く,のどかな様子は変わりませんでした。
 細かい紹介はガイドブックに譲りますが,東寺でもっとも「インスタ映え」するのは,五重塔と北にある瓢箪池が作る池泉回遊式庭園の紅葉でしょう。この池の周りは人もおらず静寂でした。
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 五重塔は国宝で,東寺のみならず京都のシンボルとなっています。高さは54.8メートルあって,これは木造の塔としては日本一の高さです。これまで4回焼失し,現在の塔は1644年(寛永21年)に徳川家光の寄進で建てられたものです。
 今回,特別公開で内部を見ることができました。内部は,真言密教の中心尊・大日如来を像ではなく塔の心柱とみなして,東面に阿閦如来とその脇に弥勒菩薩,金剛蔵菩薩,南面に宝生如来とその脇に除蓋障菩薩,虚空蔵菩薩,西面に阿弥陀如来とその脇に文殊菩薩,観音菩薩,そして,北面に不空成就如来とその脇に賢菩薩,地蔵菩薩が安置されていました。
  ・・
 ところで,東寺といって思い出すのは「DX東寺」です。かれこれ40年以上前,当時勤めていた職場の親睦旅行で,今は亡き上司に無理やりタクシーに乗せられて連れていかれました。いまならパワハラです。
 まだあるのかな? どこなのかな? と調べると,今も存在しているらしかったので,東寺からJR京都駅まで歩いて帰る途中でその場所を探して通ってみました。地味な路地を歩いていると,それは今も営業していましたが,外観はボロボロの場末の芝居小屋でした。入っていないので内部は知りません。
 こうしてまた,ひとつ謎が解けたようでうれしくなりました。

 ところで,このところ何となくいろんな寺に出かけるのですが,どこも人が少ないのでとても充実した時間が過ごせます。このような,古より日本人の仏教信仰やそれに伴って作られた塔や仏像,そうしたものをゆったりと楽しむことができるのは,至福な時間です。
 結局,寺の拝観も,クラシック音楽のコンサートも,美術展も,それがどんなに優れたものであってもどこもがらがらなのは,本当は興味もないのに,人が行くから行く,話題になったから行く,という,群れることの好きな人がほとんどだからなのでしょう。今はその反対で,みんなが行かないから行かない,要するに「群れて自粛している」だけのことで,主体的な行動ではありません。「GoTo何某」がはじまって安くなったら,安全であろうとなかろうと,危険であろうとなかろうと,急に旅行客が増えたり,レストランがいっぱいになることからそれがわかります。
 私はもともと,群れないし,人混みが嫌いだし,ツアー旅行もしないし,お酒も飲まないし,グルメでないから雑誌で話題になったからといって列を作ってまでそのお店で食事もしません。携帯電話もはじめから格安SIMを使っているから政府が騒いでいる携帯電話の料金引き下げも関係ありません。「GoTo何某」で安いからといってそれが動機で出かけることも食事をすることもありません。世の中の出来事とは無縁で,ずっと昔から同じように,自分のペースで好きなことを楽しんでいます。それが偶然,今の行動様式とやらと奇しくも一致していただけのことです。
 しかし,「GoToキャンペーン」があろうとなかろうと行く予定をしていたロンドンナショナルギャリー展に行くために,偶然見つけて一旦利用を決めた「GoToTravel」でしたが,直前に突然対象外となった大阪には意地でも定価で行く気にはならず,行先を京都に変更したために,想定外の京都に行くことになりました。そのおかげで,紅葉真っ盛りの京都でさわやかないい時間が過ごすことができました。
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 夕刻,がらがらの新幹線で帰宅しました。今年はどこも人が少ないので,信州,滋賀,そして,京都と,秋の紅葉をいろんなところで堪能することができした。


