しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ: 「感想」

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 ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番のあとに休憩がありました。
 休憩後,第2番のまえに演奏されたロッシーニの歌劇「ブルスキーノ氏」序曲が,疲れ果てた私には癒しとなりました。第2番と楽器編成が似ているという理由もあったのでしょうが,この選曲は絶妙でした。
 ロッシーニが作曲した1幕からなるオペラ・ファルサ(Opera Farsa=笑劇)「ブルスキーノ氏,または冒険する息子」(Il signor Bruschino, ossia Il figlio per azzardo)は,現在は,序曲のみが多く演奏されています。序曲は序奏部を持たない小規模なもので,弦の弓で譜面台を叩くという奏法がコミカルなものでした。なお,この演奏会は,簡単なパンフレットが配られただけで,曲の紹介がかかれた小冊子はありませんでした。

 さて,ほっと一息ついたあとに,ショスタコービッチのヴァイオリン協奏曲第2番がはじまりました。服部百音さんの衣装が黒色に変わりました。
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 3楽章からなるヴァイオリン協奏曲第2番は,1966年から67年にかけて作曲されたもので,60歳になった晩年のショスタコービッチらしい,思索的,哲学的内容をいっそう深めた作品です。
 室内楽的な明確な輪郭があり,全合奏の部分は極めて少ないのが特徴です。また,ヴァイオリンの独奏パートはまとまって休むことがほとんどなく,各楽章の中間部にそれぞれカデンツァを置いています。
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 第2番は,第1番のような派手さがないし,演奏される機会もほとんどなく,私も,これまで演奏会で聴いたことはありませんでした。また,ネット上にも詳しい解説が見当たりませんでした。そこで,今回,私は,何度も聴いて,予習をしました。
 第2番は,はじめて聴いたときには,聴き手を引き込む迫力がありません。しかし,聴きこんでみると,かなり魅力的な作品でした。
 陰鬱な雰囲気ではじまるオーケストラにソロ・ヴァイオリンが落ち着かない主題を乗せていく第1楽章の主調は嬰ハ短調で,これは,ヴァイオリンの曲にはあまり適さない調性ということです。暗く曖昧な第1主題と軽妙な第2主題の音色の変化が対比し,展開部からカデンツァに現れる重音ののち,第2楽章へと続きます。このあたりが,ショスタコーヴィッチ好きにはたまらなく魅力的に感じられるところです。薄暗がりの中に真っ赤な糸がうねりながら光って見えるような第2楽章のヴァイオリンのソロによる主題の提示は,暗い色調の曲に乗る艶っぽい音色が特徴で,唐突に過激なカデンツァがはじまり,朗々とホルンのソロが響きますそして,アタッカで演奏される第3楽章は,諧謔的で光と影がギラギラと入り乱れるような曲想で,かなり長めのカデンツァがあり,終盤は,打楽器とヴァイオリンが掛け合う展開になります。
 この曲は,幾多の試練を乗り越えた晩年のショスタコービッチの,ロシアの狂気に戦い疲れたむなしさとあきらめが表現されているように,私は感じます。「第1番に比べ第2番はそれなりにうまくやってはいるが,どうしても訴えかける力が弱いような気がするのである」という,ある評論を読みましたが,この曲は,人に訴えようと思ってはいないのだ,と私には感じます。ショスタコーヴィチ自身ための,ロシアへの決別であり,多くの犠牲者への鎮魂の曲なのです。

 この第2番の,第1楽章と第3楽章のカデンツァに現れる,ロシアの狂気をあざ笑うかのようなお道化たメロディは,どこかで聴いたことがあるのになあ? 何だったかなあ? と非常に気になって,ショスタコーヴィッチのさまざまな曲を聴いて,やっと探し当てました。それは,1966年に作曲されたチェロ協奏曲第2番のメロディでした。
 チェロ協奏曲第2番とヴァイオリン協奏曲第2番を何度も聴き比べてみると,このふたつの協奏曲は,まさに,兄弟のようなものでした。ちなみに,ヴァイオリン協奏曲第2番の第1楽章の最後とチェロ協奏曲第2番,そして,交響曲第15番のフィナーレは,ショスタコーヴィチお得意の,それぞれ,同じような木管楽器と打楽器との掛け合いの妙で,これが,私にはたまらなくいい。
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 と,聴きながら想いを巡らせていると,第3楽章の後半部で「事件」(ハプニング)が起きました。服部百音さんが酷使していたヴァイオリンがついに音を上げて,弦が切れてしまったようでした。突如,コンサートマスターのマロさんのヴァイオリンと交換して,続きを弾きはじめたところで,井上道義さんが演奏を止めました。そして,少し戻して,演奏を再開し,無事に何事もなかったように終了しました。ヴァイオリンが変わって,音色が変化したのが,私にはとてもおもしろかったです。
 ちなみに,服部百音さんの使用楽器は,日本ヴァイオリンより特別貸与の1740年製グァルネリ・デル・ジェス(Guarneri del Gesù)。マロさんの使用楽器は(株)ミュージック・プラザより貸与されている1727年製ストラディバリウス(Stradivarius)です。
 私は,一度,NHK交響楽団の定期公演で,ヴァイオリン奏者の弦が切れて,ヴァイオリンを後ろへ後ろへと回し交換する姿を見たことがあるのですが,今回は,ソリストのヴァイオリンの弦が切れる,というもので,これははじめて見ました。ただし,ピアノの弦が切れた,というのは見たことがあります。こうした「事件」と,その的確で冷静な対処を見ると,いかにプロの演奏家がすごいのか,ということを再発見します。

 井上道義さんは,ブログに次のように書いています。
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 何と! 最後の最後にあり得ないタイミングで弦が切れ, コンサートマスターのマロさんの楽器を一瞬のうちに手渡され,彼の楽器の素晴らしい音さえ一瞬で引き出し,よい意味で「忘れられない事件」として,2,700人のお客さんの記憶に残すことになったのです。
 道義は,あの時,無理やり続けるかやり直すかという一瞬の判断の分け目で後者を取りましたが,それは,モネが「何かあったらやり直すから」と宣言していたせいでもありました。
 彼女との共演では,以前も肩当てが落ちたこと1回,弦が切れたこと1回と,いつも何かが起こる。
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 終了後,服部百音さんは,燃えきれていないような表情を見せて,井上道義さんがそれを慰めるような姿が見えました。しかし,大観衆の拍手で,すべてが救われました。
 今回のコンサートで,人生の仕事のひとつをやり終えることになる,というようなことをXに書いていた服部百音さんでしたが,あまりに完璧にやり終えて気が抜けてしまうよりも,こうした「事件」があったことで不完全燃焼となり,より上を目指そうという意欲が沸き起こったのではないかな,と私は思いました。
 すばらしい演奏会に立ち会えて,大満足でした。

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 ずいぶん前のことなので,チケットを入手したときのことは忘れたのですが,私の席は,前列2列目,そこまではよかったのですが,ステージに向かって左から3番目,つまり端っこでした。こりゃ最悪だ,と思ったのですが,考えてみれば,カーテンコールのとき,一番近くで見ることができるではないか,ということで,思い直しました。
 大阪フェスティバルホールはすばらしいところですが,オーケストラのコンサートではちょっと広すぎます。
  ・・
 この日の前日2024年6月29日に,サントリーホールで同じ演奏会がありました。私が大阪のフェスティバルホールで聴いたのはその翌日となりますが,これが,正真正銘,井上道義さんのNHK交響楽団を指揮する最後となるわけです。NHK交響楽団のコンサートマスターはマロさん。曲目は,前回書いたように,ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番と第2番。この2曲を挟んで,ロッシーニの歌劇「ブルスキーノ氏」序曲でした。

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 41歳のショスタコービッチが,1947年から1948年にかけて作曲された4楽章からなるヴァイオリン協奏曲第1番は,12音技法を使うなどの前衛的な書法により1948年2月に共産党による作曲家批判を受けたため,発表を控えました。その後,スターリン死後の雪解けの雰囲気の中,交響曲第10番の初演が成功し,ジダーノフ批判が一段落したと考えられた1955年に発表されました。
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 コンサートがはじまりました。
 服部百音さんは,あざやかなブルーの衣装で現れました。ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番は,ショスタコーヴィチの傑作のひとつであり,ヴァイオリン協奏曲の傑作のひとつです。私も好きな曲です。しかし,この曲を聴いていると,貴族趣味のベートヴェンやブラームスの優雅なヴァイオリン協奏曲とは全く異質の,これはまさに現在行われている戦争そのものだと感じられます。
 それにしても,この曲,悲しすぎます。現在のロシアの狂気によって失われた多くの犠牲者に思いを巡らせます。

 今回の演奏を聴いていると,服部百音さんの演奏はまさに命懸け。これから第3楽章のカデンツァが待っているというのに,すでに第1楽章から,これ以上はないというほどの精魂込めたもので,これで,次の第2番まで体力が保てるのか,それ以上に,楽器がもつのか,と思えるほどでした。弓の糸がひっきりなしに切れました。
 これだけ激しい演奏はこれまで聴いたことがありません。これは,芸術というよりも,まさに戦いでした。
 ヴァイオリン協奏曲第1番演奏が終わったとき,演奏者以上に,聴いていた私が疲れ果てました。

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 2024年6月30日に,大阪のフェスティバルホールで,井上道義指揮NHK交響楽団の演奏会を聴いてきました。主な曲目は,服部百音さんがヴァイオリンを弾くショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番と第2番でした。服部百音さんのXにはこうあります。
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 当初周りから散々,不可能だろうといわれたショスタコ協1番&2番を一夜で同時にやる×2日連続×ライブ録音の企画がもうすぐはじまって終わる。私が20歳の時に企画してから4年。大変な思いも沢山した。けれど,信じられない程沢山の人とチームの力が重なり団結した企画だった。実現した事そのものだけでも,皆さんのショスタコへの尊敬と愛情を大きな形にする事が出来た。と思っています。
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 私は元気です。 舞台でね!
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 ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番は,以前,井上道義さんが指揮をした読売交響楽団との劇的な演奏,服部百音さんが第3楽章「バッサカリア」の最後の長いカデンツァが終わり,汗を拭おうとしてヴァイオリンの肩当てを落とし,第4楽章のはじめの3音が弾けなかったというものですが,これをテレビで見たことがあるので,このような演奏をライブで聴けるのか! という期待がありました。また,ヴァイオリン協奏曲第2番は,服部百音さんは,この演奏会の前に5月の広島交響楽団のコンサートでも弾いていて,それは,この演奏会に向けての調整? だったように思いました。
 ところが,この演奏会ではとんでもないことが起きたのですが…。それは次回に。

 2024年末で引退する指揮者井上道義さんは,現在,自分のやりたいことをすべてやり終えようと,精力的に各地でゆかりのあるオーケストラの指揮をしています。NHK交響楽団との共演は,定期公演では,2024年2月の第2004回が最後だったので,これで終わり,と思っている人もいるでしょうが,実際は,今回の演奏会こそが,最後となります。
 実は,井上道義さんが再びNHK交響楽団を指揮するようになったのは,近年のことです。井上道義さんのブログにこうあります。
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 今だから書くが,井上は80年代中頃に,N響と小澤事件を思わせる大喧嘩して20数年間指揮しなかった。
 「井上がN響定期? 絶対有り得ない!」と事務長に言われて帰ってきたことあったとは梶本音楽事務所時代のカジモト社長の懐古調のセリフ。
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 若いころは振らせてもらえなかったのに,今ごろになって,頻繁にNHK交響楽団が招へいしてくれるのは…,みたいなことを書いていたのを読んだことがあります。何か,すごく根にもっている感じがします。

 ショスタコーヴィチは2025 年に没後半世紀となるのですが,このコンサートはそれとは関係ないと思われます。井上道義さんは,自分のレパートリーの中心にショスタコーヴィチを据えていて「ショスタコーヴィチは自分自身である」と語っているし,服部百音さんもまた「これほど自分自身に矛先を向けている作曲家はいない」と語り,ショスタコーヴィチとその作品を自らの核としてきたからです。この両者,服部百音さんは,17 歳のときに井上道義さんと初共演して以来,「音楽の真実を教えてくれる先生」として敬愛しているようです。最高の組み合わせです。
 そのようなわけで,このコンサート,これを聴かずにおれようか,ということで,私は,ものすごく楽しみにしていました。それにしても,ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲 第 1 番と第 2 番。第1番はよく演奏されますが,第2番とは! 私はこれまで聴いたことがありませんでした。

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 2024年6月8日,NHK交響楽団2024年6月Aプログラムを聴きました。
 毎年,6月の定期公演は,私にはなじみのない曲であることが多いのですが,今回は,とりわけ,全曲スクリャービンと,私にはまったく縁遠いもので,すべてはじめて聴く曲でした。スクリャービン(Aleksandr Nikolaevich Skryabin)は,1872年に生まれ,1915年に亡くなったロシアの作曲家です。
 指揮・原田慶太楼さん,ピアノ・反田恭平さんと,今,注目されるコンビに加え,コンサートマスター・郷古簾さんという,若々しいメンバーで,これだけでうれしくなりました。
 曲目は,「夢想」(Rêverie),ピアノ協奏曲,交響曲第2番でした。

 「夢想」は,当初の題名が「前奏曲」。とても美しい曲で,さあ,これから楽しい音楽の夢の時間がはじまりますよ,という感じがしました。文字どおり,この演奏会の「前奏曲」になりました。
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 ピアノ協奏曲は,ショパンの影響が濃厚に残る作品で,第1楽章は,短い導入のあと,メランコリックな旋律の第1主題,明るく甘い響きをもつ第2楽章が対位法的に旋律が絡み合う展開部を経て,再現部,そして,コーダと続きます。第2楽章は変奏曲。感傷を極めたかのような旋律の主題が,ピアノの細かいパッセージがセンチメンタルさを更に強調する第1変奏が第2変奏で前向きに一瞬動き出すものの,第3変奏で重厚なピアノが悩ましさを醸し出し,第4変奏では管弦楽が対位法的に絡み合い,最後に回帰した主題をピアノが装飾します。そして,第3楽章では,悲しくも力強い第1主題と祈りが上昇してゆくような第2主題が核になって,最後は,おもに第1主題が変奏されてクライマックスを迎えます。
 やるせなく美しい第1楽章,ピアノの枠に収まりきれずに滴り落ちるようなロマンの薫りの第2楽章,オブラートで包まれたような柔和な第3楽章からなる,美しく甘い旋律に彩られたこの曲は甘い香りのする極上のピアノ協奏曲でした。「もっとも美しいピアノ協奏曲」といわれるように,本当に美しく,感動しました。
 アンコールはグリーグ(Edvard Hagerup Grieg)の叙情小曲集から「トロルハウゲンの婚礼の日」(Wedding Day at Troldhaugen)でした。これがまたすばらしかった。
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 交響曲第2番は1901年に完成した初期の集大成で,ワーグナーに熱狂していたスクリャービンでしたが,ここでは,更に一歩前へ進んで,リヒャルト・シュトラウスにも接近しているそうです。全5楽章で,第1楽章と第2楽章,第4楽章と第5楽章は,それぞれ切れ目なく続けて演奏されます。
  第1楽章は,クラリネットが低い音域で奏する陰鬱な循環主題Ⅰと,ヴァイオリン,次いでフルートが独奏する明るい響きの循環主題Ⅱが全楽章を統べる主題となっていて,「悪魔的な詩」(Poeme Satanique)と称されるそうです。
 第3楽章は,フルートとヴァイオリンの掛け合いが小気味よく美しく,ブラームスのピアノ協奏曲第2番のチェロの独奏を思い出しました。
 スクリャービン自身は「作曲したときには気に入っていた曲ですが今となっては満足できません。終楽章が陳腐なもので」といい,いずれは終楽章を書き換えることも計画していたといわれますが,実現しませんでした。聞きやすい曲だという感想がみられますが,私は,第3楽章の美しく神秘的な曲が,最後にはただの平凡な曲になってしまったような気がして残念でした。
 3部構成に集約されているという観点から,マーラーの交響曲第5番の構成法にもよく似ています。スクリャービンは,生涯に5曲の交響曲を書きましたが,次第に楽章数を絞っていく方向に向かい, 最終的には単1楽章構成にたどりつきます。

 オールスクリャービンプログラムなんて,だれが聴きにくるのかな? 今日はガラガラだ,と思ったのですが,私の予想に反して,反田恭平さん効果なのか,満員札止めでした。私は,予習をして聴きにいったのですが,事前に思っていたよりもはるかに楽しく,久しぶりに,曲にのめりこみました。
 いい演奏会でした。

