しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場・47都道府県を制覇し,南天・皆既日食・オーロラ,空の3大願望を達成した「不良老人」の日記

タグ:ディープな大阪散策

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【Summary】
On July 19, 2025, after visiting the “Shōsōin THE SHOW” exhibition in Osaka, I reflected on the disparity in public infrastructure between Osaka and Nagoya, then enjoyed a superb Kyoto Symphony Orchestra concert and headed home with a station bento.

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 2025年7月19日,大阪歴史博物館で「正倉院 THE SHOW」展を見たことは前回書きましたが,大阪歴史博物館のとなりにあったのが,NHK大阪放送会館でした。何でも
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 大阪上町台地の大阪市立中央体育館跡地に建つNHK大阪放送会館と大阪歴史博物館は,大阪市の「難波宮跡と大阪城公園の連続一体化構想」の一環で,NHKと大阪市による共同プロジェクトとして建設されました。
 建物は,放送施設と博物館という異なった機能を一体化させた大型複合施設で,NHK大阪放送会館は敷地向かいの大阪市中央区馬場町から移転させ,大阪歴史博物館は大阪城公園内にあった大阪市立博物館を移転させて新たに考古資料センターの構想を統合して計画されたものです。
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 ということらしいのですが,ちょうど,NHK大阪放送会館の1階ロビーでは,大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」全国巡回展が開催されていたので,何となく足を運びました。先日,京都で見たものと同じで,小芝風花さんが収録で実際に着用した花魁の衣装くらいしか見るべきもはありませんでした。 

 さて,目的だった「正倉院 THE SHOW」展を見たので,この日はこれだけで大阪から京都に戻ることにして,梅田駅から阪急電鉄に乗りました。
 それにしても,大阪に来るたびに痛感するのですが,阪急電鉄は,駅も列車も,どうしてこうも豪華なのでしょう。梅田駅なんてすごいものです。「日本最大の大ターミナル駅」といわれるだけのことはあります。10面9線もあります。
 名古屋駅は,近畿日本鉄道の名古屋駅だけはその面影があるものの,名鉄電車は「迷鉄」と揶揄されるように,80年前の戦後そのまま,何と3面2線です。やっと,新しい駅の建設がもうすぐはじまるそうですが,その計画でも,単に4面4線になるだけのことらしいです。それでも私が生きているうちにできるかな?
 私がときどき行く愛知県芸術劇場も,ホール内部は立派かもしれませんが,それ以外は殺伐としていて,コンサートの終了時にはエスカレータはごった返し,エレベータは長い待ちができます。階段もありません。また,現在大相撲名古屋場所が開催されているIGアリーナに至っては,建物のまわりに,まるで,割り箸を突き刺したような情けない外観で,雨が降れば雨除けもなく,太陽がぎらぎら輝いても日よけもなく,長い階段は弱者に配慮されていることもなく,できた早々から顰蹙を買っているありさまです。
 どうしてこうも,名古屋というか,愛知県の行政の造る箱モノはなさけないのでしょう。ドケチで投資をしないから… なのでしょう。1,000円投資して2,000円儲ければいいものの,100円しか投資しないから150円しか儲からない,というのがこの地方です。そして,やさしさといたわりがない。文化に対するリスペクトもアカデミックさのかけらもない。愛知県立の学校もまた,ひどいものです。
 県外に行くたびに,比較すると悲しくなります。

 とまあ,いつもの感想を抱きながら,というか,嘆きながら,今回もまた,すばらしかった京都市交響楽団の定期演奏会を聴いて,京都駅で買った駅弁を楽しみながら帰路につきました。
 楽しい1日でした。

