しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:「1日1断捨離」を実行する

DSC_2192

######
 たとえば「1兆」と書くのと「1,000,000,000,000」と書くのとではずいぶんと印象が異なります。「1万」と「1兆」はほどんど同じ印象であるけれど,「10,000」と「1,000,000,000,000」ではずいぶんと違います。
 そこに錯覚を起こさせる要因があります。
 今は少し落ち着きましたが,一時期,ポイントカードというものが急にさまざまなお店で導入されまた。そして,モノを買うときに「ポイントカードはお持ちですか?」と聞かれるわけです。持っていないとものすごく損をした気になります。
 このポイントカードというもは,顧客をつなぎ留める働きよりも,ポイントカードを持っていない新規のお店でモノを買う気持ちをなくさせるデメリットと,いちいちそれを聞く定員さんの手間のほうが大きいと私は思うのですが,どうでしょうか? 実際,「ポイント3倍セール」といったところで,1,000円のモノを買って1円値引きするか3円値引きするかほどの違いしかありません。ほとんど意味はないのです。

 それと似た商法で,1,000人にひとり買った金額だけキャッシュバックをするとかいうのもあります。
 これも少し考えればわかるように,一律1パーセント値引きするよりも,お店としては損がないのです。しかし,お客さんにとってみれば,1,000円のモノをかって10円値引きしてもらうよりもひょっとして1,000円マルっともどったほうが得なような錯覚を覚えるわけです。
 1,000人の人がひとりあたり1,000円買って全員から1パーセント値引きすれば10,000円必要だけど,ひとりだけマルっと返金すれば1,000円で済むのですから,お店にとれば,こんなうまい商売はないのです。
 このように,金儲けというのは,そのほとんどが心理ゲームでできているのです。
 要するに,ほとんどの宣伝は端した違いしかないのです。むしろ,いろいろわずらわしいだけなのです。

 そもそも,最も高価な買い物はおそらく「家」でしょう。
 家を買うとなると少なくとも3千万円,いや,30,000,000円が必要です。買うときだけでもこれだけの金額が必要なのに,その後はずっと,毎年の固定資産税とかリフォーム費用が必要なのです。よく,賃貸と持ち家のどちらが得かみたいなことが書かれていますが,そこには税金などの費用が考慮されていません。要するに,買わせたいだけだからです。借りれば借りたときの借賃だけで済むから,わずらわしいこともないし,ましてや,いつ何時天災が起きてなくなってしまうかもしれない,そんな家をもつことのリスクのほうが果てしなく大きいわけです。
 おそらく,歳をとったときに貯蓄のない人のほどんどは,若いころに家を買っちゃったということが要因となっているのでしょう。この先,有史以来はじめての超高齢者社会を迎える日本を生き抜く必要のある若い人は,そうしたまず金銭感覚を磨くことが大切でしょう。

 少し前,60歳で2千万円が必要と話題になりました。
 60歳から90歳まで30年。厚生年金がなければ,わずか月5万円あまりの国民年金があったところで,たまには旅行でもしようとすれば,毎月必要なお金は25万円ほどです。であれば1年で3百万円なので,30年で9千万円。病気をしたり,介護施設に入るなら,そこにさらにお金が必要です。
 しかし,この先,定年もなくなり,退職金も当てにできず,年金も目減りし,さらに,介護保険も際限なく値上がりする超高齢者社会のこの国では,60歳で2千万円どころか,若者がめざすのは,今の貨幣価値にして60歳で1億円です。これを実現するには,20歳から毎月20万円の貯金が必要です。毎月のお給料のそのほとんどを貯金にしてもやっとという感じです。だから,一時の物欲で高級車を買うとか,単なる点数争いのために子供に宿通いをさせるとか,ましてや,ローンで家を買う余裕などまったくないのです。
 …ということなのですが,これを実感するために,とりあえずは「1億円」と書かずに「100,000,000円」と書いてみることからはじめてはいかがでしょうか?


◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

💛

DSC_7454sDSC_6144s

######
 忙しかったころはそんな余裕もなかったので気づきもしなかったのですが,今になって実感するのは,できる限りものは持たないことが最も幸せだということです。持っていていいのは知識と何かができる自分の腕だけです。
 そこで,その考えからすると,家を持つということが不幸のはじまりだといえます。家を持つというのは「根付く」ということです。根を張ってしまえば,自由に生きることからどんどん遠ざかってしまいます。つまり,「根付く」というのが,不幸のはじまりの第一歩です。
 人はこころで生きていて,そのために最も大切なのは物質的にも精神的にも自由であるということです。束縛されないということです。であれば,持ち家に住む,というのが最も理屈にあわないことだということがわかるでしょう。
 もし,大金持ちだったら,ホテル住まいが理想です。光熱費も不要,掃除も不要,嫌になったらさっさと移動もできます。朝食が無料の場合もあります。少ないとはいえ,必要不可欠な持ちものはあるでしょうが,そうしたものはコンテナでも借りればいいのです。私はずっとそう思っていたのですが,ホテル住まいをするほどのお金が未だないのが残念な限りです。
  ・・
 それにしても,この国には空き家がやたらと目につきます。
 たとえば,結婚して,ふたり暮らしのときは賃貸住宅でよくても,子供ができれば,新たな部屋も必要になるということで,借金までして,家を手に入れます。しかし,子供が少し成長して自分の部屋を持ち,そして,独立するまでは,わずか十数年のことです。やがて,親が50歳になるころには,子供は独立して,子供部屋は空き部屋となり,物置と化します。そのころには,新築だった家もガタがきて,リフォームが必要になります。こうした家がそこら中にあります。
 さらに,数十年もすると,今度は,年老いて,作ったときには凝りに凝って玄関に入るまでに階段を作ったりしてあれば,足腰が弱って自分の家なのに入ることすらできなくなります。そのうちに老人ホームに入ったりして,空き家となるのです。
 