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 東京とは違って,大きなホールがあまりない名古屋では,オーケストラの演奏会のほとんどは,愛知県芸術劇場コンサートホールで行われます。以前書いたように,愛知県芸術劇場コンサートホールは,音はいいのですが,会場までの設計が非常に悪く,狭いエスカレータか込みあうエレベータしかありません。東京のサントリーホールとは段違いです。私はできれば行きたくないところです。
 愛知県芸術劇場コンサートホールができるまでは,金山にある名古屋市民会館しかありませんでした。今から40年ほど前,名古屋市民会館で定期演奏会を行っていた名古屋フィルハーモニー交響楽団の公演によく行ったものですが,今は,ここでは,市民会館名曲シリーズというものを開催しています。また,名古屋市民会館は日本特殊陶業市民会館フォレストホールというよくわからない名称になっています。

 土曜日の夕方,ちょっとのんびりとクラシック音楽を聴いてみたいなあ,ということと,曲目がブルックナーの交響曲第7番ということもあって,2024年5月25日,久しぶりに日本特殊陶業市民会館フォレストホールへ行って,演奏会を聴いてきました。ホールが古いのはいかんともしがたいのですが,それが逆に,昭和のころの演奏会を聴いているみたいで,楽しめました。入り口もロビーも階段も広くストレスがありません。
 開演前のロビーコンサートというものもあって,曲目は,ブルックナーの弦楽五重奏曲の第1楽章でした。
 ブルックナーの弦楽五重奏曲は,弦楽四重奏にヴィオラをもう1本増やした編成です。ブルックナーの弦楽五重奏曲は傑作のひとつで,こころに染み入るものでした。今度は,静かな会場で聴いてみたいと思いました。

 今回の演奏会の指揮は,マティアス・バーメルトさんで,以前,NHK交響楽団の定期公演や第九演奏会でも指揮をした人なので,よく知っています。はじめにNHK交響楽団が招へいしてきて,その後,日本の各地のオーケストラの常任指揮者になる,というパターンがよくあって,マティアス・バーメルトさんも2018年4月から2024年3月まで札幌交響楽団の首席指揮者でした。
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 現在81歳で,時代に流されない誠実さと剛直さを併せ持つ指揮振りと音楽性で「いぶし銀のマエストロ」と世界でたたえられています。
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 正直,カリスマ性はありません。我を出す,というタイプではないように思います。そこで,どういう演奏をしたいのか,という主張が軽薄な気がします。

 曲目は, ワルター・アウアーさんがフルートを演奏する尾高尚忠のフルート協奏曲とブルックナーの交響曲第7番でした。フルート協奏曲は第2楽章がきわめて日本らしい音階ですてきでした。
 ブルックナーの交響曲第7番は,美しい第2楽章,ブルックナーらしい第3楽章のカデンツァはいいのですが,第4楽章がちょっと弱いのが欠点だと私は思っていました。
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 他のブルックナー交響曲の最終楽章に比べると,軽快な親しみやすさにあふれている反面,終楽章が短いと否定的に評されることがあります。また,再現部の主題再現は逆に行われるのでわかりにくいという評価もあります。
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 今回,久しぶりにじっくりと聴いてみて,交響曲第7番は,第2楽章と第3楽章を入れ替えて,第4楽章をなくして,それで終わりにしたらいいのではないか,と思ってしまいました。
 一度,そうして聴いてみよう。

 いずれにしても,週末の夕方,こんな気楽なコンサートを聴くのも悪くありません。
 観客の入りは6割程度でした。
 日本特殊陶業市民会館フォレストホールは,終演後,愛知県芸術劇場コンサートホールのように,狭いエスカレータに乗る必要もないし,NHKホールのように,代々木公園や渋谷の雑踏をかきわけることもなく,帰ることができます。これがいい。
 日本特殊陶業市民会館フォレストホールは,近く建て替え工事をする計画があるそうです。しかし,そうなると,建て替えをしている間,ますます,名古屋でコンサートを聴く場所がなくなってしまうことでしょう。
 終演後,おいしいものを食べて帰宅しました。

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 772年2月28日に生まれ,846年8月14日に亡くなった白居易は唐の時代の詩人で,字の白楽天として知られています。
 居易は「礼記」の「君子居易以俟命,小人行険而僥倖」(君子は安全な所にいて運が巡ってくるのを待ち,小人は冒険をして幸いを求める)に由来し,楽天は「易」の「楽天知命,故不憂」(天の法則を楽しみ運命をわきまえる。だから憂えることがない)に由来します。
 安史の乱を背景とした玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋を歌った「長恨歌」は高等学校で習いました。
 「新楽府」50編は,社会批判や風刺の意図をもち,唐代にみられたさまざまな社会現象や,それを対象にして,政治批判・社会批判をする文学と意識して作ったもので,目的は,聞く者(君,臣,民)に民衆の苦しみや世相を知らせ,特に,権力を握るものに深い戒めを示すことにある,とその序にあります。

 NHK大河ドラマ「光る君へ」は,昔も今も変わらぬ,権力争いをしているだけのドラマ,といってしまえば,身も蓋もありませんが,その中に,深い深い平安時代の文学芸術がこちょこちょと出てくるので,学校の古典の授業よりもお勉強になります。
 5月12日の放送でも,まひろが「新楽府」の中の「澗底松」(かんていのまつ)を写すシーンが話題となりました。また,のちに紫式部が宮中に出仕した際,藤原道長の娘の彰子に,この「新楽府」を教えていたことも「紫式部日記」に記されています。
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 読みし書などいひけむもの,目にもとどめずなりてはべりしに,いよいよかかること聞きはべりしかば,いかに人も伝へ聞きて憎むらむと,恥づかしさに,御屏風の上に書きたることをだに読まぬ顔をしはべりしを,宮の御前にて「文集」の所々読ませたまひなどして,さるさまのこと知ろしめさまほしげにおぼいたりしかば,いとしのびて人のさぶらはぬもののひまひまに,をととしの夏ごろより,「楽府」といふ書二巻をぞしどけなながら教へたてきこえさせてはべる,隠しはべり。
  「紫式部日記」
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 「澗底松」は以下のものです。
 私は,才能がありながら,それが世に知られぬという不憫さというより,そのほうが世に出て,人と争うよりずっと自由で幸せだと思ってしまうのですが…。
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有松百尺大十圍,生在澗底寒且卑。
澗深山險人路絕,老死不逢工度之。
天子明堂欠梁木,此求彼有兩不知。
誰喻蒼蒼造物意,但與之材不與地。
金張世祿原憲貧,牛衣寒賤貂蟬貴。
貂蟬與牛衣,高下雖有殊。
高者未必賢,下者未必愚。
君不見沉沉海底生珊瑚,歷歷天上種白榆。
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松有り百尺大なること十圍,生じて澗底じゅんていに在れば寒にして且かつ卑し。
澗たに深く山險けはしくして人路絶ゆ,老死するも工の之を度はかるに逢はず。
天子の明堂梁木を欠く,此に求め彼かしこに有れど兩つながら知らず。
誰か諭さとらむ蒼蒼たる造物の意,但ただ之に材を與へ地を與へず。
金張は世祿せいろく黄憲こうけんは賢,牛衣は寒賤にして貂蝉は貴なり。
貂蝉と牛衣と,高下殊なる有りと雖いへども。
高き者未だ必ずしも賢ならず,下なる者未だ必ずしも愚ならず。
君見ずや沈沈たる海底に珊瑚を生じ,歴歴たる天上に白楡を種うるを。
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高さ百尺,幹回り十抱えもある松の大木が,寒く深い谷底で寂しく生えている。
谷は深く山は険しいので行く人もなく,老いて枯死しても良材を求める大工に逢うこともない。
天子は太廟を建てようと良質の梁材を探し求めるが,谷底に松の大木があるのに両者は互いに知らないままだ。
蒼蒼と広がる天たる創造主の意図を誰が知りよう,ただ大松に良い材質を与えながら良い適地を与えなかった。
愚者の金日磾や張湯は先祖のおかげで名族であったが,獣医の子の黄憲は賢者の評を得ただけ貧しい生涯を終えた。
卑賤の者は麻の牛衣を着て、高貴な者は貂蝉の冠をかぶる。
貂蝉と牛衣と,身に着ける者の間には身分の違いはあるが。
身分の高い者が必ずしも賢者であるとは限らないし,身分の低いものが必ずしも愚者であるとも限らない
諸君もご存知のように人の目が届かぬ深い海底に美しい珊瑚が生じ,光り輝く天上のような宮中にはありふれた白楡の木が植えられている。
  ・・・・・・

無題

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 2024年3月26日から5月19日まで,東京藝術大学大学美術館で「大吉原展 江戸アメイヂング」が開催されていて,見にいきたいと思いながらその機会もなく,あと1週間で終わってしまうという5月12日にその機会ができたので,ようやく行くことができました。
 展示内容は
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●第一部
 入門編として,吉原の文化,しきたり,生活などを,厳選した浮世絵作品や映像を交えてわかりやすく解説します。
●第二部
 風俗画や美人画を中心に,吉原約250 年の歴史をたどります。
●第三部
 展示室全体で吉原の五丁町を演出します。浮世絵を中心に工芸品や模型も交えてテーマごとに作品を展示,吉原独自の年中行事をめぐりながら,遊女のファッション,芸者たちの芸能活動などを知ることができます。
●江戸風俗人形
 辻村寿三郎の人形が並ぶ吉原の妓楼の立体模型で遊女の生活を紹介します。
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というものです。
 人の営みは,それを「文化」というならば,そこには,美しい服を作りたい,着てみたい,人気者になりたい,といった欲求から,さまざまな「芸術」が生まれることになります。そこで,それがどのような動機で作られたものであるにせよ,そこで生まれた「芸術」は人類の財産として残るわけだから,それを展示しよう,というのが,この展覧会の目的だったのでしょう。そして,人は,自分の知らないことを知りたい,という好奇心があるので,このような展覧会に多くの人が訪れるのでしょう。
 私は,この展覧会に限らず,これまで訪れたことがなかった東京芸術大学大学美術館に行くことができたこともあって,その好奇心が満たされたことに満足しました。展覧会を見終えてから,館内のレストランで,おいしく昼食をとりました。

 「大吉原展 江戸アメイヂング」は,開催前から,大いに議論をよんだそうです。曰く
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 公式サイトに書かれたステートメント「-江戸吉原の約250年にわたる文化・芸術を美術を通して検証-仕掛けられた虚構の世界を約250件の作品で紹介する」に対して,「ここで女性たちが何をさせられていたかがこれでもかとぼやかされた序文と概要。遊園地みたい。性的搾取の負を歴史を無視・軽視し,売買春の舞台となった吉原をはじめとする遊廓を美化するものだ」。
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 要するに,展覧会から。吉原という地のもつ「歴史の影の部分」を切り離してしまったことが問題だったようです。「江戸アメイヂング」というサブタイトルもよくない,と。しかし,この展覧会は,吉原をテーマとして残された「芸術の展示」を目的とするものなので,「歴史の影の部分」を取り上げることとは,また,別である,という意見もあり,難しい問題です。

 当時吉原遊廓があった場所,現在の千束四丁目に吉原弁財天があって,その案内板「花吉原名残碑」(はなのよしわらなごりのひ)には,吉原の「歴史の影の部分」についてはまったく触れられずに「新吉原は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め,華麗な江戸文化の一翼をにない,幾多の歴史を刻んだが」と書かれてありますし,また,日本各地にあった遊廓に関連した遺構が観光と結びつくことで,「歴史の影の部分」と向き合うことよりも美化や不可視化が加速されている,といった指摘もされています。また,遊郭に限らず,佐渡金山,石見銀山などでも,過酷な鉱山労働や,見せしめのための処刑があったというような「歴史の影の部分」が存在したのにも関わらず,現在は,観光資源としての娯楽に重点が置かれていると指摘する人もいます。
 その一方で,戦争が科学を進歩させたように,こうした「歴史の影の部分」を利用することで,商業活動が成り立っていた,金儲けをして生きてきた,という人の営みも少なくないわけです。遊郭の周囲のさまざまな職業は遊郭があったがゆえに成り立っていたのだし,戦争のための武器を売って成り立っている会社も少なくありません。直接的にせよ,間接的にせよ,そのような「歴史の影の部分」から恩恵を被っている人が,このような展覧会で「歴史の影の部分」を語っていない,と批判することができるのでしょうか。
 歴史は,人間が行ってきたことをありのままに受け止めることをせず,都合のよいことだけを語り残すものです。そして,「歴史の影の部分」が葬り去られてしまうのです。そこで,そうした現実に真摯に向き合っていないといって,つねに,このような議論が起きるのでしょう。
 このことは,遊郭が存在しなければ生きていけない人がいた,という社会の仕組みのほうがむしろ問題でしょう。これは,人間社会のもつ,根源的な課題です。

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  「花吉原名残碑」
 吉原は,江戸における唯一の幕府公許の遊郭で,元和3年(1617年)葺屋町東隣(現中央区日本橋人形町付近)に開設した。吉原の名称は,植物の葭の生い茂る湿地を埋め立てて町を造成したことにより,はじめ葭原と称したのを,のちに縁起の良い文字にあらためたことによるという。
 明暦3年(1657年)の大火を契機に,幕府により吉原遊郭の郊外移転が実行され,同明暦3年(1657年)8月浅草千束村(現台東区千束)に移転した。これを「新吉原」と呼び移転前の遊郭を「元吉原」という。
 新吉原は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め,華麗な江戸文化の一翼をにない,幾多の歴史を刻んだが,昭和33年(1958年)「売春防止法」の成立によって廃止された。
 その名残を記す当碑は,昭和35年(1960年)地域有志によって建てられたもので,碑文は共立女子大学教授で俳人,古川柳研究家の山路閑古による。
 昭和41年(1966年)の住居標示の変更まで新吉原江戸町,京町,角町,揚屋町などのゆかりの町名が残っていた。
  平成17年(2005年)3月 台東区教育委員会
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 2024年5月12日,NHK交響楽団の定期公演を聴いた次の日,東京交響楽団第720回定期演奏会を聴きに,サントリーホールに行きました。せっかく東京に行ったので,今回はコンサートのはしごです。
 指揮はジョナサン・ノットさん(Jonathan Nott)で,曲目は, 武満徹の「鳥は星形の庭に降りる」(A Flock Descends into the Pentagonal Garden), ベルク(Alban Maria Johannes Berg)の演奏会用アリア「ぶどう酒」(Der Wein),そして, マーラーの交響曲「大地の歌」(Das Lied von der Erde)でした。
 ソプラノは髙橋絵理さん,メゾソプラノはドロティア・ラングさん(Dorottya Láng),テノールはベンヤミン・ブルンスさん(Benjamin Bruns)でした。

 すでに書いたように,私は,2020年11月15日,ジョナサン・ノット指揮,東京交響楽団のコンサートを聴きに行く予定でした。おもな曲目は,ブルックナーの交響曲第6番でした。NHKEテレの「クラシック音楽館」で聴いたジョナサン・ノット指揮・東京交響楽団のブルックナーの交響曲第9番が忘れられず,チケットを購入したのはその年の1月で,とても楽しみにしていました。
 しかし,コロナ禍で,ジョナサン・ノットさんの来日が不可能となり,広上淳一指揮でベートヴェンの序曲「命名祝日」と交響曲第4番に変更となりました。フランス料理を楽しみに食べにいったら,天丼に変更になったようなものでした。
 時節柄,しかたがなかったとはいえ,がっかりでした。もし,はじめからこのプログラムだった行くこともなかったのに,と思いました。熱が冷めて,それ以降,東京交響楽団の演奏会に行くこともなくなりました。

 それからしばらくして,今回,ブルックナーではなく,マーラーではありましたが,私の好きな交響曲「大地の歌」でもあり,また,ジョナサン・ノットさんの指揮ということもあり,東京交響楽団の定期演奏会に足を運ぶことにしたのです。
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 1962年イギリス生まれのマエストロ・ジョナサン・ノットは,ドイツのフランクフルト歌劇場とヴィースバーデン・ヘッセン州立劇場で指揮者としてのキャリアをスタートし,ルツェルン交響楽団首席指揮者兼ルツェルン劇場音楽監督,アンサンブル・アンテルコンタンポランの音楽監督,ドイツ・バンベルク交響楽団の首席指揮者を経て,スイス・ロマンド管弦楽団の音楽監督を務めています。
 東京交響楽団では,2014年から音楽監督を務めています。
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 音楽監督とはいえ,これだけ頻繁に来日して指揮をすることに敬服するとともに,東京京響楽団は,この指揮者の魅力で支えられているのだろう,と思いました。

