しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:「不良老人」の勧め

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 以前,私は次のように書きました。
 ・・・・・・
 アメリカは「担任のいない小学校」のようなところだと思うようになりました。…要するに,欲望のおもむくまま生きているのです。だから,クラスのリーダーがドラえもん(Doraemon)のジャイアン(Big G)みたいなやつでもそいつを支持して,ジャイアンがやっちまえ,と命令すればそれに従ってのび太(Noby)をいじめたりするわけです。そして,しずかちゃん(Sue)にはデレデレなのです。実に単純な世界です。
  …と思っていたのですが,では日本は? と考えて,ハタと思い当たりました。日本は「担任のいる幼稚園」です。だから,担任の先生がこうするんですよ! と言えば,それが正しかろうと間違っていようと,規則であろうとなかろうと,疑問も持たず逆らいもせず従うのです。しかし,正式な規則を越えたそんなご指導は先生次第なのです。そして,先生のご指導に従わないやんちゃな子がいれば,「先生に言いつけるわよ」というマセた,かつ,まじめなだけの女子がそれをたしなめるわけです。日本は「担任のいる幼稚園」と考えれば,その行動はすべて簡単に理解できます。
  ・・・・・・
 そしてまた,
  ・・・・・・
 私がどうしても理解できないことは,60歳を過ぎて,まだ野心をもっている人の気持ちです。
 若いころなら,自分にはどれだけ能力があるのだろうかと社会に問うのは,おそらく人としての本能だと思うのですが,そうした時期を過ぎて,しかも幸いにも自分なりに成功し,将来に対する不安もないくらい財を成した人が,せっかく悠々自適に好きなことをして過ごせるようになったのに,どうしてまた,と私は思ってしまいます。
 …それは,自分の身を投げうってまで,世のため人のために尽くしたい,捧げたい,という強い使命感からくるものなのでしょうか? それとも,歴史に名を残したいという名誉欲から来るものなのでしょうか? あるいは,人の上に立って社会を自分の思うがままに操りたいという支配欲からのものなのでしょうか? はたまた,やりたいことがないから暇つぶしをしているのでしょうか?
  ・・・・・・
 とも書きました。

 しかし,どうやら,私の分析は,大間違いだったようです。
 実際は,日本は「担任のいない幼稚園」だったのです。というか,担任の先生はいるのですが,もう,だれも,担任の先生が何を言っても聞きません。それは,これまで,担任の先生はいつもオオカミが来るぞ,オオカミが来るぞ,とさけんでいるだけで,幼稚園のよい子たちは,先生こそ,もっともそれを信じていないということを知ってしまったからです。だから,担任の先生など,いようといまいと関係がなくなってしまったのです。
 それだけならまだしも,先生が,オオカミなど怖くもないと率先して外で遊んでいて勝手放題にやっているからよりたちが悪かったのです。しかし,よい子たちは賢く冷めているから,先生が何をしようと言おうと,反対もしなれば,反抗もしません。しかし,聞くふりをしているだけで,それに従うこともなく,無視して勝手なことをしているのです。
 そしてまた,60歳を過ぎて,まだ野心をもっている人の気持ち,というのも私の考えすぎだったのです。実際は,野心などもっていなかったのです。そんな大それた意思などこれっぽっちもなく,コンプレックスの反動で世間を見返してやりたいと,田舎から出てきた教養もなく人に自分の考えをろくに話すこともできない,そしてまた,スマホひとつ使いこないオジサマ方が,単に,各界の一流人と一緒に花見をしたり高級ステーキを食べたかっただけなのです。

 ところで,そんな世間とは一線を画して,私はこれまでずっと「高等遊民」になりたいと願って生きてきました。私自身は高等ではないから,それはあくまで目標であり願望ですが。そしてまた,自由を手に入れることこそが人の生き方の究極の幸せだと信じていました。
 自由を手に入れるには持ち物は少なければ少ないほどよいし,身ひとつでいるのが最高の贅沢なのです。必要なのは「夢と勇気と知恵」であって,根づくだけの家もいらないし,車も故障なく動けばいい。その気持ちは今も変わりません。群れることもありません。だから私は,高級レストランでステーキを食べるくらいなら,スリッパ履きで近所の吉野家にでも出かけて気兼ねなく牛丼をかきこむほうがずっと気楽だし自由だし楽しいと思っています。
 そんな私が思うに,もう,この国はめっちゃくちゃです。表向きは従っているふりをしているだけで,みんな好き放題・やりたい放題・言いたい放題です。国の借金は雪だるま式に膨れ上がり,政治家は専門家の意見を無視し,学問の自由に政治介入し,学校もICT化といいながら,最低価格の性能の悪いコンピュータが数十台あるだけだし,インターネットもなかなかつながりません。講義がオンラインになった大学生も,その多くは高校までの詰め込み教育・プリント学習の成果で自主的に勉強をする習慣すらないから,何をしていいのかわかりません。そして,社会に横行するのは振り込み詐欺やら本人の知らないうちにお金が引き落とされるような〇〇Payとかいうキャッシュレスサービス。テレビをつければ報道番組は不安を煽り,ネット上にあふれる口コミは中傷だらけ。そんなものに接して精神が病まないのはよほど鈍感な人だけです。
 そんな国で自分の身を守るためには,子供がおもちゃ箱をひっくり返したような,そんな散らかった部屋の中で,おもちゃを踏んで足をケガしないで歩く方法をひたすら考えて,自分の身は自分で守ることしかないのかもしれません。

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 物理的に裕福であることは当然大切ですが,それよりも大切なのは精神的に裕福であることです。
 私は,若いころから,やりたくないことはできるだけしないで,また,させられないで,やりたいことだけを少しだけ贅沢にやって生きることを心掛けていたのですが,それは組織のなかで生きていくには最も困難なことでした。このブログのタイトル「しない・させない・させられない」というのは,この「したくないこと」を「しない・させない・させられない」という意味なのですが,そのように生きることができることこそ,まさに精神的に裕福であることだし,私の理想でした。
 組織から離れ,「不良老人」を目指すことができる,まさに,そういう年齢に達したので,これからはその理想に近づくために,今こそ,そういう生活を日々実現しようと考えました。

 まず,私はお酒 -もともと強かったのですが- を呑むことをやめて,お酒は気のおけない楽しい人と少しだけたしなむようにしました。この国の社会人は,日々残業に追われ,楽しみと言えば仕事の後で一杯やる,というだけなのが寂しいです。駅の近くの繁華街なんて,そんな店ばかりですが,冷静に考えてみればわかるように,単にトマトをスライスしたものが弁当よりも高い300円もするなんて,ロクな商売ではありませんし,そんなものにお金を使ってストレスを解消しなければならないなんて,気の毒な限りです。それに,ストレスを解消するために飲むお酒なんて,ろくなことは起きません。
 ストレスのない私はそういうお酒を呑む必要がないし,呑んでも酔わないので意味がないのです。それに,私の知る限り,退職しても酒を辞められない「酒呑みの老人」はかなり周囲の迷惑です。

 次に,車で移動しなければならないときは,有料道路があればできる限りそれを利用することにしました。それは運転に余計な気苦労をしないためです。特にこの国は,ドライバーのマナーは最悪,道路の整備は最小限,美観も最低,という現状なので,車を運転しても楽しいことなどありませんし,精神が劣化するだけです。車に乗りたければアメリカやオーストラリア,ニュージーランドでドライブしたほうがずっと快適です。
 また,電車を利用するときは,座席指定があれば極力それを利用することにしました。車の運転と同じように 満員電車に混雑するホームで並んでやっと乗ると今度は空席を競い合う,あるいは混雑する車内で立つ場所すら気を配るという状況で利用するのは疲れるからです。しかも,邪魔になるだけなのに中に入らず扉の付近に立っているようなマナーの悪さなど,腹立たしいものがあります。幸い,私の住む愛知県を走る名鉄には360円出せば座席指定に座れるという特急が走っているので,それを利用するときわめて快適なのです。
 私の友人の「酒呑み老人」は,自分は酒にいくらお金を使っても無駄だと思わないのに,この座席指定を贅沢だと言い,私を見下します。しかし,実は,こうしたちょっとした贅沢は,使いもしないものを買ってお金を浪費したり,酒を呑むことに比べたら,ほとんどお金がかからない贅沢なのです。

