しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:「1日1断捨離」を目指して

 東日本大震災で惜しくもその幕を閉じた白河天体観測所ですが,この観測所の影響を受けて,1980年代はアマチュア天文愛好家は個人のあるいはグループの天体観測所を作ることがあるいは作ろうとすることがブームでした。この歳になると,よほどしっかりした構想がなければ,そんなものを作ることのデメリットのほうが大きいことは容易にわかるのですが,若気の至りで,私もこれまでに2度ほどそうした観測所のまねごとを作ろうと思ったことがありました。そして,ほぼ行動に移し,ともにとん挫しました。

 そのひとつは自宅から3時間余りもかかる,ある山の山頂でした。ここはまあ,当時は空も暗く,星を見るには環境が悪くなかったのですが,遠すぎました。ふとしたことで話が進み,盛り上がり,数人の仲間とお金を出し合って,望遠鏡を買って,そこにそれを置く小屋を作ることになりました。そして,その小屋というのを自分たちで建てるというわけです。それはある年の夏の終わり,ちょうど今頃のことでした。
 しかし,結局,私には行くことさえ面倒な場所で,しかも冬になれば雪が積もって,行きたくとも行くともできませんでした。これではうまくいくわけがありません。結局,小屋はできたものの,私は一度も使うことがありませんでした。今はどうなってしまっているのだろうと思ったりもするのですが,モノを作るというのは作るエネルギー以上に維持するというエネルギーがいるのです。
 今,そのことを思い出すと,同時にひとつの歌が浮かびます。それは財津和夫さんが1979年に作った「虹とスニーカーの頃」という歌です。
  ・・・・・・
 白いスニーカー汚さないように
 裸足で雨の中僕らは歩いた
 びしょびしょぬれのトレーナーが
 乾くまで抱き合った夏の昼さがり
  ・・・・・・
という歌詞です。
 結局,当時の私は,星が見たかったのではないのです。そうした状況に夢を見ていただけのことでした。

 もうひとつは,それから数年後のこと,友人の家の近くに空き地があるからそこに小屋を建てようということになったのです。このときは望遠鏡を設置するなどという王業なものではなく,単に物置き小屋を買ってきて空地に建てるというだけのことでした。で,さっそく小屋を買ってきました。そうしてすぐに小屋ができたのですが,こちらもまた,一度も使わぬままになりました。車があれば,そんなもの建てなくとも,適当なところへ行けば星など見られたからです。
 今となっては,その小屋を建てた場所が本当に美しい星を見ることができた場所だったのかさえ不明です。こちらもまた,私には,そうした状況を夢見ていただけだったのですが,このときのことを思い出すと,今度ははしだのりひこさんが1969年に作った「風」という歌が浮かびます。
  ・・・・・・
 人は誰もただひとり旅に出て
 人は誰もふるさとを振り返る
 ちょっぴりさびしくて振り返っても
 そこにはただ風が吹いているだけ
  ・・・・・・

 結局,私がやったのはそれだけのことです。その頃より歳をとって,少しは分別ができて,結局,人の夢というのは夢を見ているときが幸せだと気づいて,そして,同時に,なぜか当時流れていた歌が思い出として残っているのです。要するに,物質というのはそれだけのことで,それを手に入れると,その維持と,そして,その後の処分に困るのです。
 個人に限らず,モノを作ることには一生懸命でも,それを維持することの困難さを議論することがあまりに少ないのです。資本主義社会というのはそうしてモノを作って消費することばかりを考えていますが,それを維持することの困難さをあまりに軽視しているわけです。だから,この高齢者社会の日本では,これまでに作り上げてきた道路ひとつ,それを維持することもできなくなっていくのは明白なのです。
 「断捨離」の根本は,維持のできないモノは作らない,そして買わないことなのです。

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 海外旅行で現地のツアーに参加すると,そのツアーに,さまざまな旅行会社の団体ツアーで参加した人やら,個人旅行で参加した人やらが一緒くたになっていることがあります。このように,一見複雑な商品構成ばかりの社会でも,実は入口だけは違えども中身は同じ,というものがたくさんあります。ブランド品が実はどこかの町工場で作ったもののOEMで,マークがついているかいないかの違いで値段だけが違ったりするのも同じです。
 たとえば,多くの会社が入札に参加しても,入札に成功した会社がどこも同じ子会社に仕事を委託するならば,結局はどこが入札しても仕事をする人は同じだというからくりがあったりします。

 電気,ガス,水道,電話などは日常不可欠なものなのに,おそらく,その料金体系を多くの人がわかっていないかもしれません。そのなかでも最もわからないのは,携帯電話の「パケット」とかいうものでしょう。電話が3分10円という時代,電話料金は明確だったのですが,いまや,得体のしれない「パケット」なるもので料金を決められたところで,使う側には実感がありません。そんなことがまかり通っているから,法外の料金体系ができあがるのです。
 おそらく最も使った量ががわかりやすいのはガソリンでしょう。しかし,ガソリンンもまた,さまざまな品質のものがあって値段が違うけれど,その値段ほどの違いがよくわからないし,さらにはガソリンスタンドによる値段の違いもあって,メーカーによって品質が違うのか違わないのかなんて判断のしようもないから,なにか釈然としません。
 電気やガスのようなインフラは,多くの会社が作れるものではないから,同じものを使っていながら契約会社が違うと料金が異なるわけです。だから,私にはわけがわからないのです。どうせわけがわならないのなら単純なほうがいい,そんなわけで,我が家ではガス会社との契約を辞めて,ガスも電気も同じ電力会社に統一しました。そうしたところでこれまでと別に何も変わりませんでしたが,ただ,少しだけ値段が安くなったようです。しかし,本当にそれでトクになったのかどうかはわかりません。それよりも,そうしたことで料金の支払いが一元化したので面倒がなくなりました。
 複雑化させることで庶民からお金を巻き上げるのがこの社会のしくみなら,庶民は少しでも断捨離をして単純化することがその防御となるのです。

 そのうち,学校も,入学したときの学校の名前だけが違って,同じ教室で,同じ教師が教えるのにもかかわらず,卒業のときだけ,A君はXという学校の卒業証書を受けとり,B君はYという学校の卒業証書を受けとるといったようになるかもしれません。そこまでいかなくても,今後,少子化でそれぞれの学校が維持できなくなって,教師は人材派遣業者から派遣されて,別の学校なのに同じ先生が教えるということが一般的になれば,それもまた同じようなものでしょう。インターネット上でeラーニングをするというのは,要するにそういうことと同じなのです。
 そもそも大した違いもないのに,やれ高校入試だのやれ大学入試だのといって学校をランク分けして序列化するのは,教育産業と称したビジネスに庶民が貴重なお金を散財させることが目的であることを知らねばなりません。
 私は,将来,同じ先生から同じ授業を受けても,入学した学校が違うというだけで別の学校の名前の記された卒業証書を受けとるなんていう,とても皮肉的で素敵な時代が来るのではないかとひそかに期待しています。そうなれは,学歴やら学閥という「ブランド」は所詮はメッキであって意味のないことだということをだれもが実感して,そのからくりが明白になるからです。

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 今日は今回は旅に持っていくカメラのお話です。
 記録をするだけならば今やiPhoneで十分ですが,それ以上の写真を撮ろうと思うと,やはり,カメラは必要です。「インスタ映え」という流行語が流行るにつれて,一時不振にあえいでいたデジタルカメラが再び売れはじめたようです。
 しかし,カメラに限らず,売れているものや性能がよいものが自分にとって使いやすいものとは限りません。そこで,自分が何を写すのか,どういうカメラがふさわしいのかということを知っている必要があるのですが,それはカメラに限らずどんなものでも同じです。
 売れているものを買う,ブランド品を買う,などというのは最も愚かなお金の使い方で,どんなときも,自分に何が必要であるかがわかっていないといけないのです。

 このブログでいつも書いているように,私が写真を写す対象は旅と星です。星を写すカメラのほうは散光星雲などのHII領域とよばれる天体が写るように一般に販売されたカメラを改造したものなので別として,私は,星以外,つまり,旅にもっていくための最適なカメラをずっとさがしているのです。
 以前,「ライカ」について書きましたが,この「ライカ」のような100万円近い値段のカメラを持っては気軽に旅ができません。また,カメラ会社はこのところ,収益を考えて主に35ミリフルサイズと呼ばれる大きさの受光素子を使ったカメラの開発に力を入れています。そのなかで,ニコンのD850というカメラの評判がよいようです。しかし,私はそんな1キログラムもするような重いカメラを持って旅に出る気もしません。

 私が欲しいのは,35ミリサイズに換算して25ミリから250ミリくらいのズームレンズがついていてレンズ交換ができる,できるだけ小さくて軽いカメラです。そして,露出補正と連続撮影の設定が簡単にできるもの,さらには,記憶媒体がSDカードのサイズであるもの,というのが条件です。この条件にあてはまりそうなものが今日の写真にあげたいくつかのものですが,どれも,SDカードが使えないとか,使わないシーンセレクトモードがあったりとか,重たかったりとか,どこか私にはひっかかる欠点があって,買う決心が起きません。
 それにしても,どうして,カメラメーカーは旅に持っていくカメラという目的に絞ったよいものを開発しないのでしょうか? カメラマンでもないのに1キログラムもある大きくて重たいカメラを持って旅に行くわけないでしょう。
 カメラマニアというのは,「全財産」をカメラバッグに入れて持ち運び写真を撮っているような人ばかりではないのです。そしてまた,スマホに自撮り棒をつけて写真を撮っているような人よりも,私のように性能のよい小さなカメラを探しているカメラ好きの人は少なくないと思っているのですが,それは少数派なのでしょうか?
 ということで,欲しいものが見つからないので,いくらニコンというメーカーにやる気がなくても,私は,今使っている時代遅れのニコン1J3を当分は使い続けるしかないのでしょう。修理に出したバッテリーの不具合も,原因不明のまますべて新品に交換になって戻って来たことですし…。

 我が家には iPad が5台もあります。内訳は,初代,iPad2,iPadAir,iPadmini,そして買ったばかりの第5世代です。古くなっても下取りに出さないものだからどんどん増えていきました。しかし,さすがに初代は使い物になりません。iPad2 もすぐに固まるので使いづらいです。しかし,残りの3台は現役バリバリです。
 そんな次第で,しばらく初代と iPad2 は隠居をしていたので,この度の「断捨離」で処分をしようとデータの初期化をしました。しかし,作業をしているうちに捨てるのも忍びなくなって,何か使い道がないかを考えるようになりました。その結果,初代は頻繁に見るビデオを保存しておいてそれを見るための専用機として,また,iPad2  は AmebaTV と YouTube を見るための専用機として復帰しました。今では iPad2 は AmebaTV の将棋チャンネルが朝から晩までつきっぱなしになっています。便利なものです。

 さて,そうこうしているうちに,現役バリバリだった iPadAir のバッテリーがおかしくなり,充電してもすぐに切れてしまうようになりました。そこで予約をして AppleShop に持っていきました。
 この AppleShop はきわめてアメリカ的なサービスをするところで,日本人の考える慇懃「無礼」なサービスとは全く違う塩梅なので,そうした間合いを知らない人は腹が立つと思います。なにせ AppleShop には日本のサービスセンターのような「窓口」というものはなく,そこらに立っているスタッフに声をかけて近くのイスに座って担当者が来るのをひたすら待つ,ということなのですから。しかし,その間合いを知れば,それはそれで非常に快適です。その反対に,日本のサービスセンターだと制服を着た(いかにも派遣といった)きれいなお姉さんがにこやかにマニュアルどおりの対応だけはしてくれますが,知識もなく権限もなく,単なる人形です。
 私の iPadAir,AppleShop での「診断」(プログラムを走らせた)の結果,「バッテリー劣化のため交換」と相成りました。保証が切れていたので有償ということでした。部品がないから取り寄せるので約2週間かかるということだったので気長に2週間待つことにしたころ,わずか2日目に連絡がありました。再び AppleShop に出かけたのですが,その修理の内容というのは,バッテリーの交換ではなくて, iPadAir が新しいものに交換されるということでした。

 これはすごいことです。感激しました。4,5年使ったものがわずか1万数千円で再び新品になってしまったわけです。考えてみれば,メーカーとしては,バッテリーを交換するために技術者を養成し,時間をかけて作業するくらいなら,こうして交換してしまう方がずっと効率もよくコストもかからないのでしょう。また,ユーザーにとってもそのほうが利があるから,これがウィンウィンなのです。
 私はこのところ,身の回りの愛用品がやたらと使わない機能満載で使いにくいだけの日本製品から腐骨なアメリカ製品ばかりになりつつあるのですが,こうした企業のサービスの在り方を考えるだけでも,日本の企業がどんどんと世界から取り残されていくことを痛感するわけです。ちなみに私が昨年ニコンに修理に出したカメラのバッテリーの不具合は2か月近くが過ぎても何の返事もありません。時折催促に出かけてもぐたぐた言い訳をするだけでなんの解決も得ることができません。こういう対応を慇懃「無礼」と言います。
 ちなみに,私はこのように AppleShop に持っていきましたが,友人によると,ウェブで連絡をすると運送費無償で取りに来てくれて数日で新品に交換されて戻ってきたのだそうです。

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 旅をしていて思うのですが,人は何をするために旅をするのでしょう?
 「るるぶ」という雑誌がありました。今もあるのかどうかは知りませんが,ガイドブックの商品名にもなりました。この「るるぶ」という言葉の由来は,1972年にJTBの出版事業局が旅の雑誌を発刊するに伴ってネーミングを募集したときに,アイ・シー・エー株式会社(International Consulting & Advertising)の野村元久さんが「見る」「着る」「遊ぶ」をキーワードとして「るるぶ」と発案したものだそうです。つまり,この言葉によれば,旅というのは見どころなどに行って「見る」こと,ファッションを「着る」こと,そして,テーマパークなどで「遊ぶ」ことが目的になるのでしょうか。
 人が集まる場所というのは近年では日本だけに限らずショッピングモールというものがあるのですが,そこには商品が溢れています。しかし,私にとってはそこで売られているもののほとんどがいらない,というより必要がないのです。だから,私にはそういう場所にあるお店がどうして成り立つのかすらよくわからないのですが,旅の目的は,そこで「ショッピング」をしたり「食べる」こと,これに尽きる人も多いわけだから,こうしたお店が成り立つのでしょう。

