しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:ディープな東京散策

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【Summary】
Walking along Nakanocho Street, I visited Yoshiwara Shrine, a guardian of the Yoshiwara red-light district, and nearby landmarks like Hanazono Park and Yoshiwara Benzaiten. I explored Kasutori Shobo, a bookstore specializing in red-light district history, and saw cultural spots like Doteno Iseya and Nakaya. Finally, I visited Hiraga Gennai's grave and learned about his achievements.

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 仲之町通りを南西に歩いてくと,左手に吉原神社があります。吉原神社は吉原遊廓を守護していた氏神様で,6つの神さまをお祀りしています。
 かつて,吉原遊廓には入口と四隅に稲荷社が祀られ遊廓を守護していましたが,1881年(明治14年)にその5つの稲荷神社を合祀して誕生しました。当初は遊廓入口の旧吉徳稲荷社境内に祀られていましたが,1934年(昭和9年)に現在地に移転しました。
 吉原神社を右手に見て進むと,台東病院のところで道路が南方向にカーブするのですが,そこにあるのが花園公園です。この日,花園公園では「江戸の華まつり」と題したお祭り行われていました。午前11時から午後4時までの開催で「観る,聴く,創る,遊ぶ,食す」を楽しめる江戸の魅力を体験できるイベント,ということです。

 さらに行くと,左手(東側)の飛地境内地に吉原神社の境外末社として吉原弁財天があります。
 吉原弁財天は明治期に創建された神社で,1935年(昭和10年)に吉原神社御本社に合祀されました。 境内には,1957年(昭和32年)の売春防止法の施行で幕を閉じた吉原遊廓の歴史を永く伝えるため,1960年(昭和35年)に建立された「花吉原名残碑」という石碑があって,多くの観光客でにぎわっていました。
 吉原弁財天から道路を隔てた反対側(西側)にあるビルの1階に「カストリ書房」があります。
 「カストリ書房」は遊廓専門の書店です。店主の渡辺豪さんは,2010年(平成22年)ごろに遊廓に興味をもつようになり,12年間にわたって趣味として遊廓の調査を行い,「全国女性街ガイド」の復刻などを目的として2015年(平成27年)に「カストリ出版」を設立,2016年(平成28年)に吉原大門の跡地近くに「カストリ書房」を開店したそうです。そして,2023年(令和5年)に現在の場所に移転しました。
 少しの時間,店内に入ってみました。

 私は,ここまで来て,再び,仲之町通りを引き返しました。それは,エレキテルで有名な平賀源内の墓に行ってみようと思ったからです。
 土手通りまで戻って,左折すると,飛び込んでくるのが,「土手の伊勢屋」とそのとなりの「桜なべの中江」という店です。
 「土手の伊勢屋」は天丼を主商品にしている店で,1889年(明治22年)創業。昭和初期に建てられた木造の2階建ての店舗は登録有形文化財に登録されているそうです。いつも行列ができているので,私は,まだ,入ったことがありません。
 「桜なべの中江」は馬肉料理専門の老舗レストランです。店舗は1924年(大正13年)築100年になる登録有形文化財です。

 私は,そこを通り過ぎて,日の出会商店街から東に歩いてきました。
 平賀源内の墓は明治通りを隅田川に架かる白髭橋まで行く手前にあります。平賀源内の墓のある場所は入り口の門が閉ざされていましたが,説明書きを読むと,門を開けて中に入ってもよいことがわかりました。
 エレキテル(摩擦起電機)を復元製作したことで知られる平賀源内は,1728年(享保13年)現在の香川県志度町に生まれました。実名は国倫。本草学,医学,儒学,絵画を学び,物産開発に尽力しました。
 1779年(安永8年)誤って殺傷事件を起こし,小伝馬町の牢内で病死し,遺体は橋場の総泉寺に葬られました。総泉寺は1928年(昭和3年)に板橋区小豆沢へ移転しましたが,平賀源内の墓はそのまま残され保存されました。

 こうして,今回,大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」ゆかりの地を何となく楽しく歩いたのですが,浅草の台東区民会館にできるという大河ドラマ館は2月1日オープンということだったので,今回は行くことができませんでした。

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DSC_0457IMG_5600吉原細見‗平賀源内の序文(1775年)一目千本

【Summary】
The bustling Nakanocho Street, transformed by the taiga drama "Berabo," now attracts tourists, including families and women. On its opening day, I visited Kosho-do, a shop modeled after Tsutaya Juzaburo's Edo-period bookstore in Yoshiwara, offering local souvenirs and illuminated ukiyo-e displays at night.

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 お歯黒どぶのあったところを1周して吉原大門に戻りました。次は,仲乃町通りを南西に向けて歩きます。
 大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の影響で,女性のグループやら,さらには子供連れの夫婦などが歩き回っていたりと,従来と雰囲気が変わっていました。こりゃ,観光地だな,と思いました。風俗店の入り口に立っていた黒服さんに「観光地になっちゃったねえ」と話しかけてみると,「ちょっと迷惑しているんですよ」と返答されました。
 私は,日本国内に限らず,海外でも,いかなるところであろうと,それこそが人間社会の現実の姿だと思っているのですが,そこに差別感をもっている人も少なくないようです。しかし,どんな場所でも,そこで人生を過ごす人があり,そうした人から目を背けてはいけません。

 と思いながら,京町通りの交差点を過ぎると,左側に「耕書堂」(こうしょどう)という看板を掲げた店があって,賑わっていました。店内に入ると,若い女性も多くいました。
  ・・・・・・
 「耕書堂」は,江戸時代に版元として活躍した蔦屋重三郎の屋号で,この店は,蔦屋重三郎が吉原大門前に開業した「耕書堂」を模した施設として,吉原に特化した観光案内や土産品の販売などを行います。また,夜間はシャッターに描かれた浮世絵をライトアップしています。
  ・・・・・・
ということですが,私が訪れた日がまさに開店した日だったようです。
  ・・・・・・
 蔦屋重三郎は吉原で産まれたとされています。石川雅望が撰した「喜多川柯理墓碣銘」や大田南畝が浅草正法寺に建てた実母顕彰碑文によれば,父は尾張の丸山重助,母は津与といいました。蔦屋重三郎の本名は柯理(からまる)で,7歳の時に母と別れて蔦屋を経営していた喜多川氏の養子となりました。
 1773年(安永2年)に,五十間道に面した蔦屋次郎兵衛店を間借りし,「書肆耕書堂」(しょしこうしょどう)を営むようになり,吉原細見「這婥観玉盤」(このふみづき)の卸しや,小売りをはじめました。1775年(安永4年)には,福門鬼外(ふくちきがい=平賀源内)戯作の序文を載せた,自ら「籬の花」(まがきのはな)と題した吉原細見の刊行をはじめ,さらに「一目千本」を刊行しました。
 1783年(天明3年)に,日本橋大伝馬町に店を移し,「耕書堂」という地本問屋に発展させました。
  ・・・・・・

 なお,福門鬼外戯作の序文は次のとおりです。
  ・・・・・・
 女衒,女を見るに法あり。
 一に目,二に鼻筋,三に口,四にはえぎわ,ついで肌は歯は… となるそうで,吉原は女をそりゃ念入りに選びます。
 とはいえ,牙あるものは角なく,柳の緑には花なく,知恵のあるは醜く,美しいのに馬鹿あり,静かな者は張りがなく,賑やかな者はおきゃんだ。
 何もかも揃った女なんて,ま,いない。それどこか,とんでもねぇのもいやがんだ。
 骨太に毛むくじゃら,猪首,獅子鼻,棚尻の虫食栗。
 ところがよ!
 引け四つ木戸の閉まる頃,これがみな誰かのいい人ってな,摩訶不思議。世間ってなぁ,まぁ広い。 繁盛繁盛,ああお江戸
  ・・
 女衒(=ぜげん 遊女のスカウト)には独特の基準があるそうで。
 まず見るのは目,次に鼻筋,口元,髪の生え際,そして肌の質感や歯並びと続くんだとか。とにかく吉原では女性を慎重に,念入りに選んでいる。
 とはいえ,完璧な人なんてそうそういないもの。牙のある獣には角がない,柳のようにしなやかな人には花がない,賢い人は美人じゃない,美人にはちょっとおバカなところがある,静かな人は地味だし,賑やかな人は品が足りない。
 こんな具合に,みんな一長一短がある。それどころか,明らかに外れだなぁと思う人もいる。
 骨太で毛深い,首が短い,鼻が大きい,お尻が平らで虫食いの栗みたい,みたいな。
 ところがだ!
 吉原の四つ木戸が閉まるころには,そういう女性たちもみんな誰かのお気に入りになっているという。いやぁ,世の中って広いもんだなぁ。だから今日も吉原は繁盛,繁盛! ああ,これぞお江戸。
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【Summary】
The streets of Senzoku 4-chome, the former Yoshiwara pleasure district, are uniquely tilted northwest to avoid north-facing arrangements. Walking along the historical roads that follow the old "Ohaguro-dobu" moat route, the area retains its Edo-era street names, such as Edomachi, Agemachi, and Kyomachi. Established in 1617 near Nihonbashi, Yoshiwara moved to its current location as "Shin-Yoshiwara," carrying its original town names. Now, with modern establishments and traces of its past, exploring the area is best in the quiet morning, though it becomes lively with black Alphard vans ferrying customers. Banners proclaiming “A refined town alive with Tsutaya Jūzaburō’s dreams” line Nakanocho Street.

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 地図を見ると,江戸時代吉原遊郭のあった現在の千束4丁目あたりの区画が他の地域と異なっていて,北西に傾いているのがわかります。これは,北枕を避けるためということです。まず,吉原大門から反時計回りに現在は埋め立てられて道路になっているお歯黒どぶのあったところを1周してみました。
 道路の交差するところに,道路の名前が書かれ粋な形の柱があります。これらを順に写真に収めながら,古地図と現在の地図と照らし合わせてみます。
 北側のお歯黒どぶのあった道路は一段低くなっていて,どこも千束4丁目に入るところで坂となっています。道路は,順に,江戸町通り,揚屋通り,京町通りとなり,京町通りを今度は,南東に向って歩いていくと,南側の端,花園通りに至ります。今度は,花園通りを北東に歩いていくと,逆に,京町通り,角屋通り,江戸町通りとあって,左折して北西に進むと吉原大門に戻ります。

 1617年(元和3年),江戸幕府は日本橋葺屋町東側に,江戸で唯一の遊郭開設を許可しました(旧吉原)。翌年営業を開始した遊郭は,葭の茂るところを埋め立てて造ったことから、「葭原」(よしわら)とよばれましたが,1626年(寛永3年)に縁起のいい文字にかえて吉原となりました。
 日本橋に開設されたころの吉原は,江戸町一丁目,江戸町二丁目,京町一丁目,京町二丁目,角町の5か町でしたが, 吉原が新吉原へ移転する際に,町名もそのまま引っ越し,さらに,それまで各町にあったいくつかの揚屋を1か所にまとめたときに揚屋町ができました。
 江戸時代と変わらぬその地名に,ちょっと感動します。
 現在,この場所には,今も140軒ほどの風俗店や,そこで働いている人たちの住むホテル,駐車場などがあります。この場所を歴史散策するのは,まだ静寂の残る午前中がいいのですが,この日は少し遅く,さらに土曜日だったので,すでに町は活動をはじめていて,それぞれの店に通うお客さんの送迎に使う黒いミニバン -なぜかそのほどんどは「アルファード」なのですが- が行き交いはじめていました。

 次は,吉原大門から仲乃町通りを突き抜けます。道路際には,「蔦重の夢が息づく粋な町」という幟が並んでいました。

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【Summary】
Higuchi Ichiyo’s Takekurabe portrays life in Yoshiwara, highlighting the vibrant yet transient nature of the pleasure district. It depicts scenes like bustling crowds near Omon, lively festivities, rundown tenements, and preparations for selling kumade (bamboo rakes) for the Tori-no-Ichi festival at Mishima Shrine.

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 NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の舞台である新吉原とよばれた吉原遊廓は,江戸幕府によって公認された江戸の遊廓です。当初は末廣神社あたり現在の中央区日本橋人形町にあり(旧吉原),1657年に起きた明暦の大火後、浅草寺裏の当時日本堤とよばれた現在の台東区千束に移転しました(新吉原)。
 吉原大門から南西にのびるのが吉原遊郭のメインストリートだった仲之町通りです。
 まず,吉原大門から吉原遊郭だった場所の周りを歩いてみました。
 吉原遊郭は横が約330メートル,奥行きが約250メートル弱の四角い形をしていて,かつて,周りは5メートル以上も幅がある堀が張り巡らされていました。これは遊女の逃亡を防ぐために設けたもので,遊女たちが使ったお歯黒の汁を捨てたところから「お歯黒どぶ」とよばれました。
 現在,「お歯黒どぶ」の遺構はほとんどないのですが,道の片側のみが高くなっているのはわかります。また,吉原公園は,公園側だけが一段と高くなっていて,その近くにあるマンションの階段の右端に石垣の一部分が存在していました。

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 廻れば大門の見返り柳いと長けれど,お齒ぐろ溝に燈火うつる三階の騷ぎも手に取る如く,明けくれなしの車の行來にはかり知られぬ全盛をうらなひて,大音寺前と名は佛くさけれど,さりとは陽氣の町と住みたる人の申き,三嶋神社の角をまがりてより是れぞと見ゆる大厦もなく,かたぶく軒端の十軒長屋二十軒長や,商ひはかつふつ利かぬ處とて半さしたる雨戸の外に,あやしき形に紙を切りなして,胡粉ぬりくり彩色のある田樂みるやう,裏にはりたる串のさまもをかし,一軒ならず二軒ならず,朝日に干して夕日に仕舞ふ手當こと/″\しく,一家内これにかゝりて夫れは何ぞと問ふに,知らずや霜月酉の日例の神社に欲深樣のかつぎ給ふ是れぞ熊手の下ごしらへといふ,
    樋口一葉「たけくらべ」
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【Summary】
On January 18, 2025, I explored locations related to the NHK Taiga drama Berabou. Starting from Asakusa, I visited Shohoji Temple, where Tsutaya Juzaburo is buried, then walked along Dote Street to the Yoshiwara Omon gate, passing Sanyabori, a historic Edo-era canal known for its picturesque summer scenery. At Sanyabori Park, I found a haiku monument by Masaoka Shiki depicting the bustling canal traffic. Near the Mikairi Yanagi (Willow of Regret), I reflected on its history as a spot where visitors to Yoshiwara bid farewell. Finally, I walked the winding Goju-kenmichi road to Yoshiwara Omon, rich with historical anecdotes.