 武満徹の代表作のひとつ「鳥は星形の庭に降りる」はこれまで何度も聴いたことがありました。
 1977年に書かれた管弦楽作品で,サンフランシスコ交響楽団の委嘱で作曲されたものです。パリのポンピドゥー・センターで後頭部を星形に刈り上げたマルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)を写真家のマン・レイ(Man Ray)が撮影した写真を見て喚起され,鳥の群れが五角形の庭に舞い降りる夢を見たという逸話が残る作品です。
 星形というのは,幾何学的にも最も美しいシンメトリーです。正5角形の内角は108度,そして,対角線を結ぶと星形になって,そこには多くの二等辺三角形が作られるのですが,武満徹は,そこにインスピレーションを得て,音楽で表現しようとしたのでしょう。美しい曲です。

 1930年に初演されたベルグの演奏会用アリア「ぶどう酒」ははじめて聴きました。
 詩はシャルル・ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire)の詩集「悪の華」(Les Fleurs du mal)をドイツの詩人シュテファン・ゲオルゲ(Stefan Anton George)がドイツ語訳したものから取られています。ぶどう酒は,シャルル・ボードレールの人生そのものの一部をなしていました。ぶどう酒は確かに酒精ですが,それは人に生きる力をもたらす特別の飲み物,「命の水」(eau de vie)。この詩は,シャルル・ボードレールの熱い気持ちが込められているのです。
 ということで,ぶどう酒は単なるお酒ではなく,もっと官能的な飲み物だとシャルル・ボードレールは自分に酔っているわけです。大人の歌です。

 そして,最後がマーラーの交響曲「大地の歌」。
 この曲については,すでに書いているので,ここでは触れません。それより,私がこの曲に浸れるかどうかは,私自身の精神状態に寄るところが多いわけで,はたして今回はどうだったでしょうか?
  ・・
 曲の途中で,1階席中央にいた観客のひとりが具合が悪くなって,係員がその処理をしていて,若干ざわついたのですが,ステージ上では何事もないように,集中して曲が続きました。そして,そんなハプニングをものともせず,会場につめかけた観客も次第にのめりこんでいきました。
 メゾソプラノがすばらしく,最後は,圧巻の終曲を迎えました。至福な時間でした。
  ・・・・・・
 Die liebe Erde allüberall Blüht auf im Lenz, Ewig... ewig...
 春になれば花は咲き新たな緑は萌えてくる,永遠に…永遠に…
  ・・・・・・
 私には,前の日にNHK交響楽団の定期公演で聴いたレスピーギより,マーラーのほうがいいです。そして,マーラーの交響曲で最高傑作だと思っている「大地の歌」だったことが最高でした。
 こうして,東京京楽団の演奏会で2020年に味わうことになってしまった期待外れの天丼が,やっと,念願の極上のフランス料理に代わりました。

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 2024年5月11日,NHK交響楽団第2010回 定期公演 Aプログラムを聴きました。
 4月の定期公演は,天童市の人間将棋に行ったので,パスしましたが,このときのメインプログラムはブラームスの交響曲第1番でした。風のたよりでは,何がしかのことが起き,賛否両論だったということなので,聴いてみたかったな,と少し思いました。
 今回の指揮はファビオ・ルイージ(Fabio Luisi)さん,曲目は,パンフィリ(Riccardo Panfili)の「戦いに生きて」(Abitare la battaglia)の日本初演と,「ローマ三部作」であるレスピーギ(Ottorino Respighi)の交響詩「ローマの松」(Pini di Roma)「ローマの噴水」(Fontane di Roma)「ローマの祭り」(Feste Romane)でした。

 イタリア中部の都市テルニに生まれたパンフィリの管弦楽曲「戦いに生きて」は,2017年にフィレンツェ5月音楽祭管弦楽団の委嘱で作曲され,ファビオ・ルイージの指揮で世界初演されたものです。
  ・・・・・・
 弦楽器の弱音によるかすかな響きに雫を落とすようなハープの音からはじまり,曲が進むにつれて時折襲う激しい音の波やティンパニの悍ましいほどの厳しい刻みが「戦い」をイメージさせ,厳選された音の集積によって私たちを包み込む響きの美しさとその和声的な美から滲み出る秘めたる意志,そして,最後に悲壮的な美がもたらされる。
  ・・・・・・
という曲だそうです。
 私には,「戦い」が終わった安らぎよりも,敗北感としか思えませんでしたが…。救いがない曲でした。こういう,はじめて聴く曲をどう受け入れるのか,いまもって私はよくわかりません。事前にYouTubeなどから探して聴きこんでくるほうがいいのか,そういう予備知識なしで初対面で聴くのがいいのか…,いつも困るのです。そして,どう受け止めればいいのかわからぬまま,消化不良で終わってしまいます。そして,音楽を聴くということがどういうことなのか,音楽を楽しむというより,忍耐をためされているのだろうか,と考えてしまいます。はたして,演奏する人たちはどう思っているのでしょうか。

 さて,今回のメインである「ローマ三部作」です。
 ボローニャ生まれのレスピーギは,1913年にローマに移住し、この地を活動の拠点とし,「ローマ三部作」とよばれる「ローマの噴水」を1916年に,「ローマの松」を1924年に、「ローマの祭り」を1928年に作曲しました。
  ・・・・・・
●「ローマの松」
 ローマの4つの歴史的名所に立つ松を主題とします。何世紀も生き続ける松の木を前に,古代ローマへと想像の羽は広がり,荘厳な古代世界が音楽によって表現されるというものです。
 〈ボルゲーゼ荘の松〉では,17世紀初頭に建造されたボルゲーゼ荘の庭園で子供たちが遊んでいる様子を,チェレスタ,ハープ,ピアノを加えた輝かしい響きで描きます。
 〈カタコンブ付近の松〉では,古代ローマで迫害された初期キリスト教徒の地下墓所であるカタコンブから聞こえてくる祈りの歌を,グレゴリオ聖歌に由来する旋律を用いて表現します。
 ピアノの分散和音に続くクラリネットの旋律で幕を開ける〈ジャニコロの松〉では,ローマの街を一望できるジャニコロの丘に立つ松が月明かりに浮かび上がり,幻想的な響きの中から,最後にナイチンゲールのさえずりが聞こえてきます。
 夜明けのアッピア街道に立つ松を表す〈アッピア街道の松〉では,低い弱音の刻みの中から,イングリッシュ・ホルンの異国的旋律が漂い,古代ローマの世界に入り込んでいきます。街道を行進する古代ローマ軍が次第に近づき通過していく様が,オルガンやバンダとして指定された金管楽器の堂々とした響きによって蘇るのです。
  ・・
●「ローマの噴水」
 夜明けから夕暮れまで刻々と変化する日の光を反映した水の幻想的美しさを表しているローマの噴水に施された神々の彫刻が,水と一体となって想像の世界を広げていきます。古い書法と前衛の融合した響きによって,ローマの4つの噴水を表現します。
 〈夜明けのジュリアの谷の噴水〉では,夜明けの冷たく湿った霧のなかを羊の群れが通り過ぎる牧歌的情景を表します。
 〈朝のトリトンの噴水〉では,ホルンのファンファーレにはじまり、この噴水を飾るトリトンの像が、朝日のなか、水の精ナイアデスと水しぶきを浴びて踊り出します。
 〈昼のトレヴィの噴水〉では,ネプチューンの戦車が通過する勇ましさが描かれます。
 〈たそがれのメディチ荘の噴水〉では,夕暮れどきの穏やかな自然の音と噴水や鐘の音が溶け合う感覚的な美を映し出します。
  ・・
●「ローマの祭り」
 ローマの特徴的な4つの祭りを時代を自在に行き来して劇的に描写した作品です。キリスト教と関わりの深い「祭り」の音楽は,アメリカ的な趣味が反映されています。
 〈チルチェンセス〉では,古代ローマの皇帝ネロの時代の,猛獣と人間が見世物として決闘した残酷な祭りを描写します。
 50年ごとに行われるカトリックの聖年祭〈50年祭〉では,巡礼者たちがローマを眼前にしたときの感慨を賛歌の旋律も援用して表現します。
 秋のぶどうの収穫を祝う〈10月祭〉では,前半にホルン,後半でマンドリンによるセレナーデなどの楽器の独奏が華を添えます。
 〈主顕祭〉では,主顕祭前夜の祭りの賑やかさを管弦楽法を尽くして描きます。
  ・・・・・・

 当初発表になった曲順は「ローマの噴水」「ローマの松」「ローマの祭り」だったのですが,「ローマの松」「ローマの噴水」「ローマの祭り」に変更になりました。これは,前半の時間と後半の時間のバランスを考えてのことだったように思います。
 多くの人が語るように,「ローマの松」が「ローマ三部作」の中で最も充実した曲だといわれています。私もこれまではそう思っていたのですが,今回,実際の演奏を聴いてみたら,「ローマの松」は金管楽器の音が派手すぎて,むしろ,地味だと感じていた「ローマの噴水」が一番いいなあと思いました。「ローマの祭り」に至っては,単なる映画音楽です。実際,「ローマの祭り」を作曲していた当時のレスピーギはアメリカの映画音楽を意識していたということです。とはいえ,「ローマの祭り」で終わるのが,もっとも観客のノリがいいでしょう。特に,ブラボーおじさんには…。
 いずれにしても,私は,リヒャルト・シュトラウスの「アルプス交響曲」とか今回聴いた「ローマ三部作」のような,こういった写実主義的な曲のよさがよくわかりません。こころに響かないのです。ということで,私の好みだけで,今回の定期公演は,きっと空いているだろう,と思ったのですが,さにあらず。「ローマ三部作」というのは,すごく人気があるようで,満員でした。こうしたお祭りの出囃子のような音楽が好き,という人が多いんだなあ,というのが驚きでした。
 いつもはだれもいない私の周りも,はじめて聴きにきた,というような人が大勢座っていました。リズミカルなところでは体を躍らせたり,本人なりに楽しんでいるようでしたが,私は,クラシック音楽の演奏会では,そういうのは好ましいとは思えません。ブルックナーやマーラーを取り上げる演奏会とは,客層が違うのだなあ,と感じました。

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 グスタフ・マーラ―の交響曲第3番は,演奏時間が約100分もあり,当時,世界最長の交響曲といわれました。私がこの曲をはじめて知ったときは,確か「夏の朝の夢」といった表題があったようですが,現在は聞きません。これだけ長いのに,もともとはもう1楽章あって,割愛された楽章は次の交響曲第4番の第4楽章となったそうです。
 はじめに第2楽章から第6楽章までが作曲されて,最後に第1楽章が書き上げられたようです。

 この第1楽章は,高貴な雰囲気でもなく,特に美しいわけでもなく,私は,ちょっと長すぎるのでは,と思います。表現は悪いのですが「だらだらと」続いてしまうので,ちょっとうんざりします。そして,これだけ長いと,ぬるい温泉につかりすぎた感じになってしまい,それを冷ますのにずいぶんと手間がかかるのです。逆にいえば,先に作曲された第2楽章から第6楽章まで,というか,もともとは第7楽章までの前座を担うには,これだけの長さが必要になってしまったのかもしれません。
 井上道義さんは,第1楽章だけでお疲れになって,この楽章が終了したところで,座り込んでしまい,最後まで演奏できるのかな? と私は心配になりました。
  ・・
 口に水を含みなんとか立ち上がったマエストロが,だれかが思わず拍手をしたのを制して,静かに第2楽章がはじまりました。
 交響曲第3番は,第4楽章と第6楽章が聴かせどころだと私は思うのですが,第4楽章をはじめの見せ場にするには,第2楽章と第3楽章が必要なのでしょう。どちらかなくてもいいかな,と考えても,第2楽章の次に第4楽章があったら変だし,第2楽章を省略して第3楽章では,やはり,うまくないです。先に書いたように,長大な第1楽章の熱さましをするには,第2楽章と第3楽章が必要になってしまうのです。
 いずれにしても,マーラーは,このあたり,音楽をどこにもって行けばいいのか迷いさまよっている感じがして,この交響曲で一体何がいいたいのかな,何を表現したかったかな,という疑問が,私には起こります。

 しかし,そんな疑問は第4楽章で吹き飛びます。交響曲第3番は,第4楽章からが魅力的です。ここでは
  ・・・・・・
 O Mensch! Gib Acht!
 Was spricht die tiefe Mitternacht?
 „Ich schlief, ich schlief –,
 Aus tiefem Traum bin ich erwacht: –
 Die Welt ist tief,
 Und tiefer als der Tag gedacht.
 Tief ist ihr Weh –,
 Lust – tiefer noch als Herzeleid:
 Weh spricht: Vergeh!
 Doch alle Lust will Ewigkeit –,
 – will tiefe, tiefe Ewigkeit!“
  ・・
 おお人間よ! 注意して聴け!
 深い真夜中は何を語っているのか?
 「私は眠っていた
 深い夢から私は目覚めた
 世界は深い
 昼間が思っていたよりも深い
 世界の苦悩は深い
 快楽-それは心の苦悩よりもさらに深い
 苦悩は言った。滅びよ!と
 だが,すべての快楽は永遠を欲する
 深い永遠を欲するのだ!」
  ・・・・・・
と,アルトが歌うのですが,これは,ニーチェ(Friedrich Nietzsche)の「ツァラトゥストラはこう語った」(Also sprach Zarathustra)の第4部第19章「酔歌」の第12節「ツァラトゥストラの輪唱」から採られたものです。
 これを歌った林眞暎さんが本当にすばらしかった!

 そして,第5楽章ですが,ここでは一転して,児童合唱が鐘の音を模した「ビム・バム」を繰り返し,アルトと女声合唱が
  ・・・・・・
 Es sungen drei Engel einen süßen Gesang,
 Mit Freuden es selig in dem Himmel klang,
 Sie jauchzten fröhlich auch dabei,
 Daß Petrus sei von Sünden frei.
  ・・
 3人の天使が美しい歌をうたい
 その声は幸福に満ちて天上に響き渡り
 天使たちは愉しげに歓喜して叫んだ
 ペテロの罪は晴れました!
  ・・・・・・
と歌うという,ユニークなものです。この歌詞は,交響曲第4番につながっていきます。
 このように,交響曲第3番は,交響曲第2番で「復活」しちゃったのを第4楽章で終結させて,第5楽章で交響曲第4番で天国に昇天させるための橋渡しとしているのでしょう。そのために子供たちと女性の声が必要なのです。男性の声があると,天国よりも地獄,ショスタコービッチの「バビ・ヤール」になってしまいます。

 いよいよ,最後の第6楽章。
 交響曲第3番は,この第6楽章ですべてが救われます。Langsam. Ruhevoll. Empfunden. (ゆるやかに安らぎに満ちて感情を込めて)とありますが,実際は「アダージョ」。
 この楽章の美しさと神々しさは,筆舌に尽くしがたいものです。そして,マーラーの音楽の数々のすばらしい「アダージョ」のなかでも,第3番の第6楽章は癒しの「アダージョ」であり,真骨頂です。井上道義さんは,こうしたメロディアスな楽曲を指揮すると,本当にいい。

 今回はじめての,すみだトリフォニーホールと新日本フィルハーモニー交響楽団でした。外に出ると,スカイツリーが迫ってきます。このホールは,規模的にもホールの形状もウィーンの楽友協会に似ていて,同じような響きがしました。ただし,それがホールのせいなのか,オーケストラのせいなのか,私の席のせいなのか,専門家でないのでわかりませんが,今回の演奏では,弦と管のバランスがちょっと悪かったです。というか,管が昭和時代のオーケストラのようでした。私は,管をもう少し抑えたほうがいいように感じました。
 何はともあれ,美しかった第6楽章で,長い長い交響曲のすべてが報いられました。そして,いつものように,今回もまた,井上道義さんのスタンディングオベーションがいつまでもいつまでも続きました。

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 名古屋フィルハーモニー交響楽団とのブルックナーの興奮も冷めやらぬ2024年3月9日,今度は,すみだ平和祈念音楽祭2024として,すみだトリフォニーホール大ホールで,アルトの林眞暎(まえ)さんを迎えて,井上道義さんが新日本フィルハーモニー交響楽団を指揮する,マーラーの交響曲第3番を聴いてきました。林眞暎さんは,2023年11月18日に,同じく井上道義さんが指揮をした読売日本交響楽団の演奏会でマーラーの交響曲第2番「復活」ですばらしい歌声を聴かせた人です。
 私は,新日本フィルハーモニー交響楽団も,すみだトリフォニーホールもはじめてでした。このような演奏会がなければ,そのような機会はなかったことでしょう。墨田区というととても遠い印象ですが,すみだトリフォニーホールはJR錦糸町にあって,東京駅からほんのわずかな距離で,私がよく行くNHKホールのある渋谷区とはまったく異なる,下町情溢れる場所でした。また,新日本フィルハーモニー交響楽団は,1972年に,小澤征爾さんと山本直純さんの掛け声の下,楽員による自主運営のオーケストラとして創立したもので,ここでもまた,小澤征爾さんの偉業がひとつ,世に残りました。私は,そのころのいきさつをよく知っています。そうした経緯もあって,当時,山本直純さんが司会をする「オーケストラがやってきた」というクラシック音楽啓蒙のすぐれた番組があって,新日本フィルハーモニー交響楽団が出演していたのですが,このごろは,テレビでは見る機会もめっきりなくなりました。