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 適塾を出て,次に行ったのが,梅田スカイビル空中庭園展望台でした。大阪の街を高いところから見てみよう,というわけです。
 今から40年以上前,はじめて大阪に行ったとき,当時は,プロ野球の球団に阪神タイガースと阪急ブレーブスが競っていました。そこで,大阪駅を降りて外に出たら,左手に阪神百貨店,右手に阪急百貨店がそびえていて,感動したものでした。私は今でもその印象が強烈なのですが,現在は,もう,高層ビルが乱立していて,よそ者にはどのビルがどんなビルなのか,訳がわかりません。先日行った天王寺駅も同じように訳がわかりませんでしたが,それと同様です。
 この国は東京をはじめとして,大阪,博多などの都会だけがどんどんと進化し,行くたびに違う姿をみせています。それに対して,地方都市は,そりゃまあ,どこも悲惨な状況です。

 念願だった適塾を見てから,北に向かってしばらく歩いていくと,そんな大阪駅に着きました。ここから地下道を通って梅田駅の北口に行くことができて,そこで地上に出て西に行くと,めざす梅田スカイビルが見えてきました。地上に出ず,そのまま地下でつながっていれば,と思いました。
 さて,私の目的地は梅田スカイビルの展望台だったのですが,その前に目についたのが地下街に行く通路でした。そこで,レストランでもあれば昼食をとろうと,とりあえず降りていくと,そこにあったのは「滝見小路」という,古き良き昭和の街並みを再現した昭和レトロ商店街でした。
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 「滝見小路」は,自然の森にある列柱滝を眺める商店街で,どこか懐かしくなぜか新しい風情を感じながら料理やお酒を堪能できます。
 稲荷神社,三輪自動車や井戸など,歩くだけでも楽しめる街並みも見どころです。
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 というところで,レストランがたくさんあったのですが,まだ時間が早くどこも開店していませんでした。まもなくレストランが開店しはじめると,すぐに長蛇の列ができはじめました。
 私は,人混みが嫌いなので,そんなところで食事をする気もなくなって,近くにあったココイチで昼食をとりました。

 さて,食事を終えて,いよいよ空中庭園展望台へ向かいました。
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 地上40階,地下2階,高さ約175.295メートルの梅田スカイビルは,1993年に完成しました。ウェスティンホテル大阪とともに新梅田シティを構成しています。
 タワーイースト,タワーウエストの2棟で構成され,その頂部を連結するように円形の空中庭園展望台が設置されていて,両棟を行ききするため,22階に連絡通路が設けられています。
 空中庭園展望台は1993年に開業しました。超高層ビルの展望台は屋上に設置されているので,360度の視界と全天を風を感じながら展望を楽しむことができます。
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 聞いてみたら,大阪市には,梅田スカイビル空中庭園展望台よりも100メートル以上高い,高さ287.6メートルのあべのハルカスの60階に位置するハルカス300という天上回廊があるということでした。こちらはフロア全体にガラスを配した屋内回廊だそうです。私は行ったことがないので,今度行ってみよう。

 エレベーター,エスカレーターと乗り継いで,空中庭園展望台に出て,景観を楽しみました。
 私も海外に行くと,まず,高いところからその町を一望してみたいと思うわけで,それと同じように,ここもまた海外からの来訪者がたくさんいました。
 ふたり連れの場合,ふたりが入った写真を撮るのに苦労していることも少なくなく,そんなとき,声をかけてあげると,とても喜ぶので,ここでも,そうしていたふたり組の女性に声をかけて,写真を撮ってあげました。どこから来たかと聞くと,彼女たちはアメリカから来たと言っていました。アメリカ人というのは,意外なことにけっこう珍しく,アメリカ人の話す英語を久しぶりに聞いて,また,アメリカに行ってみたくなったことでした。
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 梅田スカイビル空中庭園展望台を堪能してから,地上に降りて,そのまま南へ向かって歩き,大阪中之島美術館で開催されていた「醍醐寺展」を見てから,フェスティバルホールでの演奏会へ行きました。