 さらに,老人が投資をするなんていうのは愚の骨頂です。金融機関というのは,証券会社に限らず銀行もまたおいしいことを言って実は庶民からなけなしのお金を集めるだけで,利益があれば自分たちのものとし損益が出れば庶民に負担させるという仕組みであるのは少し考えればわかります。
 私は自分で考え,ファイナンシャルプランナーなんてまったく信用していないから,今までに投資をして損をしたことがなく,今でも手を出せばかなりの利益を上げる自信はあるのですが,老人がそんなものに一喜一憂するのは時間の浪費です。仕事を離れてもなお日経平均が上がったの下がったの,円が上がったの下がったの,そんなことを気にしていては人生楽しくもありません。
 そんなことに時間と頭を使う余裕があるのなら,音楽を聴いたり,語学や物理学の勉強をする方がどれほど精神が豊かになることでしょう。贅沢をするというのはお金を増やして浪費することではなく,精神的に豊かに生きることだからです。

 老人は,学生とは持ち時間が違うのです。だから,将来のための貯蓄よりもいかに持っているお金を有効に使うか,ということのほうが大切なのです。お金は精神を豊かにするために少しだけ贅沢に費やすことが最も「粋」な「不良老人」である証となるのです。

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 今から約10年前,私のいた組織の上司は「俺は責任者だ」というのが口癖でした。しかし,実際は何かまずいことが起きると俺を守るのが部下の仕事だというだけで,自分は責任をとったことがないばかりか,自分の保身だけを考えていました。愚かな輩でした。
 この輩のように、能力もないのにプライドが高くて身の程知らずで偉くなりたいだけの人がいます。
 事業家なら失敗するくらいの低い能力であっても,組織なら偉くなれます。しかし,そうした地位に就くともれなくついてくるのは「責任」だけということを知っているのか,あるいは「責任」など結局は口先だけだと思っているのか,そうした輩が多すぎます。しかし,実際は責任の取り方すらご存知ないのでしょう。

 組織に勤めるというのは自分の貴重な時間をその組織に売ってその代償で給料をもらうということです。そういう生き方をすれば、身の丈でささやかに生きることができるし,それだけでよいのです。組織で偉くなるなどという大それたことは能力がある人が気の毒にも自然とその地位に押し上げられてなるものです。でないとまわりが不幸になります。
 しかし,所詮,組織に属して仮に高い地位を得たとしても雇われ上司では生涯に受けとる給料は限られています。そこで,芸術家やスポーツマンのように,よほど神様から与えられた才能があるならともかく,それほどでもない人が人以上の収入を得ようとするなら,自分で組織を作ってマネジメントをするしかありません。
 たとえば,ささやかな理髪店を経営して自分で仕事をしても収入には限りがあります。そこで,マネージメントをする,つまり,チェーン店を増やして従業員を雇い,自分はマネージャーとなる,というようなことです。こうすることで自分の能力以上の収入が得られるようになります。しかし,経営者としての能力がないとある規模を越えたところで破たんを起こします。そこに大きな壁があるわけです。
 そうした悲劇は,これまでも数多く起きていますし,今日も様々な事件が世の中を騒がせています。
 
 いずれにせよ,組織で偉くなろうと,起業家になろうと,どちらにしても,もれなく「責任」だけがついてきます。
 しかし,何事かが起きてしまい,実際に「責任」をとらなければならなくなったときに,どれほどの人が本当に責任をとっているのでしょうか? 言葉では「責任はすべて私にある」という人は多いのですが,実際に責任をとった人がどれだけいるのでしょう。責任をとるにも能力がいるのです。責任をとるというのは記者会見で頭を下げたり辞めるということではないのです。
 だから,本当に「責任」がとれるような能力を授かった人だけがそういう地位に就くべきであって,そうでない人がそんな人生を目指すとまわりの人が迷惑するのです。したがって,そういう能力のない人は地位など求めず「不良老人」を目指すべきなのです。その方がたとえ収入が少なくても自分も世間も幸せなのです。すべては「身の丈」です。

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 歳を経るとだれもが「今どきの若いモンは」と言います。
 私の若いころはそうした年寄りの多くは今よりもずっとプライドが高く頑固だったので,かなり迷惑しました。世はアナログ時代のころのこと。たとえ屁理屈であろうと口で言ったモンが勝ちでした。だから,能力がなくても偉そうな態度をしていればよかったのです。
 やがて1990年代になってコンピュータのOSにWindows95というのが現れて,そうした頑固じいさんは時代に乗り遅れました。プライドの高さがそれに災いし,人にも聞けず,コンピュータ時代についていけなくなったのです。ついに彼らの化けの革がはがれました。その結果,イソップ物語の「キツネとブドウ」の話のように,自分の弱さを隠すためにコンピュータを使っている若者をバカにしくさりながら,やがて時代の孤児となっていきました。

 時代は変わり,そうしたころの若者もやがては歳をとりました。そして,スマホが現れ,SNSが幅を利かせはじめて,ふたたび同じ悲劇が訪れました。その結果,やはり,今日の頑固じいさんも時代の孤児となっていくのです。
 プライドが高くとも頑固でなければ新しい技術を自分で習得するからまだマシなのですが,頑固じいさんはどうにもなりません。やがて定年を迎えて,家では粗大ごみとなり,朝から図書館の新聞取りに並び,民放のワイドショーを見て得ただけのくだらぬ知識を自分の意見のようにひけらかし,つねに妬(ねた)み,僻(ひが)み,不機嫌で愚痴をこぼす嫌われ者の年寄りとなっていくのです。
 こうして歴史は繰り返すのです。

 私のまわりにもそうした年寄り初心者がたくさんいます。
 私が残念に思うのは,若いころは尊敬に値した優秀な友人たちの多くがそうした頑固じいさんになってしまったことです。
 数年前,私が彼らにSNSやスマホを勧めても話に乗ってこなかったくせに,今になって関心を示し,ある者はそれに対して否定的な意見を声高らかに話し,また,ある者はそれとは逆に使いこなせないのに傍若無人にSNSを乱用しはじめているのです。
 頑固じいさんは損をするのです。そして,昔も今も「年寄りは困ったモンだ」と陰で言われるのです。

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 どこぞの国の偉い人が巨大な墓を作るのも,どこぞの県知事や市町村の長という人が大きな建築物を作るのも,自分の任期中にそれをやって歴史に自分の名を残したい,ということです。歴史を学ぶと,権力者という人種はみなそんな動機をもっているものだとわかります。しかし,どうして歴史に名を残したいのでしょう? 私は,子供のころからそれが不思議で仕方がありませんでした。 
 私が思う「最も幸せな人生」とは,自由に生きることができて,そして,死んだら生きた証を何も残さないことだとずっと思ってきましたが,それとは真逆な話です。