 今回の曲目であるマーラーの交響曲第3番,私はよく聴くのですが,生演奏を聴いたのは,どうやらはじめてのことでした。この交響曲は,第6楽章まであり,というか,もともとは第7楽章まで構想されていたということですが,第1楽章だけでも30分と,通常の交響曲ほどの長さがあるから,全体はものすごく長く,しかも,途中に女性のソロがあり,その後で合唱が入りというように,この時期のマーラーがやりたかったことを全部入れ込んだ,そんな感じがする大曲です。しかも,第1楽章,そして,急にけだるくなる,でも,優美な第2楽章,第3楽章,そして,アルトが歌う第4楽章を,子供たちがステージ上で何もせず座り続けるのも大変で,一体どうやって演出するのか? という問題もあり,演奏会で実演するのは,大変な曲に思っていました。
 しかし,私には,その大きさとは反対に,地味で,というか,軽く,第2番「復活」の思い入れのある深いテーマの交響曲や,天国の快楽を愉快に奏でる第4番の間にあって,その存在感が希薄なのです。交響曲第2番で,「蘇らせてしまった」マーラーが,このあと,一体何を奏でたいのだろうか? と聴きながら思ってしまうわけです。第2番を彷彿とさせる第4楽章が異質ですが,全体として,この曲は,次に何がくるか,その展開が予測でき,しかも,予測通りに展開するので,気分がよく,聴いていてさわやかで疲れないのです。

 今回は,第3楽章の終わりのところで,林眞暎さんと子供たちが音もなくステージに姿を現すという粋な演出で,一体どうやって演出するのか? という私の謎は解けました。
 感想は次回書きますが,私が最も印象に残ったのは,最終楽章である第6楽章の美しかったこと。この曲を作曲のは1895年から1896年なので,マーラーが35歳のときと,まだ若いのですが,私は,この楽章が,交響曲第5番の有名な第4楽章アダージェットや最後の完成作となった交響曲第9番の第4楽章につながるものだと思いました。静謐感に満ちた美しい楽章こそ,マーラーの,最も優れたものだと,私は,いつも思います。そして,引き込まれてしまうのです。

キャプチャ


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 奇妙な風貌で興味をもった神奈川フィルハーモニー管弦楽団と京都市交響楽団でコンサートマスターをする石田泰尚さんが率いる13人の弦楽グループ「石田組」。どういうものだろうかと単なる好奇心で,2023年8月6日に,愛知県芸術劇場コンサートホールで行われたコンサートに行きました。その時は,こうしたコンサートははじめてだったので,とまどいもあり,よくわからなかったこともあって,今回,2024年3月3日に,今度は,アクトシティ浜松大ホールでコンサートがあるというので,再び聴いてきました。
 13人というのは,毎回,そのメンバーが代わっているということです。今回は,東京都交響楽団の団員さんが多数いました。また,13人といえば,「最後の晩餐」(L'Ultima Cena)と同じ人数ですが,これと関係があるのかないのか? 石田泰尚さんがイエス・キリストで,残りの12人が弟子。ならば,ユダは?
  ・・・・・・
 イエス・キリストは12人の弟子たちとともに食事をしていました。すると突然,イエスは12人の弟子たちに「あなたがたのうちのひとりが私を裏切ろうとしている」と言いました。ペテロがヨハネにそれが誰なのかを尋ねて欲しいと言い,ヨハネはイエスに尋ねました。そこでイエスは「わたしと共に鉢に手を浸した者がわたしを裏切る」と答えました。その時鉢の中に手を浸していたのがイエスとユダだったため,裏切り者がユダであることが明るみになり,ユダはその場を飛び出して行きました。
 その後,イエス・キリストは,パンを取って,賛美の祈りを捧げてパンを割いて弟子たちに与えながら「皆,これを取って食べなさい。これはあなた方のために渡されるわたしの体だ」と言いました。また,杯をとって感謝の祈りを捧げると「皆,これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯,あなたがたと多くの人のために流されて,罪のゆるしとなる。新しい永遠の契約の血」と弟子たちに与えて言いました。
  ・・・・・・

 今回の曲目は,第1部がシベリウスのアンダンテ・フェスティーヴォラター,ホルストのセントポール組曲,ラターの弦楽のための組曲,そして,第2部がバルトークのルーマニア民俗舞曲,C・M・シェーンベルクの「レ・ミゼラブル」メドレー,ローリング・ストーンズの悲しみのアンジー ,レッド・ツェッペリンの天国への階段,クイーンのボーン・トゥ・ラブ・ユー,そして,アンコールでした。
 「石田組」というのは,その仕掛け人がしたたかで,どうすれば,大衆を動員できるかを知っているのでしょう。だから,石田泰尚さんという優れたヴァイオリニストをカリスマにして,大衆受けをする音楽を並べて,ヴァイオリンでどれだけロックが演奏できるか,というような試みで,多くの人が集まるのです。おそらく,多くの観客は,クラシック音楽ファンとは無縁の人たちでしょう。
 だかといって,優れた演奏家を集めて,小難しいクラシックの曲目を演奏しても,人は来ないのです。これがクラシック音楽の興行の難しい問題なのです。しかし,私は,それとは逆に,第2部よりも第1部の曲目のほうがよく知っているから,話になりません。それに,いくら演奏が上手でも,私は,こうした曲には感動しないのです。それは,「石田組」のせいではなくて,私が場違いだったというだけのことですが,結論からいえば,ちょっとがっかりしました。今回のコンサートを聴きながら,私は,小さなホールで,ショスタコービッチの弦楽四重奏曲を聴きたくなりました。

 アクトシティ浜松大ホールは広すぎ,観客が多すぎ,しかも,設計が古く,座席が狭く,入口の階段は混み合い,カーテンコールで写真撮影もできない,というように,音響は優れているかもしれませんが,音楽を楽しむ雰囲気にまるで欠けていました。私はもう2度と行かない。そして,会場内は,例えれば,すてきな時間を過ごそうと思って,ちょっと高級なしゃれたカフェに行って中に入ってみたら,おばさんたちが大量にいて,話に夢中でうるさくて仕方がなかった,そして,自分の居場所がまるでなかった,というようなときに味わう感じと同じでした。
 それに,私は,この前日に,井上道義さんの指揮する,すばらしい演奏会に行ったばかりで,その余韻が残っていたので,これもまた,影響しました。エスプレッソのコーヒーを味わった後で,甘いコーヒー牛乳が出てきたような…。
 まあ,そんなわけですが,わざわざ出かけた浜松で,結局,並んでまでして,昼食で浜松餃子を食べることができたのだけが救いでした。そして,帰りの電車まで時間があったので,夕食の代わりに,浜松駅の構内の,私以外にだれもいなかった店で食べた立ち食いそばがものすごくおいしかったこと。

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「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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 ブルックナーの交響曲は,マーラーの交響曲に比べれば,形式は古典的なので,わかりやすいです。しかし,それぞれの楽章がかなり複雑で,つねに煮え切らず,だらだらとしていて,次にどんなメロディーがくるのか予測不能なところがあります。まるで,ぐずぐずしているモテない男のようで,女性にブルックナーが苦手,という人が多いのも納得がいきます。
 特に,第5番はそうした煮え切らなさが顕著です。
 私が,これまで第5番をほとんど聴かなかったのもそんな理由からでした。しかし,今回,はじめてまともに聴いてみて,こりゃすごい,ということがやっとわかりました。

 第4番は自然の中を彷徨しているような感じがするのですが,第5番は古びた荘厳な教会を思わせます。奥まったところは暗く,不気味です。
 マエストロ井上道義は,この重厚な交響曲の第1楽章を,ゆっくりめのテンポでありながら重くならず,指揮をしていきました。第2楽章が緩徐楽章で,第3楽章がスケルツオというのは,ブルックナーの第7番までの流儀で,第8番と第9番は,ベートーヴェンの第9番と同じように逆になっています。
 この第5番の緩徐楽章の美しかったこと! まさに,井上道義さんが名フィルとの決別を惜しむかのように聴こえました。そして,第3楽章は,スケルツオとはいいながら,これはメヌエットでもあり,井上道義さんお得意の踊る指揮,ダンスが見られました。
 第1楽章と第4楽章は,同じようにはじまります。まず,これが驚きです。そして,第4楽章は,第1楽章,第2楽章,第3楽章の旋律が出てきてはそれが否定されながら,盛り上がっていくので,伏線回収,ベートーヴェンの交響曲第9番をほうふつとさせます。しかし,これまでの楽章を否定したところで,だから,歓喜の旋律が出てくるのかと,期待しても,何も起きないのです。これこそが,煮え切らないブルックナーなのです。
 しかし,何も起きずとも,これまでの旋律が複雑に絡み合いながら巨大な建築物ができ上って行くのです。そんな第4楽章の盛り上がりが見事でした。

 マエストロ井上道義は第5番をはじめて指揮をしたということなので,演奏し慣れた曲のような,力の入れ方や聴かせどころのツボはわかっていないと思うのですが,それがいい効果を生んでいました。曲の最初から最後まで緻密な演奏だったのです。
 私は,来週は東京で,マエストロ井上道義のマーラーの第3番を聴くことになるのですが,こちらは指揮し慣れたものです。この対比が,いまから楽しみです。

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 2024年3月2日,豊田市コンサートホールで井上道義さんが指揮する名古屋フィルハーモニー交響楽団の特別演奏会が行われたので聴いてきました。これは,井上道義さんが名古屋フィルハーモニー交響楽団を指揮するラスト・コンサートで,曲目は, モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」序曲とブルックナーの交響曲第5番でした。なお,「ドン・ジョヴァンニ」序曲は,豊田市ジュニアオーケストラとの合同演奏でした。
 このところ,井上道義さんの追っかけをやっているような感じになっていて,つい先日は東京のNHKホールでショスタコービッチの「バビ・ヤール」を聴いたばかりですが,今回はブルックナーです。演奏会のチケットは発売早々に手に入れたのですが,満員札止めとなっていました。私はこの日をとても楽しみにしていました。
 ブルックナーの交響曲は,ブルックナー指揮者という名前で語られるように,齢を重ねたマエストロに似合います。これまでにも,多くのすばらしい歴史的な演奏がありました。しかし,井上道義さんは,特にブルックナー指揮者という感じではなく,多くの作曲家の作品を取り上げています。そんなマエストロが,果たして,ブルックナーをいかように? と興味がありました。

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 ブルックナーの交響曲の中で,第5番は第8番と並んで規模の大きなものです。対位法の技法が活用されていて,音の横の流れを多層的に積み重ねて,壮大な音の大伽藍を築き上げていることに特徴があります。
 第5番は,第4番を完成させた翌年,ブルックナー51歳の1875年に作曲に取りかかり,紆余曲折ののち,1878年に完成しました。しかし,初演の機会に恵まれず,交響曲第8番完成後の1894年になって,ようやく初演されました。すでに老齢であったブルックナーは立ち会うことができませんでした。そして,ブルックナーが亡くなったのは,その2年後のことでした。
  ・・・・・・
という解説が載っています。

 私は,ブルックナーの交響曲の中では,第4番を最も好んでいて,第5番を聴くことはまれでした。ブルックナーの他の交響曲とは少し趣が異なっているなあ,と思っていたくらいのものでしたが,実は,これまで,根を詰めて聴いたことがないのです。昨年10月,NHK交響楽団の定期公演で,マエストロ・ブロムシュテッドがこのブルックナー交響曲第5番を取り上げるということだったので,そのときに勉強しようと思っていたのですが,演奏会は中止となってしまい,その機会を逸していました。
 さらに実は,何と,井上道義さんがブルックナーの交響曲第5番を指揮したのは,これがはじめてだったという話でした。本当かな? 引退を前にして,やりたいことはみんなやる,という感じでしょうか。
 そんなわけで,私には,とても刺激的な演奏会でした。
 感想は,次回。

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 NHKBSで放送がはじまった「舟を編む〜私,辞書つくります〜」がおもしろいです。
 あらすじは
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 元読者モデルで出版社編集部員の岸辺みどり。担当していたファッション誌の廃刊が決まり,突然辞書編集部への異動を言い渡されてしまう。みどりを待ち受けていたのは,超まじめな上司・馬締光也をはじめとする,クセの強いメンバーたち。
 彼らは一冊の辞書「大渡海」編さんのために,並々ならぬ情熱と十数年にわたる歳月をかけていた。
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というものです。
 「舟を編む」は三浦しをんさんの原作で,2011年に単行本が発売されました。そして,その2年後に映画化もされて,私は,当時,原作も読んだし,映画もみました。
 原作とそれに基づく映画は
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 「玄武書房」の社員たちが,「大渡海」という広辞苑レベルの中型事典の編纂にかけた10年以上もの作業と,その間に起こった人間模様を描く。
 大学院で言語学を学んだがコミュニケーション能力ゼロの若手社員馬締光也が,辞書作りを通して,コミュニケーションの大切さを知り,体現していく。
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というもので
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 時は1995年。「玄武書房」の辞書編集部では,編集者の荒木が,定年と妻の病気を理由に部署を去ろうとしていた。荒木に代わる編集者として見つけたのが,大学院で言語学を学んだオタク風のコミュニケーション力など皆無の馬締。馬締に「右という言葉を説明してみろ」と言うと、ぼそぼそと「西を向いたとき北に当たる方」と答える。彼の言語感覚に感心して,馬締を辞書編集部に引き抜く。
 それから13年後,ファッション誌の編集部にいた岸辺みどりという若い編集者も加わり,翌年の3月に決定した「大渡海」の出版は,最後の確認作業に学生アルバイトもたくさん雇ってごった返していた。
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 という内容だったので,今回のドラマは,主人公を岸辺みどりとして,原作からちょうど13年後の姿を描こうとしているのかもしれません。

 はじまったばかりなので,ドラマがどのように進展していくかは知りませんが,第1回の放送で私が興味をもったのが,「なんて」という言葉でした。ドラマでは,岸辺みどりが「なんて」の意味を悟る場面で三省堂の「大辞林」の解説が効果的に使われていました。
 私は,手元にあった三省堂の「新明確国語辞典」と,もっとも信頼している岩波書店の「国語辞典」を引いてみたのですが,何も書いていない,というほど,内容に乏しいもので,がっかりしました。
 これでは埒が明かないので「ChatGPT」に聞いてみましたが,これがすばらしいものでした。そこで,さらに,「ChatGPT」にいくつかの文章を英訳してもらうことにしました。これもまた,すばらしいものでした。もう辞書「なんて」いらないなあ,と思いました。
  ・・
 実は,私は,これまで,「新解さんの謎」をきっかけとして,国語辞典にはかなり興味をもっていて,こだわりもあったのですが,この13年という月日は,それを変えてしまったようです。つまり,辞書「なんて」引かなくても「ChatGPT」に聞いたほうが早く,かつ,おもしろいのです。

 今の時代,スマートフォンの普及で,一時,一眼レフカメラの存続が危ぶまれました。今は,それぞれの役割分担が次第にわかってきて,何とか共存をしているようです。また,将棋AIが開発されたことで,将棋界は,はじめは不正疑惑などもあって迷走をしていたのですが,藤井聡太という新星が現れたこととと相まって,それをうまく活用することで,あらたな顧客を生み,今のところ,とりあえずは共存に成功しています。
 また,昔は,どの家庭にも百科事典というものが存在していましたが,今や,死滅してしまいました。辞書はそれとは若干異なるものでしょうが,それでも,多くの人にとっては,辞書もまた,同じでしょう。
 辞書の在り方を真剣に考えないと,今後は,百科事典と同じく,死滅の道をたどることになるのかもしれません。私は,そのことの方に興味があります。

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 2024年2月17日,大西順子さんが愛知県の東海市芸術劇場大ホールでソロピアノコンサートを行うというので,聴いてきました。客席は満員でした。