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 2025年1月18日,NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」ゆかりのところを歩いています。
 まず,浅草から蔦屋重三郎の眠る誠向山正法寺に行き,そのあと,土手通りを吉原大門に向けて進んでいくと,途中にあったのが,山谷堀(さんやぼり)でした。山谷堀は,江戸の名所として「よろず吉原,山谷堀」と歌われた場所で,夏の夕方は絵のように美しかったといいます。
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 山谷堀は,かつてあった東京の水路です。江戸初期,荒川(現在の隅田川)の氾濫を防ぐために箕輪(三ノ輪)から大川(隅田川)への出入口である今戸まで造られました。現在は埋め立てられて,日本堤から隅田川入口までの約700メートルが山谷堀公園として整備されています。
 江戸時代,吉原遊郭への水上路として,隅田川から遊郭入口の大門近くまで猪牙舟が遊客を乗せて行き来し,吉原通いを「山谷通い」ともいいました。船での吉原行きは陸路よりも優雅で粋とされました。
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 山谷堀公園には正岡子規の句碑がありました。
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  牡丹載せて 今戸へ歸る 小舟かな
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 たくさんの人や荷物を載せて賑わい,忙しく行き来していた吉原への舟路の風景が詠まれた句です。

 やがて,仲之町通りとの交差点に到着しました。そこにあるのが見返り柳(みかえりやなぎ)です。
 このあたりが衣紋坂。衣紋坂は遊客の衣紋を直す所でした。また,見返り柳は逆に吉原から帰る客が,名残り惜しさにここまで来て見返るところでした。1757年(宝暦7年)に発行された「吉原細見」の序文に「出口の柳」と書かれていて,これがのちに見返り柳とよばれるようになったといいます。
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  衣紋坂 たびたび下りて 左前
  もてた奴 ばかり見返る 柳なり
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 この交差点を左にまわります。
 江戸時代,江戸市中から吉原遊郭へ向かうには,いったん日本堤に出て廓へ入ることになっていました。日本堤から唯一の出入口である吉原大門までは「五十間道」(50間は約90.9メートル)といわれました。五十間道はわざと道が三曲がりに造られていましたが,それは,将軍が鷹狩に御成のとき日本堤から大門が見えては畏れ多いとあっての配慮だと伝えられるそうです。
 五十間道を進むと,吉原大門に至ります。

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【Summary】
In January 2025, the user visited Tokyo to attend an NHK Symphony Orchestra concert and explored locations related to NHK's Taiga drama Berabo: Tsutaya Jūzaburō’s Dream of Glory. The drama, set in Edo's flourishing 18th-century culture, depicts the life of Tsutaya Jūzaburō, a prominent publisher. The user visited Jūzaburō’s grave at Seikōzan Shōbōji Temple in Taitō-ku, where a memorial stands, replacing the original lost to disasters.

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 2025年1月18日,NHK交響楽団定期公演Aプログラムを聴きに東京へ行った折り,昼はNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」ゆかりのところへ行き,夜は定期公演を聴いたのち,翌日1月18日から1泊2日で伊豆半島を旅することにしました。
 昨年のNHK大河ドラマ「光る君へ」がとても興味深いドラマだったので,さて,今回はどうか? と思っていたのですが,心配を裏切り,とてもおもしろいドラマでした。時代はまったく違えども,描いている人間の本質というテーマはよく似ていると私は思います。
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 2025年(令和7年)は,日本でラジオ放送が始まってからちょうど100年を迎える節目の年。その記念すべき年に,江戸時代の浮世絵版元(出版人)として知られる蔦屋重三郎を主題にした「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」を放送します。
 蔦屋重三郎が生きた18世紀半ばの江戸時代は町民文化が花開いた時代。人口が100万人を超える大都市・江戸を舞台に「江戸のメディア王」として一世を風靡した蔦屋重三郎の生涯が描かれます。
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ということで,あらすじは
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 吉原の貧しい庶民の子として生まれた蔦屋重三郎は引手茶屋の養子になり,その後,吉原大門前に書店「耕書堂」を開き,書籍の編集・出版業を開始。蔦屋重三郎は数多くの文化人と交流を重ね、ヒット作を次々に出版。33歳にして「江戸のメディア王」に成り上がっていきます。
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 まずは,主人公・蔦屋重三郎の墓を目指すことにしました。
 調べてみると,墓があるのは,台東区東浅草にある誠向山正法寺でした。そこで,JR品川駅で新幹線を降り,京急電鉄に乗り換えて浅草駅まで行きました。少し距離がありますが,ここから歩くことにしました。
 インバウンドでごった返す浅草には用はなく,少し離れると,観光客は皆無になりました。感じのよい喫茶店があったので中に入って昼食をとったあと,誠向山正法寺に向かいました。
 誠向山正法寺に蔦屋重三郎は眠っていますが,元の墓石は火災,震災,空襲によって失われてしまい,現在あるのは新たに建てられた蔦屋重三郎とその母の顕彰碑と蔦屋家(喜多川家)の墓ということで,公開されているのか不明だったのですが,ちゃんと案内がありました。
 来ていた人はいませんでしたが,途中で女性がひとりやってきました。さすがにドラマがはじまったばかりで,まだ墓を訪ねる人は多くないのでしょう。

 上蓮華つきの和型墓石の竿石に「幽玄院義山日盛信士」という蔦屋重三郎の戒名が刻まれていました。また,墓碑に刻まれた「喜多川柯理墓碣銘」は,蔦屋重三郎と同じ時代を生きた国学者・石川雅望(いしかわまさもち)と大田南畝(おおたなんぽ)によるもので,蔦屋重三郎の生い立ちから最期までとともに,蔦屋重三郎の人柄も漢文でかかれてあります。
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  為人志気英邁 不修細節 接人以信
  その人となりは志人格才知に優れ 小さな事を気にもかけず 人には信頼をもって接した
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 さらに,石川雅望の気持ちが
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  予居相隔十里 聞此訃音心怵神驚 豈不悲痛哉
  自分は十里を離れたところに居て 訃報を聞き畏れの心と共に心底驚いた 悲痛の極みである
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とありました。

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【Summary】
In December 2024, I attended an NHK Symphony Orchestra concert and visited the newly relocated Nikon Museum in the morning, followed by enjoying the autumn leaves at Shinjuku Gyoen.

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 2024年11月30日。今月,というか12月のNHK交響楽団定期公演に行きました。この日はとてもよい天気だったので,東京に来る新幹線からはきれいな富士山を見ることができました。
 いつものように,演奏会は夜なので,午前中は,東京や東京近郊のこれまで行ったことがあまりないところを散策するつもりで,いろいろ考えました。そこで思い出したのが,新たに移転して再開したニコンミュージアムでした。
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 ニコンミュージアムは,2024年にニコン新本社ビルのある港区港南の品川インターシティC棟に移転したニコン製品の博物館で,ニコンの歴代カメラをはじめ,顕微鏡,測定機,半導体露光装置などを展示しています。
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 私はJR大井町駅から「光学通り」という,ニコンがまだ日本光学工業という名前の時代に名づけられた道を歩いて行ったのですが,実際は,JR西大井駅からのほうがすっと近い場所にありました。

 新しいニコンミュージアムは今までの品川駅近くにあったものよりも広く,天体望遠鏡なども展示されていました。ニコンという会社は,製品の発売ペースは他のカメラメーカーよりもゆっくりなのですが,それは,逆に1台1台がていねいに開発されているということから,そのほとんどが記憶に残るものなので,こうした博物館にそれらが展示されていると,すべて,懐かしい気持ちがします。また,そのどの機種もそれぞれ個性があり,矜持のかたまりとなっているので,どれだけ見ていても見飽きることもなく惚れぼれします。「ニコン党員」とよばれる,または,揶揄されるニコンファンの間では,ここを訪れることを「ミュージアム詣で」とよんでいるとか。
 一時,ミラーレスカメラの台頭で売れ行きが落ち,将来が危ぶまれたニコンでしたが,その後,Z9,Z8と立て続けに傑作を発売して,すっかり立ち直りました。会社の遺伝子というのは変わるものではなく,こうした会社の堅実さが欠点でもあり長所でもあります。

 ニコンミュージアムを見た後は,銀座にあるライカギャラリー東京へ行って,中井精也の写真展 「ライカと、てつたび。」 を見ました。
 そのあと,新宿御苑に行って,紅葉と黄葉を堪能しました。東京はとても人が多く,落ち着くことができるところも少ないのですが,新宿御苑は,人が多いとはいえ,広いので,それなりにくつろぐことができました。

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【Summary】
I traveled to Akita Prefecture from October 17-19, 2024. Returning to Tokyo early due to rain, I visited the newly opened Tokyo Shogi Kaikan in Sendagaya. At the "Ki no Ne" café, I enjoyed curry and coffee, including a signature blend supervised by Yasumitsu Sato. The café was bustling, but its future popularity depends on creative ideas.

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 2024年10月17日から10月19日まで秋田県へ旅行しました。10月19日は,午後4時過ぎに東京駅に戻る予定でしたが,秋田県が雨だったので予定を変更したので,午前12時過ぎに東京駅に着きました。そこで,NHK交響楽団の定期公演の時間まで何をするかと考えて,新装なった日本将棋連盟の東京・将棋会館を見てくることにしました。
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 それまでの将棋会館は,1961年に建築された木造2階建ての建物だったといいます。
 その次が,1976年に建設された東京・千駄ヶ谷にある地上5階,地下1階の将棋会館です。開館から40年が経過し,老朽化が目立ち,また,耐震性の問題から,将棋会館をヒューリックに売却し,新たに,ヒューリックが所有する千駄ヶ谷センタービルの1階に移転することになりました。
 それが新しい将棋会館です。
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 新しい将棋会館は千駄ヶ谷駅の駅前にあって,東京体育館と道を隔てた場所で,2024年9月に竣工しました。棋士が対局するのは奥の部分で,来年の1月に運用がはじまるそうです。また,通りに面した部分には「棋の音」(きのね)というショップとカフェと,その奥に将棋道場ががあり,10月1日にオープンしました。今回,「棋の音」カフェに行って,様子見を兼ねて,昼食をとることにしたのです。

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 フードの目玉は勝負めしの定番であるカレーです。新宿中村屋監修のカレーソースを使用した本格的なカレーを中心に4種類のメニューを用意しています。
 また,シグネチャーメニューのひとつであるブレンドコーヒーは,コーヒー好きとして知られる佐藤康光九段が監修した「康光ブレンド珈琲」で,棋の音マグカップで提供されます。また,棋の音カフェならではのメニューとして,棋士の画像がプリントされている「ここでしか飲めない」特別なカプチーノを販売します。10月は羽生善治会長の写真がプリントされています。
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 ということで,カレーとコーヒーを注文しました。
 何せ,場所がいいことと,新しいということから,多くの人でにぎわっていましたが,何とか席を確保し,昼食をとることができました。今は新しいということと,藤井聡太人気があるので,こういった状況ですが,この先も賑わいが続くかはアイデア次第でしょう。
 「棋の音」は,クラウドファンディングの剰余金で作られることになったということですが,ちょっと狭いのが難点でした。

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【Summary】
After visiting Tokiwa-so, I went to Fukagawa Edo Museum and Kiyosumi Garden via Kiyosumi-Shirakawa Station. At the museum, they experienced exhibits recreating Edo-period streets, and at Kiyosumi Garden, they enjoyed the scenic stroll garden. Both sites provided a rich sense of history, especially as Fukagawa Edo Museum became crowded with foreign tourists.

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 トキワ荘に行った後,深川江戸資料館と清澄公園に行くことにしました。私は東京については無知で,地下鉄に乗ると,よく,清澄白河という駅が出てきて,この変わった名前の場所はどこだろう? とずっと思っていたので調べてみて,清澄公園を知りました。また,その近くに深川江戸資料館があったので,そこへも行ってみることにしたのです。
 私が気になっていた清澄白河駅ですが,トキワ荘最寄りの駅である落合南長崎駅からは大江戸線で直接行くことができるので驚きました。清澄白河駅で降りて,まず,深川江戸資料館に行きました。
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 深川江戸資料館は,江戸時代に関する資料等を収集,保存,展示するとともに,江東区民の集会の場を提供することにより文化の振興と向上を図るために設置された江東区立の体感型資料館です。
 江戸時代の天保年間ごろの深川佐賀町の街並みを実物大で再現した展示があり,朝昼晩の移り変わりが音響や照明などで演出されるほか,お店や長屋に実際に入って生活用具などに触れられる体感型の展示室があります。
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 よく似た施設に,両国国技館近くにある江戸東京博物館があって,そこには行ったことがあります。深川江戸資料館もまた,江戸時代にタイムトラベルしたような気持になって,なかなかいい時間を過ごすことができました。そのうち,このような施設で2泊3日滞在体験でもできるようなものができればいいのになあ,と思ったことでした。
 私が行ったときは空いていたのですが,そのうち,外国人で一杯になりました。また,チケット売り場も長蛇の列になりました。

 深川江戸資料館を出て,清澄庭園へ行きました。この時期,老人週間とかで,私は無料でした。
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 清澄庭園は,江東区清澄にある回遊式林泉庭園です。
 この地は,江戸府内の中では発展が遅く,江戸時代以前は,隅田川の三角州に蘆荻の茂る低湿地帯で,海上には幾つかの浮洲が形成されていました。
 徳川家康の江戸入府に伴って,隅田川の水運や木場の発展を背景にして魚介類の需要に応えるため,隅田川河口に深川猟師町が誕生し,寛永時代(1624〜1643年)に町が成立しました。
 幕末ごろには,諸大名下屋敷や豪族の住居と池庭がありました。明治維新後の1878年(明治11年)このあたりの土地約3万坪を岩崎弥太郎が買い取り,以降,弟・岩崎弥之助,長男・岩崎久弥へと岩崎家3代にわたってそれらの庭を改修し,清澄庭園となりました。
 やがて,岩崎久弥は,東京市公園課と相談し児童遊園として改造し,1921年(大正10年)に一般公開しました。さらに,1924年(大正13年)には東京市に寄付されました。
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 中島をもつ広い池が中心にあって,ツツジとサツキの植えられた「つつじ山」や池の端を歩けるように石を配置した「磯渡り」などがあって,すばらしい空間でした。

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【Summary】
"Tokiwa-so" was the apartment house where the manga artists I read as a child once lived. Today, the Tokiwa-so Manga Museum is located in Toshima Ward, so I visited. I toured the place where Osamu Tezuka and others spent their youth, and ate ramen at "Matsuba", a restaurant from that era.

