しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:「光る君へ」

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【Summary】
Daini no Sanmi, daughter of Murasaki Shikibu, was a poet featured in Hyakunin Isshu. Her poem about Arima Mountain and Ina’s bamboo fields has several monuments, including at Rozanji Temple in Kyoto (her birthplace), Suigetsu Park in Itami (modeled after the poem’s landscape), and Zuihoji Park near Arima Onsen, where a grand monument stands at a historical temple site.

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 女房三十六歌仙,百人一首の歌人として知られる大弐三位(だいにのさんみ)は紫式部の娘です。2024年NHK大河ドラマ「光る君へ」では南沙良(みなみさら)さんが演じ,実の父は藤原道長という設定で,藤原賢子,越後弁(えちごのべん)とよばれていました。
 実際の経歴は, 1001年(長保3年)3歳ごろに父・藤原宣孝と死別。1017年(長和6年)18歳のころ,母の後を継ぎ,一条院の女院彰子(=上東門院)に女房として出仕,関白・藤原道兼の次男・藤原兼隆と結婚し,一女の源良宗室をもうけました。
 1025年(万寿2年)のちの70代後冷泉天皇となる親仁親王の誕生に伴い,その乳母に任ぜられ,1037年(長暦元年)までに東宮権大進・高階成章と再婚し,高階為家と一女をもうけました。1054年(天喜2年)後冷泉天皇の即位とともに従三位に昇叙,夫・高階成章も大宰大弐に就任しました。
 没年は不明ですが,1078年(承暦2年)に開催された歌合へ出詠したという記録があって,そのころは80歳近いかなりの高齢でした。

 大弐三位には,小倉百人一首の58番に,詞書「離れ離れ(かれがれ)なる男の「おぼつかなく」など言ひたりけるに詠める」として
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 有馬山猪名(ゐな)の笹原風吹けば いでそよ人を忘れやはする
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 有馬山の近くにある猪名の笹原に生える笹の葉がそよそよと音をたてる。
 そうよそうですよ,どうしてあなたのことを忘れたりするものですか。
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という歌があります。
 有馬山というのは,現在の神戸市北区有馬町にある山で,猪名の笹原は,この有馬山の南東にあたる猪名川に沿った平地です。「猪名」と「有馬山」は一対にして詠まれていました。

 この歌の歌碑がいくつかあるということで,訪ねてみました。
●廬山寺(ろざんじ)
 京都にある紫式部の邸宅跡といわれる寺で,大弐三位もここで生まれ育ったといわれています。
 境内には,紫式部の「めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半(よは)の月かな」と,大弐三位の「有馬山猪名(ゐな)の笹原風吹けば いでそよ人を忘れやはする」の歌が並べて記された歌碑が立っています。
●昆陽池公園
 伊丹市は,古き風景に思いを馳せられるよう「瑞ケ池公園猪名の笹原モデル園」を整備し,ここにある「昆陽池公園中央芝生丘陵」に「有馬山猪名(ゐな)の笹原風吹けば いでそよ人を忘れやはする」の歌碑が立っているということなので,行って探してみました。木陰にひっそりとその歌碑がありました。
●瑞宝寺公園
 有馬温泉のはずれにある瑞宝寺公園は,かつて瑞宝寺という寺があった場所ですが,1873年(明治6年)に廃寺となりました。瑞宝寺は1604年(慶長9年)に大黒屋宗雪という人が開いた瑞宝庵にその緒を発し,大黒屋宗雪の孫・大黒屋三七郎が宇治黄檗山万福寺にて寂岩道空を受号のののち,1673年(寛文13年)に帰山し,開基となったと伝えられています。
 瑞宝寺公園入口にある山門は,1868年(明治元年)に伏見桃山城から移設されたものだそうです。ここにある大弐三位の歌碑は立派なものでした。

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【Summary】
The 2024 NHK Taiga Drama Hikaru Kimi e far exceeded my initial low expectations. Initially skeptical about its historical accuracy and polished portrayal of the Heian era, I was soon captivated by its profound script, depicting courtly power struggles, poetry, and culture. It revealed the depth of Heian politics and art, akin to modern human nature. The drama, with its rich themes and messages, became an unparalleled masterpiece, demonstrating that greatness lies in depth, not mere appearance. I now eagerly await its final two episodes.