 惜しくも,2024年2月6日に亡くなった小澤征爾さんですが,私が今でも印象に残っているのが,2013年に行われたサイトウ・キネン・フェスティバルです。
 2013年のサイトウ・キネン・フェスティバルは,8月12日から9月7日まで10公演が行われたのですが,その最終日9月6日を飾ったのが, 小澤征爾さんが指揮をしたガーシュウィンの「ラプソディー・イン・ブルー」を,サイトウ・キネン・オーケストラと大西順子トリオが共演したものです。これは,2012年夏,突然の引退宣言をした大西順子さんでしたが,小澤征爾さんの猛烈な誘いに負け,一夜限りの復活とし出演を決めたものです。そして,小澤征爾率いるサイトウ・キネン・オーケストラと大西順子トリオの共演は,大きな話題となりました。
 小澤征爾さんは,2010年に大病を患ったのですが,この公演は,その後に行われたものです。
 私は,公演の様子をテレビで見ましたが,それはそれはすばらしいものでした。そして,そのときに私が知ったのが,大西順子さんでした。今回のコンサートの中で,大西順子さんがそのときの共演についても話していたのですが,観客の中で何人がそれを知っていることか?
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 1967年生まれの大西順子さんは,ジャズ・ピアニストです。渡米し,ボストンのバークリー音楽院に学び,その後,ニューヨークに移り,アップタウンのジェシー・デイヴィス・クインテットのレギュラー・ピアニストとして活動しました。
 日本へ帰国後は,バークリー時代の仲間とトリオを結成,ニューヨークの名門ジャズ・クラブヴィレッジ・ヴァンガードに,日本人としてはじめて自分のグループを率いて出演しました。
 以降,活動中止や再開を繰り返し,2015年に,何度目かの活動再開をしました。
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 私は,ジャズには疎く,また,大西順子さんも,先に書いたサイトウ・キネン・フェスティバルの放送でしか知らないので,これはまさに,将棋のルールも知らないのに,藤井聡太八冠の将棋を観戦するのと同様に,「豚に真珠」「猫に小判」「馬の耳に念仏」でした。はじめのうちは,現代音楽を聴いているような感じに思えて,正直かなり苦痛でした。
 しかし,次第にわかってきて,楽しくなりました。
 クラシック音楽のピアノとは違って,ジャズのピアノは,即興を旨とするのですが,それは,ベートーヴェン以前,協奏曲のカデンツァを演奏者が即興で演奏していたのを拡大したようなものです。そこで,オリジナルをどのように奏者が変化させ創作するのか,というのが腕の見せどころとなるわけで,いかにして聴き手を引き込んでいくのかが聴かせどころです。
 残念ながら,私は,そのオリジナルをも知らないのだから,話にならないのですが,それでも,次第に,次にどう来るか,ワクワクして聴けるようになってきました。そして,こりゃすごい,と思うまでになりました。大西順子さんは偉いものです。
 今回もまた,私が長年味わうことがなかった感動をひとつ手に入れることができました。

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 2024年2月3日のNHK交響楽団第2004回定期公演Aプログラム,曲目はヨハン・シュトラウスII世のポルカ「クラップフェンの森で」,ショスタコーヴィチの舞台管弦楽のための組曲第1番-行進曲」「リリック・ワルツ」「小さなポルカ」「ワルツ第2番」,交響曲第13番「バビ・ヤール」(Babi Yar)でした。
 指揮は井上道義さん,歌はバスのアレクセイ・ティホミーロフ(Alexey Tikhomirov)さん,そして,オルフェイ・ドレンガル(Orphei Drängar)男声合唱団でした。今回が,2024年末で引退を表明している井上道義さんのNHK交響楽団との定期公演出演の最後となります。
 今回の定期公演の目玉はなんといっても,井上道義さんお得意のショスタコーヴィチから,交響曲第13番「バビ・ヤール」です。私は,演奏会では,はじめて聴きました。
 ショスタコービッチには15曲の交響曲があります。第2番「十月革命に捧げる」,第3番「メーデー」,第11番「1905年」,第12番「1917年」は聴いたことがなく,また,聴きたいとも思いませんが,それ以外の11曲は聴きごたえがあります。特に,私は交響曲第15番が大好きなので,ショスタコービッチ独特の響きは琴線に触れ,歌詞がわからずとも大丈夫です。それに,交響曲第13番「バビ・ヤール」は5楽章形式でわかりやすく,楽しめます。
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 それにしても,今年度のNHK交響楽団定期公演Aプログラムは,楽しみにしていた指揮者ヘルベルト・ブロムシュテッドさんとウラディーミル・フェドセーエフさんが来日できないというように受難続きであったことと,マーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」をはじめとして,なじみの薄い過酷な曲が続きます。私には,定期会員でなければ,チケットを買うこともないような曲目ばかりで,こんな機会でもなければ,聴くこともないから,それはそれで是としましょう。
 せっかくなので,今回は改めて勉強して,何度も録音を聴いてから出かけました。

 交響曲第13番「バビ・ヤール」は,エフゲニー・エフトゥシェンコ( Yevgeny Yevtushenko)の詩によるバス独唱とバス合唱つきの5つの楽章からなっていて,第1楽章の標題である「バビ・ヤール」をこの交響曲の通称とします。歌詞はロシア語だし,なじみの薄い曲なので,翻訳を見なければさっぱりわかりません。
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●第1楽章「バビ・ヤール」
 「バビ・ヤール」に墓碑銘はない」(Nad Babim Yarom pamyatnikov nyet)という暗くおどろおどろしい独白からはじまり,ユダヤ人の迫害や恐怖の歴史を歌い,反ユダヤ主義をナチス・ドイツに絡めて非難し,弔いの鐘が鳴り続けます。
●第2楽章「ユーモア」
 「王様や権力者たちはすべてを支配したいのだろうけれどユーモアだけは支配出来ない」(Vlastiteli vsei zemli, Komandovali paradami, No yumorom, no yumorom ne mogli)と歌います。ショスタコービッチが1942年に作曲した「イギリスの詩人による6つの歌曲」(6 Romances)の中の「処刑台の上で踊り出すマクファーソン」(Makferson pered kazn’ju)のダンスが使われています。
●第3楽章「商店で」
 「レジの列に立ちっぱなしで体が冷える。女たちはすべてに耐えてきた!」(Zyabnu, dolgo v kassu stoya, Vsyo oni perenosili)と、ロシア名物の行列と女性の忍耐強さを歌います。
●第4楽章「恐怖」
 「ロシアで恐怖が消えてゆく」(Umirayut v Rossii strakhi)と歌います。「密告の恐怖」や「外国人と話す恐怖」が登場します。
●第5楽章「出世」
 「ガリレオは常識外れだ。だが,時の流れが証してみせた。常識外れこそがほんとうは賢い」(Shto nerazumen Galilei, No, kak pokazyvayet vremya, kto nerazumnei, tot umnei)と歌います。
 力なく微笑むような不思議な脱力感のあるコーダで曲は消えていきます。チェロ協奏曲第2番,交響曲第15番と共通するショスタコービッチお得意のフィナーレです。
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 交響曲第13番「バビ・ヤール」は,舞台中央にバスがひとり,その背後に男だけの大合唱がユニゾンで,「ユダヤ人」とか「虐殺」を連呼し,ロシアにおける「恐怖」や「不条理」や「死後の出世」を歌うのです。

 ベートーヴェンの交響曲第9番で「人類は皆兄弟」(Alle Menschen werden Brüder)と歌うのも,マーラーの交響曲「大地の歌」で「春になれば花は咲き新たな緑は萌えてくる,永遠に…永遠に…」(Die liebe Erde allüberall Blüht auf im Lenz Ewig... ewig...)と歌うのも,そして,ショスタコーヴィッチの交響曲「バビ・ヤール」で「バビ・ヤールに墓碑銘はない」と歌うのも,創造主が何かの間違いで地球上に作ってしまった愚かな人間が,その英知とやらを振り絞って,かなえられない願望や,あきらめや,そして,懺悔などを音楽で表わしているのです。そして,それらが受け入れられ人々に感銘を与えるのは,人間の性(さが)と自分の力ではどうしようもない現在の世界情勢を反映しているからです。
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 今回の演奏会は,満員の観客のそのほとんどが知らないロシア語で語られる歌を約1時間延々と聴かされて,それでも,女性の声が聞こえるのなら救いがあるけれど,バスと男性だけの大合唱では,まったく救いがない曲だ,と思いました。
 私は,ふと我にかえったとき,狂気の中にいるような錯覚を覚えました。そして,どんなに演奏がすばらしくとも,いや,すばらしければすばらしいほど,これは音楽をはるかに超えて,人を大虐殺する人間の恐ろしさとそうした社会に生きなけらばならない恐怖を感じて,切なくなりました。

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 2024年1月21日,愛知県稲沢市の稲沢市民会館で「NEWYEAR2024洋と和の弦楽CONCERT~新春ストリングスの祭典~」が開催されたので,聴いてきました。出演は,ゲストコンサートマスターとして石田泰尚さんを迎えた「Durare Chamber String Ensemble」という名古屋の弦楽合奏団と「べべん~BEBEN~」という国内トップクラスの9人の三味線奏者が新たな音楽シーンを創造する邦楽ユニットでした。
 第1部は「べべん~BEBEN~」による津軽三味線の演奏,第2部が「Durare Chamber String Ensemble」による弦楽器の演奏で,その中に1曲,クラリネットが加わりました。
 第1部の津軽三味線の演奏,私は,先日,弘前市に行ったときに津軽三味線の演奏を生で聴いて,その音色に感動したこともあって,とても楽しめました。津軽三味線は,弦楽器の要素に打楽器の要素が加わっていて,人間の鼓動に直接訴えます。いかにも日本の楽器です。
 また,第2部の弦楽器の演奏は,曲目がポピュラーなものだったこともあり,ゲストコンサートマスターが石田泰尚さんということもあり,石田泰尚さんのすばらしい高音の音色に,今回もまた,すっかり聴き惚れました。

 名古屋市内のプレイガイドなどでは,チケットは完売だったらしいのですが,当日の入りは半分くらいで空席が目立ちました。チケット,もっと卸さなないと…。
 私も偶然稲沢市のLINEで知っただけで,危うくこのコンサートを知らずに終わるところでした。これでは宣伝が下手です。おそらく,行きたいけれど知らなかった,という人も少なくないと思われます。これだけのすばらしい演奏,もっと多くの人に聴いてもらわないとちょっともったいないです。
 いずれにしても,今回のコンサートは少数の石田泰尚さんおっかけもいましたが,地方都市で行われる催しでは,こうしたコンサートにほとんどなじみのないという人も少なくなさそうでした。このような楽しく気軽に聴くことのできる演奏会に接する機会があるのは悪くないものだと思いました。
 「べべん~BEBEN~」の人たちはずいぶん工夫を凝らしていましたが,「Durare Chamber String Ensemble」も,もっと初心者向けの何かしらの解説やら何らかの楽しい趣向があってもいいのになあ,と思いました。せめて団員さんの紹介だけでも。せっかく石田泰尚さんが来ているのに…。
 クラシック音楽はいくらいい演奏でも,なじみのない人には敷居が高いです。NHK交響楽団でもそうしているのだし,せめてカーテンコールは写真撮影OKにするとか。今や,何事もイケイケの時代。コロナ禍以前のような殿様商売ではいけません。お客さん呼びたければ宣伝しなきゃ。SNSで口コミがかけるようにしなきゃ。

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 2024年1月13日,上野の森美術館で開催されている「モネ 連作の情景」(Claude Monet: Journey to Series Paintings)を見てきました。
 以前の私は,モネとマネの区別すらつかなかったのですが,このごろ,やっと,その違いがわかってきました。その違いは,すでに書いているように,1840年生まれのモネは印象派の巨匠,1832年生まれのマネは近代美術の巨匠で,曰く「モネがマネのまねをした」とか何とか…。
 2020年1月8日にコート―ルド美術館展に行って,マネの傑作「フェリー・ベルジェールのバー」(Un bar aux Folies Bergère)を見て痛く感動しましたが,これがマネです。一方,モネはなんといっても「睡蓮」(Les Nymphéas)で,モネの絵を模した「モネの池」なるものがいろいろな場所にあります。モネは「睡蓮」というブランドで客寄せができるのです。

 さて,今回の「モネ 連作の情景」は,「印象派」の誕生から150年目を迎えることを記念して開催され,国内外40館以上のクロード・モネ作品を厳選して展示するもので,期待して出かけました。
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●モネの連作絵画に焦点を当てた展覧会 
 モティーフの一瞬の表情や風の動き,時の移り変わりに着目したモネは,同じ場所やテーマを異なる天候,異なる時間,異なる季節を通して描き,「連作」という革新的な表現手法により発表しました。
 この「連作」に焦点を当てながら,時間と光とのたゆまぬ対話を続けた画家の生涯を辿ります。
●100%モネ!! 展示作品のすべてがモネ
 日本初公開となる人物画の大作「昼食」を中心にした「印象派以前」の作品から「積みわら」や「睡蓮」などの多彩なモティーフの「連作」まで,「100パーセントモネ」の贅沢な展覧会です。
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 ということだったのですが…。

 コロナ禍以前の美術展は,人だらけで,作品を見るよりも人の頭を見にいくようなものでしたが,ここ数年は,入館制限もあって,非常に落ち着いた中で鑑賞することができました。
 今回は,そこまではムリだとしても,人数制限もあるから,マシだろうと思ったのですが,さにあらず。作品を見るよりも,人の頭を見るだけのものでした。こんな状況では,「連作」を見比べることも能わず,モネの絵画に描かれた光を味わうこともできず,何も感じませんでした。土曜日の午後,というのが失敗でした。これは美術展ではありません。人数制限などあってないようなもので,たくさん人を入れて入場料で稼ごうとするだけの魂胆です。これでは,もう,東京で開催される美術展は,行く気が起きません。平日の早朝に大阪展へ行くほうが少しはマシか?

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 2024年1月13日に行われたNHK交響楽団第2001回定期公演Aプログラムは,指揮がトゥガン・ソヒエフ(Tugan Sokhiev)さんで,前半の曲目がビゼー(シチェドリン編)のバレエ音楽「カルメン組曲」(Georges Bizet / Rodion Shchedrin Carmen Suite, ballet)後半の曲目がラヴェル(Maurice Ravel)の組曲「マ・メール・ロワ」(Ma mère l’Oye,suite(Mother Goose))とバレエ音楽「ラ・ヴァルス」( La valse, ballet)でした。
 私は,フランス音楽は苦手ですが,指揮者がお気に入りのトゥガン・ソヒエフさんということと,これらの曲目なら大丈夫,ということで,期待して聴きにいきました。

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 トゥガン・ソヒエフさんは1977年にロシアのウラジカフカス(Vladikavkaz)に生まれました。2022年,愛する母国がウクライナに侵攻したことに心を痛めて,ボリショイ劇場(the Bolshoi Theatre)とトゥールーズ・キャピトル劇場管弦楽団 (the Orchestre national du Capitole de Toulouse)の両方のポストを辞任したことで,男を上げ,以後も世界中から引く手あまたの指揮者です。
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 今回の曲目は,近代フランス音楽の「バレエ上演された」管弦楽曲の特集です。
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 バレエ音楽「カルメン組曲」は,ロシアの作曲家ロディオン・シチェドリン(Rodion Shchedrin)が妻でバレリーナのマイヤ・プリセツカヤ(Maya Plisetskaya)のためにバレエ版へ編曲したものです。この曲は,弦楽と4群の打楽器から成っていて「カルメン」の「運命の動機」を要所に出現させて,それがまあ,とても子気味いいのです。
 ちょっと長いかな,とは思いましたが,打楽器奏者が多くの打楽器を手を変え品を変え,弦楽奏者の後ろを動き回るのが愉快というか,大変というか。これは一見に値します。後日放送されるテレビでの映像が興味深いです。また,多くの打楽器がすべて弦楽器奏者の後ろ管楽器の前に配置されていたために,この曲の終了後のわずか20分の休憩でステージの配置を変更するのがかなり大変そうでした。
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 組曲「マ・メール・ロワ」はピアノ連弾組曲をバレエ化したものです。シャルル・ペロー(Charles Perrault)の「教訓付き昔話-マザーグース(マ・メール・ロワ) の話」から「眠りの森の美女」をバレエの筋書の中心に据えて,そこに前奏曲や間奏曲などを挿入し生まれた作品です。定期公演でたびたびこの曲は取り上げられていて,私は何度も聴いたことがあるのですが,この曲もまた,とても新鮮に聴こえました。
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 そして最後がロシア・バレエ団の興行主ディアギレフ(Sergei Diaghilev)から委嘱され作られた「ラ・ヴァルス」。
 「1855年ごろのウィーンの皇帝の宮殿」から「うずまく雲の切れ目からワルツを踊る男女たちの姿がときおり垣間見える。雲が少しずつ晴れてきて,輪を描きながら踊る人々であふれかえる広間が見える。次第に舞台は明るくなり,シャンデリアの光が燦然と煌めく」(Through rents in swirling clouds, couples are glimpsed waltzing. The clouds disperse little by little: one sees an immense hall peppered with a whirling crowd. The scene is gradually illuminated. The light of the chandeliers bursts forth at fortissimo.)という想定です。
 ラヴェルがワルツに見出していたのは,根源的な「生きる喜び」ということだそうで,トゥガン・ソヒエフさんは,うってつけの指揮者でした。