 しかし,私はショッピングには興味はないしグルメでもないから,旅の目的は非日常を味わい,自分の好奇心を満たすということになります。そうした目的のために,できる限りお金を使わない旅行を工夫するわけです。いわば,旅での「断捨離」です。
 「衣食住」というように,旅をするときに必要なものは泊まる場所と服と食事ですが,泊まる場所は,まあ,シャワーがあって寝られればいいわけです。服は持って行くから旅先では買いません。一番の問題は食事ですが,これをどう工夫するかが,私の最も重要な問題になりますが,それはまたの機会として,今日の話題ではありません。

 今日のお話は旅先での観光です。私が先日ハワイ・カウアイ島に行ったときに参加した「リバーボートツアー」は窓口でチケット買いましたが25ドルでした。このツアーは日本の旅行会社のやっている現地ツアーに組み込まれていて,それを利用すると100ドルになるのです。私がこれまで数回参加した星空観察ツアーというのもそれと同様で,現地で探せば70ドルくらいのものが日本の旅行会社の現地ツアーだと3万円近くにもなります。
 いつも書いているように,旅というのは言葉が不自由で移動手段がないとべらぼうに高くなってしまうのです。
 旅における「断捨離」というのは,こうした出費をいかに抑えるかにかかっているというわけです。

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 技術革新は必要で,それがないと人間の進歩もないわけですが,その速度が速すぎると,その進歩を追いかけているだけで,本当に何が便利なのかわからなくなってしまいます。パソコンや,カメラなども進歩が早くて,日々新しい情報を追いかけていないと,すぐに置いてきぼりにされてしまいます。
 しかし,こうした進歩に接していると,それらを追いかけていった方が有益なものと,どうでもよいものがあることがわかります。たとえば,デジタルカメラは,毎年,どんどんと新しい機種が発売されて,雑誌の記事やさまざまなブログを賑わせています。それらは宣伝だから,やれ「買い」だのと,誠にかまびすしいのですが,使いこなせるようになる前に,また,新たな機種が出るのでは,それを追いかけていても消化不良になってしまうだけです。
 これでは,やたらとたくさんの問題集に手を出して,しかし,何も身につかない出来の悪い学生の勉強法と同じです。
 私は,カタログや雑誌の記事から知識を得て,結局はそうした宣伝にまんまと乗せられていた愚かな昔を思い出し,しかし,実際に自分で写真を撮るようになってみて,そんな知識はほとんど空言であることをがわかって,そう思うするようになりました。

 私がずっと使っている望遠鏡は,今から30年近く前に30万円ほど出して買ったものですが,今もそれをもちだしては,月に数度,少し遠出して星の写真を撮りに出かけるのを楽しみにしています。
 そうした古い望遠鏡を本当に使い込んでみると,それは,自分の思っている以上にずいぶんと工夫して作られているんだなあと実感します。器械はしゃべらないのでわからないのですが,もし,口があれば,器械たちは,本当はもっと主張したいことがたくさんあるように思うのです。
 それなのに,使う方がそれを十分に認識していないので,きっと生れもった性能のそのほとんどが活用されることもなくそのうちに捨てられて,くやしがっているのではないかと思うようになりました。

 プロならともかく,所詮は趣味で楽しんでいるのだから,最新技術などを追いかける必要もないのかもしれません。絶えず新しい技術を追いかけることが楽しみな人もいるでしょうから,それは人それぞれですが,私は,限られたお金で人生を楽しみたい,そして,やりたいことが一杯あるのだから,そうしたたえず新しいものを追い求めてお金を使うよりも,新しいものに比べればずいぶんと性能の劣るところもあるだろうけれど,長年連れ添った自分の器機を大切に使ってやることのほうがいいなあと,思うようになりました。
 他人の持っているものと比べる必要もないし,自分の持っているものでささやかに楽しむことこそが一興なのです。

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 先日「ジッツオ」の三脚のことを書いたばかりなので気が引けるのですが,私はこの度「バンガード」(VANGUARD)というブランドの三脚を購入しました。というよりもしてしまいました。私は何事もさらっと8割の力でいい加減にするのが好きです。精一杯なんて似合いません。旅行に行くときも,できるだけ持ち物は少なく,無駄なものは持ちたくないのです。
 南半球に行って星を写すときに携帯用の小さな赤道儀に取り付けるために使用する「ジッツオ」の三脚ですが,フィンランドへ行ってオーロラを写すためにカメラを固定するだけの目的にはちょっと重すぎるのです。以前持っていたのは日本のメーカーの軽い三脚でしたが,わずか数年使っただけでガタガタになってしまい,この度の「断捨離」で捨てました。
 そこで小型でしかも作りのよい三脚を探していたのですが,ネットで見ても質感がまったくわかりません。そこで,ヨドバシカメラの店舗に行って直接触ってみることにしました。

 店内には三脚が文字通り林立していて,何が何だかよくわかりません。事前に目をつけていたものなんて,実際に触ってみたらあまりにやわで話になりませんでした。「ジッツオ」には私の欲しいくらいの小さなものがありません。「ジッツオ」の精度で小さなものを作ればいいのにと思いました。 迷いに迷い,あまりに迷っているので店員さんが代わる代わる来ては相談に乗ってくれます。で,ついに選んだのが「バンガードVEO2 204AB」というものでした。
 「バンガード」知りませんでした。三脚を見ても,製品についてきた説明書を読んでもどの国の製品なのかわかりません。ふつう製品には「Made in ...」という表示があるのですが,それさえありません。なくてもよいものなのでしょうか?
 「ガードフォースジャパン」という会社が取り扱っているということなので,ネットで会社の情報を調べてみると,どうやら「バンガード」というのは台湾のメーカーということがわかりました。「バンガード」,実はOEMでニコンのバカメラバッグなども作っている信頼のある会社です。

 OEMといえば,ブランドなんていうものは虚構だということを教えてくれる存在です。
 たとえば,高性能の天体望遠鏡を作っている「高橋製作所」,この会社自体もともとは別のメーカーのOEM製品を作っていましたが,自社のブランドで名が通りはじめたころに双眼鏡を販売していたことがありました。この双眼鏡,私もそのころに購入して今も使っているのですが,ものすごく性能がよい,しかも安価なものでした。実はその製品は「勝間光学機械」という会社の作ったもので,この会社はとりわけ安くて性能のよいものを今も作っています。
 今から何十年も前に多くの天体望遠鏡メーカーがあったとき,それらの望遠鏡についていた部品もまた別会社の作ったOEMでした。特に接眼レンズはほぼ「谷光学研究所」の製品でした。
 このように,製品には別の会社に委託して作ってもらったOEMがとても多いのです。そして,そうした委託を受けた会社の技術力はとても高いものです。これこそが日本の製造業なのです。

 日本の大手の会社の製品には「日本製」をうたってそれを付加価値にして高級ぶって高い値段をつけた製品を売りにしているものがありますが,結局は今の時代,組み立ては日本で行っていてももともとの部品のすべてを日本製ではまかなえるような時代ではありません。私は,そもそも「日本製」自体に価値を認めていませんけれど…。

