しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:「不良老人」のたわごと

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【Summary】
In 2025, Japan's university entrance exam introduced the "Information" subject, featuring a programming question on identifying the member with the smallest value. The issue lay in oversimplified assumptions, reducing the challenge to comprehension over programming. The author critiques the limitations of multiple-choice tests, emphasizing the need for creative problem-solving skills in society, which future AI advancements might assess.

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 以前(2024年1月13日),大学入学共通テストに加わった新しい教科「情報」について書きました。
 2025年1月18日,1月19日に大学入学共通テストが実施され,2日目にはじめての「情報」のテストが行われたので,出題された問題を見てみました。
 その第3問がプログラミングに関する問題でした。
 問題は公表されているのでそれを見ていただくことにして,ここでは,要点だけを載せます。そして,予想通り,DNCL言語の穴埋め問題でした。今日は,私が,この問題で提示されたDNCLを Rythonでプログラミングをしてみたので,そのプログラムと出力結果を載せることにします。

 報道されている講評では,プログラミングというよりも読解力次第だったと書かれていましたが,講評どおり,問題内容を理解することが難しいとすれば,それは,むしろ,出題者側の責任です。「情報」では,情報をわかりやすく発信できるようにするというのが教科のねらいだからです。
 さて,そんな皮肉はともかく,今回の問題の趣旨は
  ・・・・・・
 部員1から部員Nまで部員がN人いて,仕事が空いている部員に工芸品の制作を担当させるプログラムを作る,というものですが,要するに,これは,1からNまでの部員それぞれに,ある数値を与えたとき,最も小さい数値である部員はだれか? 
  ・・・・・・
を調べるという問題に帰着します。
 例えば,部員1から部員6まで6人の部員がいて
  部員 1  2  3  4  5  6
  数値 6  2  3  5  1  4
だったとしたとき,最も小さい数値である「1」をもつのが「部員5」だということを導くプログラミングを作るということになります。
 やり方のアルゴリズムは
  ・・・・・・
 ①まず,部員1の数値が最小だと決める。
 ②次に,部員1と部員2を比べて,数値が小さいほうを最小と決める。
 ③②で最小と決めた部員と部員3を比べて,数値が小さいほうを最小と決める。
 ④③で最小と決めた部員と部員4を比べて,数値が小さいほうを最小と決める。
 これを,部員6まで繰り返す
  ・・・・・
ということになります。
 これを,部員がN人いたときは部員Nまで同じことを繰り返すだけなので,アルゴリズムに汎用性が保たれるのです。

 しかし,残念なことに,この問題では,部員は3人しか想定していないので,この問題の趣旨が生かされておらず,このアルゴリズムを理解していなくても,問題は解けてしまうことにあります。ならば,この問題で正解できた生徒が,プログラムが作れるか? というと大いに疑問が残ります。
 プログラミングに限らず,たとえば,英語の和文英訳にせよ,数学の証明にせよ,作者の意図に沿って半分完成した状態を提示して,残りの部分を穴埋め問題にして正解を探す,というテストにどれだけ意味があるのかな? と私はいつも思います。
 プログラミングにせよ,英作文にせよ,証明にせよ,無から完成させなければ,何もできないのに等しいのです。そこで,これがマークシートで行うテストの限界であって,したがって,マークシートで成績を競うことの危険性となります。今の社会に必要なのは無から何かを作り出せる力を持っている人材であって,他人の意図に従って誘導されて,未完成な部分の穴埋めができるような人材ではないと思うのです。
 しかし,憂えることもありますまい。おそらく,近い将来,人口知能の発達によって,無から完成させたものを評定できるようになる日がやってくることでしょう。

スクリーンショット 2025-01-25 163014 プログラム 出力結果


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 近ごろ,新幹線や長距離バスで,隣の席に人が座るのが嫌な人は,はじめに隣の座席も含めて2席予約して,直前になって必要のないほうの席をキャンセルする,ということが横行しているという話を聞きました。私は,そういうことをしたことはないのですが,気持ちがわからなくもありません。
 ということですが,私も人混みが嫌いなので,新幹線に乗るとき,グリーン車を利用しています。というか,していました。しかし,高いお金をかけて乗ったグリーン車がつねに快適化といえば,そんなこともなく,むしろ普通車のほうが快適ではないか,と思うようになりました。旅を快適にするのにお金をかければいい,というものではないのです。
 では,私が経験した不快な体験を紹介しましょう。
  ・・
●ゴミを散らかし放題にするカップル
 私が座っている席の通路を隔てた向こう側の席に,カップルが座っていました。
 この人たちは,乗ってから降りるまで,ビールを飲みながらつまみをおいしそうに食べていました。そして,空き缶もつまみの袋も,そのまま,汚せるだけ汚し,食い散らかして,もちろんリクライニングを戻すこともなく下車していきました。
 彼らが下車したあとのとんでもない惨状はいうまでもありません。通りかかった車掌さんは助けをよんでそれを掃除するのに大騒動でした。
 グリーン車に乗っているからといって,マナーがいいとは限りません。
  ・・
●乗ってから降りるまでずっと化粧をし続けていた女性
 東京へ行こうと私が名古屋で乗り込んだとき,すでにいましたから,大阪か京都で乗り込んだものと思えますが,その女性は私の斜め前にいたので,私はずっとその存在が気になりはじめました。
 というのも,その女性は,大きなキャリーバッグを持っていて,その中に入っていたのが数々の,私にはよくわからない化粧道具一式でした。そして,出てくるわ出てくるわ…。で,東京駅に着くまでずっと化粧をし続けていたのです。
 しかし,それは,化粧というよりも,私には,顔をキャンパスにして油絵を描いているように見えました。降りるときにちらりと見たその顔は,まさにお化けに見えました。
 私が不愉快だったのは,何度も何度も髪をといていたことです。おそらく,座席の周りには髪の毛がいっぱい落ちていたことでしょう。お気の毒な話ですが,おそらく彼女は「メイク依存症」という精神病だったのでしょう。近ごろは「マスク依存症」という病気にかかっている人も多くいますけれど…。
  ・・
●空いた席がいくらでもあるのに,わざわざ隣に座る男性
 混んでるときならともかく,いくらでもほかに空いた席があるのにもかかわらず,わざわざ隣の通路側を取って座る男性がたまに存在します。隣の私が老人の男性で残念でしたね,と思ってしまうのですが,こういう人はどういう思考をしているのだろうと,私には理解ができかねます。
 駐車場で,車を停める場所がいくらでも空いているのに,停まっている車の隣にわざわざ停める人もいます。こういう人を「トナラー」というそうですが,とんだ下心があるのかもしれません。私が若い女性だったら嫌だな。
  ・・・・・・
 認知の特性で,そうした概念が希薄な人が10人にひとりくらいはいます。その人たちは何の悪気もなく,自身のこだわりで席を選んでいるのだと思います。
 悪気も何もないんです。電車ならここ,バスならここ,よく行くカフェならここ,と気に入っている席があります。空いていれば周りの状況にかかわらずそこに座りたいし,埋まっていても座りたい。全体がどのくらい空いているかより,自分の座りたい席の周辺だけに意識が向いているのです。
  ・・・・・・
だそうです。

 ということで,こんな人たちがいるのでは,別料金を払ってまでグリーン車に乗る意味がありません。むしろ,空いているときなら,普通車の自由席で,自分の気に入った席に座ったほうがずっと快適だと思ってしまうようになりました。
 ところで,東海道新幹線にはありませんが,東北・北海道新幹線や上越新幹線,北陸新幹線には「グランクラス」(Gran Class)があります。旅客機でいうファーストクラスのようなものです。確かに,旅客機のファーストクラスは快適ですが,たかが2時間程度の日本国内の列車の旅で,これは大げさな,と私は思ってしまいます。おそらく,有名人が一般の人から目を遠ざけるためにこの席を選ぶのでしょう。
 考え方は人それぞれですが,いずれにしても,列車の旅では,同じ車両に不快な人がひとりでもいれば,どんなに豪華な座席であっても,すべては台なしです。

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 「オワコン」とは「終わったコンテンツ」を略したことばで「おわコン」や「終わコン」とも表記されます。世間的にもう飽きられている,流行が過ぎているなど「よい時期が終わった」と見なされた情報やコンテンツを指します。

 私はこれまで日本の鉄道にはほとんど興味がありませんでした。新幹線に乗ることもほとんどありませんでした。それが近ごろ,コロナ禍のおかげで国内旅行に目が向き,かつ,ジパング倶楽部を利用して多くの列車に乗るようになってきたら,日本の鉄道の現状に目覚めました。
 そして,さまざまな不便な点が目につくようになって,いったい何をやっているのやら? と思うようになってきました。
 それぞれの地元の要望や,それを伝える人たちのその多くは利権がらみだし,国全体を見まわせる人もなく,また,利権に関係なく判断できる人もなく,という状況で,新たに新幹線が作られたり,あるいは,在来線が廃止されています。今日は,その中で新幹線について取り上げます。
  ・・
●北海道新幹線
 函館北斗駅までが開業していますが,函館北斗駅は札幌に行くにも函館に行くにも便利でなく,北海道に行くには,飛行機のほうが便利です。観光客が北海道新幹線に乗りたいと思う目的は,青函トンネルを越えてみたい,ということくらいでしょう。
 現在,函館北斗駅から札幌駅までが工事中ですが,渡島トンネルでは1か月で10メートルほどしか掘削できず,羊蹄トンネルでは巨大な岩が発見され工期が止まり,札樽トンネルでは泥土の漏出事故が多発というように,開業時期が見通せない状況で,今では2040年ごろまでずれ込むのではではないかとさえいわれている状況です。
 たとえ札幌駅まで開通したとしても,東京以西の人が札幌に行くなら,やはり飛行機のほうが便利だし安価です。これほど巨額なお金を投じて困難な工事をし,青函トンネルの維持に莫大な維持費をかけてまで札幌駅まで新幹線をつなげる意味があまりないように感じます。とはいえ,青函トンネルはすでにできてしまっているから,函館駅までつなげてそこで終了し,函館駅から札幌駅を経由して旭川駅までいく在来線の特急を走らせるほうがよいように私は感じます。
  ・・
●秋田新幹線と山形新幹線
 ミニ新幹線とよばれるものですが,ミニ新幹線は在来線の線路幅を広げただけだから最高速度が時速130キロメートル。これではあまり意味がないように思います。
 そんなことなら,福島駅から山形駅,新庄駅,大曲駅を終点とする在来線の特急と,盛岡駅から大曲駅を経由して秋田駅まで行く在来線の特急があればそれで十分だと思います。これが山形県へ行ったときに私が感じたことです。
  ・・
●北陸新幹線
 現在は敦賀駅までつながっています。敦賀駅から新大阪駅までどのような経路をとるか,一応結論は出ているのですが,工事がはじまっておらず,いまだにもめています。こんな状況ではいつできるものやら…。
 以前は,大阪駅からは「サンダーバード」,名古屋駅からは「しらさぎ」という在来線の特急に乗れば乗り換えなしで金沢駅まで行くことができたものが,北陸新幹線の開業で敦賀駅止まりとなってしまい,めんどうな乗り換えが必要で,むしろ不便になりました。北陸新幹線は金沢駅までで終了でよかった,と多くの人が言っています。
 北陸新幹線が現在決まっているルートで延長するのを最も望んているのは小浜市です。
 現在,小浜市は京都や大阪に行くのにとても不便です。距離的には近いのに,路線がないからです。そこで,新幹線さえできれは京都や大阪に行くのに便利になる,という理屈はわかりますが,在来線すら走っていないというのは,工事が大変だったからでしょう。そのルートに新幹線を走らせようというのだから,かなりの無理筋です。また,果たして,できたとしてどれだけの需要があるというのでしょう。
 さらに,小浜駅から西に延長する山陰新幹線,などという夢物語もありますが,需要がありません。
  ・・
●西九州新幹線
 武雄温泉駅から長崎駅までという短距離の新幹線です。いったいだれが乗るのかな,と思ってしまいます。
 九州新幹線と接続する計画なのでしょうが,これもまた,いつできるものやら…。現在は「リレーかもめ」という列車が武雄温泉から博多駅まで走っているようですが,そんなことなら,西九州新幹線のかわりに同じルートで在来線を作ったほうが便利だったような気がします。
  ・・
●リニア新幹線
 作りはじめてしまったリニア新幹線ですが,これもまた,いつ完成するのやら…。
 現在の東海道新幹線の混雑状況を考えれば,第2新幹線は必要なのでしょうが,計画したルートが無理筋すぎます。おそらく,走るようになっても,とても運賃が高くなると思うし,ずっとトンネルばかりの路線では,乗ることができる人や乗りたい人は限られるでしょう。
 私は,むしろ,現在の東海道新幹線とどう折り合いをつけるかのほうに興味があります。

 これらのどれも,開通するのは早くて10年後のことでしょうが,このように,どれも工事中のものばかりで,果たして計画どおり完成するかのほうが心配です。
 自分勝手な話にするなら,今から10年先なんて,もう,旅をするような年齢ではないから,私にはどうでもいいことに思えますけれど,少子高齢化で若者が減り,地方が過疎化している中で,こうしたインフラを作ることは,今の若い人たちに大きな負担となって残るような気がします。
 東海道沿線に住んでいると,東海道新幹線は3分ごとに運行しているような状況だから,どの新幹線も同じような気がしますが,北陸新幹線なんて,地方の在来線と同じように,現在でも1時間に2本程度の運行です。あと50年もすれば,利用者が少ないからということで真っ先に廃線の対象となって,現在の地方の鉄道の置かれた問題の二の舞になっているような気がしないでもありません。

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 今日は旧暦7月15日,月齢14です。写真は,昨晩写した月齢13の美しい月です。
 「毎日が日曜日」の私は,普段でも土曜日と日曜日は必要がない限り外出しません。さらに,お正月とゴールデンウィークとお盆休みは最悪で,この長い期間,街や旅行先には人があふれるので,家で過ごし,ひたすら我慢の日々が続きます。
 今年2024年は,神の怒りに触れたのか,1月1日に能登半島地震が起き,さらに8月8日には宮崎県で震度6弱の地震が起き,これが南海トラフ地震の想定震源域ということで「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)」を発令したことで,お盆休みの1週間交通機関が乱れました。それに加えて,8月16日には台風7号が接近するということで,早々と前日に東海道新幹線は東京と名古屋の間で運転を取りやめると決定しました。

 杞憂ということばがあります。
  ・・・・・・
 杞國,有人憂天地崩墜,
 身亡所寄,廢寢食者。
 又有憂彼之所憂者。
 因徃曉之曰,
 天積氣耳,亡處亡氣。
 若屈伸呼吸,終日在天中行止。奈何憂崩墜乎。
 其人曰,天果積氣, 日月星宿不當墜耶。
 曉之者曰, 日月星宿亦積氣中之有光耀者。
 只使墜,亦不能有所中傷。
 其人曰,奈地壞何。
 曉者曰,地積塊耳。
 充塞四虚,亡處亡塊。
 若躇歩跐蹈,終日在地上行止。
 奈何憂其壞。
 其人舍然大喜,
 曉之者亦舍然大喜。
  ・・
 杞(き)の国に,人の天地の崩墜(ほうつい)して,
 身寄する所亡きを憂え, 寝食(しんしょく)を廃する者有り。
 又彼の憂うる所を憂うる者有り。
 因(よ)って往(ゆ)きて之を暁(さと)して曰く,
 天は積気(せっき)のみ,処(ところ)として気亡きは亡し。
 屈伸(くっしん)呼吸(こきゅう)の若きは,
 終日(しゅうじつ)天中(てんちゅう)に在りて行止(こうし)す。
 奈何(いかん)ぞ崩墜(ほうつい)を憂えんやと。
 其の人曰く,天果たして積気(せっき)ならば,
 日月(じつげつ)星宿(せいしゅく)は当(まさ)に墜(お)つべからざるかと。
 之を暁(さと)す者曰く,
 日月(じつげつ)星宿(せいしゅく)も亦(また)
 積気中(せっきちゅう)の光耀(こうよう)有る者なり。
 只(たとい)墜(お)ちしむるも,
 亦(また)中(あた)り傷(やぶ)る所有る能(あた)わじと。
 其の人曰く,地の壊(くず)るるを奈何(いかん)せんと。
 暁(さと)す者曰く,地は積塊(せっかい)のみ。
 四虚(しきょ)に充塞(じゅうそく)し,
 処(ところ)として塊(かたまり)亡きは亡し。
 躇歩(ちょほ)跐蹈(しとう)するが若(ごと)きは,
 終日(しゅうじつ)地上に在(あ)りて行止(こうし)す。
 奈何(いかん)ぞ其の壊(くず)るるを憂(うれ)えんと。
 其の人舎然(せきぜん)として大いに喜び,
 之(これ)を暁(さと)す者も亦(また)
 舎然(せきぜん)として大いに喜ぶ。
  ・・ 
 杞国(周の時代に河南省開封の近くにあった国)にある人がいた。
 その人は,もしも,天地が崩壊したならば,
 身の寄せ所がなくなってしまうと,
 そればかりが心配で夜の目も見ず,飯ものどを通らなかった。
 一方その人の心配しているのを心配する人があった。
 そこで出かけていって言いきかせたのである。
 「天は空気が積もっただけなんだ。
 空気のない所なんてありゃしないよ。
 からだの屈げ伸ばしだっていつも天の中でやってるんだから,
 どうして天が崩れ落ちるなんて心配するんだね?」
 「天がほんとに空気の積もったもんなら,
 日月宿星なんて, 落ちてくるんじゃないかね?」
 「日月宿星というものもやはり,
 積もった空気の中を輝いているもので,
 落ちてきたにしても, 中って怪我をさせることなんかないよ」
 「どうして大地は壊れないんだね?」
 「大地は土くれが積もっただけなんだ。
 それが四方にみちみちて,
 土くれのない所なんかない。
 とんだってはねたって, いつも地上でやっているじゃないか。
 なぜ大地が壊れるのを心配するのかね?」
 そこで,はじめに心配していた人は胸がさっぱりしてたいそう喜び,
 言いきかせた方の人も気がはれて非常に喜んだ。
  ・・・・・・

