●外は雷雨●
☆16日目 8月11日(木)
朝が来た。
昨晩同様,この日も朝食をとらず早々にチェックアウトをして,ホテルのシャトルサービスを利用して空港に向かった。空港に到着して荷物を預ければ,旅はこれですべて終了である。今回の,長年行きたかったところ,やりたかったことをすべて詰め込んだ長期間,長距離の旅はこれで終わりである。
「長期間」といってもわずか2週間なのだが,仕事や留学ならともかく,観光としての旅行はこの程度がよいのである。これ以上長期間になると,たとえば爪切りのような,日常的な持ち物が必要になってくるのである。旅は身軽に,そして非日常に限るのだ。
いや,旅に限らず,生きるということは,すべて身軽に限るのである。近頃はiPadやらiPhoneのようなものがあるから,余分なものを持つことなく大抵のことができるから,さらに身軽になってとても助かるわけだ。そしてまた,日々,非日常のときめきが必要なのである。
このブログにすでに書いたように,アメリカでこそ効力を発揮するのが「エアラインアライアンス」である。この「エアラインアライアンス」においてゴールドステイタスさえ手に入れておけば,「TSA Pre」と書かれた優先者用のセキュリティを通って,ターミナルに入り,エアラインアライアンスのラウンジで出発までゆったりと過ごすことができるわけである。
今回の旅は東海岸だったから,フィラデルフィアからデトロイトを経由してセントレア・中部国際空港に帰ることになる。MLBの日程の都合で,旅の途中でワシントンDC とフィラデルフィアを往復することになってしまったが,そのためにアムトラックにもメガバスにも乗ることができたから,そのこともまた,それはそれでムダでなかった。
東海岸のメガロポリスは,おおよそアメリカらしくない。ここは日本の東京から大阪にかけてとさほど違いはない。ここには日本の企業もたくさん支社を構えていて,仕事で在留している日本人もたくさんいるに違いない。だから,私がこの旅で経験し,ここに書いたようなことは,そうした人たちにはあたりまえのことであったかもしれないが,私にとっては貴重な経験であり,多くの思い出ができた旅であった。
しかしまた,帰国後,アメリカに住む私の知人が「もう東海岸は懲り懲りでしょう」と言ったが,その言葉こそが私の気持ちを代弁している。
私は,この旅の35年前に生まれてはじめて憧れだったニューヨーク,ワシントンDC ,そして,ボストンとひとリ旅をした。また,今から数年前に,再びニューヨークとボストンに行くことができた。そして,今回はそのときに行くことができなかったワシントンDCにも再訪し,そしてまた,生まれてはじめて念願のフィラデルフィアにも行くことができた。そして,およそ,アメリカの東海岸がどういうところかは自分なりに納得がいった。
そして出した結論が「もうこれでいいや」ということであった。私にとっては,こうした人口の密集した車だらけの贅沢極まりないアメリカではなく,広大な台地に広がる大自然こそがアメリカの魅力,なのである。
朝食をとったりネットを見たりしてしばらっくラウンジで過ごしていると,やがて搭乗時間になったので,ラウンジを出て搭乗口に向かった。
何事も偶数番号と奇数番号をうまく使い分けるアメリカのシステムは搭乗口もまた同様で,コンコースの左側と右側で、搭乗ゲートの番号も偶数と奇数に分かれている。
いつものとおり,国内線ではファーストクラスにグレイドアップされて,広い座席に座って離陸を待った。ふと窓どから外を眺めてみると,かなり強い雨が降っていて驚いた。
この旅でも晴れ男の私はずっと天気に恵まれたが,帰国の日になっても,空港に到着するまではその予感さえなかったのに,現在は,まだ朝であるにもかかわらず,かなり強い雷雨になっていた。
さて,これから20時間余りをかけて,私は日本に帰国することになる。
アメリカも東海岸は遠い。
それでもデトロイトに到着さえすれば,セントレア・中部国際空港まで乗り換えなく行くことができるし,アメリカの国内線は待ち時間さえ少なければ時間の無駄もない。この日の帰国便はデトロイトでの乗り換え時間が非常に少なく,その点は便利なのだが,もし国内線のデトロイト到着が遅れると帰国便に乗り損ねる心配があるから,それもまたよしあしである。
