しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:日本国内 > 鎌倉

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 カフェで小休止し,金沢街道をJR鎌倉駅まで戻ります。やがて,浄明寺という交差点に着きました。ここには広い駐車場があって,多くの車が出入りしていました。また,バス停もあって,多くの乗客がバスを待っていました。ガイドブックも持たない私にはわからなかったのですが,どうやら,ここは有名な観光地のようでした。
 道路標示には,北に浄明寺,南に報国寺とあって,報国寺(竹寺)という名に魅力を感じたのですが,確かに,報国寺をめざす観光客が大勢いました。
 私はこのままJR鎌倉駅まで行って帰るつもりだったのですが,せっかくだからと,少し人が多いのが難点だったのですが,このふたつの寺に寄ってみることにしました。

 ところで不思議なのは,この地にある寺の名が浄妙寺なのに,地名が浄明寺だということでした。帰ってから調べてみると,それは次のような理由でした。
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 鎌倉市浄明寺は鎌倉五山第五位の浄妙寺にはじまる地名ですが、現在,地名が「浄明寺」になったのには格式の高い寺名をそのまま使うのをはばかったためだといわれています。
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 なるほど。印鑑を押すときはへりくだってお辞儀をしているように少し斜めに押せとかいうバカげたことをさも常識であるように吹聴する人がいるように,いかにも「やったふり」が得意な日本らしい話です。浄妙寺がある場所が浄明寺町だなんて紛らわしいだけです。

 私は,まず,報国寺を目指しました。
 幸い,私が訪れたときは人も多くなく助かりました。この日は金曜日だったのですが,週末は人だらけだから行くものではない,という口コミがありました。この寺は午前9時から開いているので,私のように「ついで」ではなく,この寺が目的なら,その時間に入るべきでしょう。
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 報国寺は臨済宗建長寺派の寺院で,正式には功臣山報国建忠禅寺。
 境内に孟宗竹約2000本からなる竹林があってそれが観光名所にもなっていて,竹寺として知られています。
 報国寺は,1334年(建武元年)天岸慧広の開山により創建されたと伝えられ,開基については足利尊氏の祖父足利家時とも上杉重兼ともいわれ,両家の菩提寺でした。
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 多くの人が訪れる理由もわかろうというもの,規模は小さいながら,ここの竹林はすばらしいものでした。これはもっと真剣に写真を写す目的でやってきてもいいかな,と思いました。
 竹林の背後のやぐらには墓がありました。それは,足利尊氏の祖父である足利家時,四代鎌倉公方足利持氏の嫡男である足利義久の墓でした。1438年(永享10年)の永享の乱で室町幕府6代将軍足利義教に敵対した4代鎌倉公方足利持氏でしたが,その嫡男でわずか10歳の足利義久がこの地で自刃したのです。また, 鐘楼脇には,鎌倉幕府滅亡時に北条高時に殉じた鎌倉将士の墓と伝えられる五輪塔群がありました。

 次に,浄妙寺に行きました。
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 浄妙寺は臨済宗建長寺派の仏教寺院で正式には稲荷山浄妙広利禅寺。鎌倉五山の第五位。
 1188年(文治4年)足利義兼の創建と伝えられています。足利義兼は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将・御家人で,足利宗家2代当主で,足利尊氏は昆孫です。
 はじめは極楽寺という真言宗の寺院でしたが,正嘉年間(1257年から1259年ごろ)に建長寺開山蘭渓道隆の弟子・月峯了然が住職となって禅刹に改め,寺名も足利貞氏の法名をとって浄妙寺と称しました。 
 境内墓地には足利貞氏の墓とされる宝篋印塔があります。足利貞氏は鎌倉時代後期から末期にかけての鎌倉幕府の御家人で,足利宗家7代当主。 足利尊氏の父です。
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 浄妙寺は報国寺とは違って,ほとんど観光客がおらず,静寂を保っていました。とても紅葉の美しい寺でした。
 なお,浄妙寺にちなんだ「鎌倉」の名前の由来を紹介します。
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 藤原鎌足が鹿島神宮に参詣の途中,現在の由比ガ浜である由井里に泊まったところ,夢に白髪の翁が現われ,天下がよく治まる方法を告げました。夢からさめると,枕元に「鎌」が置いてあり,一匹の白狐が現われると鎌足を浄妙寺の裏山に案内しました。
 そこに「鎌」を埋め,お堂の「倉」を建てたのが「鎌倉」になったといわれています。
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 浄妙寺を出て,私は混雑するバスに乗ることもなく,ずいぶん歩いてJR鎌倉駅まで戻りました。
 この日は,早朝の空いた鎌倉を味わい,念願の大河ドラマ館に行き,そして,午後は金沢街道沿いの明王院,報国寺,浄妙寺へはじめて行くことができました。天気もよく,期待以上の1日でした。

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 子供のころ,歴史の授業で「金沢文庫」という名を知ったのですが,それまで,金沢といえば石川県金沢市のことだと思っていたので,同じ地名が神奈川県にあるのに驚きました。
 鎌倉時代中期に幕府の要職を務めた北条実時は文化人で,典籍や記録文書を集め和漢の書を収集しました。金沢文庫は鎌倉時代中期,金沢流北条氏の北条実時が金沢郷に設けた文庫(=書庫)です。武家の文庫としては日本最古ということです。
 武蔵国久良岐郡六浦荘金沢郷は,古来,砂鉄を産し,これが「かねさわ」の語源といわれます。古くは荘園が設置された私有地でした。
 源頼朝が鎌倉に幕府を開いたのは三方を山に囲まれ,前は海という天然の要害であったことが理由ですが,人々の往来や物資の運搬にはこれが最大の障害でした。そこで,鎌倉幕府は七方向に切通しを作り(=「七切通し」)陸路の確保を行いました。
 金沢の地は幕府隣接の港町・六浦湊として栄えましたが,六浦湊に荷揚げされた物資の運搬に利用されたのが「七切通し」の中のひとつ朝夷奈切通しを通る六浦道でした。これが現在の金沢街道です。

 私は,明王院に行こうと,鶴岡八幡宮から滑川に沿って金沢街道を歩きました。明王院は思ったよりずっと遠く,しかも,この日は暑く,かなり参りました。
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 明王院は,真言宗泉涌寺派の寺院で山号は飯盛山,寺号は寛喜寺です。
 1231年(寛喜3年),鎌倉幕府4代将軍藤原頼経によって発願された寺です。寺は江戸時代の寛永年間の火災で焼失し,その後再建されたものです。
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 北条氏ゆかりの寺が多い鎌倉の中で,唯一現存する鎌倉幕府の将軍の発願で建立された寺院です。
 当時,近くには大江広元の館がありました。現在,その地は大江稲荷社です。大江広元の息子は毛利の姓を名乗り,中国地方を治める安芸毛利家の基礎を築きました。
 境内は私のほかに訪れている人もなく,ひっそりとしていました。