 地球の歴史は48億年だといわれています。また,宇宙の歴史は138億年だそうです。
 地球の歴史はともかく,宇宙の歴史については,私はほんまかいな? と思っています。以前書いたことがありますが,そもそも物理学というのは物事の真理を語るものではなく,人間の考えた数式で物事の仕組みや将来の動きを語れるような,そういう法則を見つけることです。たとえば,手の上にあるボールを放すと何秒後に地面に落ちるかということを正しく計算できる,というようなことです。
 そうした法則に基づいて,テレビも映るしコンピュータも動いているわけです。それだけのことです。
 そうした法則に当てはめていくと,今までに考えられた物理学で宇宙の創生10のマイナス44乗後から後のことは説明がつくらしいのですが,それ以前のことは,量子論と相対性理論に矛盾が出てくる(つじつまが合わなくなる)ので,現在の物理学では語れないのだそうです。そしてまた,それ以後のこともダークマターとかダークエネルギーという,今はまだそれが何なのかわからないものを前提とすることで説明をしているわけで,要するに95%の物質が不明であって,ほとんど何もわかっていないのです。それは,人間の考える物理学というものが人間の存在する空間と時間という,いわばごくごく狭い隙間から世界を見ているだけなのに,そこから見える景色だけで世界を一般論として語っているようなものだからです。宇宙原理など空想,かもしれません。
 とはいえ,それでも十分に現代の工業製品は役に立っていますから日常の生活には充分です。しかし,宇宙全体を語ることはできないのです。
 私は,神は人間に世界を語るだけの能力を授けていないと思っているのですが,もし,そういう能力をもっているとして,将来そうしたことがわかるようになったとしたら,アインシュタイン以前のニュートン力学が単に近似であったように,現在の物理学というのは,未来人から見たら笑っちゃうような間違いをしているのかもしれません。というよりも,おそらくそうなのでしょう。

 それはさておき,人類が生存している期間というのは地球の歴史に比べたら本当に微々たるものだし,恐竜の生きていた期間とも比べようもないほど短いものです。愚かな人類の歴史がこの先悠久に続くとは私にはとても思えません。おそらく,あっという間になにかの間違いで戦争が起きてあっさりと滅んでしまうことでしょう。あるいは私の考えが杞憂にすぎず人類がずっと生き延びたにせよ,あと50億年もすれば太陽に飲み込まれてなくなってしまいます。
 そんなはかなきものにすぎないのに,地球上に巨大な墓を作ったり建築物を作って名を残そうが,どっちみちなくなってしまうから,そんなもの,まったく意味がないわけです。「未来永劫」なんてありません。それだけのものです。
 私が子供のころから思っていたのはそういうことでした。そんなこともわからないのでしょうか?

 しかし,だからといって,いずれは滅ぶからといって,生きることに意味がないわけではないのです。
 人生は死ぬまでの暇つぶしです。であるなら,できるだけ楽しく暇をつぶさないと辛いだけす。そしてまた,自分の暇つぶしのために他人を不幸にしていいわけがありません。地球をぶち壊していいわけがありません。
 たとえば音楽。どんなに素晴らしい曲でもはじめがあればいつかは終わるわけです。しかし,いつかは終わるからといって聴く意味がないわけでも,演奏する意味がないわけでもないのです。聴いている,あるいは演奏しているその一瞬一瞬の時間に意味があるわけです。それこそが楽しい暇つぶしです。人生もまた,そうしたものです。
 だから,今という瞬間を満ち足りて生きる,ということがもっとも大切なことなのです。決して名を残すことではないし,自分の名を残すために他人を犠牲にすることではありません。

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 この国には住みたいところがありません。街を歩いていて,ここなら住んでもいいなあ,とか,この家は住みたいなあ,というところは皆無です。どこも狭い土地に無理やり建て売り住宅を作って分譲しているだけです。それでも結構な値段です。そうしたことを延々と続けて来た結果,どの町も景観に対する配慮もなく,不便極まりない状態になっています。また,そうした家は大概2階建てですが,将来,子供が独立したら初老の夫婦が住むには全く適さないものとなります。しかも,やっと住宅ローンを払い終わったころに,今度はリフォームが必要となります。そしてまた,その家の主が亡くなって相続しても,今度は売れないので単に負債となります。そして駐車場ばかりが増えていきます。
 マンションの場合,今度は,子供が2人いると住むことのできないような間取りになっているので,これがまた少子化に輪をかけています。そもそもマンションなど,毎月の共益費とか維持のための積み立てを考えると,賃貸アパートと差がありません。しかも,マンションを売るとなると,その資産価値は賃貸アパートを借りて賃貸料を払っていたのとほとんど差がないほど目減りしています。
 生きるのにもっとも大切な「住」がこんなことでは,いくら「食」に関しては世界で最も快適であっても,この国はどうにもなりません。…と,私はずっと思っていて,海外旅行をして,海外の住宅を見るたびに,ますますその確信を強くしているのですが,そんな現実を知らず,未だ持ち家信仰が深く年収の数倍のお金を出して家を買い人生をローン漬けにしている人たちをとても哀れに思います。
 そもそも,持ち家というのはそこに「根」をはるということなので,人の目指す最高の幸せである「自由」とは真逆のものです。

 芸術家や勝負師,あるいは,起業家のような,自分の能力で生きている人は別として,既成の組織のなかで偉くなる(高い地位を占める)とか,名誉を手に入れるというのは,最も愚かな生き方です。
 仕事というものは自分の限られた人生の貴重な時間を売って生きるためのお金を手に入れるという作業です。だからこそ,売った時間はきちんとそれに打ち込むことが大切なので,仕事はきちんとこなさなければなりませんが,そうした時間は少なければ少ないほどよいわけで,50歳をすぎ,残り時間が少なくなってきたころにさらに自分の多くの時間を仕事に費やさなければならない地位に就くなどというのもまた,人の目指す最高の幸せである「自由」とは真逆のものです。
 理事長になりたいから力士になるわけではないでしょう。将棋連盟の会長になるために棋士になるわけではないでしょう。あるいは,学長になるために研究をしているわけではないでしょう。そうなっている人のほとんどはだれかがそうした立場にならなければならないのでそうした地位にさせられれてしまった気の毒な人です。
 私のまわりにもそうなって(あるいはさせられて)から退職した人たちがたくさんいますが,彼らを見ていると,貴重な50代を単に仕事で追いまくられて貴重な時間を無にし,しかも,単に組織を管理することに多忙であっただけで何も残せなかったという,そういう現実を目の当たりにして,私はとても同情します。
 しかし,人というのは何かを勘違いする生き物で,組織の中にいるとそういう地位に就くことを「出世」と勘違いしはじめたり,あるは,不幸にもそうなってしまった後に退職してやっと自由を手に入れても,何を考えているのか未だに地位にこだわっている哀れな人や自分を偉いと勘違いしている人さえいます。

 …などということをなんとなく思っていたら,人の最高の生き方というのは,まさに「寅さん」だったということに思い当たりました。「寅さん」は的屋という仕事をしているので無職ではありませんが,自由気ままという感じが私には無職のように思われます。端的にいえば「住所不定・無職」,そして偉ぶらず「人にやさしい」ということこそが,最高の幸せの姿であるわけなのです。それこそが,実は多くの人が望んでいるにもかかわらず,最も得ることが困難な生き方なのです。

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 今年も成人式が終わりました。しかし,若者の将来は大変なのです。危機的状況です。
 人口減少と高齢化という問題が指摘されていますが,実際そのイメージを具体的に数値化されたものは意外と少ないものです。そこで今日はそのイメージを数字で書いてみることにします。
 日本の人口が順調に増加し,それに伴って15歳から64歳までの「生産年齢人口」も増加していたのは1990年まででした。1990年を境として急激に年少人口が減り老年人口が増えはじめたのですが,それでもまだ2005年までは人口が増加し続けたので,事態の深刻さを指摘する人は多くありませんでした。私はそのころ,人口構成を考えると将来日本は破たんするわと問題にしていましたけれど…。
 しかし,2005年を境についに人口が減少しはじめ,それに伴って生産年齢人口が減少し老年の人口比が驚異的に増えはじめました。それがいまも続いています。むしろこの生産年齢人口の減少が問題なのです。
 具体的には次のようです。
 1990年ごろの人口構成は,老年人口が全体の10%程度で年少人口が20%程度だったので,生産年齢人口は70%を占めていました。それが2015年になると,老年人口はなんと25%を突破したのですが年少人口は15%程度まで減ったので,生産年齢人口が60%になりました。これが現在の状況です。
 今後,年少人口は10%程度まで少しずつ減少し,反対に,老年人口は2025年には30%,2050年には40%に達すると予想されています。つまり,30年後の日本は「年少人口と老年人口を合わせると50%を超す」わけです。しかしこれにもうそがあり,実際は生産年齢人口とはいっても15歳で働いているような人はまれだから実際に働いているのは50%のうちのさらに半数程度の25%くらいのものです。
 したがって,今年の新成人が50歳を越える2050年には「人口の25%が75%を支える」という,とんでもないことになっているわけです。

