しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:コロニアル・ウィリアムズバーグ

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●この地の歴史を知らないから●
☆6日目 8月1日(月)
 昨晩はちょっぴり贅沢な夕食をとるつもりだったのに,最悪の結果となってしまった。夕食をとることができだけでもよしとしよう。
 さて,私の宿泊したホテルは「ガバナーズイン」(Governor's Inn)といういかにもこの地にふさわしい名前のホテルであったが,コロニアル・ウィリアムズバーグはいつでも自由に入れるから,早朝,観光客がいないうちに,なかをドライブしてみることにした。昨日は駐車場に車を停めて歩いてみたのだが,歩くには広すぎるのだった。私は,観光地というところはそこがどういうところか自分が納得できればそれで満足なのだ。

  ・・・・・・
 1607年というから日本では江戸時代が始まったころのことだ。まだ,大阪夏の陣(1615年)よりも前ということになる。低地に木が立ち並ぶこの小さな半島の地にジェームズタウン入植地 (Jamestown Settlement) が設立された。その後ジェームズ川沿いの地域に入植地が建てられていった。
 ちょうどボストン郊外のプリマスプランテーションができたのも同じ時期である。
 1619年,こうした植民地を統治する代表者による最初の会議がジェームズタウン入植地で行われ,バージニア州における最初の州都となった。
 やがて時が経ち,アメリカ独立戦争最中の1780年,トーマス・ジェファーソン州知事の指揮のもと,バージニア州の州都は,州中心部に近く交通の便が良いリッチモンドへと移動された。州都が移転して以来ウィリアムズバーグの経済は低迷し,この町は18世紀の様相のまま取り残され長い間忘れ去られていった。20世紀初頭には,古びたその多くの建物が荒廃した状態になり,もはや使用されてはいなかった。
 1903年,牧師のW.A.R.グッドウィンがウィリアムズバーグにあるブルートン教区教会の教区牧師となった。活気溢れる34歳のグッドウィンは,この歴史的な建物群の保存と修復を行う運動を先導することに成功したのだった。
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 早朝のコロニアル・ウィリアムズバーグは静かで美しかった。
 私は,昨晩は遅くて,有料の展示や実演などはすでに終了してしまっていてそれを見ることができなかったから,この日は1日ゆっくりと観光する予定であったのだが,この景色を見ていたら,もう,そんなものはどうでもよくなって,これですっかり満足してしまったのであった。
 私がこの地の歴史を知らないからさほど興味が湧かなかったのも原因のひとつであろうが,それよりも,私には,ディズニーラドに代表される,こうした高価な人工的な観光客の集客目当ての出しものにはもはや興味を失っているのも原因であろう。
 そんなわけで,私はホテルに戻って朝食をとり,コロニアル・ウィリアムズバーグを出発することにしたのだった。

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●今日は夕食をあきらめた。●
 さて,私はこのコロニアル・ウェイリアムズバーグでちょっと豪華な夕食をと思っていたのだが,さにあらず,レストランは豪華すぎ,あるいは休日で予約が一杯だった。そんなわけで,一人旅の身の上,適当なところがまったく見つからないのであった。しかも,こういう場所にはファーストフードレストランどころかコンビニすらない。
 私は困ってしまったのだった。
 そこで,近隣の町に行くことを考えた。私にとって一番いいのはデニーズのようなファミリーレストランなのだが,国道沿いにありそうな,そうしたレストランを探して,というわけであった。

 ここでいつものように,私のいい加減さが顔をだす。きちんと調べてから走り出せばいいものを,何とかなるだろうと,適当に走り出してしまったのである。ここは日本ではない。こういうのは最悪の方法である。
 私は普段日本では何かの事情でひとりで夕食をとるときや旅先でさえ,酒は強いがひとりで飲む気はないから吉野家かココイチがあればそれで十分なのである。ファミリーレストランすら必要ない。しかし,アメリカには吉野家どころか弁当屋すら皆無なのである。
 ウリアムズバーグを出た私は「ジェームズタウン」(JamesTown)と書かれた道路標示を見て,この町に行けばレストランくらいあるだろうと思った。これが誤った選択だった。後で知ったことには,「ジェームズタウン」もまた,「コロニアル・ウィリアムズバーグ」同様の観光地で,普通の町ではなかったのだ
 私は,「ジェームズタウン」という道路標識に従って,コロニアルパークウェイという真っ暗な林間道路をあてもなく延々と20分以上も走っていったのである。ここは昼間であれば美しい風景の広がる場所であったが,真っ暗な夜ではそんなものは何も見えず,遠くの海岸沿いに漁火が見えるだけであった。
 ジェームズタウンに着いたが,そこは広い駐車場があるだけだった。ここで私は,この日の夕食をあきらめざるを得ないと覚悟して,ホテルに戻ることにした。