 私は,京都や奈良は何度も行って詳しいのですが,鎌倉はなかなか行く機会がありません。もし東京に住んでいたなら,文句なく鎌倉の散策を楽しみに何度も通ったことでしょう。
 京都や奈良同様,鎌倉も観光地といわれるようなところはものすごい人混みなのですが,そこから少し外れると静寂が待っています。ひとりで気ままに散策をするときの醍醐味というのは,そういう場所を見つけて歴史に浸ることだと強く思うようになりましたが,これまでほとんど無知だった鎌倉にもこうした場所があることを今回知ってうれしくなりました。
 そしてまた,散策の楽しみは,小さなカフェで一休みをすることです。今回もまた,明王院近くに「Alpha Betti Cafe」という名の絶好のカフェを見つけたので,そこに寄って,しばし休息を取りました。ケーキとともに,暑かったのでアイスティーを注文しました。冷たい飲み物にホッとし,ケーキがとてもおいしかったです。

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 昼食を終えて,歩いて鶴岡八幡宮のあたりまで戻ってきました。早朝とはうって変わってものすごい人でした。そこで私は,人の行かないところはないものかと探して,これまで行ったことがない鎌倉の東,明王院を歩いて目指すことにしましたが,その途中にあったのが宝戒寺でした。

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 宝戒寺は天台宗の寺院で,金龍山釈満院円頓宝戒寺と称し,本尊は地蔵菩薩です。
 宝戒寺は鶴岡八幡宮三の鳥居前の横大路を右に行った突き当りにあって,寺域は北条義時以来歴代の北条執権邸地跡と伝えられています。
 鎌倉幕府の滅亡後,後醍醐天皇が足利尊氏に命じて,北条一族の霊を弔うために建立させました。
 本堂が印象的な静かな落ち着いた寺で,だれでも本堂に上がって本尊の子育て経読み延命地蔵様を間近で拝観することができます。
 境内には四季折々の花が咲き,特に秋には境内一面に白萩が咲き,別名「はぎの寺」として有名です。
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という紹介がありました。

 もともと北条家の鎌倉屋敷は鎌倉亭といい,現在の鶴岡八幡宮・二の鳥居がある場所だったのですが,小町邸に最初に住んだのは2代執権北条義時でした。3代執権北条泰時,4代執権北条経時はもとの鎌倉亭に住みましたが,そのほかの執権は,7代執権北条政村を除いて,小町邸に住んでいました。
 また,鶴岡八幡宮から延びる若宮大路沿いにある「M`s Ark KAMAKURA」というビルの1階に鎌倉時代の屋敷跡が一部そのまま残されています。一部床がガラス張りになっていて,その足下に「北条小町邸跡」の発掘された跡を見ることができるそうです。私は帰ってから知りました。
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 北条得宗家9代目当主で鎌倉幕府14代執権の北条高時は,1333年(元弘3年)新田義貞の軍に追い詰められて宝戒寺の裏山・葛西ヶ谷にある東勝寺で自害し,一族郎党870余人も運命を共にし,鎌倉幕府は滅亡しました。
 足利尊氏の寄進状に「北条高時の慰霊のためその屋敷跡に後醍醐天皇が建立した」旨の記述があります。実際の造営は,後醍醐天皇による建武の新政が崩壊し,御醍醐天皇が没した後に足利尊氏らによって行なわれたと推定されていて,1354年(文和3年)ごろには寺観が整ったものと思われるそうです。

 規模はそれほど大きくなく,こじんまりとした寺が街中にひっそりとあって,見逃してしまいそうですが,こうした場所こそが旅の散策で出会う醍醐味です。静かな境内で歴史に想いを巡らすのはなかなかよいものです。

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 源頼朝の墓と大河ドラマ館に行くことができて,午前10時には目的を達したので,東京へ戻ることにしました。この時間以降は団体ツアー客がたくさん押し寄せるので、まったくもって楽しくありません。そこで,鎌倉駅まで戻りましたが,人のほとんどいなかった早朝とは全く違う世界がありました。
 JRに乗りました。
 こんな時間に東京方面に向かう人も少なく,車内は空いていました。大船まで来たとき気が変わりました。せっかく鎌倉まで来たのだから,ここで戻らずとも,せっかくの快晴,夕方まで鎌倉の,なるべく人の少ないところ,これまで行ったことのないところを散策することにしようと。
 そこで,大船で列車を降りて,再び鎌倉へ向かいました。鎌倉で乗車したのだから,鎌倉で降りるわけにもいかず,北鎌倉で降りることにしました。

 はじめて鎌倉に行った若いころ,多くの乗客が鎌倉のひと駅前北鎌倉で下車するのが不思議でした。私は鎌倉で降りて,いろんなところを巡ってたどり着いたのが北鎌倉であったことで,その疑問が解けました。
 そうなのです。鎌倉観光は北鎌倉で降りて,鎌倉へ向けて歩くのが正解なのです。さだまさしさんが若いころに作った縁切寺という曲があります。
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 源氏山から北鎌倉へ
 あの日と同じ道程で
 たどりついたのは縁切寺
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 この日私が北鎌倉で降りたのは,北鎌倉から鎌倉へ歩く途中で名所を巡ることではありませんでした。それは,これまでさんざんやっています。そうではなく,おしゃれなレストランがあるのではないか,という期待なのでした。
時間はまだ午前12時前だし,鎌倉よりは空いているだろうと。

 その途中で,円覚寺,建長寺と通りました。
  ・・・・・
 円覚寺は正式には瑞鹿山円覚興聖禅寺と号する臨済宗円覚寺派の大本山で,鎌倉五山第二位に列せられる名刹です。
 鎌倉時代の1282年(弘安5年)に鎌倉幕府執権・北条時宗が元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建しました。北条得宗の祈祷寺となるなど,鎌倉時代を通じて北条氏に保護されました。
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 建長寺は。正式には巨福山建長興国禅寺と号する臨済宗建長寺派の大本山で鎌倉五山の第一位すです。
 鎌倉時代の1253年(建長5年)の創建で、本尊は地蔵菩薩。
 開基は鎌倉幕府第5代執権北条時頼です。
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 ということで,今回私が巡ろうとしている鎌倉時代はじめとは少し時代が異なります。
 以前,大河ドラマで北条時宗を取り上げたことがあるのですが,そのころの私は「北条時宗=元寇」としか思わず,しかも「元寇=神風」という連想となり,まったく興味を持ちませんでした。
 それはさておき,北鎌倉駅あたりはものすごい観光客でしたが,円覚寺は境内に入ると,思ったほどは人がおらず,落ち着いて紅葉を楽しむことができました。
 建長寺はこれまで何度も行ったことがあるので,今回はパスしました。