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 2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」。
 放送される前は,まったく興味がありませんでした。一体全体,平和ボケしていた平安時代を舞台として,「源氏物語」を書いただけのような紫式部の人生をドラマにして,1年間何をやるのだろうか? と思いました。そして第1回で母親が殺されてしまうといった,そんな史実とは違うらしいことからはじまるのでは,先が思いやられるなあ,と思いました。いつギブアップするか,だけが私の関心でした。
 さらに,同じく平安時代を取り扱った大河ドラマ「平清盛」が画面がきたないという評判であったのとは正反対に,「光る君へ」は雅で,この時代がこんなに美しいばかりではなかったはずなのに映像がきれいすぎるなあ,とも思いました。
 私ははじめそんな印象だったのですが,それがそれが…。自分の愚かさを悟ることになりました。
 結局,ドラマは脚本に尽きるのです。このドラマはすばらしいです。最高の大河ドラマです。見なかった人かわいそう。

 ともかく,高等学校の日本史の教科書にわずか10ページほど書かれた摂関政治と国風文化がこれほど奥の深いものであったか! と思いました。これまでのほとんどの大河ドラマが「戦」を取り扱ったのとは違い,貴族の権力争い,いわば,歴史的に見ればどうでもいいようなことですが,これは,現代の政党内の権力争いと同じで,人はまったく変わっていない。それが私には興味深いものでした。
 また,ドラマのいたるところにちりばめられた和歌や漢詩。こちらは高等学校の古典の教科書で習うよりはるかにさまざまなことを学ぶことができました。そして,興味をもちました。

 私は,以前,すばらしい芸術というのは何か? ということを考えたことがあるのですが,それは,どれだけ奥が深いか,だということがわかりました。それは人も同じで,どれだけ見かけがよくても,その人深い教養や知識がなければ,魅力的とはいえないということと同じです。このドラマにはそれがありました。
 また,大河ドラマに関しては,史実と異なる云々といわれ批判されることがあるのですが,大河ドラマは史実をその通りに演じるものではないので,そうした批判はあたりません。それよりも,歴史を媒体として,どれだけ奥が深いドラマになるか,だと私は思います。そのためには,ドラマに主張があるかどうか,なので,「光る君へ」は,その点でも,すばらしいドラマだと私は思います。
 毎週,日曜日の夜が楽しみでした。それも,あと2回。

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【Summary】
In 1018, Fujiwara no Michinaga recited the famous poem about the "moon at its fullest" during a banquet celebrating his daughters as empresses. While interpretations vary, from expressing transient glory to referencing the completeness of the moment, some argue Michinaga’s intent was simple: admiring the beauty of the moon, akin to his joyous mood, without deeper meaning.

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 今日2024年11月17日に放送されるNHK大河ドラマ「光る君へ」の第44回「望月の夜」。
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 此世乎は我世と所思望月乃虧たる事も無と思ヘハ
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 この世をばわが世とぞ思ふ 望月のかけたることも無しと思へば
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 1018年(寛仁2年)10月16日,藤原道長の娘の威子が後一条天皇の中宮になりました。
 宴席では,彰子が太皇太后,妍子(きよこ)が皇太后と,后の席がすべて娘で満たされた藤原道長が詠ったのち,公卿たちが数度この歌を唱和したと藤原実資の「小右記」に記録されています。
 1018年10月16日は,新暦に換算すると11月26日です。その日の月齢は16。今年2024年では11月17日の月が月齢16となります。 写真は月齢16の月です。世間では,11月16日がまさにその日と同じ月だと騒いでいるようですが,実際は11月17日,ちょうど「光る君へ」が放送されるその日です。