 現職のころ,会社勤めをしていれば賃貸住宅なら住居手当も出るかもしれませんが,家を買えば,固定資産税もバカにならず,また,煩わしいご近所づきあいもあるし,壊れるたびに自分のお金で修繕も必要だし,持ち家は賃貸住宅よりお金がかかるのです。賃貸より持ち家といった情報を盛んに流すのは住宅会社が家を売りたいからというのが理由なだけです。さらに,本来は,子供がふたりいても子供部屋が確保できるような賃貸住宅があればいいのですが,日本にはそうした間取りのものがほとんどないことで持ち家志向を煽ります。
 また,持ち家を手に入れても,子供が巣立ったら小さな老人向けの家に住み変えていくというような中古住宅の売買が多くあるアメリカのようなシステムになっていればいいのですが,日本では新築住宅を売りたいだけなので,古くなれば家に価値もなくなり,そういった市場がほとんどありません。
 しかも,住みたいなあ,ここなら一生暮らしたいなあ,と思えるような場所すら,日本にはまったくありません。少しでも隙間があれば無理やり宅地開発をして,広い土地があってもそれを小さく切り刻んで狭い1軒家をたくさん立てて分譲するものだから,土地なんてあってないようなものなので,持ち家とはいえ,将来売ろうと思っても買い手すらつきません。売れない持ち家なら財産にもなりません。その上,地震などの自然災害でも起きて家が崩れれば,負債だけが残り,目も開けられません。
 また,親が遺産としてマンションでも残せば,よほど条件がよい場合でなければ買い手もつかないから手放せず,ずっと固定資産税と管理費だけを払い続けなければならないんて,そんなもの負債であって財産ではありません。
 このように,この国では「ふつうに」生きることすら,本当に難しいのです。貴重な人生,家1軒手に入れるためだけに巨額の借金をして働き続けるなんてバカげています。結局,そんな家ならはじめから手に入れないほうがいいのです。


◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

💛

 2020年,突然襲ったコロナ禍で,3月以降は海外旅行ができなくなってしまいました。外国人観光客がいなくなったので,春は人の少ない京都で思う存分桜を堪能し,7月にはネオワイズ彗星を見るために行った北海道で,これもまた,雄大な景色を堪能しました。なにせ,人がいないので,感染の危険はまったくありませんでした。
 常々,どうして人は群れたがるのか,私には理解しがたかったのですが,今年もまた,せっかく人がいない時期には人の目を気にして観光を躊躇し,夏が過ぎてGo To キャンペーンがはじまって人が増えるとともに逆に危ないのに旅行に繰り出すなんて,どういうことなのでしょう。
 …ということで,今年の秋は,外国人のいない京都の紅葉を楽しみにしていたのですが,漏れ聞こえるところでは,京都や北海道は,海外旅行のできなくなった富裕層で混み合っているということなので,私は,行く気をすっかりなくしました。そもそも,せまく汚い日本国内なんて,無理して行きたいと思うところもほとんどありません。日本で魅力的なのは食事くらいのものですが,そんなに食べられるものでもありませんし,私は自宅籠城です。

 日ごろは,週末はもちろんのこと,平日もまた,できるだけ人と会いたくないので,お昼間は必要のないときは外出せず,もっぱら,朝は午前6時まで,夜は午後6時以降に散歩するようになったら,断捨離を心掛けなくても,ほぼ断捨離状態となってしまいました。そうなると,これまでこだわっていたことがいったいなんだったのか,というほど欲しいモノがまったくなくなってしまいました。そしてまた,必要のない情報をすべて遮断するようになったら,ますます物質欲もなくなってしまい,かつ,節操のない雑誌や手間暇かけないで作られた安直な本もまったく買わなくなったら,何とこころ穏やかにすがすがしい日々が送れるようになったことか。
 これまでも必要以上のモノを買う習慣もなく,お酒も飲まないので,お金の使い道は,年に6,7回出かけていた海外旅行くらいのモノだったのですが,旅行にも行けないので,食費とか必要なだけの衣料品,そして,公共交通機関は使わずもっぱら車になったためのガソリン代のほかにお金の使い道がなくなってしまいました。そもそもモノを買っても置く場所に困ります。そうなると不思議なもので,少しはこだわっていたモノもまた,そんなことにこだわっていたのが何だったのかなあ,と増々思うようになりました。高級な車やカメラも買う意味がわかりません。