 このような現状なのに,日銀はバカで,相変わらず2%のインフレを目標に,物価の上がった分だけ賃金をあげるような政策をとっています。そんな時代遅れの常識は生産年齢人口が多いころには効果もあるでしょうが,賃金をもらう人よりも年金をもらう人のほうが多いような国では「物価が上がった分だけ生活が苦しくなる」し,将来を心配して賃金をもらっている生産年齢人口の世代は「賃金の増加分を将来の貯蓄にまわす」だけなので,まったく理屈に合わないのです。
 文部科学省もバカで,学生にさらに勉強をさせようと大学入試を改革していますけれど,能力や才能など生まれたときにそのほとんどは決まっているし,就職というのは学歴ではなく学校を卒業するときの景気次第なのです。しかも,中等教育は入学試験のための順位づけをすることが目的となってしまっているので,時間とお金を使うだけで何も身につきません。それなのにさらにこの先机の前に座って点数競争を激化させようとするのだから,能力のない子はさらについてゆけなくなって,意味がないことがわかっていながらも塾通いをしなけれなばらず,結局は今よりも教育費が増すだけです。しかもそんな学校生活では楽しくないし,やっと卒業しても,この人口構成では死ぬまで働かされるのだから,そういう実態を知っている親は子供にそんな思いをさせたくないので,ますます子供を作りません。少子化の根本的な原因はそこにあるのです。完全な悪循環です。

 ここに書くまでもなく,識者はそんなことはとっくにわかっているのですが,それを明確に,公に,特に若者に示してしまうとパニックになってしまうから,公然の秘密にしているだけです。本当のことは知らせないほうがいいのです。
 そこでこの人口減少と人口構成のいびつさをどうすれば解決するかというと,老年人口を減らし生産年齢人口を増やすしか方法はないわけです。つまり,いつまでも働け,ということになるわけです。要するに,定年を遅らせ,年金の支給年齢を遅くするわけです。素直にそう言えばいいものを,ごまかして「1億総活躍社会」だとか「歳をとっても働きたい人が多い」とか,そういうふうに嘘? をつき詭弁を弄するから余計にわかりにくくなるのです。さらには,定年を60歳から65歳に延長しても,これまで60歳まででもらっていた給料を減額して65歳までに支給するという仕組みなので,もらえるお金の総額は増えないのです。そして定年が65歳になった次は年金の支給年齢をさらに遅くしていくわけです。おまけにもうひとつのたくらみは,成人年齢を18歳に繰り下げて(そのことの影響は選挙権だとか成人式だとかに気をそらしてごまかしていますが),将来,年金を18歳から払えという布石を作ったことです。

 そこで,そうした若者が歳をとったとき「不良老人」となって人生を楽しむにはどうすればよいか,です。それを早くから考えて対策を立てておかないと取り返しがつきません。
 第二の人生を楽しむには,遅くとも55歳からでなければ手遅れになります。現在のように恵まれた老人世代ですら,人生設計に失敗し,若いうちに浪費をしバブルのころに貯蓄をしなかったために,定年をすぎても仕事をせざるを得ず再雇用されて「不良老人」になりそこねている人が多いのに,希望のない将来に生きていくことになる若い人たちが「不良老人」を目指すのはさらに容易なことではありません。年金の支給年齢が遅くなり,給料から天引きされる経費が増え,退職金が減っては,我々の世代のように早期退職をして蓄えと年金で悠々自適に老後を暮らすなんていうのは無理です。
 ではどうすればいいのでしょうか?
 そのひとつの方法は,仕事から引退する,つまり,早期退職をして,それから楽しむということはあきらめて,仕事をしているときから遊びほうける,つまり,若いころから「不良壮年」になることです。日々の生活を若いうちからご隠居状態にするしか方法はないわけです。そのためには,日々残業に明け暮れて仕事漬けの生活から脱することがまず第一です。仕事人間はやめ,上司に何といわれようと,同僚から白い目で見られようと,決して残業はせず定刻に帰宅し,できるだけ多く休暇をとり,日々自分の生活を楽しむのです。そして,できる限りお金を使わないで済むように,お金の要らない楽しみ方を身につけることです。家を買わない,贅沢な車を買わない,子供には効果のない塾通いはさせない,そして,勤勉とか出世,というのとは真逆な生き方をすることなのです。
 ふたつめの方法は,歳をとって体力がなくなってきても楽に働けるような仕事をはじめっから選ぶ,ということです。あるいはそういう仕事にありつけるようにキャリアアップをめざすのです。そのためには自分の生れもった能力や才能を最大限に生かすための何がしかの技術を身につける必要があります。しかし,学校教育で学んでいることを忠実にやっていては無駄に時間を使うだけで絶対にそういう技術は身につきません。
 それに加えて,年寄りになったときに最も邪魔なものはプライドであり頑固さです。年を取ったら好々爺にならなければなりません。現役時代に偉かった人とか学歴の高かった人というのは,そうした過去の栄光? が忘れられず,老人ホームでも偉そうにしているので最も嫌われ者になっています。歳をとったときは,とっただけ若返って,キャッキャキャッキャと若者と遊べるようなじいさんやばあさんになることが大切なのです。

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 学生時代,「勉強」しないで遊んでいたり自分の好きなことをしていると「『こんなこと』をしていると将来困るぞ」みたいなことをよく教師が言われたものですが,では『こんなこと』をしていたら将来本当に困ったのでしょうか? 学校教育に適合できずに中途退学をする生徒も少なくないのですが,彼らはその後どうなったのでしょうか? あるいは,点数という序列で「優秀」とされて世に「一流」といわれる大学に進学した生徒は,将来幸せになったのでしょうか? 実際,教師はそんなことほとんど知りません。「『こんなこと』をしていると将来困るぞ」という根拠すらないのです。むしろ,『こんなこと』と言われるような体験や経験からはぐくまれる能力のほうが,「問題集」で正解を得るために何時間も机に向かうことよりも,実は,ずっと有益なのかもしれません。
 おそらく,学校教育で高い点数をとって「一流」の大学に入った生徒は,その後,運よく「一流」の企業に就職しても,退職するまで朝早く出勤して夜遅くまで残業を強いられ,住宅ローンと子育てに追われて,やがて過労死を遂げているか,退職後も仕事以外の楽しみもなかったから粗大ごみとなっているのでしょう。さらに最悪なのは,運よく(運悪く?)「管理職」になって(しまって),「責任」という札をぶら下げて大切な50代を(組織を統括するだけのために)棒に振り,自分の楽しみももてず,ちょっとだけ高給をもらったとところで,そのお金で将来「負債」にしかならない家を買い,満足に走る道路もないこの国で必要以上の車を買うことを「成功」と称して,人生を消費に捧げているのかもしれません。
 