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 東福寺の帰りに泉涌寺に寄りました。以前,1度だけ行ったことがありますが,ここは紅葉の名所ということではないので,観光客はひとりもおらず,静寂を保っていました。 
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 泉涌寺は真言宗泉涌寺派総本山の寺院で,山号は東山または泉山といいます。
 平安時代の草創ですが,実質的な開山は鎌倉時代の月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)で,後鳥羽上皇や土御門上皇,順徳上皇,後高倉院の他,北条政子や北条泰時も月輪大師俊芿の下で受戒するなどで勢いが強まりました。1224年(貞応3年)に,後堀河天皇により皇室の祈願寺と定められたので,鎌倉時代の後堀河天皇,四条天皇,江戸時代の後水尾天皇以降幕末の孝明天皇に至る歴代天皇・皇族の陵墓があって,皇室の菩提寺として御寺とよばれています。
  ・・・・・・
ということで,泉涌寺は,いとやむごとなき寺院として,ちょっとした厳粛な雰囲気を醸し出しているのです。

 東福寺から北に歩いて行くと,やがて広大な領域に出会います。今回私行きたかったのは,前回行くことができなかった斉明天皇陵でした。ここは,寺の左脇にある道を登った小高い丘の上にあります。
  ・・・・・・
 孝明天皇は第121代天皇で,明治天皇の父です。「一世一元の制」制定前に即位した最後の天皇であり,生涯を通じて平安京内で過ごした最後の天皇でもあり,写真が残っているはじめての天皇でもあります。
 攘夷派として知られ,幕末,公武合体の維持を望む孝明天皇の考えに批判的な人々からは批判が噴出,岩倉具視は「国内諸派の対立の根幹は孝明天皇にある」と暗に示唆して「孝明天皇が天下に対して謝罪することで信頼回復を果たし,政治の刷新を行って朝廷の求心力を回復せよ」と記しているほどです。
 1867年(慶応2年)35歳で崩御。死因は他殺説が存在し今も議論となっています。泉涌寺内にある後月輪東山陵に埋葬されています。
  ・・・・・・

 私は歴史好きなので,奈良や大阪,京都にある昔の天皇の陵にはずいぶん行ったことがあります。しかし,孝明天皇,明治天皇,大正天皇,昭和天皇となれば,歴史上の人物というより,直接現代とつながっている生々しさを感じます。私は以前,昭和天皇の武蔵野陵にも行ったことがあるのですが,その壮大さに度肝を抜かれました。
 国の歴史は重く,たとえ政治の制度が変われども不変なものがあります。特に京都を訪ねると,この国が天皇という存在を抜きに語れないということを痛感します。どの国にも,このような,かつてその国のリーダーであった人の巨大な,あるいは荘厳な墓があって,そういった場所に行くと,これはいったい何なのだろうとつねづね考えてしまいます。
 人間を含め,生命なんてすべて単に化学反応の偶然でできただけのもので,上も下も左も右も,まして,存在しなければならない理由もないと思う私には到底理解できない世界ですが,そのような神様のいたずらで偶然できてしまったこの複雑な人間という生命にはこころというやっかいなものがあって,社会の秩序を保つためには,このような存在が必要なのでしょう。その中でも,日本の天皇制というのは世界でもまれな不思議な存在だといつも思います。


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 この秋,京都に行く予定はありませんでしたが,想定外の京都に来ました。
 このブログにたびたび書いてきたように,ここ数年のインバウンドでやたらと海外から旅行者が来て,特に,春と秋の京都は楽しめる雰囲気ではなくなっていました。同じことを考える人も決して少なくなく,京都を敬遠していた人が多くいました。それが突然のコロナ禍で,この春の京都は静寂を取り戻したので,私は,車で毎日のように人のほとんどいない京都に行っては,満開の桜を堪能しました。
 今度は秋の紅葉だと思っていたところ,国がはじめた「GoToTravel」で日本中から観光客が殺到し京都がにぎわっているという話,これでは行く気もなくなってしまいました。
 どうして人は群れたがるのでしょう? 私は,コロナ禍がどうのこうのというのとは無関係に,人混みや群れること,そして飲み会が嫌いなのです。普段と何も変わりません。