 ホテルの近くまで戻ってきたときに,なんと,1軒のピザ屋を見つけた。
 普段私はピザは好まないし,そこがどんなレストランなのかも定かではなかったが,もう,選択する猶予もなかったので,車を停めてなかに入って,ウエイターのいうままにテーブルに座った。店は閉店間近ではあったが,まだ営業中であった。
 私の座ったテーブルの隣では,この店のオーナーらしき恰幅のいい男がその日の売上を計算していた。こういうことを客のいる店内で平気でしているのもまた,日本と違うところである。そして,客がいるにもかかわらず,新入りの店員を厳しく指導していた。私は,そこに日本の社員教育のような姿を思い出して,アメリカで生きてゆくのもまた大変なことだと,ふと日常に戻ってしまったのだった。

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●歴史的地区に指定された野外博物館●
 私は順調に走って,ウィリアムズバーグの予約したホテル「ガバナーズイン」に到着してチェックインをした。コロニアル・ウィリアムズパークはホテルから少し行ったところにあったので,私は荷物だけを部屋に入れて再び出発して,コロニアル・ウィリアムズバーグの駐車場に車を停めた。
 コロニアル・ウィリアムズバーグは,結局,大正村のようなところであった。

 コロニアル・ウェイアムズバーグ(Colonial Williamsburg)とは,ウィリアムズバーグの歴史的地区に指定されたところにある私立財団による野外博物館で,広さは301エーカー (122ヘクタール)である。
 ところで,この「エーカー」という単位はなじみがないから非常にわかりにくいので説明しよう。
 1エーカー=1,224坪
である。といってもまだ把握しにくいが,要するに,1,224坪は1辺が約63メートルの正方形の面積なので,
 1エーカー=幼稚園のグランドくらい
と考えればよいであろう。ちなみに1ヘクタールは1辺の長さが100メートルの正方形の面積だから小学校のグランドくらいである。

 ウェイアムズバーグは1699年から1780年までバージニア植民地の首都だったところだが,首都がリッチモンドに移転して寂れた。
 その後1920年代後期になって,W.A.R.グッドウィン(William Archer Rutherfoord Goodwin) 牧師をはじめとして,南北戦争で軍人だった人たちの子孫やジョン・ロックフェラー2世(John Davison Rockefeller, Jr.) とその妻アビー・アルドリッチ・ロッ クフェラー(Abigail Greene "Abby" Aldrich Rockefeller)の賛同によって再興が計画され,1930年代初頭に多くのコロニアル建築や,酪農,庭園,キッチン,燻製小屋,屋外トイレなどが再現され公開されるようになった。
 再現された主なコロニアル建築はラーレイ・タヴァーン,国会議事堂,総督公邸,郡庁舎,ジョージ・ウイズ邸,ペイトン・ランドルフ邸,マガジン,ブルートン教区教会などである。タヴァーンというのは飲み屋のことだが,現在はレストランやホテルとして利用されている。
 また,印刷屋,靴の製造所,鍛冶屋,樽・桶・木製家具・銃・鬘などの製造所や銀細工所などでは当時の手工業の実演も行われているし,土産物,書籍,玩具,陶器などの売店,邸宅や郡庁舎,議事堂,銃器庫,公立病院,刑務所なども見ることができる。

