しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:ジャーマンタウン

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 このようにして,この旅の2日目は,時間を大いに無駄にしつつも,私ひとりでは絶対に行けない,また,することのできない経験することができた。
 今晩は何を食べるかと聞くので,私は日本食にしようと言った。それはそれでよいのだが,今日は金曜日,どこも混んでるという。どの国でも,週末の外食産業はよく賑わっている。
 普通の人は,旅に出たときくらいは,といって,ご馳走を食べるものであるらしいのだが,いつも書くように,私は,食べ物にはまったく執着しないので,ひとりなら,どこで何を食べても平気である。だから,普段ひとりで旅をしているときは週末の混雑するレストランは無縁なのである。

 友人は,考えた挙句,これまで一度も行ったことはないけれども,といって,「KAI」という名の,日本食レストランへ連れて行ってくれた。日本でもよくある郊外のバイパス沿いのファミリーレストランのようなところであった。
 中はかなり広く,家族連れで混雑してはいたが,空席はあって,すぐに入ることができた。
 日本食レストランとはいっても,日本食以外にもいろんな種類の食べ物が用意されていた。
 私は,興味が半分,食べたいのが半分で,寿司を食べることにした。

 メニューを見ても,巻き寿司の類が多く,ふつうの握り寿司を探し出すのに苦労したが,ちゃんと江戸前の握り寿司がメニューにあるのをようやく見つけ出して,それを注文することにした。
 友人は,きょうは私に任せると言ったので,ちらし寿司を食べてもらおうと,まず,ちらし寿司とは何かを説明し,彼女はそれを納得したので,それを注文した。アメリカ人は,お任せとはいっても,納得しないでお任せにはしない。
 ついでに味噌汁を注文したら,白みその味噌汁がでてきた。お椀にはスプーンが入れてあったのがなにかとても奇妙であった。
 握り寿司は,非常においしかった。まとも?な握り寿司であった。ただし,わさびは別になっていた。要するにさび抜きであった。ちらし寿司も,日本のものと全く変わらないちらし寿司であった。というよりも,日本よりもおいしいくらいであった。
 しかし,ここはサンアントニオ,海からさほど近くなし,生魚はどこから仕入れているのであろうか。

 きのうは,食事をごちそうになったので,今日は,なんとなく,私が支払うことになった。
 今後のことを考えると,今後は食事は割り勘にしたいのだが,いったいそれをどう提案すべきか,思案に暮れていた。
 ともかくも,こうして,2日目は過ぎて,ホテルまで送ってもらった。
 明日ホテルに迎えに来る時間は,朝,改めて連絡するという。友人は,とても忙しそうであった。
 明日はいったいどうなることであろうか⁈

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 サンアントニオから北西に行ったところにあるフレデリックバーグから東に,ちょうど,サンアントニオから北の方向になるのだが,ジョンソンタウンという町がある。
 ここは,ジョンソン大統領の生まれ故郷なのであるが,このフレデリックバーグとジョンソンタウンにかけては,この地の名産モモの果樹園とブドウ畑が続いていて,特に,ブドウ畑には,多くのワイナリーがある。

 ジャムの試食にすっかり満足した友人は,今度は,私をワイナリーに連れて行こうと,いつものようにiPhoneをいじって検索を始めた。
 地図を片手に車に乗っていた私は,このころには,すでに,この場所の土地勘が目覚めていて,しかも,ほとんど道路といえば1本しかないテキサス州のことゆえ,カーナビなどなくても,場所がわかるようになっていたから,友人のやっていることがまどろっこしくて仕方がなかった。
 やっとのことで,場所を見つけた友人は,ワイナリーに向かって車を走らせながら,もう遅いから閉まっているかもしれない,と言った。