 私は,コロナ禍のときに,人間は,ほとんどのことをわかっていない,と改めて認識しました。だから,専門家は,わかっていることとわからないことをきちんとわけて説明すればいいものを,プライドがじゃまをするのか,あるいは,名を売りたいのか,はたまた,責任を回避したいのか,自分の憶測というか,単なる感想まで交えて,さも学説かのように説明し,それを,物わかりのいい庶民は,専門家という人が言うのだからとそれを信じてしまうのです。だから,何ごとも自分で考えない愚かな人は「マスク依存症」という精神病にかかってしまい,この暑い夏になっても,未だに,何のためにやっているのかもわからねど,不織布という接着剤まみれの発がん性すらあるかもしれないマスクをしていたりするわけです。
 口につけるものだから,もっとも清潔でないければならないのに,不織布を接着剤で固めたマスクと称するものの微成分を,呼吸をすることで気管支を通って絶えず体内に吸収しているのです。ましてや,色のついたマスクなど,その得体のしれない色素までも吸い込んでいるのです。熱中症の心配もあり,害以外のなにものでもありません。
 薬は病気のときに飲むもので,健康なときに飲めば毒なのです。マスクもそれと同じです。
 さて,このごろは,起きるかもしれない,ということだけで,必要以上に警戒して,交通機関が事前に止まってしまったりします。しかし,自然災害のほとんどは,というか,すべては,予測しないときに起きています。
 起きるかもしれないということだけで新幹線を徐行運転するのなら,自然災害はいつ起きるかわからないから,それに備えて,常に徐行しなけばなりません。実際は,そういった自然災害が起きたときでも安全であるようにに設計されているのではないでしょうか?
 むしろ,起きるかもしれないからという杞憂よりも,万一,突発的な自然災害が起きたときにいかに対処するか,また,起きたときに対処できるように,日頃から安全策を講じだり設備投資をしたりや訓練をすべきではないのでしょうか。そういうことを軽視して,きちんとした安全対策を講じてこなかったゆえに,東日本大震災では堤防を越えて津波によって多くの人が犠牲となり原子力発電所が悲惨なことになってしまったのです。


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 今日2024年1月13日と翌日の1月14日は大学入学共通テストだそうです。
 今年は,元日から大きな地震があって,被災した地方の受験生は気の毒です。このような状況で,全国の高校生を一律に点数を比べるのはどうかと思いますが,このことに限らず,私は,日本各地を旅してみて,様々なことが全国一律に課せられていることに,疑問をもつようになりました。受験の場合でも,東京に比べて離島などに住む高校生は,受験会場に行くだけでも大変だし,学習環境が違い過ぎて,そのハンディが大きいのです。
 首都だけが発展している国は独裁国家と発展途上国の特徴だと聞いたことがあります。

 さて,ここからが今日の話題です。
 来年度の大学入学共通テストから,「情報」という教科も必須科目として課せられることになったようです。そこで,これまでは冷遇され,相手にもされていなかった「情報」という教科がにわかに話題となり,「情報」ではプログラムを学習しているから,これを身につける必要があるということで,受験産業はこれもまたビジネスチャンスだとばかりにプログラム塾を作ったり,また,コピュータに疎い親たちはパニックになったりしました。
 「情報」ではどんな問題が出題されるのか調べてみると,「情報」の大学入学共通テストの試行問題というものがネット上にあることを知りました。そして,私がそこで知ったのが「DNCL」なるものの存在でした。
 ・・・・・・
 「DNCL」とは,大学入学共通テストの問題で出題されるアルゴリ ズムを記述するために考案された仮想言語です,仕様や構文がシンプルで,C言語などを理解している生徒はプログラムを読めるように設計されています。「DNCL」は動的型つけ言語で,変数には型がありません。
  ・・・・・・
だそうです。
 コンピュータ言語といってもいろいろあるから,どれかの言語に特化してしまうとハンディができるので,大学入学共通テストのみで通用する独自のコンピュータ言語を考案したというわけです。
 「DNCL」とは「大学入試センターランゲージ」の頭文字なのです。
 しかし,「DNCL」では,実際のコンピュータは動きません。他の言語を知っていれば大丈夫というふれこみで,実際,確かにそうなのですが,プログラミングの得意な生徒ならともかく,不得手な生徒にそのような理想的な考えは通用しません。
 そこで,テストで点数を取るためだけに,「DNCL」の特訓が企てられるのです。高等学校で使用する「情報」の問題集にはすでに「DNCL準拠」と書かれてあるし,予備校では「DNCL」がコンピュータ上で動くコンパイラが開発されるし,高等学校では「DNCL」を意識した受験英語ならぬ,受験プログラミング指導がはじまるのです。
 それは,どういうことかというと,たとえば,外国語という入試科目において,世界には様々な言語があるから,何かひとつの言語に特化していしまうと他の言語を学んだ人が不利になるから「大学入試センター外国語」を作っちゃえ,というようなものと同じです。
 英語の試験に資格試験を導入しようとして頓挫したように,数学の試験に記述問題を導入しようとして失敗したように,一体全体,この国は,いつも,何がしたいのでしょう? 結局は,受験産業の金儲けに利用されているだけで,犠牲者はいつも受験生です。

 現在,受験英語とか受験数学と揶揄されてはいても,一応は役に立ちます。しかし,「DNCL」はそうではありません。プログラミングをマスターした生徒は「DNCL」が理解できても,「DNCL」をマスターした生徒はプログラミングができません。紙の鍵盤でいくら練習してもピアノが弾けるようにはならないのと同じです。
 これでまた,受験英語とか受験数学に加え,受験情報という教科が誕生したことになります。コンピュータ嫌いが加速することでしょう。
 今や,AGIの発達とChatGPTの時代。学校教育では,これらの使用や指導を禁止するのではなく,これらを有効に使えるようにしなければ,社会に出てから役に立ちません。
 「情報」という教科でそんな使えもしない言語をごちゃごちゃ指導しているくらいなら,将来,コンピュータを仕事で使う必要のある若者は,Pythonひとつきちんとマスターするほうがずっと有益でしょう。しかし,車の運転ができないと困るといっても,ミッション車で車の運手ができなければならない必要はない,というのと同じで,すべての高校生がコンピュータプログラミングができるようにと課す必要が果たしてあるのか,ということが先に議論されるべきでしょう。「情報」で何を教えるのか,技術の発達の方が早すぎて,すでに迷走状態に入っています。


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 以下は,大学入学共通テスト試行問題で出題されたプログラミング問題とそれにかかわる「DNCL」,そして,最後に,私が「DNCL」をVBAとPythonで書き直したものです。

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 歳をとって,私のように,何の不安も不満もなく,好きなことをして生きていると,50歳を過ぎても,まだ,責任を背負って生きている人を気の毒に思ってしまいます。

 宇宙が創成して13,800,000,000年,地球が生まれて4,600,000,000年であり,その長い時間の中で,人類が文化をもってからはわずか3,000年です。それは,恐竜が地球上に繁栄していた150,000,000年のわずか50,000分の1でしかありません。
 そして,人の一生はたかだか80年。
 しかも,地球上の7,900,000,000人もいる人類の中のほんの数人の,まさに悪性の腫瘍のような人物の傍若無人な行いで,もう間もなく人類は滅ぼうとしています。
 しかし,人類が滅んでも地球は残ります。そして,再び,新たな人類が出現するかもしれません。もしそうなったとき,地球の歴史の中で,今の人類というものが存在したのは,そのわずか100,000分の1の一瞬の出来事だったことになるかもしれません。

 少し話題が逸れますが,地球以外の天体に知的生物がいるかもしれないと,天文学者が探していますが,もし,そういった天体があったとしても,その天体に知的生物が存在しうる期間は,その天体の長い歴史の中のわずかな期間に過ぎないわけで,そのわずか期間に遭遇する確率ははるかに小さいのではないか,と私は思います。
 その反対に,地球以外の知的生物がいて,知的生物を探しに地球にたどりついたことがあったとしても,地球上に人類が存在している(た)期間はほんのわずかなものだから,その時に人類と遭遇する(した)可能性なんてほどんどないのです。

 話を戻します。
 そんな小さな小さな存在でしかない人類。
 その中で,個人個人は,自分の意思とは無関係に生まれてしまったわけですが,生まれてしまった以上,自分が生きる目的やら意義を,何とか理屈をつけて,でないと,むなしいだけだから,生きてるわけです。ただそれだけのことです。
 だから,人に勝とうだとか,人の上に立ちたいだとか,高級な車に乗りたいだとか,大きな家に住みたいだとか,そんなものは所詮ははかないだけなのに,人は,生まれたときに,そうした「欲望」の「膿」をもつように,創造主は造ったのでしょう。そうした「膿」をたくさんもっているかどうか,それが,その人の人生をどれだけむなしいものにしているかどうかを決定づけているのです。
 宗教ではこれを「業」といいます。


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 歳をとると,日々健やかに憂いなく過ごしたいものです。その秘訣は,自分に要らない情報は一切耳に入れない,ということです。情報といっても,その多くは,というか,ほとんどは,人々を不安にして,その結果,モノを買わせるためにある,ということが目的であるといっても過言ではありません。
 ということで,これまで何度も書いているように,私は,新聞は購読をやめたし,テレビのニュースも見ません。たとえば,ミサイルが降ってこようと,そんなことは,自分に何かできるわけではないのです。また,芸能人が何かしようと,関係のないことです。知る必要がある情報は,台風が来るとか地震が起きた,ということくらいのものです。

 そんな生活を続けていると,自分に必要な情報は何か,そして,それを不快なく手に入れるにはどうすればいいかという方法もわかってくるものです。その結果,私は,ニュース以外にもほとんどテレビを見なくなってしまいました。それでも,巷に出ると,病院の待合室などではテレビ放送がずっとついているころがあって迷惑します。そこで,見る気がなくても目に入ってくることがあるのですが,民放では,相変らず,無教養で不勉強なお笑いタレントが,単に受けを狙ってしゃべくっているだけなので,私には不快なものでしかありません。将棋で次の手を「指す」ではなく「打つ」と言ったり,ひどいものです。
 今も私が自分の意思で見る番組といえば,気に入ったシリーズだけ見るNHKの朝の連続テレビ小説と大河ドラマ,そして,クラシック音楽に旅番組とサイエンス番組くらいのものです。しかし,クラシック音楽は,実際にコンサートホールに行かないときは,テレビの映像で見るよりも,音としてラジオから聴くほうがはるかにいいことがわかりました。そこで,次第に,そのほとんどはNHKFM放送を聴くだけになりました。旅番組も,その多くは,すでに何度も取り上げられたものだし,私は,観光地というところにはあまり関心がないので,今見ているのは,火野正平さんが自転で走る「にっぽん縦断こころ旅」くらいのものとなりました。また,サイエンス番組は,その多くは内容に乏しく,知っていることばかりなので,唯一「コズミックフロント」を長年見ていたのですが,この番組は11月末で終了だそうです。

 そんな私なのですが,11月末で,NHKBSPがなくなってしまうのだそうです。そして,NHKは4K放送に力点を移すことにするそうです。しかし,今でもテレビをほとんど見ないのに,4K放送なんて,私にはまったく興味がありません。どんな鮮明な画像といったところで,見たい番組すらないのだから,必要がありません。そのようなわけで,一体全体,何を騒いでいるのか,まったく理解ができないわけです。
 それよりも,NHKはやたらとチャンネルばかりたくさんあっても,臨時ニュースでも入ると,すべてのチャンネルで同じ番組に切り替わってしまいます。どうしてそうするのか,その意味すらわかりません。BSしか写らず総合テレビが見られない,とか,総合テレビは見えてもEテレが見られない,なんていうことがあるのでしょうか? また,スポーツ中継の途中,1時間ごとにニュースを挟んだり,こんなバカげたことに高額な受信料を払いたくないと思っています。もっとチャンネルごとに差別化して,総合テレビは報道番組だけにして,Eテレは教養番組,BSは音楽番組やドラマ,といったようにわけたほうがずっといいのに,と私は思います。そして,見たい番組だけ,あるいは,見たいチャンネルだけに課金すればいい。

 また,このごろは,NHKはテレビ画面にやたらとQRコードやら,意味のない字幕を画面に出しているのですが,あれもまた,不快なだけのものです。そんなものはまったく無意味です。というか,画面に余分なものをつけではいけません。実際にはないはずの,MLBでストライクゾーンが表示されたり,NFLでフィールドラインが表示されたりする,アメリカの悪しきテレビ中継をまねる必要などないのです。オプションでならともかく,真実を伝えるのが使命のテレビが,真実以外のものを消す方法もなく表示していはいかんのです。話はずれますが,先日,ある新聞に花火の写真が載っているとネット上で知りました。その写真は,いくつかの花火を合成した美しいものでした。しかし,真実を報道することが使命である新聞が,写真を画像処理なんてしちゃいかんだろう,と私は思いました。報道写真は芸術写真ではないのです。
 4Kだろうと8Kだろうと,百歩譲って,受信料と無関係ならば,好きにやってもらってかまいませんが,私が払ったお金でやるのなら御免です。そんなことよりも,新聞社の報道写真に限らず,NHKもまた,本質的に,テレビ画面の在り方というものについて,改めて勉強し直すことのほうが優先だろう,と私は思います。

無題


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 昔から,「裸を見られたらどこを隠すか?」という問いに対して「顔を隠す」というのがあります。つまり,それが誰だかわからない,ということが,自己を特定されない根本となるわけです。もっとも,近ごろは,顔全体を隠さなくても,口元さえ隠せば,だれなのかわからないということが明らかになったわけで,これがいわゆる「マスク美人」と揶揄されることです。…というのは,今日の本筋からはなれた余談です。
 と,ここまでは前置きで,近年,YouTubeの動画の中に,ディープフェイクを用いた画像が話題となっているというのが今日のお話です。

  ・・・・・・
 ディープフェイク(deepfake)とは,機械学習のひとつであるディープラーニングを使用して,ふたつの画像や動画の一部を結合させて,元とは異なる動画を作成する技術のことですが,巷では,現実の映像や音声,画像の一部を加工し,あたかも本物のように見せかけるフェイク動画を指しています。
  ・・・・・・
 魅力的な女性が出ているような動画があるのですが,実は,その女性というのは偽画像で,実物ではない,というものです。他人の体に有名人の顔を貼ってしまうのは犯罪ですが,その反対に,自分の体に,無名の人や作り物の顔を貼るのなら,もはや,たとえ裸を大衆にさらしたところで,他人には人物は特定できないから恥ずかしくなくなってしまいます。
 事実を伝えることを旨とする報道でこれを行ってはいけません。現在問題となっているのはこちらのほうで,いくらでもウソのニュースが作れてしまうのです。
 しかし,フィクションであれば,それは単に,アニメを実写のように置き換えたものとみなせるわけで,Vtubeと同じです。こうなると,変に顔を隠したりぼかしたりしてごまかしたり,音声合成ソフトで作られているYouTubeチャンネルよりも,見る側はずっと快適でしょうし,こうして作られた人物をアイドルとして売り出したところで,はじめからそう断ってあれば何ら問題はないと思われます。
 現在放映されているNHK大河ドラマ「どうする家康」の合戦シーンでも,バックの映像はコンピュータグラフィックだし,多くのテレビドラマや映画でも,グラフィックが使われています。
 出回っている多くの天体写真や風景写真も,それが赤外線で写したものか,紫外線で写したものかで画像は違うし,また,画像処理をしてしまえば,それが果たしてどこまで真実といえるのか? また,コンピュータグラフィックとしてのディープフェイクではなくとも,整形した女性は,真実を加工したものという意味では同じことです。