 さて,どこかで昼食をと思いつつも,ガイドブックなどはまったくもっていないので,行き当たりばったりで,私の期待はおそばだったので,その気になっていたのものの,おそば屋さんは見当たらず,それ以外にもなかなか期待通りのお店がありません。そうこうするうちに「ひ路花」という名の,民家を改造した程度のちいさなレストランを見つけました。なんでも温野菜がウリのようでした。
 さほど広くない店内でしたが,幸運にも席があって,私は,ここで昼食をとることにしました。
料理が出てくるまでずいぶんと時間がかかりましたが,急ぐ旅でもなく,それはそれでいい時間となりました。こうして,期待以上の昼食をとった私は,すっかり元気になって,さあ,歩くぞ,と再び鶴岡八幡宮まで歩いていったのでした。


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 NHK大河ドラマ第61作目の「鎌倉殿の13人」は,2022年(令和4年)1月9日から12月18日まで放送されました。
 脚本は「新選組!」「真田丸」に続く大河ドラマ3作品目となる三谷幸喜さんで,平安末期から鎌倉前期を舞台に,源平合戦と鎌倉幕府が誕生する過程で繰り広げられる権力の座を巡る駆け引きを,大河ドラマ初主演の小栗旬さんが主演する北条得宗家の祖となった北条義時を主人公として展開しました。
 ユーモアを交えたホームドラマのような描写とともに,徹底して無情で陰惨な粛清劇が描かれました。
 「鎌倉殿」とは源頼朝をはじめとする鎌倉幕府の将軍を,また,「13人」とは頼朝死後に発足した集団指導体制「十三人の合議制」を構成した御家人を指しているように思われ,また,解説されましたが,実際にドラマを見終えると,もっと深い意味があったように思われました。
 三谷幸喜さんは執筆にあたり,日本史を知らない海外の人が見ても楽しめる「神代の時代」のドラマを書くことを目標とし,歴史書「吾妻鏡」をベースに,「ゲーム・オブ・スローンズ」「ゴッドファーザー」「アラビアのロレンス」「仁義なき戦い」などの影響を受けたといいます。そして,最終回になると,北条義時の死がいかに描かれるか,という点に関心が集まり,アガサクリスティのような,という三谷幸喜さんの発言から,毒殺,みんなが犯人などなど,さまざまな憶測をよび,推理小説の結末を想像するような期待が生まれましたが,その死に北条政子が絡むとは思いもよりませんでした。

 私は,三谷幸喜作品としての大河ドラマは「新選組!」は見た記憶がありますが,「真田丸」はほどんど記憶にありません。
 3度目となる今回の作品で鎌倉幕府の成立期を取り上げるというニュースを聞いたときは,興味ないなあ,と思いました。しかし,はじめの数回を見て,そういう考えは一変しました。このわかりにくい時代を実に明晰に,かつ,おもしろく描いていて,1年間があっという間でした。
 また,三谷幸喜さん独特のユーモアには賛否があって,特に若いころの作品は私は少しばかり食傷気味だったのですが,熟練の技というか「鎌倉殿13人」でこれまでの考えが一変しました。また,話がかなり複雑であっても,非常によく練られていて少しもムダがないものでした。
 私は,これまでの大河ドラマで,戦国時代は「国盗り物語」を,幕末は「花神」を,それらはともに司馬遼太郎作品を大野靖子さんの脚本でドラマ化したものでしたが,その2作を越える作品に出合えませんでした。あるいは,意識して比較しました。しかし,「鎌倉殿の13人」ははるかにそれらの2作を越えた,比較しようのない最高の大河ドラマだと思いました。実際,「大河最高傑作」という評価があるそうです。

 その「鎌倉殿の13人」に関する大河ドラマ館が鎌倉で開催されているというので,ぜひ行って見たいと思っていたのですが,鎌倉は遠く,その機会がなかなかありませんでした。
 大河ドラマ館は2022年3月1日から2023年1月9日に鶴岡八幡宮内の鎌倉文華館鶴岡ミュージアムで開催されています。
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 会場の鎌倉文華館鶴岡ミュージアムは,1951年に開館した神奈川県立近代美術館の旧鎌倉館を継承したものです。
 神奈川県立近代美術館は20世紀建築の巨匠ル・コルビュジエに師事した建築家・坂倉準三の設計で,日本初の公立近代美術館として開館しました。
 2016年に閉館した後,神奈川県から鶴岡八幡宮に土地の返還と合わせて無償譲渡され,2019年鎌倉文華館 鶴岡ミュージアムとして開館したものです。
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 室内外が流動的に結びつく開放的な空間が特徴で,池に反射した光が天井に映るピロティや,平家池に面するコンクリート製手摺り,大谷石積みの壁面,各階段の人造石研ぎ出しの手摺りなど,実にすばらしい建物,ということです。

 今回,12月8日と12月10日に東京で行われるふたつのクラシックのコンサートを聴きにいくその機会ができて,ならば,その間の12月9日に鎌倉へ行ってみようと思い立ち,なんとかその夢が実現することができました。
 私は,行くことができるかどうかわからなかったから,事前にチケットを購入していなかったので,当日朝,少し並びましたが,開館早々はそれほど混雑しておらず,すぐに入ることができて,十分に展示を楽しむことができました。
 大河ドラマ館の内容は
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➀あらすじや脚本家コメントなどの作品概要
②大倉御所の撮影セットを詳細に再現したオリジナル・ジオラマ
③鎌倉幕府の一角をリアルに再現した大型造作
④大型壁面に投影されるドラマの雄大な背景映像
⑤主要登場人物たちの衣装や、小道具を実物展示
⑥4Kスクリーンでドラマの魅力や撮影・制作のウラ側などを“深掘り”する他では見られないオリジナル映像
⑦源氏と平家。武士と貴族。ドラマの人間関係を網羅する相関図
⑧華やかな出演者の皆さんのサイン色紙を展示
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でした。
 私が特に興味深かったのは,実際にドラマで使用されたさまざまな小道具や衣装でした。これは,実際にドラマを見た人には感動的な展示であったように思います。私はかなり興奮しましたが,そんなことはこれまでの大河ドラマ館で感じたことがなく,今回がはじめてでした。

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 源頼朝の墓,法華堂跡と巡って,まだ時間があったので,さらに北東に向かって歩くことにしました。このあたりは,これまで行ったことがありませんでしたが,人も少なく,鎌倉らしく,なかなかよい所でした。
 鎌倉宮に着いたのですが鎌倉宮は帰りに寄ることにして通り過ぎ,まず永福寺跡に向かいました。