 要するに,夢が醒めちゃった状態なのです。
 いや,決して,これは生きる気力がなくなったとか,そういう状態ではないのです。何か,新しい境地に達したというか,私が理想としていた生き方というのは,かぎりなく身ひとつ,ということだったのですが,やっと理想としていたそういった状況に近づけた,というか,それは私にはとても好ましいことなのです。
  ・・
 2019年のはじめに書いた「『精神的な断捨離』こそ最大の贅沢」,2020年のはじめに書いた「『精神的な断捨離』を今年も」,そして,「『物質的な断捨離』を今年も」が,コロナ禍によって奇しくもすべて実現してしまったようです。
 それにしても,巷では,Go To 何某とか,何とか詐欺とか,金を積んで票を買ったとか,何から何まで,金金金…。バカみたいです。
 そもそも,政治家のやっていることは,人は金で動くというような政策ばかりでなさけないです。そしてまた,自分でやったことを自分で問題ないと決めつけ,税金で生きているくせに,納税者に説明もできない言語能力の欠如した時の権力者やら,「『女はみなうそをつく』という発言はしていない」といううそをついて自らの発言で「女はみなうそをつく」を実証してみせたような哀れな某女性政治家の茶番やら,あいかわらず届く「〇〇がロックされました」といったような手の込んだくだらない偽メールやら,セキュリティ対策に無知なばかりに勝手にお金が引き出された事件を起こす時代遅れの権威主義に凝り固まった往年の大企業やら,この国のやっているのはこんなことばかり,ご苦労さまなことです。
 いずれにせよ,そんなことに人生の貴重な時間を使って,まあなんとおバカさんなこと,と私には,みなお笑いの対象でしかありません。何もかも,とても精神が貧しい証拠です。究極の幸せは限りなくモノは持たず,自由に生きること。それは,物質の欲望から離れて精神的に豊かに生きることです。

IMG_1527

◇◇◇


◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

💛

 一般道や高速道路を走っているとき,少しでも渋滞しているとすぐに車線を変更する車があります。そうして縫うように走っていくわけです。
 一般道では,車の間を縫うようにして追い越しながら先に走っていった車なのに,その先の信号や踏切で停車していてまた追いつくと,一体あの車は結局何をやっていたんだ,とあきれます。また,高速道路では,少しでも空いた車線,車線に頻繁に車線変更して走っていった車が,その先で変更した車線が混みはじめて,結局,変更する前の車線のほうが早かったりすることも多々あります。
 さらには,少しでも早く早くと追い抜いたり車線を変更してたとえ少しくらい早く目的地に到着しても,そこで何をするでもなく暇つぶしをしているくらいなら,危ない目をしてまで追い越したり,車線変更をする必要などないんじゃないか,と思います。

 これと同じことが,現在のキャッシュレス社会です。
 ポイント還元やらなにやらとやたらと,それぞれの会社が取り込み競争をしています。しかし,このくだらない競争によってお互いの足を引っ張り,結局は不便になっているだけです。日本では何事もこんなことをしているから,この国は世界からどんどんと遅れていくのです。損して得とれ,わずかばかりの利益を得るために同業者との協調をせずに足の引っ張り合いをしていても,そのすべてがだめになるだけです。これこそが,順位争いに明け暮れるだけが価値観のすぐれた教育の成果でしょう。
 少し以前には,Tポイント,dポイント,Rポイント,ポンタなどのポイント競争がありました。その結果,買い物をするときに,その店が対応しているポイントカードを持っていないと何か損した気になるので,結局,その店で買うのを辞めてしまうという弊害のほうがずっと多いような気がします。しかも,実際,1ポイント,1ポイントと貯めたところでどれだけ得になることでしょう?
 私は,ポイントを貯めることなどどうでもいいのですが,支払いでレジでポイントカードを持っていますかと聞かれるのがうざったいので,以前はすべてのポイントカードを持参していました。今は,アプリを iPhone に入れています。しかし,こんなことをしても,1年で溜まるポイントなんてせいぜい100円相当くらいのもので,そんなことなら,コンビニで買えば1本150円もするコカ・コーラをスーパーマーケットで1本78円で買う方がずっと得なのです。

 私は今では現金をほとんど持ち歩きません。万一のときのためにと,免許証入れに運転免許証とETCカードと一緒に1,000円札を2枚入れて持ち歩いているだけです。支払いのほとんどは iPhone で済ませます。現金,特に小銭を持つとかさばるし,現金で支払うことが煩わしいし,さらに現在は,コロナ禍で危険だと思っているからです。
 このご時世で,未だにレジで現金で支払っている人を私は信じられません。そのなかでも特に,何でも10,000円札を出しておつりをもらっている人や,その反対に,おつりがないようにやたらと細かい小銭を時間をかけて探して出している人,その両方がとても迷惑に思えます。
 未だに現金で支払っている人と,未だに図書館で紙媒体の新聞をぐちゃぐちゃとうるさく音を立ててめくっている人,そして,禁煙の職場の外で隠れてタバコを吸っている人など,私にはありえない世界です。

