しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:なのにあなたは京都へ行くの

DSC_3289 DSC_3293 DSC_3297

 龍安寺の後は,仁和寺に行きました。仁和寺といえば,徒然草ですがどうしてでしょう?
 有名な徒然草の第52段。高校で習います。
  ・・・・・・
 仁和寺にある法師,年寄るまで石清水を拝まざりければ,心憂くおぼえて,あるとき思ひ立ちて, ただ一人徒歩よりまうでけり。極楽寺,高良などを拝みて,かばかりと心得て,帰りにけり。さて,かたへの人に会ひて,「年ごろ思ひつること,果たしはべりぬ。聞きしにも過ぎて,尊くこそおはしけれ。そも,参りたる人ごとに,山へ登りしは,何事かありけむ。 ゆかしかりしかど,神へ参るこそ本意なれと思ひて,山までは見ず。」とぞ言ひける。少しのことにも,先達はあらまほしきことなり。
  ・・・・・・

 この徒然草で,「仁和寺」を私も覚えました。徒然草は,ドナルド・キーンさんによって英訳もされています。
  ・・・・・・
 Between 1330 and 1332 the Buddhist priest Kenko, having, as he put it, "nothing better to do," turned to his ink stone and brushes. He jotted own his thoughts, observations, and opinions; anecdotes that he found interesting, amusing, or instructive; accounts of customs and ceremonies--everything that seemed to him worthy of preservation.
 The little essays--none of them more than a few pages in length, and some consisting of but two or three sentences--give us the self-portrait of a most engaging gentleman. He is consistent in his statement of the peculiarly Japanese aesthetic principle: beauty is intrinsically bound to its perishability.
 The imperfect, the irregular, the understated, beginnings and endings--these have a charm of their own which surpasses that of completion.
  ・・・・・・

 仁和寺は右京区御室にある真言宗御室派総本山の寺院で,山号を大内山と称します。本尊は阿弥陀如来,開基は宇多天皇です。世界遺産に登録されています。ここは門跡寺院で,出家後の宇多法皇が住したことから「御室御所」と称されました。そして,明治維新以降は「旧御室御所」と称するようになりました。
 御室桜の名所としても知られています。また,宇多天皇を流祖とする華道御室流の家元でもあります。
  ・・
 私たちが行ったときに遭遇した珍しい出来事というのは,この仁和寺に神主さんがご挨拶に見えたということでした。神主さんとお寺⁉ 私はちょうど神主さんが山門を入られるのに遭遇してびっくりしたのですが,それを見ていた地元の人がいたので,どういうことか聞いてみました。
  ・・・・・・
 仁和寺の隣にある福王子神社は,第58代光孝天皇の皇后である班子女王(桓武天皇の孫娘・宇多天皇の母)を祭神としてお祀りしてあるということです。宇多天皇が仁和寺を開かれたことから,福王子神社は仁和寺の鎮守神とされていて,仁和寺から譲渡された神輿の巡行が大祭の10月の第三日曜日に行われて,福王子神社から出たお神輿が仁和寺の仁王門駆け上がるのだそうです。
  ・・・・・・
 その10月の第三日曜日というのが,私たちが行った日の翌日でした。そこで,あすこちらへ伺います,というご挨拶だったというわけです。
 このめずらしい行事は,京都の観光タクシーの運転手さんでも知らない人が多いという話でした。
 このような格式高き仁和寺の法師さんだからこそ,徒然草の寓話が意味を持つというものです。

DSC_3262DSC_3255DSC_3302

 龍安寺を過ぎてきぬかけの路を仁和寺に向かって歩いていくと,右手に小さな「アルボ」という喫茶店がありました。
 外にメニュー表が張ってあって,そばが食べられるらしかったので,お昼ごはんは,ここで済ませることにしました。
 中に入ると,狭い店内は20人くらい入れる感じでしたが,店内では,真ん中でお店の人がちょうどそばをそば粉からそば打ちするところでした。
 ここは喫茶店なのかそば屋なのか? 思っていたのとまったく違う展開にびっくりしました。どうやら,このお店は,こういう風に,凝った手打ちのおそばを食べることができるところでした。
  ・・
 京都というのは,本当に不思議なところです。こうした何気ないお店が,何気ないわけでなくて,めったに見られない,あるいは体験できないことに遭遇することができるのです。
 ちょっとした食堂も,少しもちっとしてなかった経験はたくさんあります。

 先客さんが2人いましたが,メニューを出して,今ちょうどおそばを打つところだから,同じにしていだけると助かる,と言われました。さらに,このお店で注文されるのはほとんどがこれです,とにしんそばを示されました。特にこだわりもなかったので,というか,お店の人のほうがずいぶんこだわりがあったので,そのにしんそばを注文しました。
 急ぐ旅でもなかったので,のんびりと待っていると,そば粉がだんだんとソフトボール大の丸い塊になって,それを平らにして,細く切って,30分ほどでおそばが出来上がりました。
 こんなの日本人でもみたことないから,感激しました。残念ながら,写真撮影禁止だったので,お見せすることができません。興味のある方は行ってみてください。
 出来上がったおそばは大変においしく食しました。 

 今回の旅では,このおそば屋さん以外に,日本刀のお店とか,昔のお菓子を売るお店とか,とても興味深いお店を見ることができました。それらは,どこも,チェーン店とかそういうものでないことが,これもまた,京都らしいというか,すてきな経験でした。
 この町は,どうして,こうも底が深いのでしょうか。これが歴史の重みというものでしょうか。
 私も,アメリカ旅行をすると,ガイドブックにあるようなお店とか風景とか名所よりも,こうしたお店だとか,体験のほうが魅力を感じます。
  ・・
 おそば屋さんのあとは仁和寺に向かいました。仁和寺でもまた,珍しい出来事に遭遇しましたが,このお話は,また,次回。

DSC_3244DSC_3246DSC_3250DSC_3253

 金閣寺から歩いて龍安寺まで行きました。この道を「きぬかけの路」といいます。
 あまり京都を知らなかった若いころのことです。
  ・・・・・・
 この道を車を気にしながら狭い歩道を歩いて行くと,右手に堂本印象美術館,左手に立命館大学があって,それを越えると龍安寺,そして,仁和寺がありました。それを知って,有名なお寺がこんなに近くにあるなんて,と驚きました。仁和寺に着いたのはまだ午後2時過ぎだというのに,秋の夕暮れはとても早く,すでにもの悲しい感じだったのですが,それが最高にすてきでした。
  ・・・・・・
 この道を歩いていて,そんなことを思い出しました。何年経っても,人の気持ちは同じです。

 龍安寺といえば,石庭です。
 英国のエリザベス女王が龍安寺を訪れて,この有名な石庭を絶賛したことから,英国放送協会が大々的に取り上げ,「Rock Garden」として世界中にその名前が知れ渡ったということらしいのですが,エリザベス女王自身は,この石庭の前に座ってひとこと「わたしにはわからない…」と言ったらしいということが伝わっています。
  ・・・・・・
 この地は,もともとは,969年から984年に在位した円融天皇の勅願寺である円融寺があったところです。平安時代末期に藤原実能がここに山荘を造り,敷地内に寺を建て徳大寺と称し,姓を徳大寺としました。
 1450年に,細川勝元がこの徳大寺家の山荘を譲り受けて,妙心寺の義天玄承(ぎてんげんしょう)を招いて建立したといわれるのが現在の龍安寺です。
  ・・・・・・

 有名な石庭は方丈南側にある枯山水庭園です。
 私は,これまで多くの枯山水庭園に行ったことがあります。特に、京都には大徳寺の塔頭に枯山水庭園がたくさんあります。枯山水庭園は,水のある池のかわりに白砂を引き,木々は島や蓬莱山を表すもの,といった意味を聞けば,それなりに理解ができます。
 竜安寺の石庭は,そうした枯山水庭園のもっとも単純化した姿ではないかと思います。それならそれでとてもよくわかります。それは,金閣寺の回遊式庭園のように庭が多くを語れば,見る人は想像しなくても理解ができます。しかし,龍安寺の石庭のように庭がほとんど何も語らなければ,逆に,自分の心が語りかけるということです。だから,自分の内面に多くの心情がある人にはそこに響くものがあり,薄っぺらな人にはそれが響かない…。これは,音楽も同じです。

 竜安寺の石庭の作者は不明で,造られた年代も詳細不明らしいのですが,応仁の乱の後であろうといわれています。
 以前,「花の乱」という全く不人気だった大河ドラマで,応仁の乱で焼け果てた京の町を思い返して,細川勝元がこの庭にたたずむシーンがありました。史実は別にして,あのドラマでは,五山の送り火も日野富子がはじめたように描かれていましたが,ドラマとしてなら,それはそれで説得力がありました。つまり,世は無常ということです。私は,あのドラマの無常観が好きでした。
 竜安寺の石庭は,東西30メートル,南北10メートル余りの長方形の白砂の庭に15個の石を5・2・3・2・3に配置したもので,これは「虎の子渡し」の名で知られています。母虎が3頭の子を連れて川を渡ろうとするとき,1頭のヒョウが現れ母虎が目を離すと子の虎が食べられる。川を渡るにはどうすればよいか。その答えがこの石組みの中にある…。そんなことなのだそうです。しかし,私は,こういう話は,先に書いたように,ある人が庭を見て,庭が自分の心に語りかけられたことを,もっともらしく表現した,ただそれだけのことだと思います。

 どの位置からもすべての石を一度に見ることができないという話は有名です。この話をすると,みんな,一生懸命にそれを数え始めます。さも,この石を数えることがこの庭の目的であるように…。でも,この庭はパズルではありません。だから,それが,この庭を造った人の思惑,ではないと思いますが。


 方丈の北側の軒下に徳川光圀の寄進といわれている「つくばい」が置かれています。本物は方丈の東北側にある非公開の茶室「蔵六庵」に置かれてあり,方丈の北側にあるものは精確に作られた複製品だという話です。
 このつくばいの表面に書かれた字は,銭形の中心の「口」を共用すれば,「吾唯足知(われただたるをしる)」と読むことができます。意訳すると,自分はこれで十分だということを知る,なのかな? それとも,分相応であることを知ることこそ大切,なのかな? 私は,身の丈ということばが好きですが,そう理解していいのかな? 要するに,精神的な豊かさが大切だということです。だから,英訳すると,I learn only to be contente. かな? でも,こんなんでわかるんかいな?
 金閣寺と龍安寺の真逆な価値観がまた,おもしろいところです。音楽でいえば,オペラと弦楽四重奏といったところでしょうか。

DSC_3238DSC_3242DSC_3243 茶室焼失まえの金閣2

 久しぶりに、京都へ行ってきました。
 私は今は日本国内の旅行はほとんどしないのですが,京都だけは別格です。以前にも書いた気がしますが,11月になると紅葉の季節で,ものすごい人混みになってしまうのですが,10月という季節の京都は,やがてくるそんな季節を控えて,落ち着いた雰囲気で最高です。私は,この季節が最も好きです。

 近ごろは,特に,海外からの旅行者が増えて,紅葉シーズンに備え冬眠している日本の観光客がほとんどいないのに比べて,どこも外国人だらけです。
 今回は,私も,アメリカ人の友人と一緒に来たので,定番の観光地をめぐることにしました。
 私がアメリカに行って,いろんな感想をもつように,今回訪れたところについて,彼らはどういった感想をもったか…,これが,今回の小旅行のテーマのひとつです。単なる旅行案内はいくらでもありますし。
  ・・
 京都の定番といえば,そう,一に清水寺,二に金閣寺,そして,三に二条城ですね。「二」に「二」条城かな?それはともかく,それぞれ,個性があります。だから人気なのでしょう。
 今回は,そんな定番の中から,金閣寺を選んで,そこから出発して,龍安寺,仁和寺と散策することにしました。私は,これまで,ずいぶんとここに来ていますが,私がアメリカを旅行して何がしたいか何を見たいか,を考えてみれば、外国の人が日本に来て何がしたいか何を見たいか,は自ずからわかります。

 まずは,金閣寺。
 金閣寺といえば,中学校のときに,社会科のテストで「金閣寺」と書くと間違い,と習ったことがあります。正しくは「鹿苑寺金閣」だということです。同じように,「銀閣寺」も「慈照寺銀閣」だと,そのとき覚えました。
 こういうことをしっかり覚えることがこの国で一般によくいわれる「偏差値の高い」学生になるコツです。実にくだらないことです。
 ここでは,あえてこの通称の金閣寺と書くことにします。それは,金閣寺に行くと山門のまえに「通称金閣寺」と書かれているからです。
 金閣寺のホームページには,次のようにあります。
  ・・・・・・
 正式名称を鹿苑寺といい,相国寺の塔頭寺院の一つ。舎利殿「金閣」が特に有名なため一般的に金閣寺とよばれています。元は鎌倉時代の公卿,西園寺公経の別荘を室町幕府三代将軍の足利義満が譲り受け,山荘北山殿を造ったのがはじまりとされています。
 金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世にあらわしたといわれ,有名な一休禅師の父である後小松天皇を招いたり,中国との貿易を盛んにして文化の発展に貢献した舞台で,この時代の文化を特に北山文化といいます。
 義満の死後,遺言によりお寺となり,夢窓国師を開山とし,義満の法号鹿苑院殿から二字をとって鹿苑寺と名づけられました。
  ・・・・・・
 
 ならば,足利義満の創建したのは,「鹿苑寺金閣」ではなく,「山荘北山殿」なのではないでしょうか。その庭園の中に,舎利殿として建てたのが金閣。だから,私は,「金閣寺」が間違いなら,「鹿苑寺金閣」だって正しくないように思います。この国の教育は,こうした,正しくもないことを正しいとするような,その世界だけで通用するよくわからない決まりがたくさんあります。
 私は,きちんと覚えることも大切でしょうが,そんなことよりも勉強しなくてはいけない大切なことがほかにたくさんあるように思うのですが…。学生は「舎利殿」ということばも知らないでしょ?
  ・・
 ところで,足利義満という「天皇になりたかった将軍」は,どういう存在だったのでしょうか。
 この時代に生きていて,都の周りにはその日を生きることすら大変な人たちが暮らしている中で,金閣のような建物や庭を造園する,そして,天皇を足蹴にするような行動をする,というのは,どういう精神状態だったのか,と,私は,この広い庭に行くと,いつも考えます。晩年の秀吉に共通する権力バカなのかな? それとも,こういう行動は,そうしたまずしい人たちを「救おう」とするために行われていたことなのでしょうか。
 私にはそのことがよくわかりません。
 いずれにしても,それから600年以上も経って,今もなお,この地に多くの人が訪れ,この建物を見て感動する,そして,救われるということならば,決してこの造園が意味をもたなかったということではない,ということだから,それはそれで意味のあることだったのでしょうか…。
  ・・
 ただいえるのは,生きている人は,今も昔も,だれしも,将来のことが不安で,特に,医学も発達していなかったこの時代には,それは,現代人には想像を絶するものだったに違いがないのです。だからこそ,宗教が意味を持ち,こうしたお寺の存在が大きかったのでしょう。
 人は,結局は,精神的に生きているのです。しかし,精神的に生きるために,こうした贅沢な物質が必要だということもまた,皮肉なことです。

 はじめてここを訪れただれしも,このきらびやかな姿に驚くのですが,それは,日本人でも変わりません。特に,名ばかりの「銀」閣を先に訪れた人には,正真正銘の「金」閣にびっくりするでしょう。しかし,これは,ある意味,観光客用の「やらせ」です。私は,むしろ,この金閣が,もし,放火されていなかったら,どれほど古びた姿だったのか,ということの方が興味があるのですが…。今ほどの人気があるのでしょうか?
 それよりも,外国の人が疑問に思うのは,金閣というのは何のためにあるのか? ということです。
 確かに,金箔でつつまれているから,権威の象徴なのですが,もともとは舎利殿ですから,五重の塔と同じです。このことは,金閣の内部を考えればよく理解できます。そう考えると,いくら天皇になろうとした将軍・足利義満が偉大であろうとしても,釈迦には勝てないということだったのです。
 庭園を歩いていくと,小高い丘の上に,後水尾天皇が贈った茶室があります。 
 足利義満が御所の北に御所を見下ろすようにこの金閣という建物を建てたにせよ,後年(江戸時代),この金閣を見下ろす場所に茶室を贈った後水尾天皇は,大した人物,あるいは,とんだ食わせ者だと,今回,私ははじめて気づきました。

060002

 春,梅の季節がすぎて,桜が咲くまでのわずかな間,一瞬,観光客の少なくなるときがあって,私は,その頃を大切にしています。
 京都ではないのですが,その時期,大津の石山寺を訪れると,やがてくる華やかな桜の季節を前にした静けさとその予告が,とても幸せな気持ちにしてくれます。

  ・・・・・・
 石山寺は,749年(天平勝宝1年)に聖武天皇の発願で,良弁僧正によって開かれました。西国三十三所第十三番札所で,清水寺と並ぶ双璧です。
 本堂は木造建築の中で県下では最古のものです。本堂内には紫式部が「源氏物語」を執筆したという源氏の間があります。紫式部はじめ清少納言や和泉式部なども石山寺のことを日記や随筆に記していて、女流文学の開花の舞台ともなっているということが,このお寺の華やかさの源となっています。
 その後も松尾芭蕉や自然主義文学者の島崎藤村が石山寺を慕っていて,随所に文学の背景が散りばめられています。
  ・・・・・・

 石山寺の入口にあたる山門東大門を正面にのぼる石段はかなり険しくて,私は,そこを登るたびに,あとどのくらいしたらこの石段が登れなくなる日が来るのか,といつもさびしくなります。
 本堂を過ぎると庭園があります。ここを散策すると,いたるところに様々なな花が見られて、何とも初春らしい景色が広がっています。ミツバツツジにオトメサザンカ、モクレンにユキヤナギ、コブシにヒラドツツジ,特に,花をつける前のツツジが,私は好きです。鶯の鳴く声がまた,山里の香りをいっそう引き立たせます。
 ある年,私は,そんな石山寺を2週間連続で訪れました。ずっと晴天に恵まれて,また,今のように,黄砂で霞むこともない,平和な春でした。
 たった1週間しか過ぎていないのに,春の草木はせっかちで,確実にその花のつぼみはふくらみを増しているのでした。

画像 089DSCN0523

 作詞家としての北山修さんの作った詩がどれだけあるかは知りませんが,私が知っているのは,
「あの素晴らしい愛をもう一度」「風」「さすらい人の子守歌」「さらば恋人」「白い花は恋人の色」「戦争を知らない子供たち」「初恋の人に似ている」「花嫁,帰って来たヨッパライ」
くらいでしょうか。
 「悲しくてやりきれない」もそうかな,と思っていたのですが,これは,サトウハチローさんの詩です。
 この中でも,私は,特に「風」と「花嫁」が大好きなのですが,これらを聞くと,いつも思い浮かぶのが,ポプラ並み木の続く天文台に続く道と,京都の学生街なのです。
 ポプラ並み木の続く天文台に続く道というのは,どうも,子供のころに読んだ図鑑にあった三鷹の天文台の口径65センチメートル屈折望遠鏡のドームであるらしく,また,京都の学生街というのは,「帰って来たヨッパライ」がはやったころに,北山修さんのいたフォーククルセダースが京都の学生のグループで,また,なぜか,北山修さんが京都大学の学生だという話(間違いですが)を聞いたことがずっと残っているからなのでしょう。

 そして,私には,この,天文台と京都というのが,私の原点,あるいは,トラウマになっているらしく,だから,いまでも,この曲を聞くと,懐かしさがこみあげてくるというわけです。しかも,いまでも,私はこのことにこだわっているらしく,日夜,晴れていれば星を追いかけ,春夏秋冬,花が咲けば,祭りがあれば,かえでが色づけば,雪が降れば京都へ出かけるわけです。
  ・・
 先日,BS朝日の「熱中世代」という番組にその,北山修さんが出演していました。ずいぶんと歳を召されてしまったというのが第一印象でした。それにしても,医師としても一流で,作詞家でもありと,どうして,神様は,平等に人間に才能を与えないのかと嫉妬しました。しかし,お話を聞いていると,いまだ,人間らしい煩悩が話の端々に現れるので,これだけは,私は優越感を持ちました。
 もし,私が,北山修さんであれば,さっさと仕事をやめて,シベリウスのように,山の中に小屋でも立てて,ラジオから流れてくる自分の作った歌を聴きながら,質素に隠遁生活を送ることでしょう。すでに,神が与え給えた才能は十分に社会に還元したはずですから。
 ところで,その番組の中で,聞き手のアナウンサーが「相手のことばを話す精神科医と器となってみんなの言葉を代弁する作詞家」と言っていました。まさに,そんな使命を授かった北山修さんの歌は,こうして,歌い継がれていくことでしょう。

DSCN0127DSCN0130DSCN0136

 菅原道真は,学者出身の政治家として卓越した手腕を発揮し,異例の出世をしました。
 899年(昌泰2年)には右大臣の要職に任命されて,左大臣藤原時平と並んで国家の政務を統括しました。ところが,醍醐天皇のとき,左大臣藤原時平の讒言と謀略にあって,失脚させられ,901年(昌泰4年)大宰府に左遷されました。
 大鏡にはこのときの有様が次のように書かれています。
  ・・・・・・
 左大臣時平,このおとどは,基経のおとどの太郎なり。
 菅原のおとどは右大臣の位にておはします。
 左大臣は,御年もわかく,才もことのほかにおとり給へるにより,右大臣の御おぼえことのほかにおはしましたるに,左大臣やすからずおぼしたるほどに,さるべきにやおはしけん,右大臣の御ためによからぬ事いできて,昌泰四年正月廾五日,太宰権帥になしたてまつりて流され給ふ。
  ・・・・・・
 そして,そのわずか2年後,菅原道真は波乱の生涯を閉じました。菅原道真の没後,皇太子の急逝・宮中への落雷・天候不順などが続き,道真の祟りによるものと怖れられて,朝廷より,最終的に最高位の正一位太政大臣を追贈されて,しかも火雷天神を号として祀られることになります。
  ・・・・・・
 こちふかば
 にほひおこせよ梅の花
 あるじなしとて
 春を忘るな
  ・・・・・・
 これは,九州の大宰府に大宰権帥として左遷されたときに詠んだ和歌とされています。

 「飛梅」は,このとき,一夜にして京都から道真のもとに飛んできた梅とされ,大宰府天満宮では,本殿の向かって右前に,今でも,早春に他の梅に先がけていちばん開花する白梅です。
 この飛梅を,若き日のさだまさしは歌にしました。
  ・・・・・・
 心字池にかかる三つの赤い橋は
 ひとつ目が過去で ふたつ目が現在
  ・・・・・・
と歌いだします
 そして,三つ目の橋でふれあったふたりのその後は? あの日と同じ様に,東風が吹いたとき,君はこの日のことを想い出してくれるのでしょうか。
 天神様は学問の神様ですが,決して縁結びの神様ではないのです。北野の天神様の梅苑に梅の花が咲き誇ったころ,少しだけ暖かくなった春の日差しの中をのんびりと散策すると,心から春の訪れを実感することができます。そうして,梅の季節が過ぎると,平野神社の桜が満開になるのもそう遠いことでありません。
 私は,そんなころの京都が大好きです。