 永福寺(ようふくじ)は,11192年(建久3年)に,源頼朝が弟源義経と奥州藤原氏の霊魂を鎮めるために建てた寺院ですが,現在は跡地の礎石と池が復元されています。
 本堂は二階堂とよばれ,本尊は釈迦如来でした。1193年(建久4年)に阿弥陀堂が建立され,二階堂を中心に薬師堂、阿弥陀堂、三重塔などを備えた壮大な寺院でしたが,1405年(応永12年)に焼失してしまいました。1983年(昭和58年)に発掘調査が行われ,当時の姿が復元されつつあります。礎石は土中にあるため,それと近似した石が使用されています。
 奥州藤原氏3代目の藤原秀衡が建てた無量光院は宇治の平等院を模して建てられましたが,永福寺はその無量光院を念頭に置いて作られました。
 2017年(平成29年),苑池の復元工事が終わり水が満たされましたが,苑池の景観は宇治平等院の鳳凰堂前の阿字池のようであったと想定されています。
 永福寺では,3代将軍源実朝や4代将軍藤原頼経が和歌会を催したといいます。
 また,1247年(宝治元年)に起こった宝治合戦で,三浦光村が永福寺に陣を構え,1333年(元弘3年)には,鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞が足利尊氏の嫡男義詮を伴って滞在したこともありました。
 鎌倉の発展とともに栄えた永福寺は1405年(応永12年)に炎上し,その後衰えたものと考えられています。

 永福寺から鎌倉宮に戻りました。鎌倉宮は「鎌倉殿の13人」で描かれた時代ではなく,建武中興の時代のもので,後醍醐天皇皇子の護良親王を主祭神とします。
 護良親王は後醍醐天皇の皇子で父とともに鎌倉幕府を倒し建武中興を実現しましたが,その後,足利尊氏との対立で足利方に捕えられて東光寺に幽閉され,1335年(建武2年)の中先代の乱の混乱の中で足利尊氏の弟の足利直義の命で家来である淵辺義博によって殺害されました。
 1869年(明治2年)建武中興に尽力した護良親王の功を賛え,明治天皇は護良親王を祀る神社の造営を命じて「鎌倉宮」と名づけました。本殿の後方にある土手の穴が護良親王がおよそ9か月間幽閉されていた土牢であるという古伝承があって,土窟で2段になっているといいます。
 私は特に興味がありませんでした。

 鎌倉宮を過ぎ,次に覚園寺を目指しました。結構な道のりでしたが,静かな住宅街で,こんなところに住んでいる人はしあわせだろうなあ,と思いながら歩きました。やがて山門に着きました。
 覚園寺は鎌倉幕府執権の北条家歴代の尊崇を集めた真言宗泉涌寺派の仏教寺院で,山号を鷲峰山(じゅぶせん)と称します。本尊は薬師三尊です。境内および周辺は自然環境が保全されていて昔の鎌倉の面影を最もよく残す寺のひとつといわれています。とても紅葉がきれいでした。
 鎌倉幕府2代執権北条義時が建立した大倉薬師堂が覚園寺の起源とされます。1218年(建保6年),薬師如来の眷属である十二神将のうちの「戌神」が北条義時の夢に現れたことが薬師堂建立の端緒で,その後,9代執権北条貞時の時代に正式の寺院となりました。
 鎌倉幕府滅亡の年である1333年(元弘3年),後醍醐天皇は覚園寺を勅願寺としました。足利尊氏も覚園寺を祈願所とし保護したので,1337年(建武4年)の火災で焼失した本堂は1354年(文和3年)に足利尊氏により再建されています。
 1830年(文政13年)の火災で覚園寺は伽藍の大部分を失い,1923年(大正12年)の関東大震災でも大きな損害を受けましたが,その後徐々に復興しました。

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 北条義時の墓とされる法華堂跡から右手奥の階段を上った先に3つの祠が並んでいました。これらは,左から順に,毛利季光の墓,大江広元の墓,島津忠久の墓でした。
 結構な急坂の階段で,しかも,毛利季光の墓,大江広元の墓と島津忠久の墓は鉄策で区切られているので別の階段を登らなくてはならないという,大変な苦行を要しました。
 とはいえ,私は,この3人の中で,大江広元しか知りませんでした。大江広元は「鎌倉殿の13人」にも登場しましたが,確か,高等学校の日本史の教科書にも載っていたように記憶します。
 毛利家といえば長州藩,島津家といえば薩摩藩なのに,なぜここの墓が? しかも,どちらも明治維新のときの薩長同盟の関係です。それがなぜ? と無知な私は思ったので,帰宅してから調べてみました。

●毛利季光
 戦国大名・毛利元就や上杉謙信の家臣・北条高広の先祖である毛利家の祖・毛利季光は,鎌倉武士で,大江広元の4男として1202年に生まれました。大江広元の広大な所領のうち厚木市の毛利庄の地頭となって毛利季光と名乗ったのが大江氏系「毛利家」のはじまりです。
 1216年(建保4年)に左近将監に任ぜられると翌年には蔵人となり,従五位下に叙せられました。
 毛利季光は,3代将軍・源実朝に仕えていましたが,源実朝が殺害されてからは出家して「入道西阿」と称しました。承久の乱では,執権・北条泰時に従って大軍を率いて後鳥羽上皇の勢力と戦い,美濃・木曽川の戦いや,山城の宇治川・淀川の戦いにて戦功を挙げ,その功により安芸国吉田荘の地頭職を与えられ移住しました。
 1233年(天福元年)執権・北条泰時から関東評定衆に任命されました。
 1247年(宝治元年)北条家の執権派と対立した三浦泰村の妹が妻であったことから,宝治合戦にて三浦家に味方するも敗北し,源頼朝の鎌倉法華堂で,息子の毛利広光・毛利光正・毛利泰光・毛利師雄らと共に自刃して果てました。また,毛利季光の娘は5代執権北条時頼の正室となっていたのですが,法治合戦後離別したといいます。
 毛利季光の墓は,1921年(大正10年)鶴岡八幡宮西側の鶯ヶ谷の山にあったものが移されたといわれています。
 毛利一族のうち越後にいた4男・毛利経光の家系が唯一残り,その子孫が吉田荘に移り住んで国人領主から一躍中国地方の覇者となったのが毛利元就です。