 ここ数年キャッシュレスを実行してみて,私は,ようやく iPhone だけでおおよその支払いが事足りるようになりました。どのお店では何が便利なのか,だから,何を iPhone に入れておけばいいのかがわかってきました。そして,簡単に支払いができるようになりましたが,それまでにずいぶんと時間がかかりました。
 暇な私でもこれだけ大変だったわけだから,多くの多忙な人はまだ使いこなせていないように思います。便利になるはずのキャッシュレスなのに,日本では,その方法が多すぎ複雑すぎで混乱していて戸惑うので,これでは現金で支払うほうが手っ取り早く便利になってしまっているのです。
 数年前まで,この国は,今でも,ちょんまげを結って刀を差して着物姿で歩いているように見られていたといいます。さすがに今は,街の外観や姿こそ世界並みとなったのですが,その内実は今もまだ,江戸時代のようです。何事も世界から遅れてしまったこの国はなんと滑稽な社会なのでしょう。

キャッシュレス

2164893_202006180963344001592481892e-w1200_h667EPSON001 (2)

 久々の,そして最後の「アサヒカメラ」を購入しました。2020年7月号をもって,この雑誌は休刊,実質上の廃刊です。
 それにしても,わかっていたこととはいえ,7月号もまた,無残なほど,広告がありませんでした。昔なら,カメラ雑誌には多くカメラメーカーが競って新製品の広告を誇らしげに掲載していたものですが,最後に残ったのはソニーだけでした。そもそも,本の背表紙に広告がないというのは,まさに,屈辱的な最期でした。
 カメラメーカーだって,恩も義理もあるだろうし,これまでどれほどこの雑誌の記事が動機となってカメラが売れて儲けさせてもらえたかを考えれば,最後ぐらいは広告を載せてもいいのに,もはや,そんな余裕すらないのでしょう。

 家に届いた雑誌をまずは眺めてみました。はじめに思ったのは,写真コンテストのページに載っている入選作の応募者の年齢でした。「月刊天文ガイド」同様,そのほとんどが50歳以上なのです。
 そもそも,今の時代,こうした雑誌に入選して写真を世に出す時代ではないのです。未だにこんなことに価値観を見い出しているのは,SNSすら知らない,化石のような人たちだけでしょう。また,雑誌を購入する動機のひとつだった新製品の紹介にしても,雑誌に載る前に,とっくにインターネット上に情報があふれているのですから,雑誌に掲載された時点で,すでに新鮮味のかけらもありません。
 その昔,この雑誌は,木村伊兵衛さんとともにありました。木村伊兵衛さんといえばライカ。そこで,木村伊兵衛さんの写真とライカカメラの特集が,この雑誌に色をそえていました。しかし,今となってはもう,木村伊兵衛さんも過去の人,知っているのは60代以降の人でしょう。そしてまた,ライカカメラも,金持ちのミエでしかありませんから,それを愛好しているのは写真好きとは別世界の人たちです。その一方,篠山紀信さんに代表される時折掲載されたヌード写真は,写真の専門雑誌というのが隠れ蓑となって,そうした類の写真が載った雑誌を買う勇気のない人たちが購入層だったのでしょう。それもまた今では,そんな写真は巷に氾濫しているから,隠れ蓑としていた購入層が雑誌を買う必要もなくなり,芸術なのかエログロなのか何なのかその存在意義すらよくわならないヌード写真など,写真雑誌に載せても何の意味ももたなくなってしまいました。
 今ほど写真が身近なものになって,だれでもどこでも写真が写せる時代はこれまでにはないのです。でありながら,逆に写真専門雑誌が売れないというのは,そうした市場がないのではなく,新しいニーズに応える編集をしてこなかったということなのでしょう。

 ところで,私にとっての「アサヒカメラ」は,「月刊天文ガイド」をはじめて買った1968年の3月号が今でも私の宝物であるのと同様に,はじめて買った1976年5月号の木村伊兵衛特集です。この号の表紙にある木村伊兵衛さん愛用のライカにどれだけ憧れたことか! しかし,私の宝物であるはずの1976年の5月号は,はじめに買ったものを失くし,再び古本屋さんで購入したものもどこかに行ってしまいました。今回,「アサヒカメラ」の休刊に伴ってそのことを思い出し探していたら奇跡的にネットで偶然見つけたので,三度目のこの号をなんとか手に入れることができました。古い雑誌は,他人には紙屑のようなものであっても,ある人には宝物であったりするのです。
 雑誌というものは,毎月新しい情報を載せてあるからこそ価値があり,月日が経つと陳腐化していくもののように思えるのですが,実際はその反対で,何か自分に思いのある古いものが手元にあれば,それによって自分の過去の記憶を呼び戻したり,その記憶を留めておく媒体になるものだと思うようになりました。しかし,私の若いころのように紙媒体の雑誌で情報を得ていた時代とは違って,インターネットのような電子媒体から情報を得ている今の若い人には実態が残らないので,歳をとったときに,若いころの記憶が形として残っている媒体が存在しません。そこで,やがて時が過ぎ,若い人が歳をとり昔を懐かしむようになったとき,古い雑誌のような,手元にあるだけで過去を甦らせることができる媒体ないことを嘆き悲しむことになるかもしれません。