飛行機は定刻にデトロイトに向けて離陸した。
タグ:フィラデルフィア
2016夏アメリカ旅行記-帰国①
●なんとかホテルにたどり着く。●
不愛想で,かつ,不気味な運転手であったが,こうして,なんとか私はホテルの最寄りのバス停で降りることができた。
旅先ではこれまでもいろいろなことがあったが,いつも,なんとか奇跡的に目的地にたどり着くことができている。しかし,おそらくそれは奇跡的ということではなく,だれであってもそのようにうまくいくのであろう。
それにしても,電車に比べて,バスというのは利用するのが難しいものだ。それはアメリカだから,ということではなく,日本でもそう違いはない。 しかし一旦乗車してみると,バスを利用している人は弱者が多く,彼らはみな親切なのである。人の痛みというのをよく知っている。だから,助け合いの精神があって,なんとかなるのである。
そしてまた,バスに乗ると,その土地に住んでいる人のことがよくわかるのである。
とはいえ,ずっとその土地に住んでいても,いつも車を使っているからバスについて尋ねても知らない地元の人も多い。
このブログ書きながら探しても,私の手元には空港のバス停以外,バスの写真がないのが残念なのだが,写真を写している余裕がなかったから仕方がない。バス停の写真の次に私が写したのは,今日の写真,つまり,夜明けの前のホテルの写真であった。
話を少し戻そう。空港から乗ったバスで運転手に促されて降りたバス停からホテルまでは,徒歩でわずか5分程度であった。しかし,この日はものすごく暑い日で,少し歩くのも嫌であった。そうして,やっとホテルのある広い敷地に着いのだが,同じ敷地にはホテルが2軒あって,私が予約したのはずっと奥まったところの古いほうであった。
そのホテルの部屋の写真が今日のものであるが,写真で見ると古びて見えないのがマジックである。
チェックインをするためにフロントへ行った。確かにこのホテルの口コミに書いてあったとおり,フロントにいた女性はきわめて親切で愛想がよかった。しかし,だからといってホテルが新しくなるわけではない。
このホテルにはレストランがなく,朝食は隣のホテルでとるのだと言われた。また,朝は夜明け前から隣のホテルと共通の空港までのシャトルサービスがあるという話であった。
私はこのホテルに到着した時点で,なぜこんなホテルを予約したのか再び後悔した。しかし,だね,こういうわけのわからないことが,将来,ずっと思い出になるのである。
私はアメリカで,ものすごく多くのこうした「しがない」モーテルに泊まった経験があるが,ほとんどの快適だったホテルのことは忘れてしまったが,記憶に残っているのは,まさしく,こうしたホテルばかりなのである。
これもまた以前書いたことがあるが,アメリカのホテルは宿泊代が10,000円以下になるとろくなことはない。このわずか数千円の差が決定的なのである。アメリカでも,女性はこんなところには泊まらない,と聞く。
ともかく,たとえ古かろうと汚かろうと,私はこの旅の最後の1泊を無事にホテルで迎えることができてホッとした。この日は,まだ夕食もとっていないかったが,もう食事をとらずに寝てしまうことにした。
明日になれば早朝に空港に行って,デルタ航空のラウンジで,お腹いっぱいの朝食が無料で食べられるであろう。それを楽しみに最後の夜を過ごすとしよう。
2016夏アメリカ旅行記-憧れの古都・フィラデルフィア⑦
●一言も発しないバスの運転手●
昨晩まで宿泊したホテルの最寄りの地下鉄の駅には,地下鉄だけでなく,空港へ行く電車の駅もあった。ちょうど,東京の地下鉄の駅と私鉄の駅があるようなものだ。
私は,このときはじめて空港へ行く電車に乗ることになったが,駅の窓口に空港へ行く電車のチケット売り場があったのでそこでチケットを購入してホームに降りた。日本とは違って改札口というものはなく,車内で検札がくる。
やがて,ホームに電車が滑り込んできた。乗ってしまえば空港までは遠くない。しかし,治安が悪いというのではないが,どうも車内の雰囲気がよくなかった。これは客のせいなのであろうか? それとも,この電車の走っている場所柄のせいであろうか?