 このように,毎度のこと,コンピュータというだけで,ディープフェイクによる偽造が問題視されていますが,これまでだって,同じようなものでした。
 むしろ,ある種の思想教育のように,それが真実でなくても,真実であるように教え込ませることのほうが,ディープフェイクよりもずっと悪質でしょう。また,過去の文献やらから,現在はそれが正しいとされている歴史上の出来事なども,本当にそれが真実だったのかはわかりません。事実,私が子供のころに習った歴史で,今は正しくなかったとされることが少なくありません。
 また,テレビの報道番組に出てくる街頭インタビューでも,多くのインタビューから伝える側の意図に即したものだけをとりあげて編集して放送しているから,それが果たして真実といえるかどうかは,はなはだ疑問ですし,新聞でも,それを記事にするかどうかは編集者の意図が働いているわけだから,それもまた,真実といえるかどうか疑問が残ります。
 ここ数年,世の中で起きたコロナ禍でさまざまなに報道されたことの中にも,これと同じようなことが少なくありませんでした。正しいと学問的に証明されていないようなことすら大手を振ってまかり通ってきましたし,本当はよくわからないことのほうが多かったのです。
 そうしたとき,声が大きい人,権力のある人,専門家と称する人が,単に個人の意見として言ったことが真実としてまかり通っていたりするのです。

 若いころ,自分が実際に見ることができること以外は,すべて虚構なのではないか,と思ったことがあります。本当はニューヨークなんてこの世にはないけれど,あるように信じ込まされているだけの虚構であるとか,あるいは,自分の頭だけが作り上げた幻なのではないか? さらに,自分が実際に見ていることすら,実際は,頭のなかで組み立てただけの虚像ではないか?
 このごろは,昔の映像を見ても,そうした映像に出てくる人が今生きているかどうかもよくわからないし,もう亡くなった人の虚像を入れることだってできないことではないし…。
 そんなこともまた,以前,「Star Trek」でやっていたような。
 こうなると,自分が今生きていることすら,虚構ではないか,とさえ思えるようになってきました。
  ・・
 それにしても,近年のコンピュータ,特に人工知能の発達で,ディープフェイクのようなことが簡単にできるようになると,本当に,何が真実で何が真実でないのか,これまで以上にその境目がなくなってきてしまいます。これからの社会で生きていく若い人たちは,現実とは何か? 真実とは何か? そうした重大な課題に,今まで以上に直面しているのかもしれません。


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 学校では,いつものことながら,何か新しいものがでてくると,まず「禁止」にします。
 私が若いころは,万年筆を使うと不良になるとか,腕時計を持っていると不良とかいって「禁止」,そういうことからはじまりました。だれしもが買えないものを学校へ持ってきて友達に見せびらかすな,ということが「禁止」につながるわけで,その趣旨はわからないでもなかったのですが,そのうち,時代が変わると,電卓使用「禁止」,電子辞書使用「禁止」,携帯電話「禁止」などなどと,同じことをくり返してきました。そして,いつのころからか,手のひらを反して,今度は学校が推奨しはじめたりするわけです。
 そして今は,「ChatGPT」使用「禁止」です。
 これもまた,使用したこともない人や,使いこなせない人たちが,正しい認識ももたずにそういうことを言い出して強制するのだから,滑稽でしかありません。そして,これもまた,いつものように,使用を奨励するようになったころにはすでに手遅れで,学校の指導に忠実に従って使いこなせない人たちだけが時代から取り残されていくのです。そして,いち早く使いこなせるようになっていた人だけが,生き残っていくのです。
 このように,教育というのは,本来,生きる力をつけることが目的であるはずなのに,生きる力を削ぐことに一生懸命だったりするのです。必要なのは,「禁止」することではなく,正しい使い方を教えることです。
 実際問題,建前はともかく,生徒がこっそりと「ChatGPT」を利用して作文を書いてきて,それをまた,教師が「ChatGPT」を使って「ChatGPT」を使っていないかをチェックしたり,採点をしたり,調査書の所見を「ChatGPT」を使って書いたり,記述式とやらを導入したい大学入試の採点に「ChatGPT」を導入したりすることでしょう。もはや,何が現実なのか虚構なのか,さっぱりわからないのです。愉快な話です。中身も実力もないのに肩書やら学歴やらで虚栄をはるブランド偏重時代の終焉です。
  ・・
 ということですが,私は,文章を書くのに「ChatGPT」の助けは必要とはしないので,実は,ほとんど使っていません。それよりも,むしろ,「ChatGPT」にはどんな「利点」があって,また,どんな「弊害」があるのかを知ることに関心があります。これは,将棋AIを媒体として,人工知能(=AI)について,どんな「利点」があって,また,どんな「弊害」があるのかに関心があるのと同様です。
 と,「不良老人」の私は,別に時代に遅れても何も困らないから鷹揚に構えていられるのですが,実社会では,有能な人たちはすでにビジネスでドンドンと「ChatGPT」を使いこなしはじめているから,これもまた,いつものことながら,日本は世界から遅れはじめています。

 さて,今日は,そんな「ChatGPT」に,文章の要約をしてもらうことにしました。
 だらだらと長い文章を読むのも時間のムダというものだし,多読家は斜め読みをするということですが,それでは,文章の論点を見つけるのもかなりの読解力が必要なので,「ChatGPT」に文章の要約を頼んだ方が,きっと正確なのでは? という考えから試してみることにしました。
 使い方は,まず,「ChatGPT」の入力画面に,「次の文章を要約してください」と打ち込んで,あとは,要約して欲しい文章を張りつけるだけです。
 選んだのは,昨日のこのブログの文章の一部分です。
  ・・・・・・
【もとの文章】
 コンサートマスター(concertmaster)は,オーケストラの各奏者を統率して,指揮者の意図を音楽に具現する役職で「第2の指揮者」ともいわれます。第1ヴァイオリンの首席奏者が務めます。
 実際,コンサートを聴きにいくと,よほど信頼された指揮者以外の場合,楽団員はコンサートマスターを見て演奏しているような気がします。一度,NHK交響楽団の定期公演で,指揮者のアシュケナージさんが指揮棒を手に刺してしまい指揮不可能となり,コンサートマスターの堀正文さんが,チャイコフスキーの交響曲第4番全曲を,演奏しながら指揮したというのを見たことがあるのですが,このときはすごいものだなあ,と思いました。それとともに,指揮者なんで要らないじやん,とも思いました。
 本当は,オーケストラはコンサートマスターの指示で演奏をしていて,指揮者はその音楽に合わせて踊っているだけのような…。そんな気がしないでもない。
 そんなコンサートマスターですが,いわば,それぞれのオーケストラの顔なので,その人材を探すのがたいへんそうです。
 私がよくわからないのは,コンサートマスターの肩書に,ソロコンサートマスター,プリンシパルコンサートマスター,第1コンサートマスターのように,様々なものがあることです。そして,その違いについて説明がされていることもまずないので,何が違うのか,客である私にはさっぱりわかりません。さらには,アシスタントコンサートマスター,副コンサートマスターなどというものもあります。これらは,コンサートマスターがふたり以上いたときにその格づけのため,さまままな飾りをつけているように思えます。プライドの高い人たちですから…。しかし,ソロコンサートマスターと第1コンサートマスターの違いなんて,わかりかねます。
 であっても,ここまでは,そのオーケストラの正式の団員ですから,まだなんとなく理解ができますが,客員コンサートマスター,特別客員コンサートマスター,ゲストコンサートマスター,アシスタントゲストコンサートマスタ-となると,??? という感じです。客員とかゲストとかいうのは,このオーケストラのコンサートマスターは大したことないから,別のオーケストラの立派なコンサートマスターを高いお金を出してよんできたよ,という気がしてしまいます。しかし,オーケストラの肝をお客さんで済ませてしまうのはダメでしょう。オーケストラの中心になる人は,きちんとこのオーケストラに所属している人であるほうが,オーケストラの音楽作りにはいいと私は思いますが。
  ・・
【「ChatGPT」による要約】
 コンサートマスターはオーケストラの各奏者を統率し,指揮者の意図を具現化する「第2の指揮者」とされ,第1ヴァイオリンの首席奏者が務める役職です。
 コンサートマスターは信頼された指揮者がいない場合,楽団員は彼らを見て演奏することが多く,時には指揮者の代わりに音楽を指揮することもあります。
 ただし,肩書には様々なバリエーションがあり,それぞれの違いについての説明が少なく,混乱することがあります。特に,ソロコンサートマスター,プリンシパルコンサートマスター,第1コンサートマスターなどの違いが理解しにくいです。
 また,客員やゲストといった肩書もあり,これらがオーケストラの中心的なメンバーであるかどうか疑問視されることもあります。結論として,コンサートマスターの役割と肩書には複雑な側面があり,その違いや意義を理解することが重要です。
  ・・・・・・
 まあ,こういうことです。
 自分の書きたかったことがこのように凝縮できるというは,かなりのショックでした。こんなことなら,長々とした文章など書かずとも,はじめから,こう書けばよかったというわけで,かなり勉強になりましたし,反省もしました。
 「ChatGPT」による文章の要約は,文章を読む作業時間を減らすだけでなく,自分が文章を書く力を養うのにもとても有益です。


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 -新聞読む子の平均正答率,高い傾向-全国学力調査
  新聞を読む頻度が高い子の方が読まない子よりも全国学力調査の平均正答率が高い。文部科学省が7月に発表した学力調査の結果から,そんな傾向が浮かんだ。
  ・・・・・・
 定期購読をやめて半年ほどになりますが,今でも何かの機会にふと目にすることがある新聞です。先日もこんな記事をある新聞でみかけました。そして,いつものごとく,私は,相変らず新聞はこんな見出しで記事を載せているのか,新聞の定期購読をやめてよかったと改めて思いました。
 何事もすぐに軽率に結論を出し,それを大きな見出しにしたがる,これが新聞の最大の悪癖です。「新聞を読んでいるような学力の高い」若い人は,こんな悪癖を身につけてはいけません。

 「ニワトリが先か卵が先か」(Which came first: the chicken or the egg?)問題があります。それは「因果性のジレンマは互いに循環する原因と結果の端緒を同定しようとする無益さを指摘している」ことですが,新聞を読むと学力が高くなるのか,学力が高い人ほど新聞を読んでいるのか,という指摘がこれにあたります。
 さらに,「学力とは何か」問題もあります。「大辞泉」には「学習して得た知識と能力。特に学校教育を通して身につけた能力」とあります。また,「世界大百科事典」には
  ・・・・・・
 「学力」の明確な定義は困難であり,ふつう,やや漠然と,文化遺産の計画的な学習によって獲得した能力を指す。欧米にはこの語にそのまま当てはまる語はない。英語ではability(能力)にふくまれ,またachievement(達成,業績)は第2次世界大戦後,とくに高校入試のアチーブメント・テストとして日本語にとけ込むようになったが,学力と同じではない。
  ・・・・・・
とあって,学力という言葉の意味にはさまざまな解釈があるのですが,はたして,記者はそれを知ってこの記事を書いているのかどうか? 
 学力調査は本当に学力を測るのに適切なものだったのかどうか,というような問題点を指摘して解説することこそが,本来の報道の役割でしょう。

 こんなことは,ワイドショーで「〇〇を食べると長生きする」のような特集が放送されるやいなや,その商品が売り切れになる,ということと同じレベルの話にすぎません。また,国の行う調査が,新聞の広告塔になってもらっては困るのです。百歩譲って,新聞と学力の因果関係を調べるくらいなら,むしろ,教育に予算をどれだけかけているか,それによって学力に違いがあるか,を調べるほうがずっと意味があるというものです。
 新聞を読むことは,教育のひとつのメソッドであるということを,否定するものではありません。しかし,それが新聞である必然性が果たしてあるのかどうか? もし,新聞がどうのこうの,という調査をするのなら,では,テレビは? 週刊誌は? と比較すべきだし,あるいはまた,〇〇新聞は? △△新聞は? というように新聞ごとの比較や,どんな記事を読んでいるのか,も加えたものでなければ,調査とはいえないでしょう。
 新聞を読めば学力が高くなるというのは,たかが布切れ1枚のマスクをすれば病気が防げる,といった病気をなめている軽率な考えと同じレベルです。学力をつけるというのもまた,そんな生やさしい話ではないのです。

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 先日,このブログに「「やり足りない」はすてきなこと」と題して書いたように,私は,これまで,どこかに出かけると,要領よく,その土地の見どころをすべて網羅して見学してしまっていたのですが,こんなことをしていると,リピートをしたときに行くところがなくなってしまうという欠点があることを,このごろ身にしみるようになりました。旅以外でも,思っていたことをやり遂げてしまうと,もはややることがなくなり,その結果,暇になってしまったり,飽きてしまったり,はたまた,時間つぶしのためにやらなくてもいいことに手を出すという愚を繰り返していたことを思い知るようになりました。そこで,このごろは,何事も万事「適当」に,かつ,ほどほどにしたほうが「その次」があると悟りました。
 と,ここまで書いていて,「適当」ということばで我にかえりました。
 今日の話題は「適当」ということばについてです,実は,私は,「適当」ということばの意味をずっとよくわかっていなかったのです。

 ネット上の辞書にはつぎのようにありました。
  ・・・・・・
 適当とは,ほどよいことや,条件や目的にうまく当てはまること,いい加減であるさまのことである。適当の「適」はぴったり当てはまる,ふさわしいという意味である。また,「当」はあてはまる,あてはめるという意味である。英語では suitable と表わすことが多い。適切に,十分になどの意味がある adequately と表すこともある。
  ・・・・・・
 さらに調べてみました。
 私の「尊敬する」岩波の国語辞典には,「①ちょうどよく合うこと②いい加減」のふたつの意味が載っていました。また,「新解さん」として有名な三省堂の新明解国語辞典には,「①いま求められている条件・目的に合致すると思われる様子②一応つじつまが合うようにして当面の事態を収拾する様子」とありました。
 岩波の国語辞典の②にあった「いい加減」というのは,よく考えてみると,「【いい】加減」と「いい【加減】」,つまり,【いい】を強調するのと【加減】を強調するのとでは,ニュアンスがまったく違うように思います。岩波の国語辞典に載っていた②の意味は,「いい【加減】」のほうで,これは三省堂の新明解国語辞典の②と同じです。また,「【いい】加減」ならば,岩波の国語辞典に載っていた①の意味であり,三省堂の新明解国語辞典でも①が当てはまるように思います。
 要するに,「適当」というのは,①suitable②adequately のふたつの意味があるということですが,私がずっと思っていた「適当」は,②のほう,つまり,「いい【加減】」のほうの意味で,それは,たとえば,「まあ,適当にやっておけばいいよ」みたいな感じで使うものでした。

 ところで,数学では,よく,「適当な数字を代入して」と書かれてあります。これは,「いい【加減】」に数字を代入するということではなく,「【いい】加減」,つまり,適切(と思われる)数字を代入するということなのです。まさに岩波の国語辞典や三省堂の新明解国語辞典の①の意味としての使い方です。であるのに,そんなことも知らずに,私は,長年,ずっと「いい【加減】」の意味だと思っていたのですが,ある日,突然,自分の思っていた意味がまったく違っていたということに気づいて,本当に驚きました。つまり,数学での「適当な数字を代入して」というのは,最も適するであろうと思う数字を代入して,ということだったのです。
 そんなわけで,このごろ,特に小さなころに覚えたことばの中には,意味を取り違えて,思わぬ勘違いをしているものが少なくないのかもしれないなあ,と思うようになりました。それは,たとえば,「気の置けない人」のようなものもそうです。こんなとき,それを話した相手が正しい意味を知らず,自分とはまったく異なる意味に捉えて,思わぬ誤解を生む,ということもなきにしも非ずです。とはいっても,たとえ相手が間違った意味に捉えていても,そんなことはわかりません。
 ことばはコミュニケーションの手段なのだから,誤解を生むようなことばは使わないに越したことはありません。その反対に,これを逆用して,詭弁を弄して,やたらと回りくどく話を逸らしたり勝手な解釈をして,それこそ「適当」に言い逃れるをするというのが,頭のおよろしいエライ方々の作戦だったりします。
 とかく,ことばは難しものです。 

