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カフェで小休止し,金沢街道をJR鎌倉駅まで戻ります。やがて,浄明寺という交差点に着きました。ここには広い駐車場があって,多くの車が出入りしていました。また,バス停もあって,多くの乗客がバスを待っていました。ガイドブックも持たない私にはわからなかったのですが,どうやら,ここは有名な観光地のようでした。
道路標示には,北に浄明寺,南に報国寺とあって,報国寺(竹寺)という名に魅力を感じたのですが,確かに,報国寺をめざす観光客が大勢いました。
私はこのままJR鎌倉駅まで行って帰るつもりだったのですが,せっかくだからと,少し人が多いのが難点だったのですが,このふたつの寺に寄ってみることにしました。
ところで不思議なのは,この地にある寺の名が浄妙寺なのに,地名が浄明寺だということでした。帰ってから調べてみると,それは次のような理由でした。
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鎌倉市浄明寺は鎌倉五山第五位の浄妙寺にはじまる地名ですが、現在,地名が「浄明寺」になったのには格式の高い寺名をそのまま使うのをはばかったためだといわれています。
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なるほど。印鑑を押すときはへりくだってお辞儀をしているように少し斜めに押せとかいうバカげたことをさも常識であるように吹聴する人がいるように,いかにも「やったふり」が得意な日本らしい話です。浄妙寺がある場所が浄明寺町だなんて紛らわしいだけです。
私は,まず,報国寺を目指しました。
幸い,私が訪れたときは人も多くなく助かりました。この日は金曜日だったのですが,週末は人だらけだから行くものではない,という口コミがありました。この寺は午前9時から開いているので,私のように「ついで」ではなく,この寺が目的なら,その時間に入るべきでしょう。
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報国寺は臨済宗建長寺派の寺院で,正式には功臣山報国建忠禅寺。
境内に孟宗竹約2000本からなる竹林があってそれが観光名所にもなっていて,竹寺として知られています。
報国寺は,1334年(建武元年)天岸慧広の開山により創建されたと伝えられ,開基については足利尊氏の祖父足利家時とも上杉重兼ともいわれ,両家の菩提寺でした。
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多くの人が訪れる理由もわかろうというもの,規模は小さいながら,ここの竹林はすばらしいものでした。これはもっと真剣に写真を写す目的でやってきてもいいかな,と思いました。
竹林の背後のやぐらには墓がありました。それは,足利尊氏の祖父である足利家時,四代鎌倉公方足利持氏の嫡男である足利義久の墓でした。1438年(永享10年)の永享の乱で室町幕府6代将軍足利義教に敵対した4代鎌倉公方足利持氏でしたが,その嫡男でわずか10歳の足利義久がこの地で自刃したのです。また, 鐘楼脇には,鎌倉幕府滅亡時に北条高時に殉じた鎌倉将士の墓と伝えられる五輪塔群がありました。
次に,浄妙寺に行きました。
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浄妙寺は臨済宗建長寺派の仏教寺院で正式には稲荷山浄妙広利禅寺。鎌倉五山の第五位。
1188年(文治4年)足利義兼の創建と伝えられています。足利義兼は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将・御家人で,足利宗家2代当主で,足利尊氏は昆孫です。
はじめは極楽寺という真言宗の寺院でしたが,正嘉年間(1257年から1259年ごろ)に建長寺開山蘭渓道隆の弟子・月峯了然が住職となって禅刹に改め,寺名も足利貞氏の法名をとって浄妙寺と称しました。
境内墓地には足利貞氏の墓とされる宝篋印塔があります。足利貞氏は鎌倉時代後期から末期にかけての鎌倉幕府の御家人で,足利宗家7代当主。 足利尊氏の父です。
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浄妙寺は報国寺とは違って,ほとんど観光客がおらず,静寂を保っていました。とても紅葉の美しい寺でした。
なお,浄妙寺にちなんだ「鎌倉」の名前の由来を紹介します。
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藤原鎌足が鹿島神宮に参詣の途中,現在の由比ガ浜である由井里に泊まったところ,夢に白髪の翁が現われ,天下がよく治まる方法を告げました。夢からさめると,枕元に「鎌」が置いてあり,一匹の白狐が現われると鎌足を浄妙寺の裏山に案内しました。
そこに「鎌」を埋め,お堂の「倉」を建てたのが「鎌倉」になったといわれています。
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浄妙寺を出て,私は混雑するバスに乗ることもなく,ずいぶん歩いてJR鎌倉駅まで戻りました。
この日は,早朝の空いた鎌倉を味わい,念願の大河ドラマ館に行き,そして,午後は金沢街道沿いの明王院,報国寺,浄妙寺へはじめて行くことができました。天気もよく,期待以上の1日でした。
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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは