次に,老医者ムーンライト・グラハムのことです。
1975年に,W・P・キンセラは,ベースボール・エンサイクロペディアの中から,偶然,ムーンライト・グラハムの特異な経歴を見つけ出して,そのエピソードを「シューレス・ジョー」に掲載しました。これが「フィールド・オブ・ドリームズ」の原作です。
映画が劇場公開されたことから,人々の間にムーンライト・グラハムの経歴が広く知れ渡ることになったわけです。
・・・・・・
ムーンライト・グラハム(Archibald Wright "Moonlight" Graham)は,ノースカロライナ州生まれ。
3年間マイナーリーグでプレーした後,1905年にニューヨーク・ジャイアンツの選手として登録されました。はじめてメジャーリーグベースボールの試合に出場したのはその年の6月29日の対ブルックリン・スパーバス戦で,彼は8回裏にジョージ・ブラウンに替わってライトの守備位置につきました。しかし,続く9回表のジャイアンツの攻撃は彼の打席のひとつ前で終了してしまったために,打席に立たないままその試合を終えることになりました。
彼は結局,この1試合のみで,メジャーリーグでの経歴を「打席なし」のまま終えることになったのでした。
・・・・・・
なお,この映画に出てきたムーンライト・グラハムの住む町,ミネソタ州チザム(Chisholm)は,ミネアポリスから北に200キロメートルほど行ったところにある小さな町です。
また,映画でムーンライト・グラハムを演じたバート・ランカスターは,「フィールド・オブ・ドリームス」の後は3本のテレビドラマへの出演を最後に,1994年に逝去したので,劇場公開用の映画としてはこの作品が遺作となりました。
黒人作家として映画で重要な役割をしているテレンス・マンのモデルは小説「ライ麦畑でつかまえて」で知られているJ・D・サリンジャーです。
・・・・・・
トウモロコシ畑をつぶして野球場を作った,この映画の主人公レイ・キンセラは,彼の作った野球場で,「彼の苦痛をいやせ」(Ease his pain.)という声を聞きます。
学校のPTA集会において,テレンス・マンの著作「船を揺らす人」(The boat rocker)が槍玉に挙げられているのをみて,レイ・キンセラは,「彼」とは,テレンス・マンのことで,「苦痛」とは,この集会のように彼の作品が非難の的になっていることだと確信して,彼に会いに行きます。
・・・・・・
テレンス・マンは,1960年代には時代を揺らした若者達の思想的リーダーであったにもかかわらず,その後は非難と好奇心の的となり,失望と無力感の中で隠遁生活を余儀なくされていたのです。
1960年代というのは,キング牧師とロバート・ケネディが殺され,あのニクソンが再選された,そんなアメリカの時代のことです。このことは,この映画の冒頭に出てきます。日本でもそれが飛び火して,学生運動がありました。そうした時代背景を知らずして,あるいは青春時代にその経験のない人には,この映画の本当の意味はわかりません。
それに加えて,私には,はじめてこの映画を見てから今日までの間に,この映画のロケ地に加えて,ボストンのフェンウェイパークやミネソタ州にも行くことができたから,一層,この映画の距離感やら空気感がよく理解できるようになっていたのです。
・・・・・・
If you build it, he will come.
・・
それを作れば,彼が来る。
・・・・・・
この映画は,その後の保守派政治で失われてしまったアメリカの1960年代のノスタルジーです。
・・・・・・
金はあるが心の平和がないのだ。
・・・・・・
失われた善が再びよみがえる可能性… 何か,どんどんと保守的で管理主義的で住みにくくなってきている日本にも,同じものを感じます。
この映画のもう一方の主題である,「夢を自分に託そうとした父親との関係」は,映画「ネブラスカ」にも共通する父と息子の葛藤を描いています。
幽霊が見える者と見えない者は「Liberal」と「Conservative」の比喩を描いています。
「それを作る」こと,そして,「最後までやり遂げろ」という声は,若き日の夢を思い出し,行動せよということを語りかけています。
夢は,あきらめなければいつかそれは実現する… それを象徴するのが「Field of Dreams」なのです。