◇◇◇

◇◇◇
山形市からやってきたふるさと納税の返礼品。
巨大なアールスメロンです。
熟したので食しました。
おいしかった。

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 今日は8月17日。8月も残すはあと2週間という日です。
 学生のころ,じわじわと夏休みが終わりに近づく足跡が聞こえはじめるこの日,毎年,私は決意をしたのです。さあ,今日から日常に戻るぞ,と。
 私の通っていた高校はいい意味でほったらかしだったので,記憶は定かでないのですが,確か,夏休みの宿題なんてなかったように思います。私にはそれがよかった。つまり,わかっていることをやってもそれは時間のムダでしかなかったからです。ただし,両親は学問には無知で,男が料理などするもんではないと叱るような父親と見栄をはって人より勝つことしか価値観のない母親でした。また,相談できるような親しい指導者もいなかったから,自主的にこういう勉強をすると将来役立つぞ,というようなことを導く人がいなかったことだけは残念でした。だから,我流で,どうでもいいことばかりをしていました。
 よく,高学歴の学生は親の年収の高い子が多い,教育にかけるお金があるから,ということが報道されますが,それは,塾通いにかけるお金があるということよりも,何を学べばいいかということを親が知っている,あるいは,すぐれた指導者が知人にいるといった環境の面が強いように思います。たとえば,クラシック音楽が自然に流れている家に育っていれば,ピアノを習いたくなるという,そんな感じです。

 ほったらかしで宿題のなかった高校に対して,小学校や中学校では,まがりなりにも夏休みの宿題というのがありました。それが配られるのは7月の夏休みに入る前だったので,夏休みになるころには,くだらないドリルの類はすべて終わっていました。知っていることを書くだけのドリルなんて時間のムダ以外の何ものでもありませんでした。夏休みの宿題は先にやる派か学校がはじまる直前にやる派か,などというアンケートがあったりするのですが,私は,もちろん先にやる派でした。
 また,自由研究もありました。しかし,自由研究といったところで,その方法を習ったこともないし,親もそういうことは無縁だったから,無理でした。たとえば,ヒマワリやトウモロコシを育てようにも肥料が必要だということも知らなかったからひょろひょろだったし,トウモロコシは実が5粒くらいしかつかなかったし,単にアサガオの咲いた花の数を毎日カウントしても,日なたと日陰と比べるとか,そういった手段がなければ研究にはなりません。そんなやり方もわからないのでは意味がありません。9月,学校がはじまると,ご両親のご指導よろしくすばらしい自由研究をお持ちになるご子息に隠れ,私は,死んだ虫を集めた標本とか,一度も回ったことがない回り灯篭とか,本を丸写しにしたレポートをこそっと提出するのでした。そんなことしているくらいなら,たとえば,科学館などで,なにがしかの子供向けの工作講座を履修するとか,キャンプに行って野外生活をして食事ひとつ作るのがどれほど大変なのかを経験するとか,そんな時間の過ごし方をしたほうがずっと役立ったのに,と大人になってから思いました。
 そんなわけで,私が,8月17日という日に,今日から日常に戻るぞ,と決意したというのは,さあ,遊ぶのをやめて,そろそろ夏休みの宿題をやるぞ,ということではなく,あと2週間で嫌いな学校がはじまるぞ,という決意表明の日だったわけです。

 私の若いころはそんな具合だったのですが,どうも,近ごろは違っているみたいです。それは学校に限らず,社会もまた同じで,何らからのノルマを与えられて,それをこなすことを勉強とか仕事にしているような感じです。何もかも与えられたことをこなすだけ,つまり,1億総幼児化です。すると,そこから何が生まれるかというと,それはやらされ感満載の「責任の逃れのやったふり」です。
 学生の場合は,自分から何を学ぶかなどということを考える暇もなく課せられた大量の宿題をこなすために,与えられた問題集の答えを丸写しして提出するわけです。要するに,単なる写経です。そんな意味のない作業をすることを「勉強」と称するのです。そうした学生時代を過ごした若者が社会に出ると,今度は,報告書ばかりをでっちあげるわけです。また,そうした学生が教師になると,同じことを生徒に強いるわけです。
 そんな世の中では,手段が目的となります。たとえば,このコロナ禍で,マスクをするという行為はどれだけ効果があるかは知らねど,感染予防のひとつの手段といわれているのにすぎないわけであって,マスクをすることが目的ではないのですが,それが感染予防の手段ではなく,目的になってしまうわけです。だから,だれもいない田舎のあぜ道をマスクをして犬の散歩をしたり,ひとり車を運転しながらマスクをしている,というバカげたことをするわけです。他人の目を気にしているだけなのです。飲食店の意味のないアクリルパティーションもまた同様です。そうでもしないと補助金が出ないからです。そんな「感染対策」を講じても,感染者数は世界一です。
 それと同じように,学生は,大学に合格するのは学問を続けるための手段であるのに,大学に入ることが目的となるのです。政治家は,選挙で勝つというのが,最大の目的となるわけだから,そこには政治家の矜持もなく,どんな支持者かも関係なく票をくれるのなら尻尾をふるのです。

 このように,手段が目的となってしまっているこの国の風潮を突き詰めていくと,最終的には,人が生きる目的が何なのかがわからなくなってきます。
 果たして,人は,死んだときに偉大な葬式をしてもらうために忖度して生きているのでしょうか。国から勲章をもらうために地位や名誉を手にいれようと生きているのでしょうか。あるいは,財産をたくさん残すために仕事漬けで生きているのでしょうか。
 そんなことを考えていくと,主権があるのは国民なのに,未だに江戸時代のようにお上に従順であることを美徳とする人,主体性もなく,他人の目を気にするだけの同調圧力とやらにむしばまれ,しかし,他人の目がないと急に傍若無人で道徳心のかけらもなくなる人などが群れているこの国で生きていくことの難しさもわかろうというものです。
 これもまた,民主主義を勝ち取った国の人々と,第2次世界大戦の敗戦によって他国から民主主義を与えられ,未だにそれを消化できていない国の人々の違いでしょうか。権力者に阿っても一番先に裏切られるのにねえ。世間知らずだよ。このごろの,テレビで放送されるアメリカのMLBのゲーム中継やヨーロッパの夏の音楽祭での観客の様子を見ていると,しみじみそう思います。欧米とは別の星にいるみたい。

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 今日は終戦記念日。日本が太平洋戦争で無条件降伏,つまり,敗北してから77年です。敗戦を終戦と言い換え,撤退を転進と言い換える日本です。相撲でも将棋でも,敗者が潔く負けを認めるのが日本人の美学だとか言っている人がいますが,なんのなんの。
 さて,今から50年前の9月29日,日中国交正常化が行われました。当時の田中角栄首相が中国に行って周恩来首相と会見してなされたものです。ずいぶん前のことでほとんど覚えていないので,確かこのときだったか,そうでなかったか,正確ではないのですが,田中角栄首相が周恩来首相に来日を要請して,その返答が「日本の桜が見てみたい」。そこで,翌日の新聞の見出しが「来春に来日」だったように記憶しています。結局,周恩来首相は来日しませんでしたが,代わりにパンダが上野動物園に来ました。
 ここで書きたいのは,日中国交正常化の話ではなく,周恩来首相のことでもなく,当時高校生だった私が驚いたのが「桜が見てみたい」が「春に行くよ」というように解釈される大人の社会ということです。そして,何だそれは,そんな解釈,私には理解ができない,大人の社会はド難しいところだ,と思った,ということです。それが今でも強く心に残っているのです。

 それからも相変わらず成長せず,齢だけ大人になって,さらに,大人社会の醜さにこころもからだもねじ曲がったことで「不良老人」と化してしまった私ですが,今でも,はやり,大人の社会はド難しいところだ,という印象は変わりません。むしろ,わかったのは,そういった,私がド難しいと感じたことは,すべてド難しいのではなく屁理屈をこねているにすぎないということです。要するにド難しくて私が理解できないのではなく,屁理屈が普通の凡人にはわからないというだけのことなのです。いろいろと頭のいい,というか,ずる賢い人たちが詭弁を弄して,解釈を都合のいいように変えてしまう。そして,私のような素直で? 頭の悪い人間を煙にまいているのです。たとえば,白を黒と言いくるめるようなふうにして。それは,子供が叱られたときに理屈をこねて言いわけをする,それと同程度のものです。
 たとえば,憲法第20条。憲法第53条。あるいは,憲法第99条。
 そもそも,後ろめたいことがあるから改正したいのでしょう。

 私は,自分が好むと好まざるとに関わらず,吉田拓郎さんじゃないけれど,これまで長い間人間というものを生きてみて,その結果,結局,決まりなんて,権力者が自分の都合のいいように解釈して,好き放題にやっているだけじゃないか,と確信するようになってきました。
 つまり,法律は一般市民を支配するが,権力者は法律を支配する。これが法治国家なのでしょう。
  ・・・・・・
 ひとりの人間を殺せば殺人者。 何百万人もの人間を殺せば征服者。すべてを殺せば神。
  ・・
 Kill one man, and you are a murderer. Kill millions of men, and you are a conqueror. Kill them all, and you are a god.
   Jean Rostand
  ・・・・・・
 まあ,それが創造主がつくった最大の失敗作である人間の社会というものなんだろうけれど。


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 元首相が暗殺されて「民主主義を踏みにじるもの」といわれましたが,こういうときだけ「民主主義」をもちだすことに私は違和感を覚えます。この国の根底にあるのは,民主主義でも法治国家でもなく,江戸時代に代表される,権力者,つまり,お上への忖度とお上の定めた思召すままの掟です。
 それでも,私が子供のころは,小学校の児童会選挙や中学校・高等学校の生徒会選挙など,学校で民主主義を学ぶ機会がたくさんありました。ところが,次第にそれもなくなり,生徒会長も選挙で決めるのでなくなり,民主主義を学習する機会も減りました。民主主義教育の崩壊です。そうして育った若者は,お上が決めたことに従うことがいい子の条件で,自分の意見を言ってはいけないと思い込んでいます。学校で学ぶのは,調査書の点数を気にして先生に忖度することだけです。
 今や,国会も名ばかりだし,丁寧な説明をと言うだけで,実際丁寧に説明したことなど一度もないし,選挙といっても,選挙制度自体が欠陥だらけ。比例代表制は落選した議員を当選させるための隠れ蓑。そんな制度で選ばれた権力者の取り巻きと仲良しグループが法律を勝手に拡大解釈して,何事もこそこそと決めています。これを民主主義というのでしょうか。
 今度は,その元首相を国葬にするとか。それもまた,民主主義の手続きで決めたことでなく,一部の人が決めて強硬する。このようななし崩しこそが「民主主義を踏みにじるもの」だと私は思うけど…。

 さて,今日のお話は,これまでにもこのブログに書いたことがある「お願いします」ということばについてです。「お願いします」ということばは英訳できないということからもわかるように,きわめて日本らしいあいまいなことばです。
 私が老化防止を目的で聞いているのがラジオNHK第2放送のドイツ語講座「まいにちドイツ語」。この講座の応用編の冒頭で,ドイツ人の講師が自己紹介したときの最後に,片言の日本語で「よろしくお願いします」というのですが,私はそれに違和感を覚えるのです。おそらく,日本語ではそう挨拶するんだよ,と習ったからそう言っているだけなのでしょうが,これを聞いて,私は,一体この人は聴取者に何をお願いしているのだろう? と考えてしまうのです。
 私のようなものが担当するけど辛抱して聴いてね,なのか,最後まで聴いてね,なのか,無作法があったら許してね,なのか,はたまた,私を好きになってね,なのか…。
 そういえば,テレビドラマ「時効警察はじめました」のタイトルコールの最後にナレーションを務める由紀さおりさんが決まり文句として「よろしくお願いします」といいます。これもまた,意味がわかりません。
 単なる挨拶だから,そんなこと考えなくてよろしい,という声が聞こえてきます。
 と,ここまでは前置きで,私がいいたいのは,この国で頻繁に使われている「お願いします」ということばにかくされたおそろしいたくらみについてです。

 法治国家で,人の行動を制限するときは,しかるべき手続きを得て作られる法律で定められるべきものです。であるのに,法律で定めるという行為をしないで,「お願いします」といってなし崩しに定めてしまうのが日本という国です。「お願い」されたことは,しなければならないことなのか,したい人だけがすればいいのか,あるいは,そうでないのか? 
 実は,「お願い」されたことは従わないととんでもない目にあうのです。
 最も悪どいのは,「お願い」してもしてくれないときに,二の矢として,やらなければ名前を公表するぞ,とか,なんらかの損失を被るぞ,とか,じわじわとそのような制裁をしていくことです。そうお役人が先導するわけです。つまり,その根底にあるのは,いじめ国家の体質そのものです。
  ・・
 たとえば,マイナンバーカード。
 それほど強制したいのなら,きちんと法律で決めて,はじめから紙媒体の書類などを郵送せず,免許証のようなカードを配布すればよかったものを,そっと,いや,こそっとはじめておいて,今になって牙をむき,マイナポイントとかいって多額の税金を使った特典を用意して,半ば強制的に実施しようとするわけです。しかも,表向きはしてもしなくても自由であるふりをして,裏では,どの市町がマイナンバーカードの普及率が高いかといった圧力を地方行政にかけているという話です。
 さらに,今度は健康保険証と紐づけて,これを使わないと損するぞ,医療費が高くなるぞ,といいはじめるのです。
 つまり,「お願い」という名の強制。しかも,いじめ。

 まあ,そんなことははじめっからわかっているし,それは私がもう何も期待していない日本の本質だといってしまえばそれだけのことですが…。
 これが,この国の標榜する「民主主義」らしいのです。

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 朝日新聞の「天声人語」は600字程度から成っていて,400字詰め原稿用紙が1枚半程度です。いつも同じパターンで,まず,落語の枕に当たる話題掴みから入って,それに関連した話,というか,実はこのことが書きたい話題に展開し,最後に数行のまとめとなります。
 これを新聞社は学校の教材とするように薦めているのですが,ひと昔前ならともかく,今どきの「天声人語」は,世のIT化に乗り遅れたようなわからずやのおじさんが書いているような文章が多く,あまりおもしろくありません。そんな話をしていたら,文章も上手ではないなあ,と知人の高等学校の国語の先生が言っていました。まとめも説教くさく,しかし,結論が飛躍しすぎていて何だかこじつけのようなものが多いです。自然を扱ったようなもっと爽やかな文章が多いといいのですが…。
 その「天声人語」の6月30日の冒頭は次のようなものでした。引用してみます。
  ・・・・・・
 このごろ出張先での運転はカーナビに頼りっぱなしである。「300メートル先を右折」「次の信号を左です」。気がつけば,歩くときもスマホの案内にひたすら従っている▼「ナビゲーション機器に頼ると,意識は前後左右に集中しがち。東西南北を読む力はあまり使いません」。そう指摘するのは空間認知が専門の東洋大教授の石川徹さん(51)。ナビやスマホを何年も使い続けるうち,わが方位磁石はさびついてしまった気もする。
  ・・・・・・
 私の車にもカーナビがついていますが,ほとんど使いません。見ているのは単なる地図です。iPhone に GoogleMaps が入っていて,むしろその方が便利ですが,それでも,迷ったときに正しい方向を聞くくらいにしか使っていません。
 私がそうしているのは,目的地さえわかれば,あとは,地図を見て,自分で道順を決めたほうが正確だからです。その理由のひとつは,日本の道路はせまく,信号や交差点が複雑で,カーナビの指示に従って走ると,まんまと罠にはまることが多いからです。
 カーナビに従って走っていると,決まって交差点ごとに赤信号に引っかかってしまうところを通るように示していることや,交差点の左折帯や右折帯が不自然で走りにくいところを表示している場合などがあって,うまくいかないのです。別の道路を走ればすぐに行くことができたのに踏切で延々と待たされたこともあります。
 日本の道路行政は,AIに対抗しようと意味のない工夫をしてわかりにくい道路作りをしているかのような感じさえします。