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 私が子供のころの漫画雑誌は「少年サンデー」「少年キング」「少年マガジン」でした。私は特に熱中したわけではなかったのですが,それでも,手塚治虫,藤子不二雄,赤塚不二夫などの名前は当然知っていて,雑誌も読みました。やがて,1986年にNHK銀河テレビ小説「まんが道~青春編~」や1996年の映画「トキワ荘の青春」で,ときわ荘という名前を知りました。私が子供のころに出会った漫画家は,トキワ荘という当時の下宿屋のようなところで青春時代を過ごしていたわけです。
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 トキワ荘は豊島区椎名町に,1952年(昭和27年)から1982年(昭和57年)にかけて存在した木造2階建のアパートで,手塚治虫,藤子不二雄,石ノ森章太郎,赤塚不二夫など著名な漫画家が居住していたことから漫画の「聖地」でした。現在は,当時の場所の近くに復元施設「豊島区立トキワ荘マンガミュージアム」が建設されています。
 トキワ荘は2階部分に四畳半の部屋が10室と,共同の調理場,トイレなどが存在していました。
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 ということで,東京交響楽団の定期演奏会を聴きにいった折り,今回もまた,ディープな東京めぐりとして,トキワ荘に行ってみることにしました。

 「豊島区立トキワ荘マンガミュージアム」は10時開館ということだったので,ネットで予約をしました。到着したのは30分ほど前だったので,付近を散策しました。トキワ荘が建っていた場所には碑がありました。また,ゆかりの地も多くありました。
 時間になったので,入館料を払って入りました。中は当時の様子を再現してあって,私が大学生のころに多くあった下宿屋のようでした。私には,こうした場所のほうが居心地がいいのですが,今の若い人には無理でしょう。職員の人たちはとても親切で,いろいろな説明を聞くことができました。
 トキワ荘は,1952年(昭和27年)に上京した手塚治虫は新宿区四谷の八百屋の2階に下宿していましたが,編集者の出入りの激しさに八百屋の主人から苦情を言われるようになり,紹介されたのがこの「ときわ莊」で,これを皮切りに,漫画家の多くが「ときわ荘」へ入居することとなったということでした。手塚治虫が入っていたという部屋に座り写真を撮ってもらいました。風呂はなく,近くの銭湯に行くのですが,トキワ荘の中にある調理場の洗い場で行水をしたこともあるという話でした。
 トキワ荘が解体されるとき,新聞記者連れられてやってきた手塚治虫は,かつて住んでいた2階14号室の天井板に「リボンの騎士」のサファイアの絵と自画像を描いたということですが,その本物が展示してありました。

 トキワ荘の近所に「松葉」という中華料理店があって,この店のラーメンは,藤子不二雄の作品に登場する「小池さん」の設定となったということです。「松葉」は現在も営業を続けているということだったので,トキワ荘を出て,「松葉」で昼食をとりました。当時の味を再現したというラーメンを食べました。
 子供のころの漫画と,大学生のころの下宿屋を思い出して,とてもなつかしい,そして,尼酸っぱい気持ちになりました。

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 2024年9月14日に猛暑の東京へNHK交響楽団の定期公演を聴きに行った折り,多摩動物公園,国立極地研究所南極・北極科学館とまわって,まだ時間があったので,山崎富栄の墓を探しに行くことにしました。私は,このところ太宰治に凝っていて,ゆかりのある場所を求めて,青森県の各地と三鷹市に行ったのですが,最後に残ったのが山崎富栄の墓でした。
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 1948年(昭和23年)6月13日の夜,太宰治と山崎富栄は玉川上水で心中しました。6月19日,ふたりの遺体は新橋の下流10メートルほどのところで浮き上がっているのが発見されました。遺体は腰の部分を赤いひもでしっかりと結ばれていました。享年太宰治39歳,山崎富栄29歳。
 死後,山崎富栄は「太宰を殺した女」として世間から非難を浴びました。山崎富栄の両親に宛てた遺書には「本当は太宰さんのお隣にでも埋めていただければ本望なのですがそれはむしのよい願いだと知っています」と書かれていたそうです。
 山崎富栄は山崎家の菩提寺である永泉寺に埋葬されました。父・山崎晴弘は「娘が世間を騒がせて申し訳ない」との考えから,住職の安田弘達師に対して墓所が永泉寺に在ることを世間には公表しないで欲しいと依頼したといいます。
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 そこで,何とか,永泉寺を見つけ出し行ってきました。地下鉄の江戸川橋駅からほど近いところで,その先には,春,将棋名人戦の第1局が行われるのが恒例となったホテル「椿山荘」がありました。

 まだ時間があったので,次に,伝馬町牢屋敷跡に行ってみることにしました。場所は,地下鉄の小伝馬町駅すぐでした。先日,大河ドラマ「花神」について書いたときに,吉田松陰が処刑された伝馬町牢屋敷跡を見てみたい,と思ったのが理由です。
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 1854年(嘉永7年)黒船艦隊が再来航した際に密航を企て失敗し,小伝馬町にあった伝馬町牢屋敷に送られました。 その後,長州の萩に送還され,松下村塾を受け継ぎ,木戸孝允,高杉晋作,久坂玄瑞,伊藤博文など多くの志士を育てました。しかし,安政の大獄に連座して江戸に送られ,ふたたび伝馬町牢屋敷に入獄され,1859年(安政6年)に処刑されました。
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 現在,この場所は十思公園となっていて,一角に松陰先生終焉の地,吉田松陰先生辞世の碑,吉田松陰顕彰の碑が並んで建っていました。また,十思公園に隣接する十思スクエア別館には伝馬町牢屋敷の模型がありました。
 この地で私は,深い歴史を感じて,感傷にふけりました。

 さて,時間が近づいてきたので,NHKホールに行くことにしましたが,新しくつくられた将棋会館の外観を見ようと千駄ヶ谷駅で途中下車しました。千駄ヶ谷駅のコンコースには,将棋連盟創立100周年の展示もありました。この地で新たな歴史が作られていくことでしょう。

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 2020年7月,旭山動物園でオランウータンを見ました。それが今日の1番目の写真です。このころは,別段興味があったわけではありませんでした。
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 NHK交響楽団の定期公演を聴くために東京へ行ったおり,これまで行ったことがない東京近郊の興味ある場所を訪ねることにしているのですが,今回,2024年9月14日は,多摩動物公園へ,オランウータンを見にいくことにしていました。
 それにしても,暑い日でした。早朝,新幹線の車内から見えた富士山,雲もなければ雪もない。おそらく,山頂は人だらけだろうと考えるだけで,体が暑くなりました。よほどやめようかとも思ったのですが,ほかに何をすればいいのかアイデアもなく,決行しました。
 オランウータンに興味はなかったのですが,当たり前に見ることができた名古屋市の東山動植物園では,新しくオランウータン舎ができたのにもかかわらず,2人いたオランウータンが死んでしまい,主が不在となってしまいました。そこで急に興味がわいて調べてみたところ,オランウータンは急激に数が減っていて,日本の動物園にもわずかしかいないということがわかりました。そして,最も多くいるのが多摩動物公園だと知ったので,行ってみたいと思っていたのです。

 JR中央線で立川駅まで行って,多摩都市モノレールに乗りました。こんなところにモノレールがあることすら私は知りませんでした。おそらく,先に都市ができてしまい,公共交通がなく,不便だったので作られたのでしょう。名古屋の東部丘陵を走るリニモのようなものですが,スピードが遅いのが欠点です。
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 1958年に上野動物園の分園として開園した多摩動物公園は日本最大の広さを誇ります。
 多摩丘陵の上に作られたため起伏が多く,園内ではシャトルバスが運行されています。
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 園内に入ったのですが,こんな暑い日に歩くこともままならず,また,私が目的とするオランウータン舎は最も高い場所にあったので,シャトルバスに乗って向かいました。
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 オランウータンは,ヒト科オランウータン属(Pongo)で,ボルネオ島とスマトラ島の一部にのみ分布していて,ボルネオオランウータン(Pongo pygmaeus),スマトラオランウータン(Pongo abelii),タパヌリオランウータン (Pongo tapanuliensis)がいます。
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 現在,日本にいるのは,ボルネオオランウータンが26人,スマトラオランウータンが8人,ハイブリッドが2人で,うち,9人のボルネオオランウータンが多摩動物公園にいるそうです。そこで,たくさん見られるのを期待したのですが,4人しか見ることができませんでした。あとはどこにいるのだろう? この動物園,案内がさほど親切でありませんでした。聞けばよかったのでしょうが,暑すぎて,まったくやる気を失い,オランウータンだけを見て,満員のレストランで何とか席を見つけて昼食をとったのち,早々に退散しました。

 まだ時間が早かったので,同じ多摩都市モノレールで行くことができる国立極地研究所南極・北極科学館へ行ってみました。
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 国立極地研究所(National Institute of Polar Research)は,大学共同利用機関法人情報・システム研究機構を構成する大学共同利用機関で,南極,北極及びその周辺地域(極地、南極圏や北極圏)に関して,物理学や生物学など様々な科学的観点から観測、実験、総合研究を行っています。
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 ということで,南極・北極科学館は,従来,資料や標本,出版物等を総合研究棟入口に展示し,昭和基地からの映像を放映するなど簡単な情報コーナーを設けたり,定期的に研究所の一般公開も行っていたものを,2010年に,国立極地研究所南極・北極科学館として,開設したのです。
 ここもまた,行ってみたかったところでした。
 無料とはいえ,規模も小さく,館内に説明員がいるわけでもなく,少しがっかりしました。

 2023年4月につくば市に行ってみたことがあるのですが,立川市の研究施設も,同じような感じでした。私は,アメリカで,NASAをはじめとして,多くの研究施設を外から,あるいは,見学コースなどで見たことがあるのですが,それに比べて,あまりに貧弱だなあ,という印象をもちます。また,アカデミックさにも欠けていて,もし私が研究員だったらこういうところで研究したいなあ,という気にもなりません。
 また,アメリカの研究施設が,そのどれも,一般の人によくわかるように,大きな見学施設が設けられ,講演会や係員によるしっかりとした説明がされているのとは違い,ついでのような感じでそれらがあることにも,落胆します。こうした施設は税金で作られているという意識が低いのです。

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 西新井大師に行って,さらにまだ時間がありました。さて,どこに行こうかと考えていて,思い出したことがありました。それは,以前,亀戸に行ったとき,亀有公園前派出所とかいう漫画の舞台がここではないか? ならば,何かゆかりのものがあるのでは… と探してみたことがあったのです。もちろん,亀戸は亀有ではないからそれは大間違いだと気づきました。では,亀有はどこか? ということで,いつかその場所に行ってみたいと思ったことでした。
 地図で確認してみると,何と,亀有は西新井大師からまっすぐに東に行ったところではないですか! そして,どうやら,そこまではバスで行くことができそうでした。しかし,今もってよくわからないのですが,西新井大師から亀有へ直接行くバスが,午前11時57分と午後1時41分2本のみ,ということだったのです。では,それ以外の時間がどうやって行くのだろう?
 幸いにして,私が亀有に行こうと思いついたのが午後1時30分ごろだったので,奇跡的に1日に2本しかないバスのうちの1本に乗ることができたのです。
 少し遅れてバスが来たので乗り込みました。亀有まで思ったより距離がありましたが,やがて亀有に到着しました。

 とはいえ,実は,私は,アニメとか漫画にはまったく興味がなく,「こちら葛飾区亀有公園前派出所」は名前を知っているだけで,読んだことさえなかったから,もちろん内容も知りませんでした。
  ・・・・・・
 「こちら葛飾区亀有公園前派出所」は,秋本治さんによる,「週刊少年ジャンプ」で1976年から2016年まで連載された,葛飾区の亀有公園前派出所に勤務する両津勘吉(りょうつ かんきち)を主人公に,その同僚や周辺の人物が繰り広げるギャグ漫画です。
  ・・・・・・
 亀有には「こちら葛飾区亀有公園前派出所」にちなんだ何がしかのものがあるだろうと思ったのですが,着いてみて驚きました。この町は「こちら葛飾区亀有公園前派出所」だらけだったのです。
 まず,JR亀有駅前にモニュメントがありました。そして,亀有公園にもベンチに座った銅像が!
 暑かったので,何か冷たいものでも,と喫茶店に入って氷を食べていたら,店の人が「亀有両さん銅像めぐりマップ」なるものをくれました。こうなると,何事も徹底的にやってみたくなる私は,そのマップに乗っていた銅像をすべて見ることにしたのです。そして,時間を気にしながらも,どうにか制覇しました。

 さて,こんな予定外のことをしていたので,この日の目的であるNHK交響楽団の定期公演の時間がせまってきました。間に合うのかな? と心配になりましたが,これもまた,何と,JR亀有駅は常磐線であるにもかかわらず,千代田線に乗り入れていて,そのまま乗っていれば,明治神宮まで乗り換えなしで行くことができたのです。本当に,東京はよくわからないところです。どうして亀有駅から原宿駅まで直通で行くことができるのだろう? と不思議な気がしました。
 そんなわけで,2024年6月6日から旅に出た私は,尾瀬に行った帰りの6月8日,西新井大師と亀有で半日を過ごしたのち,NHK交響楽団の定期公演を聴いて,午後9時6分の「ひかり」665号で帰宅することができました。

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 西新井大師は,駅からすぐのところにありました。まず,参道にあった食堂で昼食をとりました。なかなかおいしいおそばでした。そして,境内に入りました。思った以上に立派な寺でした。
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 西新井大師は,正式には五智山遍照院總持寺(ごちさんへんじょういんそうじじ)といい,真言宗豊山派の寺で,古くから「関東の高野山」ともよばれています。
 空海が関東巡錫の途中,西新井を通った際に,本尊である観音菩薩の霊託を聞き,本尊の十一面観音を彫り,826年(天長3年)に寺院を建立したことにはじまるとされます。
 空海=弘法大師から,西新井大師ということです。
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 立派だと思った本堂は,江戸時代中期に建立されたものが1966年(昭和41年)の火災で焼亡したので,1971年(昭和46年)に再建されたものです。

 西新井大師は,川崎市の川崎大師,香取市の観福寺大師堂とともに関東三大師のひとつに数えられるそうです。境内に空海によってもたらされたとされる加持水の井戸があって,この井戸が本堂の西側に所在することから西新井とよばれるということです。
 私がまず興味をもったのは,塩が積まれている地蔵でした。これは「いぼ取り地蔵」いう塩地蔵尊で,江戸時代からいぼ取りに霊験ありと伝えられているものだそうです。
 次が,1884年(明治17年)に建立された三匝堂(さんそうどう)でした。この建物は,都内に残る唯一の栄螺堂です。栄螺堂といえば,少し前に行った会津若松市で見たことがあります。
 また,奥の院は,高野山奥の院を江戸後期に勧請したものです。
 ボタン園もあって,この時期,アジサイやハナショウブが見事でしたが,ほんどの参拝客が素通りしていくのが不思議でした。都心でこんな庭園はほとんどないというのに。