 トゥガン・ソヒエフさんの指揮は,音楽を体で表現するというもので,体の動きに従って魔法のようにオーケストラから音楽が紡ぎ出されるので,まさに,バレイ音楽には適任。第2000回の「一千人の交響曲」の次の第2001回がバレー音楽なんて粋な組み合わせでした。
 楽しかった。

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 今日の写真は,オーストリア・バーデンのベートーヴェンが交響曲第9番の構想を練った散歩道です。
 ベートーヴェン作曲交響曲第9番ニ短調作品125「合唱つき」。これを聴かずして年が越せない,という人もあり,お祭り好きの国民性もあり,必ず集客が見込めるのでオーケストラのお金儲けもあり,毎年暮れ,日本中でこの曲が鳴り響きます。
 私が交響曲第9番を聴き通したのは,紅白歌合戦とやらが午後9時からはじまっていた子供のころ,その前に午後7時45分から午後9時まで,当時は教育テレビといった現在のEテレで岩城宏之指揮のものを見たのがはじめてでした。そのときは,1時間も越すような曲があることにまず驚きました。
 その後,若いころは,毎年,地元名古屋フィルハーモニー交響楽団の第9演奏会に毎年のように行っていたのですが,ある年の外山雄三指揮の第9があまりに退屈で,単にオーケストラがノルマを果たしているだけのコンサートのように思えて,それ以来,行くのをやめました。今は,実際に聴きにいくことはまれです。しかし,NHKFMとNHKEテレで放送される「N響の第9」は,かれこれ50年以上必ず見ています。

 このごろは,よほど行きたいと思う指揮者のときにNHK交響楽団の第9演奏会に行こうと毎年思っているのですが,なかなかそういう気になることもなく,最近私が第9演奏会に行ったのは,2015年のパーヴォ・ヤルヴィ指揮と2016年のヘルベルト・ブロムシュテッド指揮でした。
 昨年は,井上道義指揮で,行こうかどうしようか迷った結果,都合がつかなくてやめました。
 今年の指揮は下野竜也さんでした。ホームページには
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 正攻法のアプローチで音楽に無類の生気や躍動感をもたらす日本屈指の実力者。年末の「N響の第9」初出演となる意欲と楽団の厚き信頼度を反映した清新かつ濃密な名演が期待される。
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とありました。N響正指揮者となったことを記念しての抜擢だと思いますが,私は今年もまたその気にならず,足を運びませんでした。ところが…。

 下野竜也さんは,去る11月26日に名古屋フィルハーモニー交響楽団と第9を指揮したのですが,そのときのXに「下野マエストロの「第9」解釈はとてもユニーク!(でも思いつきではなくしっかりとした根拠があります)」とあったことで興味をもちはじめました。
 そして,12月31日のEテレでの放送。
 毎年のように,はじめは何となく見ていたのですが,そのうちに,引き込まれていきました。すべてが特別な策を講じるわけでもなくあえて奇をてらうわけでなく,きちんとしているのです。これがとても小気味いい。そして,第4楽章でソリストがうたいはじめたとき,私は度肝をぬかれました。
 特に,ソプラノとメゾ・ソプラノ。
 こりゃ,オペラのアリアだ,と思いました。第9でこれほどの独唱を聴いたことがありませんでした。そこで,調べてみると
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●ソプラノ・中村恵理
 新国立劇場オペラ研修所を経て,2008年英国ロイヤル・オペラにデビューし注目を浴びる。
 2010年から2016年にはバイエルン国立歌劇場のソリストとして専属契約を結び,多くの作品で主要キャストを務める。(中略)様々な公演で絶賛を博している。
●メゾ・ソプラノ・脇園彩
 東京藝術大学を経てイタリアに留学し,ミラノ・スカラ座研修所などで研鑽を積む。
 2014年ペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティバルで,イタリアでのオペラ・デビューを果たし,以後イタリアを中心に活動。
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とありました。私は,はじめて知る名前でしたが,そういえば,脇田彩さんは,少し前のNHKラジオ深夜便に出演されていました。
 それ以来,私は「下野竜也の第9」にハマってしまい,毎日のように何度も録画を見ているのですが,こんなことははじめてです。2011年に「スクロヴァチェフスキーの第9」をよほど聴きにいこうと思ったけれどやめたことを今も後悔していますが,2023年の「下野竜也の第9」もまた,聴きにいかなかったことを,今になって後悔することになりました。

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 大河ドラマ「平清盛」を続けます。
 第15回「嵐の中の一門」で,常盤御前が登場しました。常盤御前は源義経の母です。
 私は,子供のころ,よく京都の鞍馬寺に連れていってもらったので,そこで,「義経背比べ石」というものを身近に見ていました。また,市バスが五条大橋を渡るので,「京の五条の橋の上,大のおとこの弁慶は長い薙刀ふりあげて,牛若めがけて切りかかる。牛若丸は飛び退のいて...」という歌があることを聞いて,牛若丸と弁慶という名を知りました。しかし,そうした知識は童話的であり断片的でした。1993年に放送された大河ドラマ「炎立つ」で,源義経が東北の藤原三代に匿われたことが取り上げられていて,どうしてこの地に源義経が関わっているのか? と驚いたことすらありました。
 また,旧中山道を関ヶ原宿から柏原宿まで歩いていたとき,途中に「常盤御前の墓」があって,これもまた驚きました。どうしてここに常盤御前?
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 1138年(保延4年)生まれの常盤御前は, 近衛天皇の中宮・九条院(藤原呈子)の雑仕女でした。
 雑仕女の採用にあたり,藤原伊通の命令によって都の美女千人を集められ,その百名の中から十名を選んだ中で,聡明で一番の美女であったといいますが,これもまた,「平清盛」で描かれました。
 やがて,源義朝の側室になり,今若,乙若,牛若を産みました。
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 第28回「友の子,友の妻」では,源頼朝の助命と常盤御前について描かれています。
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 平治の乱で捕らえられた源頼朝が平家盛の幼いころに姿が似ていたことから,母の池禅尼が哀れんで清盛に頼朝の助命を訴えたとありますが,ドラマでは,これをもとにしています。
 また,常盤御前は子供たちを連れて雪中を逃亡したのち,平清盛の元に出頭し,子供たちが殺されるのは仕方がないことだけれども,子供たちが殺されるのを見るのは忍びないから先に自分を殺して欲しいと懇願しましが,その様子と常盤御前の美しさに心を動かされた平清盛は源頼朝の助命が決定していたことを理由に,今若,乙若,牛若を助命しました。「義経記」や「平治物語」では,平清盛が常盤御前によしなき心を抱き,子供の命を盾に返答を強要したという内容が記されています。
 その後については、侍女と共に源義経を追いかけたという伝承があり,常盤御前の墓とされるものは岐阜県関ケ原町をはじめ,各所にあります。 
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 源頼朝や常盤御前の生んだ子供たちの命が救われたことが,やがて,平家滅亡につながるので,このあたりをうまく描く必要があります。でないと,ドラマは成立しません。「平清盛」では,こうした資料をもとにして,うまく物語が作られています。

 さて,平清盛に助命を認められた今若,乙若,牛若は,それぞれ別の寺院に送られました。
 今若はのちの阿野全成,乙若はのちの義円,そして,牛若がのちの源義経ですが,彼らの姿は「鎌倉殿の13人」にうまく描かれています。
 無知な私は,源義経については知っていましたが,阿野全成と義円が源義経の実の兄弟ということすら知りませんでした。
 このように,「平清盛」を見てから,改めて「鎌倉殿の13人」を見ると,まさに,伏線回収。その奥深さにのめり込むことになりました。これでまた,日本各地を旅する楽しみが増えたというものです。

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 第10回「義清散る」では,佐藤義清なる人物が詳しく語られるのですが,「佐藤義清=西行法師」だなんて,私には「何だ,そうならはじめにそう解説してくれよ」という感じでした。そう知っていればずいぶんと想い入れもできるのですが,知らずに見ていてもそれがわかりません。
 旅をしていると,吉野山の西行庵をはじめとして,西行法師ゆかりの場所がいろいろなところにあるのですが,私は,これまで,西行法師は和歌の達人,というイメージしかありませんでした。これを機会に調べてみると,もっともっとドラマのある人物でした。
 佐藤義清以外にも,「平清盛」では,明子,時子といった平清盛の妻や,鳥羽天皇の中宮皇后・待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ),美福門院得子(びふくもんいんなりこ)といった女性が出てきますが,もともと女性の顔の違いが認識できず,みな同じ顔に見えてしまう私にはすぐには区別がつきません。また,待賢門院璋子の子である崇徳天皇は顕仁(あきひと)という名だし,後白河天皇も雅仁(まさひと)だし,美福門院得子の子である近衛天皇は躰仁(なりひと)ですが,幼名だけで語られても,一度では理解不能です。せめて「後の〇〇天皇」といった字幕でもあればいいのですが…。

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  ながからむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は ものをこそ思へ
    待賢門院堀河
  身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ
    西行法師
  ・・・・・・
というような,佐藤義清と待賢門院璋子の関係を暗示して,効果的に取り上げられている和歌も,この和歌を知ってはいても,こんなシチュエーションで詠まれたのか! と驚きました。いや,実際は,そんなシチュエーションで詠まれたものではないでしょうが,そんなシチュエーションを思い起させる歌だということでしょう。
  ・・
 「ながからむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は ものをこそ思へ」は百人一首にある歌ですが,これは待賢門院璋子が詠んだものではなく,待賢門院璋子に出仕した待賢門院堀河が詠んだものですが,いずれにしても,関わりがあるのです。そう学べば,学生時代,百人一首の勉強にもう少し身が入ったものを,高等学校で習う百人一首は,参考書には文法については必要以上に詳しく書かれているのに,それを詠んだ人物や時代背景にはほとんど記述がありません。もし,その時代や人と人との関りを知っていれば,さぞかしおもしろかったのになあ,と悔しい思いをしました。
 このように,「平清盛」は,一度見るだけではわからないことが多いので理解不能ですが,時間のある今,何度も見直したり,わからないところは徹底的に調べながら見ていると,それがまあ,奥が深いドラマだ! ということがわかり,とても興味深いのです。また,真実かどうかは別として,その時代の逸話をさまざまな古文書から探し出して,それらをドラマの中にこれだけ多くちりばめられているのもすごいものだと感服しました。

 将棋の棋力がない人が難解な藤井聡太八冠の将棋の本当のおもしろさが理解できないように,このドラマを評価するには,ものすごく多くの知識が必要なのでしょう。そうでないのに,容易に批判するのは,自分が無知であるということを吹聴し,天に向かって唾を吐くようなものです。脚本家はそれをすべて計算づくで,浅学のあなたにはわからないんでしょう,とほくそ笑み,批判する人を値踏みしながら優越感に浸っていたのかもしれません。
 一方,現在は過保護な時代で,また,視聴率を気にするあまり大衆に媚びを売っています。大河ドラマでは,さまざまな関連番組が放送されたり,解説本が出版されたり,ドラマの冒頭でもていねいなあらすじの説明がありと,無知な私が見ても,理解不能ということはないのですが,以前は,そうではありませんでした。
  ・・
 話は飛躍します。
 こうしたドラマに限らず,リヒャルト・ワーグナーのオペラや,シェイクスピアの劇など,人類の財産ともいえる多くの芸術は,「平清盛」とは比べられないほど,もっと難解で,多くの知識がなければ,理解できません。それでも,それを評価し,楽しんでいる人がいるわけです。私はそれがとてもうらやましいです。せっかく生まれてきて,人類の財産である芸術作品のよさを味わえる能力さえ身についていないて,人生はなんと短いこと!

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 昨年,隠岐諸島に行ったとき,知夫里島で,文覚上人の墓,というものを見て以来,文覚上人なる人物に興味が湧いたことから,NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で市川猿之助さんが演じた文覚上人をまた見たくなりました。そこで,保存していた総集編を見直してみのですが,まったく出てきませんでした。そこで,「鎌倉殿の13人」の全話を見るにはどうしたらいいか,と思っていたら,NHKオンデマンドで見ることができるということがわかったので契約して,やっと見ることができました。
 文覚上人を登場させなくても,「鎌倉殿の13人」という物語は成り立つのでしょうが,脚本を書いた三谷幸喜さんが,その時代について調べているうちに,文覚上人は非常に興味をもった人物であるらしく,また,大河ドラマは真実を描いていない,などという学者気取りの人をあざ笑っているかのように,それをおもしろおかしくドラマに取り入れていたのが,脚本家の矜持というものでしょう。大河ドラマは歴史を題材としたあくまでドラマであって,でないと,単に受験勉強用の学校の歴史教材になってしまいます。
 せっかく契約したのだからと,NHKオンデマンドに存在する他の番組を調べていたら,「鎌倉殿の13人」以外にも過去の大河ドラマが多数存在していました。そこで,今日は,そんな過去に放送された大河ドラマのお話です。

 私がはじめてNHK大河ドラマにはまったのは,1973年に放送された「国盗り物語」でした。
 それ以来現在まで,最後まで見たもののあれば,途中で断念してしまったものもあります。途中で断念してしまったものには,つまらなかったものと,本当は興味があったけれど難しくてわけがわからなくなってしまった,というものがあります。そうしたもので,私がずっと気になっていたのが「勝海舟」「平清盛」「義経」の3作でした。
 「勝海舟」は,総集編だけ存在していてそれを見ることができました。総集編では物足りなかったのですが,とにかく,流れはわかりました。「義経」は,現在,NHKオンデマンドでは見ることができません。現在,すべてを見ることができるのは「平清盛」でした。
 私は,日本の歴史で,戦国時代と幕末にはすごく興味があったのですが,平安時代末期のことはそれほど興味もなく,大学受験で必要だった知識以外,ほとんど知りませんでした。「鎌倉殿の13人」も,放送する前はまったく興味がなかったのですが,見ているうちに引き込まれて,この時代に興味がわいてきました。
 「平清盛」は,主役が「どうする家康」でユニークな演技をしていた松山ケンイチさんということもあり,「鎌倉殿の13人」と今年放送される「光る君へ」の間の時代を描いたものということもあり,「平清盛」をきちんと見てみることにしたのですが,それがまあ,おもしろいこと!

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 「平清盛」は,2012年に放送された51作目のNHK大河ドラマです。
 平清盛の生涯を中心に、壇ノ浦の戦いまでの平家一門の栄枯盛衰を,源頼朝の視点を通して描いたものです。
 第1回から父・平忠盛が亡くなる第16回までが第1部,平清盛が平氏一門の棟梁となった第17回から保元の乱と平治の乱を経て公卿となった平清盛が嚴島に経典を納める第30回までが第2部,その後の第31回からが第3部です。内容豊富,ボリューム満点のドラマです。
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 このドラマは,放送当時,かなり不人気でした。その一方で,一部の人たちにはものすごく評価の高いドラマでした。私は,視聴率,などというものはどうでもよく,他人が見ようと見まいと,人気があろうとなかろうと,人は人で,どうでもいいのですが,それよりも,自分が興味があるのにわからない,ということが悔しかったのです。
 改めて見ると,このドラマが不人気だったのは,画面が汚いなどということを言った人がいるとかいないとかですが,実は,難しすぎたから,ということを再認識しました。このドラマを理解するには,山川出版社の「詳説日本史」なる高等学校の教科書程度の知識では不十分であり,書かれていないことばかりなのです。そもそも,この時代は,教科書程度の知識でも,保元の乱,平治の乱が,源と平の対決といった単純なものではなく,利害関係が複雑に入り交じっているし,人物の名前も似たようなものばかりだったので,受験勉強をしていたころの私は,さっぱりわかりませんでした。

 このドラマは,院政といって,白河天皇が幼少の子供に皇位を譲り法皇となって権力をほしいままにしているところからはじまります。次の堀河天皇は若くして亡くなったのでドラマ「平清盛」には出てこず,次のその鳥羽天皇がその不安定な地位に格闘しているというのが第1部です。
 第1部では,平清盛は白河法皇の落胤だった? とか,鳥羽天皇の本当の父は白河法皇だった? とか,崇徳天皇の父も鳥羽天皇ではなく白河法皇だった? とか,そのように伝わっている逸話などが取り入れられています。
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 「平家物語」の語り本系の諸本は,白河法皇の寵愛を受けて懐妊した祇園女御が忠盛に下賜されて,平清盛が生まれたとしています(=白河院落胤説)。また,読み本系の延慶本では,平清盛は祇園女御に仕えた中﨟女房の腹であったというように書いています。
 崇徳天皇は鳥羽天皇と中宮・待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)の第1皇子ですが,「古事談」には,崇徳天皇は白河法皇と待賢門院璋子が密通して生まれた子であり,鳥羽天皇も実父は祖父・白河法皇で,崇徳天皇を「叔父子」とよんで忌み嫌っていたという逸話が記されています。
  ・・・・・・
 こういう逸話を取り入れてドラマが作られているので,大河ドラマは史実に忠実でない,と批判する人がいたわけのですが,それが真実であろうとなかろうと,歴史の授業であるまいし,歴史を題材とした作り話,でいいじゃないか,と私は思います。このほうがおもしろいし,人間の本音を露骨に描くことができます。
 以下,次回に続きます。

◇◇◇


◇◇◇
ISS.