実際,ダウンタウンの西側はあまり風紀のよさそうなところでなかった。
私が今晩のホテルを空港の近くにしたのは,明日のフライトの時間がとても早かったからだが,ダウンタウンから空港までがこれほど便利だったのならダウンタウンにもう1泊すればよかった。
この日の晩予約したホテルは空港からは近かったが,それでも空港から歩いて行けるような距離ではなかった。そこで空港から路線バスに乗るのだが,その場所にはダウンタウンからもバスで行くことができて,しかもそのほうがずっと運賃が安かったから,私はよほどバスで行こうと思っていたが,もしそうしていたら,そのバスの通るところは,あまり風紀のよいところでなかったわけだ。
30分もかからず,電車は空港に近づいてきた。窓から右手に広い空港が見られるようになった。アメリカの空港はどこもあまりに広すぎて,ターミナルから歩いて外にでるなんて不可能である。だから,たとえ空港に隣接したホテルであっても,車がなくそこに行くのは不可能である。
やがて,電車は駅に到着した。
私はまず空港に行って,明日のフライトのチェックインを済ませて,カバンを預けて身軽になるつもりであった。しかし,フライトのチェックインはできたものの,カバンは前日では預けられないと言われたので,仕方なくカバンを転がして,事前に調べておいたように,この日宿泊の予約をしたホテルまで行くバスが停まるバス停に行くことになった。
ハワイ・ホノルルの空港も同じであるが,空港では,路線バスのバス停のある場所がなかなかわからなかった。アメリカでは路線バスなんて30分に1本来ればいいほうで,しかも時刻表すらないし,行き先も定かでなかった。
それでもまだ,フィラデルフィアよりもホノルルのほうがましだった。
どうにかバス停を見つけたが,わたしの乗るバスの番号には右まわりと左まわりの同じ行き先のものがあって,それだけでも混乱したのに,やはり,バスはなかなか来ない。バス停には2~3人バスを待っていた客がいたが,先に来た別方向のバスに乗っていってしまい,ついに私ひとりになった。
ようやく私の乗るべきバスがきた… と思った瞬間,バスは私を無視して,停車もしないで通りすぎていってしまった。
これを逃したら,さらに30分も待つわけだ。私は茫然とした。バスの進行方向には,ずっと向こうに,空港内の次のバス停があった。私はバスを追っかけて次のバス停まで行って,どうにかそこに停車していたバスに乗り込んだ。
しかし,このバスの運転手,バス停を出発しても,ひと言も発しない。しかも,バス停の案内放送すらない。これではどこで降りればよいのか,どこで降りるためのひもを引けばいいのかさえ,さっぱりわからない。信号すらないから,バスは停まりもしない。これではらちがあかないので,私は,運転中のこわもての運転手に降りたいバス停を告げた。しかし,なんの返事ももらえなかった。
不安でパニックになりそうになったころ,バスが突然停車して,運転手が私に,ここだ,と言ったのだった。
2016夏アメリカ旅行記-憧れの古都・フィラデルフィア⑥
●フィラデルフィアの公共交通「セプタ」●
結論を先に書くと,私は数千円をケチったために,とんでもない状況に遭うこととなった。フィラデルフィアはダウンタウンから何の問題もなく公共交通機関で空港まで行くことができるのだった。つまり,私は、東京駅の近くのホテルに泊まって成田空港に行けばよかったのに,宿泊代が高いからと成田市のよくわならない場所に泊まったようなものであった。
このように,私はなんど同じ目にあっても懲りないのであろう。
アメリカでは「空港近くのホテル」というのがもっとも曲者なのである。たとえ近くであろうと,それは歩いて行けるような距離ではないのである。近いからといってタクシーを利用すれば数千円は吹っ飛んでしまうし,空港から送迎があると書いてあっても,送迎のバンを呼ぶ方法がホテルによって,また,空港によってまちまちだし,それを待っていると30分もかかってしまったりするからだ。
アメリカ到着後は,ともかくレンタカーを借りてしまうか,あるいは空港からは公共交通機関(これは鉄道に限る)の接続が便利ならば,それに乗って最寄りも駅から徒歩圏内にホテルを確保するに限るのだ。今回の私の泊まったような空港の近くのホテルの場合,ホテルから空港にはシャトルサービスがあるが,ホテルにはレンタカーで行くことができるか,あるいは,公共交通機関(鉄道に限る)で行くことができる場所に確保することが大切なのである。
いずれにしても,アメリカに到着した日と帰国する前日のホテル選びは慎重に行う必要がある。
そんなことは十分に知っていながら,私はこの旅で,到着した日のオーランドでホテル選びを失敗し,帰国前日のフィラデルフィアで2度目のミスをした。どちらもきちんと計画を立てていたのにも関わらず,である。
すでに書いたことだが,初日のオーランドは,空港のターミナルビルにホテルがあるからそこに泊まればよかったものを,数千円をけちったためにバカをみた。それでも,予定通り飛行機がオーランドに到着していれば,私の予約したホテルにバスで行くことができる見込みであったのに,飛行機の到着が遅れたために,すでに調べておいたバスはなく,タクシーに乗ったら望外な料金が取られた。そんなことなら,レンタカーを借りたほうがずっとまだマシだったのだ。