 こうして一生を終えた人たちを多く見てきた今,私は,学校という,本当は何をもって「優秀」としているのかすらわからないシステムで,単にテストの点数で順位競争をして,その結果,何もできないのに,組織で人を管理する仕事をするために生きて,それを「出世」として,退職後は何もすることがない,という人生よりも,「自分らしくやりたいことをいつまでも楽しくできることが一番」だと思うようになりました。
 歳をとったときに一番幸せに生きることができるのは,他人とは比べず,自分の身の丈を知ってさりげなくやりたいことが何でもできるということなのです。それは,学校で一番の成績をとるとか,会社で偉くなるとか,ということとは全く別のこと,つまり,車の整備が自分でできる,とか,食べたいものを自分で作ることができる,とか,機械工作ができてほしいものが作れる,とか,コンピュータのプログラムが作れる,とか,電子工作ができる,とか,楽器が演奏できる,とか,外国語を自由に話せる,とか,… そういった能力を一杯持っている,ということだったのです。
 きっと,教育というのは本来そういう能力を身につけるためのものだったのでしょう。そしてまた,きっと,今でもそうでありたいのでしょう。それが,何をどう間違えているのか,文部科学省がどんな教育改革をしても,結局,学校教育は何を変えたところですべて順位競争に転嫁されてしまい,ペーパーテストで点数をとることが目的になってしまうのです。それがこの国の人のもつ価値観なのです。
 それは,この国の人の大好きな「道」,つまり,柔道,剣道,華道,茶道,武士道,それに,相撲道,さらには受験道! を考えれば明らかです。「道」というのは,その道を究めることが目的ではなく,究めようと(非合理的な)努力をすることで,耐えることと散り際の美しさを学ぶことが目的だからです。だから,無駄に長く仕事をするのだし,意味のない会議をするのだし,受験を美化するのだし,横綱には品格が求められるのです。だから,10年勉強しても英文法のテストは点が取れても英語ひとつ満足に話せないのです。実にわかりやすいんです。
 若者が将来楽しく人生を謳歌することのできる「不良老人」になりたいのなら,そうしたトリックを見破って「道」という価値観から脱することが必要なのでしょう。

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 昔の私の同級生の人たちも定年になって,世にいう第二の人生です。
 私は,もう,数年前から第二の人生に入っていて自分のやりたかったことをしているので,やっとみんな追いついてきたねえ,という感じなのですが,定年後もいつまでも再任用などでそれまでの仕事にしがみついているのが,私にはどうしても理解しかねるところです。いくら60歳から年金が満額もらえないからといっても数年余分に働いても所詮増える収入は知れています。それよりも,この元気で好きなことができる最後の年代を自由の身にならずしてどうするのかと私はしみじみ思うのです。

 世界は驚きに満ちています。せっかくこの世に生まれて,そうした瞬間瞬間を味わうことなく,日常の雑事に埋没していてはもったいなことではありますまいか。
 世の中には定年が来るのを待っていたとばかりに,新たな人生にチャレンジしている人も少なからずいて,私もうらやしい生き方をしている人も多いのですが,私のまわりにはそういうときめいた人がいないのが,また,残念な限りです。
 その逆に,やたらと終活やら財テクやらとこだわりはじめた人もいるのですが,そういう人と話をしていてもまったく楽しくありません。寿命に限りがあるという確率100%のことを心配しても仕方ないではないか,と私は思うのです。そしてまた,財テクなどの俗世間のことは現役のときにすべきことで,隠居生活で手を出すことではありません。

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 ツアー旅行というのは「安心・安全・快適」なのだそうです。
 私は今から37年前にはじめて海外旅行でサンフランシスコとロスアンゼルスに行ったときは,何もわからずツアー旅行に参加しました。ツアー旅行に参加した人のなかにも旅慣れた人はいましたが,ほとんどの人ははじめての海外旅行でした。日本の空港にはツアー会社のカウンタがあって,そこで受付をすればあとは団体行動で現地のホテルまで連れていってくれましたし,何か問題があれば,現地のホテルに設置されたツアー会社のカウンタに出向けば解決できました。まさに「安心・安全・快適」な旅でした。
 しかし,なにか物足りなかったというのが正直な気持ちでした。そして,自分で航空会社のカウンタでチェックインをして旅をしている人たちを眩しく感じていました。私もいつかはそうした旅がしたいものだと思いました。そして今ではそれが憧れから現実となりました。

 先日「最後の秘境 東京藝大」をこのブログに書いたとき「人が最も幸せに生きることができる究極の姿というのは,限りない自由を手に入れることだ」と書きました。このことを旅に当てはめると,ツアー旅行というのは「安心・安全・快適」を保証する代わりに「限りない自由」を手放すことだと気づきました。
 しかし,自由な個人旅行というのは確かに多くのよさはありますが,それとともに多くのリスクが伴うものです。私も,これまで数限りないアクシデントに遭遇しました。
 こうした旅をしていると,自由な個人旅行をうらやむ人もいるとみえます。しかし,そうした人に限って,こうした旅のもちあわせているリスクには思いもよらないというのも事実です。長年生きていると,そうした人の「未熟さ」がとてもよくわかります。
 さて,そう考えると,今度は,生きていることすべてが旅のようなものだと気づきます。「安心・安全・快適」で生きるために何事をもパック旅行のような生き方をしている人もいれば,自由を求め,そこにリスクを背負っている人がいるわけです。

 私も,個人旅行の途中でときには現地ツアーに参加したりして,パック旅行の真似事をしてみたりするのですが,そうしたときには,ああこれが「安心・安全・快適」だったのか,と思い出すとともに,やはり,結局はがっかりする結末を迎えるのです。
 たとえば星空観察ツアー。参加者はほとんど知識がありません。説明はプラネタリウムでもできることばかりだし,ツアーガイドさんも特に知識が豊富というわけでもなさそうです。しかし,参加者は自由に写真をとることができるような時間もほとんどありません。しかもものすごく高価です。きっと,ほかのさまざまなツアーも同じようなものでしょう。海外旅行というのは,言葉の壁と自由に行動できる手段がない,ということが,そうしたビジネスを生んでるわけです。そしてまた,そうした不自由さと代償は,日常生活でかかわりのあるサービス,たとえば学習塾とかファミリーレストランなども同じようなのなのでしょう。
 どうやら,私は,旅にせよ,生き方にせよ,いつもリスクを背負った自由を追い求めることしかできないようです。しかし「不良老人」を目指すなら「安心・安全・快適」を追い求めてはいけません。

◇◇◇
「最後の秘境 東京藝大」-今も残る自由の「聖地」とは?
「不良老人」の勧め①-自分を探しに放浪の旅に出よう。
「不良老人」の勧め②-不規則な生活をしよう。
「不良老人」の勧め③-「主体性なき右往左往」にはならない
「不良老人」の勧め④-50歳を過ぎたらルビコン川を渡れ。
「不良老人」の勧め⑤-私の実践するライフファイナス
「不良老人」の勧め⑥-めざせ!「プリタイヤメント」
「不良老人」の勧め⑦-「ときめき」こそが生きる糧

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 「ときめき」を私の愛用する2冊の辞書で調べてみました。
 まず,三省堂の新明解国語辞典(通称「新解さん」)の第7版です。
 「ときめき」(喜び・期待などで)胸がどきどきする。これではわからないので,次に「どきどき」を調べてみました。「どきどき」激しい運動のあと(極度の興奮や緊張によって)心臓の鼓動が激しくなる様子。
 これはひどい説明ですね。この辞書によれば「ときめき」は激しい運動のあとで心臓の鼓動が激しくならなければならないわけです。いかにも新解さんらしいいいかげんさです。この辞書は,思い入れのある言葉はものすごく情熱的に語られるのに,思い入れのない言葉は適当なのです。それは語句の説明に使用される言葉の量の違いでわかります。やる気のなさが伝わってきます。新解さんは「恋愛」にはときめくのに「ときめき」にはときめかないようです。
 では,岩波の国語辞典(いわゆる「岩国=イワコク」)の第7版ではどうでしょうか。
 「ときめき」喜び・期待などで胸がわくわくする。では「わくわく」はどう説明されているでしょうか。「わくわく」楽しい期待などで心が落ち着かず胸が躍るさま。
 さすがです。私が最も信頼する辞書だけのことはあります。
 そういえば,以前「辞書を買うならまず「みぎ」を引け」を書いたときに「「岩波国語辞典」に載っていた「みぎ」の説明には感心し,感動しました。」と書きましたが,その種明かしをしましょう。その理由は,この辞書の「みぎ」の説明のはじめに「相対的な位置の一つ」とあることなのです。こんな説明が書いてある辞書は他にないのです。考えてみれは,「みぎ」を説明するためには,はじめにこの定義が絶対に必要なのです。そうなのです。「みぎ」とか「ひだり」というのは「相対的な位置を表す言葉」なのです。で,その上で,「みぎ」はどちらの方向を指しているのか,という説明があるべきなのです。

