内館牧子さんの書いた「終わった人」という本が話題になっているそうです。映画化もされました。
・・・・・・
定年って生前葬だな。衝撃的なこの一文から本書は始まる。大手銀行の出世コースから子会社に出向させられ,そのまま定年を迎えた主人公・田代壮介。
仕事一筋だった彼は途方に暮れる。年下でまだ仕事をしている妻は旅行などにも乗り気ではない。図書館通いやジムで体を鍛えることはいかにも年寄りじみていて抵抗がある。
どんな仕事でもいいから働きたいと職探しをしてみると,高学歴や立派な職歴がかえって邪魔をしてうまくいかない。妻や娘は「恋でもしたら」などとけしかけるが,気になる女性がいたところでそう思い通りになるものでもない。これからどうする? 惑い,あがき続ける田代に安息の時は訪れるのか?
ある人物との出会いが彼の運命の歯車を回す。
・・・・・・
だそうです。
世の中には私も含めてこの年代の人が溢れていて,時間をもてあましているものだから,こういう人をターゲットにした本やら映画やらグッズがたくましく商戦を繰り広げていますが,そもそもそうした商戦に乗せられている人こそが,その主人公のような生き方をしている人たちでしょう。
私はこの本も映画も見たわけではないのでその感想を書くつもりはないのですが,興味があったのは「仕事を辞める=終わる」という考え方です。組織で働くということは「自分の貴重な時間を売ってその対価をもらう」ということで,それこそが仕事なのです。しかし,農耕民族であるこの国の人々は「生きること=仕事」だったので,そう簡単に割り切れないわけです。そこにブラック企業が生まれる要因が根深く存在します。そしてまた,学生は,子供のころから自分の自由な時間も与えられず,教育という名目でドリル学習と「部活」という強制労働に明け暮れ,人生すべてが仕事という洗脳を終えて社会に出ていくのです。
そうした,「人生すべてが仕事」に就くために学歴を手に入れようとし,学歴を手に入れるために入試で少しでも多くの点数の取れる訓練をする,というのがこの国の教育です。その結果,この巧みな企ての着地点が,仕事を辞めたあとは何もすることがない,つまり何かしたいこともなければ,するするための素養もない,ということにつながっているのです。
私は若いころからそうした考えをまったくもっていなくて,将来一日でも早く時間と自由を得るために,仕事をしその対価としてお金を得ようと思って生きてきました。そして,それを手に入れ,早期退職をし,待望の「はじまり」をむかえました。しかし,たとえ早期退職をしなくても,退職がたとえ主体的なものでなくとも,定年というのは仕事という呪縛から解き放たれて自由を手に入れることができることだから,それは「終わり」ではなくむしろ「はじまり」だと思うのです。
では,そうして手に入れた,あるいは入ってしまった自由をどう使うのか?
私自身は今,やりたいことが多すぎて困っているのですが,そうしたやりたいことをしようとするとき,それをなすための知恵であるとか知識であるとか能力であるとか,そういうことをこれまでにどれだけ身につけてきたか,ということが,実は大問題なのです。それはたとえば,旅行をするときにその土地の歴史を知っているか? 言葉が話せるか? とか,コンサートに出かけたときに音楽を聴きこむための楽典を理解しているか? 作曲家や作品についてどれだけ知っているか? 楽しみで楽器が演奏できるか? とか,天文学を勉強したいと思ったときに学術書を読むための数学力があるか? 物理学の知識がどれだけあるか? などなどのことです。あるいはまた,生活を楽しむために料理を作る技術があるか? 機械がこわれたとき直せるか? コンピュータが自由に操れるか? といったことです。
だから,本来,勉強というのはそのときのためにしてくるべきだったと思うし,そういうことを身につけるための本来の教育の機会が若いころにもっと与えられるべきだったと,今になって強く感じるのです。勉強と称した点数比べなどくそ食らえです。若いころに貴重な時間をそんなことに浪費してはいけなかったのです。