そして,帰国前日のこの日である。
こちらもまた,数千円をケチって,なにもわざわざ空港の近くのホテルに変わらずとも、フィラデルフィアのダウンタウンのホテルに連泊して,早朝空港に向かえばよかったのだ。
フィラデルフィアのダウンタウンから空港までは電車で1本,乗り換える必要もなく短時間で行くことができるのだった。
フィラデルフィアの公共交通機関はすべて「セプタ」というが,「セプタ」にはバスとトロリーと地下鉄がある。このうち,トロリーというのが日本人にはなにかピンとこないが,要するにに,これは1両編成の市電のようなものなのだ。
そしてまた,「セプタ」ではなく,郊外に走る電車もあって,これは日本の私鉄のようなものである。
・・
来てみれば簡単なことだが,ガイドブックを見ているだけではそれがよくわからない。おそらく,それは外国人が日本に来たときにも同じようにわからないものであろう。こうした「案配」というのが,旅をする前にいくら本を読んでもわからないことで,実際に旅をしなくては納得ができないのである。
2016夏アメリカ旅行記-憧れの古都・フィラデルフィア⑤
●レディングターミナルマーケット●
私はこうして,ついに,念願の「自由の鐘」に会うことができた。その後,独立記念館,国会議事堂のツアーにも参加して,インディペンデンス国立歴史公園の見学を終えた。
今回の私の旅はフロリダからはじまって,ずいぶん長い距離であった。フィラデルフィアにはやっと行くことができたが,これで,ずっと行きたかったところへはすべて行くことができた。
ホテルに戻る前に,インディペンデンス観光案内所に寄り,そこで売っていたサンドイッチをお昼ご飯として食べた。しかし,結果的にこれはちと早まった。
この日の予定はこれで終わりだった。この後はホテルに戻ってクロークに預けてあった荷物を引き取り,今日の宿泊先である空港の近くのホテルまで行ってチェックインをするだけであった。
それで,この旅は終了である。
しかし,ホテルに戻るにはまだ時間が早かったので,その途中にあって,ずっと気になっていたレディングターミナルマーケット(Reading Terminal Market)へ寄ることにした。
行ってみてわかったことだが,このレディングターミナルマーケットこそが,実にフィラデルフィアらしい,というか,この街でもっとも魅力的な場所であった。もし,私がここに行かずに帰国していたら,フィラデルフィアに関する印象はずいぶんと違ったものであったことだろう。
このマーケットは,これまで私が行ったアメリカの他の都会にはなかったものだった。ここはまるで日本にいるような,築地の場外というか上野のアメ横というか,そんな感じの場所であったのだ。
レディングターミナルマーケットというのは120年以上の歴史をもつ地元民のための市場である。
近くの農家から直送された野菜や果物,魚介類,肉,パン,スイーツ,チーズ,ワインに生花と,ありとあらゆるものがこのマーケットでは販売されていた。さらに,マーケットだけでなく,ここには非常に多くのフードコートがあって,ありとあらゆる食べ物を安価に食べることができる場所であった。
つまり,フィラデルフィアで昼食をとるには,ここに来ればよいのである。
このとき,私はすでにインディペンデンス観光案内所で手っ取り早い昼食を済ませてしまっていたことをずいぶんと後悔した。ここなら,もっと種類が豊富でしかも安価な昼食をとることができたのだった。
もし日本人がフィラデルフィアに住むのなら,このマーケットの存在さえ知っていれば,何の心配もないことであろう。そうしたことから,ここに住む日本の人が書いたこのマーケットでおすすめの食べ物などの情報がネットにあふれているから,探してみると面白いと思う。
昔,ニューオリンズに行ったとき,ニューオリンズを知らずしてアメリカは語れないなあ,つまり,ニューオリンズがアメリカの他の都市とはあまりに違うことに驚いたのだが,このマーケットもまた,アメリカの他の都市にはないものであった。
今日では,日本はもちろんのこと,アメリカでもどの都会に行っても,同じようなチェーン店ばかりになってしまって,わざわざその町に行く意味がなくなってしまったが,こうしたローカル色あふれる場所に行ってこそ,旅で出かける価値があるといいうものであろう。
私はこのマーケットをしばらく散策してから,市庁舎まで歩いて行った。
市庁舎の広場では不思議なものを見た。それは,子供のおもちゃ自動車に乗って奇声を発している男であった。彼の服装から見て,ガードマンなのであろうか,あるいは警官なのであろうか?
馬鹿げていたのは,彼は自分のやっていることを録画していたことであった。そして,その横で同じ制服を着た男が冷たい視線を投げかけていた。もし,日本でこれと同じことをやれば,彼は即座に懲戒免職になったことであろう。
いったいあれは何をしようとしていたのであろうか?
それはそれとして,この日もまた,ものすごく暑い日であった。市庁舎前の広場は地面から水が出ていて,ミニプールのようになっていた。そこで,子供を遊ばせている母親がずいぶんといた。
私は,今やもう,アメリカだけでなく,日本もまた,観光地といわれる都会に行くことにはまったく魅力を感じなくなっていて,それよりも,そこに住んでいる人たちの暮らしぶりのほうにずっと興味がある。それとともに,私がもし,こういうところに生まれて,ここにいる母親だったら…… などと考えるようになってきた。
フィラデルフィアという都会がどういうところかを語るほど私はここに滞在していないが,アメリカのメガロポリスとよばれる東海岸の都会の中では,最も日本人の暮らしやすいところのように思えた。
さて,私の長い旅もこれで終わるのだが,この後もまだ大変なことが起きるのでであった。
2016夏アメリカ旅行記-憧れの古都・フィラデルフィア④
●独立記念館と国会議事堂●
世界遺産でもあるアメリカの独立記念(Independence Hall)は,アメリカの独立宣言が行われた場所である。もとはペンシルヴァニア州の議事堂として使用されていたが,1776年7月4日,この場所で13の植民地の代表が集まってトーマス・ジェファーソンが起草した独立宣言書にサインすることでイギリスからの独立宣言が行われた。さらに,1987年にはアメリカの合衆国憲法が制定された。
1979年,独立記念館はそのことの歴史的な重要な証となるという理由から世界遺産に登録された。
独立記念館は赤煉瓦造りの美しい2階建ての建物で,記念館前の銅像は初代大統領のジョージ・ワシントンである。
内部を見学するにはガイドツアーに参加する必要があって,私は当日の朝,この整理券を手に入れ,ツアーの開始前に,まず,リバティセンターで自由の鐘を見学したことは前回書いた。
いよいよツアーの開始時間が近づいたので,集合場所である敷地内のイーストウイング(East Wing)に行って並んだ。周りの人と雑談をしているうちに時間になったので誘導されて館内に入り,最初に大きな部屋でガイドから独立記念館についての説明を聞いた。
次に向かった部屋が,ツアーのハイライトである独立宣言が採択されアメリカ植民地13州の代表が独立宣言に署名した「署名の間」,緑色で統一された室内であった。ここにはデスクの上に紙や本などが置かれ,当時の様子が再現されていた。ガイドがパネル等を用いていろいろと説明した。
ガイドが,13州がそれぞれどのイスに座ったかという話をしているなかで,ここはカリフォルニア州の席,といういうジョークが飛びだしたりする面白い説明であった。無論,独立13州にカルフォルニア州はない。
廊下や階段部分は青色が使われていた。
ツアーを終えて外に出て,次に向かったのが国会議事堂であった。
フィラデルフィアは1790年から1800年のわずか10年間であったがアメリカ合衆国の首都だった。このときに国の議事堂としても使用されたのがこの建物で,議員数が少なかった当時「元老院」が2階を議場として使用し,議員数の多かった代議院が1階を議場として使用したことが現在の「上院」と「下院」という呼び名の語源である。
この国会議事堂(Congress Hall)は,1789年に「フィラデルフィア郡裁判所」として建設された。ここはイングランド植民地時代の典型的な建築物であるジョージア王朝様式の重厚な外観である。
国会議事堂は,初代大統領ジョージ・ワシントン(George Washington)の2期目と,第2代大統領ジョン・アダムス(John Adams)の就任式が開かれた場所としても知られている。
私は,日本の国会議事堂のなかにはいったこともなければ,県議会議事堂すら見たこともない。
しかし,これまでに,外国からの旅行者であるのに,こうしてここフィラデルフィアの旧議事堂も,そして,ワシントンの現在の国会議事堂も,そして,多くの州の州議会議事堂もなかにはいることができた。こうした議事堂の内部を見学する度に,日本の民主主義が見せかけだけの借り物であると強く感じて,それをとてもはずかしく思うのである。それは,日本の議員の問題ではなく,古来より国民に根付く根本的な考え方自体が「権力=お上」という江戸時代の殿様国家と変わらないものだからである。
2016夏アメリカ旅行記-憧れの古都・フィラデルフィア③
●アメリカ独立の偶像「自由の鐘」●
インディペンデンス国立歴史公園(Independence National Historical Park)には,大統領の家跡,リバティベルセンター(Liberty Bell Center),独立記念館,国会議事堂があって,無料ツアーの整理券はインディペンデンス観光案内所で8時30分から配布されるが,観光シーズンはとても混んでいるということなので,私は8時30分以前に並んで整理券を受け取ることにした。
歴史公園に行ってみると,さほど広くはなかったが,アメリカの他の国立公園同様に手入れの行き届いたとても美しいところであった。さすがに時間が早かったのですぐに整理券を受けとることができた。
次に,私はリバティベルセンターに行った。リバティベルセンターの開館は9時で,まだだれも並んでいなかった。
アメリカの観光地は非常に混雑はしているが,開館前から並ぶというようなせっかちな人は日本とは違い多くない。私は,この旅でやりたいことのほとんどを成し遂げて,最後に残ったのが,この建物のなかにある「自由の鐘」であったから気が急いていた。
やがて,開館時間になって私は館内に入ったが,目的の「自由の鐘」は建物の一番奥にあった。その間には自由の鐘に関するさまざまな展示があったが,私はそれを素通りして,どんどん進んで,ともかく,自由の鐘の前までたどり着いた。
「自由の鐘」(Liberty Bell)はアメリカの独立と並び,アメリカ独立戦争を連想する上で最も突出したシンボルのひとつであるといわれる。また,独立,奴隷制の廃止,合衆国内の国民性と自由において最も親しみのある象徴のひとつでもあり,国際的な自由の偶像としても用いられてきた。
1774年に行われた大陸会議の開催,1775年に勃発したレキシントン・コンコードの戦いの始まりを知らせるために鳴らされてたこの鐘は,1776年7月8日,フィラデルフィアの市民をアメリカ独立宣言の朗読へと招集させるために鳴り響いた。
「自由の鐘」には
・・・・・・
PROCLAIM LIBERTY THROUGHOUT ALL THE LAND UNTO ALL THE INHABITANTS THEREOF LEV. XXV X.