 フレデリックバーグで雑貨屋と試食に多くの時間を費やしておいて,もう遅いと言われても,と思った。第一,今日は出だし自体,1時間近いロスなのであった。
 私には,この友人の時間感覚が理解不能であった。
 やっとこさ見つけたベイカー・ワイナリーという名のワイナリーの入口からさらにさらにブドウ畑の中を続く道に沿って車を延々と走らせていくと,突き当たりに広い駐車場があって,その向こうには1軒のワインショップが見えた。車を停めて中に入った。
 中では,多くに客がワインの試飲をしていた。しかし,この店は,すでに,営業を終了するところであった。
 友人は,店員に,他にまだやっているところはないかと聞き,そして,やっと,別の店を聞き出して,再び車で,その,別のワイナリーに向かって,さらに,延々と車を走らせた。
 なにせ,テキサスはだだっ広いのである。

 新たに見つけたワイナリーは,ミードウ・ワイナリーといった。このワイナリーも,すでに,閉まったばかりであった。
 人がいて,横から入れば何とかなる,といったので,入っていくと,数人の客がワインの試飲をしていた。我々は,そこに加わることができた。
 そこで友人と10種類ほどのワインを試飲した。日本の利き酒のようなものであった。
 正直言って,私は,ワインには興味がない,というか,お酒はどれだけ飲んでも大丈夫なのであるが,普段お酒を飲まない。飲みたいとも思わない。だから,私が,試飲をしても,猫に小判なのであるが,とりあえず,ワインを味わいながら,感想を語り,順位をつけたりした。
 私のような素人にも,いろんな種類のワインはそれぞれ立派な個性があって,味わう順序を変えれば,また,別の評価になるような気がした。
 こうして試飲を終わり,サンアントニオに戻ることになった。

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 太平洋戦争国立博物館は,太平洋戦争の開戦から終戦までが,数多くの資料やら説明やらで展示してあった。
 太平洋戦争のアメリカ側からの見方がよくわかって,非常に興味深かった。
 日本の資料も多く展示してあった。その中には,千人針だとか,寄せ書きをした国旗だとか,飛行機だとか戦車,はたまた潜水艦までがあった。
 アメリカ人からみると,理解不能なものも多いので,私はいろいろと説明を求められて,困ってしまった。「大和魂」なんて,どうやって説明すればいいのだろう。
 アメリカ側のものの中には,兄弟全員が派兵されて,同じ船に乗っていたために,全員が死んでしまった。悲しんだ母親が大統領に訴えて,それ以後は,兄弟は,必ず別の乗り物に乗るように配慮されるようになった,という出来事が,1つの大きなコーナーに展示してあった。こういうことが大きく取り上げられている,しかも,こういった決断が美談として語られるというのは,きっと日本にはあり得ないであろう。私は,人権というものの考え方の違いを深く考えざるを得なかった。
 きっと私ひとりなら,この博物館に入ったかどうかわからない。もし,入ったとしても,ここで2時間も費やすとは思えなかったから,この博物館に行くことができて,とてもよかったと思った。

 次に友人が私を連れて行ったのは,雑貨屋であった。
 日本の百均のような店であった。アメリカにも百均(99セントショップ)なるものは存在するが,この店は,そうではなく,ただ,雑貨がたくさん,値段の安さが売り物の普通の店であった。
 友人は,この店安いから… といっていたが,ほとんどのものは,作りの悪い一昔前のメイド・イン・チャイナであって,それも,日本の百均と同じ品物が300円近くした。

 この町は,そんな雑貨屋でなくほかに結構おもしろい店がたくさんあって,歩いているだけでも一日は十分に楽しめるところであった。
 私には,もっと見てみたいものもたくさんあったのだが,どうも,この友人の興味は,ちがったようであった。
 なにせ,今日の出だしが遅く,しかも,太平洋戦争博物館に2時間近くも費やしてしまったのに,その後でどこか気の利いたレストランで町の雰囲気を味わいながら昼食をとるということもなく,というより昼食をとらないので,私にはだんだんと,訳が分からなくなってきた。

