●大金持ちの作った博物館●
パイプラインを見終わった。
フェアバンクスに戻る途中に「ファウンテンヘッド・アンティーク・オート博物館」(Fountainhead Antique Auto Museum)というクラシックカーの博物館があるということだったので行ってみることにした。
ところが場所がよくわからないのだった。近くまで行ってもよくわからない。散々迷ったすえ見つけたのは,私の思っていた場所とは違っていた。
「ベアー・ロッジ・アット・ウェッジウッド・リゾート」(Bear Lodge at Wedgewood Resort)というホテルの駐車場を抜けた向こうにその博物館はあった。それもそのはずで,ここはウェッジウッド・リゾートのオーナーが長い年月をかけて収集したという車が展示されている博物館であった。
アメリカ人は飛行機と車が大好きである。日本でも車マニアは多いが飛行機マニア,特に飛行機所有マニアというのはそれほど多くない。自家用飛行機を買ったところで活用する方法がないからである。再三書いているように,車だって走る道すらないような狭い国で,飛行機など論外である。この日本という国しか知らない人にとっては世界の大きさは全く想像の範囲を越えているだろう。
ともあれ,これもまたいつも書いているように,博物館というのは実質はガラクタ置き場である。こうした大金持ちさんはこうでもしてお金を使わないとお金の使い道がないのだから,博物館でも作って多くの人に夢を与えて社会貢献をしてもらったほうがいいだろう。日本でも私設の美術館などを作って自分がコレクションしたものを公開している大金持ちさんがいる。
この博物館はとても興味のもてるものであった。
アメリカ本土でもよく似た博物館はあるが,これほど充実した,そしてきちんと展示されたところはそうはない。そしてまた,ここアラスカという地の特性上,冬の寒さに打ち勝つような工夫がされた車なども展示されていておもしろく見学できた。
展示されていた車には,180年代古きよき時代の蒸気車やゴールドラッシュ時代に実際にアラスカで走っていた車,さらには,1931年製のCord,1920年製のArgonneなど,さまざまな種類のアンティークカー,はたまた,女性が運転するために作られた対面式に座れる車から電気自動車までがずらりと並んでいた。
また,車だけでなく,当時の服装も展示されていて,車の前では記念撮影もできるし,展示されている車を整備するための工場もガラス張りになっていて見ることができるようになっていた。
博物館の自動車はすべて今でも使用可能で,夏の夕方には,ドライバーが敷地のまわりで騒々しい回転音を立てて車が走り回るのを見ることができるということであった。
こうして,滞在2日目のこの日は,たった1日でフェアバンクスの見どころのほとんどを見ることができて,私はすっかり満足した。この日の夕食は博物館の近くのモールにあったフードコートでとることにした。
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アラスカで泊まったB&B⑥-2017夏アメリカ旅行記
●世界第2位を誇る人工建造物●
パイオニアパークを出た。
次に私は,フェアバンクスから北へ16キロメートル北上したところで,アラスカ横断原油パイプライン(Trans-Alaska Pipeline)を見ることができるというので行ってみることにした。
ノース・スロープ(North Slope)はアラスカ州北部,つまり北極海に面した油田地帯である。ここはブルックス山脈と北極海にはさまれて東西にのびるツンドラ地帯にあり,コールビル川が北流している。
このノース・スロープにあるプルドーベイ油田(Prudhoe Bay Oil Field)がアメリカ最大の油田で,アンカレッジから650マイル(1,000キロメートル),北極点から1,200マイル(2,000キロメートル)のところにある。この地は1960年代に石油探査が開始され,1968年にARCOが石油を発見,1977年に採掘がはじまった。
原始埋蔵量は推定250億バレルで残存埋蔵量は20億バレルと見込まれる。
石油の発見により,冬場には凍ってしまう北極海から南部のアンカレッジ付近まで原油を輸送するパイプラインが必要となった。そこで作られたのが,この全長 1,300キロメートルに達するアラスカ縦断原油パイプラインである。
人工の建造物としては万里の長城に次ぐ世界第2位の長さを誇るこのパイプラインは北部のプルドーベイ油田と南部の港バルディーズを結んでいる。1974年に工事が始まり1977年に完成,建設費総額 77億ドルであった。
パイプラインには11のポンプステーションがあり,それぞれが4台のポンプで構成されている。電動式のポンプはディーゼル若しくは天然ガスで発電された電気で作動する。計画時には12のポンプステーションが予定されていたが実際に建設されたのは11であった。
一部の地域では永久凍土上にパイプラインが敷設されており,パイプラインの熱で永久凍土が融けないように杭にはヒートパイプが採用されている。地中の温度が大気温より高い場合は伝導して地中の温度を放熱器から放熱することにより地中の温度を冷やし,大気の温度の方が地中の温度よりも高い場合には熱を遮断する構造になっていて,永久凍土が溶け出すことを防ぐ構造になっている。
パイプの直径は48インチ(1,219ミリメートル)ですべて日本製(当時の新日本製鐵)。厳しい温度変化による金属の伸び縮みを考慮した結果,ジグザグに配置されている。パイプラインは生態系保護,永久凍土の保護のために地表から浮かして通っている。
1日の最大輸送能力は200万バーレルである。
ダウンタウンの東を北に走るSteese Hwy 6 に乗って車を走らせていくと右手にまず広い駐車場が見えた。そこには他に1台ほどの車が停まっていた。私もそこに車を停めて外に出てみた。その先に,延々と続くパイプラインを見ることができたが,ただそれだけのものであった。ガイドブックにはビジターセンターがオープンし,土産物屋もあると書かれてあったが,そんなものはどこになかった。
しかし,この日本製のパイプラインのなかをアラスカの北部から南部に石油が流れていると思うと,なにか不思議な気がした。人間はえらいものをつくる生き物だ。
アラスカで泊まったB&B⑤-2017夏アメリカ旅行記
●アラスカで唯一の歴史公園●
フェアバンクスにはパイオニアパーク(Pioneer Park)というテーマパークがある。このテーマパークはフェアバンクスの中央,チナリバーのほとりにあって,アラスカで唯一の歴史公園である。
この歴史公園は,1967年,アラスカがロシア領からアメリカ領になって100年目を祝う「アラスカ100年祭」の際に建設された。アラスカ開拓のなかでフェアバンクスが果たしてきた重要な歴史を表現した公園となっている。
アラスカを訪れる日本人で,私のように個人で来る人はどのくらいいるのだろう。しかも,この季節に来る人はどのくらいなのだろう。
私はたった3日の滞在だったが,それでも車が利用できたので,フェアバンクス近郊の観光施設を見て回るのには十分であったが,パイオニアパークのアトラクションをはじめとして,こうした施設のほとんどは夏季しか営業していないから,オーロラ目的で冬場にこの地を観光する人はお昼間にすることがほとんどない。
私はまた,この夏の旅の目的はアラスカではなくアイダホで見る皆既日食だったから,アラスカについては到着するまでほとんど何も知らなかったし思い入れもなかった。けれど,今こうしてこのブログを書いていて改めて調べてみると,アラスカは奥が深い。そしてまた,限りなく深く,厳しいところである。
さて,パイオニアパークに到着して,やたらと広い駐車場に車を停めて園内に入った。この公園は入るだけなら無料である。
園内は広々としていたが,観光客も特に多い,というわけではなかった。これでもこの日は日曜日なのである。というよりも,フェアバンクスを訪れる観光客自体が決定的に少ないのである。そこで,この公園を維持するのが一杯一杯という感じであったし,老朽化も否めなかった。それでもこの公園は,ここに住む人,特に子供たちの遊び場として貴重な存在であった。
ゲートをくぐるとまずあったのがゴールドラッシュ・タウン(Gold Rush Town)であった。これはゴールドラッシュ当時のフェアバンクスの街並みを再現したもので,当時のキャビン(小屋=家屋)をそのまま移築したものである。今はギフトショップやらレストランになっているというからずいぶんと期待したが,たいしたものはなかった。
このだだっ広い園内を周回していたのがディーゼルエンジンで動くクルックド・クリーク・アンド・ウィスキー・アイランド鉄道(Crooked Creek & Whiskey Island Railroad)であった。
また,公園の一角に大きな船が展示されていた。この外輪船「ネナナ」号(River Boat Nenana)は現存するなかで2番目に大きな木造の外輪船で,外輪船時代の末期1933年に建造されたものである。
この船のなかには入ることができて,内部には昔のフェアバンクスを再現したジオラマがたくさん展示されていた。
パイオニアパークはその程度のものであったが,それなりに時間を潰すのにはよい施設であった。