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 2024年6月8日,念願の尾瀬歩きを終えた私は,高崎駅午前10時39分発の「とき」314号で午前11時28分に東京駅に戻ってきました。
 この日は,夜6時からNHKホールでNHK交響楽団第2010回定期公演を聴くのですが,それまで時間がありました。何をしようかと考えて思いついたのが,西新井大師へ行くことでした。
 東武鉄道の西新井駅からたったひと駅の大師前駅まで東武大師線というのがあります。その東武大師線の大師前駅は無人でありながら自動改札がなく改札口が開放されているということをネットで見ておもしろいと思ったことと,西新井大師自体にも興味をもったことがその理由でした。
 東京は,原宿とか池袋とか上野とか浅草といった,多くの人であふれかえるところもあれば,少し離れるとけっこうのどかな,昔の東京らしさが残っている場所があるのです。

 調べてみると,東京メトロ大手町駅から西新井駅まで東武鉄道が相互乗り入れしているので,直通で行くことができることがわかりました。
 東京の鉄道網は,相互乗り入れだらけで,地下鉄に乗っているつもりなのに,私鉄であったりして,何が何だかわかりませんし,どこに行くのかも定かでありません。しかも,それがわかりやすく説明してあるサイトすら探してもないのです。おそらく,ほとんどの人は,アプリの乗換案内で調べて,どの鐡道会社が乗り入れているのか疑問にも思わず,単に乗っているだけでしょう。しかも,Suicaを利用しているから,料金体系すらわかっていないと思われます。私も同様です。
 そんな次第で,ともかく,西新井駅に到着して,そこで自動改札を通って,東武大師線のホームに入りました。こんな盲腸みたいな路線が存在してるのが不思議なことでしたが,想像していたより利用者が多く,しかも,列車も頻繁に発車します。乗ったらすぐに大師前駅に到着しました。
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 大師前駅は,大正時代,東武伊勢崎線と東上線を結ぶ連絡線上の駅として開設しました。しかし,その連絡線案が進展しないうちに第2次世界大戦による東京への大空襲が激化したため営業は休止。戦後,再び営業を開始しました。
 自動改札機,自動券売機,自動精算機は設置されておらず,乗車券発売や改札などの機能については,西新井駅構内の乗換通路上に当駅発乗車券が購入出来る券売機や連絡専用自動改札機を設置して処理をしています。
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 2024年5月11日から5月14日まで,東京と日光を旅しています。
 5月11日は,夜,NHK交響楽団の定期公演に行き,お昼間は,三鷹へ行って,太宰治に浸り,その後,豪徳寺に行きました。このことは,すでに書きました。その日宿泊したのは,田原町の東横インでした。
 そして,翌5月12日。この日は,午後,東京交響楽団の定期演奏会に行くので,午前は,上野の東京芸術大学大学美術館で開催されている「大吉原展」を見に行くことにしていました。このこともすでに書きました。
 そして,上野まで,浅草界隈を散策しましたが,今日は,そのお話です。
 
 数年前,コロナ禍の時期の浅草を歩いたことがあるのですが,ほとんど人もおらず,最高でした。現在の浅草は,インバウンドが戻り,私は,まったく行く気がなくなってしまったのですが,さすがに早朝なら,ということで,浅草から上野へ行く途中に歩いてみようと思ったのです。
 その昔,写真家の木村伊兵衛さんがご存命のころ,ライカを肩に,浅草界隈を歩き,夕暮れになると,近くの店で一杯,などと書いてあったのを読んで,私はうらやましくなりました。そんな生活をしてみたいものだと思いました。それも,遠い昔のことで,今の浅草は,そんな雰囲気からは程遠くなってしまいましたが,人が少ないときなら,少しは,と思ったのです。
 ほとんどの店がまだ閉まっていた仲見世ですが,すでに,1軒の店が開いていました。それは,人形焼きで人気の三鳩堂(さんきゅうどう)でした。午前9時開店,とありますが,もっと早い時間だったように思います。 

 浅草寺を抜けて,ひさご通りを歩き,そのまま千束通りから,鶯谷,そして,上野に向かって歩くことにしました。浅草寺を抜けると人混みがなくなるので,むしろ私は,今は,そのあたりのほうが好きです。
 浅草の三社祭は,私が歩いた1週間後の5月17日から5月19日ということでした。10年くらい前,1度だけ,偶然に,その日に浅草に行ったことがあります。まだ,インバウンドはそれほどでもなかったのですが,それでもすごい人混みでした。そのときは,これぞ江戸の下町,と思いました。
 この日は,小野照崎神社(おのてるさきじんじゃ),元三島神社などでお祭りあるということで,神社のあたりは,早朝から準備で盛り上がっていました。それにしても,東京の下町というところは,まことに不思議なところです。小野照崎神社は,金美観通りに面していて,その先は,吉原の風俗街だし,元三島神社なんて,鶯谷のホテル街の真ん中にあります。このように,さまざまなものがごっちゃごちゃになっていて,表向きだけは清楚でも,その裏はドロドロ。いかにも,これこそが日本の本来の姿だ! 江戸っ子だ! みたいな気がします。
 後日知ったのですが,この日,上野の下谷神社のお祭りでは乱闘騒ぎが勃発したそうです。いくら,「火事と喧嘩が江戸の華」とはいえ,これはいただけません。

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 太宰治の足跡を訪ねて三鷹界隈を散策したあと,まだ,NHK交響楽団の定期公演の開演時間までずいぶんあったので,豪徳寺(ごうとくじ)に寄ることにしました。
 三鷹駅からJR中央線で新宿駅を経由して小田急電鉄に乗り換え,豪徳寺駅で降りました。
 豪徳寺駅のあたりには,外国人がすごくたくさん歩いていました。豪徳寺は,海外メディアで紹介されたことで外国人に知られました。駅の名前は豪徳寺なのですが,豪徳寺駅から豪徳寺は思ったよりも遠いところにありました。それは,豪徳寺の北に駅があったのにもかかわらず,豪徳寺の入口が南側だったから,寺を半周する必要があったからです。むしろ,東急世田谷線の宮の下駅のほうが近いと,帰ってから知りました。
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 豪徳寺は曹洞宗の寺院で,山号は大谿山(だいけいざん)。1480年(文明12年)のちの赤穂事件で有名な吉良上野介義央の同族である武蔵吉良氏の居館であった世田谷城の城主・吉良政忠が,伯母の弘徳院のために庵を結んだ場所にあります。
 1633年(寛永10年),彦根藩主・井伊直孝が井伊家の菩提寺として伽藍を創建し整備しました。寺の名前は,井伊直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」によります。
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 豪徳寺が外国人に人気なのは招き猫発祥の地ということが理由だそうです。それでも,どうして? と私は思いました。それは,外国人には招き猫が珍しいらしく,また,きわめて日本らしく,さらに,招き猫だらけの境内が写真映えすることによるそうです。
 豪徳寺で招き猫が名物なのは
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 2代藩主・井伊直孝が猫により門内に招き入れられ,雷雨を避け和尚の法談を聞くことができたことを大いに喜び,井伊家御菩提所としました。それがもとで,豪徳寺では「招福猫児」(まねきねこ)を祀る招猫殿を置きました。招猫殿の横には,数多くの招福猫児が奉納されています。
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という理由だそうです。
 招き猫があるのは,本堂の左側の狭い場所でした。私は,もっと広範囲に招き猫があるものだと思っていました。また,境内は外国人であふれていると想像したのですが,それほどでもありませんでした。さらに,参道にはたくさんのみやげ店があって,そこにも招き猫があふれているように思っていたのですが,それもありませんでした。
 それにしても,豪徳寺の周辺のなんだかしらけ切った雰囲気は何でしょうか? 世田谷区は閑静な住宅地だから,多くのインバウンドであふれることで,迷惑しているような空気がただよっているように,私は感じました。もし,私がここに住んでいたら,きっとそう思うでしょう。

 私が豪徳寺で興味をもったのは,招き猫よりも,むしろ,井伊家の墓所でした。
  ・・・・・・
 鎌倉時代から井伊谷を治めていた井伊家。
 井伊直虎は,井伊直盛の娘として誕生しました。井伊直盛には男子がいなかったので,井伊直盛の従兄弟にあたる井伊直親を,井伊直虎の婿養子に迎える予定でした。しかし,1544年(天文13年)に井伊直親の父・井伊直満が今川義元への謀反の疑いをかけられて自害させられ,井伊直親も信濃に逃亡してしまいまったので,井伊直虎は,萬松山龍潭寺で出家し,次郎法師と名乗ることになりました。
 井伊直親は,その後復帰して井伊直盛の養子となるのですが,井伊直虎と結婚することはありませんでした。
 1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで井伊直盛が戦死し,その跡を継いだ井伊直親も今川氏真に殺されてしまい,井伊直親の子・虎松(のちの井伊直政)は鳳来寺に匿われました。
 1565年(永禄8年),跡継ぎのいなくなった井伊家では,次郎法師が井伊家の当主となりました。これが「女城主 直虎」です。
 井伊直虎となった次郎法師は,井伊直政を養子として育て,1575年(天正3年)に徳川家康に出仕させました。井伊直政は多くの武功をたて徳川四天王のひとりと称され,関ヶ原の戦いの後に近江に転封されました。彦根藩主となった井伊家は,30万石の大名となって明治維新まで続き,歴代藩主のうち5人が6回の大老職となりました。
  ・・・・・・
 井伊家の墓所は,彦根市の清凉寺,東近江市の永源寺,そして,豪徳寺にあります。
 清凉寺には,初代藩主・井伊直政(なおまさ),3代藩主・井伊直澄(なおすみ),5代藩主・井伊直通(なおみち),7代藩主・井伊直惟(なおのぶ),8代反藩主・井伊直定(なおさだ),11代藩主・井伊直中(なおなか),12代藩主=大老・井伊直亮(なおあき)が葬られています。
 豪徳寺には,2代藩主・井伊直孝(なおたか),6代藩主・井伊直恒(なおつね),9代藩主・井伊直禔(なおよし),10代藩主=大老・井伊直幸(なおひで),13代藩主=大老・井伊直弼(なおすけ),14代藩主・井伊直憲(なおのり)が葬られています。
 また,4代藩主=大老・井伊直興(なおおき)は,永源寺南嶺慧詢に帰依していたため,永源寺に葬られました。
 これで,私がこれまでに行くことができた龍潭寺,清凉寺,永源寺,豪徳寺,そして彦根城が結びつきました。

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kakeizu


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 太宰治の足跡を訪ねて三鷹界隈を散策したのですが,その途中に,三鷹市山本有三記念館があったので,寄ってみました。
 山本有三記念館は,作家・山本有三が1936年(昭和11年)から1946年(昭和21年)まで家族とともに居住した大正末期竣工の洋館です。
 当初は,商社役員や大学教員を務めた実業家・清田龍之助の住宅として建てられたものでしたが,1931年(昭和6年)に実業界を退き,競売にかけられたものを,1936年(昭和11年)に購入したのです。ここで,山本有三は「路傍の石」を執筆しました。
 第2次世界大戦後,進駐軍に接収されたので,山本有三一家は転居しました。進駐軍の接収が解除されたあとは,国立国語研究所三鷹分室,東京都立教育研究所三鷹分室「有三青少年文庫」として使用され,1996年(平成8年)から,三鷹市山本有三記念館となり,2018年に改修工事が終わり,リニューアルオープンしました。

 代表作「路傍の石」は,昭和の戦前・戦中期に書かれた小説ですが,未完に終わりました。
 内容は
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 極貧の家に生れた愛川吾一は,貧しさゆえに幼くして奉公に出される。やがて母親の死を期に,ただ一人上京した彼は,苦労の末,見習いを経て文選工となってゆく。
 厳しい境遇におかれながらも純真さを失わず,経済的にも精神的にも自立した人間になろうと努力する吾一少年のひたむきな姿を描きます。
  ・・・・・・
というものです。
 最初,朝日新聞で1937年(昭和12年)6月まで連載されたのですが,軍国主義の空気が盛り上がってくる時代背景の中で,朝日新聞社が自粛的に中断しました。連載中断から約1年半後の1938年(昭和13年)から昭和15年(1940年)にかけて,主婦の友社で再開されたのですが,小説の中でひとりの社会主義者が出てきたことで当局の検閲にひっかかりました。
 第2次世界大戦後,小説の中に日清戦争や日露戦争のことや不平等条約改正があったことで,GHQの検閲が入って,結局,「路傍の石」を完結させることができなくなったわけです。

 山本有三記念館には,山本有三が愛用した品々が展示されていました。解説に,山本有三はつねに「いいものを少し」という思考がもとになっているとあって,そのこだわりが垣間見えました。おそらく,そうした完璧主義が「路傍の石」を未完に終わらせたのではないか,と思いました。
 しかし,「路傍の石」がもし完結して,その結末が,努力の末幸せになった,というのでは,小説の深さがなくなってしまうから,むしろ未完であったことがよかった,という指摘もあるそうです。

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 太宰治の足跡を訪ねて三鷹界隈を散策しています。
 風の散歩道に沿って歩いて,太宰治の最寄り駅である三鷹駅にもどりました。
 「新郎」では,三鷹駅前の広場が描かれています。
  ・・・・・・
 けさ,花を買って帰る途中,三鷹駅前の広場に,古風な馬車が客を待っているのを見た。明治,鹿鳴館のにおいがあった。私は,あまりの懐しさに,馭者に尋ねた。「この馬車は,どこへ行くのですか。」 「さあ,どこへでも。」老いた馭者は,あいそよく答えた。
  「新郎」
  ・・・・・・
 また,三鷹駅前郵便局は太宰治が原稿料受取りなどに利用した郵便局で,随筆「男女川と羽左衛門」では、横綱男女川を見たことをユーモラスに描いています。
  ・・・・・・
 やはり,自転車に乗って三鷹郵便局にやって来て,窓口を間違ったり等して顔から汗をだらだら流し,にこりともせず,ただ狼狽しているのである。
 私はそんな男女川の姿を眺め、ああ偉いやつだといつも思う。よっぽど出来た人である。必ずや誠実な男だ。
  「男女川と羽左衛門」
  ・・・・・・