アサヒカメラ無題DSC_0182 (2)

 NHK Eテレでは,NHK杯将棋選手権が中断しているために,アーカイブが放送されています。6月7日は,中原誠16世名人対羽生善治九段という新旧対決でした。
 私は,そのひとつ前の新旧対決,大山康晴15世名人対中原誠16世名人のころから将棋を知っているので,なつかしいというよりも,この対局が放送されたのがもうそんな昔のことなのか,という気持ちのほうが強いのですが,現在は,羽生善治九段対藤井聡太七段の対局が世代交代となるわけだから,時間というのは情け容赦なく過ぎていくものです。あと30年もすれば,藤井聡太七段もまた,若者にその座を譲る時代になるのでしょうか? 
 一方,中日スポーツでは,大相撲が行われていないので,いつもなら夏場所の取組の評論を連載する北の富士さんが,ご自分の昔話を書いていて,それがネットで読めますが,これもまた,私は栃若,柏鵬から相撲を見ていて,北の富士の現役時代はとてもよく知っているので,そんなに昔のことなのか,という感慨に耽ります。
 しかし,今とは違い,30年以上前のこの時代は,情報というのは,こうしたテレビや新聞,雑誌からでしか手に入らないものでした。そこで,どうやらそういったものをよく見たり読んだりしていた20代までに起きたことはよく覚えていて,そのあとの30年くらいの月日にあったことは,自分が忙しく,テレビや雑誌を見る時間もあまりなかったこともあって,ほとんど覚えていないようです。それほど,テレビや新聞,雑誌の力が大きかったのです。

 さて,今日は,4月に突然休刊した「月刊カメラマン」に続き,「アサヒカメラ」という雑誌が7月号をもって休刊するというなので,このことを書きます。このニュースを知って,今売られれている6月号を書店で見たらペラペラでほとんど広告がないのに驚きました。雑誌など,以前書いたように,民放のテレビ番組同様,要するに広告収入によって成り立っているチラシの束なので,それがなくなったら存在できないのでしょう。それは,雑誌という媒体に広告の価値がなくなったということでもあります。
 私は,今になって,むしろ,スマホによる写真よりも,逆に,高倍率のズームレンズをつけた軽い小さなカメラを使って写真を写すほうが楽だし便利だと思いはじめているのですが,カメラメーカーはそんな私の嗜好には目もくれず,高価で重たいカメラしか作らなくなってしまいました。そこで,私のようなささやかな愛好家は雑誌による情報を手に入れる意味をもたないから雑誌を買う意欲もなくしました。また,写真を撮るという楽しみは,カメラ雑誌を読むということとは全く異質なものになってしまいました。これでは雑誌が売れるわけがありません。
 この雑誌が休刊,というより,事実上廃刊となっても,ここ何年買ったこともないので,残念にも思わないのですが,30年前を懐かしみ,最終号だけは手元に置こうと予約をしました。

 この春の新型コロナウィルスの流行が,「アサヒカメラ」の休刊と関係あるのかどうかは知りませんが,人々の生活や価値感,そして,嗜好が変わったことは事実でしょう。
 私は,不愉快かつ上から目線で,人の楽しみを奪い,心の平穏を奪い,必要以上に騒ぎ立て不安を煽るような報道(と称する)番組や,NHK総合テレビのように,娯楽番組なのに同時に不快なニュースをL字テロップで流したり,QRコードを張り付けていることに強い嫌悪感をもつようになったので,テレビはNHK BSプレミアム(BSP)とEテレの一部の文化的な番組,そして,CSのスーパー!ドラマTV以外まったく見なくなりました。私の周囲にもBSPしか見ないと言っている人が少なくありません。
 そのかわり,自分なりの別の楽しみを数多く見つけました。そのひとつとして,このところ「将棋世界」を電子書籍として購入しはじめました。そのなかで,今月発売された「将棋世界」7月号に載っていた佐藤天彦九段の文章が私には一番感心し,同意できました。一部引用しておきます。
  ・・・・・・
 人間は衣食住だけではなく,絶対に楽しみが必要です。
 大事なのは「正しく恐れる」ことだと思っています。だからネガティブな情報を入手しすぎないほうがいい。(中略)心を病んではいけません。
 もちろん初期の段階では多くの情報を集めたほうがいいと思うのですが,ある程度現状を理解できたら,情報の量を減らして質にシフトしたほうがいい。そして結論を決めつけずに考えに幅を持たせて保留し,自分にできることを粛々とする。これが正しい恐れ方だと思うのです。
  ・・・・・・
 若くして名人となった人は,やはり,立派な考え方をするものだと思いました。