2024年1月6日午前5時39分。
月齢23.9の月と金星の間を横切る国際宇宙ステーションです。
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 今回は,NHK交響楽団定期公演の第2000回記念ということなので,ある意味,お祭りです。どれだけのお客さんがマーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」を理解して足を運んでいるのかは知りませんが,もちろん満員で,私が座っている2階席後方のあたりは,いつもはほどんど誰もおらず快適なのに,この日だけは,ぎっしりと座っていて,窮屈に感じるほどでした。
 ベートーヴェンの交響曲第9番は,合唱があってもその意味をつかむのは容易です。マーラーの交響曲第2番や第4番,また,「大地の歌」も同様です。また,これらの交響曲には音楽だけの部分も多く,音楽の美しさにも惹かれます。しかし,交響曲第8番「一千人の交響曲」はそうはいきません。確かに,規模が大きくて,話題性に事欠かないにせよ,この曲は,ほとんどが意味のわからない声楽ばかりで,こうしたコンサートでもない限り,私は聴きたいと思うようなものではありません。
  ・・
 交響曲第8番「一千人の交響曲」は,他のマーラーの交響曲とは異なるものです。大仰なのです。
 先日聞いた交響曲第2番も大仰ですけれど,それはそれで,若気のいたりというか,情熱というか,そういうものを感じて,とっつきやすいのです。第3番は第2番にくらべたら,二番煎じの感じがしないでもないけれど,この曲もまた,聴きにくいものではありません。
 私が大好きなマーラーの交響曲は,第9番は別格として,第4番と「大地の歌」ですが,それに比べると,第8番は「やりすぎ」ちゃっているのです。しかし,マーラーは,第8番で,生命の泥臭さや高貴さをすべて吐き出してしまうことができたので,それに続く「大地の歌」や第9番の枯れた境地にたどり着けたのではないでしょうか。
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 交響曲第8番「一千人の交響曲」は,マーラー自身が初演し耳にすることのできた最後の作品でした。大規模な管弦楽に加えて8人の独唱者および複数の合唱団を要する巨大なオラトリオのような作品で,2部構成をとり,第1部は,中世マインツの大司教ラバヌス・マウルス(Rabanus Maurus Magnentius)作といわれるラテン語賛歌「来たれ,創造主たる聖霊よ」(Veni, veni creator spiritus),第2部は,ゲーテの戯曲「ファウスト第2部」(Faust part 2)の終末部分に基づいた歌詞が採られています。オラトリオとは「宗教的な題材を扱った演奏会向けの長編の声楽曲」で,基本的にはオーケストラの演奏を伴います。日本語では「聖譚曲」(せいたんきょく)といいます。
 マーラーはこの作品を妻のアルマに献げました。
 「一千人の交響曲」(Symphonie der Tausend )という名前は,初演時の興行主であるエミール・グートマン(Emil Gutmann)が話題づくりのためにつけたものです。この商売気たっぷりのたくらみが功をそうしたのか,マーラー生涯最大の成功を収めました。

 私がこの曲を聴くときの最大の問題は,キリスト教とか文学に疎いことです。ゲーテなんて名前くらいしか知らないし,もちろん,小説を読んだこともないのです。
 キリスト教的人生感,生と死。私にはそれが理解不能なのです。
 「ファウスト」では,この宇宙で人は孤独であること,だからこそ,孤独をまぎらわすために人との繋がりを求めること,不安をかき消す光を求めて自分たちは生きていること,そして,生きている限り不安や悩みは尽きることはないけれど,それでも自分たちは光を求めて歩いていくというのが救いになること,そうしたことが語られているらしいのですが,正直いって,私にはわかりません。だから,交響曲第8番「一千人の交響曲」の本当のよさを理解するには至れないのです。
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 クラシック音楽を聴くために足を運ぶのは,もちろん我慢大会ではないわけですが,この齢になると,この曲が理解できるように勉強しようとか,そんな向上心もなくなる代わりに,80分という曲を聴いても,退屈することもなく,聞きとおせてしまうのが救いです。だから,NHK交響楽団定期公演の第2000回記念のイベントに参加できた,ということだけでも,意義があったということにしておきます。

 「一千人の交響曲」と銘打っているのですが,ステージ上には500人弱の演奏者でした。合唱が上手なので人数が少なくてもよいということでしょうか。それにしても,聴きながら感心したのは,ステージにいるNHK東京児童合唱団の子供たちでした。客席はもちろんのこと,ステージ上でこの曲を聴いていて飽きたりしないものか…。という話を帰ってからしていたら,ある人が「私「一千人の交響曲」を演奏会で歌ったことがある」というので,さらに驚きました。
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 コンサートが終わって外に出たら,クリスマスマーケットのライトアップでとてもきれいでした。でも,ものすごい人混みでした。これが日本の実社会だと,現実に戻されました。
 いずれにしても,私は,このごろすっかりマーラーづいてしまっているわけですが,次に聴くのは,2024年3月9日に行われる井上道義指揮・新日本フィルハーモニー交響楽団の交響曲第3番です。

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●「ファウスト」第1部
 悪魔メフィストフェレス(Mephistopheles)が,多くの学問を究めてきた老博士ファウストの前に登場します。
 ファウストは,どんなに知識を学んだところで未知なることは無限に存在するし,自分の人生は学ぶ前も学んだ後も結局何ひとつ変わらないではないか,と嘆きます。生きることの充足感を求めていたファウストに,メフィストフェレスは,ファウストが死んだ後に魂を引き渡す代わりに,彼の欲望をすべてかなえようという「契約」をもちかけます。
 ファウストはメフィストフェレスの誘いに乗り,「時よ止まれ汝は美しい」(Werd’ ich zum Augenblicke sagen : Verweile doch! du bist so schon!)という言葉を言えば自分の魂を捧げる,というメフィストフェレスとの「契約」を結びました。
 メフィストフェレスの力で20代の姿となったファウストは,グレートヒェン(Gretchen)と出会い恋仲になるのですが,ファウストとの逢引のため,グレートヒェンは母に誤って致死量の睡眠薬を飲ませ死なせてしまい,さらに,彼女の兄もファウストとの決闘で殺されてしまいます。これが原因でグレートヒェンは次第に精神を病み,ついにはファウストとの子も殺し,自らも亡くなってしまいます。
 メフィストフェレスの計画は失敗に終わります。
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●「ファウスト」第2部
 絶望したファウストですが,アルプスの自然と精霊に囲まれ活力を取り戻し,メフィストフェレスの手引で神聖ローマ皇帝に取り入ります。ファウストは女神ヘレネー(Helen)の美貌に魅せられ,メフィストフェレスの力で神代の世界へ飛び,ヘレネーと結ばれます。しかし、彼女との間に生まれた息子は墜落死してしまいます。
 失意と共に現代へ帰ったファウストはメフィストフェレスの力で戦争に勝利し領地を得て,理想の国家を作ろうと大干拓事業に乗り出すのですが,立ち退きを求めていた地元の老夫婦を誤って殺害し,その報いとして盲目にされてしまいます。
 メフィストフェレスは手下にファウストの墓穴を掘るよう命じますが,盲目になったファウストはその音を土地の造成が進んでいるものと思い込むことで幸福を実感し,「時よとまれ汝は美しい」と呟き,人生の幕を下ろすのです。
 「契約」に従ってメフィストフェレスがファウストの魂を奪おうとしたとき,天上から天使が降り立ちます。かつての妻・グレートヒェンが聖母に捧げた祈りが届き,ファウストの魂は救済されるのでした。
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 2023年12月16日,NHK交響楽団第2000回定期公演,マーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」を聴きにいきました。
 NHK交響楽団の定期公演は1927年からはじまったそうですが,それが今回2000回目を迎えたということです。コロナ禍で,2020年2月の第1935回定期公演のあと,2020年4月から6月まで1936回から1944回が予定されていたのが中止となりましたが,1年置いて,改めて2021年9月に1936回として再開されたので,切れ目なく続きました。しかし,2023年10月に1992回の定期公演が中止となったことで1回飛んでいるので,厳密には,今回は1999回なのです。というか,それ以前にも中止があったかもしれません。

 さて,記念すべき2000回の曲目は,事前にファン投票がありました。
 候補曲は,フランツ・シュミットのオラトリオ「7つの封印の書」,マーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」,シューマンのオラトリオ「楽園とペリ」でした。これら3曲から,となると,最も有名なマーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」になるのは,はじめからわかっていた,とブログに書いた人がいました。
 ちなみに,残りの2曲は,もし選ばれていたらN響初演ということだったので,それもありかな,と私は思っていました。というのも,私は,マーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」を生で聴く機会どころか録音でさえも聴くことなどまずないのですが,それでも,過去に1度生で聴いたことがあるのです。それは,私の地元名古屋で,1985年の年末,朝日新聞社名古屋本社発刊50周年記念特別演奏会として,外山雄三指揮,名古屋フィルハーモニー交響楽団の演奏したものを聴きにいったのです。こんな大曲,2度と聴くことはできないだろうと思って足を運んだのです。
 近年のNHK交響楽団では,N響90周年記念特別演奏会として,パーヴォ・ヤルヴィ指揮で2016年にNHKホールで行われたことがあるのですが,この演奏会は聴きにいきませんでした。FMでは放送されず,ただ1回だけテレビで放送されたようですが,私はそれも見逃しました。

 近年,ベートーヴェンの交響曲第9番は,テンポは早く早く,そして,オーケストラも小規模になって演奏されはじめました。これを仮に21世紀的演奏とします。それに対して,マーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」は,贅肉たっぷりのコテコテ演奏を聴衆は期待しているから,21世紀的演奏は似合いません。でないと,感激も何もなくなってしまいます。
 パーヴォ・ヤルヴィさんの指揮は,ベートーヴェンを指揮するときは21世紀的演奏になるのですが,ブルックナーやマーラーでは,そこに上手な味つけがされて,聴かせどころは聴かすのですが,コテコテにはならず,シンプルさを残して,分離と融合の使いわけがうまいので,20世紀的演奏に21世紀的な味つけがあってすばらしいものという評価だったので,それを聴いてみたいものでした。
 それに対して,今回は,ファビオ・ルイージ指揮です。
 私は,パーヴォ・ヤルヴィ対ファビオ・ルイージというのは,まあ,塩ラーメンと味噌ラーメンの違いのような気がするのですが,それはどちらがいいとかいうのではなく,持ち味が違うので,どちらも楽しめるのです。
 演奏のことは多く書かれるでしょうから,これくらいにして,私は,昔話をします。

 今から55年ほど前のこと。
 当時私が通っていた中学校は,今では考えられないほど大人びていました。ろくに英語もできないのにドイツ語の勉強をしたり,授業なんて最後の5分だけ聞いていればわかるからとずっと芥川龍之介を読んでいたり,ものすごく優秀なのに字が下手すぎて名前が読めないからお前はもう勉強しなくていいから書き方の練習をしろといって先生から字の書き方のドリルをもらったり,とそんな生徒だらけだったし,まったく勉強もしないで放課後も遅くまで教室に残ってしゃべくっていただけの女子生徒がめちゃくちゃ賢かったりしました。みんな後に偉い人になりました。
 学校の音楽の授業では,音楽家になるわけでもないのに,音楽大学さながら,小難しい音楽史やら楽典を習ったし,歌のテストの課題はドイツ語でベートーヴェン作曲の「Ich liebe dich」(きみを愛す)だったりしました。だから今でも歌えます。
  ・・・・・・
 Ich liebe dich,so wie du mich,
 Am Abend und am Morgen,
 Noch war kein Tag,wo du und ich
 Nicht teilten unsre Sorgen.
  ・・
 あなたを愛しています、あなたが私を愛するように、
 夕方でも朝でも。
 あなたと私が悩みを分かち合わない日など
 1日もないのです。
  ・・・・・・
 週末ごとに東京に通ってヴァイオリンの指導を受けていた生徒もいたのですが,彼女は,やがてプロになって,今はアメリカのオーケストラでヴァイオリンを弾いています。
 私は無知な生徒で,完全に落ちこぼれだったので,楽器も弾けませんでしたが,そんな環境の中で育ったので,自然に覚えたのがクラシック音楽でした。当時はレコードを買ってくるか,FM放送で流れなければ聞きたい音楽を聴くこともできない時代でしたが,帰りにレコード屋さんに行っては,こんな曲があるのだ,と語る友人の影響を受けて,知識だけが増しました。それは,たとえば,ニールセンには「不滅」などという大げさな題名の曲があるとか,ブルックナーには交響曲第0番やマイナス1番があるとか,マーラーには千人で演奏する交響曲があるとか…。
 それでも,今,コンサートを聴きに行くだけの知識ができたのだから,それでよかったのでしょう。今回のように,マーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」を実際にコンサートで聞く機会があると,そんなことを思い出します。

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 NHK交響楽団定期公演,10月のヘルベルト・ブロムシュテッドさんに続いて,11月のウラディーミル・フェドセーエフさんも体調不良で来日が不可能となりました。2月連続で90歳を越える高齢の指揮者ということで,心配はしていたのですが,それが現実となってしまいました。
 先月は時間がなかったこともあって,Aプログラムだけが中止となり,BプログラムとCプログラムは指揮者を変更して行われましたが,今月の定期公演は,すべて指揮者を変更して行うということでした。指揮者の変更は,コロナ禍のころずいぶんとありましたが,私は,こういう場合,指揮者の変更なんてよくないなあ,公演は中止,という意見です。そもそも,この指揮者だからチケットを購入した,という人にとっては,そりゃないぜ,です。せめて,中止ができないのなら,行く気のなくなった人にはキャンセルを認めるべきでしょう。その指揮者がウリで大きな写真を載せたパンフレットがあるのに,別の人が出てくるわけですから。
 ということだったのですが,Aプログラムで代わりに抜擢されたのは,NHK交響楽団指揮研究員の平石章人さんと湯川紘惠さんで,それぞれが前半と後半を受け持つということでした。私は,先週,読売日本交響楽団の演奏会に行ったこともあって,今回はパスしようと思っていたのですが,ウラディーミル・フェドセーエフさんだから行ってみようと改めて思っていたから,やはり,指揮者が変更になるのならパスかな,と思ったのですが,抜擢されたのが若手だったので,興味が湧いて,聴きにいくことにしました。
 2023年11月25日でした。

 曲目は,前半がスヴィリドフの小三部作,プロコフィエフの歌劇「戦争と平和」から「ワルツ」(第2場),A・ルビンシテインの歌劇「悪魔」のバレエ音楽から「少女たちの踊り」,グリンカの歌劇「イワン・スサーニン」から「クラコーヴィアク」,リムスキー・コルサコフの歌劇「雪娘」組曲,後半がチャイコフスキー,フェドセーエフ編のバレエ組曲「眠りの森の美女」でした。
 私の知らない曲ばかりでした。特に前半なんて,代りができる指揮者がいるとは思えません。そんな事情もあって,若手の抜擢となったのかもしれません。思いついた人,グッドアイデアでした。
  ・・
 演奏の出来不出来なんて,はじめて聴いた曲だし,私にはまったくわかりません。
 ただいえるのは,無難にこなしたなあ,ということですが,それはまあ,NHK交響楽団の団員さんが優秀だから,もし,うまくできなかったとしても,何とかしてくれたことでしょう。
 一時代前なら,団員さんも一癖二癖あったから,こんな場合,抜擢された若い指揮者には,リハーサルが,さぞかし,たいへんだったことでしょう。何せ,あの,小澤征爾さんですら揉めたくらいです。しかし,今は,きっとやさしい団員さんばかりだから,暖かく見守ってくれたのではないだろか,などと想像してしまいます。それでも,本番はドキドキだったことでしょう。そして,いい経験になったことでしょう。 
 聴いていた観客の人たちもとてもやさしい空気がNHKホールを包んでいました。たまには,こういう演奏会も悪くないと思いました。子供の発表会を聴きにいくみたいな。代々木公園の美しいイチョウの黄葉を見ながら帰路につきました。