 かつて,三鷹駅周辺には,次のような,太宰治に関わりのあった飲食店などが多くあったのですが,現在は,面影すら感じることができません。  
 現在永塚葬儀社である場所は,山崎富栄が2階に下宿していた野川家のあったところで,太宰治は,山崎富栄と親しくなった1947年(昭和22年)年9月ごろから,ここも仕事場にしていました。太宰治最後の日,ここからふたりは玉川上水へ向かったそうです。
 現在Brillia MITAKAである場所は,小料理屋千草のあったところで,ここの2階も仕事場にしていました。
 現在藤和シティスクエア三鷹駅前は,中鉢家のあったところで,1946年(昭和21年)に疎開から戻った太宰治は,ここに仕事場を借りて,「ヴィヨンの妻」などを執筆しました。「朝」はこの部屋が舞台です。
 太宰治が編集者との打ち合わせ場所にしていた馴染みの屋台・ウナギ若松屋は品川用水沿いにありました。
 サイゼリア三鷹駅南口店のある場所は田辺肉店離れの跡で,「斜陽」を書き継ぐために,ここのアパートを借りていました。この店を舞台にして書かれたのが「犯人」です。
 ムサシ三鷹ビルの東側の通りは太宰横丁という名前で,小さな飲食店が軒を並べているのですが,太宰治行きつけの小料理店「喜久屋」がこの通りにありました。また,太宰治なじみのすし屋・美登里家鮨は,「鷗」と随筆「酒ぎらい」に「三鷹駅近くのすし屋」として書かれています。

 三鷹駅を通り過ぎて,さらに西に線路沿いを進むと見えてくるのが,太宰治ファンには有名な跨線橋(三鷹跨線人道橋)です。跨線橋は,1929年(昭和4年)に旧鉄道省が現在の三鷹車両センターの前身三鷹電車庫を開設する際に人の往来を確保しようと建設したもので,全長93メートル,幅約3メートル,高さ約5メートル。三鷹駅の約400メートル西に,JR中央線などの線路を南北にまたぐように架けられています。太宰治が三鷹へ引っ越してきたのは,跨線橋の完成から10年後の1939年(昭和14)年でした。当時は高層ビルもなく,跨線橋は広々とした武蔵野の風景が見渡せる場所として,太宰治のお気に入りだったようです。
 JR中央線の上にかかるこの跨線橋は,老朽化のために解体,撤去されることになり,工事が昨年2023年12月からはじまったということは知っていたので,すでにもうないのかな,と思っていたのですが,足場はあるものの,竣工した当時の姿を今も何とか留めていました。しかし,すでに渡ることはできまず,半年ほど来るのが遅かったのが残念でした。

 三鷹駅に戻りました。
 駅前にあったCORALという商業ビルの5階の三鷹市美術ギャラリーに太宰治展示室があるというので,行ってみることにしました。2020年(令和2年)12月に開設されたのが,太宰治の自宅の一部を再現したこの展示室です。
 太宰治は1939年(昭和14年)に三鷹の住民となり,亡くなるまで過ごしました。自宅は約12坪半ほどと,妻子と暮らすには十分とはいえない質素な借家で,太宰治はこの家を,作品の中で「三鷹の此の小さい家」「三鷹の私の家」「三鷹下連雀の家」「三鷹の陋屋」「東京の私の草屋」「あばらや」などと表現しているそうです。また,「善蔵を思ふ」(昭和15年)、三畳間から見える夕陽の描写とともに再生と家庭への決意を誓う「東京八景」「十二月八日」など,多くの作品の舞台にもなりました。

 ビルを出ました。
 近くに,太宰治文学サロンがありました。ここは伊勢元酒店の跡で,2008年(平成20年)に,太宰治歿後60年と翌年の生誕100年を記念して,開設されたものです。館内には,山内祥史文庫」の蔵書があって,太宰珈琲や太宰の郷里・青森のリンゴジュースなど飲みながら時間を過ごすことができるという,すてきな空間でした。
 太宰治一家が利用していた伊勢元酒店は「十二月八日」に店名が登場します。
  ・・・・・・
 夕飯の仕度にとりかかっていたら,お隣りの奥さんがおいでになって,十二月の清酒の配給券が来ましたけど,隣組九軒で一升券六枚しか無い,どうしましょうという御相談であった。順番ではどうかしらとも思ったが,九軒みんな欲しいという事で,とうとう六升を九分する事にきめて,早速,瓶びんを集めて伊勢元に買いに行く。
  「十二月八日」
  ・・・・・・

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 太宰治の足跡を訪ねて三鷹界隈を散策しています。
 禅林寺にある太宰治の墓に行ったので,このあとは,東側から反時計回りに回ることにしました。
 まず向かったのが,太宰治一家が通っていた銭湯・連雀湯跡ですが,ここは,現在ホンダのディーラーとなっているだけのところで,何の面影もありませんでした。
  ・・・・・・
 ひとりで夕飯をたべて,それから園子をおんぶして銭湯に行った。ああ,園子をお湯にいれるのが,私の生活で一ばん一ばん楽しい時だ。園子は,お湯が好きで,お湯にいれると,とてもおとなしい。お湯の中では,手足をちぢこめ,抱いている私の顔を,じっと見上げている。ちょっと,不安なような気もするのだろう。
  「十二月八日」
  ・・・・・・

 そして次が,新橋。
 入水自殺をした太宰治と山崎富栄は,6月19日に,このあたりで紐で結ばれて発見されたといいます。とはいえ,今は,橋のたもとに明星学園という学校があるだけで,ほかに何もありませんでした。
  ・・・・・・
 万助橋を過ぎ、もう、ここは井の頭公園の裏である。私は、なおも流れに沿うて、一心不乱に歩きつづける。この辺で、むかし松本訓導という優しい先生が、教え子を救おうとして、かえって自分が溺死なされた。川幅は、こんなに狭いが、ひどく深く、流れの力も強いという話である。
  「乞食学生」
  ・・・・・・

 そこから西に,平和通りまで引き返し,北に進路を変えます。平和通りは狭い路地で,あたりは,住んでみたいと思わせる新しい住宅街が続いていました。
 1939年(昭和14年)年9月から,亡くなる1948年(昭和23年)6月まで,疎開の一時期を除き,太宰治は,この場所に住んでいて,当時は,同じ造りの平屋の借家が3軒並んでいました。
 現在,かつて太宰治邸のあった場所から路地を挟んだ反対側にあるのが,三鷹市の和風文化施設の井心亭で,太宰治邸の「玄関の前の百日紅」が庭に移植されています。
  ・・・・・・
 朝に言い出し,お昼にはもう出発ということになりました。一刻も早く,家から出て行きたい様子でしたが,炎天つづきの東京にめずらしくその日,俄雨があり,夫は,リュックを背負い靴をはいて,玄関の式台に腰をおろし,とてもいらいらしているように顔をしかめながら,雨のやむのを待ち,ふいと一言,
「さるすべりは,これは,一年置きに咲くものかしら。」
と呟きました。
 玄関の前の百日紅は,ことしは花が咲きませんでした。
「そうなんでしょうね。」
 私もぼんやり答えました。
 それが,夫と交した最後の夫婦らしい親しい会話でございました。
 雨がやんで,夫は逃げるようにそそくさと出かけ,それから三日後に,あの諏訪湖心中の記事が新聞に小さく出ました。
  「おさん」
  ・・・・・・

 さらに北に進むと,玉川上水に至ります。右手に,三鷹市山本有三記念館があったので,そこに入りましたが,このことは,また,後日書きます。
 三鷹駅から南東に,玉川上水が続いています。今は,玉川上水に沿って,風の散歩道という美しい道路がありますが,ここが,太宰治終焉の地です。
 当時の玉川上水は流れが速く,地元の人たちは「人喰い川」とよんで恐れていたそうです。現在のような鉄柵もなかったから,そのまま用水に飛び込むことも可能だったことでしょう。
 太宰治と山崎富栄が入水をしたと思われる場所には,現在,玉鹿石が置かれています。太宰治を偲んで,故郷青森県五所川原市金木町産の玉鹿石を石碑としたということですが,目立たず,なかなか場所がわからず,一旦通り過ぎてしまいました。同じように,場所がわからず,戸惑っている人たちがいました。
  ・・・・・・
 私は,家の方角とは反対の,玉川上水の土堤のほうへ歩いていった。四月なかば,ひるごろの事である。頭を挙げて見ると,玉川上水は深くゆるゆると流れて,両岸の桜は,もう葉桜になっていて真青に茂り合い,青い枝葉が両側から覆いかぶさり,青葉のトンネルのようである。ひっそりしている。ああ,こんな小説が書きたい。こんな作品がいいのだ。なんの作意も無い。私は立ちどまって,なお,よく見ていたい誘惑を感じたが,自分の,だらしない感傷を恥ずかしく思い,その光るばかりの緑のトンネルを,ちらと見たばかりで,流れに沿うて土堤の上を,のろのろ歩きつづけた。だんだん歩調が早くなる。流れが,私をひきずるのだ。水は幽かに濁りながら,点々と,薄よごれた花びらを浮かべ,音も無く滑り流れている。
  「乞食学生」
  ・・・・・・

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 三鷹市は本当にいい街で,文化水準も高く,私は大好きです。もし,東京に住んでいたら,こんな街で暮らしたいものだと,いつも思っていました。
 2024年5月11日,今回は,太宰治ゆかりの地を訪ねるということで,JR中央線に乗って,三鷹駅に降り立ちました。まず,駅前にあった観光案内所で「みたか散策マップ」というパンフレットをもらいました。そして,そこに書かれた「太宰治の足跡コース」に従って,歩くことにしました。
 まずは,太宰治の墓のある禅林寺を訪ねなければ話になりません。
  ・・・・・・
 夕方,職場から帰った産業戦士たちが,その道場に立寄って,どたんばたんと稽古をしている。私は散歩の途中,その道場の窓の下に立ちどまり,背伸びしてそっと道場の内部を覗いてみる。実に壮烈なものである。私は、若い頑強の肉体を,生れてはじめて,胸の焼け焦げる程うらやましく思った。うなだれて,そのすぐ近くの禅林寺に行ってみる。この寺の裏には,森鴎外の墓がある。どういうわけで,鴎外の墓が,こんな東京府下の三鷹町にあるのか,私にはわからない。けれども,ここの墓地は清潔で,鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も,こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら,死後の救いがあるかも知れないと,ひそかに甘い空想をした日も無いではなかったが,今はもう,気持が畏縮してしまって,そんな空想など雲散霧消した。私には,そんな資格が無い。立派な口髭を生やしながら,酔漢を相手に敢然と格闘して縁先から墜落したほどの豪傑と,同じ墓地に眠る資格は私に無い。お前なんかは,墓地の択り好みなんて出来る身分ではないのだ。はっきりと,身の程を知らなければならぬ。私はその日,鴎外の端然たる黒い墓碑をちらと横目で見ただけで,あわてて帰宅したのである。
  「花吹雪」
  ・・・・・・

 森鷗外の墓が禅林寺にある理由はつぎのとおりです。
 1922年(大正11年)7月9日に永眠した森鴎外の遺骨は,森家が1872年(明治5年)上京後しばらくは向島の地に住居を構えていたことと旧主亀井家と関わりのある寺であったことなどから,墨田区向島の弘福寺に納められました。しかし,弘福寺が関東大震災で罹災したため,1927年(昭和2年)12月,同じ宗派の禅林寺に改葬されました。
 その禅林寺に,まさか,太宰治自身が眠るなどということは,夢にも思わなかったに違いありません。
 静かな寺でした。墓地のほぼ中央に太宰治の墓がありました。そして,森鴎外の墓はその斜めうしろにあって,その隣に,悪女といわれた妻・志げの墓もありました。私が訪れたときは,だれもいませんでしたが,頻繁に誰かが訪れている形跡がありました。
 太宰治の死後,美知子夫人が夫の気持ちを酌んでここに葬ったということです。自分とは別の女性と心中した男の墓をここに葬ったとは,何とできた女性なのか,と思いました。
 太宰治は,最初の妻・初代の浮気を知ったショックで自殺未遂を起こしたのちに離婚し,筆を絶っていました。心配した井伏鱒二が再婚相手として探し出したのが石原美知子でした。美知子と出会ってからの太宰治は,公私ともに健康を取り戻し,ユーモアと明るさにあふれた作品を書き連ねていきました。「東京八景」には,三鷹の自宅で妻に再起を誓う印象的な場面があります。
  ・・・・・・
 私は,夕陽の見える三畳間にあぐらをかいて,侘しい食事をしながら妻に言った。「僕は,こんな男だから出世も出来ないし,お金持にもならない。けれども,この家一つは何とかして守って行くつもりだ」その時に,ふと東京八景を思いついたのである。過去が,走馬燈のように胸の中で廻った。
  「東京八景」
  ・・・・・・

 美知子は,太宰治という芸術家を愛していたといわれ,太宰治のやりたい放題にやらかしていたということですが,まさか,自分を置いて,別の女性と心中をするとは思っていなかったことでしょう。
 太宰治の死の翌年1949年(昭和24年)6月19日,第1回の桜桃忌(おうとうき)が禅林寺で開かれました。桜桃忌という名は,太宰治と同郷の津軽の作家で,三鷹に住んでいた今官一によってつけられたものです。「桜桃」は死の直前に書かれた小説の題名で,6月のこの時季に北国に実る鮮紅色の宝石のような果実が,鮮烈な太宰治の生涯と珠玉の短編作家というイメージに最もふさわしいとして,友人たちの圧倒的支持を得たのです。
  ・・・・・・
 もう,仕事どころではない。自殺の事ばかり考えている。そうして,酒を飲む場所へまっすぐに行く。
「いらっしゃい」
「飲もう。きょうはまた,ばかに綺麗な縞を,…」
「わるくないでしょう? あなたの好く縞だと思っていたの」
「きょうは,夫婦喧嘩でね,陰にこもってやりきれねえんだ。飲もう。今夜は泊るぜ。だんぜん泊る」
 子供より親が大事,と思いたい。子供よりも,その親のほうが弱いのだ。
 桜桃が出た。
 私の家では,子供たちに,ぜいたくなものを食べさせない。子供たちは,桜桃など,見た事も無いかもしれない。食べさせたら,よろこぶだろう。父が持って帰ったら、よろこぶだろう。蔓を糸でつないで,首にかけると,桜桃は,珊瑚の首飾りのように見えるだろう。
 しかし,父は,大皿に盛られた桜桃を,極めてまずそうに食べては種を吐はき,食べては種を吐き,食べては種を吐き,そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は,子供よりも親が大事。
  「桜桃」
  ・・・・・・