DSCN0118DSCN0119DSCN0120DSCN0121

 かつて平安京の中心は,現在の千本通りだということをはじめて知ったとき,私はびっくりしました。
 今の御所が平安京の大内裏だと思っている人もいるかもしれませんが,違います。平安京の範囲は現在の京都市街よりずっと小さくて,一番北の一条大路は現在の今出川通と丸太町通の中間にある一条通,一番南の九条大路は現在のJR京都駅の南にある東寺の南側を通る九条通,東は現在の寺町通にあたります。そして西はJR嵯峨野線の花園駅と阪急京都線の西京極駅を南北に結んだ線になります。つまり,今の京都市は,平安京のころよりずっと東に中心がありました。
 また,平安京の道幅は今よりもずっと広くて,小路でも約12メートル,大路では24メートル以上もありました。大内裏から南に走る朱雀大路に至っては約84メートルもの幅があって,今の名古屋の100メートル道路も顔負けの広さでした。
 その当時朱雀大路だったのは現在の千本通りです。千本通りを北に行って,今出川通りと交わるところを西に曲がると,上七軒という京情緒あふれる花街があって,そこを過ぎると北野天満宮が見えてきます。

 北野天満宮は,学問の神といわれる菅原道真をまつる神社の総本社です。
 平安時代中頃の天暦元年(947年)に,京都に住んでいた多治比文子や近江国(滋賀県)比良宮の神主神良種,北野朝日寺の僧最珍らが,当所に神殿を建てたのがはじまりとされます。その後,藤原氏により大規模な社殿の造営があり,987年(永延元年)に一條天皇の勅使が派遣されて,国家の平安が祈念されました。このときから「北野天満宮天神」の神号が認められました。
 ちょうど今は受験のシーズンで,合格祈願の学生さんで,境内はにぎわっています。参道西側の一帯には梅苑があって,約2,000本の梅が2月下旬から咲き誇り,それはそれは美しいものです。

 私は,この場所へ行くと,ずっと昔の高校生の頃を思い出します。
  ・・・・・・
 高校の担任は国語の教師でした。
 毎週月曜日に「徒然草」からいくつかの段を抜粋してまとめた参考書から,古語の小テストがあったので,週末は地獄の苦しみでした。こういうのは,ひとつ間違うと不登校になります。でも,当時の私は,そのおかげで随分と「徒然草」は読んだ気になっていたのですが,今にして思うとそれは大いなる誤解でした。
 実際は,単に,古文を読んで,懸命にその訳を暗記しただけだったのです。しかし,それで「徒然草」がわかった気になってしまったのだから,むしろ,悪影響でした。それに,せっかくそんな勉強をしていたのであれば,「徒然草」で書きたかった吉田兼好の生き方や考え方を深く知るべきだったし,また,それを動機にして「徒然草」のすべての段を読むべきだったのです。意味のない時間を費やしたものです。
 なにせ,吉田神社と吉田兼好さんにつながりがある,なんていう初歩的なことすら最近まで知らなかったのですからどうしようもありません。
  ・・・・・・

 それはそうと,「徒然草」の小テストがやっと終わると,その次に読まされたのが,「大鏡」でした。また,同じ苦しみの週末が再現されるかと憂鬱な気持ちで読みはじめたのですが,「大鏡」は当時大好きだった日本史の物語でした。古典でこんな歴史の内容を勉強できるということが逆に新鮮でした。
 今の私は,「徒然草」を読んでいてもすごくおもしろいのですが,高校生のころは「大鏡」のほうがずっと興味がありました。昔のことですから,参考書はハードカバーでした。当時の参考書はハードカバーであってもたいした製本でなかったので,購入したときから本の装丁が壊れていました。当時は,そんな本がたくさんありました。今思い出に残っているのはそんなたわいもないことばかりです。
  ・・・・・・
 「大鏡」は,平安時代の後期に成立した紀伝体の歴史物語で,849年(嘉祥2年)の文徳天皇即位から後一条天皇の1025年(万寿2年)に至る176年間の宮廷の歴史を,藤原北家,ことに道長の栄華を軸にして,なんと190歳になるという大宅世継と180歳の夏山繁樹という長命なふたりの老人が雲林院の菩提講で語り合い,それを若侍が批評するという対話形式で書かれているお話す。
  ・・・・・・
 解説を読んだだけで,私はうきうきしました。その中で印象に残っているのは,なんといっても,菅原道真に関するところでした。

このページのトップヘ