近頃私は思うのだが,観光地というのはいざ出かけても特にすることがない。昔の街並み,と言われたところでそれだけのことであるし,土産物なんて買ったこともない。レストラン,と言われても高いだけである。そこで,こうした観光施設に行っても時間を持て余してしまう。このことに対して自分が情けなくなる。これでは旅に出る資格すらないのかもしれない。
アラスカで泊まったB&B④-2017夏アメリカ旅行記
●カナダヅル●
この日は日曜日。アメリカでは週末だけファーマーズマーケットが開催されている,ということが珍しくなく,そういうチャンスはぜひマーケットに足を運びたいものだ。とにかく旅というのはその土地に住んでいる人がどういう生活をしているかということを実感するものだからである。また,こういう体験はツアー旅行では絶対に味わえない。
フェアバンクスでもタナナバレーでファーマーズマーケットをやっているというので行ってみた。しかし,予想に反して,2,3件のお店が出ていただけで閑散としていた。売っているものも花とか野菜とか,そういったものが少しだけであった。アラスカという地は,決定的に何かをするには人が少ないのだろう。
アラスカをはじめ,フィンランドでもそうだったが,私はこうした極北の地がなぜか懐かしい。こういう土地に住んでゆっくり室内で学問をしたり音楽を聴くという生活は悪くない。そしてまた,幼年期よりアウトドアに慣れ親しんでいたら,無限の楽しみが生れるに違いないと思うのである。
しかし,実際にそういう生活をしてみると,信じられないほどの困難が待ち受けているかもしれない。それはともかく,歳をとるにつけて,私は,この,異常に人が多く,何を求めているのかわからねどみんなで崖をよじ登っているだけの日本という国の姿にやりきれなくなる。
予想に反して何もなかったマーケットを後に,クリーマーズフィールドという野鳥公園へ行った。幸運にもちょうどこの時期だけカナダヅルが渡ってきているということだった。また,その期間を利用してこの3日間だけフェスティバルが行われているということなのだが,ここもまた,数件の屋台があるだけで静まり返っていた。
カナダヅル(Grus canadensis)はツル目ツル科に分類される鳥類の一種である。北アメリカとシベリア北東部極地で繁殖し,冬季はアメリカ南西部に渡る。日本でも稀な冬鳥としてほぼ毎年数羽が記録されているという。
成鳥は灰色で,翼には褐色みを帯びた羽が混ざっている。前頭部は赤く頬が白く暗色の長く尖った口ばしをもつ。足は暗色で長く飛行の際には後に長く延びた足とまっすぐ保った長い首が特徴的である。
繁殖地ではツンドラや草原地帯の沼や湿地に生息し,つがいで広い縄張りを持っている。枯れ草を積み上げて巣を作り,2卵を産む。
カナダヅルの繁殖地はカナダ中部及び北部,アラスカ,アメリカ合衆国中西部と南東部,シベリア,キューバなどの沼地及び湿原である。浅い水場や湿原で歩き回り,時折その嘴も使って餌を探す。雑食性で昆虫類や水辺の動植物,齧歯類,植物の種や実を食べる。
アラスカで泊まったB&B③-2017夏アメリカ旅行記
●ジャコウウシやらトナカイやら●
フェアバンクスのダウアンタウンから西に6キロメートルのところにあるアラスカ大学フェアバンクス校(University of Alaska Fairbanks = UAF)は広大な敷地のなかに50を超える建物がある。なかにはテレビ局,消防署,病院まであるし,学生会館の1階にはボウリング場やビリアード,パブ,そしてカフェテリアがある。
前回書いたように,この日まず私が行ったのはアラスカ大学博物館(University of Alaska Museum of the North)であった。アラスカの自然と文化,歴史に関する展示で有名な博物館で,永久凍土から見つかった36,000年前のステップ・バイソンも展示されていた。
また,第2次世界大戦当時の日系人に関する展示も充実していた。ハワイでもそうであるが,日本ではこうした日系人についてあまりに知らなさすぎて恥ずかしくなる。そもそも,日本の歴史教育はあまりに的がはずれているのではないだろうか。歴史は権力者の権力闘争や年号をを暗記することではなく,その国で生まれた人たちの生きざまを知ることであるはずで,そうなっていないのは,要するに人をリスペクトしていない,という根本的な問題がその根底にあるのだろう。