 美知子は,1912年(明治45年)に生まれ,1997年(平成9年)に亡くなりました。
 太宰治の作品に登場することも多く,「日本のまづしい家庭の主婦はどんな一日を送ったか」について書かれた「十二月八日」では,主婦のモデルが美知子で,主人は太宰治自身として登場します。
  ・・・・・・ 
 背後から,我が大君に召されえたあるう,と実に調子のはずれた歌をうたいながら,乱暴な足どりで歩いて来る男がある。ゴホンゴホンと二つ,特徴のある咳をしたので,私には,はっきりわかった。
「園子が難儀していますよ。」
 と私が言ったら, 「なあんだ。」と大きな声で言って,「お前たちには、信仰が無いから、こんな夜道にも難儀するのだ。僕には,信仰があるから,夜道もなお白昼の如しだね。ついて来い。」
 と,どんどん先に立って歩きました。
 どこまで正気なのか,本当に,呆れた主人であります。
  「十二月八日」
  ・・・・・・
 美知子は,太宰治の墓の隣,津島家の墓に眠っています。

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 私は,読書青年ではなかったし,太宰治は「走れメロス」「人間失格」くらいしか読んだことがありませんでした。そして,「人間失格」のイメージと入水自殺をしたという事実が強すぎて,入り込めませんでした。それが,なぜか,「富獄百景」の天下茶屋に惹かれて行ってみたり,青森県五所川原市金木の斜陽館が気になって足を運んでいるうちに,関心をもつようになってきました。それを決定的にしたのが「津軽」でした。

 まず,自分のために,太宰治の生涯についてまとめてみます。
  ・・・・・・
1909年(明治42年)6月19日 青森県北津軽郡金木村に生まれる。本名は津島修治。
1923年(大正12年)青森県立青森中学校に入学し,遠戚宅から通学。
1927年(昭和2年)官立(今の国立)弘前高等学校文科甲類に入学。
 弘前市内の藤田家に下宿。芸妓紅子(=小山初代)と知り合う。
1929年(昭和4年)下宿ではじめての自殺をはかる。
1930年(昭和5年)東京帝国大学仏文科に入学。東京市本郷区に下宿。
 銀座のカフェに勤める田辺あつみ(=田部シメ子)と鎌倉小動崎の海岸で薬物心中を図り,女は死亡。
1931年(昭和6年)小山初代と品川区で所帯をもつ。
1933年(昭和8年)井伏鱒二宅に近い杉並区天沼に転居。はじめて太宰治の名で作品を発表。
1935年(昭和10年)都新聞の入社試験に失敗し鎌倉で縊死を図るが未遂。大学を除籍される。
1937年(昭和12年)太宰治の義弟と初代の不義を知り,谷川温泉で心中未遂。初代と離別。
1938年(昭和13年)井伏鱒二が滞在する御坂峠の天下茶屋に赴く。
1939年(昭和14年)石原美知子と結婚式を挙げ、甲府市御崎町で新婚生活に入る。
 「富嶽百景」を発表。東京府北多摩郡三鷹村下連雀の家に転居。
1940年(昭和15年)「走れメロス」「乞食学生」を発表。
1941年(昭和16年)長女園子誕生。太田静子と恋に落ちる。「帰去来」刊行。
1944年(昭和19年)長男正樹誕生。「津軽」刊行。
1945年(昭和20年)妻子を連れて津軽の生家へ疎開。
1946年(昭和21年)疎開生活を終え妻子と共に三鷹の自宅に帰る。
1947年(昭和22年)次女里子誕生。山崎富栄と知り合う。
 太田静子(しずこ)との間に、治子誕生。「斜陽」刊行。
1948年(昭和23年)「人間失格」執筆。「桜桃」発表。
 6月13日夜半,山崎富栄と共に玉川上水へ身を投じ,6月19日39歳の誕生日,死体が発見される。
  ・・・・・・

 しかし,考えてみれば,私は,太宰治が命を絶った三鷹市の太宰治にちなんだところへは行ったことがなかったのです。私には,三鷹市は東京天文台しか頭にありませんでした。そこで,今回,三鷹市の太宰治に関したところを訪ねてみることにしました。そして,太宰治が小説で描いた三鷹の地を歩いてみようと思ったのでした。
  ・・・・・・
  結婚後,私にも,そんなに大きい間違いが無く,それから一年経って甲府の家を引きはらって,東京市外の三鷹町に,六畳,四畳半,三畳の家を借り,神妙に小説を書いて,二年後には女の子が生れた。北さんも中畑さんもよろこんで,立派な産衣を持って来て下さった。
 今は,北さんも中畑さんも,私に就いて,やや安心をしている様子で,以前のように,ちょいちょいおいでになって,あれこれ指図をなさるような事は無くなった。けれども,私自身は,以前と少しも変らず,やっぱり苦しい,せっぱつまった一日一日を送り迎えしているのであるから,北さん中畑さんが来なくなったのは,なんだか淋しいのである。来ていただきたいのである。昨年の夏,北さんが雨の中を長靴はいて,ひょっこりおいでになった。
 私は早速,三鷹の馴染みのトンカツ屋に案内した。そこの女のひとが,私たちのテエブルに寄って来て,私の事を先生と呼んだので,私は北さんの手前もあり甚だ具合いのわるい思いをした。
  「帰去来」
  ・・・・・・

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 2024年3月9日,新日本フィルハーモニー交響楽団の演奏会を聴きに東京へ行きました。今回の公演は午後3時からだったので,それまで何をしようかな? と思っていたのですが,新幹線の車内から見えた富士山があまりに見事で,しかも,新幹線が品川駅に差しかかっていても,まだ,富士山がきれいに見えるので,こりゃ,東京で富士山を見ることができる絶好の機会だと,新宿にある東京都庁の展望台に行くことにしました。
 以前にも東京都内から富士山を見たことはあるのですが,このごろはなかかなその機会がありませんでした。現在の東京都庁ができた1991年に,展望台があるということで行ってみた記憶があるのですが,それ以降は,行ったことがありませんでした。おそらく,富士山を見ることができる展望台はこれだろうと思い当たり,行ってみることにしたのです。
 実際,展望台からの眺めは,予想以上にすばらしく,美しい富士山を見ることができました。展望台は外国人でいっぱいでした。

 さて,この日の演奏会は,すみだトリフォニーホールで,場所はJR錦糸町駅からほど近いところでした。この界隈は,亀戸といいます。亀戸といえば,亀戸天神です。東京に住んでいる人には当たり前かも知れませんが,よそ者の私には,東京には,未だに行ったことがない場所が結構あります。このごろは,機会があれば,そうした場所に行ってみることにしています。
 亀戸天神は,JR錦糸町駅から20分ほど北に行ったところにありました。
   ・・・・・・
 亀戸天神社,通称亀戸天神は,天満大神,すなわち,菅原道真を祀り,学問の神として親しまれています。1644年から1647年の正保年間,菅原道真の末裔であった九州の太宰府天満宮の神官・菅原大鳥居信祐が天神信仰を広めるため諸国を巡り,1661年(寛文元年)にこの地にたどり着いて,もともとあった天神の小祠に菅原道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉祀したのがはじまりとされます。四代将軍徳川家綱が鎮守神として祀るよう現在の社地を寄進し,太宰府天満宮に倣い造営されました。
 名物は葛餅で,亀戸餅ともよばれ,1805年(文化2年)に天神社参道で創業した船橋屋が人気を集め,現在も店舗を構えています。
  ・・・・・・
 この,下町情緒あふれる地もまた,いいものでした。次回はゆっくりと街歩きをしてみたいと思いました。

 では,最後に,お恥ずかしい話を。
 アニメに疎い私にも,おぼろげに「こちら亀有公園前派出署」という名前のアニメがあることは知っていました。それがここ亀戸だと思い,何かゆかりのものがないかなあ,と探していたのです。亀戸と亀有は,全く異なる場所だから,当然,あるわけがないのです。
 ということで,今度は,亀有にも行ってみようと決心しました。
  ・・
 この日は,日帰りで東京を往復したのですが,行きは美しい富士山を見て,すばらしい演奏会を聴いて,帰りは,JR東京駅のホームで「ドクターイエロー」を目撃しました。そんなわけで,気分がよかったので,駅弁「春の弁当・花衣」を買って,帰りの車内で食べました。

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 2024年2月3日は,予約してあった皇居の一般参観が午後1時30分からだったので,それまで時間がありました。
 まず,午前9時に上野へ行って,国立科学博物館と東京国立博物館を見学しました。いくら土曜日とはいえ,午前中は人もおらず,ゆっくりと見てまわることができました。どこへ行っても人だらけの東京で,ここは穴場です。
 それから,以前から一度行きたいと思っていた上島珈琲店で昼食をとりました。もし,東京に住んでいたら,国立科学博物館は65歳以上は無料だし,この界隈は私の散歩コースとなるところだと思います。落ち着きます。

 昼食を終えて,皇居に向かいました。そして,一般参観の時間まで,皇居東御苑を散策することにしました。皇居東御苑は開放されていて,大手門,平川門,北桔梗門から出入りすることができます。
 私は,江戸城の正門として使われていた「大手門」から入りました。
  ・・・・・・
 皇居は,かつて江戸城でした。江戸城の前身は,1457年(康正3年)に扇谷上杉家の家臣・太田道灌が築いた平山城で,1590年(天正18年)に徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城となり,江戸幕府開幕後に大規模な拡張工事が行われ,日本最大の面積の城郭になりました。
 江戸時代,諸大名が登城していた大手門は,敵からの侵入を阻止して反撃するために、大小ふたつの門から成り立っています。現在のものは,1945年(昭和20年)の空襲で焼失し,1967年(昭和42年)に復元されたものです。
  ・・・・・・
 門をくぐると,江戸城警備における最初の番所であった「同心番所」があって,下級武士である同心が詰めて監視していました。そのちかくにあるのが「百人番所」で,45メートルの幅があります。これは,大手中之門を守るために造られた警備詰所で,甲賀組,伊賀組,根来組と4組の鉄砲百人組「二十五騎組」が警備していました。大手中之門跡の石垣を抜けると,3つ目の番所「大番所」があります。こちらは位の高い武士が勤務していました。1968年(昭和43年)に復元されたものです。

 こうした番所を過ぎると,約70本の紅白の梅が植えられている「梅林坂」があります。すでに梅は満開で,美しく花が咲いていました。この地に最初に城を築いた太田道灌が菅原道真を祀る「天神社」を設け,梅を植えたことが坂の名前の由来ということです。
 右手は二の丸庭園で,ここには,復元された日本庭園と,二の丸雑木林・新雑木林,都道府県の木,菖蒲田などがあります。
 「梅林坂」を登っていくと,本丸御殿のあった大芝生が広がります。かつては,13万平方メートルある敷地に,幕府の中枢となる政庁として御殿が建っていました。表御殿・中奥から御鈴廊下でつながっていたのが大奥でしたが,今は,往時を偲ぶものはありません。
 本丸大芝生の右手に天守閣跡があります。天守の土台として築かれた天守台は,日本最大といわれた高さ45メートルの江戸城の天守を支えたもので,現在は東西41メートル,南北45メートル,高さ11メートルの石積みが残されています。
  ・・・・・・
 1657年明暦3年に起きた「明暦の大火」で,江戸城の天守は消失しました。江戸幕府は,すぐに江戸城の復興に着手し,土台の普請を加賀藩主・前田綱紀に命じました。前田家は領内から5,000人の人夫を動員してこれに着手。御家の威信をかけて瀬戸内から巨大な御影石を運ばせて天守の土台を完成させたました。これが、今も残る天守台です。
 しかし,会津初代藩主・保科正之は,実用性のない天守に莫大な建設費や維持管理費を割くぐらいだったら,城下の復興・再建にあてるべきだと反対をし,それ以降,江戸城に天守が築かれることはありませんでした。
  ・・・・・・

 さらに行くと,城壁よりも強固な防御施設であった富士見多聞があって,内部を見ることができます。そこを下ると,松之廊下跡があります。現在は石碑と説明版が立っているだけですが,1701年(元禄14年),この場所で赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に切りかかる刃傷事件を起こしたところです。
 松之大廊下は,本丸御殿の大広間から将軍との対面所である白書院にわたる全長50メートル,幅4メートルほどの畳式廊下でした。襖に松並木の絵が描かれていたことからこの名がつけられていました。
 その先にある富士見櫓は,皇居東御苑の南に位置する高さ16メートルの三重櫓で,江戸城の史跡として唯一残る三重櫓です。どこから見ても同じような形に見えることから「八方正面の櫓」という別名があります。
  ・・・・・・
 富士見櫓は1606年(慶長11年)に創建,櫓台石垣は加藤清正が築いたもので,城内の現存石垣の中でも最も古い石垣のひとつです。富士見櫓もまた,「明暦の大火」で焼失しましたが,こちらは,1659年(万治2年)に再建され,再建されることのなかった天守に代わるものとして,代用天守の櫓ともいわれていました。
  ・・・・・・

 さて,そんな散策を楽しんでいるうちに時間になったので,桔梗門に向かいました。

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 2023年12月9日に京都へ行ったとき,以前は予約が必要だった京都御所でしたが,今は予約なしに見学することができました。家に帰ってから調べてみると,東京の皇居も,一般参観ができることを知ったので,2024年2月3日,NHK交響楽団の定期公演を聴きに東京へ行く機会に,一般参観に参加してみることにしました。皇居の一般参観は,当日受付と事前受付があるのですが,当日受付は定員を超える心配があったので,事前受付で,午後1時30分の部を予約しておきました。
 私は,ドジャースタジアムは4回も行ったことがあるのに東京ドームには行ったことがなく,アメリカの連邦議会を傍聴したことがあるのに日本の国会を傍聴したことがなく,アメリカのホワイトハウスの見学をしたことがあるのに皇居の一般参観をしたことはありませんでした。ずいぶん前,昭和のころに,偶然,4月29日の天皇誕生日に東京に行ったとき,そうか,今日は天皇誕生日か,と思い立って一般参賀に行ったことはあります。そもそも,一般参観ができることすら知りませんでした。

 集合場所は皇居の桔梗門前で,午後1時30分からとありましたが,午後1時から中に案内されました。事前予約と当日受付は別の列になっていて,当日受付はかなりの人の列ができていたので,事前受付をしておいてよかったと思いました。当日受付は日本人よりも外国人の方が多い状況でした。
 桔梗門は江戸時代に造られたもので,太田道灌が桔梗を家紋にしていたことからその名がつけられたそうです。桔梗門をくぐって,まず,参観者の休所である「窓明館」に入ります。そして,館内のテレビモニターで,皇居や皇室に関する映像を見たり,土産物屋さんを覗いたり,係の人の説明を聞きながら,時間まで待機します。窓明館の前の建物は,1921年(大正10年)に建てられた旧枢密院で,現在は皇宮警察本部の庁舎です。
 時間になったので,それぞれ,日本語,英語,中国語,フランス語,スペイン語のガイドさんについて,言語別に出発します。最初に,桔梗門の脇にある通りを進むと見えてくるのが,江戸城本丸の武器を収めていた高さ16メートル,櫓下の石垣の高さが15メートルの富士見櫓でした。富士見櫓は,1657年(明暦3年)の大火で焼け落ち,1659年(万治2年)に再建されたものです。石垣は「打ち込みはぎ」という手法で,伊豆の自然石をそのまま積んだもので,関東大震災でも崩れなかったそうです。江戸時代は,富士見櫓から富士山や品川の海,両国の花火などが見えたそうですが,今は高い建物にさえぎられて,富士山は見えないという説明がありました。