 この歌の意味として,従来は「おのが望みの皆かなひたるを十五夜の満月にひき比べて此の世はおのれひとりのものぞ」とされてきました。
 また,このときの月が満月でなく少し欠けたものであることを指摘して,この歌自体は「栄華のはかなさ」を示したもので,藤原道長自身はそのはかなさを知っていることを示したものであるとか,「月は少し欠けているが后となった娘は満月のように欠けていない」という意味だという解釈もあります。
 さらに,京都先端科学大学教授山本淳子によると,この歌は「今夜のこの世を私(藤原道長)は心ゆくものと思う。目前の月は欠けているが、私の月 -后となった娘たち,宴席の皆と交わした杯- は欠けていない」という意味だといいます。
 それは,まず,「わが世」の解釈では,「世」は「夜」と掛けられていて,藤原道長が,「私の世界」と言ったわけではなく,ただ「今夜の状況」という解釈が自然だというのです。
 また,「望月」では,「月」は「后」だけでなく「杯」という意味も含んでいて,「小右記」には,宴では,藤原道長は,藤原実資に,藤原頼通に酒を注ぐように頼み,次に藤原頼通頼通は左大臣の藤原顕光に,そして藤原道長,さらに,藤原公季に酒を注いだとあることから,このように,「望月」というのは「だれひとり欠けることなく酒を交わし合った杯」と詠ったという意味も重ねられているというのです。
 さらに,1008年(寛弘5年)に彰子が敦成親王を生んだ際「誕生を寿ぐ歌を」と急に指名された際,困らないように紫式部が準備した
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 めずらしき光さしそう盃は もちながらこそ千代もめぐらむ
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という歌がありました。この歌では,「さかづき」に「月」,「持ち」に「望月」が掛けられていて,藤原道長の望月の歌にとても近いものだったといいます。

 このように,さまざまな解釈ができるわけですが,私がひとつ感じるのは,藤原道長が詠った月が満月ではなく少し欠けた月だと解釈している人に感じる言葉に酔っている危うさです。
 以前「有明の月」について
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 多くの歌で詠まれる「有明の月」がどういう月か,実際に体験したことがあるのでしょうか。見たこともないのに,単にイメージに,あるいは,言葉に酔っているとしか思えない解釈をする人を言葉に酔っている危うさと同じだと私は思うのです。
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と書きました。
 それと同じように,写真を見ればわかっても,実際,肉眼で月齢16のまぶしいほど明るい月を見たとき,その月が満月に比べて少し右上が欠けている,などと気づくのでしょうか? ということです。だから,少し欠けた月を見て詠んだ,など言う解釈は言葉に酔っているだけだと私は思うのです。
 そうしたことから,この歌は,単に,満月を見て,きれいな月だなあ,この宴の状況と同じだ,と,ほろ酔い加減に詠んだだけで,あまり深読みするようなものではないのではないか,と私は感じます。

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●1018年11月26日の空
1018-10-16●2024年11月17日の空
2024-11-17


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 今年2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」。
 はじめは,何だ,貴族が政権争いをしているだけのドラマじゃないか,以前放送された「平清盛」に比べて,画像がきれいすぎてリアル感に欠けるな,と思っていたのですが,それがまあ,おもしろいこと! 史実がほどんどないのをいいことに,何でもあり,やりたい放題であることもすばらしいし,漢詩や和歌や大鏡,小右記など,昔,高等学校で学んだ漢文や古文がいたるところに出てきて,それが効果的で,そしてまた,見ているほうの教養をためされているようで,愉快です。
 ドラマはこうでなくてはいけません。
 ということで,いよいよドラマの舞台が越前になることもあって,込み合う前がいいだろうと,2024年5月21日,越前市の「光る君へ 越前 大河ドラマ館」に行ってくることにしました。

