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 今日の写真は,飛行機の機内から見た冬のシベリア,荒涼たる大地です。
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  司馬遼太郎さんが書いた「ロシアについて -北方の原形-」という本があります。現在は文春文庫で読むことができます。
 日本の歴史に造詣の深い司馬遼太郎さんが外国のことを書いたものは珍しいのですが,「坂の上の雲」で日露戦争を,「菜の花の沖」で高田屋嘉兵衛を通して日露交渉を描いことで,日本と関わりのある隣国ロシアについて考えざるを得なかったのでしょう。
 この本を読みながら,面積だけが巨大な,近くて遠いロシアという国の,現在の時代錯誤の他国への侵略の意味を考えてみました。
 一部,「ロシアについて -北方の原形-」から引用します。
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 別にロシアそのものを考える義務をだれから負わされたわけでもないのに,ロシアが関係するふたつの作品,「坂の上の雲」と「菜の花の沖」を書くために,十数年もロシアについて考え込むはめになった。 そのことは,私の年齢の40代と50代で終わったはずなのに,余熱がまだ冷えずにいる。
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 「ロシアについて -北方の原形-」の冒頭では,被害者としてのロシアが描かれています。
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 ロシア人は国家を遅くもった。
 ロシアにおいて,国家という広域社会を建設されることが,人類の他の文明圏よりもはるかに遅れた理由のひとつは,たとえば,遊牧民族・フン族や中国で蠕蠕とよばれたアヴァール人のような強悍なアジア系遊牧民族が東からつぎつきにロシア平原にやってきては,わずかな農業社会の文化であるとそれを荒らし続けた、ということがある。
 ロシア人の成立は外からの恐怖を除いて考えられないといっていいだろう。
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 司馬良太郎さんは,ロシアが周りの国々から侵略され続けた歴史を振り返るのです。
 4世紀から6世紀まで,強悍なアジア系遊牧民族が中国周辺において活躍し,やがて,西方に大移動し,ロシア平原に出現します。このときには,まだ,ロシア人による国家はなく,スラヴ人系の農民が散在するような小さな社会を作って,平原の原野を耕作していました。そこに,東から来た遊牧民族がスラブの社会をかき回し,その女たちを奪い多数の混血児をつくったのです。これが,ロシアやウクライナの遠い祖先です。

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 9世紀になって,やっとウクライナのキエフの地に,ロシア人の国家「キエフ国家」ができたことは,ロシア史を見る上で重要なことだと思う。しかし,キエフ国家は,ロシア人が自前につくったのではなく,国家をつくる能力のある海賊を稼業としていたスウェーデン人たちだった。
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 こうして,882年に,キエフ大公国が建国されました。
 キエフ大公国は,東スラヴ人,バルト人,フィンランド人が,リューリクによって創設されたリューリク朝の治世下で複数の公国が緩やかに連合していた国で,いまのウクライナ,ベラルーシ,ロシアの各国はいずれもキエフ大公国を文化的祖先としています。
 ところが,13世紀のはじめに,ロシア平原にチンギス汗が起こした大モンゴルがやってきました。大モンゴルは,農耕社会という定住文明に対する破壊者であり掠奪者でした。
 1227年,チンギス汗が亡くなった8年後,チンギス汗の孫のバトゥを総帥として,ヴォルガ川の流域 -ロシア平原- とその西方を征服するため派遣されました。当時,ロシア平原には都市ができつつあったのですが,その代表的な都市モスクワはモンゴル人によって破壊され,人々は虐殺されつくしました。そして,キプチャク汗国が建国されたのです。

 キプチャク汗国によって,キエフは陥落し,キエフ大公国は滅亡。以後,ロシアにおいて「タタールのくびき」(ロシア人などの祖先であるルーシ人の,2世紀半にわたるモンゴル=タタールへの臣従を意味するロシア史上の概念)といわれる暴力支配の時代が259年の長きにわたって続くことになります。
 キプチャク汗国の支配というのは「収奪」でした。キプチャク汗国の権力の実体は、すべて軍事力で,ロシア諸公国の首長を軍事力でおどし,隷従させ,彼らを通じ農民から税をしぼりあげるというものでした。キプチャク汗国がロシア農民に対して行った搾りあげはすさまじいもので,ロシア農民は半死半生になったといいます。
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 やがて,クリム汗国はイワン三世のロシアと共同でキプチャク汗国を攻め,1783年,エカテリーナ女帝のときに,ロシア帝国に併合されるかたちで,このチンギス汗の末裔の国は滅亡しました。
 こうして,武力のみが国家をた保つという物騒な思想を,ロシア帝国は,かつて自分たちを支配したキプチャク汗国から学び,引き継いだのです。そして,武力を失えば,クリム汗国のような最後をとげるという教訓を得ることになります。
 16世紀になって,はじめてロシアの大平原にロシア人による国ができましたが,その国家の作り方やあり方は,キプチャク汗国が影響します。
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 ①外敵への異様な恐怖心  ②病的な外国への猜疑心 ③潜在的な征服欲  ④火器への異常信仰    
 ロシアが支配する側に回り国家体制を構築したとき,キプチャク汗国の支配と強烈な被支配の長い体験から生まれたこれらの思想がロシアという国の骨髄まで沁みわたる原風景。
 これが司馬遼太郎さんの考えたロシアという国の姿です。

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