 そんなわけで,私は店員さんに薦められて「バンガード」の三脚を買って帰りました。
 家に帰って改めて調べてみると「バンガード」のサイトに私の購入した「VEO2 204AB」という製品がないのです。「VEO 204AB」ならありましたが,値段は私が1万と少しで購入したものの2倍もしました。推測するにこの製品はヨドバシカメラだけで売っているもののようなのです。つまり,ヨドバシカメラがバンガードに委託して作ってもらって安価で販売しているOEMでしょうか? アマゾンコムを調べてみると,そこには「VEO2 204AB」は存在していましたが,そこにあったものもまた私の買ってきた値段の倍ほどもしました。
 要するに,私はものすごくお値打ちに理想の三脚を手に入れたわけです。しかもその出来のよさに満足しました。新年早々,いい買い物をしたものです。

dsc00500_2 数年前,もし旅先でiPhoneのバッテリーがなくなって電気のコンセントがなく充電ができないという事態になったときに何かよい方法はないものかと思って調べていて,はじめて「モバイルバッテリー」なるものを知りました。しかし,当時はそれがどういうものか詳しいことがわかりませんでしたが,ともかくひとつ試しに購入しました。それが「アンカー」(Anker)という会社の製品でした。
 「アンカー」はもともとは家電機器のデザインや開発,販売を行う企業で,グーグルを退職したスティーブン・ヤングによって2011年に設立されました。社名の「Anker」はドイツ語の「Anchor」に因んで名づけられたといいます。
 スティーブン・ヤングは高品質で手頃な価格のノートパソコンの交換用バッテリーを市場に提供するためにこの企業を創業しましたが,その後,携帯充電デバイスの必要性を認識したことでスマートフォンバッテリー充電器とウォール充電器に焦点を移し,現在では売上の大半を占めています。

 私は購入したモバイルバッテリーを,当初はiPhoneの充電用に使っていただけだったのですが,オーストラリアへ行って星の写真を写すときに携帯型の赤道儀の電源や夜露からレンズを守るためのヒーターの電源として非常に便利に使うことができて,はじめてモバイルバッテリーは乾電池替わりになるということを理解しました。
 モバイルバッテリーの出力は,というよりも,iPhoneの充電に必要な電圧は5ボルト,乾電池にすると4個分で(私はそんなことすら知りませんでしたが),そのためにモバイルバッテリーの出力も5ボルトです。12ボルトの出力ができるモバイルバッテリーもありますが,通常は5ボルトです。私は長年,望遠鏡の赤道儀を動かすのに必要な電源に頭を悩ませていました。これは12ボルト,つまり,カーバッテリーで使えるためにそうなっているのですが,エンジンをかけていない車のバッテリーから電源を取り出して使うのは心配なので,12ボルトの出力ができるポータブル電源を購入したり,あるいは乾電池を10個直列にした電源ボックスを使っていました。しかし,重くて大変でしたし,予備の電池を持っていく必要もありました。そこで,5ボルトの出力ができるモバイルバッテリーから12ボルトの出力ができるのならこれを利用するのが最も便利だと思ったのです。調べてみたら5ボルトを12ボルトに変換するコードの存在があることを見つけて,長年の懸案がすべて解決しました。

 カメラの電源もまた頭の痛いところです。これもまた予備バッテリーを持っていくのですが,予備バッテリーを充電するバッテリーチャージャーは電気のコンセントが必要なのです。これもまたiPhoneのようにバッテリーチャージャーがUSB接続できてモバイルバッテリーで充電できるのならはるかに便利です。カメラがスマホに凌駕されてしまう原因のひとつはそこにもあるのです。つまり,バッテリーの問題です。
 日本のメーカー,というよりも日本人はUSBの利便性がまるでわかっていないのです。飛行機に乗れば座席にUSBのコンセントがあたりまえのようについているしアメリカの空港の待合室にはUSBのコンセントがありますが,天下の新幹線にも駅にもUBSのコンセントがないのです。カメラの電池のバッテリーチャージャーもニコンのコンパクトカメラには以前はUBS接続のできるものがあったのですが(USBの使いこなせない「ニコ爺」とよばれるカメラおじさんたちから)不評ということらしくやめてしまいました(ソニーのEマウント一眼レフはできます)。こういうことからも日本の工業製品が世界の標準から乗り遅れてしまっている理由がわかるような気がします。頭の固い,そして古い日本人が足を引っ張っているのです。

 このごろはソニーをはじめとして日本のメーカーもモバイルバッテリーの重要性を知ってそうしたものを発売し量販店にたくさん並んでいますが,これもまた日本人の考えるいつものような後追いでなんらかの付加価値をつけて値段を高くしているものばかりです。丈夫で単機能な「アンカー」を使うとそうした日本製品は「おもちゃ」にしか見えません。それにアマゾンで「アンカー」を買う方がずっと安価です。
 私は,海外旅行のお供にこの「アンカー」のモバイルバッテリーが不可欠になりました(ただし,預け入れ荷物でなく機内持ち込みでないといけないので注意が必要です)。しかし今でもカメラのバッテリーの充電だけが悩みの種です。何度も書きますが,ニコンのカメラのバッテリーもモバイルバッテリーで充電できるようにならないものでしょうか(サードバーティにはそういう製品があります)? そしてまた,充電式のシェーバーも充電式の電動歯ブラシもUSB接続ができてモバイルバッテリーこれひとつで電源がすべてまかなえるようになると予備の電池を持っていく必要がなくなりとても便利だと思うのですが…。そうすれば持ち物の「断捨離」にもつながるのです。

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 観光地に行くやたらと目につくのが外国人とともに三脚にカメラをつけてかついで歩くおじさんたち(たまにはおばさんたちも)です。大きなカメラバッグを背負っている人もいます。趣味は人それぞれですが,私は何もそんな大げさな装備をしなくてもいいのになあとあわれに思ってしまいます。それで人様に迷惑になっていないのならまだしもそうでない方々も少なくありません。
 私はずぼらだから,三脚をもって旅などしません。できる限り軽く,できる限り何も持たないのをよしとします。望遠レンズを使うときも手持ちです。
 でありながら,今日のお話は私が持って歩かない三脚です。

 私はこれまでに結構三脚を買いました。しかし,使わないのだから宝の持ち腐れですって? 実は,私が三脚を必要とするのは双眼鏡で星を見るため,そして,月や惑星など,赤道儀で追尾をする必要のないときに望遠鏡に取り付けるためなのです。そのために結構大きなものがたくさんあります。そのなかでたったひとつ,三脚おじさんのように,カメラに取り付けて風景写真を撮ろうとずいぶんと前に買った三脚があるのです。それが,意識もしていなかったのですが「ジッツオ」(Gitzo)というメーカーの三脚でした。
 「ジッツオ」というのはフランスのカメラ関連製品メーカーで,特に三脚と雲台で知られています。フランス人のアルセーヌ・ジッツホーベン(Arsène Gitzhoven )によって1917年に設立され,1942年第二次世界大戦によりいったん解散したのですが,1944年に生産を再開し,1950年代に入って三脚の生産を始めました。1992年に「マンフロット」も所属するイギリスのVitecグループの傘下となりました。また,フランスからイタリアへ生産の拠点を移転しました。
 
