●見える景色が違いすぎる。●
パロマ天文台に至る登りの山道の手前に,レストランとギフトショップがある。昨年(2018年)来たときは早朝だったので,これらの店はまだ開いておらず,しかも,パロマ天文台の公開は中止だったので,早々に引き上げてしまったから,この店が開いている姿を見ることはなかった。
そして,今年(2019年)もまた,早朝にパロマ天文台に向かったから,行くときは当然,開いていなかった。パロマ天文台の見学を終えた帰り道,私ははじめてこのレストランとギフトショップが開いているのを目撃することができた。そこで,このレストランで昼食をとることにした。
アメリカに限らずオーストラリアなどでも,観光地には結構こうした気軽なレストランがあって,そこではハンバーガーをはじめとする手軽な食事を楽しむことができる。それはいわば,日本の観光地にあるおそば屋さんのようなものである。
しかし,日本との違いは,どこも混雑していないので,とても精神的に落ち着く。私はここでサンドイッチセットを注文して,ゆっくりと食事を楽しんだ。時間が過ぎていくのが快適である。
こうしてこの旅で,私は,来るまえにやりたいと思っていたことのすべてを実現することができた。あとは,ロサンゼルスのモーテルに戻り1泊して,帰国するだけだった。
来た時とほぼ同じ道のりでロサンゼルスに戻った。ロサンゼルスといっても,私は,ダウンタウンには興味がない。今回もまた,空港に近く,かつ,安価なモーテルに宿泊をしているから,私の滞在している場所は,おそらく,多くの日本人のイメージするロサンゼルスとは異なっている場所だろう。
3時間近く走ってモーテルに着いた。少し休憩してから,近くを歩いてみることにした。ついでにどこかで夕食を,と思ったが,結局,昨日と同じ店になってしまった。
私の泊っていたあたりは治安も悪くなさそうな,ロサンゼルスの下町,というか,普通のアメリカ人が生活している場所であった。
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若いころの私は,団体ツアーのような観光旅行でなく,アメリカなどの海外に住むことに憧れていた。結局,それはかなわなかったが,それでも,これまで海外に多く出かけ,時には,その地に住む人の家を訪問する機会もあったり,実際数日滞在したりして,そのまねごとを経験することができた。
その結果,海外に住みたいという憧れはなくなってしまった。というか,結局,どこに住んでいても,それが日常であれば,結局はどこでも同じだということを知ってしまった。
一言でいえば,それは,日常というのは,何も期待してはいけないということを知ってしまったということだ。とはいえ,電気やガス,水道などのインフラが完備されていて,治安がよいということが大前提であるが,残念ながら世界にはそういった大前提すらなかなかかなえられていないということは承知しているから,これは贅沢な話であろう。
そうした大前提さえあれば,あとは,どこ国であっても,どんな大豪邸に住もうとワンルームマンションに住もうと,そうは違いがなく,誰しもが同じような日常生活があるだけだ。
特に,アメリカは,表面的には自由と平等がもっとも尊ばれる国ということにはなっているが,実際は,場所によって住んでる人も財産も治安も区別されているようなところがある。学校生活もまた,同じ人種のグループが出来上がっているという話を聞く。そんな国で生きるのは,結構大変なことのように私は思う。結局のところ,どこで生きるのも大変なのだ。
生きるも地獄なら死ぬるも地獄とはよくいったものだ。
そんなことを思いながら,町を歩いていた。
バス停があり,ファーストフード店があり,スーパーマーケットがあり,学校がありという,ここにはアメリカの日常があった。住宅街を歩いていると,庭に,アマゾンからの届け物が置かれてあったりした。もし,私がここに住んでいたとしても,所詮は,日本で生きるのと同じように,毎日,通勤し,仕事をし,人間関係に,そして,近所づきあいに悩み,休日は,このあたりでショッピングをしたり,外食したりして,平凡に一生を送るのだろう。
都会に住むというのは,アメリカでも日本でも,所詮,それだけのことのように思える。
一方,都会の雑踏を離れ郊外に出れば,アメリカや,オーストラリアなどでは,日本にはない異なる姿を見ることができる。それは,雄大に広がる大地である。
私は,荒野,というか原野で生きる術をまったくもっていないから,そうした場所で生きることはできないが,もし,そうした場所で生きる術を知っていたとしたら,と考える。それは,アメリカの農村地帯やらオーストラリアの大平原,そして,もっと厳しいフィンランドやアラスカの極寒の地を見てきて,私が感じることである。そうした厳しい自然tと向き合って生きることこそが,本来の人間の姿であるのだろう。
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海外を旅するごとに,私はさまざまなことがよりわからなくなってくる。このような現実に直面してから日本に帰国すると,日本での価値観で生きている人との遊離をより一層感じるようになっていくのである。私が海外で見てきたものは,多くの日本人が見えている景色と違いすぎるのである。ああ。
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2019夏アメリカ旅行記-ついに念願のパロマ天文台へ⑤
●夢にまで見た200インチ望遠鏡●
宇宙の構造,宇宙の物質,星と宇宙の進化のなぞを解くことを目的とした口径200インチの反射望遠鏡を建設するため,1928年,ジョージ・エレリー・ヘールさんは600万ドルの寄付をロックフェラー財団に訴えた。建設場所として選ばれたのがパロマ山であった。
しかし,直径200インチ反射鏡のガラス材をつくるには多くの困難があった。ニューヨークにあったコーニング・ガラス社で耐熱のパイレックスガラスの巨大な塊が何回もの失敗のあとでやっと鋳型に流し込まれたのが1934年の暮れであった。冷却炉の中で10か月もかかって焼きなましが終わった。
ガラス材はパサディナのカリフォルニア工科大学の研磨工場に運ばれ,11年の歳月を費やして鏡は100万分の1センチメートル以下の誤差で磨かれた。こうして完成された反射鏡は,厚さが76センチメートルもあり,重さを減らすために裏側がハニカム構造になっていて,重さは約20トンに抑えられた。ガラスの表面は,たった30グラムのアルミニウムでメッキされた。
望遠鏡の鏡筒は,長さ約18メートル,直径7メートル,重さ125トンで,300トン以上の支柱の中で油の入ったペアリングで鏡が支えられた。
望遠鏡が完成したのは1948年であったが,ヘールさんは望遠鏡の完成を見ることもなく,1938年に亡くなった。
この望遠鏡は現在も現役であるが,さすがに設計が古く,その維持が大変そうである。
現在,1枚鏡の最大口径の望遠鏡は,ハワイ島マウナケア山頂にある日本のすばる望遠鏡であるが,現代の大望遠鏡のほどんとは,1枚の反射鏡ではなく六角形の多くの反射鏡を集めて大口径とし,それぞれの鏡が同じ場所に焦点を結ぶようにコンピュータで調整している。
パロマ天文台の200インチ望遠鏡の1枚鏡は自重でたわまないように分厚いが,最新型のすばる望遠鏡は1枚鏡ではあるが非常に薄く,たわむことを逆に利用して,それをコンピュータで制御している。
また,パロマ天文台の駆動装置は赤道儀式で,その欠点である天の北極あたりの視野が見られないという欠点を克服するために馬蹄形をしている。それに対して,スバル望遠鏡をはじめとして,現代の最新式の大望遠鏡は,大げさな赤道儀ではなく径儀台となっていて,コンピュータで制御し追尾を行っている。
このように,パロマ天文台の200インチ望遠鏡は,コンピュータでの制御ができなかった時代のものなので,現代の大望遠鏡とは根本的に設計が異なっている。パロマ天文台の200インチ望遠鏡は,「1枚鏡の赤道儀」として最後の大望遠鏡である。
見学ツアーは,まず,ドームの入口の前でこうした望遠鏡の歴史をレクチャーしてから,いよいよドームに入った。ドームの1階部分では反射鏡の再メッキができる工場があった。それらの装置の説明ののち,端にある階段を上って,ついに,望遠鏡のある2階に登ることができた。夢にまで見た望遠鏡との目の前での対面であった。
ドームはものすごく巨大で,外観もピカピカ,今も現役の200インチ望遠鏡はしっかりと整備されていて,ドーム内もきちんと整理整頓がされていた。
ツアーは私の期待をはるかに超えるものであった。私のような専門家でなく単に興味本位で見学に来た日本人に対しても質問すると十分に時間をとって丁寧に答えてもらえた。
こうして私は,昨年のウィルソン山のふたつの歴史的な反射望遠鏡に続いて,この年は,フラグスタッフにあるローウェル天文台のふたつの歴史的な望遠鏡,そして,パロマ天文台の200インチ望遠鏡と,夢に見たアメリカの有名な望遠鏡たちを,それもすべて,ガラス越しでなく目の前で見て,さらには触れることができたのだった。
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私はこの後日本に帰ってから木曽観測所のシュミット望遠鏡をこれもまたドームに入って目の前で見学する機会があった。そのときのことはすでにブログに書いた。木曽観測所のシュミット望遠鏡もまた設計は古いが,関係者のさまざまな努力で今も現役で使用されている。
しかし,ドームの外観はさび,望遠鏡もテープで補修がしてあったりして痛々しかった。また,ドーム内はいかにも日本の研究施設然として,きちんと整理整頓がされておらず,使わなくなった機材なども無造作に置かれていた。また,パロマ天文台の200インチ望遠鏡のような再メッキ工場が1階部分にあるわけでもなく,ミラーを外して,外部にもっていかなけらばならないという話であった。
私はこういうものを比較するたびに,本当に日本は学問や文化に金をかけない国だなあとつくづく情けなくなってくる。さらに,この4月には,日本の天文学に関する予算が減らされて,水沢観測所や野辺山観測所の研究が従来のように行えなくなったという話も聞いた。
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2019夏アメリカ旅行記-ついに念願のパロマ天文台へ④
●ついにあこがれの望遠鏡を見た。●
幸運にも,土曜日に来たことで待望の口径200インチの反射望遠鏡をガラス越しでなく直に見ることができることになった。もし金曜日だった昨年パロマ天文台に来たとき,駐車場が工事中でなければ,私はガラス越しに望遠鏡を見ただけで満足していたことだろう。そして,その翌年に再びロサンゼルスに来ることもなかっただろうから,大谷翔平選手を見ることもなかったであろう。
不思議なものだ。
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ツアーがはじまるのが午前10時30分なので,それまでビジターセンターを見学して,それでもまだ時間があったので,ガラス越しでいいからと,ツアーの前に200インチ望遠鏡のドームに行って,ガラス越しに望遠鏡を見ることにした。
ドームの一般者見学用の入口から中に入ると,そこにあったのは,ヘールさんの銅像であった。
ジョージ・エレリー・ヘール(George Ellery Hale)さんのことはすでに書いたが,ここで再び紹介する。
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ジョージ・エレリー・ヘールさんは,1868年にシカゴで生まれ,1938年に亡くなった天文学者である。1897年,シカゴの実業家チャールス・ヤーキスの資金を得て口径40インチ(101センチメートル)の屈折望遠鏡を備えるヤーキス天文台を建設した。さらに,1904年にはカーネギー研究所の寄付を得て,その当時世界最大となった口径100インチ(257センチメートル)の反射望遠鏡を備えるウィルソン山天文台を建設し初代台長になった。ヘールさんは,さらに,ロックフェラー財団から寄付を受けて,パロマ天文台の建設に着手するのだが,その完成を見ることなく死去した。
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奇しくも,この日はヘールさんの151回目の誕生日であった。昨年のこの日は生誕150回目の輝ける記念日で,そのためにウィルソン山天文台は特別公開を実施していたのに,パロマ天文台はそんなことは知ったことでない,という感じであったように思えた。今日はヘールさんの誕生日だと,天文台のツアーのときに係の人に話したら,驚いていたので,まったくご存知ないようであった。
ドームの一般者見学用の階段を上っていくと,他の多くの天文台同様にガラス越しに望遠鏡を見ることができるブースがあった。そのブースから,巨大な望遠鏡の姿をはじめて見ることができた。ヘールさんが生前見ることができなかったまさにその望遠鏡が,私の目の前にあると思うと感動した。
これこそが,私が子供の頃から憧れた望遠鏡の実物であった。
こうして,私は,またひとつ夢が実現したのだった。
ガラス越しに念願の望遠鏡に対面して,それで私はすっかり満足して外に出た。
やがて,ツアーの開始時間が近づいて,結構多くの人が集まってきた。ツアーの人たちの入口は先ほど私が入っていった一般者見学者用の入口の反対側にあって,その入口の前がツアーの集合場所であった。
このときのツアーの参加者のなかにはひとりかなり専門的な人もいた。ツアーの説明をしてくれる人は4,5人もいて,どんな質問にも答えてくれるということだった。人が多いのは,そうした配慮の他に,不振者が混じっていたときの対策も兼ねていたのだろう。
説明スタッフの中に親切そうな女性がいて,私に昨年も来たんですってね,といって,こそっと,私だけ特別に記念切手のお土産をプレゼントしてくれた。昨年入れなかったと受付で話したのが功を奏したようだった。とてもうれしかった。
さあ,いよいよツアーの開始であった。
2019夏アメリカ旅行記-ついに念願のパロマ天文台へ③
●パロマ天文台のビジターセンター●
アディソン・ホワイト・グリーンウェイ・ジュニア・ビジターセンター(The Addison White Greenway, Jr. Visitor Center)というのがパロマ天文台のビジターセンターの正式名称である。1947年,天文学愛好家とカリフォルニア工科大学の支援者であるケイト・ブルース・リケッツ(Kate Bruce Ricketts)によって彼の息子の記憶を称えるためにこの名前がつけられたということだ。
ビジターセンターに入ると,まず,オリオン大星雲(M42)として知られる星形成地域をパロマ望遠鏡を通して見た写真が出迎えてくれた。
博物館は大きなものではなかったが,パロマ天文台の歴史を初期のものから現在使われているものまでの望遠鏡をはじめとするさまざまな観測機器,そして,それを使用してなし得た科学的発見,天文学の世界の最新の発展についての充実した展示が並んでいた。
アメリカの博物館の展示はどこもレベルが高い。
そして,この博物館の中央に位置するのが口径18インチ(0.46メートル)のシュミット望遠鏡であった。18インチシュミット望遠鏡はパロマ天文台に置かれた最初の機器である。
18インチシュミット望遠鏡の建設は,超新星として知られる爆発する星を探すために空の広い領域を効率的に撮影できる機器を必要としていたカリフォルニア工科大学の天文学者フリッツ・ツヴィッキー(Fritz Zwicky)によって提唱され,ロックフェラー助成金から資金提供を受け, 望遠鏡メーカーのラッセル・W・ポーター(Russell Williams Porter)によって設計された。
シュミット望遠鏡は焦点面に写真フィルムが置かれるが, ミラーと補正プレートの直径はそれぞれ24インチ(61センチメートル)と18インチ(46センチメートル),焦点距離は36インチ(92センチメートル)で,F2という明るさをもっていた。視野の直径は8.75度,満月17個分もあった。
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18インチシュミット望遠鏡で写真を撮るには,観測者はまず望遠鏡の暗室でフィルムカッター(「クッキーカッター」とよばれる)で6インチ(15.5センチメートル)の未露光フィルムを切り抜き,それを適切な球面曲率を適用したフィルムホルダーに取り付けて露光中にフィルム全体に焦点を合わせることになる。
フリッツ・ツヴィッキーは,撮影した写真をカスタムメイドの顕微鏡を使用してスキャンをすることで,小惑星や彗星を探した。こうして,1937年に最初の超新星を発見,1942年第二次世界大戦によって検索プログラムが中断されるまで,合計19個の超新星を発見した。
18インチシュミットは1936年に完成し,1949年までパロマ天文台唯一の運用可能な望遠鏡であったが,その後は,新しく作られた口径48インチのシュミット望遠鏡(Samuel Oschin Telescope)と口径200インチの反射望遠鏡(Hale Telescope)に役割を譲ることになった。
しかし, 1970年代から90年代にかけても,この18インチシュミット望遠鏡は現役で,太陽系の小天体の体系的な探索に使わ,数百個の小惑星や数十個の彗星を撮影するなど,多数の小惑星と約50の彗星を含む多くの発見がもたらされた。そのなかでも特に有名なものが,キャロリン・シューメーカー(Carolyn Shoemaker)とデイビッド・レビー(David Levy)が1993年に発見し,のちに木星と衝突したシューメーカー・レビー第9彗星(Comet Shoemaker–Levy 9)である。…と聞くと,特別の感慨を覚える。
18インチシュミット望遠鏡は,1990年代半ばにその役目を終えた。2013年に再び組み立てられ、現在は博物館に展示されている。
2019夏アメリカ旅行記-ついに念願のパロマ天文台へ②
●50年来の夢の実現●
早く着きすぎたので,ふもとの,景色がよく見える広い場所でしばらく休憩して,午前9時少し前にパロマ天文台の入口に着いた。
昨年来たときは9時を過ぎても決して開くことのなかったパロマ天文台の門だった。まだ,午前9時より少し早かったのにも関わらず,その私にとって「開かずの門」はそんな悪夢(=2番目の写真)はなかったかのように,難なく開いていた(=3番目の写真)。
こうして,私の50年間の夢が実現したのだった。何事も苦労して手に入れたほうがずっと思いが深いものだ。
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門を通り過ぎて天文台の構内の道路を入っていくと,その先に広い駐車場があって,すでに,2,3台の先客の車が駐車していた。車を降りると,駐車場の右手にビジターセンターがあった。私は,もっと大きなビジターセンターを想像していたので,正直少しがっかりした。
ビジターセンターに入ると,そこにはこれまた小さな売店と展示があった。軽食をとることができるレストランなどもあると思っていたが,一般の見学者用にあったのはこの建物だけだった。このビジターセンターは土曜日と日曜日だけ開いているということだった。
私は昨年,ロサンゼルス近郊のウィルソン山天文台と,サンディエゴ郊外のこのパロマ天文台を見ようとアメリカにやってきた。結局,昨年はパロマ天文台は構内に入ることができなかったが,ウイルソン山では特別公開を見ることができたことは,すでに何度も書いた。ウィルソン山天文台には軽食がとれるレストランや充実した展示室があった。
・・
実は,私は無謀に旅をしているわけではなく,ちゃんと昨年(2018年)アメリカに来るまえに,このふたつの天文台の公開情報について調べてきたのだった。そのときの結論は,パロマ天文台は平日でも一般の見学ができ,ウィルソン山天文台は週末のみの公開ということであった。そこで,ウィルソン山天文台には週末に行くことにし,パロマ天文台には,奇しくも,ちょうど今年(2019年)と同じ6月29日(ただし昨年は金曜日だった)に行ってみたのだったが,何度も書くように,駐車場の工事をしていて臨時休館で入ることができなかった。
そして,その1年後,どうしてもパロマ天文台が見たくて,またやって来た。この日に来たのは,週末だからではなく,単なる日程上の偶然だった。
私は,口径200インチ(508センチメートル)の反射望遠鏡はガラス越しに見ることができるものだと思っていたのだが,なんと,ドーム内に入って間近に見ることができるツアーが週末のみ実施されているということを到着してから知った。ツアーが実施されるのは週末の午前10時30分からと午後0時30分からと午後2時からの3回であった。
チケットはビジターセンターの売店で購入できるとあったので,さっそく午前10時30分のツアーを購入して,用紙に名前を書いた。その時に「昨年も来たのですがお休みでした」と告げたのだが,それがこのあとで幸運をもたらすことになる。
この時点では,午前10時30分のツアーの申し込み者は私ひとりだったから,いったい何人参加するのやら… と思った。ここは別に新しい観光地でもないし,私のような望遠鏡を見たいというオタクがそれほど多いとも思えなかった。しかし,帰国後,ネットを見ていたら,50年来の夢がかなってパロマ天文台に行くことができたといった,まるで私が書いたようなブログを多数発見して驚いたものだった。
2019夏アメリカ旅行記-ついに念願のパロマ天文台へ①
●今年もまたここにやって来た。●
☆5日目 2019年6月29日(土)
5日目になった。明日は帰国するだけなので実質上最終日である。この旅は5泊7日だが,1日中観光ができるのは途中の4日間,つまり,海外旅行では,旅行する日にちマイナス3日ということになる。だから,最低限6日,つまり4泊6日はないと満足な海外旅行はできないことになる。
この旅はそれより1日多い7日間だったが,過ぎてしまえばあっという間であった。毎日まったく無駄なく旅を楽しめたのは,慣れているからだろう。
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昨年(2018年)の旅で,私は,子供の頃からの念願だったパロマ天文台を訪れた。パロマ天文台は年中無休で公開されているということだったのだが,私が訪れたちょうどその日は天文台構内の駐車場の工事をしていて,公開が中止となっていて中に入れなかったということは,これまで何度かこのブログに書いた。