 我が家から越前市までは,名神高速道路と北陸自動車道を走れは,2時間もかかりません。朝6時すぎに家を出ました。ゴールデンウィーク後の平日だからと思うのですが,高速道路はいたるところで工事をしていて,1車線が閉鎖されている箇所が多かったのですが,渋滞することもありませんでした。唯一の誤算は,天気予報では晴れだったのに,深く雲が垂れ込んでいたことでした。
 ゆっくり走って,午前8時過ぎには越前市に着きました。
 越前市には紫式部公園というものがあって,私は,その公園の一角に「光る君へ 越前 大河ドラマ館」があるものだと勘違いをしていました。そこで,公園の駐車場に車を停めて,大河ドラマ館が開館する前に紫式部公園を見学することにしました。実際は,「光る君へ 越前 大河ドラマ館」は別の場所だったのですが,そのことは次回書きます。

 紫式部公園は,大河ドラマで紫式部が主人公になるということとは関係なく,それ以前に越前市が町おこしで作ったもののようです。
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 紫式部公園は,1981年(昭和56)に都市計画の決定を行い着手された,紫式部がこの地を訪れたことを記念して、文化的歴史的公園として整備したもので,施設としては紫式部像・紫式部歌碑・釣殿・泉池・自由広場・藤棚などがある寝殿造庭園の公園です。
 文化勲章受章者の圓鍔勝三が制作した金色に輝く紫式部像や,総檜造りの釣殿を自由に見ることが出来ます。
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 観光で来る私のようなものには,すばらしい公園ですが,地元の人には単なる散歩広場のようなものです。しかし,こんなすばらしい公園で毎日散歩できたらいいなあ,と思いました。でも,維持費が大変そうです。
 気ままに紫式部公園を歩きました。
 紫式部公園には「金色の紫式部像が池に映える姿が鑑賞できる場所が1か所だけあるので探してみてください」とパンフレットに書かれていました。その場所で写した写真が2番目のものです。

 紫式部像のまわりに3つの紫式部の詠んだ歌碑がありました。
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●春なれど 白嶺の深雪 いや積り 解くべきほどの いつとなきかな
 「年が明けたら唐人を見にそちらへ参ります」と言っていた藤原宣孝が,年が明け「春になれば氷さえ解けるもの。あなたの心もとけるものだとどうにか教えてあげたい」と言ってきたことへの返歌で,「春になりましたが,白山の雪はますます積もって解けるのはいつのことかわかりません」(春になっても私のあなたに対する気持ちは解けません)と詠んだものです。
 藤原宣孝は,紫式部が帰京した後に結婚する相手です。紫式部が父である藤原為時に同行して越前に赴いたのは,藤原宣孝の求婚から逃げるためだったという説があるそうです。
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●ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に けふやまがへる
 越前に下向した紫式部がはじめて迎えた冬のこと。初雪が降った日,日野山に積もった雪を眺めながら,都にある小塩山の松を思い出して詠んだ歌です。日野山の杉は雪が降って埋もれんばかり。都の小塩山の松にも降り積もっているのだろうか。
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●身のうさは 心のうちに したひきて いま九重に 思ひみだるる
 これは,時が過ぎ,夫の藤原宣孝と死別したのち,藤原道長の娘で一条天皇の中宮である藤原彰子に仕えるようになったときに詠んだ歌です。
 わが身の辛い思いは心の中に寄ってきて,今,宮中で心が幾重にも乱れることだ。
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 772年2月28日に生まれ,846年8月14日に亡くなった白居易は唐の時代の詩人で,字の白楽天として知られています。
 居易は「礼記」の「君子居易以俟命,小人行険而僥倖」(君子は安全な所にいて運が巡ってくるのを待ち,小人は冒険をして幸いを求める)に由来し,楽天は「易」の「楽天知命,故不憂」(天の法則を楽しみ運命をわきまえる。だから憂えることがない)に由来します。
 安史の乱を背景とした玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋を歌った「長恨歌」は高等学校で習いました。
 「新楽府」50編は,社会批判や風刺の意図をもち,唐代にみられたさまざまな社会現象や,それを対象にして,政治批判・社会批判をする文学と意識して作ったもので,目的は,聞く者(君,臣,民)に民衆の苦しみや世相を知らせ,特に,権力を握るものに深い戒めを示すことにある,とその序にあります。