 と,ここまでが,今日のこのブログの文章の掴みで,ここからが私の書きたい話題です。
 私が憤っているのは,今日の1番目の写真の道路標示です。
 これは,名古屋市内の高速道路ですが,この先に分岐があって,それぞれ1車線ごと別の進路をとることになります。さらに,左側の道路はまたすぐ分岐になります。ここで私が問題としているのは,空港,この場合,セントレア・中部国際空港ですが,そこに行く道を示す進路の案内標示が2方向についているということです。
 ここからセントレアに行くには,右側に進路をとると一般道を経由して接続しています。しかし,右側に進路をとって一般道に降りたときは,その後,空港という案内標示はまったくなくなるので,どう走って行けばいいのかわからなくなり,疑心暗鬼になります。また,左側に進路をとると知多半島道路という有料道路を経由してセントレアに接続しています。しかし,左側に進路をとったときは,その直後の分岐で再び左側を選択しないと行くことができず,そこで間違えると,完全に違った方向に行ってしまいます。
 結局,この場所の分岐では,どちらを通っても空港に行くことはできるのですが,この先正確に空港にたどりつく進路をとることがどちらもかなり難しいのです。そこで,土地勘のない人が分岐の手前でこんな道路標示を見たら,どちらに行くか判断ができなくなるし,この場所をはじめて走っていてこの道路標示を見た人はわけがわからなくなります。
 いずれにしても,ここに,右側の空港の表示とともに「一般道経由」,左側の空港の表示とともに「有料道路経由」と示してあればわかりやすいのです。意味のない案内板は山ほどあれど,必要な表示がないというのも,実に日本らしい話です。しっかり見れば判断できると言われるでしょうが,車が時速60キロメートルで走行しているときにそれを瞬間に判断し,しかも,車線変更をしなければならないことがある,という肝心なことが抜け落ちています。
 さらに問題なのは,こんな道路標示が分岐の直前にあったところで意味がないということです。気づいたときはもう遅いからです。結局,この道路標示は事故を誘発するだけの意味しかないのです。
  ・・
 この写真を見たある人が,今はカーナビで走るから道路標示など必要ないというバカげたことを言いました。おそらく,こうした発想の人がこういう道路標示をこしらえているのでしょう。しかし,その人に,ではこの場所をカーナビを見ながら走ってみてごらんと言いたくなります。また,すべての車にカーナビがついているわけではないのです。さらに,地図をみても,道路が重なり合っていて,何が何だかわからないのです。
 いずれにしても,実際にこの道路をカーナビを使って空港へ行こうと試みれば,私がここで書いていることが納得できることでしょう。カーナビも,どの道が最適なのか迷いに迷い,混乱します。日本では道路が複雑すぎて,カーナビの案内標示は当てにならないのです。

 ところで,2番目から9番目の写真はアメリカのインタ―ステイツの道路標示です。
 日本の道路標示とは雲泥の差で,きわめてわかりやすいものです。車が時速70マイル,112キロメートルで走行していても大丈夫です。それは,アメリカ中どこを走ってもその表示方法が統一されていることと,必要な情報が何かがよくわかっているからです。
 日本で走るのは,本当に疲れます。これもまた「日本人の能力と発想の限界」なのでしょう。

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 歳を重ねてみてわかったことは,老化というのは,坂道を下るようにやってくるのではなく,階段のようにやってくるということです。そして,それは15年ごとなのです。15年ごとというのは,若さの頂点である20歳を起点として,35歳,50歳,65歳,80歳で,その間の15年は,さほど変わらず,この年齢を境にして,突然変化を感じるのです。と,経験者の私は確信します。

 まず,35歳。
 20歳から35歳までの,ときめきと試行錯誤の自分探しの年齢を過ぎると,突然老けます。別の言い方をすると,貫禄が出ます。いい面では精神的に落ち着くので「若気の至り」のようなことがなくなり,周囲から見られる面も変わります。そして,仕事に責任がのしかかり,忙しくなります。その一方で,スポーツ選手など体力勝負の場合は,限界期が訪れます。女優さんも「35歳の壁」といわれて,若さで勝負ができなくなり,演技力がないと,ここで仕事がめっきる減るらしいです。
 これまではそういうわけだったのですが,それ以上に問題なのは,情報化社会の現在では,スポーツ選手でなくとも,科学技術で働く人にとっても,やはり「35歳の壁」というのがのしかかっていることです。以前なら,年齢を重ねるにつれて収入も増えていったのですが,能力給となれば,スポーツ選手と同じように,この年を過ぎると,能力が落ちていきます。そこで,老後を安泰に過ごすためには,若い時期の収入を老後の資金としてなんらかの形で確保し,保全する必要があるということです。
 将来,年金も目減りし,退職金もあてにできない今日の若い人が,この時期に浪費などしていてはいかんのです。
  ・・
 次が50歳です。
 35歳から50歳までは,仕事も家庭も,人生で最も多忙な時期となることでしょう。そして,気がつくと,あっという間に50歳を迎えるのです。そして,この50歳というのが,もっとも大変な時期なのです。この時期を経験しただれもが,それを「魔の50歳」とよびます。それは,自分が病気,あるいは,親が病気,または,子供に何か問題が起きる,リストラされる,などなど,それまで順調であったさまざなまものに何がしかのアクシデントが発生するからです。私のまわりに人たちも,この時期を順風満帆に越した人はいません。まさに「魔の50歳」です。
 「魔の50歳」の嵐吹く5年ほどをなんとか無事に切り抜けることができた人には,再び輝ける安定期が訪れます。この時期が人生で最も充実した期間だといえるでしょう。このかけがえのないすばらしい10年をどう過ごすかが,この後にやってくる老後を決めるといっても過言でありません。
 強調したいのは,50歳から65歳までの生き方としてとにかく最悪なのは,仕事で管理職などになってしまうことです。それなのに,50歳をまえに「偉くなりたい病」という熱病にかかってしまう,かわいそうな人が何と多いことか。自分に自信がない人ほど高級品や地位や名誉を欲するように,「偉くなりたい病」にかかるのは自分に自信がない証拠です。
  ・・
 さて,そうこうするうちに65歳がやってきます。
 それまでの15年を仕事だけで費やした人と,やりたいことをやった人で,ここで大きな差がでます。
 そして,ここで,急に衰えを感じます。外見が変わらなくとも,疲れやすくなったり,物忘れがひどくなったりと,そうしたことを急激に感じるようになります。この時期に自らの老いを受け入れて,これまでとは考え方のレベルを変えて,新しい生き方を見つけるかどうかが,その後のカギとなることでしょう。
 そのころに必要なこころの寄りどころになるのは,安定した老後をすごすための貯えとともに,それまでの人生で後悔がないことです。仕事にかまけて気がつけば65歳。さあ,これから遊ぶぞ,といっても,もう遅いのです。特に,仕事しか生きがいのなかった人はここで破滅します。
 それでも,従来のように,60歳が定年のころはまだよかったのです。65歳まで5年という時間がありました。しかし,現在のように定年が65歳になってしまっては,悲劇でしかありません。その原因はすべて少子高齢化で,「1億総活躍」というまやかしで65歳まで働かされるのですが,65歳でリタイヤすれば,老後はまさに老後となり,何かしたいことがある人には完全に手遅れとなるのです。
 健康年齢はほぼ70歳から75歳まで。運よくその年齢まで生き延びても,その後の低空飛行を安定した気流の中で過ごせるかどうかは,おそらく,65歳までの生き方にかかっているのでしょう。私はまだ経験していないのでわかりませんが…。
  ・・
 そして,80歳。人生の最終章です。
 この年齢のことは,また,別に書きましょう。


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 新しい年度がはじまり,入学式や入社式の様子が報道されています。それを見ながら,もし,私が今大学を卒業する年代だとしたら,どんな仕事を選ぶのだろう考えたのですが,考えても考えても何も浮かばないのに驚きました。それはおそらく,いろんなことを知りすぎているからなのでしょう。
 少子高齢化の進むこの国で,財政赤字が進むこの国で,政治も教育も劣化の一途をたどるこの国で,希望にあふれた仕事を探すのは容易ではありません。しかも,実際は,自ら仕事を選ぶというより,何社も受けて,好む好まざるに関わらず,生きていくために,受かった会社に入社するという妥協でしかありません。
 それでも,以前は花形だった新聞記者は将来があるとは思えないし,銀行も先行きが危ういし,これまで大手といわれたような製造業も不正だらけです。また,教育も介護も給料が安く,待遇が悪い状況では魅力がありません。医者や看護師もこのコロナ禍で明らかになったように,大変な仕事です。

 そこで,若い人がどう考えているかを調べてみました。
 昨年12月に発表した学研教育総合研究所のデータによる高等学校1年生のデータが見つかりました。
 それによると,第1位がエンジニアやプログラマー,第2位が公務員,第3位が会社員,第4位が学校の教師と看護師,第6位が医師と薬剤師,第8位が保育士,福祉,運転手,ファッション関係,と続きました。漠然とした会社員とか公務員というのがよくわかりませんが,高校1年生では,まだ,社会の仕組みすら知らず,そこで,身近な存在である職種に目がいく,親のやっている仕事しか仕事の名前を知らない,あるいは,なんとなく会社に入って働きたいというところでしょう。夢のない国です。
  ・・
 学校には進路指導というものがありますが,進路指導といったところで,実は単なる進学指導であり,しかも,最も社会を知らないような教師が,単に模試の成績を見て「君はそれでは〇〇大学には合格できないよ」「もっと頑張りなさい」などと旧時代的なことを言っているだけだから,指導にもなっていません。投資のしろうとが株価を見ながら何を買おうと吟味しているようなものです。
 あるいは,大学の何学科を選ぶか? とか,社会で成功した人の話を聞く,という機会を設けていることもありますが,実際は,成功した人の陰には,その何倍もそうでない人もあり,また,この国では,医療関係以外は特に何科を出なければ就けないということもなく,心理学科を出て銀行に勤める人もあれば,数学科を出て保険会社に入社する人もあるというように,大学は,何学科であっても,大学卒というブランドを手に入れるだけの話です。一部の専門性の高い学科を除けば,大学生は,学問をしているというより,社会に出る前のレジャーセンターを楽しんでいる,あるいは高額の学費を払うためにアルバイトに精を出しているというだけのことです。

 しかも,1番人気のプログラマーといえ,専門性をリスペクトしないこの国では,語学同様,プログラミングができる人というのは,便利屋としてしか扱われず,待遇も悪いので,優秀な人材は,日本から脱出してしまいます。
 これだけ専門性が必要になってしまった現代社会では,本来は,学校教育を見直してすべての教科を再構築すべきなのでしょうが,そんなことをしたら,明治維新のころに武士が失業したように,必要がなくなった教科の教師は職を失ってしまうから,そんなことはできません。かくして,形骸化した教育のなかで若者は育ち,何も身につかず,お金だけを使って,大学卒業という資格を手にし,ロクに学問をする時間もなく就職活動をして,しかも,入社した会社を数年で辞める,ということを繰り返していくのでしょう。
 結局,就職が最終地点でなく,自分が何をしているときが充実しているかを自分で見つけて,絶えずキャリアップをしていくことが必要なのでしょう。それにしては,今の学校の進路指導は,現実とはかけ離れすぎています。そもそも,実社会を知らない世間知らずの教師が職業指導をすること自体,根本的に無理があります。

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 購買欲を刺激するためには,やたらと不安を煽るか,または,その反対に,やたらとバラ色の未来を語る,これが常套手段です。
 たとえば,保険の勧誘などは前者のよい例で,住宅会社が家を販売するのは後者のよい例です。将来何が起きるかわかりませんからその時に備えましょうといって保険を勧めます。また,賃金は上がり続けるから,ローンを組んでも心配ないですよ,といって家を販売します。
  ・・
 何気なくネットを見ていたら,NHKのホームページにWEB特集「なぜ年収は上がらないのか?」という記事がありました。そして,それに関連した特集に「頼みの退職金が… サラリーマン人生の末に揺らぐ中流」という記事がありました。
 今日は,この特集を参考に,たわいもない話を書いてみたいと思います。

  ・・・・・・
 38年間勤め上げた63歳の成田さん。定年後は趣味を満喫し「悠々自適」に暮らそう,そう思い描いていたのに,現実はお金も心も余裕がない。その理由は「退職金」だった。
 住宅ローンも残り,子供の学費も払わなければならず,今なお,年収180万円ほどで働いている。
  ・・・・・・
 酷ないい方をすれば,成田さん,将来設計甘すぎでした。右肩上がりの時代ならともかく,少子高齢化の日本で,40代で住宅ローンで家を買って,しかも,定年後にまだ子供が大学生なんて,見込み違いにもほどがあります。厳しくいえば,自業自得です。
 取材中「成田さんが「自分の想定が甘かった」という言葉を何度も口にしていたのが印象的でした」とありましたが,この人,これまでが贅沢のし過ぎだったのです。一体,学生時代に何を学んでいたのやら…。

 最初の特集「なぜ年収は上がらないのか?」には
  ・・・・・・
1 将来も年金はもらえるのか
2 老後に向けていくら貯金すればよいのか
3 賃金が上がらないのはなぜか
4 低賃金化が今後の日本にどんな影響を及ぼすのか
5 賃上げは可能なのか
  ・・・・・・
といった視聴者からの疑問について書かれてありました。
 それに対して,日本はこれまで雇用は守られていたが,それも賃金が上がらなかったひとつの要因だった。また,将来の年金は「支給できる」と厚生労働省が回答した,とありました。そして,4人の専門家の次のような意見が載っていました。
  ・・・・・・
 生涯現役で働く時代だから,「定年後も働く」ということに社会全体としてより意識を向けること,そして,定年後も働き続けられるよう,社会や企業が定年後も働きやすい環境を整備し,さまざまな働く選択肢を用意し,個人も選んでいくことが重要だ。
 退職金や年金の水準は下がり続けているので,定年後に困窮するリスクは誰にでもあるから,こうしたリスクに対して,収入に応じて税や保険料負担を軽くするなど,生活の下支えをする社会保障をより充実させる必要がある。
  ・・・・・・ 
 さらに
  ・・・・・・
 「賃金が安くても物価が安いからいいではないか」という考えがあるが,それは間違い。なぜなら,日本人が海外で仕事をしたり勉強したりすることが難しくなるから。日本人が海外で活動できなくなるということは,日本の発展のために大きな障害になるだろう。
 アメリカも,以前は,日本からの輸出に押されて経済力が低下したが,1990年代からIT革命を実現し力強い成長を取り戻した。これを見ても,衰退した国が再び復活するのはありうる。
  ・・・・・・
とありました。

 私は,これを読んでいて,専門家がいわなくても,こんなこと,素人の私がこれまでこのブログで書いてきたたわごとと同じじゃないかと思いました。笑えてきました。
 そもそも,税や保険料負担を軽くするとか社会保障を充実させるなんて,絵にかいた餅なのです。
 結局,若者もいないしお金もないんだから,国は面倒見きれないよ。だから,いつまでも働けよ,といっているだけの話です。こんなこと,今どきの高校生でも知っています。要するに,専門家にも答えがないのでしょう。
 そもそも,この国の将来の不安のすべての原因は「円安」と「少子高齢化」に尽きます。
 「円安」は日銀が金融緩和を止めないのが原因です。今の日本は工場が海外にあるのだから,円安にして輸出を増やすなどという政策自体,時代遅れです。そして,賃金が安いといって外国と比較しても,為替レートを考慮していないから,正確な比較になっていないのです。1ドル120円といった今の為替レートであれば,そりゃ,海外旅行はできませんし,学費が高くて留学もできません。1ドルが80円なら8ドルのハンバーガーは640円だけれど,1ドルが120円なら960円になる。1ドルが80円なら500万円の年収は6.25万ドルだけど,1ドルが120円なら4.17万ドルになる。それだけのことです。
 次に「少子高齢化」。少子化の原因は,子供が幸せでない,子供の将来に希望がない。これが理由です。
 今,小学生に戻って人生をやり直したいと思いますか。設備も貧困,デジタル化にも遅れ,塾に通ってドリル学習をして試験で点を取らなければ満足に進学もできない。こんな学校に通いたいですか。研究費も減り,世界の水準からみても低レベルになり下がった大学で何が学べるというのでしょうか。そんな大学を卒業しても,何も身についていないから,満足な就職先もない。
 だから,子育てに夢もなければ,待っているのは親の介護と自分の貧困な老後だけ。
 また,アメリカの1990年代を手本にしろといったって,今の日本が1990年代のアメリカと決定的に異なるのは,若者が少ないし,起業する土壌もない。だから,そんなことは空論にすぎません。

 では,どうするか。
 こんなことがかかれてありました。
  ・・・・・・
 「トカイナカ」の生活をしよう。
 都会と田舎の中間「トカイナカ」に住んで食べ物は自分で作る。水も自分で井戸を掘る。電力も屋根の上にパネルをはって自分で賄って13万円で暮らそう。近所に畑を借りて農業をはじめよう。「自産自消」,自分で作って自分で消費する。
 成長の実現は中小企業。中小企業こそ成長のポテンシャルを持っている。戦後の日本はホンダやトヨタも最初はとても小さな企業だった。成長を実現するのは中小企業であり零細企業だ。
 世界は大きく変わっているわけだから,学校で学んだことだけで一生仕事ができると思ったら大きな間違い。ひとりひとりが毎日勉強をして自分自身の能力をつけていく。若い人はそれができるのだから。
  ・・・・・・
 これらの意見を読むと,専門家がこんな幼稚なことしかいえないというのに絶望的な気持ちになります。
 「トカイナカ」生活なんて,東京に住む,よほど現実を知らない人のたわごとでしょう。日本の地方都市はどこもさびれています。また,戦後ならともかく,今や,大企業の多くは外国に工場を移転してしまって,国内の零細企業は崩壊寸前だし,今のコンピュータ社会にまったくついていけないのです。
 結局,世界で通用する能力を身につけて,日本に見切りをつけて地球規模で生きるか,それができなければ,もう,結婚もマイホームもあきらめて,質素につつましやかに暮らし,沈没してゆくこの国と運命を共にするしかない。それがこの国で生きるということです。本当に若者は気の毒です。
 なのに,この国の若者の多くは,高等学校では,日々,入試問題の解き方をひたすら暗記するための膨大な問題集と「ブカツ」に追われ,考える時間すら与えられず,大学生は,ある者は生活費として,また別のある者は分不相応のブランド品を手に入れるためにバイトに追われているので,現実を知ってか知らずか,日本はすばらしい,日本に生まれてよかった,海外には出たくない,などといい,保守化して,今の政治を肯定し,意見も言わず立ち上がるエネルギーもないのだから,その若者たちの将来がどうなっても,これもまた自業自得というものでしょう。
 そのころ私はもうこの世にはいないから,まあ,どうでもいいや。