●大江広元 
 大江広元は,源頼朝の政務の側近として「政所別当」を務めた人物でした。明経生から出身し,外記を専職とする下級貴族として朝廷実務の経験を積んだのち,30歳代半ばから幕府首脳への途に転身しました。明経(みょうぎょう)とは,律令制において式部省が行った秀才に次ぐ第二の官吏登用試験。また,外記(げき)は,律令制において朝廷組織の最高機関・太政官に属した職のひとつです。
 源平の内乱の勃発とともに兄の中原親能が早くから源頼朝の陣営にあり,大江広元も1183年(寿永2年)の平家都落ちののちまもなく,鎌倉に下ったと思われます。頼朝に文筆の才を見込まれ,公文所別当および政所別当に取り立てられました。しかし,大江広元は単なる実務家ではなく,1185年(文治元年)には御家人らの訴えを頼朝に取り次ぐ「申次」を務め,源頼朝の側近としての地位を固めます。そして,守護・地頭政策に関する献策により源頼朝の信頼を高め,名実ともに首脳としての実力を発揮するようになりました。1180年代後半から1190年代前半の文治・建久年間には特に対朝廷交渉に起用され,朝廷・幕府関係の基礎作りに働きました。
 源頼朝の死後はしばらく幕府は内部抗争に揺れ動きましたが,大江広元は,一貫して北条義時と連携する立場を守り,北条義時の覇権を支えました。承久の乱に際しては,積極的な京攻めを主張して幕府の勝利に貢献しています。
 大江広元は,1225年(嘉禄元年)になくなりました。
 この墓は,1823年(文政6年)長州藩によって建てられたものということです。

●島津忠久
 島津氏の初代・九州島津氏の祖島津忠久は「島津家譜」などの系図類によれば,源頼朝の庶長子で,母は比企能員の妹丹後局で近衛家の家司惟宗広言の養子というのですが,定かでありません。
 1185年(文治元年),伊勢国須可荘・波出御厨地頭職に補任。以降,島津荘下司職・信濃国塩田地頭職に補任されました。1189年(建久元年)の奥州藤原氏征伐に従軍。1197年(建久8年)大隅・薩摩の守護となり,のち日向の守護も兼ねました。1203年(建仁3年)に比企能員の乱に縁座し,3か国の守護などを罷免されますが,薩摩の守護にのみ復しました。1213年(建保元年)の和田義盛の乱に戦功をたて,承久の乱後には越前守護となりました。
 1227年(嘉禄3年)になくなりました。
 現在の墓は1779年(安永8年)に,源頼朝の墓とともに島津重豪が整備したものです。


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 早朝の鶴岡八幡宮を通って,源頼朝の墓に向かいます。途中にあったのが大倉幕府跡でした。
 鎌倉幕府の所在地は3か所ありました。まず,源頼朝が開いた大倉幕府です。次に,3代将軍源実朝の死後,4代将軍藤原頼経が執務した宇都宮辻子幕府です。そして,4代将軍藤原頼経から最後の9代将軍守邦親王まで続いた若宮大路幕府です。
 大倉幕府跡は鶴岡八幡宮の北東一帯の地域にあったと推測されていて,大倉幕府跡の石碑は源頼朝の墓から少し金沢街道に向かって歩いた場所にありました。そこを中心にした東御門,西御門,金沢街道に囲まれた地域に,将軍御所,公文所,問注所などの施設が置かれたと考えられています。
 この地が選ばれたのは鎌倉の外港六浦と鎌倉を結ぶ六浦道沿いの地であったことと四神相応の地であったことだそうです。
 大倉御所は何度も焼失しそのたびに同一敷地に再建されたが、1219年(承久元年)焼失後は再建されず宇津宮辻子御所に移りました。

 大倉幕府跡から北に進んでいくと,小高い丘になって,階段を登ったところに源頼朝の墓がありました。また,50メートル程の小道を右手に行って別の階段を登った先に北条義時の墓があって,このふたつを合わせてひとつの国指定史跡に指定されています。
  ・・
 源頼朝の墓とされるのは石造りの層塔です。かつて,源頼朝の墳墓堂である法華堂があった場所とも推定されています。
 法華堂とは法華三昧堂の略称で,天台宗の法華三昧の行を行う仏堂や法華会を行う仏堂をさすのですが,明治維新以前の皇族や貴族,武士などの墓所に立てられる堂を指すことばでもあります。
 1779年(安永8年)に島津重豪により源頼朝墓として整備が行われ,墓所内に残る碑文から,当時,玉垣,灯篭,水盤等が寄贈されたことがわかっているということです。なお,現在の層塔は,1989年(平成元年)に塔身と第1層の蓋石を残しき損されたものを翌年修理,再建したものということなので,以前私が見たのはこれほど豪華なモノでなかったはずなのに… という記憶はあながち間違いではありませんでした。
  ・・
 一方,北条義時の墓は16メートル程度の石段を上がった先にある770平方メートル程度の平場で,石塔などはまったくなく,一体どこが墓なのかわかりませんでした。
 2005年の発掘調査で,この平場の地下から墳墓堂(=法華堂)の遺構が発見され,その位置が,鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」に記載された源頼朝の墓からの方位と地形と一致したことから,遺構は北条義時が祀られていた北条義時法華堂の跡であると推定されているので,この地が北条義時の墓ということになっているようです。
 遺構は現在の地表より下にあって,保護するために調査後は埋め戻しを行い,草地として維持管理しているということです。遺構の真上には,調査でみつかった法華堂の礎石や柱の跡,雨落ち溝の跡の実際の位置を木杭や石で地表に示してあるのが現在の姿です。

 その奥まったところにある洞穴が三浦氏が供養されている横穴式の墳墓があります。三浦氏一族の供養が行われているやぐらです。
 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で三浦義村がうまく描かれましたが,その後があります。
 三浦義村の子には三浦朝村,三浦泰村,三浦長村,三浦光村,三浦重村,三浦家村,三浦資村,三浦胤村,三浦重時,三浦良賢らがいました。三浦義村の長男である三浦朝村の末裔が今川氏の家臣である駿河三浦氏です。 三浦氏は鎌倉幕府内部において評定衆として枢要な地位についていましたが,その地位を悪用した振る舞いをすることが度々あったとされ,1247年(宝治元年)の宝治合戦で北条氏と安達景盛らに攻められ,三浦泰村以下一族276人が源頼朝の法華堂にこもり自害し,滅ぼされました。
 北条氏により滅ぼされた後,三浦氏の落人は各地に散りました。秋田県や宮城県など東北地方に三浦姓は多く,現在でも東北地方には地域の三浦姓の大本家として続く家が残っているということです。三浦氏の落人たちが各地に散り散りになるときに「その地に三浦氏の者が住む目印として庭に三浦氏のシンボルであるかやの木を植える」としたという伝承が残っているそうで,未だに三浦氏の祭神である三浦大明神を祀っている家もあるとのことです。
 私が訪れたときは朝早く,観光客がだれもいない静寂の中,歴史に想いを寄せることができました。