 私は,以前にもこのブログに書いたように,現代の社会では,情報を手に入れるより必要のない情報を手に入れないことのほうが重要だと思うようになりました。
 そうした時代にもかかわらず,新聞,雑誌のような媒体やテレビなどの媒体は,これまでのように,広告収入を母体としているにもかかわらず,それをオブラートのように包み隠し,依然として,知らない情報を庶民に与えてやるんだ,わが社の意見で人を煽るんだといった上から目線の姿勢や,大人が子供をしつけるような物言いをしている,あるいは,情報の押し売りをしています。これではだれからも受け入れられなくなっていくでしょう。いくらでも情報が手に入る今では,そんな目論見はバレバレです。
 雑誌の休刊や,通常のテレビ番組がかえりみられなくなっているのは,それが少なからぬ原因のように思います。

☆ミミミ
アメリカでの皆既日食を撮影するために購入した機材を有効利用するために太陽黒点を撮影しています。このところ太陽の黒点が少なく,写しても張り合いがなかったのですが,昨日は結構な黒点が出現しました。
DSC_8971 (4)ns

magazines

######
 以前,私は,家に山ほどの本がありました。それらの本の多くは,実家を売ったときに処分したのですが,ほとんどゴミにしかなりませんでした。何度も読むような大切なものは今も手元に置いてありますが,小説などは一度読んだだけ,というものも少なくありませんでした。こういう現実を知ると,この先かさばる本を買おうという気持ちもなくなってきました。
 旅行に行くとき,電車や飛行機の待ち時間や乗っている時間を退屈しないで過ごすには本を読むのが一番よいのですが,こういうときには難しいものは受け付けません。そこで,一番手ごろなのは肩の凝らない雑誌です。しかし,なるべく持ち物を増やしたくないので,もっぱら電子書籍が重宝します。

 現在,私にとって本や雑誌はそんな立ち位置となっているのですが,今日は雑誌について考えたいと思います。
 私は常々,自分の精神が劣化するような気がするので,興味本位の週刊誌は読みません。なかには真実の報道もあるのでしょうが,書き方がオーバーで売らんがためというのが見え見えで買う気を失くさせます。しかも,書き方が下品で,新聞広告を見るだけで不快になります。そしてまた,日本にはアメリカの雑誌「TIME」のような中身の濃いものがありません。日本ではそんな硬派な雑誌は売れないのでしょう。
  ・・
 私が長年読んできた月刊雑誌が3つあります。それらは「アサヒカメラ」「月刊天文ガイド」「将棋世界」です。幸い,これらの本はみな今では電子書籍でも手に入ります。そこで,私は,こうした雑誌で,興味のある記事が載っているときは今も時々購入して,iPad や iPhone に入れて持ち歩いています。しかし,このごろはなかなか買いたいと思う号がなくなってきました。

 「アサヒカメラ」は,これまで,写真というよりもカメラの情報を読みたさに買っていたように思います。そこで,カメラの新製品が出ると,その情報が知りたいので購入していました。しかし,現在のように,カメラ自身に魅力がなくなってくると,それと同時に雑誌自体にも興味がなくなってきました。その昔は,新しいカメラを評価する記事がとてもおもしろかったのですが,時代が変われど,内容が変わらないので,その魅力もなくなってしまいました。今は「ニューフェイス診断室」という連載もなくなってしまったようです。写真の雑誌なのだから,もっと写真芸術に関するおもしろい骨のある記事があれば読みごたえもあるのでしょうが,そんなものはほとんどありません。なにか中途半端で,いったいこの雑誌が何を目指しているのかが今の私にはよくわかりません。よって,まったく買わなくなりました。
 次に「月刊天文ガイド」です。この雑誌がリニューアルしたときにこのブログに取り上げましたが,そのころ私はずいぶんと期待しました。それ以降,表紙は毎号垢抜けていて,紙媒体でも購入しようと書店でなんどか内容を確かめたことがあります。しかし,読んでみると,内容が私の望むものではない,とても中途半端なものばかりでいつもがっかりして,買う意欲を失くしてしまいます。この雑誌もまた,今では私には何を目指しているのかさっぱりわかりません。私の知りたい情報は,何も雑誌を買わなくてもネットで探せますし。私のよく行く書店には毎月5,6冊が納入されるのですが,気の毒なことに,毎月1か月経っても1冊として売れた気配がありません。
 最後に「将棋世界」です。この雑誌は読みごたえがあります。おそらく,今日取り上げた3種類の雑誌の中では,私には一番魅力的な雑誌です。しかし,私にはこの雑誌は難しすぎるのです。将棋の棋譜が書いてあっても,盤上にならべてみなければさっぱりわかりません。よって旅のお供にはなりません。一時,電子書籍としてこの雑誌がアプリで読むことができて,棋譜が画面上で動くという画期的なことが行われたときはすごいと思ったのですが,おそらくこんなことを毎号続けるには異常に手間と費用がかかったのでしょう。いつの間にかなくなってしまいました。そんなわけで,この雑誌は私には読めません。だから買いません。それよりも,ネットで対局の中継やアプリで将棋の対局を見るほうが手軽でおもしろいのです。
 