・・
全地上と住む者全てに自由を宣言せよ
レビ記25:10
・・・・・・
その下には
・・・・・・
BY ORDER OF THE ASSEMBLY OF THE PROVINCE OF PENNSYLVANIA FOR THE STATE HOUSE IN PHILADA
・・
ペンシルベニア州議会の命令によりフィラデルフィア議会議事堂へ
・・・・・・
更にその下には
・・・・・・
PASS AND STOW
PHILADA
MDCCLIII
・・
パスとストウ(鐘の製作者名)
フィラデルフィア
1753年
・・・・・・
という銘文が刻まれている。刻印の原典は旧約聖書におけるレビ記の25章第10節によるものである。
この「自由の鐘」は,1751年に,ペンシルベニア州議事堂での使用を目的としてロンドンにある鐘メーカーのホワイトチャペル社により製作された。1753年「自由の鐘」は議事堂外側の中庭広場に吊り下げられたのだが,はじめて鳴らされた際にひびが入ってしまった。
この鐘を撤去する間,「自由の鐘」はフィラデルフィアに住んでいたジョン・パスとジョン・ストウによって再び鋳造されたが,完成した新しい鐘の音は満足のゆかないものであった。そこで再び鐘の製造に取り掛かり,3番目となる鐘が1753年に議事堂の尖塔に掛けられた。
アメリカ独立の初期,「自由の鐘」はペンシルベニア議事堂の尖塔に依然として吊り下げられたままであったが,1777年,アメリカ独立戦争が激しさを増し,鐘はペンシルベニア州の村ノーザンプトンタウンへと移された。19世紀,「自由の鐘」は1804年にアレクサンダー・ハミルトンの死を,1824年にフィラデルフィアへのラファイエットの帰還を,1826年にジョン・アダムズとトマス・ジェファーソンの死を,1832年にジョージ・ワシントンの生誕100周年記念を,そして1834年にラファイエットの死を,さらに1835年にジョン・マーシャルの死を,1841年にウィリアム・ハリソンの死を告げるために鳴らされた。
2回目にひびが入ったのがいつであるか確かではないが,鐘は1846年2月に修理された記録が残っている。それは,1846年2月22日のことである。「自由の鐘」はジョージ・ワシントンの誕生日を祝って独立記念館の尖塔で数時間に渡って鳴らされたが,鐘が鳴らされた際に割れ目部分の上部から鐘の冠の部分まで亀裂が広がってしまい,使用不能になってしまったのだった。
現在もその表面に痛々しく残るその亀裂は修復が施された痕跡であって,当時できた割れ目そのものではない。1852年,鐘はそれまで吊り下げられていた尖塔から移動され,独立記念館内の「独立宣言室」に展示されることとなった。1885年から1915年まで「自由の鐘」は数多くの都市を訪れ,国際博覧会でも展示されたが,1930年代になると,鐘をあちこちへ移動させるにはあまりにも危険であるとの結論が下され,この慣行は終わりを告げた。
1976年,アメリカ独立200周年記念期間のことである。増加すると思われる観光客を予期して「自由の鐘」は再び独立記念館からガラスパビリオンに移された。しかし,このパビリオンはあまり人気がなかったので,2003年に開場となるより大きなパビリオン創設の計画が立てられた。そして「自由の鐘」は南西側近隣に新しく建設されたパビリオンであるこのリバティベルセンターへ移動されて現在に至るのである。
2016夏アメリカ旅行記-憧れの古都・フィラデルフィア①
●食べることに関しては…●
☆15日目 8月10日(水)
今日の夕方にフィラデルフィアの空港近くのホテルに移って,明日の朝には帰国の途に着くので,今日が実質最終日であった。
この旅の35年前に,生まれてはじめてのひとり旅でアメリカ東海岸に来たとき,グレイハウンドバスでボストン,ニューヨーク,ワシントンDCと移動したが,ワシントンDCとニューヨークの間にあるフィラデルフィアへ行かなかったことをずっと後悔していた。
今回,フィラデルフィアで見たかったのは,先に書いた映画「ロッキー」の銅像と「自由の鐘」であったが,35年前にはロッキーの銅像はなかったから,今回行くことができて,逆によかった。
旅をするには順序というものがあるようで,私はそうした運に恵まれているようなのだ。
たとえば,南十字が見たいために,私はまず,ハワイ島のマウナケアを目指した。その次にニュージーランドのテカポ湖に行き,そして,ハワイ・マウイ島へ行き,その後でオーストラリアへ行った。何も深く考えてなかったが,もし,はじめにオーストラリアへ行ってしまっていたら,きっとニュージーランドへ行くことはなかったであろう。また,ハワイ島より先にマウイ島へ行っていたらハワイ島で南十字を見ることもなかったであろうし,マウナケア山にも登っていなかったであろう。
それよりもなによりも,アメリカ50州制覇の前にニュージーランドへ行ってたらアメリカ50州の制覇などしなかったに違いない。
話を戻して…。
混雑するという「自由の鐘」を見るには,開館前に行くべきだと思ったので,早朝,ホテルを出ることにした。アメリカの大都市の観光地は,どこも混んでいるから,なるべく早く開館前に到着するに限るのである。
私はホテルをチェックアウトしてカバンをクロークに預けた。車を使わない旅というのは,カバンの処遇が一番の問題なのだ。
日本の観光地でも,大きなボストンバッグをもって旅をしている外国人を見かけるが,一時預かりやコインロッカーを知らないのに違いない。アメリカでも35年前に旅をしたときは確かにコインロッカーが存在したが,考えてみれば,これほどセキュリティ上危険なものはないから,今は存在しないのではないか?