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 昨日最終回を迎えたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にちなんだ大河ドラマ館が鎌倉・鶴岡八幡宮のふもとにあります。一度は行ってみたいものだとずっと思っていたのですが,鎌倉は遠く,なかなか行く機会がありませんでした。
 2022年12月8日と12月10日に東京でコンサートを聴く機会があって2泊3日で東京へ行くことになったので,コンサートを聴く予定のない中日12月9日に鎌倉へ足を延ばし,大河ドラマ館へ寄ることにして,その折に鎌倉幕府に関する名所や旧跡も巡ることにしました。とはいえ,旅は天気次第。ですが… 晴れ男の私は,今回も天気に恵まれました。初冬とはいえ歩くと汗をかくほどとても暖かい日でした。
 旅行補助も手伝って,日本中,観光地はどこも混雑しているということだったので,おそらく鎌倉もすごい人混みだと覚悟しました。旅慣れた私が悟っているのは,旅は早朝が勝負だということです。どんなに混雑しているところでも,午前9時までならなんとなります。そこで,早朝に浅草のホテルを出て,午前7時には鎌倉に着きました。
 まずは,朝食ですが,JR鎌倉駅近くにカフェを見つけたので入りました。お客さんは少なく安らぎました。朝食を終えて,観光開始です。

 私が行きたい大河ドラマ館は午前9時30分開館だったので,それ以前に主なところに行くことにしました。いつも書いているように,私が観光地で嫌いなのは,団体ツアー客と仲間でつるんでやってくるオートバイのライダーとインバウンドでやってきた外国人の団体です。さすが,鎌倉はオートバイのライダーはいませんが,団体ツアー客が強敵です。団体ツアー客が行動を開始する前が勝負です。外国人も増えてはきましたが,個人で旅をしている人はまったく問題はありません。
 私がまず行こうとしたのは,源頼朝の墓でした。
 その昔に行ったことがあると記憶しているのですが,そのころは鎌倉幕府のことなどほとんど知らず,また,今以上に無知だったので,徳川家康の日光東照宮などとは比べものにならない貧弱なものだとがっかりしたのを覚えています。しかし,当時よりは賢くなった私は,時代も政治体制も異なるので,それは当然だと今は思います。
 源頼朝の墓があるのは鶴岡八幡宮を越えた東側の丘の上なので,鎌倉駅近くのカフェから小町通りぬけ,鶴岡八幡宮を経由して行きます。
 鶴岡八幡宮は,前回来たときはコロナ禍以前でものすごい人混みでした。神社の前で階段の下の風景を写真に収めていたら立ち止まらないでくださいと叱られたこともあって,鶴岡八幡宮に私はまったく不愉快な思い出しか残っていないのですが,この日は違いました。なにせ,いたのは私ひとり。
 静まり返った境内は最高でした。
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 1219年(建保7年)1月27日,鶴岡八幡宮で征夷大将軍源実朝が甥の公暁に暗殺されるというの事件が起きました。公暁が隠れていたという鶴岡八幡宮の大銀杏の古木は,2010年(平成22年)に倒れてしまいましたが,すぐさま再生への取り組みがされ,もともと植わっていた場所に残った根から若木が出てくるように処置が施され,根元から4メートルの高さで切り離された幹がその横に移植されいました。
 この日私が見たのは,黄葉した元気な2代目の銀杏でした。

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 この国は,現在も,江戸時代,特に中期以降のままの状況が続いているように感じます。長く平和の続いた江戸時代に多くの習慣や思想が生まれ,日本人の価値観として定着しましたが,それを日本古来のものだと錯覚しているわけです。
 そこで,いかにこの国が民主主義をうたっていても,結局,主権は国民にあるのではなく「お上」とよばれる権力者にあると思っていて,それを江戸時代のごとく,殿様に従順にしたがう「ふり」をして,表立って反抗もせず,したたかに勝手に,しかし,法律で定められてもいないことをお互いの目を気にして縛り合って生きているのです。
 しかし,江戸時代以前のこの国は,どうもそれとはまったく違っていたようです。だから,現在の価値観でその昔の歴史を語っても,それはまったく異なったものであったに違いありません。あの世とこの世の垣根なんて,今よりずっと低かっただろうし,一寸先のことは神のみぞ知るだから,ひたすら祈るしかなかったわけです。
 おそらく,そのころの日本は,今の外国以上の違いがあったことでしょう。

 室町幕府に力がなくなり,ほとんど無政府状態だった,いわゆる戦国時代は,それはそれで人間の本音丸出しだからわかりやすいのですが,それ以前のこの国は,まったく理解不可能です。
 今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」はそんな時代を舞台にしています。
  ・・
 鎌倉幕府というから,江戸幕府と同じような印象をもってしまうわけですが,もちろん,鎌倉時代に江戸時代のことなど知る由もなく,だから,徳川将軍と源将軍ははまったく異質であったにちがいありません。
 以前,鎌倉へ行ったときにふと偶然見つけた源頼朝の墓,そのときに写した写真はどこかにいってしまったので,今日の3番目の写真は足利尊氏の墓ですが,そういったものを見たとき,日光東照宮とのあまりの違いに私は驚きました。
 また,今でこそ,源氏と平氏などと色分けしますが,おそらく,そんな簡単なものではなかったことでしょう。とにかく,自分の財産は米をとるための土地であり,その土地を守ってくれる実力者の庇護こそが最も大切だったということに尽きるわです。

 鎌倉幕府の成立の記録を今に残す基本史料である「吾妻鏡」は北条得宗家の創りあげたものです。現存するものには,源頼朝の死に関する部分が抜け落ちているし,その直系の将軍であった源頼家,源実朝が非業の死を遂げ,ついには北条政権となったことなどの記述は,どこまでが真実であり,何がでっち上げなのかなんて到底わかるわけもありません。歴史は後世,勝利者が自らを肯定するために作ったものだからです。
 そこに,「平家物語」などが記述する平家の滅亡や,能の「安宅」や歌舞伎の「勧進帳」で今も語られる源義経など,それらが,日本人のもつ半官びいきの感情と入り組んでいて,ごちゃごちゃでわかりにくく,だから,これまでに何度も取り上げられた大河ドラマも,私は,途中で興味を失い最後まで見ることができませんでした。
  ・・
 所詮,正しい -といっても何をもって正しいとするのかもわかりませんが- 史実など書けない古い時代のことだから,その時代は単なる媒体として,興味あるわかりやすいホームドラマ,そしてまた,あえてわざとらしい喜劇であれば,私ははじめて,この時代の大河ドラマを見終えることができるだろうなあと期待しています。セリフが現代語であることと,エバン・コール(Evan Call)という人が音楽を担当し,流れる旋律がクラシック音楽のそれであること,このふたつも相まって,今のところは,そういった流れなので,安心して見ているのですが,さて,この先,源頼朝亡きあと北条政子が歴史のカオスを引っ掻きまわすようになったときが心配です。三谷幸喜さんの脚本で,政子を演じる小池栄子のくりくりした眼力ならそうならないだろうと信じていますが…。