 富士見櫓から先に進むと見えてくるのが,よくテレビなどに出てくる1935年(昭和10年)に完成した宮内庁庁舎です。それを過ぎると,一般参賀を行う宮殿東庭になります。
 一般参観のメインは,どうやら,この宮殿東庭のようです。一般参賀でも入ることができるのですが,そのときは人が溢れているので,こうして落ち着いて見ることができるのは,一般参観の特典です。有田焼でできた黄色い照明灯の向こうが全長160メートルもある「長和殿」で,その中央のバルコニーに皇室の人たちが並ぶわけです。
 宮殿は,「長和殿」とその奥に平行して建つ「正殿」,そして,右手に宴会場である「豊明殿」が中庭を挟むようにして,カタカナの「コ」の字に造られた部分と,「正殿」の奥の「表御座所」で構成されています。「正殿」には,左から竹,松,梅の部屋があって,もっとも格上の松の間は内閣総理大臣や最高裁判所長官の親任式などの行事が行われる場所です。また,「表御座所」は天皇陛下が公務を行う部屋です。
 宮殿で最も注目すべきものは,宮殿東庭から「長和殿」の奥にかろうじて見える「正殿」の屋根にある,中国の伝説の鳥「瑞鳥」です。これは,両端でペアになっています。この「瑞鳥」は,高さが2.3メートルもあって,人間国宝・佐々木象堂さんが作ったものだそうです。
 宮殿の南側にある宮殿南庭は小川が流れる和風の庭園で,宮殿東庭から見える大きなふたつの丸い刈込みは「南庭の大刈込み」とよばれ,22種類から24種類の樹木を合わせてできたもので,6メートルほどの高さがあり,形を整えるために,中側と外側にハシゴを組んで手作業で行うという説明がありました。
 「長和殿」の南車寄せは,主に各国の大統領や大使の方が利用される玄関です。
 なお,宮殿は「キュウでん」,キュウのところにアクセントがあるよび方をするそうで,我々が「きゅうデン」のように,デンのところにアクセントをおくのとは違うという説明がありました。
  ・・・・・・
 そもそも日本に「宮殿」はなかった。明治以降のことだ。それ以前は「宮殿」と書いて「クーデン」と読んで、仏壇の中に入れる「厨子」(ずし)のことをそうよんでいた。明治以降使うようになった「キュウデン」というよび方を、「クー」ではないと強調するために,「頭高」で「キュウ」を強調して「キュウでん」とよぶのではないか?
  新・ことば事情7152「「宮殿」のアクセント」-「道浦俊彦TIME」(2019.5.6)より
  ・・・・・・

 宮殿を過ぎると正門鉄橋があります。
 正門鉄橋は,江戸時代,低い位置に木の橋を架け,その橋の上に橋桁を組んでさらに橋を架けていたので,二重橋とよばれるようになったそうです。なお,皇居を外側から見たとき,多くの人が眼鏡橋を二重橋と間違えます。
 二重橋の両側にある外灯は「すずらん灯」といい,年末年始にはライトアップされるということです。ここから伏見櫓の美しい姿が見えます。伏見櫓は,京都の伏見城にあった櫓を解体して移設したという話です。
 ここで折り返します。
 「長和殿」の右側を曲がると北車寄があります。北車寄は宮殿で実施される行事に参列する人が利用する玄関で,内閣総理大臣の親任式が行われたのちに撮られる記念撮影スポットでもあります。
 そこから,紅葉山という山の下を通る坂道を「山下通り」といい,江戸時代には紅葉山の上に東照宮が建っていたそうです。現在,紅葉山の上には紅葉山御養蚕所があって,皇后が毎年蚕を育て繭を出荷し,翌年のために蚕の卵を採る作業をする場所です
 夏になると大輪の蓮の花が咲く蓮池濠から,遠くに日本武道館の屋根の擬宝珠が見えました。
 さらに進んで,再び,富士見多聞を見ながら,桔梗門に戻って解散でした。

 これで約1時間15分の一般参観はおわりです。
 この日もまた,快晴でとても暖かだったので助かりました。

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 上野寛永寺で徳川将軍の墓を見て,上野の森美術館で「モネ 連作の情景」展に行って人の頭を見て,さらに,上野公園を散策した私は,NHK交響楽団の第2001回定期公演がはじまるまで,どこに行こうかと考えて,まず,日本橋の三越で開催されている藤井聡太王将写真展に行くことにしました。
 ちょうど今王将戦が行われているので,おそらく,それに合わせたPRの一環でしょう。これまで新聞紙上に掲載された多くの写真や王将位のトロフィーなどを見ることができました。
 以前書いたことがありますが,王将戦は異端の棋戦で,勝者の罰ゲームなど,主催がスポーツ紙ということもあって,娯楽が前面に出ています。元来,毎日新聞が将棋名人戦を朝日新聞に横取りされたことで,それに並ぶ棋戦として創設された経緯もあって,現在も,挑戦者を決めるためのリーグ戦が行われていたり,タイトル戦が2日制だったりするのですが,それにしては獲得賞金が安かったり,解説つきのライブ放送が有料だったりと,他の棋戦とは違う位置にいます。

 藤井聡太王将写真展を見て,三越の外に出たとき,江戸情緒の音が聞こえてきました。そちらの方を見ると,大相撲の触れ太鼓でした。そういえば,翌日1月14日が大相撲初場所の初日です。
 触れ太鼓とは,本場所初日の前日に呼び出しさんたちが太鼓をたたきながら相撲部屋や商店街を練り歩き,本場所の訪れを告げる伝統行事です。
 現在,日本相撲協会の呼び出しは45人。4班にわかれて,初日の訪れを知らせていきます。
 私が遭遇したのは,日本橋千疋屋総本店を皮切りに,日本橋,人形町,京橋,銀座の老舗22店舗と2町会を回るもので,高砂部屋,九重部屋,陸奥部屋,千賀ノ浦部屋,高砂部屋,九重部屋,陸奥部屋,千賀ノ浦部屋の呼び出しさんの担当でした。
 店の前で,「相撲は明日(みょうにち)から初日じゃぞ~い」と切り出して,代わる代わる初日の取組を呼び上げていきます。そして,最後に「ご油断で~は~,詰まりますぞ~」と早くしないとチケットなくなるよということを伝統的な言葉使いで告げていくものです。そして,最後にご祝儀をもらって,写真撮影をしたあと,見ている私たちに,明日からはじまるのでご贔屓に,という挨拶がありました。
 
 まだ時間があったので,思いついて,靖国神社に行ってみました。ニュースなどでよく耳にする靖国神社なのですが,私はどこにあるのかさえ知りませんでした。
 ということでどこにあるのかな? という興味だけで行ってみたのですが,鳥居の大きさに驚きました。私が見たかったのは,ここにある,と聞いていた,以前,大河ドラマ「花神」で主人公だった大村益次郎の銅像でした。
  ・・・・・・
 大村益次郎は,1825年(文政8)長州,現在の山口県の村医者の家に生まれました。1846年(弘化3年)大坂に出て緒方洪庵の適塾で学び,塾頭まで進みました。時代が彼の才能をほっておかず,戊辰戦争で東征大総督府補佐となり勝利の立役者となりました。太政官制において兵部省初代大輔を務め,日本陸軍の創始者,陸軍建設の祖とされます。
 1869年(明治2年)大阪で軍事施設視察後,京都三条木屋町上ルの旅館で,元長州藩士の団伸二郎,神代直人ら8人の刺客に襲われ,それが原因で死去しました。
  ・・・・・・

 ちょうどおやつの時間だったので,カフェを見つけて中に入って,大きなスポンジケーキと,この日は冬なのに暑かったので,アイスコーヒーを注文して一服してから,靖国神社に併設された「遊就館」(ゆうしゅうかん)を見学しました。
 遊就館は祭神ゆかりの資料を集めた宝物館で,幕末維新期の動乱から太平洋戦争に至る戦没者,国事殉難者を祭神とする靖国神社の施設として,戦没者や軍事関係の資料を収蔵・展示していて,1882年(明治15年)に開館した日本における「最初で最古の軍事博物館」だそうです。
 「遊就館」という名称は,中国戦国時代末の思想家・儒学者「荀子」(じゅんし)勧学篇の
  ・・・・・・
 故君子居必擇鄕,遊必就士,所以防邪僻而近中正也
 故に君子は居るに必ず郷をえらび,遊ぶに必ず士に就くは,邪僻を防ぎ中正に近づく所以なり
 君子がきまって環境の良い村里を選んで住み、すぐれた知識人についてきまって学ぶのは,よこしまで偏ることのない礼義にかなって,正しくなるためなのである。
  ・・・・・・
に拠るそうです。

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 上野寛永寺を見学し,上野公園にある寛永寺ゆかりの各所を散策したのち,最後に行ったのが上野東照宮でした。
 東照宮といえば,日光東照宮を思い浮かべますが,東照宮というのは徳川家康を「東照大権現」として,つまり神として祀る神社です。1616年(元和2年)に徳川家康が薨去したとき,柩は久能山に運ばれ,遺言に従って久能山に東照社が創建されました。朝廷は翌年,東照社に「東照大権現」の神号を宣下しました。また,幕府は日光にも東照社を建設し,遷座祭を挙行しました。その後,全国に東照社が造られ,宮号の宣下によって,「東照大権現」は東照宮と号するようになりました。
 危篤の徳川家康が,自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしいと藤堂高虎と南光坊天海に遺言したことから,1627年(寛永4年)に藤堂高虎が創建した上野東照宮は,日光東照宮,久能山東照宮に加え,三大東照宮のひとつに数えられ,徳川家康,徳川吉宗,徳川慶喜を祀っています。現在の社殿は1651年(慶安4年)に徳川家光が改築したものです。

 境内には社殿のほか,狸の木像をご神体とした栄誉権現社や,ぼたん苑があります。
 一見,拝殿の門が閉じられていて,社殿まで行くことができないように思えますが,有料ですが,門から中に入って,社殿まで行くことができて,社殿の立派な装飾を鑑賞できます。社殿内には「唐獅子の壁画」があるそうですが,これは非公開です。
 栄誉権現は,四国八百八狸の総師で,栄誉権現として狸の木像が社殿の左側の小社祠に祀られていて,「お狸さま」とよばれています。法衣を着て座わり,顔を真上に向け,鼻を突き上げて天井を仰ぎ見ている姿を垣間見ることができます。この狸の木像は,江戸時代は大奥に奉納されたものでしたが,そこで大暴れしたり災いをもたらしたので,大奥を追放されていくつかの大名や旗本の家に渡り,追放先でも,大名,旗本の諸家をお家断絶にまで追い込むなど数々の災いをなしたのですが,大正年間に上野東照宮に納められて,ようやく災いをもたらさなくなったといわれています。
 ぼたん苑では,元日から2月下旬に特別に冬に開花するよう促成栽培した冬牡丹を展示する「上野東照宮・冬ぼたん」が開催されていました。ぼたんには早春と初冬,二季咲きの性質をもつ寒ぼたんという品種があるのですが,着花率が低いので,これを正月の縁起花として抑制栽培の技術を駆使して開花させたものが冬ぼたんで,ぼたん苑には160株の冬ぼたんがあって,美しく咲き誇っていました。 
 また,遠くに見える五重塔は,もともとは上野東照宮のものでしたが,明治の神仏分離令で寛永寺の所属となりましたが,幕末の上野戦争で焼失しました。その後現在地に再建され,東京都に譲渡されたものです。

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 南光坊天海は,1643年(寛永20年)に亡くなった天台宗の大僧正ですが,徳川家康の側近として,江戸幕府初期の政策に深く関与しました。生まれは,将軍足利義澄落胤説やら,姿を変えて生き残った明智光秀やらという説があり,また,生年もはっきりしていませんが,100歳以上の長命であったそうです。
 前半生についてはわからず,福島県会津美里町の龍興寺にて出家した後,天台宗を学び,比叡山延暦寺や園城寺,興福寺などで学を深めたといいます。1588年(天正16年)に現在の川越市にあった無量寿寺北院に移り,天海を名乗ったあたりから,足跡が明瞭となっています。
 北条攻めの際,南光坊天海は徳川家康の陣幕にいたとし,その後,家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担いました。1616年(元和2年),危篤となった家康は遺言を天海託し,2代将軍・徳川秀忠の諮問によって,徳川家康の神号を「東照大権現」と決定し遺体を久能山から日光山に改葬,3代将軍・徳川家光に仕え,1624年(寛永元年)に寛永寺を創建しました。
 前回書いたように,寛永寺は,比叡山延暦寺が京都御所の鬼門に位置し,朝廷の安穏を祈る鎮護国家の道場であったことにならい,山号を東の比叡山という意味で東叡山とし,清水寺に習った清水観音堂,琵琶湖を模した不忍池辯天堂, 五重塔,開山堂,大仏殿などの伽藍を作りました。
 と聞いたので,寛永寺の見学を終えたあと,私は,それらの史跡を訪ねました。

 まず,ほとんどの人は,この存在を意識していませんが,上野の森美術館の前に,天海僧正毛髪があります。南光坊天海が亡くなったのち,諡号(しごう)を慈眼大師とし,墓所は日光山輪王寺に造られ,1643年(寛永20年)に弟子の晃海(こうかい)によって本覚院伝来の毛髪を納めた塔が建てられ,毛髪塔とよばれるようになりました。お坊さんの毛髪…?
 次に,清水観音堂にのぼり,不忍の池を見下ろしました。清水観音堂は京都の清水寺を模した舞台造りのお堂で,1631年(寛永8年)に南光坊天海により建立されました。また,本尊も清水寺より恵心僧都(えしんそうず)作の千手観音像を迎えて秘仏としてお祀りしました。はじめは上野公園内の擂鉢山に建てられ,元禄初期,今の噴水広場の地に寛永寺総本堂の根本中堂建設が決まると,その工事に伴って1694年(元禄7年に現在地に移築されたもので,上野に現存する創建年時の明確な最古の建造物です。
 最後に上野大仏に行きました。1631年(寛永8年)に初建された上野大仏は,度々罹災し,その都度復興されましたが,関東大震災で首が落ち,第2次大戦で軍の供出令によって胴体が徴用され,顔のみが残されました。現在,大仏殿の跡地にはパゴダが建立され,本尊として旧薬師堂本尊の薬師三尊像が祀られています。
  ・・・・・・
 大仏を埋めて白し花の雲
    子規
  ・・・・・・
  胴体を失った顔面は「これ以上落ちない」という意味に変化し,2000年代前半ごろから受験生が祈願するようになり「合格大仏」とよばれています。