 海外に行って星を写真を写すようになると,軽い装備でなんとかならないかと工夫するうちに,この買っただけで使っていなかったジッツオの三脚に簡易型の赤道儀をつけることを思い立ちました。私はそのときにはじめてこの三脚のすばらしさを意識しました。
 私が持っていた日本のメーカーの三脚の多くもまた,経年でガタがきていたので「断捨離」で捨てました。そうして捨てた日本のメーカーの三脚に比べて,ジッツオは長年経ってもびくともしていなかったのです。それがすばらしさのひとつでした。そしてふたつめは,私の古いジッツオは私の操作ミスから小さな部品が欠損したのですが,調べてみるとそれが今でも手に入るということでした。注文したら海外から1週間もしないで送られてきました。これには感動しました。
 このジッツオ,ライカほどではないにせよ,決して安くないのです。しかし,そんなすばらしさを知ってしまうと,日本のメーカーの三脚はすべて「おもちゃ」にしか見えないのです。だから,私は,そんな「おもちゃ」の三脚を持っている観光地の「三脚おじさん」たちを見ると,その「見る目のなさ」からその人の人間性までをも疑ってしまうのです。
 どうして,こうも日本の工業製品はいいかげんなモノしか作れないのでしょう。そんなことなら,いくら値段が張ってもこの先一生使えそうなジッツオ買っちゃったほうがずっと断捨離に貢献できるのでは? と,ジッツオを使っているとしみじみと思うことでした。

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 名古屋にライカの直営店(ショールーム)ができたということを知ったので行ってきました。場所は名古屋の老舗デパート松坂屋の北館でした。私はデパートには縁がなく,インターネットですべてが購入できる時代にデパートの存在意義などあるのかいな? くらいに思っていたのですが,北館に入ってびっくりしました。店舗を構えていたのはいわゆるブランド店ばかりで,ショッピングを楽しんでいる人たちも,みな,高そうな服を着ていました。ここにはまったく私の生きている世界とは別の世界が存在していました。
 しかし,今どき,世界中の都会はどこに行っても同じようなもので,特に珍しくもありませんでした。
 それにしても,私がいつも思うのは,そうしたところに売っている「ブランドもの」を身につけても,たかがデパート巡りをするくらいしか行くところがないのではなかろうか? ということでした。実際,この国にはそうしたものを役立てるようなところがないのです。そういう意味でもこの国は貧乏人にやさしい国なのです。
 ライカもまた同じで,日本のメーカーのカメラの10倍もするようなカメラをだれが使うのかいな? そんなもの売れるのかいな? とずっと思ってきました。ライカの直営店はまさにそんなデパートの店舗の中にありました。

 ほかにお客さんもいなかったので見貧しい身なりの私は少し躊躇しましたが,意を決して入ってみました。すると店員さんが出てきて,新型ライカ,試してみますか? と言われました。
 私は,これまでに,一度だけ,ライカというカメラを買ったことがあります。M6というフィルムカメラでした。しかし,少し使ってみて,私にはこれは使い切れないと思って,売ってしまいました。しかし,年の功とでもいいますか,ライカに対する知識だけは豊富にあるので,店員さんと互角に会話だけはできます。今回触れることができたのはM10という新型のデジカメでした。そして,触れるやいなや,私はライカにひとめぼれしてしまいました。その質感というがたまらないのです。値段? 約80万円,カメラとしてはすごい値段です。買うことのできないほどの金額ではないにしても,買ってみても,おそらく持ち出すのが怖くて,結局は家の中で見つめるだけになることでしょう。そう考えると,発売されたばかりのCLも触れてみたのですが,これはM10よりも少し安いから魅力的なカメラです。これなら使えます。35ミリに換算して24ミリから240ミリまでのズームレンズがあれば申し分なく最高なんですが…。

 ライカ直営店を後にした帰り道,同じく松坂屋の南館にあるヨドバシカメラに寄ってみました。そこには庶民の空気が漂っていました。しかし,そこで目にした日本のメーカーのカメラに私はひどく失望しました。ライカを触ってしまったあとでは,どれも子供のおもちゃにしか見えません。
 昔からカメラ好きの私は,今,欲しいカメラがないのです。私が今使っているのは,星を写すためのニコンとキヤノンの一眼レフ,どちらも入門機ですが,天体写真用に改造がほどこしてあります。星を写す目的でない海外旅行に持っていくのはニコン1です。このカメラを使っているのは「小さい」ことが理由です。しかし,このカメラ,メーカーにまったくやる気がなく,おそらくはもうすぐ消え去る運命でしょう。海外旅行用と特化すれば売れるのにねえ。ということで「小さく」て使い勝手がよいニコン1の後釜を探しているのですが…。

 よく似た製品は今もあるのですが,スマホに押されて普及品は売れなくなってきたから「高級カメラ」と称するものばかりが発売されるようになってきました。ニコンの一眼レフはキヤノンのそれに比べれはずっと作りがよくてお金がかかっているのが使ってみるとわかります。しかし「ニコンD850」をはじめとして,どれも大きくて重たいものばかりで,プロの写真家ならともかく,こんなもの持って海外旅行はできません。
 オリンパスには「小さく」て作りのよいよさげなミラーレフ「オリンパスペン」があるのですが「アートフィルター」とか「クリエイティブダイヤル」などは要りません。そんな画像処理は写した後でパソコンでできます。こうしたカメラにあるあまりに多くの機能,私は絶対に使いません。だって瞬間に理解できないし,そんな機能を考えていては一瞬のシャッターチャンスを逃してしまいます。こんな使わないものにお金を払う気がしません。技術屋さんが机上で考えているようなスペックは不要です。
 海外旅行に持っていくようなカメラに必要な機能は見やすいファインダーと露出補正と連続撮影モードだけ。カメラの機能も「断捨離」が必要なのです。

 しかも,日本のメーカーが作るどの製品も,おそらくはわずか2年もすれば旧製品になってしまうことでしょう。あるいは,儲からないとなればメーカーはカメラづくりからも簡単に撤退することでしょう。そうしてまた,使えなくなった交換レンズともどもゴミが増えていくのです。私は長年生きているとそうしたカメラの「なれの果て」が容易に想像できます。
 そんなわけで,壊れるまで私は今のニコン1を使い続けるしかないようです。選択肢がないのです。しかし,このカメラのバッテリー,予備を含めて4個持っているのですが,そのうちの3個が原因不明の外壁の破損(割れてしまった)をして現在原因探求中でメーカー預かりとなっています。大丈夫かいな? こんなものを飛行機の機内に持ち込んで火を噴いたらどうするのだろう?
 どうして,こうも日本の工業製品はだめになってしまったのでしょう。そんなことなら,いくら値段が張ってもこの先一生使えそうなライカ買っちゃったほうがずっと断捨離に貢献できるのでは? と,ライカを触ってみてしみじみと思ってしまったことでした。

