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 今の季節,田舎道を歩いていると,たくさん蝶が舞っています。子供のころ都会暮らしだった私は,憧れていた大きな蝶を目の前にして驚くとともに,うれしくなります。
 さて,そんな折,9月24日の朝日新聞「折々のことば」に「荘子・内篇」から「胡蝶の夢」が紹介されていていました。解説には「私の存在もしょせんは夢なのか,夢ならそれを見ているのはだれか」と書かれてありました。 
 「胡蝶の夢」とは次のものです。
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 昔者荘周夢為胡蝶 栩栩然胡蝶也
 自喩適志与 不知周也
 俄然覚 則蘧蘧然周也
 不知 周之夢為胡蝶与 胡蝶之夢為周与
 周与胡蝶 則必有分矣
 此之謂物化
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 むかし荘周,夢に胡蝶となる。くくぜんとして胡蝶なり。
 自らたのしみてこころざしにかなえるかな。周たるを知らざるなり。
 にわかにしてさむれば,則ちきょきょぜんとして周なり。
 知らず,周の夢に胡蝶となれるか,胡蝶の夢に周となれるかを。
 周と胡蝶とは,則ち必ずぶんあらん。
 これをこれ,物化という。
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 荘周は夢の中で蝶になった。ひらひらと飛んでいて蝶そのものであった。
 楽しくて思いのままだった。そして自分が荘周であることに気づかなかった。
 急に目が覚めて我にかえったとき,まぎれもなく荘周であった。
 分からない,荘周が夢の中で蝶になったのか,蝶が夢の中で荘周になったのか。
 荘周と蝶には区別があるはずだ(しかし,そうでないのかもしれない)。
 これをまさしく「物化」,つまり,万物の変化というのである。
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 本質的にはひとつであるものが見かけ上さまざまに変化することを荘子は「物化」といっているわけです。万物は変化を繰り返し,自分も蝶もその変化のうちのひとつに過ぎず,区別などないということです。

 私は「胡蝶の夢」というと,司馬遼太郎さんの小説を思い出します。この小説は
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 徳川幕府の倒壊と将軍慶喜の苦悩とともに,戊辰戦争で軍医であった松本良順と順天堂出身の関寛斎の姿が描き出されたもの。その一方で,記憶力と語学習得力が抜群でありながら人間関係の構築のまずさで不利を被っている司馬凌海の姿が,この両者と対比させて描かれている。
 明治維新期を医療の目を通して,身分制度批判という観点で書かれた。
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というものですが,司馬遼太郎さんは,蘭方医学を学んだ松本良順が,本来自分がめざした職業とは違う姿で封建社会の終わりに生きたことを「胡蝶の夢」と題したのでしょう。

 古典には,よく「浮世」という言葉が出てきます。また「うたかた」という言葉も見かけます。
 「現実」といいますが,「浮世」の「現実」こそ「うたかた」。
 私はこのごろ,果たして「現実」というのは何だろうと,子供のころに思ったことを再び考えるようになってきました。自分が見ていない世界は本当にあるのだろうか? 過去に起きたことは,本当にあったことなのだろうか? と。
 あいまいな記憶は,時として,本当に起きたことと夢だったことがごっちゃになってしまっていることもあります。あるいはまた,意識がなく,肉体が生きているだけの人は,その「現実」がわかるのでしょうか。というわけで,所詮,「現実」というのは,自分の意識の中にあるだけのような気がします。あるいは,「現実」そのものが自分の意識が作り上げた虚像に過ぎないのかもしれません。

 「胡蝶の夢」について,ネット上にもさまざまな解説がありますが,それらには理解が浅いものが少なくありません。思想家の,と大袈裟にいわずとも,いわゆる「文系」的な思考の危ういのは,言葉に酔っているということだと私は昔から思っています。そうした立場でこの「胡蝶の夢」を語るときもまた,「現実」を言葉で表せば,それはすべて言葉の上の遊びでしかなく,それは「現実」ではないのです。
 そうした「文系」的な言葉の遊びではなく,ここでは「理系」的な立場をとって考えてみることにしましょう。
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 物理学では,現象を数式で書き表わしたりモデル化をします。しかし,それは「現実」の姿ではなく,抽象化したものです。(人間が)「電子」と名づけたものは,あくまで「電子」というそのものでしかなく,丸い粒などではありませんし,くるくると自転をしながら原子核のまわりを公転しているわけではありません。それは人間が理解しやすいようにモデル化しているだけです。いわば,数式に酔っているのです。
 物理学では,(人間が)「物質」と名づけたものはすべて(人間が)「エネルギー」と名づけたものの仮の姿であり,いかようにもその姿を変えると解きます。また,目で見える,あるいは,写真に写る宇宙は,そう見える範囲の電磁波でとらえただけのことで,それが「現実」の姿ではありません。しかし,そう考えると,何が「現実」なのか,わからなくなりますし,実際わかりません。

 ところで,私は,「あの世」とか「宇宙人」とか,そういうことはまったく信じていなかったし,今もそうです。がしかし,このごろ,ひょっとしたら,「あの世」とか「宇宙人」に限らず,「この世」も「地球人」も,そういったこともすべて,単なる人間という存在の思考の上の意識だけのことで,一般に正しいとされていることのそれが何であろうとなかろうと,そのすべては「胡蝶の夢」なのではないか,そんなことを思うようになってきました。
 ひょっとしたら,「現実」というもののすべてが虚構にすぎないのかもしれません。なぜなら,宇宙の創成であれ,宇宙の果てであれ,そうしたことは,実際は誰も知らず,もし,未だ人間の知らない正しい理論というものがあったとしたら,それは人間の概念をはるかに超越しているものだろうからです。そしてまた,現在わかっている(と信じられている)理論も,それをどう説明したところで,結局は数式上の遊びでしかないからです。
 結局,「理系」的な立場で考えても同じことでした。
 所詮,万物は「胡蝶の夢」なのでしょうか?


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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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