  ・・・・・・
 建久六年十二月大廿二日癸酉。將軍家入御藤九郎盛長甘繩家。今夜御止宿云々。
  (欠落)
 建久十年二月大六日戊辰。霽。羽林殿下去月廿日轉左中將給。同廿六日宣下云。續前征夷将軍源朝臣遺跡宜令彼家人郎從等如舊奉行諸國守護者。彼状到着之間。今日有吉書始。
   「吾妻鏡」
  ・・
 建久6年(1195年)12月22日。将軍頼朝様は藤九郎盛長の尼縄の家へ出かけられました。今夜はお泊りだそうです。
  (欠落=この間に源頼朝死去)
 建久10年(1199年)2月6日。晴れました。近衛将軍頼家様が先月20日に中将に出世しました。同じ月の26日の天皇の命に,前征夷大将軍源頼朝の跡を継いで,鎌倉御家人を使って前の通り,諸国を守るように支配してください。とあります。その手紙が着いたので,幕府の新将軍として政務を始める儀式の吉書始め式を行いました。
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無題


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 私のNHK大河ドラマは「国盗り物語」ではじまり「麒麟がくる」で終わったと思っていました。それは,歴史ドラマというものに興味をなくしたからです。
 権力を握った人がその行為を正当化するためにこしらえたのがいわゆる学校で習う歴史ですが,本来の歴史は,戦争をしているばかりで悲しすぎるということとと,本当に知らなけらばならない歴史とは,一部の支配者を語るものではなく,いつもそうした権力者の犠牲となる庶民の姿であると思うようになって,支配者たちが権力闘争を繰り広げるようなドラマを見ることに疑問をもつようになったのです。
  ・・
 私がもし歴史上のどの時代に生きていたとしても,支配者といわれる聖武天皇も源頼朝も織田信長も豊臣秀吉も,おそらく自分には関係がなく,というより,彼らの権力闘争の犠牲者として馬鹿でかい建築物を作るために,あるいは,戦をするために駆り出されたり,それ以外は年貢を納めるために日々農作業にあけくれるだけの単なる田舎の百姓として,短い一生をあえぎ苦しみながら泳いでいたにすぎない存在だったことでしょう。
 もし生きていたのが戦国時代だったら,精魂込めて作った穀物が戦で台なしにされて途方に暮れていたか,あるいは,もしそれが第2次世界大戦のころだったら,兵隊にとられて南太平洋で屍になっていたか。自分の人生なんておそらくそんなものだったと思うのです。また,万が一,私が歴史上の人物だったとしても,おそらくは勝者の側ではなく,敗者の側だったにちがいありません。
 それが,どうしてか,歴史ドラマを見ている人たちは,権力者に感情輸入をして,自分が英雄になってしまうのです。自分が織田信長や豊臣秀吉である気になっているのです。あるいは,そんな才覚もないのに自分が坂本龍馬になった気で,国を変えてやるんだ,などといった錯覚をもってしまうのです。
 私が歴史ドラマに興味を失くしたのはそんな理由からです。

 ということで,今年の大河ドラマもまったく関心がなかったのですが,暇にまかせて「鎌倉殿の13人」を見ていたら,それがおもしろいこと。あれは歴史ドラマというのとは全くかけ離れたホームドラマであり,あえてわざとらしく演じる喜劇でした。
 なので,今回は,私の歴史ドラマ対するこだわりは凍結して,暇つぶしに楽しむことにしました。そうして見ていたら,今度は,鎌倉という場所が懐かしくなってきました。
  ・・
 私の家からは,京都や奈良,特に京都は簡単に行くことができるので,これまで何度も足を運びました。しかし,鎌倉は遠い。そこで,これまで数回しか行ったことがありません。しかも,鎌倉へ行ったのは,東京に所用があったときに気が向いたらそこからJRに乗って行ってみたことがあるだけで,鎌倉を目的地として行ったことがないのです。
 私のイメージする鎌倉は,まずは「俺は男だ」などの青春ドラマの舞台であり,私が尊敬する吉田秀和さんなどの文化人の多く住んだところであり,そして,サザンオールスターズなどからイメージする,イケてる若者の地です。

 今から45年以上も前,大学生になったころの暑い夏のこと。
 まだ,首都圏のJRは国電といいました。そして,列車の半数以上は冷房すら入っておらず,窓を全開した車両は我慢比べの場所でした。そんな東京にはじめて行ったとき,東京駅のホームに湘南線の電車が停まっていて,普通車両なのにグリーン車が連結されていて,かっこいいなあと思いました。いつか私は鎌倉の地に住んで,たまの休日にはそんな車両に乗って東京へ出かけて,コンサートでも聴いたり美術館巡りをするような生活がしてみたいものだと思ったことでした。
 それが歳を重ねて,私が若いころに思い描いていたようなところは,この国にはどこにもないことを知りました。そんな憧れていた生活も,それはそれで悩み多い,どこに住んでいても変わらない日常があるだけだということがわかりました。それでも,ほとんど行ったことがないのが幸いして,私には,今も,鎌倉は京都や奈良に比べたら,話をしたことがない憧れの人を遠くから見ているような,そんなときめきを感じます。
  ・・
 そのうち,暖かくなって,もう少し世の中が落ち着いたら,ガイドブックも何も持たずに,鎌倉の,それも人の行かないような,鎌倉時代を感じることができるような史跡をめぐる旅をしてみたいと,ドラマを見ながら思うようになったこのごろです。


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 昨年は,猛暑から急に寒くなったので,絶品の紅葉を見ようと京都を歩いてみました。
 今年は,急に冷え込んだので,昨年以上の紅葉が見られるのではないかと,今度は,鎌倉を散策してきました。
 鎌倉の散策といえば,北鎌倉駅から鎌倉駅までのコースが有名ですが,私の訪れたのは休日だったので,JRの北鎌倉駅は,ホームから出るのも大変なくらいの人混みでした。

 こうして,京都と鎌倉の両方に出かけてみると,いろいろな違いがあって,それが私には一番興味深いことでした。
 はじめに思ったのは,お寺の拝観料が,鎌倉の方が安いということでした。京都は,拝観料がどんどんと高くなって,今はどこも600円くらいします。それに対して,鎌倉は300円です。お寺の格とかいうことは全く知りませんが,紅葉に関していえば,どちらも双璧なので,鎌倉の方がお得です。
 観光に訪れる人も,鎌倉は,当然,首都圏の人が多いのですが,京都とは違って,古寺を鑑賞する,という目的の人は少ないように感じます。言い方を変えれば,お寺見物のプロでない,という感じなのです。そういう意味では,お寺を訪れた人たちの興味が違うように思います。