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ライカの神様-江戸っ子・木村伊兵衛の眼

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 断捨離をはじめたらものを捨てることに加えて,今使っているものを見直したり過ごし方そのものも断捨離をするようになってきました。そこで,今日は旅の持ち物についてのこだわりです。
 旅に出かけるとき,とにかく持ち物は少なくしたいのです。そのためには,帰るまで使わないようなものは必要のないものだからは持っていかない,万一必要になるものがあればそれは現地で調達すればいいということに徹することが大切なわけです。そもそも究極的にはパスポートとクレジットカードとiPhoneさえあれば十分なわけです。それに加えて持っていく必要のあるものはシェーバーとか歯ブラシとかいった日用品,それに着替えくらいのものです。そうなると,旅行バカバンには着替えだけを入れて,携行用のカバンにパスポートとクレジットカードとiPhone,そして日用品を詰め込めばいいので,ほとんど荷物がいらなくなります。

 しかし,それに加えて私が重宝しているものがふたつあります。
 そのひとつはカメラです。やはり。iPhoneだけでは不十分なんです。これまでも書いたことがあるように,私は通常の旅ではやはり望遠レンズや超広角レンズがあるといいのです。私はずっとニコン1を使っているのですが,どうやらこの機種なくなりそうなんです。メーカーもアホですねえ。この小ささが最大の武器なのに何を考えているんでしょう。
 オーロラを見にいったり星を見にいくときはふつうの一眼レフカメラを持っていくこともあります。このときに重宝するのは魚眼レンズです。これだけはiPhoneはかないません。
 もうひとつは機内で快適に過ごすための必需品です。それはノイズキャンセリングつきのイヤホンです。これが非常に有益なのです。私の使っているのは「ボーズ」(BOZE)の「QuietComfort20」というものです。これまでもっと安価なものをいくつか試しましたがまったく期待外れでした。そこでこの高価なものを実際にショールームで試してから購入しました。これがすごくよいのです。これをかけていると耳栓代わりにもなります。機内が静寂になります。

 このように「断捨離」というのはけちることではなくて,よいものはぜいたくしても購入して大切に使うことが究極的にはものを少なくすることにも結びつくというわけです。

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 毎日,平穏で静かにクラシック音楽に耳を傾けたり読書をしたり,そして,旅に出たり,そんな生活を満喫したいのに,なぜかわずらわしいこのごろです。どうしてこんなことになってしまっているのでしょうか?

 先日「Office365サービス更新のお知らせ」というメールが来ました。この「Office365サービス」は「Microsoft Office365」がプレイストールされたPCに1年間だけ無料でつくサービスで,OneDriveというクラウドが1TB使えるとか,iPadなどのタブレット版のOfficeが使えるとか,Skypeが無料で使える,という特典があるものです。私はこれを試してみた結果,すべて自分には不要のものだとわかりました。したがって,私は「Office365サービス」など更新する必要はないのです。
 ところがネット上のさまざまな書き込みを読むと,知りもしないのに無責任極まりないものが結構多く,更新しないとOfficeが使えなくなるといったことが多く書かれてありました。それは間違いです。さらに,コンピュータメーカーの説明さえも,結局はマイクロソフトヨイショのものばかりだから,更新は必要ありません,という回答はどこにも書かれてありませんでした。
 これは実に困ったことです。その結果,必要もないのにお金を払っている人が大勢いることでしょう。

 SNSもまた,このごろはうざったくなってきました。
 「Twitter」には,必要のないものがたくさんツィートされるので,私はこれを順にブロックするのが日課になってしまいました。意味のない広告を強制的に読まされることは実に不愉快です。「Twitter」が不人気になってきた原因はそこにあると思います。どうして,60歳過ぎのじいさんに美顔だのニキビだのダイエットだのといった広告を発信する必要があるのでしょう。これは,そうしたメーカーに反感をもつだけでなんの効果もありません。LINEなど最悪です。意味のない更新を伝えるバッジを表示させない方法すらないので,くだらないアクセスを繰り返す必要があるのです。
 近頃はまた,インターネットのウェブサイトも,あまりに広告が多くて本当にいやになります。私は,もう,自分に必要なサイト以外は,ネットサーフィンをする気さえなくなってきました。

 私は日ごろ,広告のかたまりのような民放テレビは全く見ないのですが,NHKだって番組の宣伝ばかりです。
 雑誌もほとんどが広告で,しかも,本文の記事もライバル誌と同じ特集ばかりです。きっと,そうした特集を企画する別の裏会社があるのでしょうが,そんなものを読んでもまったく楽しくありませんし,参考にもなりません。
 新聞もまたほとんど同様になってきたので,読む価値がなくなってきました。よほど広告収入がないのでしょうか。それに,若い人は新聞など読まないので,年寄り相手の広告はかりで,まるでBSの民放の放送のようです。以前なら,新聞の広告ならという信用が少しはあった気もするのですが,いまや,大新聞のプライドのかけらも感じられません。
 このような広告は,土曜日や日曜日の午後3時ころに決まってかかってくる0120発信の売り込み電話と同じで不愉快なだけです。情報があふれている,というだけならそれを取捨選択すればいいのだからまだしも,ここまで広告の押し売りをされると,それは広告というよりも暴力に近いものを感じます。
 私にはそんな受け身の情報はまったく必要がないのです。必要な情報なら自分で手に入れます。

 ネット社会は,どうして我々の生活を不快にしはじめたのでしょうか。私は徐々にそうしたものからは離れて,静かに音楽を聴いたり本を読んだり,そんな日常に変えつつあります。インターネットが一般化しはじめたころはバラ色の未来が待っていそうだったのに,その結果というのはこんなバカげたものだったのでしょうか?

 「1日1断捨離」をはじめて1か月。それにしてもものが減りません。いくら捨ててもどんどん不要なものが出てきます。本にCD,おそらく,二度と読まず二度と聴かないものがほとんどです。
 たとえば食事だと2,000円出して料理を食べて,再びその料理を下取りに出す,などということはしないしできません。コンサートも出かけていけば終わりです。そうしてお金を出すのはあとにひかないない気持ちのよい行為に思えます。それがものの場合,自分が必要なときに購入してそれを使った時点でその対価はとれているわけで,それが不要になったからといって再び値段をつけて買い取ってもらおうというのは都合がよすぎる話です。車やカメラなど,以前使っていたものを下取りに出して新しいものに買い替えるというのならまだ理にかなっているわけですが,読んでしまった本を再び値をつけて買ってもらうとなると,それはちょっと都合がよすぎるのでしょう。しかし,それを欲しいという人があれば値段がつくのもまた資本主義社会ではありますが,欲しいという人がないものもまでそうするのは無理な話です。

 というわけなのですが,私は段ボール箱数箱に本を一杯詰めてネットで見つけた下取り業者に試しに送ってみました。そもそも,段ボール箱1箱送るのに1,500円ほどかかるものを着払いということなので,そんなもの商売になるのかしら? と思っていたのですが,予想通り,ついた値段は数百円程度でした。要するに,タダで不用品を整理してもらったようなものです。そもそも,新刊書店すら閉店する時代,街中の中古本屋さんもにぎわっているとはとても思えません。必要のないもの並べていても商売になるわけがありません。
 これだけ処分しても,我が家にはまだ大量の本がありますが,それらは今や手にとる必要のないものばかりです。
 結局,自分に必要なものを買うことができるというのも自分にとって何が必要かがわかっているからなのでしょう。と考えると,ものを買わないで済むというのが,最も贅沢なことであるといえるのです。おそらく,子供のころから身につけなけばならない最大の能力は,自分に必要なものだけを買うことができるという能力なのでしょう。