 このように,以前私が買っていたこれら3種類の雑誌ですが,残念ながら,そのすべてが,私には欲しいものでなくなってしまいました。せっかく電子書籍となっても,それが単に紙媒体のものがPDF化されただけでは意味がありません。これでは今のようなインターネット時代に売れるわけがありません。本屋さんに行っても,ほとんど売れずいつも山積みとなっているこうした雑誌を見るたびにさびしく思います。これもまた,時代の流れでしょうか。それとも,新しい時代に対応できない出版社の怠慢でしょうか。

 台風15号に続いて台風19号と,また,自然災害が日本を襲いました。台風に地震,火山の噴火…,いつどこでそうした自然災害が襲うかわかりません。毎回毎回,日本のどこか,それも,いつも別の場所で,そうした被害に見舞われます。だれしも無縁ではありません。
 テレビのニュースを見ていると,いつも新しい家がこれで台無しになっています。この国で家を建てたところで,いつそうした自然災害に見舞われて,全財産を無にするかわかりません。自然災害の頻発する日本では家を持つことは最大のリスクなのです。

 私は,若いころから,もしお金持ちだったら,大きな家を建てたりするのではなく,理想はホテル住まいだと思っていましたが,調べてみると,それは決して空論ではなく,それを実践している,あるいは,していた人が少なくないことを知りました。これまででもそうして生きていた人がいるのですが,特に現代は,スマホさえあれば事足ります。そこで,持ち物は最小限にして,それでも必要なものがあれば,トランクルームを借りてそこに保存すればいいのです。
 ホテル住まいなら,光熱費もいらず,掃除も必要がありません。コインランドリーさえあれば洗濯も大丈夫です。固定資産税も要りません。ホテルにWifiが完備されていて,おまけに朝食もついているのなら申し分ありません。その部屋がいやになれば出ていくだけだし,自然災害で自分の家が壊れる心配もありません。
 究極の断捨離とは,ホテルに住んで,できる限りモノを持たないで,身軽に,そして,身の丈で分相応に生きること,でしょう。難しいことですが。

DSCN0122

 東京へ行くと,この国はどうして首都だけが繁栄しているのだろうと,いつも疑問を感じます。行くたびにどこかかしかの工事をしています。交通網も文字通り網の目のように完備され安価でどこにも簡単にいくことができますし,Suica を持っていれば電車にも乗れるだけてなく売店でモノも買えるのでストレスフリーです。東京に住んでいる人は,この国の地方の廃退と過疎化を思い浮かべることもないでしょう。
 東北地方,九州地方など,自然災害でどこも大きなダメージを受けているにもかかわらず,その復興よりもオリンピックのための様々な建設が優先されているようにも感じます。そこで,先日のオリンピック日本代表を決めるマラソンをテレビで放送していたときに見た新国立競技場に行ってみました。アメリカのMLBのボールパークの豪華さには遠く及びませんが,それでもこんなに巨大なものを作っちゃっているんだなあと思いました。周りの道路もまた,尋常でない夏の暑さを少しでも緩和しようと,再舗装されていました。しかし,オリンピックが終わったら,オリンピック関連で作られた多くの施設は,おそらくその維持だけでも莫大な費用が発生し,その負担を今の若い人たちがずっと背負っていくのだろうと思うと,開催を素直に喜ぶこともできません。

 大相撲秋場所を見にいったとき,隣に座っていた人が言っていました。
 先日の台風で被害を受けた南房総には,定年を迎えて,全財産を投資して家を建て移り住んだ友人が多く住んでいるのだそうです。残りの人生を悠々自適に過ごそうと手に入れた土地と新居と夢でした。ところが,そうした人達は,この台風で新しく建てた家は破壊され,再び作り直す財産もなく,将来が真っ暗になって立ち直ることもできず困っているのだそうです。その一方で,これまでは高くて手が届かなったこの地方の物件が,この被害で暴落したのを絶好の機会とみて,それを買いあさろうと虎視眈々と狙っている人がいるのだそうです。
 これではハゲタカです。
 一体,この国はどうなっているのでしょう?
 この話を聞いて,やはり,モノというのは持たないに限る,この国ではモノを手に入れるということのリスクは,凡人の想定をはるかに超えているのだなあと,改めて実感したことでした。

2019-09-21_19-27-43_927

 モノを買うとその維持と処分に困るということを痛いほど知って,私はすっかりモノを買う気持ちがなくなりました。その結果,着るものと食べもの,そして必要な日用品以外は買う意味すらわからなくなってしまいましたし,欲しいとも思わなくなりました。
 街にはショッピングモールがたくさんあって,どこも買い物客であふれています。しかし,そこは歩いている分には楽しくとも,買いたいというモノはほとんどありません。一方,旅に出れば,観光地にはそして空港には土産物があふれているけれど,それを買って帰っても,そのほとんどはゴミと化すだけでしょう。そう考えると,お土産を買う意味もわかりません。