 昼食の代わりに行ったのは,ジャムやら漬物やらを売っている店であった。ここもそれなりに面白い所であった。
 建物の中に多くの小売店が入っていて,それぞれの店には,自家製のジャムやら漬物やらを売っているのであるが,それを試食できるのだった。
 その方法は,左の写真のように八橋の小片のようなビスケットがたくさん置いてあって,その上に気に入ったジャムを塗って試食していくのである。
 アーモンド味とかバナナ味,フルーツ味のようにおいしいものから,ニンニクジャムといった日本で食べたことのない得体のしれないものまで,さまざまなジャムがあった。
 はじめのころは楽しかったのであるが,だんだんお腹が膨れて,さらに,これまでに食べた味が食べたこともない妙な味と合わさったりで,だんだんと気持ち悪くなってきた。昼食をとっていない空腹に,この味は堪えた。
 ここは日本のデパ地下の試食コーナーを巨大にしたようなものであった。
  ・・
 このようにして,この町の散策は終了した。
 名古屋から高山市までやってきて,どこかの博物館に2時間滞在して,地元の雑貨屋でしゃもじでも買って,そのあとで漬物の食べ比べをした1日だった,とでもいえようか。

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 そうこうするうちに,午前10時少し前になったころ,友人がやっと現れた。
 きょうは,フレデリックバーグという名のジャーマンタウンに行くのだという。フレデリックバーグは,サンアントニオから車で1時間ほど,インターステイツ10を北西に走って,さらに,コンフォートという町で国道87を北に20分走ったところにあった。
 この人は,ここがよほどお気に入りだと見えて,わずか数日の滞在のうち,2日も私をここへ連れて行った。
 名古屋に遊びに来た友人が,今日は京都へ,明日は奈良へ,と期待していたのに,連日高山に連れていったようなものだ。

 後で書くが,結局,この旅の中で,5日間この友人と行動を共にしたが,もし,私ひとりで同じ行程をたどるのであれば,案内された場所を観光するには2日間で余りあった。私ひとりなら,残りの3日のうち,2日は,エルパソやら,別のテキサスの名所を観光したであろう。そして,もう1日は,きっと,ヒューストンへ行って,NASAを見学したことであろう。
 私にとって,きっと,人生で最初で最後のサンアントニオ,時間は,貴重であった。
 立場を変えて,日本を6日間旅行する外国人を案内することを考えてみよう。東京に3日,京都に3日,朝の出発は11時,1日目は東京タワーのみ,2日目は新宿で1日お買いもの,3日目は京都へ1日かけて移動し,4日目は二条城のみ,5日目は金閣寺… こんな旅をしているようなものだった。

 フレデリックスバーグ(Fredericksburg)は,テキサス州の中央部,テキサス・ヒル・カントリーに位置する都市で,ジルスピー郡の郡庁所在地。人口は約1万人。テキサスのドイツと呼ばれている。
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 1846年に設立されて,プロイセンのフリードリヒ王子に因んで名付けられた。昔のドイツ系住人は,この町をフリッツタウンと呼ぶことが多い。これは,ドイツ系開拓者の第1世代が英語を学ぶことを当初拒否したために残った方言である,ここはテキサス・ドイツ語が話されていることでも知られている。
  ・・・・・・
 フレデリックバーグのメインストリート沿いには多くの店が並んでいて,アメリカのこうしたよくある町と同じく,歩道沿いに駐車帯があって,ここに車を停めて,ウィンドウショッピングや食事を楽しむことができるようになっていた。
 さらに,町はずれには,軍の施設やら太平洋戦争国立博物館などがあった。