大学の構内には,博物館のほかには,国際北極圏研究所(International Arctic Research Center = IARC)というオーロラ研究施設や,ポーカー・フラット・リサーチ・レンジ(Poker Flat Research Range)というロケット打ち上げ施設もあって,希望すれば見学もできるそうだ。また,ジョージソン植物園(Georgeson Botanic Garden)という植物園や大型動物研究所(Robert G. White Large Animal Research Station)といった動物園もあった。
私は動物園が面白そうだったので行ってみることにした。大学の構内とはいえ,博物館から原野に続く道を延々と北に6キロメートルも走ったところにそれはあった。
広い駐車場だったが,駐車していたのは1,2台の車であった。雨が降ってきたが,車を降りて,ともかくなかに入った。アウトドア・ウォーキングツアーというものがあるそうだが,めんどうだったのでそれには参加せず,歩いて構内をまわることにした。
まず私が対面したのはジャコウウシであった。ジャコウウシ(Ovibos moschatus)はウシ科ジャコウウシ属に分類される偶蹄類であるが,現生種では本種のみでジャコウウシ属を構成する。全身は長く硬い上毛と柔らかい下毛で被われていて,雌雄共に基部から下方へ先端が外側上方へ向かう角があるのが有名である。夏季はツンドラ内の水辺や湿原に生息し,冬季になると積雪の少ない斜面などへ移動する。食性は植物食で、草、木の葉(カバノキ、ヤナギ)などを食べる。
次に私はトナカイと出会って感動した。トナカイは後にオーロラを見にいったとき深夜の道路をのそのそと歩いているのを目撃した,というより,目の前で出会ってびっくりしたが,その6か月後,私がフィンランドでトナカイの悲しい生態を知ることとなったのを,このときはまだ知らない。
アラスカで泊まったB&B②-2017夏アメリカ旅行記
●充実した博物館とアラスカの歴史●
朝食を終えて,アラスカ大学フェアバンクス校のなかにある博物館に行った。大学はフェアバンクスの北西の高台にあり,広大な敷地のなかを進んで行くと博物館の建物と駐車場があった。
駐車場は有料だったので料金を入れようと説明書きを読んでいたら,ちょうど車を停めて降りてきた別の観光客に,今日は休日だから駐車場は無料だよ,と言われた。
館内に入ると,広い展示室に興味深い様々な展示品があって,アラスカに来たんだということを認識させられた。私この旅の半年後,今度はフィンランドのロヴァニエミで同じような博物館に行ったので,今ではこのふたつの博物館の展示が記憶のなかに混在している。本質的によく似ているのだ。
展示室を出てから,オーロラのビデオが上映されていたので,次にそれを見た。この博物館は展示も説明も非常に充実していて,何時間いても退屈しなかったのだが,この大学はオーロラ研究で有名なこともあり,もっとオーロラに関する展示があるものだと思っていたので,それだけが不満であった。
しかし,アラスカに来るまでアラスカではもっとオーロラに関する観光の機運があるものだと思っていたのにそうでなかったことを意外に思っていたが,この博物館ではビデオを見て,やはり,この地ではオーロラは身近な存在だということを再認識することが出来たのだった。
この博物館にはカフェテラスが併設されていて非常におすすめであるということだったが,なにせまだお昼には時間が早すぎて,ここで昼食をとることができなかったのが残念だった。
私もアラスカに来るまでこの土地の歴史についてほとんど知らなかったので,ここで簡単にまとめておくことにしよう。
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アラスカの歴史は紀元前12,000年頃の旧石器時代に遡るという。一番早く住み着いたのはベーリング地峡を渡りアラスカ西部に辿り着いたアジア人のグループである。
ロシアの探検家を通じてヨーロッパとの接触がはじまるころには,この地域にはイヌイット等の様々な先住民が住んでいた。
ロシア海軍の聖ピョートル号に乗ったデンマークの探検家 ヴィトゥス・ベーリングがアラスカを「発見」したと記録されているが,先に発見したのは1741年,聖パーヴェル号に乗ったアレクセイ・チリコフであった。ロシア・アメリカ会社はすぐにカワウソの狩りを開始し,アラスカ沿岸の殖民の支援を始めたが,乱獲によるラッコの減少,イギリスのハドソン湾会社との毛皮交易競争,アラスカからロシアまでの毛皮の輸送経費がかかることなどにより経営は悪化していった。
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一方,イギリス人移住者の多くは海路でこの地にやってきて,交易のための居留地を点々と作っていた。1778年には,「北西航路」を捜索する最後の冒険航海の途上にあったジェームス・クックは北アメリカの西海岸沿いを北上した。