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 また日本人は新たな「マネ」を打ち出したものです。それは「ブラックフライデー」。首謀者はだれでしょうか?
 アメリカでは11月の第4木曜日が感謝祭で,その翌日からバーゲンがはじまるので,それを「ブラックフライデー」と呼んでいるのですが,それを日本に持ち込んだというわけです。しかし,日本では「勤労感謝の日」は毎年木曜日というわけでもないので,たまたま今年が木曜日だったことから思いついたのでしょうが,来年はどうするのでしょうか?
 いずれにしても,アメリカと違い,ボーナス前の11月にバーゲンをはじめて,また,12月になったらクリスマスセールをやって,消費の落ち込む11月を活気づけようという,きわめて日本的な商法なのでしょう。そして,なんでもそうしたブームにのっかかる新しもの好きの人がある程度いて,そうした人がいつものようにそれにひっかかるという仕組みです。

 それがうまく行ったのが「恵方巻」です。節分に恵方巻という習慣は昔はありませんでした。しかし,あんなおいしくもない恵方巻をブームにしたなんて,立派な知恵者じゃあないですか。「ハローウィーン」もそうです。今では,ご本家のアメリカでは,ハローウィーンは治安と食の安全の問題から,訪れていい家庭には玄関に印があるし,お菓子だって市販のもの以外は渡せないから,むしろ,日本の方が華やかです。「クリスマス」も,アメリカでは宗教上の理由から「メリークリスマス」から「ハッピーホリデー」と変わり,日本のほうが浮かれています。この無節操な姿こそが日本という変な国なのでしょう。さすがに「ゴールデンウィーク」を控えて「イースター」はなじみませんけれど。

 私は「1日1断捨離」をはじめたら「(必要品以外は)何も持たない,何も買わないことこそが最大の贅沢」ということに目覚めたので,こうした社会の浮かれようを冷たい視線で見るのが最大の楽しみとなりました。我が家はいまでも新聞をとっている珍しい家庭なのですが,そこに入る折り込みチラシだって,私は「何も買わない」わけだから見ることもなく,見ないから購買意欲もわかない,というきわめて好循環となりました。
 「ブラック」なんて,日本では「ブラック企業」のように否定的な意味合いの言葉であまりイメージがよさそうにありませんし,この無理やり「ブラックフライデー」は果たして日本でも根付くのでしょうか? 根付こうと根付かずとも私にはどちらでもいいですが,「断捨離」を生業とするには由々しき社会現象のひとつといえます。
 いずれにしても,ものを買わない,ものを捨てる,つまる,ものが減るということが,これほどの快感を伴い精神的にもよいことであって,ものを買うことが最大の不幸だとは,「1日1断捨離」によって思い知らされたというのが私の今年最大の出来事でした。

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 iPhoneやiPadのおかげで,売れなくなったものがたくさんあります。デジタルカメラの売れ行きが悪くなったことが話題になっていますが,それだけに限りません。電卓とかダイアリー,目覚まし時計,電子辞書,地図帳,星座早見盤などもそうです。今では必要がないものがほとんどです。
 ともかく,iPhoneやiPadだけあれば事足りるのです。
 このように,自由競争の市場というのは厳しいのです。時代から取り残されると生きてゆけないのです。

 ところが,学校は「学歴」というブランドで守られているゆえに,実際は従来のような意味をもたなくなっているのに,そんな危機意識すらなく,時代に取り残された教育が幅を利かせています。たとえば,古典の購読などはインターネット上にいくらでも優れた解説が載っていて,わざわざ学校で授業を聞く必要などなくなりました。不況時にどういう政策をとるべきかといった経済政策や世界を知るための国際問題など,本当はきちんと身につけなければならないことを後回しにして,卑弥呼がどこにいたかとか古文の助動詞の活用など(それだって「文化」という意味では大切ですがそれなら歌舞伎もクラシック音楽も将棋や囲碁も同じです)を最重要の問題として教えているのだからどうしようもありません。それはすべての高校生に将棋の横歩取りの最新定跡を教えるようなものです。
 しかし,すべての教科を現代の社会に役立つものに再構築したら職をなくしてしまう教師も大挙して出てくるからそうもいかないというのが大人の事情というのが真実なのでしょう。

 近頃,学生の読解力の不足が話題となっていますが,学校教育では授業で満足に教科書を読むこともなく,教師が講義をすることもなく,プリントを配ってそのカッコに重要語句を入れることを学習と称してそうした作業をやっているだけだから,本が読めないのも,人の話を聞いて要点をまとめることができないのも,当然の話です。学生は授業でプリントに答えを朱書するという作業をして,テスト前にそれを赤色のシートで隠して覚えているだけなのです。そしてまた,放課後は高い授業料を払って塾に行って,またドリル学習で1日を過ごしているのです。単に点数で他人と競うためだけに。これで読解力が不足していると言われては子供たちが可愛そうです。
 高校で使用する難しい日本史の教科書,あれが読める高校生がどれだけいることでしょうか。にもかかわらず,あの字の細かい教科書を実際は読まないのに買わせているのです。本当に断捨離が必要なのは,教育でしょう。

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 「1日1断捨離」。
 必要になるまでものは買わないと決めたらものが欲しくならなくなったので,精神的にずいぶんと楽になりました。今まで使っていたものが壊れて新しく必要なものができたときは,それまでに使っていたものを捨ててからにしよう,そしてまた,買うものを将来捨てるときのことも考えよう,ということも決めました。
 ただし,私は別に金に困っているわけでもなく,けちをしようというわけでもないので,お金は使います。たまる一方で捨てるのも大変な物質にはお金を使わないようにしようということなのです。となると,お金の使い先というのは食べ物と旅,ということになります。しかし私はグルメでないので,食べ物にお金を使ったところでたかがしれています。お酒を呑むのも60歳になったときにやめました。そこで旅ということになるのですが,これもまた,お金をあまり使わない旅の楽しみを知ってしまったので,結果的にお金はあまり必要がない,ということになってしまうのです。
 そこで,今日は私の旅について書いてみることにしましょう。

 これまでずいぶん様々なところに出かけた結論として -とはいえ今後この結論は容易に変更されるでしょうが- 国内は天気のよい日にきままにJRに乗って最寄りの駅まで行って,そこから旧東海道の宿場を20キロほど歩くというのが最も楽しい旅です。そして,海外はハワイ,アラスカ,ニュージーランド,オーストラリア,そして,アメリカの山岳地帯を1週間程度で予定も立てずに旅をするのに限る,と思うようになりました。
 国内の場合,本当は,というか本音は,京都が一番だと今も思うのではありますが,京都は観光客が増え過ぎました。これではストレスがたまるだけです。食事すら満足にできません。京都に限らず,日本の観光地はどこも同じような状況です。特に近頃は外国人だらけ,しかも,雰囲気台なしの振る舞いが多いので,彼らが来ない特に何もないような小さな町を散策するのが一番なのです。そうした場所に,天気のよい日の早朝に出かけて日帰り旅行を,あるいは,東横インに泊まって1泊2日の旅行をするのです。
 海外旅行は4泊6日から6泊8日程度が機内持ち込み荷物ひとつで行くことができるので楽でいいです。これ以上長くなっても旅で得られる満足度というのはあまり変わらないのです。そしてまた,行き先はガイドブックに書かれていないような田舎に限ります。
 旅で持って帰るのは思い出と写真だけです。パンフレットの類,お土産は必要ありません。帰りのほうが荷物が増えるなんて論外な話です。特に何をするでもない,そんな非日常を手に入れることこそが最も楽しい旅になるのです。