さて,私は,地下鉄に乗って数ブロック,この自由の鐘がある歴史地区に到着した。フィラデルフィアは非常に狭いところにこうした歴史地区があるので,歩いて観光するのが楽であった。
少し到着するのが早すぎたが,幸い,地下鉄の駅を出たところに,非常に安価に朝食をとることのできるレストランがたくさんあったから,私は,その1軒でかつてないデラックスな朝食をとることができた。
フィラデルフィアは食べることに関してはアメリカ有数の都会なのであった。
2016夏アメリカ旅行記-再びフィラデルフィアへ④
●どこの国もそう変わらないものだ。●
デラウェア州はメリーランド州とペンシルベニア州の間にある小さな州なので,メガバスはデラウェア州ニューアークのデラウェア大学にある停留所を出発しインターステイツ95に戻ったら,すぐにペンシルベニア州の州境になった。
思う存分景色が見られるバスの旅はいいものだ。特に,日本と違って,道路に防音壁がないから非常に見通しがよく美しい。
このようにして,いよいよフィラデルフィアに戻ってきた。ボルチモアとは違って,フィラデルフィアのメガバスの停留所はアムトラックステーションの近くなので,ここからダウンタウンにアクセスするのには問題はない。
しかし,考えてみれば,日本の高速バスだって,途中の停留所は高速道路に作られたところやインターチェンジにあって,そこで降りてもそこから公共交通機関すらない場所だったりするからアメリカと同じようなものだ。だから,このことは,アメリカがどうだ,日本がどうだという話ではない。
同様に,ネットの書き込みには,フィラデルフィアのメガバスの停留所はアムトラックステーションからは少し奥まった「不便な」ところだったので治安が心配であった… と書かれたものがあったが,日本の格安バスの停留所だって,さほどの違いはない。東京駅でも,格安バスの停まるのは八重洲口からずいぶん離れた暗い場所だから,外国人には「不便な」ところに思えることであろう。
それに関連して,もう少しこの話題を続けよう。
ニュージーランドではモーテルのような簡易ホテルは不思議な構造になっていて,我々が思うような部屋の入口というものがない。日本でいう縁側のようなところから入る感じなのである。これもまた,ネットの書き込みに,私の泊まったモーテルには入口がなくとても不安だった… と書かれてあったものを見つけたが,それはニュージーランドでは何も特別なことではないから,書いたほうが無知であるだけなのだ。
それ以外にも,ネットの書き込みには,このような,書き込むほうの偏見やら誤解から来ているものが数多くみられるから,書かれるほうはたまったものでない。そういうことをわかって読む分にはその信ぴょう性が判断できるが,そうでない場合が少なくないことであろう。
さて話をもどして…。
バスはインターステイツ95に沿ってフィラデルフィアの西側を南北に流れるスクールキルリバー(Schuylkill River)を西から東に越え,サウスフィラデルフィアをしばらく走り,ジャンクションでインターステイツ76に乗り換えて逆方向に進み,再びスクールキルリバーを今度は東から西に渡ってから,川に沿って西岸を北上しはじめた。
いよいよ終点である。そしてまた,これが今回の私の旅の最終目的地でもある。
目の前に見慣れたアムトラックステーションの建物が見えてきた。5日前はレンタカーを返却するためにこの駅までやってきたのだったが,そのときはレンタカーリターンの駐車場がなかなか見つからず戸惑ったのを思い出した。
やがて,アムトラックステーションを越えたところの路地を1ブロック過ぎたあたりでバスは停車した。ここが停留所であるらしい。前にはボルトバスも停車していた。
ネットの書き込みにあった「不便な」場所とはここのことをいっているのだろうが,ここはまったく不便な場所ではないし治安の悪いところでもない。
バスが停車したので乗客が順々に降りていって,カバンを手にしてダウンタウンに向かって歩いていった。それは日本の高速バスを降りたときとなんら変わる風景でなかった。
私はふだんレンタカーでアメリカを旅することが多いので,こういう状況を見るのはまれである。