北西航路調査のためにアラスカを訪れているクックに対して,ロシア側は自分たちのアラスカにおける支配力を印象づけようとしたが,ロシア国内の財政事情の悪化,アラスカがクリミア戦争を戦ったイギリスの手に落ちることへの恐れ,居留地が大して利益を上げないことといった要因がロシアをアラスカ売却へと駆り立てた。
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1867年,アメリカ国務長官のウィリアム・スワード(William Henry Seward, Sr.)が720万ドル(約9,000万ドル)でアラスカを購入した。この買収は「スワードの愚行」「スワードの冷蔵庫」といわれ,当時は評判がよくなかった。しかし,金が発見されたことでこの買収が無駄ではないことがわかった。
1896年,隣接するカナダ・ユーコン準州で金が発見された。この事件は,大勢の鉱夫をユーコン準州のとなりのアラスカへも引きつけた。1899年,アラスカでも金が発見されゴールドラッシュが起こり,フェアバンクスやルビー等の町が作られるようになった。
そしてアラスカ鉄道の建設がはじまった。また,銅鉱,漁業,缶詰製造業が盛んになり,大きな町々で合わせて10の缶詰工場が作られた。
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1912年,アラスカはアラスカ準州となった。20世紀になる前からアラスカを州に格上げしようとする動きはあったが,アラスカの人口が少なすぎること,遠く離れていて孤立していること,合衆国に加える価値があるほどには経済が安定していないことが障害となっていた。しかし,第二次世界大戦と日本軍の侵略がアラスカの戦略的な重要性を浮き彫りにした。そして,石油の発見がアラスカのイメージを変えた。
1958年,大統領ドワイト・D・アイゼンハワーはアラスカ州法に調印してこれを合衆国法に加え連邦加入への道筋をつけた。ついに,アラスカは連邦の49番目の州となったのだ。準州都だったジュノーはそのまま州都になった。石油の発見があってからひとり当たりの収入は上昇し,すべての地域が恩恵を受けた。
1977年,トランス・アラスカ・パイプラインが完成すると,原油生産による収入で人口が増加に転じ,インフラ整備が進んだ。 現在,州の半分以上は連邦政府によって所有されている。
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アラスカで泊まったB&B①-2017夏アメリカ旅行記
●素晴らしい朝食●
☆12日目 2017年8月27日(日)
この日は日曜日であった。旅に出ていると曜日の感覚がなくなってくる。曜日によって博物館が休館だったりすることもあるから,もっときちんと計画を立てるべきなのだが,出たとこ勝負の私にはそれができないのだ。しかし,今回は,この日が日曜日だったことで恩恵を受けることになる。
昨日は到着したばかりで土地勘もなかったのに深夜にドライブをして方向感覚が余計におかしくなってしまったために,朝にはさらにどこに何があるのか混乱状態であった。ともかく,夏にやって来て,しかも無計画なのにもかかわらすてオーロラを見ようとすることにかなり無理があることを理解した。
朝早く,私の泊まっているB&Bには朝食を作るために若い女性がやってきて,キッチンで料理をはじめた。やがて朝食の時間になった。
昨晩は私を含めて3組が宿泊をしていた。それはフロリダからきた夫婦とニューヨークから来た夫婦であった。彼らも1階の大広間に用意された朝食を食べるために集まってきた。
私は,以前から泊まりたいと思っていたがその機会が今までなく,今回もまた,B&Bに泊まろうと思ったわけでもなかったが,結果として,B&Bに泊まるという体験をすることができた。
用意されたのは写真のような豪華な朝食であった。一緒になった人たちと楽しく語らいながらの朝食はたいへん楽しかったが,この程度の日常英語もできないと,こうした集まっての朝食もたいそうストレスのたまる時間になってしまうかもしれない。
日本で受けた教育は,人生を楽しむためには,障害となることはあっても利になるようなことはほとんどない,と私は断言できる。これは私の体験から出てきた考えである。もし,その意見に反対する人がいるのなら,私は逆に,ではそういう人は,学校で学んだことで今楽しい人生を過ごしているかを反対に質問したいものだ。
食事を終えて,今日はまず,フェアバンクスの見どころをすべて制覇しようと,私は車で外に出た。まず目指したのはアラスカ大学の博物館であった。