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 2024年6月30日に,大阪のフェスティバルホールで,井上道義指揮NHK交響楽団の演奏会を聴いたことは,すでに書きました。
 せっかく大阪に行くのだから,午後4時からの演奏会の前にどこかへ行ってみようと,岐阜羽島駅から「こだま」の自由席で新大阪駅に着いたのは,まだ,早朝8時過ぎでした。
 今回,私がぜひ行きたかったのは適塾でした。
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 適塾(てきじゅく)は,正式名称を緒方洪庵の号である「適々斎」を由来とする適々斎塾(てきてきさいじゅく),別称を適々塾(てきてきじゅく)といい,緒方洪庵が江戸時代後期1838年(天保9年)に大坂船場に開いた蘭学の私塾で,幕末から明治維新にかけて,福澤諭吉,大村益次郎,箕作秋坪,佐野常民,高峰譲吉など多くの名士を輩出しました。現在の大阪大学医学部の前身です。
 適塾は現存し,わが国唯一の蘭学塾の遺構として,また,江戸末期の大阪の船場町屋の遺構としても貴重なものとして,1976年(昭和51年)から実質5年を掛けて解体修理を行い,修復を機に広く一般に公開しています。
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 私が適塾を知ったのは,1977年に放送されたNHK大河ドラマ「花神」でした。
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 一人の男がいる。
 歴史が彼を必要とした時,忽然として現れ,その使命が終ると,大急ぎで去った。
 もし,維新というものが正義であるとすれば,彼の役目は,津々浦々の枯れ木にその花を咲かせてまわることであった。
 中国では「花咲じじい」のことを「花神」という。
 彼は「花神」の仕事を背負ったのかもしれない。
 彼,村田蔵六。のちの大村益次郎である。
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からはじまるこのドラマは傑作でした。
 「花神」は,周防の村医者から倒幕司令官に,明治新政府では兵部大輔にまで登りつめた日本近代軍制の創始者・大村益次郎を中心に,松下村塾の吉田松陰や奇兵隊の高杉晋作といった,維新回天の原動力となった若者たちを豪快に描いた青春群像劇で,司馬遼太郎さんの小説「花神」「世に棲む日日」「十一番目の志士」「峠」「酔って候」から「伊達の黒船」といった作品を脚本家の大野靖子がドラマ化したものです。
 第1回は,長州の村医者出身の村田蔵六が蘭学修行のため大阪にある緒方洪庵の「適塾」の門を叩くところからはじまります。好学家で優秀だった村田蔵六は,特段野心があるわけでなかったのですが,時代がそれを許さず,技術者,そして軍人として故郷長州の動乱に巻き込まれていくのです。

 私は,かつて一度,適塾を訪れたことがありますが,あまり記憶がありません。
 公開されていなかった,と書いたブログもあり,入れなかった,という人もありますが,それがいつのことだったのか忘れましたが,私は内部も見学できました。その後,私も歳をとり,少しは知識も増したので,もう一度行ってみようと,数年前,大阪に行った折りに訪ねてみましたが,そのときは改装中で公開されていなかったので,今回,ぜひ,と思っていました。
 この日は,改装されて新しくなった建物に入ることができました。そして,感激しました。歳をとって涙腺の緩くなった私は,この時代の若者の姿をイメージするだけで泣けてくるのです。
 司馬遼太郎さんの小説「花神」に「蔵六は,塾のものとはあまりつきあいをしない。彼は物干し台が好きであった」と描かれている物干し台も現存し,緒方洪庵の像の背後に見ることができます。

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 2023年10月16日,京都ホテルオークラで行われた第36期将棋竜王戦第2局の前夜祭に出席して,その日は四条大宮の東横インに泊りました。その翌日のことです。
 25年ほど前の10月の京都は紅葉には早く,観光客は少なく,静かでとてもよいところでした。しかし,今は,コロナ禍以降でインバウンドが再び復活して,どこも外国人だらけになってしまい,とはいえ,落ち着いた観光客なら許せるのですが,我がモノ顔で京都の街中を闊歩する姿は本当に嫌なものです。日本の歴史や文化を知る人もほとんどいません。単に観光地で群れているだけです。そんなわけで,私の好きだった京都はどこにもなくなってしまいました。そこで,京都を観光するのはやめて,これまでずっと行きたかった司馬遼太郎記念館に行くことにしました。