 では,北鎌倉から歩いてみましょう。
 まず,北鎌倉駅の東に円覚寺があります。ここは山門から眺める紅葉がきれいなので,多くの人が写真をとっています。しかし,ここは,どこで写しても電柱と電線が入ってしまうので,後で見るとがっかりすると,私は思うのですが…。
 円覚寺は,北条時宗が蒙古襲来で戦没した霊を弔うために建てられたお寺です。境内の南側の小高い丘の上に鐘楼と弁天堂があります。ここに登るのはかなり大変なのですが,見晴らしのいい高台からは,運がいいと富士山を見ることができます。
 次に,私の大好きな明月院に向かいます。この別名「アジサイ寺」とよばれる寺のことは,すでにこのブログにも書きましたが,この寺は,本堂の丸い窓があまりに有名で,観光客はみんなここに集まって写真を写しています。絶好の写真スポットなのでしょう。
 この丸窓の向こうには広い後庭園があります。しかし,この寺の後で庭園に入るには,拝観料とは別に入園料が必要なので,庭園まで入る人が少なく,とても空いているのです。
 ガイドブックに載っている値段の高いものを食べるのにはお金を惜しまなくても,こうした庭園に入るのはお金を惜しむのが関東流だなあ,と私は思うのですが,実は,この庭こそが穴場なのです。ここの紅葉は絶品ですし,人が少なく落ち着いて散策することができます。
 明月院から少し行くと,長寿禅寺という寺があります。
 長寿禅寺は足利尊氏が創建したもので,境内の裏山には,尊氏の遺髪を埋葬した墓があります。
 この寺は,拝観できる期間が限定されていることと,あまり有名でないので,通り過ぎる人が多いのですが,この寺の庭は最高なのです。モミジの紅葉とイチョウの黄葉の調和がみごとです。そこに,木漏れ日がかかるので,すばらしい景色を味わうことができます。
 寺の人に聞いたところによると,何かのガイドブックに紹介されたとかで,この寺を通り過ぎずにわざわざ訪れる人は,みなこの本を持っていると言っていました。

 それにしても,観光する人たちは,みな同じように何がしかのガイドブックを持っていて,そこに書いてあることしかしません。だから,ガイドブックに書かれてある特定の店に並んで食事をする,というのが,私には滑稽に思えます。そうしたコースから外れると,むしろ,人の少ないすばらしいところがたくさんあるというのに…。
 長寿禅寺を出て,歩道から溢れるほどの人混みをさらに南に行くと,有名な建長寺があります。そして,鶴岡八幡宮には北側から入ることができます。そして,鶴岡八幡宮の石段を下っていくと,若宮大路に出ます。
 このあたりは,どのガイドブックにも載っている観光名所なので,私はここをパスします。
 若宮大路まで来ると,北鎌倉からの古寺散策は終了です。
 若宮大路には多くの土産物さんが軒を連ねていて,そのまま進むと鎌倉駅に着きますが,さらに若宮大路を1キロほど南に歩いて行きます。すると,やがて海の香りがして,海岸にたどりつきます。左手東側は材木座海岸で,右手西側は由比ヶ浜です。江の島はもうその先です。12月だというのに,水着を着た人を見かけます。さきほどまでの古寺とは打って変わってここは美しいリゾート地です。
 このように,歴史あり景色あり美食ありと,秋の天気のよい1日をのんびりと楽しむには,京都もいいけれど鎌倉もまたすてきなところです。
  ・・・・・・
 鎌倉では潮騒ばかりではなく,山の音もする。
  ・・・・・・

◇◇◇
サザンオールスターズの「鎌倉物語」では,
  ・・・・・・
 鎌倉よ何故夢のような虹を遠ざける
 誰の心も悲しみで闇に溶けてゆく
  ・・・・・・
と歌われます。

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 東京から鎌倉を訪れるのなら,横須賀線に乗って,北鎌倉で降りて,のんびりと散策するのがお勧めです。この辺りには,多くの文人や文化人の住む静かな住宅街があって,その空気に触れるだけで,多くの名作を読んだり,名曲を聴いたりしたときに感じるのと同じ満ちたりた気持ちになります。
 駅を降りて円覚寺のある通りを横須賀線の線路に沿ってまっすぐ歩いていくと,北鎌倉の谷戸といわれる,明月院にたどり着きます。
 明月院は,鎌倉時代に,八代執権北条時宗が建てた禅興寺というお寺の塔頭の ひとつに過ぎなかったのですが,その後,禅興寺の方が衰退して明治期に廃絶し,明月院のみが残ったということです。 とりわけこの時期は,お寺の境内は青色の紫陽花でいっぱいになります。
 明月院は紫陽花寺とよばれています。 明月院には,青色の「姫紫陽花」とよばれる種類の紫陽花しかありませんが,このことが,むしろ,このお寺の潔さを引き立たせます。紫陽花咲き誇る明月院を訪れると、この鎌倉に住み紫陽花咲くころに亡くなった吉田秀和を想い出します。

 吉田秀和について,丸谷才一は「袖のボタン」というエッセイ集で次のように書いています。(以下,( )内は私の補足です。)
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 前まえから,(私=丸谷才一は)現存する日本の批評家で最高の人は吉田さんだと評価している。…… 
 この数十年間の日本の批評は,小林秀雄の悪影響がはなはだしかった。…… 文芸の実技を抜きにして,いきなり倫理とか政治とか人生とかを扱いがちだったのである。……
 吉田さんの方法はまるで違う。いつも音楽の実技と実際とがそばにある。…… 
 二人の批評家(吉田秀和と小林秀雄のこと)は鎌倉で住いが近かった。そのつきあいの様子が(吉田秀和さんの著書に,次のように)書いてある。
 私(=吉田秀和)の知る小林さんは実に親切で情に篤い人だったが,反面,何とも潔い人でもあった。…… (小林秀雄の)最後の大著は「本居宣長」で,ある日何の前ぶれもなく風のようにわが家(=吉田邸)を訪れた小林さんは「君,出たよ」と言いながら,真新しい本を置いていった。それからしばらくして,お宅に上がった折「やっぱり私にはこの本はわかりません」と申し上げた。せっかくの好意に,正直にいうよりほかないのが悲しかったが。
 そして私(=丸谷才一)は,吉田さんが,「本居宣長」を賞揚する多くの人と違って,宣長をずいぶんよく読んでいることを知っている。
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 この本は,私の知る限り,エッセイの最高傑作のひとつだと思います。はじめてこの文章を読んだときの感動と戦慄を昨日のように覚えています。 吉田秀和を追うように,丸谷才一も亡くなりました。きっと,今,おふたりは,仲よく,音楽談義をしていることでしょう。

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 安治佐為能 夜敝佐久其等久 夜都与尓乎 伊麻世和我勢故 美都々思努波牟
  「万葉集」巻2・4448 橘諸兄
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 紫陽花 八重咲く如く 弥つ代にを いませ我が背子 見つつ偲はむ
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 紫陽花の花が八重に咲く様に何代も健勝でいらしてください
 花を見ては貴方様をお慕い致しましょう
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