 さて,ここからが今日の本題です。
 私は,日頃から,やりたいことをやりたい放題にやっているのですが,その結果,非常に残念なことにその副作用として「ときめき」がなくなってきたことがあります。辞書の言葉を借りれば,その理由は,喜びや期待がなくなってきたからでしょう。仕事を辞めたころは,家の周りを散歩しているだけでもときめきだらけだったのに,この変わりようは一体何なのでしょう。要するに,期待をする以前に結果がわかってしまうからです。
 いよいよゴールデンウィークです。別にこの時期にあえて高いお金を出して旅をする必要のない私には,ゴールデンウィークに出かける気持ちは全くないのですが,テレビのニュースでは,今年は海外旅行に出かける人が増えるのだそうです。そして,その第1位がハワイということです。
 私は,昨年と今年の春にハワイ旅行をして,日本人ばかりのホノルルを避けてハワイ島とマウイ島に行ってきたのですが,日本からホノルルまで同じ飛行機に乗り合わせた多くの人たちを見て,こうした人たちのハワイ旅行というものがいかなるものか,非常によくわかりました。
 ホノルルの,まるで渋谷のようなダウンタウンには日本と同じようなお店が並び,日本語が通じます。ここにはJCBカードの旅行者用のラウンジがあって,そこには日本の新聞を読んだり手持無沙汰にしている人たちが屯していたりします。何もハワイまで来て日本の新聞をわざわざ読みにくることもないと私は思うのですがほかにしたいこともないのでしょうか。
 また,ダウンタウンからダイヤモンドヘッドまでは,日本の旅行社が運航する無料のトロリーバスが走っていて,まるでディズニーランドです。ホテルから海側を見ればそこにはワイキキのプライベートビーチがあって,食事をしながらフラダンスを見たりできます。まあ,熱海みたいなもんです。
 私は,そうしたハワイ旅行には全くときめかないのすが,これはとてもいけないことです。こんなことを思っていては,そのうちに何もしたくなくなってくることでしょう。それは,私の理想とする「不良老人」とは真逆の方向なのです。
 そうなんです。書いていてわかりました。「ときめき」こそが生きる糧なのです。そして,そのために必要なのは「わくわく」感なのです。だから,何もすることのない私のゴールデンワークには,どうしたらこれからも「ときめき」が持続できるのかをわくわくしながら考え直してみることとしましょう。

◇◇◇
辞書を買うならまず「みぎ」を引け-本物を見破るには?
「不良老人」の勧め①-自分を探しに放浪の旅に出よう。
「不良老人」の勧め②-不規則な生活をしよう。
「不良老人」の勧め③-「主体性なき右往左往」にはならない
「不良老人」の勧め④-50歳を過ぎたらルビコン川を渡れ。
「不良老人」の勧め⑤-私の実践するライフファイナス
「不良老人」の勧め⑥-めざせ!「プリタイヤメント」

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画像 020 私は見ていなかったので番組の宣伝でしか内容は知りませんが,NHKBSで「受験のシンデレラ」という番組がありました。ドラマで受験を取り上げることは別にかまいませんが,そこに「東大受験」が出てくると私は引いてしまいます。今どきまだ,やれ○○大だのというのが特別な意味を持つと考えていることがずいぶんと古い価値観だからです。
 今だにそういう大学の名にこだわった30年前の受験指導をする高等学校もあるそうですし,日本の新聞社は相変わらず大学合格数を集約した雑誌を出版していますが,今や日本の大学自体が世界から遅れてしまって評価されていません。また,学歴で人は動くかもしれないけれどコンピュータは動かないし,大学で数年学問をしたくらいで問題解決ができるような甘い時代ではないのに,こんな価値観では情けない限りです。
 こういう番組を作ったりこういうものを出版しているのはきっとそういう価値観だけで学生時代を過ごし就職した人の集まる時代遅れの会社だからでしょう。
 大学に入るのが人生の目的ではありませんし,学歴がその人の能力を測るものでもありません。

 それはともかくとして,私はこれまでに,人生は40年が2度あって,1度目の練習の人生で得たもので2度目の本当の人生をおくるのだ,そして,2度目の人生では地位や学歴は関係なく,その人のもつ能力がすべてだと書きました。
 1度目の人生のうちにやっておくとよいのは「ギャップイヤー」です。
 「ギャップイヤー」(gap year)はアメリカでは積極的に奨励されています。
  ・・・・・・
 By definition, a gap year is a break typically taken between high school and college that might include travel, work, study, volunteering, or research.
 In practice, a gap year is much more. It’s a time for students to explore the world and gain valuable life skills and experience while transitioning into independence.
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 グローバルな時代,そしてSNSの時代,学歴ではなく,学生時代に世界に人脈を作り,彼らと自由に会話ができ,自分が生まれもった自分なりの素質(才能)を能力として身につけなければ,大学卒業後の1度目の自分の人生は,社会のその他大勢の渦の中でもまれ,2度目の人生にすら到達できず,あぶくのように消え去ってしまうことでしょう。
 1度目の人生の目標は組織で出世することではなく,2度目の人生で「プリタイヤメント」ができるように,自分の能力を身につけることです。

 そして,来る2度目の人生で目指すのは少しでも早い「プリタイヤメント」(pretirement)なのです。
 「プリタイヤメント」は新しい言葉ですが,次のようなものです。
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 Pretirement is the term being used to describe a new phase of life that fits between career and retirement.
 Traditionally our lives have been divided into three stages - education, career and retirement. But with longer life expectancies, generally better health and the economic need to continue to earn an income, the line between career and retirement is blurring. Emerging from that blur is an entirely new life stage called pretirement.
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 つまり,定職からは引退するけれど「退職=リタイヤ」はしないで,自分の能力を活用してフリーランスで仕事をするという,スマートな生き方です。逆に,退職してもなお昔の組織や肩書きにこだわるのは最もカッコ悪い生き方でしょう。
 私はすでに数年前からこの「プリタイヤメント」を実践しています。
 アメリカには定年制というものがないのでこういう概念が生れてきたのでしょう。私は,将来は日本でも定年制がなくなると予想しています。それは,社会保障制度が破たんするので高齢者になってもそうした恩恵に預かれなくなるからです。定年制がなくなると当然退職金もなくなり,自らの人生設計を若いうちから自分で構築する必要性が今以上に高まります。消費しろという国(日銀)の言うことを聞くのが最悪の選択です。この国ではお金を使ったほうが負けです。
 自分の2度目の本当の人生を自分らしく生きるためには,今後は「プリタイヤメント」の考え方を積極的に取り入れていくことが必要になってくることでしょう。それこそが「不良老人」になるための必須条件なのです。

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この国はお金を使ったほうが負け①-「子育て・家」について
この国はお金を使ったほうが負け②-「投資」について

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 人生40年が2度,と書きましたが,先立つものがないとどうにもなりません。そこで,今日は私が20年以上やっている方法を紹介しましょう。

 インターネットのサイトや本屋さんに老後資金がなんとかということがたくさん書かれていたりそういう題名の本が並んでいたりするのですが,そのほとんどは銀行や証券会社がしきりに投資を呼びかけて,その手数料で儲けようとするのが目的なので,いまいち信用できません。
 自分の身は自分で守るしかないのです。
 これも以前書きましたが,政府が何といおうと消費を煽ろうと,この国ではお金を使ったほうが負けなのです。

 家は,買っても地震や土砂崩れなどの天災でいつガレキになるかもわからず,しかも,200万戸もの家が余っていては中古市場の成熟していないこの国では売ることもままならないので,買っても財産にはならず単に負債になるだけなので借りるに限ります。
 教育費といっても,塾へ行ってもしろうとがドリル学習の答え合わせをしているだけだから,そんなものに投資をしても英語が話せるようになるわけもなく学問が身につくわけでもないので,これも意味がありません。
 車に夢中になる人も少なくないのですが,満足に走れる道路すらないこの国で贅沢な車に乗ってどこへ行こうというのでしょう。若いころに高価な車を買ってもそんなものは「手に余る大きすぎる服」でしかありません。そんなに車を走らせたいのなら,アメリカへ行ってレンタカーを借りて思う存分走ればいいのです。
 こうしたことはこれまでに何度も書いてきましたが,1回目の人生は,そんな「3大浪費」を抑えれば投資などせずとも蓄えができるのです。