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 人はだれでも物質欲があるので欲しいものを買うのですが,買ってしまうと目的を達してしまい愛着もなくなり,そのうち忘れ去られて傷んでいきます。そうして,買ったときの愛情はどこへやら,捨てる場所さえなく,家の中で邪魔者扱いをされてしまうわけですが,そうしたものが30年も経つと,品質のよいものはいつまでもよいものであるけれど,品質の悪いものはサビてしまったりゴムが劣化してしまったりと,その差が明白にわかるようになります。そうしたことがわかるには30年ほどの月日が必要なわけです。
 品質のよいものは「一生もの」といわれます。私は「Nikon F3/T」という一眼レフカメラを使っていましたが,それは買ってから30年も過ぎた今でも新品同様です。同じころに使っていた「Nikon FM」という一眼レフカメラが哀れに劣化したのに比べると,その差は歴然としています。やはり「よいものはよい」のです。それは使っている材質がまるで違うからです。

 しかし,残念ながらいくら品質がよいといっても,もはやフィルムカメラの出番はないのでこれでは宝の持ち腐れです。つまり,必要のない耐久性をもった「高級品」になってしまったわけです。
 このように,ものはその価値がある間の耐久性さえあれば十分でなのす。
 しかし,その反対もあります。
 現代のデフレ時代では,ものの値段を上げられないので品質を落として価格を維持しているものも少なくありません。たとえばスポーツシューズの類は安いものは確実に中敷きの品質が悪く,物の価値のある間の耐久性さえ確保されていなのです。これでは買う価値がないのです。
 そこで,必要十分な耐久性をもったものを手に入れて,必要がなくなったときにいさぎよく捨ててしまうことが最も大切なことになるわけですが,そうしたものを選ぶのがとても難しい話なのです。

 何かひとつのものを買うと,その性能を満たすために,それに付随する付属品がどんどんと欲しくなる場合もあります。これこそがメーカーの狙う「罠」なのですが,そうした泥沼のはまってしまうと抜け出せないどころか,いらないものが果てしなくたまっていくわけです。そして,使いもしないのに手放すこともまた難しくなってくるのです,そうした泥沼状態から抜け出すにはその根本であるものをまず処分することで,それに成功するとそれに付随したものもすべて不要になって,ようやく断捨離が進むのです。
 そんなこんなで,結局,考え方の根本は,ものを買わないと決めることです。すると非常に精神状態がよくなってきます。そして本当に必要なものを必要になったときに捨てるときのことまで考えて,そして,ちょっぴり贅沢して購入して,もう二度と買わないと決意して大切に使うことが一番の断捨離の方法になるのです。

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 断捨離をしようと身の回りを整理していくと,非常に気になるのが本の山でした。
 若いころは本ばかりを買っていたのですが,そうした本が捨てられず,今も大量に存在するのです。そうした本のほとんどは今では使い物にならないのですが,それでも捨てるに忍びないわけです。車は買い替えるときにそれまで使っていたものは引き取ってもらうと思うのですが,本は引きとるというシステムがないか,面倒なので,どんどんとたまっていってしまったわけです。ずいぶんと前,新刊書店の店員さんにレジの横に古い本を引き取ってくれるカウンタを作ってくれと要望してバカにされたことがあるのですが,今ではそうした古書を引き取ってくれる「ブックオフ」がちゃんとあるわけで,要するに企業努力が足りなかったというだけのことでした。
 いずれにしても,専門書以外のほとんどの本は置いてあるだけで2度読むことはほとんどありません。

 話題になる新刊小説は,とにかく早く手に入れて,さっさと読んで価値のあるうちに売ってしまうか,あるいは,図書館で予約して気長に自分の番がくるのを待つ,これが一番いいのです。そうであっても,今の私は小説を読む時間がもったいないと思うようになったので,小説自体を読むのをやめました。
 一般書は,知っていることかインターネットで調べれば済むような内容ばかりなので買う気になりません。
 以前よく購入していた「アサヒカメラ」や「月刊天文ガイド」のような月刊雑誌は,結局,カメラや望遠鏡を買わせたいだけの広告です。「将棋世界」はよい雑誌だけれど,将棋は並べないとわからないのでAbemaTVの将棋チャンネルのほうが楽だしおもしろいです。週刊誌の類など,新聞の広告欄にやたらと派手に品なく載っていてそれを見ても単に興味本位の記事ばかりのように思えるので読む気が起きない,それ以上に不快ですらあります。もう,私に必要な情報源は専門書と電子書籍で購読している「Sky&Telescope」そして「TIME」だけで十分です。
 そんなわけで,私は,本屋さんというところに行くこと自体を辞めることにしました。そして,これまで持っていた本は,専門書以外のものはネットで見つけた古書の引き取りサイトですべて引き取ってもらうことにしました。これだけでどれほど断捨離ができることか!

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 「断捨離」(だんしゃり)とは,やましたひでこさんの著書に発表された不要な物を減らし生活に調和をもたらそうとする思想です。
  ・・・・・・
 あなたは家にモノがたくさんあって邪魔だと思っていませんか? 必要かもと思ってなかなか捨てられないものとか? 人に部屋を見せられないとか? 
 断捨離はただの片づけ術ではありません!
 断捨離というと新しい片づけ術かと思うかもしれませんがそうではありません。断捨離とはモノへの執着を捨てることが最大のコンセプトです。モノへの執着を捨てて、身の周りをキレイにするだけでなく、心もストレスから解放されてスッキリする。これが断捨離の目的です。 
 断捨離は「もったいない」という固定観念に凝り固まってしまった心をヨーガの行法である断行・捨行・離行を応用し,断:入ってくるいらない物を断つ,捨:家にずっとあるいらない物を捨てる,離:物への執着から離れる。
として不要な物を断ち,捨てることで,物への執着から離れ,自身で作り出している重荷からの解放を図り,身軽で快適な生活と人生を手に入れることが目的である。
  ・・・・・・
と書かれています。

 私はもともと無駄なものを持たない・無駄なことをしないという性格なのですが,それでもモノがどんどん増えてきました。それは捨てられないということではなく,たとえば、ハードディスクにデータが入ったまま壊れたコンピュータのように,どうやって捨てるかよくわからなかった,というものが処分できずたまってしまったということもあります。そこで,一念発起して断捨離を決意しました。しかし,いきなりやると大変なので「1日1断捨離」。こらからはモノものを買うのをやめて買ったつもりでひとつずつ捨てようというわけです。いわば逆転の発想です。
 それにしても,周りを見渡すと,よくもまあ無駄なモノがたくさんあるものです。モノに限らず,生活全般を見直してもっと時間を有効に使おうと,断捨離を決めたらそう思うようになってきました。
 政府がなんと言おうと,どんな経済政策をとろうと,モノを売ろうと企てようと,私はそんなものには一切乗らず必要なモノ以外は買わず,今後は断捨離なのです。

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