 今の若い人はどうなのでしょう? 司馬遼太郎さんを知っているのでしょうか?
 司馬遼太郎さんは,私の亡くなった父親より数年歳をとっていて,私は,大学生のころ,いつも,なんらかの司馬作品を読んでいました。そのころは,こうした作品を書く作家の存在は当たり前だと思っていたのですが,今考えると,司馬遼太郎さんがいなければ,坂本龍馬が今のように有名だったかどうかもわからないし,私たちが知っている戦国時代や明治維新とは違ったイメージをもっていたのかもしれません。
 以前書いたように,「街道を行く」に書かれていた日本全国に根差す多くの歴史は,私が今になって旅をしてようやく理解できたものですが,それを,私が気づくよりもっと若いころにすでに理解し,解釈して作品として世に残していたということが,どれだけすごかったかということをやっとわかってきたのでした。

 司馬遼太郎記念館は,そんな司馬遼太郎さんが生前暮らしていた場所にあります。場所は,東大阪市で,近鉄の奈良線の河内小阪駅が最寄りの駅だとGoogleMapsがいうので,それに従って降りました。駅前には「司馬遼太郎記念館」と書かれたアーケードがあったので,興奮しました。しかし,河内小阪駅からは歩いて15分以上あって,実際は,その東の八戸ノ里駅からのほうがずっと近いのでした。そんなわけで,四条大宮駅からは行くのがけっこう大変なところでした。
 司馬遼太郎記念館は静かな住宅街にあって,庭には多くの木々があり,まるで,山荘のようなところでした。庭から書斎を窓越しに見ることができました。また,残されていた書籍が4万冊以上ということで,その多くが,現在,ここに保存されているのですが,その迫力と言ったら,すごいものでした。
 庭に咲くキンモクセイの香りが,この偉大な作家のイメージと重なって,幸せな空間となっていました。

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 もういちど繰り返そう。
 さきに私は自己を確立せよ,と言っ た。自分には厳しく,あいてにはやさしく,とも言った。それらを訓練せよ,とも言った。それらを訓練することで,自己が確立されていく。そして,”たのもしい君たち”になっていく。
 以上のことは,いつの時代になっても,人間が生きていくうえで,欠かすことができない心がまえというものである。
 君たち。君たちはつねに晴れ上がった空のように,たかだかとした心を持たねばならない。 同時に,ずっしりとたくましい足どりで,大地をふみしめつつ歩かねばならない。
 私は,君たちの心の中の最も美しいものを見続けながら,以上のことを書いた。 書き終わって,君たちの未来が,真夏の太陽のようにかがやいているように感じた。
  「21世紀に生きる君たちへ」司馬遼太郎
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 京都の四条大宮に宿泊した私は,翌日,司馬遼太郎記念館に行くために,大宮駅から大阪梅田駅行きの阪急電車に乗りました。司馬遼太郎記念館は,途中の淡路駅で乗り換えて,大阪地下鉄堺筋線で日本橋まで行き,さらに,近鉄の奈良線に乗り換える必要があるというように,結構不便なのでした。
 しかし,朝6時過ぎにホテルをチェックアウトしたので,司馬遼太郎記念館の開館時刻である午前10時までには時間はたっぷりあったので,大阪梅田駅に行く途中の高槻駅で途中下車しました。
 高槻市は,来年に日本将棋連盟の関西本部が移転するということで,近ごろは話題となっていますが,私は高槻市というのは,戦国時代に高山右近が統治してていたところということで,それ以前から名前を知っていたので,一度どんなところか行ってみたかったのです。