 京都ではなく,ずっと以前から私が計画していたのは,ロンドンナショナルギャラリー展でした。まず東京の国立西洋美術館で開催されて,そのあとで大阪の国立国際美術館で開催されることになっていました。東京は混むので大阪へ行くつもりでした。
 コロナ禍で東京での開催が遅れたために,大阪での開催がずれ込みました。時間ができたので,12月3日に行くことに決めて,チケットを入手しました。幸い予約制になっていました。
 どうやって大阪まで行こうか考えていたところ,偶然「GoToTravel」で新幹線利用で大阪往復がとても安く行くことができるのを知りました。ところが,直前になって,大阪が「GoToTravel」の対象からはずれてしまいました。もともと「GoToTravel」 があろうとなかろうと大阪に行くつもりだったのですが,こうなったら話は違います。
 キャンセルになった「GoToTravel」利用での大阪から 「GoToTravel」利用で京都往復をすることに変更しました。お昼間2時間ほど京都から大阪に足をのばせば,これでロンドンナショナルギャラリー展も行くことができるのです。ということで,想定外の京都へ行くことになったわけです。

 これまで,京都の紅葉はほとんどの場所で見たことがあるので,手元には多くの写真があります。今回,特に行きたいというところもなかったので,紅葉が美しく,かつ,なるべく観光客の少なく,京都駅から徒歩で行けるところを考えて,午前中は東福寺と泉涌寺,お昼間に大阪へ行ってきてから,午後は東寺に行くことにしました。
 このごろは温暖化で紅葉の時期が遅れ,今は12月の初旬でも楽しむことができます。また,紅葉は散りはじめのころが一番美しいのです。
 がらがらの新幹線で早朝7時過ぎ京都駅に着いて,八条口を出て東福寺まで歩きました。東福寺は通天橋からの紅葉があまりに有名ですが,通天橋を渡るのは有料です。しかし,境内には無料で入ることができます。以前来たときは,JR奈良線の東福寺の駅からすでに観光客でごった返していましたが,この日は閑散としていました。また,通天橋の紅葉は,通天橋の上からでなく,通天橋を見渡たす臥雲橋からの景色のほうがきれいということも私は知っています。

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 東福寺は臨済宗東福寺派の大本山で,山号は慧日山といいます。京都五山の第四位の禅寺です。紅葉の名所として有名で,「東福寺の伽藍面」ともいいます。臨済宗のお寺には「禅面(づら)」とよばれるものがあります。これは格づけではなく,臨済宗のお寺の特徴をひと言で言い表すものです。
 主要伽藍の北には洗玉澗という渓谷があり,西から東へ臥雲橋,通天橋,偃月橋という東福寺三名橋が架かります。通天橋は本堂から通じる廊下がそのまま屋根つきの橋となったもので,この付近は特に紅葉の名所として知られています。
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 観光客は少しはいたのですが,臥雲橋にはほとんど人影がありませんでした。また,臥雲橋から通天橋を見る紅葉は少し旬を過ぎていましたが,十分楽しめました。
 山門まで来ました。ちょうど寺の門が開く時間だったので,境内に入りました。境内もまた,閑散としていて,まさに理想的でした。早朝は,太陽の光が紅葉に照り,ものすごく神秘的になります。お昼間よりずっときれいです。とにかく何事も人と反対のことをすることが人生を楽しむコツなのです。そしてまた,私の大嫌いな人混みがないのです。
 ということで,皮肉にも,もともとは直接大阪へ行って,ロンドンナショナルギャラリー展だけを見て帰る予定だったのが,まったく来る予定もなかった京都で,今年もまた,紅葉を楽しむことができました。


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 食事を終えて,車に戻りました。この後は,遊覧船に乗ってみようと思っていたのですが,どこで乗るのかもわからなかったし,どのくらいの間隔で船がでるのかも知りませんでした。
 毎度のこと,何も下調べをせずに旅をしているのですが,乗れれば幸運,乗れなければまた来ればいいか,という感じです。 
 昼食前は伊根の東の端まで歩いたので,今度は,西に向かって,海岸線を車を走らせました。
 西側にも雰囲気のよい集落がずっと続いていて,こちら側を歩いてもよかったなあ,と思いました。バス停があって,数人の人がバスを待っていました。車がなければ,ここまでバスで来ることができるのだと思いました。調べてみると,天橋立から25分ほどで来ることができるようでした。

 さらに走っていくと,進行方向左手に駐車場と建物がありました。駐車場の入口で係の女性が交通整理をしていました。建物は遊覧船乗り場で,どうやら,ここで車を停めて,遊覧船に乗ることができるようでした。
 時間は午後12時40分でした。
 聞いてみると,遊覧船は30分ごとに出発して,次が午後1時ということでした。湾内を1周25分でめぐるのだそうです。
 車を停めて,チケットを購入しました。そんなわけで,何も知らなかったのにも関わらず,今回もまた,とても調子よく観光をしています。