 NHK大河ドラマ「光る君へ」は,昔も今も変わらぬ,権力争いをしているだけのドラマ,といってしまえば,身も蓋もありませんが,その中に,深い深い平安時代の文学芸術がこちょこちょと出てくるので,学校の古典の授業よりもお勉強になります。
 5月12日の放送でも,まひろが「新楽府」の中の「澗底松」(かんていのまつ)を写すシーンが話題となりました。また,のちに紫式部が宮中に出仕した際,藤原道長の娘の彰子に,この「新楽府」を教えていたことも「紫式部日記」に記されています。
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 読みし書などいひけむもの,目にもとどめずなりてはべりしに,いよいよかかること聞きはべりしかば,いかに人も伝へ聞きて憎むらむと,恥づかしさに,御屏風の上に書きたることをだに読まぬ顔をしはべりしを,宮の御前にて「文集」の所々読ませたまひなどして,さるさまのこと知ろしめさまほしげにおぼいたりしかば,いとしのびて人のさぶらはぬもののひまひまに,をととしの夏ごろより,「楽府」といふ書二巻をぞしどけなながら教へたてきこえさせてはべる,隠しはべり。
  「紫式部日記」
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 「澗底松」は以下のものです。
 私は,才能がありながら,それが世に知られぬという不憫さというより,そのほうが世に出て,人と争うよりずっと自由で幸せだと思ってしまうのですが…。
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有松百尺大十圍,生在澗底寒且卑。
澗深山險人路絕,老死不逢工度之。
天子明堂欠梁木,此求彼有兩不知。
誰喻蒼蒼造物意,但與之材不與地。
金張世祿原憲貧,牛衣寒賤貂蟬貴。
貂蟬與牛衣,高下雖有殊。
高者未必賢,下者未必愚。
君不見沉沉海底生珊瑚,歷歷天上種白榆。
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松有り百尺大なること十圍,生じて澗底じゅんていに在れば寒にして且かつ卑し。
澗たに深く山險けはしくして人路絶ゆ,老死するも工の之を度はかるに逢はず。
天子の明堂梁木を欠く,此に求め彼かしこに有れど兩つながら知らず。
誰か諭さとらむ蒼蒼たる造物の意,但ただ之に材を與へ地を與へず。
金張は世祿せいろく黄憲こうけんは賢,牛衣は寒賤にして貂蝉は貴なり。
貂蝉と牛衣と,高下殊なる有りと雖いへども。
高き者未だ必ずしも賢ならず,下なる者未だ必ずしも愚ならず。
君見ずや沈沈たる海底に珊瑚を生じ,歴歴たる天上に白楡を種うるを。
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高さ百尺,幹回り十抱えもある松の大木が,寒く深い谷底で寂しく生えている。
谷は深く山は険しいので行く人もなく,老いて枯死しても良材を求める大工に逢うこともない。
天子は太廟を建てようと良質の梁材を探し求めるが,谷底に松の大木があるのに両者は互いに知らないままだ。
蒼蒼と広がる天たる創造主の意図を誰が知りよう,ただ大松に良い材質を与えながら良い適地を与えなかった。
愚者の金日磾や張湯は先祖のおかげで名族であったが,獣医の子の黄憲は賢者の評を得ただけ貧しい生涯を終えた。
卑賤の者は麻の牛衣を着て、高貴な者は貂蝉の冠をかぶる。
貂蝉と牛衣と,身に着ける者の間には身分の違いはあるが。
身分の高い者が必ずしも賢者であるとは限らないし,身分の低いものが必ずしも愚者であるとも限らない
諸君もご存知のように人の目が届かぬ深い海底に美しい珊瑚が生じ,光り輝く天上のような宮中にはありふれた白楡の木が植えられている。
  ・・・・・・

無題

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