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 持而盈之 不如其已
 揣而鋭之 不可長保
 金玉滿堂 莫之能守
 富貴而驕 自遺其咎
 功遂身退 天之道
   「老子」九章
  ・・
 満ち足りた状態をいつまでも保ち続けるのは止めたほうがよい。
 刃物を鋭く尖らせればそれだけ長持ちしなくなる。
 金銀財宝が部屋一杯にあると守るのが困難になる。
 富や名声を手に入れて傲慢になれば自ら災難を招くことになる。
 自らのやるべき事をやり遂げたならばさっさと身を退け引退するのが天の道というものだ。
  ・・・・・・

 この「老子」九章について,さまざまに解釈しているブログがたくさんあります。それらを読んでみると,きわめて興味深いものです。欲望にはきりがないから,自分の分別を知ることが大切とか,強欲な人は満足をしらない,とか…。
 そのようは話は,以前「吾唯足知」として書いたことがあります。しかし,説教くさい「孔子」でもあるまいし,私の好きな「老子」は,そんな俗な話をしているのはでなく,才能ある人が地位やら財を得たら,さっさと身を引くがいい,と説いているわけです。
 「功遂身退 天之道」(功成り名遂げて身退くは天の道なり)というのは,りっぱな仕事を成し遂げて名声を得たら,その地位にとどまらず退くのが自然の摂理にかなった身の処し方であるということです。これを「勇退」といいます。私が若いころは,こうした偉人がたくさんいたように思うのですが,それは私が未熟だったからそう思っただけだったのでしょうか。昔は,そのような人がどの分野にもいて,そうした人は引き際もあざやかで,その後の人生を悠々とおくっていたように思えたものです。
 当時は,かっこいいなあと思いました。
  ・・
 たとえば,将棋界には,木村義雄14世名人がいました。1905年(明治38年)に生まれ,1986年(昭和61年)に81歳で亡くなりましたが,最初の実力制による名人であり,かつ,最初の永世名人でした。
 ときの名人木村義雄は,1952年(昭和27年)の第11期名人戦で挑戦者の大山康晴15世名人に敗れ,名人を失冠します。このとき「よき後継者を得た」とのことばを残して,47歳の若さで引退を表明し,引退後は茅ヶ崎市で隠棲生活を送り,1960年(昭和35年)には将棋棋士として初となる紫綬褒章を受章しました。
 47歳というのは,今から思うとかなり若い年齢です。その後34年間にわたって,隠棲生活をおくったわけですが,そのために,将棋の名人という権威は保たれ,また,木村義雄という人も偉大な名声が残ったのでしょう。

 しかし,現実は,その晩節を汚しているような生き方をしている人が何と多いことでしょう。
 地位を得るというのは,また,財を成すというのは,引き際が肝心。でないと,地位が,また,財が泣きます。であっても,いくら財があろうと,引退して隠棲生活をするというのもまた,それが悠々自適とはいっても,その悠久な時間をどう生きるか,それがむずかしいものです。特に,仕事一途で功を成した人の中には,仕事以外には何もすることがないということがままあります。そんな人には,自由というのは,最も不自由なものなのかもしれません。
 とはいえ,全盛期を過ぎた人がいつまでも昔の栄光にこだわってその地位にいるのは,地位も泣くし,組織としても迷惑ななだけであることも少なくないのです。天分を授かった人は,そこに至る過程も辛いものだったろうし,はたまた,その晩節も辛いものです。そう考えると,天の道というのは,茨の道なのでしょうか。であるなら,はじめっから茨の道など踏み込まないほうが幸せなのかもしれません。
 「芸は身を滅ぼす」ともいいますし,ひょっとして,「老子」はそう説いているのかも。

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 空を歩く方法,あるいは,海の上を歩く方法,というものがあります。 それは,左足が沈むまえに右足を出し,右足が沈むまえに左足を出す,という方法です。 あるいは,人数制限のあるエレベータにいくらでも人が乗ることができる方法,というのもあります。 それは,制限された人数を越えたら,その人は飛び上がる,という方法です。これをみんながやれば,床に足をついている人の数だけが人数制限以下ならいいわけです。
 こうしたことが詭弁であることは容易にわかるでしょう。
 今,この国の借金は1,200億円だそうです。しかし,いくら借金があろうと,国債を発行し続けてお金が足りなくなったら借りればいい,というのが,今の日銀のやっている金融緩和という政策ですが,これもまた,詭弁であることは,はじめに書いた例と同じだからです。
 借金が増えればお金を刷ればいいじゃないの,という疑問はだれでもあって,この答えはネットを検索すればいくらでも見つかります。 しかし,その答えは,大きくわけてまったく別の2種類が存在します。そのひとつは,いくらでもお金を刷ることは禁じられているからできないというものです。しかし,そういったきまりを作ったのも人間なのだから,きまりを変えればいい,ということになりますから,これは答えにはなっていません。もうひとつは,お金をどんどん刷れば貨幣価値が下がるから,ハイパーインフレになる恐れがある,というものです。

 現在,この国のやっているのは,まさに,お金をどんどん刷っている状態と同じです。今のところ,それでもハイパーインフレが起きていないのは,いくらお金があっても買いたいものがない,あるいは,将来が不安だから貯蓄にまわすということで,せっかく出回ったお金がふたたび銀行に戻ってしまうのが理由となっています。
 そもそも,お金というモノ自体,多くの人は紙幣を思い起こすでしょうが,実際は紙幣は世を忍ぶ仮の姿にすぎないものです。私のように,ほとんどをキャッシュレスで過ごしていると,単に数字が出入りしているだけで,お金を使うという実感すらありません。そしてまた,人には寿命というものがあるので,それで,どんなに借金があろうと最後はむやむやになってしまうわけです。同じように,国であっても,これまでいくら財政危機に陥っても,国の体制が変わったりすると,それはむやむやになってしまうこともあるわけで,未来永劫おなじ状況が続くわけでもないのです。
 というように,簡単な話ではないわけですが, ただいえるのは,日本の現状は,無節操な金融緩和によって実態とかけ離れた円安になっているということです。賃金が外国より安いとか,物価が安いという報道がされているのですが,その原因は実態とかけ離れた円安なのです。つまり,この国が世界で安売りされているということです。


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 9月25日の朝日新聞オピニオンのページ&フォーラム欄に「異論のススメ」として,「「国民主権」の危うさ」という記事がありました。執筆者は佐伯啓思さんという京都大学の名誉教授だそうです。
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 今日の政治の混迷は,将来へ向けた日本の方向がまったく見えないからである。
 …将来を見渡せる大きな文明論が必要なのであり,それを行うのは学者,すなわちジャーナリズムも含めた知識人層の課題であろう。
  ・・・・・・
と結んでありました。
 また,読書欄には「アカデミアを離れてみたら」という岩波書店から発売されている本を宇宙物理学者の須藤靖さんが紹介していました。この本では
  ・・・・・・
 末は博士か大臣か。かつては勝ち組の象徴とされていた両者を見る目は,いまや完全に様変わりした。
 …本書は,博士号取得者がアカデミアを離れた後の人生をたどり,「博士号」の意義と,それが広く社会に貢献しつつある実例を紹介する。
 …「アカデミアで過ごした時間はひとつも無駄ではなかった」と言う。今こそ末は博士の時代なのだ。
  ・・・・・・
とありました。
 ともに,大学に籍を置く人によって書かれた文章で,とても興味深く読みました。

 今の時代,政治家が,あまりにも専門家を軽視する傾向があるのを,私は由々しきことだと思っています。これでは政治家というしろうとが独断で政策を決めているようなものです。その結果は言わずもがなです。その一方で,政策にお墨付けを得るために,やたらと「有識者」なるものが登場してきます。また,「第三者委員会」なることばもよく聞きます。
 こうしたときの「有識者」や「第三者」とは何者だろうか,といつも私は思います。どういった基準で選んでいるのだろうかと。
 つまり,政治家は,専門性を軽視するその一方で,自分の都合のよいように意見を述べてくれるお墨つきを得たいときだけ,学者さんたちを利用しているように思えるのです。こういったときに出てきて異を唱えない学者さんを「御用学者」と揶揄することもあります。また,「第三者」といっても,まったくの無関係なんてありえるのでしょうか?

 前者の記事にある「知識人」というのは,筆者の考える理想的な「知識人」だと思うのですが,そんな知識人が果たしてこの国にどれほいるのでしょうか? そしてまた,新聞に載ることを忖度しているのか,ジャーナリストを知識人に含めていますが,はたして,そうなのでしょうか? ジャーナリストも様々で,インターネット上に氾濫している偏向したオピニオンを書いている自称ジャーナリストの少なからずは「知識人」とは思えません。
 あるいは,「知識人」といっても,この国の受験というシステムで高い点数が取れて学歴というブランドを手に入れただけのことかもしれません。この国では,医者以外は,すべて,素人の集団のようなものです。学校の教師も教育学を専攻しなくてもなれますし,ジャーナリストもまたしかりです。
 むしろ,後者の記事にある「博士」の方が分類としては明確だと思うのですが,「博士」はその分野での「専門家」であって,社会全体を見渡せるといった「有識者」とは違うように思います。「専門家」という存在は貴重なものだし,リスペストすべき人たちですが,その学者の「学」というのもまた危ういものです。それは,「専門性」というものが,科学技術の急激な進歩や,複雑きわまりない国際情勢によって,その人の積み上げてきた知識が今は古くなってしまい役立たないことも往々にあるからです。それは,30年前の将棋の名人が,たとえ永世名人とかいう名誉称号をもっていたとしても,それは過去に得た肩書にすぎず,今日では全く別の評価が確立していて当時の価値観は通用せず,若い棋士に歯が立たないのと同じです。
 そうしたことを本人が認識ぜず,過去に得た身分やら地位だけでいつまでも「有識者」ぶっていることも少なくないように思いますし,今ではもう通用しなくなった学問の「専門家」なのかもしれません。
  ・・
 このような時代に,この記事に書かれたような理想的な「有識者」が育つためには,時代おくれでない「専門家」としての「博士」が大学に埋没したり職がなかったり,政治家が学問に口出ししたり不当に人事権を振り回すことなく,社会で活躍できるような健全性がなけらばならないと思います。政治家が学問の専門家に出さなければならないのは口ではなくお金です。


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「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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 9月17日の朝日新聞「菅首相退陣 哲学者・國分功一郎さんにきく」という記事に「政治の責任ごまかす「自宅療養」「自粛要請」」とありました。引用してみます。
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 自粛とは自ら進んで慎むこと。ならばそれを「要請する」などといえないはずだが,「自粛要請」はメディアでも繰り返し使われた。現場への責任の押しつけをごまかす表現だった。
  ・・・・・・

 たとえば,「県外への移動を禁止します」でいいものを「県外への移動の自粛を要請します」とするわけです。それは,法的に禁止ができないからです。禁止でなく要請ならば,それをみんなの合意で法律を決めなくても,法とは無関係にコトが決められるということです。
 もともと「県外へ移動するな」と言いたいのに,自粛という言葉をはさむことで,「別に私は強制してないよ。あなたが自らの判断で移動しないと決めてね。私はあなたがそうするのを期待しているよ」という感じになるわけです。そうすることで,私が要望したのにあなたがそうしなかったときに何か事が起きたら,その責任はあなたにあるんだよ,となるのです。
 これは,以前書いた「「お願い」という名の強制」と同じように,何ごともやったふりの責任逃れ。しかも,それを言った責任者がだれなのかすらわからないという,実に巧妙なやり方です。こういう言葉を使うことで,すべての責任を庶民に押しつけているのです。腹黒いわけです。
 それでも,あえて,法で規制することなく穏便にていねいなふりをするのなら「県外への移動をお控えください」だけでいいものを,「県外への移動の自粛を要請します。ご理解ご協力をよろしくお願いします」と書くわけです。きらびやかに飾れるだけ飾る,厚化粧の御仁よろしく,言葉を増やせば増やすだけ実体が不明になっていき,その反対に強い強制となっていくのです。

 オリンピックを中止する,ということを言うことができる責任者がだれなのかよくわからない,というのと同様,この国には,責任者ぶりたい人は多いのに,実際は,何事につけても本当の責任者が不明なのです。これは幕末のころから同じです。なので,だれも責任をとらなくてもいいというしたたかななからくりです。
 日頃,政治家の得意なのは,権力者が勝手にものごとを進めておいて,その結果,なにか支障が起きても,自ら「問題はないと考える」と言い切って,その判断をしかるべき機関にゆだねることなくあいまいにしてしまう,これこそが日本的なシステムです。
  ・・
 例外は第2次世界大戦後です。第2次世界大戦は負けたがゆえに,軍事裁判が開かれ,責任者が処罰されたのですが,これは外圧によるものであって,自浄能力ではありません。
 美しいバラにはとげがある。そして,美しい言葉の裏には強権がある。本当に日本はことば遊びの好きな美しい国です。


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 近ごろは,不安を煽るだけの無責任で根拠のないようなニュースを垂れ流すうざったいだけのテレビや種々雑多なニュースを集めただけのポータルサイトを載せたネットからの情報を遮断して,消極的な理由から紙媒体からの新聞で情報を手に入れていますが,そんな新聞も,読んでいると,突っ込みどころ満載です。
 その中で,今日は,9月8日の朝日新聞「オピニオン&フォーラム」にあった「値上げこそ元凶」という記事を取り上げます。東京大学大学院教授の渡辺勉さんという人にインタビューしたものです。

 超高齢化の進む日本です。今から40年前は1人の高齢者を7人の現役世代が養っていました。現在は3人です。そして,将来は1人といわれています。それが現在の日本の社会の姿です。
 そこで,1964年の東京オリンピック,1970年の大阪万国博覧会といった40年以上も昔の「夢よもう一度」というような政策を行っても,政治も教育もインフラも劣化してしまい,しかも,ITには完全に後進国となってしまったこの国では,さらに将来にわたる負債が残っただけだということが優秀な人に見えていないというのが,私には不思議でしかたありません。また,この国には,製品を製作する機械や製品に使用されている半導体が日本製でなく,工場の従業員が日本人でないかもしれないのに,未だ,メイド・イン・ジャパンの製品にこだわるような,世界をまったく知らない「いつもニコニコ現金払い」の高齢者が多数をしめているわけです。
 20歳の人に将来の夢を語るように60歳の人に語ったところでどうしようもないことなど,だれでもわかります。そんな現実の中で,未だに,経済学者は「物価を上げて賃金を上げる」という夢のような政策を唱えているのです。
 この記事では「賃上げを試みつつ,安さ競争抑制へ時限カルテルも」などと提案してます。しかし,そんなことは実現しないし,また,できない。そもそも,値上げができないその要因は,高齢化社会とゼロ金利政策だからなのです。

 今の社会は,働いて賃金をもらっている人より,年金と蓄えで生活をしている人の方が多いくらいです。また,たとえ高齢者で働いている人も,再任用や定年の延長,あるいは,嘱託や非常勤というように正社員は少なく,賃金を上げてもらってもその恩恵に預かれない人が多いのです。
 ささやかな年金とそれまでのわずかな貯えで生活している高齢者の人たちにとっては,物価が上昇するのは死活問題です。物価が上がれば年金もそれと連動して多少は上がるかもしれませんが,ゼロ金利政策が続く限り利息もなく貯金は増えません。むしろ蓄えは目減りします。
 そしてまた,若い人は,社会保障に負担しなければならないお金が将来にわたって増えつづけることと,そして,年金の支給年齢が遅くなり,もらえるお金も目減りすることが明白で,そのような老後が心配だから消費にお金がまわせません。今の時代,貯蓄もしないでノー天気にものを買っているのは,一部の富裕層と何も考えていない人たちだけです。
 このように,高齢化社会とゼロ金利政策であることが,物価の上昇が「悪」となっている根本的な原因です。この記事には,この根本的な原因をどうするかという点が完全に欠けているのです。