 今日はグラフを4つ載せましたので,この説明をします。
 いずれのグラフも,横軸は年齢,縦軸は金額を表しています。そして,赤い線はその年齢の時点で一生に必要なお金の総額を,青い線はその年齢の時点での蓄えの総額を示しています。青い線は収入ではありませんから注意が必要です。いくら収入が多くても,使ってしまえば蓄えはできません。
 赤い線の根拠となる金額,つまり必要なお金は,何年もキチンと家計簿をつけていくと,自分にとってどのくらいの金額なのかがわかります。それをグラフにするわけです。
 私は,こうしたグラフを20年以上作っています。

 実際には,必要なお金や蓄えは一定ではなく年齢によって異なるので1番目のようなグラフになるのですが,ここでは簡単に説明するために2番目のように簡略化します。この赤い線の傾きがなるべく小さく,つまりお金を使わず,青い線の傾きがなるべく大きく,つまりたくさん貯金することがポイントです。そうすれば,交点Pの位置が左に向かうことがわかるでしょう。この意味は後で書きます。
 3番目のグラフはまったく貯金ができない状態を表しています。つまり青い線が真横に軸上にあります。この状態は死ぬまでその日ぐらしをしていかなくてはいけないことを表しています。交点Pは存在しません。
 4番目のグラフは,若い時に家を買ったりして借金があるときを表しています。蓄えがマイナスから始まっています。そして,交点Pは限りなく右に向かいます。

 では,この赤と青の2つの線の交点Pを考えてみてください。
 この交点Pは一生に必要なお金の総額と蓄えが同じである点です。つまり,それ以降の人生は収入がなくても暮らせる,ということを意味します。そこで,この点Pが1回目の人生を終了し2回目の人生を始められる時点になるのです。しかし,その後の人生が無収入というわけではないでしょうから,それ以降に得られる収入はすべて自由に使えるということになります。だから,この時点を過ぎれば,家を買おうと車を買おうと旅行をしようと気ままにできるようになります。
 この地点こそが悠々自適生活の始まりなのです。
 実際は将来のインフレを考慮に入れて赤い線の傾きを実際のものよりも大きくするとか,余裕資金を考えておくとかいった工夫をしなければならないのでこれほど単純ではありませんが,それは,ご自身で工夫してみてください。
 ともかく,こうして交点Pに一刻も早くたどり着くことが「不良老人」になる方法なのです。

 ルビコン川(Rubicon)は,共和政ローマ末期にイタリア本土と属州ガリア・キサルピナ(Gallia Cisalpina)の境界になっていた川のことです。現代のイタリア語ではルビコーネ川(Rubicone)という語形になり,イタリア北東部のエミリア・ロマーニャ州(Emilia Romagna)南東部のサヴィニャーノ・スル・ルビコーネ(Savignano sul Rubicone)付近でアドリア海に注ぐ川がこの名で呼ばれているそうなのですが,有名な「ルビコン川」が当時のこの川なのかどうかは論争があるそうです。
 共和政末期の古代ローマでは,東端のルビコン川と西端のアルノ川(Arno)を結ぶラインがイタリア本土と属州ガリア・キサルピナの境界線の役割を果たしていました。軍団を率いてこの川を越え南下することは法により禁じられていたので,その禁を破れば共和国に対する反逆とみなされました。
 紀元前49年1月10日,ローマ内戦において,ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Cæsar)が元老院の命令に背いて軍を率いてこの川を渡りました。この際に彼が「賽は投げられた」(alea iacta est)と述べたことはあまりにも有名な話です。そして彼は勝利しました。
 それ以後,「ルビコン川を渡る」(cross the Rubicon)という言葉は,その後の運命を決め後戻りのできないような重大な決断・行動を行う表現として使われています。

 さて本題です。よく60歳を「3度目の成人式」といいますが,私はそんないい方をするよりも,「40歳までの人生が2度ある」と考えるほうがずっと前向きで,40歳を過ぎたら(年齢-40)歳で生きよう,と以前このブログに書きました。
 つまり,40歳までの1度目の人生は2度目の人生の練習に過ぎず,いよいよ40歳からが本当の人生のはじまりなのです。
 したがって,2度目の人生を楽しく過ごすには,50歳から60歳までの「青春期」をいかに過ごすか,ということがテーマになります。それ以前の40歳から50歳までの10年間は,親の庇護で生き方を学ぶ1度目の人生の0歳から10歳に相当するので,この時期に仕事に打ち込んだり,組織の管理職をするのはそれなりに意義もあります。しかし,それは50歳までのこと。50歳を過ぎたら,1年でもはやく仕事の呪縛から卒業して「自分の」人生を生きることができなくてはいけません。
 それには,50歳までに,コンピュータを自由自在に操り,語学に堪能になり,世界を不自由なく駆け回り,肩書を必要としない自分になることが目標でなければいけません。そのうえで,50歳を過ぎたら1年でも早く「ルビコン川を渡るのです。そうすれば,素晴らしい人生が待っています。

 だれしも,50歳から55歳にかけて「暗黒の時代」を経験します。そのころに,自分か自分の周りに何がしかの困難が起きます。そして,それを乗り越えたときに本当の自分の姿が現れます。私の周りにも,昔は尊敬できるように思えた人や非常に能力の高い人がたくさんいました。それなのに,そうした人の多くは,歳を重ねるにつれて,疲弊したり,いつまでも肩書にしがみついたり,自分の地位を自分の能力と勘違いしてつまらなくなってしまったり,えらそうになってしまったりしました。
 それは,ルビコン川を渡る「勇気」がなかったために,2度目の人生をはじめることができず,というよりもはじめるきっかけをなくしてしまったのが原因なのです。いつまでも1度目の人生の価値観にこだわり続けていること,それが最もなさけないことなのです。
 2度目の人生にこそ自分の姿があります,それは1度目の人生で身につけた知恵と勇気と夢だけがその財産であって,学歴も地位も名誉も関係ありません。

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私は「高等遊民」になりたい④-over around 50
「不良老人」の勧め①-自分を探しに放浪の旅に出よう。
2016年がやってきた-精神年齢は(実年齢-40)歳で。

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 私の住む人口10万人程度の小さな町にも,平日のお昼間は「アラ60」以上の人たちがあふれています。聞くところでは,田舎だと単に散歩をしていると「怪しまれる」ので農作業にいそしんでいるということですが,農作業のできない町では,ショッピングセンターの休憩所に陣取って1日中テレビをみたり,鉄道会社が「歩け歩け」ツアーでもやっているとそこに出かけたりして,毎日を「右往左往」しています。
 週末や学校の長期のお休みには,小学生が同じようにどこへ行くでもなく何をするでもなく公園やモールで時間つぶしをしていたりしているのですが,そういう姿を見ると,そのままこの子たちを50年タイムワープした姿がこういう人たちなのかなあと想像してしまったりします。
 
 ところで,子供たちはともかくとして,こうした「見習い老人」いや「老人フレッシャー」の退職1年生,つまり「アラ60」の人たちの生態こそ,実は,最もこの国の社会を反映していて,もっと社会学的に研究されてもよいと私は思うのですが,意味もなく,そして,現在やっていることの反省もなくやたらと変えたがる教育制度に比べて,あまりに放置状態にあるのはどうしてなのでしょうか?
 今や,若者はテレビも見ないし新聞も読まないので,テレビや新聞には,今だそういうマスメディアを愛するこうした年代の人たちをターゲットにしたコマーシャルがあふれています。そこには,月々3千円程度で若さを保ったりできる栄養剤やら化粧品やら… がたくさん紹介されています。私は,そんなことにお金を使って「老い」と戦うくらいなら,旅に出ていろんな体験をしたほうがずっといいと思うのですが,これだけそういう品物があふれているということは,それにお金を使う人がいるということなのでしょう。