 上野はよく行くのですが,これまで,こうした場所を歩いたことはなかったので,とても興味深く感じました。

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 2024年1月13日,JR東海ツアーズ主催の特別公開に参加して,上野の東叡山寛永寺に行って,徳川将軍の墓を見てきました。
 2023年10月14日に芝の増上寺と谷中霊園に行ったとき,次のように書きました。
  ・・・・・・
 徳川将軍の墓所は1か所にあるのではなく,日光東照宮,上野の寛永寺,芝の増上寺,そして,谷中霊園の4か所にわかれています。
 初代将軍・徳川家康と三代将軍・徳川家光の墓は日光東照宮にあります。
 そして,芝の増上寺に墓があるのが,2代将軍・徳川秀忠,6代将軍・ 徳川家宣,7代将軍・徳川家継,9代将軍・徳川家重,12代将軍・徳川家慶,14代将軍・徳川家茂であり,上野の寛永寺に墓があるのが,4代将軍・徳川家綱,5代将軍・徳川綱吉,8代将軍・ 徳川吉宗,10代将軍・徳川家治,11代将軍・徳川家斉,13代将軍・徳川家定。そして,谷中霊園に墓があるのが15代将軍・徳川慶喜です。
  ・・・・・・
 芝の増上寺にある徳川将軍の墓は公開されているので見学できますが,今回行くことができた寛永寺にある徳川将軍の墓は普段は未公開なので,やっと念願がかないました。

  ・・・・・・
 天台宗の別格大本山東叡山寛永寺は,1625年(寛永2年)に,徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため,江戸城の鬼門にあたる上野の台地に,南光坊天海によって建立されたものです。比叡山延暦寺が京都御所の鬼門に位置し,朝廷の安穏を祈る鎮護国家の道場であったことにならい,山号は東の比叡山という意味で東叡山とされました。江戸時代には格式と規模において我が国随一の大寺院となり,現在の上野公園の中央部分,噴水広場にあたる竹の台に,間口45メートル,奥行42メートル,高さ32メートルという壮大な根本中堂が建立され,現在東京国立博物館に当たる場所には本堂があって,小堀遠州による名園が作庭されました。また,清水寺に習った清水観音堂,琵琶湖を模した不忍池辯天堂, 五重塔,開山堂,大仏殿などの伽藍が競い立ち,子院も各大名の寄進により三十六坊を数えました。
  ・・
  幕末の戊辰戦争で,境内地に彰義隊がたてこもって戦場と化し,全山の伽藍の大部分が灰燼に帰してしまい,1885年(明治18年)に,輪王寺門跡の門室号が下賜され,天台宗の高僧を輪王寺門跡門主として再出発しました。
 根本中堂は,1879年(明治12年)に,川越喜多院より本地堂を移築し,再建されたもので,伝教大師作の本尊薬師如来や東山天皇御宸筆「瑠璃殿」の勅額は,戦争の中運び出され現在の根本中堂に安置されています。また,根本中堂正面側にある銅燈籠と銅鐘は,徳川家光(大猷院)霊廟に奉納されたものということです。
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 今回案内していただいたのは,5代将軍・徳川綱吉と8代将軍・徳川吉宗,13代将軍・徳川家定とその正室である天璋院篤姫の墓でしたが,これらの霊廟は,立派な勅額門の奥に広がっていました。建立当時は敷地内に拝殿や鐘楼,回廊などさまざまな建造物があったそうですが,現存するのは,宝塔を除いて,勅額門と水盤舎のみです。徳川綱吉の墓はとても立派ですが,徳川吉宗以降は,豪華な霊廟を新たに造ることが禁じられ,宝塔だけを造り合祀するようになったということです。生類憐みの令で有名な徳川綱吉は,巨大な犬小屋を建てるなどして,贅沢に徳川家の財産を食いつぶしてしまったのです。徳川将軍は,御宝塔の真下に江戸城を向いて公家装束をまとって座るように土葬されているそうです。
 今回案内していただいたのは,寛永寺の石田亮岳執事でしたが,奇しくも,この日の夜9時から放送された「世界ふしぎ発見」という番組に出演されていました。
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 特別公開で案内されて見ることができたのはこれだけでしたが,そこで,残りの4代将軍・徳川家綱,10代将軍・徳川家治,11代将軍・徳川家斉の墓はどこなのか疑問が残りました。そこで調べてみました。
 寛永寺には,4代将軍・徳川家綱の厳有院と5代将軍・徳川綱吉の常憲院の霊廟があります。以前は,現在のものよりも立派なものだったそうですが,1945年(昭和20年)の空襲で焼失し,現存するのは,その一部ということです。
 今回見ることができたのは,そのうちで,5代将軍・徳川綱吉の常憲院の霊廟で,その入口にあったのが勅額門,そしてそれをくぐると,水盤舎,奥院唐門がありました。さらに,霊廟の中には,併せて,奥院宝塔として,8代将軍・徳川吉宗の有徳院宝塔,13代将軍・徳川家定の温恭院宝塔、徳川家定夫人の天璋院宝塔,そして,明治以降,16代徳川家基の孝恭院宝塔と17代徳川家正の宝塔が建っていました。なお,18代徳川恒孝さんは御存命です。
 4代将軍・徳川家綱の厳有院霊廟は,道路を越えた寛永寺第二霊園にあって,道路に面して,勅額門だけは見ることができて,その奥に,水盤舎,奥院唐門があり,併せて奥院宝塔として,10代将軍・徳川家治の浚明院宝塔,11代将軍・徳川家斉の文恭院宝塔があるそうですが,厳有院霊廟は非公開です。

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 日にちは前後して,2023年12月16日の話です。
 横須賀港で「ドナルド・レーガン」を見たあと,東京に戻ってきたのですが,NHK交響楽団の定期公演まで時間があったので,ずいぶん前に1度行ったことがあるだけだった上野の国立科学博物館へ行くことにしました。
 国立科学博物館(National Museum of Nature and Science)は,国立という肩書きがついていますが,独立行政法人が運営しています。施設は上野恩賜公園内に所在する上野本館,白金台に所在する附属自然教育園,つくば市に所在する筑波実験植物園と昭和記念筑波研究資料館(非公開)があります。私はこれまで,附属自然教育園にも行ったことがあります。
 驚いたというか戸惑ったのは,まず,国立科学博物館には,日本館と地球館があったことでした。日本館というのは旧館で,地球館というのは新館のことらしいのですが,私が前回行ったときは旧館にあたるところだけしかなかったのです。次に,65歳以上が無料だったことです。これはうれしい誤算でした。あやうくチケットを買いそうになりました。私が東京に住んでいるのなら毎日でも行くのになあ,と思いました。
 名古屋市民のみ65歳以上無料という名古屋市の施設は,これを見習ってほしいものです。
 ということで,入口で生まれた年を自己申告するだけで中に入れた私は,まず,新しくできた地球館に向かいました。地球館は,1998年に第1期工事が完了し,1999年から常設展示が公開され,第2期工事完了後の2004年にグランドオープンしたそうです。また,2014年に北側展示場が改修工事のため閉鎖され,2015年にリニューアルオープンしたということなので,今は全館が見られるわけで,ちょうどいい時期に訪れたことになります。

 私が国立科学博物館という名前にはじめて接したのは,ここに勤めていた村山定男さんと小山ひさ子さんのことを,今は亡き藤井旭さんが,その著書や「月刊天文ガイド」でよく話題にしていたことからでした。
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 村山定男さんは,1924年(大正13年)に生まれ, 2013年(平成25年)に亡くなった天文学者で,国立科学博物館に長く奉職し,生涯を通じて天文普及活動に尽力した人です。また,小山ひさ子さんは,1916年(大正5年)に生まれ,1997年(平成9年)に亡くなった天文学者で,50年間にわたり,国立科学博物館の口径20センチメートルの屈折望遠鏡で太陽黒点の観測と記録を続けた人です。
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 私は,ロサンゼルスにあるドジャースタジアムには4度行ったけれど,名古屋にある中日ドラゴンズのホームグランドには1度しか行ったことがなく,ワシントンDCにあるスミソニアン博物館には2度行ったことがあるのに,上野の国立科学博物館には1度しか行ったことがない,というように,これまで,海外に目を向けても日本にあまり興味がなかったので,日本のこうした施設に疎く,このごろ,やっといろいろなところに出かけるようになりました。
 とはいえ,国立科学博物館の展示内容は,海外の同じような施設で見たことがあるようなものばかりだし,展示されている科学的な内容はほとんどのことを知っていたりと,私にはあまり珍しいものもなかったことと,土曜日で人が多く,じっくりと見学することもできなかったので,その多くは素通りすることになりました。
 そんな中で,私の目的は,先に書いた,小山ひさ子さんが使用していて,今は現役を退いた口径20センチメートルの屈折望遠鏡が,今はドームから降ろされてどこかに展示してあるらしいので,それを見ることでした。なお,日本館の屋上に今もなお存在するドームの中には,現在は西村製作所製の口径60センチメートルの反射望遠鏡が設置されているそうです。
 やっと見つけたそれは,地球館の地下3階にありました。日本光学(現在のニコン)が当時の最高技術を使って作られた望遠鏡ですが,現在では口径20センチメートルというのは大口径でもなく,また,現在の目から見ると,口径の割にかなり大仰な架台だと感じました。

 口径20センチメートルの屈折望遠鏡とともに,興味深かったのは,ハワイ島マウナケア山に設置した「すばる望遠鏡」ハワイにある「すばる望遠鏡」の先端の主焦点に取り付けて観測に用いられ,2017年に現役を退いた,キヤノンが開発・製造したモザイクCCD(天体の光を捉えるための半導体素子)カメラ「シュプリームカム」(Suprime-Cam)の実物でした。「シュプリームカム」の展示がはじまったのが今年2023年3月というから,これを見ることができたのも幸運でした。
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 ハワイ島マウナケアにある「すばる望遠鏡」は,8.2メートルの大口径と広い視野が特徴の光学赤外線望遠鏡です。「すばる望遠鏡」の広視野観測は,CCDを何枚も並べたモザイクCCDカメラを使用し,そのカメラを望遠鏡の主焦点に取り付けることで実現しました。
 その広視野観測を支えてきたのが,「すばる望遠鏡」の主焦点カメラ「シュプリームカム」。10個のCCDを使用し,8,000万画素にも及ぶ巨大カメラは,2000年から2017年まで主要観測装置として活躍しました。現在は,これに代わり,さらに広視野・高画素(8億7,000万画素!)の超広視野主焦点カメラ「ハイパー・シュプリームカム」(HSC=Hyper Suprime-Cam)が多くの成果をあげています。
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 そういえば,国立科学博物館で実物を見ることできる,と以前読んだことがあって,見てみたいと思った記憶がよみがえりました。また,この階には,ノーベル賞を受賞した学者さんたちの論文などが展示されていて,私は,これらにもとても興味をもちました。
 この日の晩,ホテルで,めずらしくめったにつけないテレビをつけたら,偶然,NHKBSで「2時間でまわる国立科学博物館」という番組が放送されていて,これまた驚きました。

 今回の1泊2日の東京の旅は,こうして,横須賀港で空母「ドナルド・レーガン」を見て,上野の国立科学博物館へ行って,NHK交響楽団の第2000回定期公演を聴いて,「川崎家」でラーメンを食べて,さらに,「駒テラス忘年会」に出席するという盛りたくさんの経験をして,帰路に着きました。
 帰りは,新幹線の車内で,品川駅で買った駅弁「シュウマイ弁当」を食べました。
 今回もまた,天気にも恵まれ,楽しい時間を過ごすことができました。

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 再び西荻窪駅で中央線にのって,新宿駅で降り,都心へ戻ってきました。
 NHK交響楽団の定期公演は午後6時からですが,開場は午後5時。それまでどこに行こうかな,と思ったとき,新宿御苑へ行ったことがないことに気づきました。人で一杯,と思ったので,あまり気乗りはしなかったのですが,ほかに名案があるわけでもなし,東京はどこかしこも人ばかりだから,あきらめて行ってみることにしました。
 その前に,新宿のニコンプラザに寄りました。ここでは写真展をやっているので,それが楽しみだったことと,新製品を触ることができるので,たびたび足を運ぶのです。数年前まで製品が売れず苦労をしていたニコンでしたが,ニコンZ9,ニコンZ8,ニコンZfと立て続けに売れ筋のカメラや高性能のレンズを発売して,やっとよみがえった感じです。

 さて,ニコンプラザを出て,歩いて新宿御苑にたどり着きました。
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 新宿御苑は,広さ58.3ヘクタール(約5ヘクタールがプロ野球のグランド程度),周囲3.5キロメートルで,園内は,風景式庭園,整形式庭園,日本庭園が巧みに組み合わされています。明治を代表する近代西洋庭園といわれ,特色あふれる様式の庭園が楽しめます。
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 ということですが,ここは,1590年(天正18年)に,徳川家康が譜代大名であった内藤清成に授けた屋敷地の一部だったところです。高遠藩主であった7代・内藤清枚(きよかず)がこの場所に下屋敷を建てたことで,内藤家の江戸屋敷となりました。江戸時代,甲州街道が整うと,この地は宿場町「内藤新宿」として賑わうようになったそうで,それが「新宿」という名の由来です。
 明治維新後,1872年(明治5年)「内藤新宿試験場」が設置され,1879年(明治12年)には宮内省所管の「新宿植物御苑」となり,1906年(明治39年)に皇室庭園となったことで,名前が「御苑」というわけです。戦後は一般に公開されました。
 内藤清成なる人物を私は知りませんでした。大河ドラマにも出てきません。
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 1555年(弘治元年)三河に生まれた内藤清成は,明治維新まで続いた高遠藩内藤家の初代とされます。徳川秀忠の傅役(教育係)を任されたり,徳川家康江戸移封の際に鉄砲隊を率いて先陣をつとめるなど,徳川家康からの信頼が厚い人物で,江戸時代に入ると,関東総奉行や江戸町奉行,老中などをつとめ,初期の幕府を支えました。
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 東京だから,どこに行こうと人だらけですが,新宿御苑は,まあ,許せるほどの人混みでした。
 紅葉にはまだ早いくらいでしたが,黄色くなった大きなイチョウの木や,プラタナスの並木がきれいでした。

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Beaver Moon 2023.

明け方西空の満月です。
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