 このように,ここは過去の建造物に今も人が住み,そのころの生活を実演していて,いわば生きた歴史博物館となっている。住民は植民時代と同じようなしゃべり方をし,その時代の服を着て働いている。
 以前に行ったことがあるボストン郊外のプリマスプランテーションと同じようなところであったが,プリマスプランテーションが塀やゲートがあって入場料を払わないと入ることができなかったのとは違って,このウィリアムズバーグの歴史的地区は塀やゲートがなく,無料でいつでも通り抜けることができるのだった。ただし,芸術品や実務を展示・実演する歴史的建造物へ入場する場合と「革命の街」(The Revolutionary City)のような屋外パフォーマンスを見る場合には入場料($66.99)が必要である。
 現在,ロックフェラー一家により基金が寄せられた非営利の団体であるコロニアル・ウィリアムズバーグ財団によって所有・運営されているが,コロニアル・ウィリアムズバーグが観光客数のピークを迎えたのは1985年の110万人で,それ以来,減少に転じているということである。おそらく,それは,一度来れば十分で,リピーターが少ないからなのであろう。

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2013アメリカ旅行記-プリマスプランテーション③
2013アメリカ旅行記-プリマスプランテーション④
2013アメリカ旅行記-プリマスプランテーション⑤

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●とんでもない間違いであったことに●
 実はこの時点ですでに夕方の4時を過ぎているのだが,この日はこの後がまだまだ長いので,先を急ぐことにしよう。

 私がこの日めざした「コロニアル・ウィリアムズバーグ」というところは非常に魅力的な観光地らしいので,とても楽しみにしていたが,本当のところ,どういう場所なのかさっぱり見当がつかなかった。
 Google Maps で地名を入力しても出てこないし,どうやら地名ではないらしい。
 これと同じことをマサチューセッツ州の「タングルウッド」(Tanglewood)で経験したことがある。タングルウッドもまた地名ではなく,ボストン交響楽団の所有する夏のコンサートを行うリゾートで,「つま恋」のようなところだったのだ。

 コロニアル・ウィリアムズバーグは,アメリカがまだ独立する前の町がそのまま保存されているということだが、それが明治村のように入場料の必要なテーマパークなのか,大正村のようにその時代の建物が点在する場所なのか,旧中山道の馬篭宿跡のようなところなのか,はたまた,御殿場アウトレットのようなところなのか,私にはさっぱり見当がつかなかった。
 いずれにしても,観光地であるからホテルの宿泊代も決して安価ではなかったが,それでも適当なところが見つかったので予約をしておいた。
 調べた結果,このコロニアル・ウィリアムズバーグの正確な場所が判明した。そこはバージニア州の州都リッチモンドからインターステイツ64に乗り換え,南東に50マイルほど行った場所にあるのだった。

 そこで私は,インターステイツ95をバージニア州のリッチモンドをめざして走っていった。
 このインターステイツ95は,リッチモンドに近づくと,インターステイツ295というインターステイツ95から派生した環状道路(バイパス)も走っているのだった。
 これもまた以前書いたことがあるが,アメリカのインターステイツにつけられた番号は日本人が持ち合わせていない合理性と知恵で,非常にわかりやすいのである。この295というのは下2桁が95だから,インターステイツ95から派生した道路の番号なのである。
 ところで,日本ではあまりなじみのないこのリッチモンドだが,ここもまた,東海岸の他の都市と同様,ものすごく巨大なのだ。そして,人と車にあふれている。だから,一旦渋滞に巻き込まれるとどうしようもなくなるのである。しかしリッチモンドにはきちんとバイパスが作られていたというわけである。

 私はリッチモンドには用がなく,ウィリアムズバーグに行けばよいわけだから,ためらいなくインターステイツ295に進路を変えて,リッチモンドを遠巻きにそのまま右回りに進み,時計の3時の方向でインターステイツ64に進路を変えた。インターステイツ64はリッチモンドをから東西に走る道路である。後はカーナビに従って予約をしたホテルに向かって走るだけであった。
 果たして私の目指すコロニアル・ウィリアムズバーグとは,いかなるところであろうか?
 私はこのコロニアル・ウィリアムズバーグでちょっと贅沢な夕食をとることを期待していた。それは,高山へ行って高山ラーメンのおいしいお店を探そうというような,そんな気持ちであった。しかし,それがとんでもない間違いであったことに,このあと気づくことになる。

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「おわらない夏」-おとぎの国タングルウッド
2014夏アメリカ旅行記-インターステイツ70②

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