 高額所得者で世間知らずで老後の心配のない優秀な学者さんにはわからないと思いますが,平日のお昼間のスーパーマーケットには,所在なげな高齢者がたむろしています。また,夕方遅くになると,今度は,値下げをしたその日のお弁当を買い求めるお年寄りで一杯です。そうした人たちは,商品の値段が上がれば別の商品を選択するし,選択肢がなくなれば買うのをあきらめます。
 そんな庶民の現状を把握しないで,学問だけで経済を論じたところで,何も問題は解決しません。
 今の日本では,高齢者にとっては,むしろ,物価など上がらないほうがいいのです。
 この記事は,学者さんが愚かなのか,インタビューをする記者が悪いのか,こうした根本的な理由がすっかり抜け落ちているのです。
  ・・
 今の日本の社会は,政治家も経済学者も,実際の「有事」に対しては無力です。政治家は選挙で勝つためにどの神輿をかつげばいいかしか興味がないし,経済学は空論ばかりです。また,医療も,そこに投資をしてこなかったために,ワクチンも作れず,病院も崩壊してしまいます。マスコミは売れればいいとばかりにおどろおどろしい情報を集めては,歩き回って取材をするより机に座って作文して,国民を不安に貶めることに生きがいを感じています。
 それらは,机上の知識だけで実践を伴う危機管理がなっていないからです。コロナコロナと騒いでいる陰で,アフガニスタンで日本人が置き去りにされていることに対して,政治家は無関心であり,マスコミもほとんど報道しません。国民の多くも興味がありません。まるで危機管理がなっていないのです。
 これは,ペーパーテストとドリルをやることが教育だとされてきたその究極的な結果です。

 小難しい理屈やら分析は不要です。単に,ものの値段が上がれば買わない,いや,買えない,そして,買いたいものがない,それだけのことなのです。だから,どんな政策をとろうと煽ろうと,売る方は値段を上げたら売れないので,値段が上げられないのです。
  ・・
 ただし,こんな状況が続いていると,海外との物価の格差がどんどんと大きくなっていくので,海外旅行もできなくなります。また,すでに,欧米の大学の学費が高くなって留学すら困難になりつつあります。それもまた,実際に海外に行ってみれば容易にわかることです。
 少子高齢化の根本的な原因は,保育園不足とテスト漬けで順位争いだけの学校教育など,子育てに魅力がない国になってしまっていることがそもそもの要因なのに,それを怠ってきたツケは,今日明日に改善するものではありませんし,それはまた経済学者の領域でもありません。また,ゼロ金利政策は,意固地になって金融緩和をやめない日銀が原因です。
 コロナ禍対策同様,残念なことに,言うことを聞かなければ名前を公表するぞ,といった威嚇しかできない政治家では,実際は何の抑制もできません。そして,国民は,聞いたふりをしているだけで,本当は政治家など全く信頼していないから,それぞれが勝手に意味もわからず行動しているようです。
 もう,この国は崩壊してしまうまで,なるようにしかならない…。そんなところまで来てしまっているのでしょうか。


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 9月2日の朝日新聞・耕論に「空飛ぶ円盤に魅せられて」という記事がありました。
 耕論というのは「おりおり論争になっているテーマを取り上げ複数の識者の意見や対談を紹介します」というものだそうで,今回のテーマは
  ・・・・・・
 空飛ぶ円盤に魅せられて地球外に知的生命体はいるのか。空飛ぶ円盤かもしれない現象を分析した最近の米政府報告書を読むと,あらためて興味がわいてきます。生命を探る研究も急速に進んでいるようです。
  ・・・・・・
というまえがきのあとで,宇宙航空研究開発機構のエリザベス・タスカー(Elizabeth Tasker)さん,日本科学未来館科学コミュニケーター池辺靖さん,慶応大教授の渡辺靖さんの3人の「識者」の意見が載っていました。
  ・・
 エリザベス・タスカーさんは,「生命の可能性」について,地球で得られた知識に縛られず,思いも寄らないような未知の種類の惑星が発見されるするかも知れません。池辺靖さんは,わからないことを解明するのが科学という営みなので,解明しようという姿勢が重要です。渡辺靖さんは,今回の盛り上がりは,米国が置かれている世界の覇権争いの反映だということもいえるでしょう。とありました。

 この記事,あまりに意味不明です。
 まず,「おりおり論争になっているテーマ」という「空飛ぶ円盤かもしれない現象を分析した最近の米政府報告書」がこの記事からだけでは何なのかわかりません。論争になっているそうなので,これまでの朝日新聞の記事を探してみたのですが,ほとんど見当たりませんでした。
 報告書が出されていたころにCNNでずいぶんと取り上げられていて,私はそのニュースを見たのでよく知っていますが,CNNでは,UFOは「Unidentified Flying Object」(未確認飛行物体)と略さずしっかり発音していて,これは「何なのか確認できない飛行物体」であって,日本人の考える「空飛ぶ円盤」でも宇宙人の接近でもないのです。アメリカが興味をもって研究しているのは宇宙人ではなく国防上の問題としての未確認飛行物体なのでしょう。陰謀説もあるそうですが,アメリカでは陰謀説は何もUFOに限ったことではありません。
 また,耕論に載っていた3人の「識者」の意見というのは,みな,論点がばらばらでまったく噛み合っておらず,内容もなく,この記事が何を書きたいのかさっぱりわかりませんでした。これでは,興味本位のオカルト雑誌の記事とまったく変わりません。

 ところで,私は,広い宇宙には人間を超えるような知的生物はいると思います。
 しかし,人間の作った物理学が正しいとすれば,その距離の遠さから,人間が将来,たとえその存在を確認することができたとしても,接触することは不可能でしょう。あるいは,人間の作った物理学が正しいものでないとすれば,人間が考えもしない物理法則による移動手段が存在して,接触してくる可能性があるかもしれません。しかし,そうであれば,その移動手段もまた,人間の考えもつかない方法であろうから,人間の考える乗り物とは異なるもので,いわゆる今話題となっているUFOがそうした知的生物の乗り物であるとは思えません。
 現在,天文学者が探している地球外生命は,UFO騒動と関連したものではありません。UFO騒動が科学の発展に直接貢献しているわけでもないでしょう。
 そんな理由で,私には,この記事の視点がよくわからないのです。
  ・・
 物理学という視点からこの記事が書けるような記者はいないのでしょう。「識者」へのインタビューで,記者がどのようなコメントを期待して質問をしたのかは知りませんが,「識者」たちはそれに対して何を言えばいいのかわからなくて,それぞれの人が差支えのないコメントを返しただけのように思われます。その結果,まとめようもなく,取り留めもない内容になってしまったのでしょう。新聞の特集記事には時々こうしたレベルの低いものがあります。
 そんなことよりも,むしろ,アメリカでは,国防上の問題としてこうした物体が確認されているが,では,日本ではどうなのかとか防衛上問題はないのかというような視点でとらえたほうがよほど新聞記事らしいと思ったことでした。

 今日はとりとめもない記事を紹介しましたが,そのお口直しとしてのおまけが冒頭の2枚の写真です。これらは私が2014年にアメリカ・ニューメキシコ州ロズウェルのUFO博物館で写してきたものです。
 ロズウェルは辺鄙な田舎町なのに「ロズウェルUFO事件」として有名になったことで,私も含めて世界中からわざわざ観光客がやってきます。「ロズウェルUFO事件」はかなりの眉唾ものですが,UFOはロズウェルにとって格好の観光資源となっているのでしょう。まるで高等学校の文化祭の展示のような博物館や町の土産物店のいかがわしさと場末感がいかにもアメリカらしくてすてきです。

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 8月30日の朝日新聞・記者解説の記事に「米国・民主主義の試練」という記事がありました。
 まとめの部分を引用してみます。
  ・・・・・・
●「米大統領選で不正」という主張が民主主義を揺るがす。根底には社会の分断がある。
●トランプ氏に象徴されるポピュリズムは,民主主義そのものに内在する課題を示す。
●中国を念頭に「専制との競争」を掲げるバイデン政権は自国の立て直しが急務だ。
  ・・・・・・
 この記事の最後の章には次のようにありました。
  ・・・・・・
 民主主義の変調が近年,米国に限らず世界規模で進んでいる。…自由が進展した国よりも後退した国の数が上回る傾向は,過去15年連続で続いている。
  ・・・・・・

 では,そもそも,民主主義とは何でしょうか?
 学校できちんと習ったことあるかな? と反省した私はいろいろ調べてみると,アメリカ大使館のホームページに説明がありました。一部,引用の上,自分なりに要約してみました。
  ・・・・・・
・ 自由選挙で選ばれた代表が権限を行使し,市民が義務を遂行する統治形態である。
・人間の自由を守る一連の原則と慣行である。
・多数決原理の諸原則と個人および少数派の権利を組み合わせたものが基盤となる。
・中央政府に全権が集中しないように政府機能を地方や地域に分散する。
・言論や信教の自由,法の下で平等な保護を受ける権利と基本的人権を擁護することが最も重要となる。
・すべての市民に対して自由で公正な選挙を定期的に実施する。
・選挙は国民の支持を競うための真の競争でなければならない。
・政府を法の支配下に置き,すべての市民が法の下で平等な保護を受け,市民の権利が法制度によって守られることを保障する。
・市民は,権利を持つだけでなく,政治制度に参加する責任をもつ。
・寛容と協力と譲歩といった価値を何よりも重視する。
 -不寛容は,それ自体が暴力の一形態であり,真の民主主義精神の成長にとって障害となる。-
  ・・・・・・
 これを知ってからこの新聞記事を読むと,何がいいたいのかよく理解できました。
 それは,民主主義は自由を守るための制度であって,それは自由で公平な選挙によって実現できるのだが,現在のアメリカではそれが揺らいでいる,ということでした。

 しかし,私は,その一方で,この国が,というか,この国のマスコミが,いつも「何を偉そうに」上から目線でアメリカを論ずるのか,ということが理解できません。確かにアメリカにはさまざまな問題が山積しているのでしょうが,それは他国のこと。それ以前に,では,この国はどうなんだ,といつも思います。
 まず,国民は,民主主義が何かということを知っているのでしょうか? きちんと習ったことがあるのでしょうか? そして,何より,それ以前に,政治家こそ,知っているのでしょうか? 首相に「民主主義って何ですか?」と質問してみたいです。
 この国は自由だ,といえば聞こえはいいのですが,自由というよりもみんな好き勝手にやっているだけだし,政治は少数意見など考慮しない。政党の,しかも,その中のある一部の有力者が,それも,制度がきめた権力者でないような影の権力者の意向が優先されて,何事も密室で決められます。また,選挙で選ばれたといっても,自分の意見を持たず言わず,ただ属する政党の意向に賛成するだけのために存在する議員なら,選挙の結果は単なる数字合わせにすぎないわけで,人間は不要です。
 そこで,こういった記事はそれはそれとして,それ以前に,「日本における民主主義の危機」といった特集記事でも載せたらどうでしょうか。
  ・・
 この国では民主主義は借り物であって,法もあってないような「お願い」がまかり通り,所詮は「御上よいしょ」です。それは,江戸時代から何らまったく変わっていません。それもこれも,これこそが,この国に住む人々に根差す本質なのでしょう。他国の民主主義を論じる資格などありません。

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 今日は,8月10日「AERA dot.」の記事の話題です 。
 大井美紗子さんの連載「帰国ママのバイリンガル子育て奮闘記」に「"Please" でなんでも要求できるわけではない- 新幹線のアナウンスに帰国ママが違和感」という文章が載っていました。大井美紗子さんはライター・翻訳家で,アメリカで約5年暮らし,最近,日本に帰国した人だそうです。
 文章を引用してみます。
  ・・・・・・
 新幹線の車中,おや,と耳を疑うようなアナウンスが流れてきました。
  "Please keep a face mask on and refrain from talking."
 日本語にすればなんのことはない「マスク着用のうえ,会話はお控えください」という,今では耳にしない日はないくらい当たり前の注意喚起です。しかし,アメリカでこう言ったらムッとする人もいるんではないかと感じました。
 というのも "Please" ではじまる要求には,決定事項を一方的に通達するようなニュアンスが漂うことがあるからです。もちろん文脈や言い方によりますよ。よるんですが,「あなたがた,もちろんマスクつけますよね。会話も控えますよね。じゃ,よろしくお願いしますよっ」と有無を言わさず要求している感じ。
  (中略)
  "Please refrain from talking."
といわれたら……?
 言論の自由や他者との対話を何よりも愛するアメリカ人,おもしろくない人もいるかもなと感じたのです。
 アメリカで同じことを要求するとしたら,たとえばこんなふうになる気がします。
  "Conversing on the train may cause the spread of virus."
 または
  "We appreciate you refraining from conversation."
  ・・・・・・
とありました。
 記事では,そのあと,次のように "please" について内容が膨らみます。
  ・・・・・・
 "please" があればどんな要求も丁寧になるのかというと,否。大人の世界には "please" をつけるより丁寧な,間接的な要求方法が多々存在します。
  ・・・・・・
 つまり,英語の "please" は,多くの日本人が普通思っている意味の「お願いします」ではないのです。
 しかし,新幹線の車内放送の誤訳? 名訳? から図らずとも明白にその本音がみえてしまったように,日本語の「お願いします」というのは,実は,丁寧にみせかけただけの,「お願いします」の言葉がない命令以上の念押しの強い命令の言葉なのです。つまり,「お願い」という名の強制です。腹黒いのです。
 ネット上に,「お願いします」といわれても法律上は従わなくてもよい,といった弁護士さんのお話が載っているのですが,そんなものは建前だけで,従わなければ法的な処罰こそ免れてもそれ以上に陰湿ないじめに遭います。従わなければ名前を公表するといった行政の制裁がそれを端的に物語っています。日本は権力からして,古のころの村八分にはじまる,庶民をいじめることが正当化されている忖度国家なのです。

 ところで,私がずっと気になっているのが「ご理解ご協力をお願いします」という文章です。
 先日,病院に行ったとき,さまざなお知らせの掲示が張ってあるのですが,そうした掲示の最後に,決まって「ご理解とご協力をお願いします」と書かれていて,私はそれをうざったいと思いました。それは「お願いします」なんかじゃなくて,この言葉の裏には「そう決まっているから必ず守れ」と念押しで書かれた上から目線の偉そうな言葉としか思えないからです。
 ビジネス業界では,文章の最後に「ご理解とご協力をお願いします」と書くようにと習うそうです。きわめて日本らしい話です。甘い砂糖につつまれた毒まんじゅうです。
 しかし,ビジネス英語でよく紹介されているこの言葉の正しい英訳は
  "We appreciate your understanding and cooperation."
であって,
  "Please your understand and cooperate."
ではないわけです。つまり,日本語では「ご理解ご協力をお願いします」であっても,英語では「ご理解ご協力をいただいて感謝します」なのです。
 「おもてなし」という日本人の大好きな言葉があります。この「おもてなし」も,その多くの場合,下心満載の言葉です。つまり,「おもてなし」は決して無報酬のものではなく,何かの見返りを期待しているわけです。しかし,それを表立って言わないというのが日本人の謙虚さと美徳,いや,腹黒さなのです。「お願いします」もまた「おもてなし」という言葉と同様に,言葉の裏に潜む日本人のあざとさを私は感じます。
 日本は「お願い」という名の強制国家なのです。
  ・・
 ちなみに,余談ですが,私は,新幹線に乗ったときに流れる車掌さんのへたくそな英語にいつもイライラします。

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 2021年7月24日の朝日新聞be版に「「自粛疲れ」していますか?」という読者アンケートをもとにした記事が載りました。この記事でアンケートに応募した読者のコメントとして「政府は私たちの命を守る気がないのがよーくわかりました」というものが紹介されていました。そのコメントは私も同意見なのですが,あえていわせてもらうと,そんなことは今にしてわかったことではないのです。
 国は,というか,権力者は,庶民にはつべこべいわずにできる限り働いてもらって,できるだけ多くの税金を取り立て,そこから甘い汁をすうことしか頭にありませんが,それは古来から同じです。そんな簡単なことは,きちんと歴史を学べば容易にわかります。
  ・・
 奈良時代の租庸調,江戸時代の年貢など,庶民は,今以上の増税に苦しめられました。庶民というのは,まるで,お上に税金を召し上げられるためだけに生きてきたようなものです。そして,争いや自然災害でもあれば,真っ先に犠牲になります。
 それは現在も変わりません。
 しかし,現代のサラリーマンは税金を天引きで収めているので,どれだけ税金を納めているかという実感すらない人が多くいます。年末調整などやめて,すべて確定申告にすれば,もっと税金に対する意識が高くなると思います。年末調整は,確実に税金を払ってもらうための制度ですが,それ以上に,いかに庶民が高い税金を払っているかを認識できなくすることが目的なのでしょう。

 オリンピックは,国民の収めた税金からひとりあたり3万円ほどの負担をしているといわれています。4人家族だと12万円です。また,さまざまな経済対策も,所詮は税金が原資です。国にはお金はありません。国のお金は税金を集めたものです。
 権力者としては,庶民は民主主義だとか権利だとか,そういったことにはなるべく無知であってほしいわけで,文句を言わず,ひたすらお国のために働いて,たくさんの税金を納めてもらえばそれでいいわけです。批判をされると自分のことは棚に上げてそれは愛国心がないからだと恫喝する権力者さえいます。だから,庶民はそうならないために,権力者が勝手気ままな政治をしないように,税金の無駄遣いをしないように,絶えず監視をする必要があるわけです。
 しかし,そこに重大な勘違いをしている人がいるのです。
 それは,所属する組織でちょっとした肩書を与えられているだけで本当は庶民であって権力者の側でもないのに,自分は権力者だと錯覚している人があまりに多くいるということです。歴史ドラマを見て,自分が織田信長や坂本龍馬だと思う人もその同類です。政府よいしょをしているような一部のマスコミもその同類だし,いわゆる「ネットウヨ」といわれている人たちも同じです。また,ちょっとだけのエサでつられてだまされていることに気づいていない人も多くいます。さらには,今の境遇より悪い境遇を例に出されてあれに比べれば幸せだといいくるめられている人もいます。こうなると,それは悲劇を越えて喜劇です。
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 このコロナ禍は,権力者がどういう人たちだったか,この国がどういう国だったのか,マスコミの報道がどういうものだったのか,というような現実があからさまになったこと,そしてまた,いかに多くの人が,何も知らず何も考えず,テレビや雑誌の報道をうのみにして,また,他人の目を気にして自分の意思を持たずに行動しているかということがわかったことが,最も大きな成果だったのかもしれません。

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3,000 times Anniversary of uploaded this blog today.