 さて来月は,いよいよ,ファビオ・ルイージさんが指揮するマーラーの交響曲第8番「千人の交響曲」です。2000回目の定期公演を祝して,でしたが,10月の1992回が中止となったので,実は1999回目ではないか。などという野暮なことはいわず,今度こそ,プログラムどおりに演奏会が行われると信じています。

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 私は,あの,なまめかしさに抵抗があって,しばらくマーラーを聴かなかったのですが,再びそのすばらしさに目覚めたのは,ウィーンでマーラーの墓に行ったときでした。これまでに私は2度ウィーンを訪れたのですが,1度目はマーラーの墓が見たくて,そして,2度目は1度目に見損ねたアルマの墓が見たくて,2度ともマーラーの墓を詣でました。
 マーラーの墓は,ウィーンの国立中央墓地に並ぶ数々の作曲家の墓とは違って,人里離れた地に埋葬されていて,その墓にわびしさと孤独を感じました。 マーラーの墓には,マーラーの名前しか刻まれていません。それは,生前
  ・・・・・・
 Jeder, der mich sucht, wird wissen, wer ich war, und der Rest muss es nicht wissen.
  ・・
 私の墓を訪ねて来る人は,私が何者だったか知っている。そうでない人に知って貰う必要はない。
  ・・・・・・
と言ったからだそうですが。
 そして,墓の印象とともに,ウィーンでのマーラーの足跡が伴って,作曲された音楽にそれが重なり合って増幅され,やっと本当の魅力が理解できるようになったのです。若き日から,死に怯え,そして,向き合ってきた作曲家は,その地で,永遠の眠りについているのでした。

 さて,第4楽章に続く第5楽章は,長大でソナタ形式をベースとしています。いよいよクライマックスです。
 後半になると,金管のバンダが入ります。ステージから遠く離れたところから響くその音色は天上から聴こえてくるかのような錯覚に陥りました。そして,アルトが入ります。ラストは合唱が入り,壮大に盛り上がって曲を閉じるのです。
  ・・・・・・
 Aufersteh'n, ja aufersteh'n, wirst du,
 mein Staub, nach kurzer Ruh!
 Unsterblich Leben! Unsterblich Leben wird, der dich rief, dir geben.
 Wieder aufzublüh'n, wirst du gesät!
 Der Herr der Ernte geht
 und sammelt Garben
 uns ein, die starben.
 O glaube, Mein Herz, o glaube:
 Es geht dir nichts verloren!
 Dein ist, ja dein, was du gesehnt!
 Dein, was du geliebt, was du gestritten!
 O glaube: : Du wardst nicht umsonst geboren!
 Hast nicht umsonst gelebt, gelitten! 
 Was entstanden ist, das muß vergehen!
 Was vergangen, auferstehen!
 Hör' auf zu beben!
 Bereite dich zu leben!
 O Schmerz! du Alldurchdringer!
 Dir bin ich entrungen!
 O Tod! du Allbezwinger!
 Nun bist du bezwungen!
 Mit Flügeln, die ich mir errungen,
 in heißem Liebesstreben werd' ich entschweben
 Zum Licht, zu dem kein Aug' gedrungen!
 Mit Flügeln, die ich mir errungen,
 werde ich entschweben!
 Sterben werd' ich, um zu leben!
 Aufersteh'n, ja aufersteh'n wirst du,
 Mein Herz, in einem Nu!
 Was du geschlagen,
 zu Gott wird es dich tragen!
  ・・
 よみがえる,そうだ,おまえはよみがえるだろう。
 私の塵よ,短い憩いの後で,
 おまえをよばれた方が不死の命を与えてくださるだろう。
 おまえは種蒔かれ,ふたたび花咲く。
 刈り入れの主は歩き,我ら死せる者らのわら束を拾い集める。
 おお,信じるのだ,わが心よ,信じるのだ。
 何ものもおまえから失われはしない!
 おまえが憧れたものはおまえのものだ,おまえが愛したもの,争ったものはおまえのものだ!
 おお,信じよ,おまえは空しく生まれたのではない!
 空しく生き,苦しんだのではない!
 生まれ出たものは,必ず滅びる。滅びたものは,必ずよみがえる!
 震えおののくのをやめよ!
 生きることに備えるがよい!
 おお,あらゆるものに浸み渡る苦痛よ,私はおまえから身を離した!
 おお,あらゆるものを征服する死よ,いまやおまえは征服された!
 私が勝ち取った翼で愛への熱い欲求のうちに私は飛び去っていこう。
 かつていかなる目も達したことのない光へと向かって!
 私が勝ち取った翼で私は飛び去っていこう!
 私は生きるために死のう!
 よみがえる,そうだ,おまえはよみがえるだろう。
 わが心よ,ただちに!
 おまえが鼓動してきたものが
 神のもとへとおまえを運んでいくだろう!
  ・・・・・・

 それにしても,何という劇的な交響曲なのでしょう。まるで,本当に天に昇るように感じてしまいます。聴きにきて本当によかったと思ったことでした。
 井上道義さんのブログには次のように書かれています。
  ・・・・・・
 マーラーは本当の意味で指揮と作曲両方が出来た人。ブルックナーやブラームス,ベートーヴェン,ショスタコヴィッチたちとはそこが違う! 80分の長丁場,(私は)足腰が怪しくなりはじめて,終楽章のおわり数分は,深呼吸,深呼吸,深呼吸でした。
  ・・・・・・
 ついこの前まで病気で入院をしていた井上道義さんが,80分の大曲を無事に終えられただけでも感服するのに,演奏はすばらしいものだったし,さらに,曲が終わっても帰らぬ聴衆に,楽団員の去ったステージに再び現れて,聴衆の前でおどけてみせたりして,本当にうれしそうで,安心しました。
 まだまだこれから1年間,多くの演奏会が控えているので,どうか,お元気で,と祈らざるをえませんでした。
 3月に,今度は,新日本フィルハーモニー交響楽団の演奏会でマーラーの交響曲第3番を指揮すると知って,早速チケットを買い求めました。私は第3番こそライブで聴いたことがないので,今から楽しみです。

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 現在は,カリスマ指揮者も減り,この指揮者なら聴きにいきたい,という人も少なくなってしまいましたが,マエストロ井上道義は,私が聴いてみたいと思う数少ない指揮者のひとりです。しかし,井上道義さんは,2024年末に引退すると表明してしまい,それ以来,精力的に日本中のオーケストラを指揮しています。そこで,私も,気に入った演奏会を見つけては出かけています。
  ・・
 2023年11月18日,読売日本交響楽団の演奏会で,井上道義さんの指揮するマーラーの交響曲第2番「復活」(Auferstehung)が,東京芸術劇場で〈東京芸術劇場マエストロシリーズ〉として行われることを知って,早速チケットを購入し,聴いてきました。
 東京芸術劇場では,これまでに,マーラーの交響曲として,井上道義さんは2018年に交響曲第8番「一千人の交響曲」,2019年に交響曲第3番,そして,2021年には「大地の歌」を指揮したそうです。そして,今回が交響曲第2番「復活」でした。
 私は,交響曲第2番「復活」をライブで聴いたことがこれまでなかったなあ,と思ったのですが,思い出してみると,NHKホールで,一度,パーヴォ・ヤルヴィさんの指揮で聴いたことがありました。しかし,あのだだっ広いNHKホールに比べて,東京芸術劇場では,迫力が違いました。そして,井上道義さんの渾身の指揮と大音量のみごとな演奏に,私は,打ちのめされました。

 マーラーの交響曲第2番「復活」は,1888年から1894年に,マーラーが,ソプラノとアルトの独唱,合唱を含む,野心的な交響曲として構想して作曲した曲です。
 井上道義さんはブログで
  ・・・・・・
 若きマーラーが悩み,戦い,のた打ち回り,日々の心の不安を作品として客観化して,自分をコントロール下に置き,夢,天上世界への憧れと,死が近いはかない人生とを, 新国立劇場合唱団と共に,ここに来てくれた2,000人の人たちの耳と目に具現化してくれた。
  ・・・・・・
と書いています。
 実際,この交響曲が作られたのは,マーラーがまだ30代のころで,最後に作られた交響曲第9番にくらべれば,そこには,気負いもあれば,大げさな感じが否めないものです。それは,たとえば,ブラームスの交響曲第1番と第4番,ピアノ協奏曲第1番と第2番の対比と似ています。
 しかし,実際の演奏を聴くと,その若さに,私は圧倒されてしまいました。

 ゆっくりめのテンポではじまって,しかし,緊張感がたまらない第1楽章は,地獄のような音楽です。このあとの第2楽章,第3楽章では,安らぎとおどけと,そして,ある種のあきらめの音楽が流れます。そして,第4楽章で,歌曲集「子供の不思議な角笛」(des Knaben Wunderhorn)の第7曲「原光」(Urlicht)が取り込まれ,アルトの林眞暎(まえ)さんが歌いあげます。
  ・・・・・・
 O Röschen rot!
 Der Mensch liegt in größter Not!
 Der Mensch liegt in größter Pein!
 Je lieber möcht' ich im Himmel sein!
 Da kam ich auf einen breiten Weg;
 Da kam ein Engelein und wollt' mich abweisen!
 Ach nein! Ich ließ mich nicht abweisen:
 Ich bin von Gott und will wieder zu Gott!
 Der liebe Gott wird mir ein Lichtchen geben,
 Wird leuchten mir bis in das ewig selig Leben!
  ・・
 おお 赤い小さな薔薇よ!
 人類はこの上ない苦悩の内にいる!
 人類はこの上ない痛みの内にいる!
 こんなことなら私はむしろ天国にいたい!
 天国に行こうと私は一本の広い道へとやってきた。
 すると天使がひとりやって来て,私を追い返そうとした。
 そうはいくものか。私は追い返されなかった!
 私は神のもとから来たのだから,また神のもとへ帰るのだ!
 神は一筋の光を私に与えてくださり,
 永遠にして至福の生命に至るまで照らしてくださるだろう。
  ・・・・・・
 私は,これでもう,マーラーの魔術にすっかり参ってしまいました。

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 芸術の秋,食欲の秋-
 何度も書きますが,本当に今年の秋は気持ちがいい日々が続いています。夏が余りにひどすぎました。2023年10月30日,そんな秋の1日,稲沢市荻須記念美術館に行ってみました。毎年,この時期は何がしかの美術展が開催されているのです。
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 稲沢市荻須記念美術館は,1983年(昭和58年)に開館した荻須高徳さんの個人美術館です。建物は稲沢公園に隣接していて,緑多いしずかな場所です。建物のなかには展示室のほかに荻須高徳さんがパリで使用していたアトリエを復元した部屋があって,一般に公開されています。
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 今年開催されていたのは,「長谷川潔展-京都国立近代美術館コレクション-」でした。
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 長谷川潔さんは,1891年に生まれ,1980年に亡くなった版画家で,1901年に生まれ,1986年に亡くなった荻須高徳さんと同時期にパリに滞在し,フランス文化勲章を受章するなど高い評価を受けました。
 西洋の版画技法を学び取るだけではなく,現在でも再現が難しい特殊な版画技法を次々と生み出し,その卓越した才能は早くからフランス画壇で大きな注目を集めました。
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 この展覧会では,京都国立近代美術館所蔵の版画62点と油彩画4点が展示されていました。
 また,併せて,常設展示室で「荻須高徳展・画業の変遷を辿る-新収蔵作品と主要展覧会出品作を中心に- 」が開催されていて,このふたりの芸術家の生きた時代と価値観がわかるようになっていました。

 美術館で静かな時間を過ごしたら,小腹が減ってきました。この美術館にはカフェがないのが残念ですが,その代わり,道を隔てて「カフェタナカ」があって,ここでは,今回の展覧会にちなんで,展示中の「狐と葡萄(ラ・フォンテーヌ寓話)」(Le renard et les raisins(Fables de La Fontaine))から着想を得たという宝石のような葡萄のスイーツ「シャインマスカットのスペシャルショート」があるというので,食してきました。
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 「ラ・フォンテーヌ寓話」は,イソップ童話を下敷きに,17世紀,詩人ラ・フォンテーヌがルイ14世の6歳の王太子に捧げたといわれる寓話集で,無知な友より賢明な敵のほうがまし,遠くから見ればたいした人物だが近くから見るとろくでもないといった,寓話集から引き出した含蓄ある教訓話が42編収められています。
 イソップ寓話の「狐と蒲萄」では,熟したブドウを見つけたキツネが跳び上がって取ろうとするがどうしても届かないので「どうせまだ酸っぱいブドウだろう」と捨てぜりふを吐いて去るといった,負け惜しみは見苦しいという教えですが,ラ・フォンテーヌ寓話では,愚痴をこぼすよりもましなことを言ったではないかとキツネの態度を肯定し,手が届かない富や地位をうらやむのは愚の骨頂という異なる教訓になっています。
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 なお,日本には坪田譲治さんの書いた「きつねとぶどう」という絵本があって,こちらは自分の子ども(=子ぎつね)を守るために,母きつねが自分の身を挺して守り抜いたというまったく別の話です。
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 子ぎつねを守るため,危険を知らせるため大きな声で鳴いて知らせてその結果猟師に見つかってしまいます。子ぎつねは母さんを亡くしてしまいますが,山の中で無事成長し,あるとき,出会ったぶどうがお母さんきつねが残したものだと気づき,母親の愛情を思い出します。
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 このふたつを区別するためなのか,前者の「狐と蒲萄」の話を「すっぱい蒲萄」という邦題にしていることもあり,余計にわけがわからなくなっています。

 私は,絵画や版画は雰囲気以外のことはよくわからねど,スイーツのおいしさは理解できました。よい時を過ごしました。

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 2023年10月14日に行われる予定だったNHK交響楽団10月Aプログラムが中止になりました。そろそろ「お元気に来日されました」というニュースがあるころだなあ,とこころ待ちにしていたところに飛び込んできた速報でした。
 2023年9月のNHK交響楽団の機関紙「フィルハーモニー」によると,マエストロ・ブロムシュテット(Herbert Blomstedt)に「N響100周年(2026年)を一緒にお祝いしたい」と言ったら「ウィーン・フィルとは,私の120歳のバースデー・コンサートを開く約束をしている」と述べたということだったので,今年もまた,お元気な姿を見ることができると楽しみにしていた桂冠名誉指揮者ヘルベルト・ブロムシュテットさんの10月の定期公演でしたが,残念ながら,健康上の理由で来日がかないませんでした。
 昨年は思わぬアクシデントがあって,直前に予定されていたヨーロッパでの公演が軒並みキャンセルになったことで来日が危ぶまれ,大変心配しましたが,無事,来日を果たし,マーラーの交響曲第9番を指揮されました。私には,忘れられないコンサートになりました。このときのコンサートはかなり衝撃的なものでしたが,この偉大なマエストロに悲劇性はふさわしくありません。その後はみるみる健康を取り戻し,明るく,さわやかなマエストロの姿に戻っていました。

 中止になってしまった今年の曲目は,ブルックナーの交響曲の中でも最高傑作とされる交響曲第5番でした。
 ブルックナーの交響曲第5番は,「対位法上の傑作」であるとともに,複数の主題を伸縮自在に組み合わせるポリフォニーの技術が駆使されていて,特に,第1楽章や第4楽章の展開部,第4楽章のフーガなど,その荘厳な響きに魅了されます。ブルックナーの交響曲は,オーストリアの雄大な大地を想像させるのですが,第5番はそれとは少し異質で,この長大な交響曲では,複数の旋律を重ね合わせ,そのおのおのの特徴を生かして調和させていきながら,音楽の中にヨーロッパの大寺院を思わせる壮大な音の建築物を出現させているものです。
 「レンガを一枚一枚ていねいにに積み重ねていくかのよう」と表現されるマエストロ・ブロムシュテットにとって,まさに,ブルックナー,特に第5番の交響曲はふさわしいものであり,それを味わうことができる喜びは,ほかの何ものにも代えがたい経験となるはずでした。しかし,聴くのもたいへんな大曲が無事に指揮できるのかという心配もありました。それもこれも,かなわぬこととなってしまいました。

 私は,これまでも,桂冠名誉指揮者だったヴォルフガング・サヴァリッシュさん(Wolfgang Sawallisch)のキャンセルとなった最後の定期公演,エフゲニー・フョードロヴィチ・スヴェトラーノフさん(Yevgeny Fyodorovich Svetlanov)が指揮をする予定だった最後の定期公演などのチケットを持っていたのですが,そのいずれも,代役が指揮をしました。今回は直前のキャンセルだったために代役もなく中止となってしまったのですが,コロナ禍のときのさまざまなコンサートでも痛感しましたが,私は,オーケストラのコンサートに指揮者の代役はふさわしいものではないと思っています。その指揮者だからこそ,聴きに行くからです。
 それよりも,どうかお元気になられて,再び,日本でその姿を見せていただけるようにこころから祈っています。

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