 30分ごとに出発できるほどのお客さんが集まるのかな,と思いましたが,私の乗る時間はほぼ30人程度のお客さんが乗り込みました。これもまた,このご時世なので,程よい程度の乗客だったようで,気持ちのよい船旅となりました。
 私は,これまで世界各地で船の遊覧を楽しんでいるのですが,これもまた,例の国の人たちのグループと乗り合わせると,かなりストレスがたまります。これまでずいぶん嫌な思い出があります。おそらく,インバウンド華やかなりしころはすごい数の乗客だったことでしょう。
 船上からの景色はすばらしく,天気もよく,気持ちのよい風が吹き,最高でした。船のまわりには,海鳥が乗客のもつエサを求めて飛びかっていました。

 遊覧船での伊根湾めぐりを終えて,帰宅することにしました。
 私は日帰りのこうした小旅行は,いつも,朝早く家を出て,夕方5時には帰宅します。帰りに天橋立に寄ってもよかったのですが,それはまた次回ということにしました。楽しみは取っておくに限ります。
 こうした観光地は,午後になると人出が増えます。私のご遠慮タイムです。朝いちで到着し,昼食も午前12時まえに済ますのが楽しい旅をするコツです。
 伊根は予想以上に楽しいところでした。また,機会があれば行ってみたいと思いました。

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 観光案内所で散策マップをもらって,伊根の見どころを聞きました。伊根湾に沿って集落を歩くと舟屋のさまざまな美しい風景を写すことができるということでした。そして,なんといっても海からの景色が格別なのでぜひと言われました。海からの景色を見るには海上タクシーを利用するか遊覧船がいいという話でした。
 いつものこと,私はまず,足でその地を確かめることにしました。そして,海からの景色は後にして,観光案内所から集落の東の端まで歩いてみることにしました。東の端まで続く道は途中で狭くなって,車ではUターンがたいへんなこと,そして,歩いても20分くらいで端まで行けるということだったので,歩くことにしました。
 こうした場所を楽しむには車でなく,歩くのに限るのです。そして,その場所の生活感を味わったり音を聞き,においを感じることです。

 東の端の高台には慈眼寺,海福寺があって,そこからの景色は,舟屋の屋根の入り組んだ姿が独特でお勧めということだったので,そこまで登ってみました。高台から写した写真が今日の1番目のものです。
 高台から眺めた景色は確かにすばらしいものでしたし,雑誌やネットではあまり目にしたことがありません。しかし,急坂を上るときに,かなり汗をかいてしまいました。平坦なところを歩いているときは海風が心地よく気づかなかったのですが,確かに今は真夏であることをうっかりしていました。ずいぶんと日焼けもしてしまいました。
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 そこからの帰り,まず,舟屋の中を公開している家が二か所あったので,二か所とも見学しました。そのあとの街歩きがまた,なかなかすてきでした。
 こうした生活感を味わうことこそが伊根の醍醐味なのでしょう。ここは観光地であっても,現役の漁港です。漁業協同組合があって,この土地の生活感が満載でした。
 漁業協同組合の建物を過ぎると,舟屋日和という一角がありました。そこにレストランとカフェがありました。伊根のよいところは,こうして訪れた人がくつろげる場所があるということです。私は,先ほど坂を上ってかなり暑くなってしまっていたので,カフェに入ってコーヒーとケーキで一服することにしました。カフェは2階にあって,窓からは日本海が美しく眺められました。おそらくここも,普通ならかなり混み合う場所でしょう。しかし,この日は,ときどきお客さんが訪れるだけで,とても落ち着くことができました。

 再び歩きはじめて,観光案内所まで戻りました。観光案内所の2階は食堂でした。昼食は6種類あって,どれも1,500円とお値打ちでした。せっかく来たので,ここで食事をすることにして,舟盛定食を選びました。こうした場所で食べる新鮮なお刺身は最高です。昨年からこれまで何度か日本海の沿岸に来ました。いつもこんな場所でお魚を食べたいものだと思っていたのですが,この日その念願がかないました。

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