 車に乗って,途中でガソリンを入れ,冷たい飲み物を買ってもらって,さらに,1時間車に乗って,インターステイツから郊外のももの果樹園やらブドウ畑の続く片側1車線道路を走っていくと,やがて,町が見えてきた。ドイツ語の表示やら,レストランやらが見えてきて,リゾートタウンのようになってきた。
 ここが,フレデリックスバーグであった。
 メインストリートの両側の駐車帯は車で一杯であった。ここが目的であるのから,もっと朝早く出発すれば,すべてがうまくいくのに,これは,観光旅行で最も要領の悪いパターンであった。
 日本人でも,こうした観光をする人は多い。彼らは,渋滞を体験するために観光をしているようなものである。
 ともかく,町のはずれまで行って,やっと,車を停めることができるスペースを見つけ,駐車した。
 メインストリート沿いには,おもしろそうなお店やら博物館やらがあったけれど,友人は,そこをどんどんと過ぎていって,車を停めたのとは反対の町はずれにあった,太平洋戦争国立博物館に,私を連れて行った。
 友人は,ここで,それぞれが支払いましょうと言うでもなく,自分だけクレジットカードでチケットを購入して,さっさと中に入っていった。
 この博物館は,かなり大きくて,太平洋戦争に関する非常に興味深い展示がたくさんあった。日本には,これほどの規模の博物館はない。私は,ここで,規模こそ違ったが,昨年の秋に行った鹿児島・知覧の平和記念館を思い出していた。
 太平洋戦争に関して,縁もゆかりもなさそうなこの場所にこれだけの規模の博物館があって,そこに多くの観光客,しかも,若い人たちが訪れていたことが驚きであった。それに,戦勝国だからなのかもしれないが,こうした,過去を直視し学ぼうとする国民性にも,正直,驚いた。さらに,こうした博物館が,日本ではほとんど知られていないことが,一番の驚きであった。

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 まだ,午前8時には少し時間があったので,しばらく待っていたのだが,8時を過ぎても,スタッフは現れなかった。
 こんなことでは,実際に車を借りるときも大丈夫かな? なにせ,私は,朝の1分という時間が貴重な旅行者なのである… と心配になったころに,つまり,午前8時を15分くらい過ぎたころに,ハーツのスタッフらしき男がショルダーバッグをかけてすたすたとこちらに向かって歩いてきた。そして,私を見つけるなり,遅れてごめんでもなく,さも,俺はおまえの友人だとでもいう感じで握手をしてきた。これがアメリカ流なのであろうか。これで遅刻をごまかされた。
 私は,そういういい加減さは決してきらいでないけれど,ちょっとあっけにとられた。
 そのあと,彼はもっていたキーでコンピュータの電源を入れ,おもむろに仕事をはじめたのだった。私の,レンタカーの借りる日と返す日の変更は,こうして15分遅れですんなりと終わった。

 次に,昨日動かなかったシェイバーの電池を購入しようと,再びリバーウォークを歩いていると,ちょっとした電化製品やら衣料品を売っているショップがあったので,そこで,電池を購入した。
 ちなみに,アメリカでは,乾電池は,単1,単2,単3,単4ではなくて,D,C,AA,AAAという表示になる。
 この日の夜,購入した乾電池に入れ替えても,やはり,シェーバーは動かなかった。ところかまわずたたいていると,やがて,眠りから覚めたかのように,シェーバーは動き出したのであった。そして,シェーバーは何事もなかったかのように,幸い数日間は機能し続け,帰国2日前に,再び,冬眠を決め込んだのであった。だから,帰国したときには,私は無精ひげ状態であった。

 そんなことをしていたら,2日目の朝も,午前9時になったので,私は,友人の到着を待つためにホテルに戻ったのだった。ところが,ホテルでメールを見てみると,少し遅れるかもしれない,という連絡が入っていた。することもなく,もう一度朝食(きょう二度目の朝食である)をとりながら,友人が来るのを待っていたが,午前9時30分を過ぎても姿かたちもなかった。フロントでは,宿泊客が入れ替わり立ち代わりチェックアウトをしたり,ホテルの予約をとったりしていた。飛び込みでホテルを予約しに来た客は,満室といって断られていた。
 私は,だんだんと腹が立ってきた。午前10時なら10時とはじめから決めれば,アラモの砦は9時に開場するから,待っている時間でひとりで十分に見学ができた。予定がわからないというのが,私には気に入らなかった。どうして,貴重な数日しかない休日にアメリカに来て,ホテルで待ちぼうけをしなくてはいけないのであろうか…。