ブログをはじめて100か月。
今日3,000回目の更新を迎えました。
いつも読んでいただいて,
どうもありがとうございます。


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 今日の写真の花は「アガパンサス」というそうです。
 さて,AIによって,コンピュータの将棋ソフトが格段に強くなった結果,将棋中継で,局面の優劣が数値で表示されるようになりました。その是非もいろいろな意見がありますが,ともかく,観戦する楽しみが増したことは事実でしょう。
 以前,ニコニコ生放送で将棋対局が中継されていたころは,数値は,互角を0として,有利の方をプラス,不利の方をマイナスとして表されていました。プラス1,000点で優勢,プラス2,000点もあればほぼ勝勢という感じでした。その後,ABEMAで将棋対局が中継されるようになると,数値はパーセント表示となりました。この場合,互角が50パーセントで,優勢になるにしたがってパーセントが増えていって,100パーセントが勝利であり,99パーセントだと即詰みがあり,90パーセントを越すと勝勢,という感じにになりました。
 ニコニコ生放送では,この表示を評価値といっていましたが,ABEMAでの表示をどうよぶかということは多分定まっていなくて,解説をしている棋士も,勝率とか,以前のように評価値とかさまざまにいっています。私は,よび慣れているので,ここでは評価値ということにします。
  ・・
 さて,この評価値ですが,はじめは50パーセントで,局面がすすむにつれてどちらかに振れていくのですが,40パーセントから60パーセント程度までは互角の領域となります。30パーセント台になると,劣勢,その逆に60パーセントを越すと優勢であることが明白となってくる,という感じです。そこで,応援している棋士の評価値が40パーセントを切って30パーセント台になると,見ているほうの気分が暗くなってきます。

 ということで,そんな将棋の対局を見慣れてきた私は,自分の気分もこうしたパーセントで表せるなあと感じるようになりました。今日は何パーセントの気分だ,というようにです。そこで,それをさらに発展させて,いろいろな場所に旅したとき,その土地を自分がどう感じるかも,こうした数値で表せると思うようになってきました。そこで,そんな数値で私がこれまでに行ったいろいろな国をを表してみます。これは,その国のよし悪しではなく,私の思い描く感情です。
 まずは,私の住むこの国です。どうやら,私はこの国に暮らしていると,将棋の対局を観戦していて応援している棋士の評価値が35パーセントくらいに触れたときの気分でいることに気づきました。つまり,この国は私にとって評価値35パーセントの国なのです。
 この国を美しいとか平和だとかいっている人は,おそらく,ほかの国に行ったことがないか,あるいはもっと評価値が低い国しか行ったことがない人たちでしょう。私もまた,イメージだけで,日本よりも評価値が低いと勝手に思っている国もたくさんありますが,もともと,そのような国には,興味もないし旅をしないので,その実態は知りません。
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 いずれにせよ,この国に対して,名ばかりの民主主義やら責任の逃れのやったふりやら無計画なインフラやらと,私はいつも,もう少しなんとかならないものか,という気持ちばかりが起きます。それは,好むと好まざるとに関わらず生まれた国なのでつき合っていくしかないからですが。

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 幕末,のちの大村益次郎である村田蔵六は,すれ違った人に「暑いですね」と声をかけられて「夏が暑いのは当たり前です」と答えたそうです。日本はいまのところ涼しいのと,相変わらずコロナ禍で頭がいっぱいなのですっかり忘れていますが,村田蔵六に言われなくとも,夏は暑いのです。
 昔から日本人は何かに夢中になると,国民すべてが熱病に侵されたようにそのことだけに一途となり,他のことを忘れてしまうのです。私は日本のテレビの報道番組はまったく見ないのでわかりませんが,テレビ番組欄を見ると,コロナ禍の話題ばかりです。ほかにも重要な問題がたくさんあるのに,と思います。
 もともと,そんな猛暑にオリンピックを開催するなんてもとからどうかしていますが,それに加えてコロナ禍。そこで,観客を入れようと入れまいと,報道の人は屋外でマスクをして取材をしたり,重たいカメラを抱えて写真を撮ったりすることになるわけで,気の毒を越えて,これは狂気です。

 アメリカはすでに猛暑で,40度越えだそうですが,そこで思い出したことがあります。
 今日の写真は2019年の初夏に行った,摂氏60度を超える世界一暑いといわれるアメリカ・カリフォルニア州デスバレーです。
 私が行ったときは,朝7時16分ですでに華氏100度(摂氏約37度)ありました。
 一度は行ってみたいと,念願だったデスバレーだったのですが,初夏とはいえ,私が行ったときはお昼過ぎには摂氏50度を超えていて,前日,近くのホテルに宿泊していた私は,行くべきか止めるべきかずいぶんと迷いました。車がオーバーヒートしたら大ごとです。
 迷った結果,午前10時には帰るつもりで,大量の水を買い込み,早朝5時に出発して行くことにしました。予定通り,午前10時に帰路につきましたが,帰るころはすでに華氏109度(摂氏43度)でした。それでも,何事も起こらず,無事に帰ってくることができました。
 私が経験したのはわずか摂氏40度を超えるほどの気温でした。それでも,服を着たほうがすずしく,炎天下では,まさにフライパンの上の卵,つまり,目玉焼き状態のようでした。

 日本の夏は,私がデスバレーで体験した気温までは上がらずとも,コンクリートの上では摂氏40度を越えるといわれています。ということで,炎天下の屋外は,人が耐えられるところではないのです。
 たとえ,室内の競技であっても,そこに行くためには,当然,外を移動する必要もあるし,その秩序を守るために屋外で働いている人たちもいます。おそらく,現在のような状況でなかったら,オリンピックの問題は,今ごろは,猛暑をどのように克服するかといったニュースで,これもまた,国中が熱病に侵されたかのように,その話題一色になっていたことだろうと思います。この国は,ひとつのことに熱中するのでなく,多くの複雑な問題を理論的に考えて,知恵を出し合い,民主主義のルールで判断するといった能力に欠けています。
 江戸時代でもあるまいし,こそこそとお偉い人たちだけで浅知恵をしぼって結論を出して,納税者の言うことに耳を貸さず独裁的に物事を進めるなんて,時代錯誤です。そもそも,日本の真夏の炎天下でオリンピックをすること自体,コロナ禍であろうとなかろうとまともな話ではありません。はじめから無理なのです。


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 ニコンという会社があります。このところ,スマホの影響なのかどうかは知りませんが,本業のカメラが売れず,この会社,いろいろといわれています。もともとは天下の三菱グループ,漏れ聞こえてくる話では,かなりのホワイト企業で,給料も高いのだそうです。社内は年功序列,成果主義もなく,新しいことなんてしたくない,製品の企画も途中でやめて完成しない,というムードに満ち溢れているそうです。リストラで有望が若手が次々と辞めているという話もあります。
 現在もまた,商品開発でかなり出遅れていて,こんなことでは先行きが危ういのにも関わらず,高級品の開発だけが予告され,一向に,噂されるレンズや入門者向けの新製品が出る兆候すらありません。
 おそらく,オートフォーカスが普及しはじめたころはミノルタ,カメラがディジタル化に向かったときはキヤノン,そして,ミラーレス一眼ではソニーという会社のおかげ(せい?)で,仕方なく,いやいや後追いで新製品の開発をしているようにも思えます。もし,そうしたライバル会社がなければ,今でも,延々とニコンFの改良版を作り続けていたかもしれません。そしてまた,そんな保守的な会社の製品を,未だにニコンというブランドを信じて愛好している人が,私を含めて少なくありません。

 とまあ,これは一例ですが,この日本という国の人々の本質は,ひと言でいえば「何も変えたくない」のだと,ある人が言っていました。先にあげた一企業同様,できれば現状維持でいい,というのがおそらくは本音なのでしょう。それは,歴史を思い起こせば容易にわかります。そうした特徴が最も如実に表れているのが,平安時代と江戸時代です。外から揺すられない限り,現状維持の社会体制が脈々と続くのです。借金の山がやがて自分の身に降りかかる不幸など我関せず日本に生まれて幸せ,という保守化した若者がその予備軍です。
 本音はずっとそうしていたいのに,何かのきっかけでそうしていることができなくなったとき,そのほとんどは外圧によるものですが,何かのエネルギーがいやいや起きて,激動の時代となるのです。そのひとつが明治維新でした。そして今度は,走りはじめてしまうと止められない。だから,明治維新も第2次世界大戦で負けるまで改革を続けるし,リーマンショック後の金融緩和も終われない。そしてまた,今回の東京オリンピックも止められないわけです。それもまた「何も変えたくない」からです。
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 今の時代は,世界ではインターネットやら人工知能やらといった情報技術が急激に進歩しているのですが,「何も変えたくない」この国は,そうした世界からの流れに完全に取り残されています。
 将来を担う若者を育てなければならない学校教育にしても,数年に1度,表向きにはカリキュラムを変えてはいるものの,それを考えている人たちも,そうした仕事は,所詮,出世するための踏み台にすぎず,真にこの国を変えようなどという意思はさらさらない保守的な人たちの集まりだから,根本的には何も変わりません。たとえば,今の教科のままでいいのか,とか,何を学ぶか,などの根本的な議論はしないで,今のまま,少しの項目を削ったり増やしたりしているだけだから,内容のほとんどは50年前とまったく同じです。そしてまた,大学入試改革でも失敗を繰り返し,その結果,教育産業が栄えるだけで,何の成果ももたらされていません。学校現場もまた,スマホすら使いこなせない多くの教師は未だに大学合格者の数を競うことが仕事だと思っていて,過去の入試問題を解けるようにすることを授業と称して3年間を費やしています。
 同じように,国も,マイナンバーとやらを作ってみたところで,税金を取ることだけが目的で,それを積極的に活用する意思も視点もないものだから,活用すればかなり効果的なのに,新型コロナウィルスのワクチン接種では,また新たな固有番号を自治体が独自にふったりして,おまけに,やっつけ仕事だから各地で混乱が起きています。
 このように,すべてがその場しのぎなのです。そもそも,そうした施策をしている人たち自身が,学生時代に大局的に物事を考えるような教育を受けておらず,コンピュータの仕組みも知らず,単に点数稼ぎの上手な人たちがエリートとなり,責任を被らないことだけは一人前だから,こんな無様な状態です。こんなことでは,近い将来,ワクチン接種証明書などという公的なものが必要となっても,再び混乱することは目に見えているわけです。本当にお気楽な国です。

 その一方で,やたらと道路を作ったり,リニア新幹線を作ったり,オリンピックに万国博覧会にと,自然を壊したり,新しい箱モノを作ることには熱心です。しかしそれは,新しいことが好きだからではなく,そうでもしないと多くのゼネコン会社の仕事がなくなってしまうからです。だから,将来についての視点があるわけもなく,仕事をつくるために前例を踏襲してやっているだけの話です。要するに,作っては壊し,作っては壊し,つまり,幼児が砂場で遊んでいるようなものです。そうして,日本の自然がどんどんと壊されていきます。
 歴史上前例のない高齢者社会となった今日,新たなインフラなど作っても,将来はそれを維持することにも困るから,これまで通りに仕事をしていては先行きはありませんが,おそらく,自分に責任が被らなければ,そんなこと知ったこっちゃないのでしょう。
 私は,この先はもう,新しいインフラなど作らず,これまでに作って無駄になったインフラを壊して再び自然に戻すような工事をしたほうがずっとマシだと思うのですが,なにせ「何も変えたくない」国民なのですから,そんな思い切った新たな試みを企てることなど到底できないでしょう。
 かくして,この狭い国土は,廃墟と化していくのです。
 何を憂いたところでこの国の本質が変わらないのなら,そんな国に住む私もまた,今の楽しい生活を「何も変えたくない」ので,そんな外界とは縁を切り,せいぜい自宅で音楽鑑賞と読書にはげむとしましょう。


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 この国では「シャープ(♯)」と「ハッシュ(#)」を混同しているようです。
  「シャープ(♯)」は音楽記号で,ユニコード(コンピュータ上の文字コード)は「U+266F」です。読み方は「シャープ」「嬰記号(えいきごう)」,英語では「sharp」です。
 一方,「ハッシュ(#)」は番号を記す際に用いられる記号で,ユニコードは「U+0023」です。読み方は「番号記号」「番号符」「ナンバー記号」「ナンバーサイン」「ナンバー」「井桁」「ハッシュ」「パウンド」,英語では「number sign」「numerical sign」「number key」「hash mark」「hash key」「pound sign」「pound key」です。
 電話の「#」キーやコンピュータのキーボードで打つことができるのは「ハッシュ(#)」のほうです。
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 最初に書いたように,「シャープ」と「ハッシュ」は混同されて使われています。そもそも別物だという認識すらないケースがほとんどです。 電話の音声案内で「~シャープを押してください」というメッセージが出るのですが,正しくは「ハッシュ」です。日本ではこの「シャープ」という間違った読み方がすっかり定着してしまいました。

 ちなみに,電話で「*」キーも「コメ印」とよぶことが多いですがこれは「星印」,英語では「star key」,ユニコードは「U+26B9」です(ただし,このユニコードはネット上では表示できないようなのでここでは便宜上「アスタリスク」で表示してあります)。こちらも「アスタリスク(*)(*)」とは異なって,アスタリスクは左と右が開いていますが,上と下が開いています(=1番目の写真)。
 「アスタリスク(*)(*)」は英語(ラテン語)では「asterisk」,ユニコードは半角では「U+002A」全角では「U+2217」です。ただし,iPhoneの電話では何かの間違いか誤解で,あるいは意識して「アスタリスク」が表示されています(=2番目の写真)。
 コンピュータのキーボードで打つことができるのは「アスタリスク」のほうです。
 余談ですが,「*2*2」(コメニコメニ)とは,ポケベルが流行した時期,カナ変換をするためにまず最初に「*2*2」を打ち込むことから流行った言葉ということですが,私はポケベル世代の前なので,知りません。

 と,ここまでは知る人ぞ知る有名なお話(ただし,「アスタリスク」については間違った説明が多く見受けられます)ですが,これを書いていて,私は「トニイホロヘハヘロホイニトハ」という呪文を思い出しました。これは正しくは呪文ではなく,楽譜に記載された「シャープ(♯)」と「フラット(♭)」記号の数による調性を覚えるための言葉です。
 私が通った中学校は音楽科でもないのに,音楽の授業でやたらとむずかしい楽典を習いました。確かにピアノとか習っていた人が多く,そういう人たちにはこれで十分だったのでしょうが,私にはまるでちんぷんかんぷん。そこで友人が教えてくれたのがこの言葉だったわけですが,音楽とは関係なく,楽典も数学の公式みたいなものだから,それはそれでテストは何とかなりました。まったく楽器も弾けず音楽の才能もない私が,今,クラシック音楽を楽しめるのはこの授業でほどほどの楽典を習ったからでしょう。
 それにしても,音楽というのは不思議なものです。ミとファ,シとドだけが半音で移動するし,それを楽譜という形で表記するというのは,そもそもだれた考え出したことなのでしょう。数学の表記もそうですが,別に,このように書き表さなければならないという必然性もないのに定着して,それを当たり前と受け止めているわけです。
 そんなことを考えてみると,人間の考え出した記述というものの不思議さを思います。


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