 国は老後に厚生年金をもらっていてもさらに2,000万円いるとかいう報告書問題でかまびすしいのですが,そんなこと国民はとっくに知っています。とはいえ,そうしたことに無策な政府も対案もない野党も,みな,結局は選挙に勝ちたいだけ,騒いでるマスコミは視聴率が稼ぎたいだけ,雑誌を売りたいだけ,そして,そうしたネタを利用して投資をあおり,金融機関は手数料を稼ぎたいだけ,などということを賢い国民はすべてお見通しです。
 そもそも,常々書いているように,世界の進歩からすっかり遅れてしまったこの国は,お金の要らない国でもあるのです。いろんな広告で購買意欲を煽ろうとしていますが,そうした広告に洗脳されるとその場はモノが欲しくなる気持ちになることはあっても,一度冷静に考えなおせば,そのほとんどは要らないモノなのです。
 車はないと困りますが,最低限のモノで充分です。満足に走る道路もないのに高級車など必要ありません。何百万円もするモノを外に置きっぱなしにしておくというようなことだけでも,無謀かつリスクが多いとわかります。駐車場で当て逃げされて自分にまったく過失がなくても,車両保険を使えば等級が下がるなんていう改悪を密かに行った自動車保険を考えても,いい車に乗るということのリスクがわかります。車は2年落ちの中古車が一番です。
 家もまたそうです。これだけ天災の起きる国で持ち家をもつことはリスクが大きすぎます。買ったモノを維持するのに必要な経費を考えても,固定資産税を払うことを考えても,優に家賃を越えます。また,いざ売るとなると,所得税だけでも膨大な金額となります。持ち家信仰というのは家を売りたい住宅会社の新興宗教のようなもの。賃貸マンションが一番です。結局のところ,家を持つというのは「根を張る」ということだから,自由に生きることとは正反対なのです。同じことを松尾芭蕉も「奥の細道」で書いています。

 人にとって趣味というは生きる楽しみを与えてくれるものですが,そうしたことを楽しむために必要なモノもまた,自分に必要な最低限のモノを愛着を持って使い続ければいいわけです。モノは人と競うものでも見栄をはるためのものでもありません。自分が楽しめればよいのです。
 私が趣味でずっと使い続けているのはカメラと望遠鏡ですが,私はプロでもなく学者でもないから,自分に必要なモノさえあれば十分なのです。これだって,広告に洗脳されると新たにモノが欲しくなる気持ちになることはあっても,冷静になって考えれば,ほとんどのモノは買ったあとでは使わずに家にため込むことになるのです。
 おそらく,本当の幸せというのは,できる限りモノのない生活が楽しめるということなのでしょう。私も「断捨離」をしてみて改めて思ったのは,そもそもモノがなければはじめから「断捨離」をする必要すらないということでした。だまされてはいけません。みんなあなたのお金が欲しいだけですよ。

◇◇◇
「1日1断捨離」を実行する①-捨てることこそ難しい。

画像 001

 さまざまな事情で中断していた「断捨離」を再開しました。
 はじめてみると,不要なモノがなくなるというのはやはりとても気持ちがよいものです。そのおかげで要らないモノが邪魔していて隠れていたいつも使うモノが目立つようになって,逆に使いやすくなったという利点もありました。モノがあふれている今の時代,モノは買うよりも要らないモノを捨てるほうがむしろ喜びがあるのです。
 しかし,モノを捨てることは買う以上に難しいのです。

 私が一番困っているのが,昔のビデオとかDVD,CDなどです。今ならこんな量のある保存媒体でなく,ハードディスクに保存できるのですが,当時はデータの保存というのはそれぞれ用途によって別のメディアだったので,メディアの量が膨大になっていました。
 しかし,結局,これまで保存してもあとで必要になったことなんてほとんどありません。それに,今改めて再生しようとしても,ファイル形式が異なってしまっていたり,再生する機械がなくなっていたりで結局使えないものさえたくさんあります。
 写真のフィルムも同様です。このブログに載せているほとんどの写真のように,今はデジタルカメラで写したものがハードディスクに保存してあるから,単にそこから取り出せばよいのですが,フィルムだと大変です。かといって,プリントした写真は劣化しています。
 このように,ディジタル時代になって,ずいぶんといろんなことが容易になりましたが,昔保存した媒体を維持するのは大変なのです。かといってむやみに捨てることもできないし,何を捨てていいのかを調べるだけでもずいぶんと時間がかかります。

 これまで「断捨離」をしてみて,最もむなしかったのが書籍です。そのなかには今となっては貴重な本もあったのでしょうが,それを仕分けるのも手間がかかるので,一挙に処分してしまいました。そのようにして売ってみてわかったのですが,それらはほとんどただ同然でした。その割に重く量がありました。
 そんなことを経験した結果,私は,本はよほど必要でなければ買わなくなりました。買っても読み終わったあとが困るからです。今は,どうしても読みたいものがあったとき,電子書籍がないかを探します。そして,なければ買うこともあきらめます。紙媒体の本を売りたのなら,本屋さんのカウンタの横に読み終わった本を引き取ってくれるような場所があればいいなあと思ったりします。

 モノが売れない時代,といわれます。必要なモノすら手に入らなかった時代ならともかく,今のようにモノがあふれている時代では,買うことよりも買ったモノを捨てることのほうが大変なのです。これではモノが売れるわけがありません。
 モノを売りたければ,簡単に処分できるシステムを充実することのほうが必要でしょう。

DSC_6282

このページのトップヘ