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☆2日目 3月14日(金)
 いつものように,寝たのか寝なかったのかわからぬまま,ひと晩が過ぎた。
 早朝,フロントに行ってみたら,もう朝食が用意されていたので,フロントの一角に併設された場所で,朝食をとった。トーストとジュースとコーヒーという,いつものモーテルの朝食であった。
 そのあと,まだとても早かったので,ホテルのまわりを散歩して,町の様子になじもうと思ったが,夜が明けておらず,あたりは真っ暗であった。

 ホテルから南に向かって歩いていくと,サンアントニオのダウンタウンに出た。ダウンタウンは日本の都会の繁華街と変わらぬ感じであった。しばらく歩いて,今度は,東に方向を変えると,ビルの谷間に有名なリバーウォークが見えた。ビルに囲まれてはいるが,きれいな小川が流れていて,その川岸に遊歩道が続いていた。
 私は,ビルの谷間にあったリバーウォークに降りる階段を見つけて,リバーウォークに降りた。
 まだ,早朝なので,レストランなどは開いておらず,川にも,掃除をする船が下っている様子であった。時折,ジョギングをする人や散歩をする人がいて,静かでとてもすばらしき景観であった。
 こうしてリバーウォークを歩いて行くと,ところどころでビルの入口に通じていたりしていて,そうしたビルの入口を入っていくと,そのままホテルに行くことや,レストランに行くことなどができた。
 サンアントニオはすてきな街であった。
 リバーウォークを歩いてホテルの近くまでもどると,アラモの砦も簡単に見つけることができたが,開園は9時からで,入口前の広場では,軍人が何やらの訓練をしていた。

 アラモの砦から,再び,今度は地上を歩いていると,アフリカンアメリカンの若者がヘッドフォンをかけて日本製の一眼レフをぶら下げ陽気に向こうから歩いてきた。
 私に声をかけて,アラモの砦はどこかと聞いた。
 私だって観光客で,この日がサンアントニオ初日であるのに,すでに土地勘もできて,すっかりサンアントニオの住民気取りになっていたので,しっかりと道案内をしてあげた。
 どこから来たかと聞くと,ロサンゼルスだと言った。つまり,ロサンゼルスの若者がひとり旅でサンアントニオに来たということであった。日本のカメラ(ニコン)を自慢していた。仲よくなって,お互いに写真を撮りあった。
 天気は快晴。素敵な1日のはじまりであった。

 きょうは,友人が午前9時にホテルに迎えに来るという約束であった。
 私は,友人が来る前に,明日から借りることになっていたレンタカーの予約を変更しようと思った。レンタカーの営業所は午前8時からということだったので,とりあえず,レンタカーの営業所を探すことにした。レンタカーの営業所は「リバーセンター」にある,と聞いていた。
 私の想像していたレンタカーの営業所というのは,レンタカー会社の小さい建物があって,そこに,駐車場があるというものであった。しかし,ダウンタウンを探しても,あたりはビル街で,それらしきものが見当たらなかった。こんなことはいつものことなので,営業所の正確な住所は事前に調べてあったから,「リバーセンター」と書かれた標示のところにホテルがあったので,そのホテルに入って,従業員に聞いてみたら,とても親切に教えてくれた。

 ホテルのプロントをそのまま中に入っていくと通路があって,それをこえたところに営業所はあるということであった。いわれたとおりに中に入っていくと,レストランやら売店が並んでいて,その間に狭い通路があった。日本にもよくあるホテルの1階と同じような感じであった。そのまま歩いて行くと,行き止まりになってしまったが,その突き当りにはドアがあって,そこから外に出ることができるようであった。そこを出ると屋外の通路になっていて,その向こうに別の建物があった。
 その建物に入っていくと,別のホテル(マリアットホテル)のロビーになった。さらにしばらく歩いて行くと,ホテルのフロントの奥まったところに,やっとハーツのカウンタが見つかった。それは,私が思い描いていたレンタカーの営業所ではなくて,それはホテルのフロントの一角を占めたハーツのカウンタなのであった。

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