 そうした人たちを観察していると,そこには,大きく分けて「主体性ある右往左往」と「主体性なき右往左往」があると気づきました。
 「主体性ある右往左往」とは,自己が確立していて,やりたいことがあって,それに打ち込んでいる右往左往です。それが何であっても,その人にとっては立派な生きがいになります。ひとつ問題があるとすれば,それで家族が犠牲になってしまうような散在をするときですが,それさえ気をつければ,毎日が楽しい人生です。
 それに比べて,「主体性なき右往左往」のほうがずっと多数を占めています。彼らは女子高校生と並んで世の金儲けの絶好の標的となります。つまり,自己が確立されていないので,流行やらコマーシャルにふりまわされて,テレビや雑誌で,おいしいお店が紹介されれはそこに押しかけ,桜が咲けばお弁当持ってそこに陣取り,あるいは,視聴率が高ければ,そのテレビを見のがすまいとします。
 企業としては,彼らをターゲットにすることがお金儲けのコツなのですが,彼らは,ブームが去るとアッという間にいなくなってしまうので,そこに振り回されて在庫を抱えるのがリスクとなるわけです。
 私の提唱する「不良老人」となるコツのひとつは「主体性ある右往左往」を身につけることなのですが,これがそう簡単ではないのです。それを身につけるには人と比べないというのが最も大切なことなのですが,何事も序列化し順位づけすることの大好きなこの国では,幼少期から学校で社会でそうでありたい,あるいは,そうなりたい人を,組織の「和」を乱し金儲けにのっかからない人として,ずっと排除してきたからです。

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「不良老人」の勧め①-自分を探しに放浪の旅に出よう。
「不良老人」の勧め②-不規則な生活をしよう。

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 学生時代の無意味な学歴争いから始まって,早朝から深夜までの重労働,そして,ウサギ小屋のような小さな家を手に入れるためにその収入の多くを費やすといった,まるで奴隷のような人生。退職してやっとそんな人生から卒業できたら,私がお勧めしたいのは不良老人になることです。そうすれば好き勝手に生きることができます。
 まずは流浪の旅に出て自分探ししましょうと前回書きましたが,その旅を終えたら,あとは,いかに日常を非日常として毎日を過ごすか,ということです。どんなに刺激があったとしても,日常は日常。旅が楽しいのは,それが非日常だからです。
 そこで私がお勧めするのは,不規則な生活をする,ということです。

 勘違いをしてはいけませんが,不規則な生活をするということは,暴飲暴食をする,ということではありません。すべてにおいて最も優先するのは,健康です。健康なくして,何もできません。私が不規則な生活をするというのは,それ以外のことです。何時に起きて何時に寝る,ということをきちんと決めて生活する,ということをやめるということです。なにせ,歳をとると,眠るのにも体力がいるから,早起きになります。
 まだ,夜も明けていないのに,この寒い季節に懐中電灯をもって散歩している人がいるくらいですから,みなさんきっと,時間を持て余しているのでしょうね。
 星好きな私から見れば,せっかく夜空に美しく月や金星が輝いてこの世のものとも思えない美しい姿を見せているのに,そういうことに感動するでもなくひたすら歩いている人がほとんどです。きっと,これまでの人生の中で,そうした心の余裕も育んでこなかったのでしょうね。
 本来,学問をするということは,自分の周りの景色が美しく見えるようになる,ということなのですが,そうした人生を送ってこなかったということなのでしょう。

 眠たくなれば寝る,早起きできるときは起きる,そうして,好き勝手に毎日を過ごすと,自分の周りには,いつも思いがけない出来事が頻繁に起こっていることを発見して,毎日の生活さえも,非日常になってきます。
 実は,隣の人はいつも午前3時に起きてどこかへ出かけている,だとか,どこかの家の息子さんは,いつも夜中の1時に帰ってくる,だとか,そうした意外な数々の事実に驚くこともあるでしょう。いつも同じような生活をしていれば,そんなことは絶対わからないわけです。
 よく,何か事件が起きると,犯人の住んでいた家の近くの人に聞き込みをしていますが,いくら隣に住んでいても,知らないことばかりなんですね。そんなこともとてもよくわかります。
 不規則な生活に慣れると,自然は何物にも増して美しいことに気づきます。そして,何よりも素晴らしいのは,海外旅行をしても,時差ボケに悩まされることがなくなることです。

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「不良老人」の勧め①-自分を探しに放浪の旅に出よう。

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 「日本は奴隷制の国だ」と書いた本を読んだことがあります。その本の中に「嘘だと思うのなら,君は朝,職場と反対の方向に向かって歩き出すことができるか?」と書いてあったのが衝撃的でした。
 ならば,「定年退職」とは晴れて奴隷からの解放を意味するわけです。
  ・・
 私は,若い人に,大学に合格したら,合格したその日に1年間の休学届を提出して,まずは半年,世の中の仕事という仕事をアルバイトで経験して,そのお金で,残りの半年,世界旅行をするといい,とアドバイスをしているのですが,果たしてそれを実行した若者はいるのでしょうか?
 いつも書いているように,この国の中等教育は本質的に無意味です。
 社会に出て役立つ知恵のもととなる学問はまったく学ぶことはできません。やっていることは,「学歴」という「ブランド」を手に入れるためのドリル学習だけです。そうして,様々なことが一番身につくこの貴重な時期を棒に振るわけです。
 本来,自分探しをしなくてはならないのに,考えることをや失敗することを否定させて,奴隷制社会の一員となるための修行をするわけです。その結果,「勉強をする目的は耐えることを学ぶ」とかいったわけのわからぬ洗脳をされていくわけです。
 考える学生は不登校になります。時に,いじめという制裁を受けることもあります。
 教える側の教師も,文部科学省も,そうした社会の仕組みの中でそのことに疑問も持たず育った人たちなので,そんな仕組みの中で制度をいじっているだけだから,何も変わらないし,変える気もありません。
 そこで,一部の優秀な学生は国外逃亡をします。そうでない多くの学生は,だめ押しとばかりに,英語という教科を利用して「英語嫌い」になっていくことで,そうした可能性の芽されつぶされていくわけです。そこで,そこから脱して自分を取り戻すには,1年休学をして,自分探しをする必要があるというわけです。

 ここで私が書きたいのは,若者の話ではなく「不良老人」の勧めです。
 つまり,「定年退職」という名の奴隷からの解放を得た老人1年生もまた,大学を合格した若者と同じように,退職1年目は,放浪の旅に出たほうがよいということです。
 ほとんどの人は,それまので人生で自分探しをしてこなかったから,仕事がなくなると何もすることがなくなります。中には,「仕事が生きがい」といった洗脳をされつくした哀れな犠牲者も多く存在します。そして,家では「粗大ごみ」として迷惑がられます。
 だから,一度「不良老人」となって,日常から離れて放浪の旅に出たほうがいいのです。そうして,自分の知らない世界を見,経験し,自分の無力さを体験したほうがいいのです。それは,本当の自分を探す旅でもあります。
 もし,そうした行動もできないとしたら,その人はそれまでの人生でいったい何を学んだというのでしょうか。それは,単に会社という組織を観光バスにたとえれば,バスの窓から景色を見るような他力本願のツアー旅行をしただけであって,所詮は自分の人生など全くなかったということなのです。肩書などブランドに過ぎず無力なのです。動物園の動物を野生に放すと生きる力がなく死んでしまうように。
 
 だからこそ,奴隷から解放されたら,一度旅に出て,本当の自分を探す必要があるのです。そうして,新しい自分を,自分の人生を見つけるのです。
 「仕事が生きがい」…そう,旅から帰っても,まだ,そう思うのなら,それから仕事に復帰しても遅くないではありませんか。それでは仕事がない? もしそうなら,それは,その組織で本当はあなたは必要とされていなかった,ということでしょう。そして,あなたを必要としていなかった組織だけがあなたの人生だったということなのでしょう。

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