そこで,今年(2019年),再び来ることになったのだが,パロマ天文台に再訪するためだけにアメリカまで行くのは... ということで,今年は,フラグスタッフやバリンジャー隕石孔などを旅程に加えた。それらの場所は,いつかは行ってみたとと思っていたところばかりであった。しかも,期せずして,大谷翔平選手まで見ることができた。
昨年パロマ天文台の中に入れなかったから,こうして,それ以外の長年の夢もかなったのだった。もし,この旅をしていなかったら,コロナ禍でしばらく海外旅行ができなくなった今,ものすごく後悔していたことだろう。そう考えると,本当に幸運であった。
が,幸運はそれだけではなかった。
パロマ天文台を訪れたこの日が土曜日というのが,まさに奇跡であった。私は,曜日すら考慮しないで,偶然,土曜日にやってきた。私が見たかったパロマ天文台の200インチ反射望遠鏡は,通常はガラス越しにしか見ることができないのだが,ドームの中に入って見学できるツアーというものが,なんと,土曜日と日曜日のみ実施されていたのだった。
つまり,昨年(2018年)はゲートが閉まっていてせっかく来たのに中に入れなかったが,入れなかったからこそ,今年(2019年)再びパロマ天文台にやって来て,それが偶然土曜日だったから,今年はドームの中まで入れたというわけだった。
しかし,昨年はパロマ天文台に入ることができなかった代わりに,偶然,ウィルソン山天文台を訪れたその日が特別公開であった。そして,今年もまた,偶然,パロマ天文台のツアーに参加できたのだから,結果的にこれでよかったわけだ。
昨年は,パロマ天文台へはサンディエゴから往復した。パロマ天文台はサンディエゴからのほうがはるかに近いということに加え,サンディエゴにも行ってみたかったからであった。サンディエコに行きたかったのは,MLBのサンディエゴ・パドレスの新しいボールバークでゲームが見たいというのが理由であった。
今年は,サンディエコに行く理由がなかったので,ロサンゼルスから往復することになった。そこで,昨年とは経路が異なっていた。
ロサンゼルスからパロマ天文台までは120マイル(約200キロメートル)あって,片道2時間以上と結構時間がかかるので,アメリカに来るまで気が重かった。しかし,この旅では,この日以前に,フラグスタッフまで行ってみたり,さらに,ホースシューベンドまで遠出したりして,すでにもっと長距離を走ったので,このころには,パロマ天文台への2時間の往復くらいどおってことなくなっていた。要するに気持ちの問題なのだった。
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パロマ天文台は午前9時に門が開く。早朝6時すぎに,時間が惜しいので朝食抜きでモーテルを出発した。モーテルからは昨日ロサンゼルス・エンジェルスのゲームを見にいったときに通ったのと同じ国道91を走り,アナハイムを過ぎて,さらに東に進んでいってインターステイツ15に入る。そして,インターステイツ15を南東に進んでいって,テメクラ(Temecula)という町でインターステイツ15を降り,州道76に入る,という経路で走っていった。
テメクラからは一般道である。このあとはわずか36マイル(約60キロメートル)なのだが,州道76は一般道かつ山道なので,まだそれから1時間程度かかる。パロマ天文台を目指して日本の山道のようなところを走っていくと,やがて,リンコン(Rincon)という数件の家がある小さな町に着いた。リンコンにはアメリカにはめずらしいロータリーがあった。このロータリーがこの小さな町のただひとつの交差点というわけであった。このロータリーの角によろずやがあったので,車を停めて中に入って,菓子パンと冷たい飲み物を買ったが,これが結果的に今日の朝食となった。この時点では,パロマ天文台にカフェくらいはあるだろうからそこで朝食を,と思っていた。
リンコンから先は昨年走ったのと同じ道であった。昨年と今年,たった2度走っただけだが,なんども来たような気がしてすごく懐かしかった。途中でシカの親子が横切った。数年前,ワシントン州で巨大なシカが私の車にぶつかってきた記憶がよみがえったが,今回のシカは小さくおとなしかった。
さらに山道を走っていくと,やがて,昨年も見たパロマ天文台の口径200インチ反射望遠鏡の巨大なドームが見えてきた。昨年はここで感激したが,今年は,果たして昨年開かずだった門は時間通り開くのだろうかと,少しだけ不安な気持ちになった。