 何も考えずにやってきたのですが,阪急電車の高槻駅はJRの高槻駅とは少し離れていました。日本将棋連盟の関西本部が移転する場所はJR高槻駅の近くだと聞いていたので,阪急電車の高槻駅からJRの高槻駅まで歩くことにしました。駅前にあった地図で確認すると,そこからさらに歩いて高槻城跡を見てくれば,阪急電車の高槻駅に戻るという散策をすることができるようでしたので,そうすることにしました。
 日本将棋連盟の関西本部はJR高槻駅のすぐ近くにできるという以上のことは知りませんでした。歩いていれば見つかるだろう,それに,高槻市の市バスに将棋のアニメが描かれているものがあるということだったので,運がよければ見ることができるかな,とも思いました。そして,JRの駅前で遭遇しました。
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  武家屋敷が広がっていた高槻城三の丸跡から,江戸時代の小将棋や中将棋の駒が多数発掘されていて,初代高槻藩主・永井直清は文化に造詣が深いこともあって,古くからこの地では広く将棋がたしなまれていたことがうかがえます。 また,1892年(明治25年)生まれの中井捨吉八段にはじまり,現在でも,福崎文吾九段,浦野真彦八段,長沼洋八段,伊奈祐介七段などが高槻市出身だそうです。
 そこで,1年後の2024年の秋に,高槻市を「将棋の聖地」として,関西将棋会館を高槻市に移転するということになりました。
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 JR高槻駅前は大きな新しいビルが立ち並んでいて,こんなところに空き地があるのかな? と思いながらさらに歩いて行くと,建設中の場所に着きました。どうらやここに将棋会館が作られるようです。本当に駅から近く,とても便利なところ。よくこんな場所が空いていたものです。新しく開館したら,また,来てみたいと思いました。

 さて,次に行ったのが,高槻城跡でした。高山城跡は,現在,再開発されていて,公園が整備されていました。高槻藩,江戸時代の殿様は,紆余曲折の後,最後は永井氏が治めたのですが,この地は,今も高山右近が愛されているように感じました。
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 高山右近は,1552年(天文21年)かその翌年に生まれ,1615年(慶長20年)に亡くなった武将で,代表的なキリシタン大名として知られました。
 父の高山友照は三好長慶に仕え,大和国宇陀郡の沢城(現在の宇陀市榛原)を居城としていましたが,三好長慶が没すると三好氏は衰退し,1568年(永禄11年)に足利義昭が室町幕府15代将軍となったころには,和田惟政が高槻城に入り,高山父子は和田惟政に仕えることとなりました。
 1571年(元亀2年)に和田惟政が荒木村重に敗れて討死したのちは,子の和田惟長が城主となり,高山父子は相談役となりましたが,これを良く思わない和田家臣たちが和田惟長に高山親子の暗殺を企てたことで,ついに,1573年(元亀4年)に和田惟長らと斬り合いになり,敗れた和田惟長は生国・近江国甲賀郡へ逃れましたが,同地で死亡。この後,高山父子は荒木村重の支配下に入り,高槻城主となりました。
 1582年(天正10年)本能寺の変で信長が没すると,高山右近は羽柴秀吉の幕下にかけつけ,山崎の戦いでは先鋒を務め,明智光秀を敗走させたことでその功を認められて加増されましたが,バテレン追放令が秀吉によって施行されると,キリシタンであった高山右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産を全て捨てることを選び,天正16年(1588年)に前田利家に預けられて加賀国金沢に赴きました。さらに,1614年(慶長19年)に加賀で暮らしていた高山右近は,徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて,加賀を退去し,長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに渡ったのですが,老齢の高山右近は病を得て,翌年に息を引き取りました。
 1962年,高槻天主教会堂跡の近くに,高山右近臨終の地であるフィリピン・マニラ郊外アンティポロにある聖母大聖堂を模して建てられたカトリック高槻教会の新聖堂があって,高山右近記念聖堂と命名されています。
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 高槻藩は,高山右近が大名の地位を追われたのちは,新庄直頼,内藤信正,土岐定義,松平家信,岡部宣勝,そして,松平康信が入るというように,藩主が短期間で変わり安定しなかったのですが,最終的に,山城長岡藩より永井直清が入ってようやく藩主が定着し,永井氏13代の支配を経て明治時代を迎えました。
 高槻市は大阪市のベットタウンなのでしょう。JRも阪急電車も高槻駅は通勤,通学の人で一杯でした。歴史をリスペクトする,きれいな,なかなかいい町だなあと思いました。

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