しかし,サンフランシスコ,ニューヨークといった大都会を公共交通機関を使って観光すると,日本もアメリカもさほどの違いを感じないし,どちらが便利だ不便だといっても,それはその土地のことを知らないからそう思うだけであって,日本に来る外国人だってきっと同じようなことを思っているであろう。
成田から東京都心に行く交通機関だってそれは同様だ。日本は自分の会社に客を囲い込むことが大好きだから公共交通機関を使うときに他社との接続については冷淡だったりきちんとした案内がなかったりする。表向き「おもてなし」といいながら,このように薄情なことが少なくない。
あるいはまた,セントレア・中部国際空港へのアクセス鉄道である名鉄電車など,座席指定の特急を利用しない限り英語の放送もなく不案内この上ない。私はこれまで電車に乗り間違えそうになった外国人を数多く救出? したものだ。
一番先頭に座っていたから最後になったが,私もまたメガバスを降りて,アムトラックステーションまで歩いていって,5日前にフィラデルフィアに来たときと同じように地下鉄に乗ってホテルに向かった。そのときはわずか1日間フィラデルフィアに滞在しただけなのに,それでも2度目となると勝手がわかるので,もう戸惑うこともない。
今日から泊まるホテルもまた,前回と同じところを予約してあった。フロントで私が数日前にも来たことを覚えていて,あっさりとチェックインを済ませて,すぐに部屋に入ることができた。
私は部屋に荷物を置いて,再び外に出た。目指すのはフィラデルフィア美術館であった。
2016夏アメリカ旅行記-アムトラックでワシントンDCへ②
●あこがれのアムトラックに●
私は地下鉄に乗り,昨日レンタカーを返却したアムトラックステーションに今度はアムトラックに乗るために到着した。この駅は伝統的な感じのするなかなか雰囲気のよいところであった。
私は,この駅にあるスタンドで,とりあえず朝食をとった。
「アムトラック」(Amtrak)というのは日本でいうJRの在来線の特急で,1971年に発足した連邦政府出資の株式会社である全米鉄道旅客公社(National Railroad Passenger Corporation)が走らせている。
もともとアメリカには国有鉄道というものは存在せず,私鉄の集合体であった。第二次世界大戦後鉄道旅客輸送量が減少の一途をたどり,多くの鉄道会社が旅客営業の廃止に踏み切ったためにその存続が危ぶまれたことから,鉄道会社の旅客輸送部門を統合した全国一元的な組織として設立された。
現在,多くの路線は貨物鉄道会社の線路を借りてアムトラック自前の旅客列車を運行する形になっている。
アムトラックの鉄道運行技術は世界的に見ても決して高いとはいえないという。また,経営状態も厳しいもので,連邦政府や運行地域の一部の州からの財政援助に頼っている。
さらに,2000年頃からは脱線・転覆事故など重大事故を毎年のように起こしており,日本でも報道されている。おまけに,一部の無人駅舎には大量のごみと落書きが頻繁に見受けられ,その環境の悪さも旅客離れの原因のひとつであるし,貨物列車が優先的に線路を使用していることもあって,数時間から十数時間の遅れを出しながら走っているのも珍しくないことである。
そうした現状でも,東海岸のアクロポリスを走る路線だけはアムトラックのドル箱路線となっていて,頻繁にそしてほぼ定刻で列車が走っているのだが,ここもまた,高速バスや航空機のシャトル便との競合が激しくなっている。
アムトラックといえば,大陸横断鉄道を思い浮かべるかもしれない。私もこの大陸横断鉄道で旅をしたいものだとずっと思い続けているのだが,日本の豪華寝台特急を想像したらおそらくは落胆することであろう。
鉄道というのは景色を眺めながら旅をするには贅沢でかつ最高の乗り物であるから,もっと工夫をして運行すれば,世界中から観光客が訪れると思うのだが,なにせ,アメリカは広すぎて,列車で旅するには時間もコストもかかりすぎる。効率を優先する人は航空機を利用するし,低コストを求める人はバスを利用する。そしてまた,引退生活をしている人たちはキャンピングカーを利用するといったように,なかなかうまくいかないらしい。
そんなアムトラックなのだが,私はこれまで乗る機会がなく,一度は利用したいものだと考えていた。この年の6月に行ったモンタナ州のグレーシャー国立公園にはシアトルからアムトラックで行くことができるので駅で多くの観光客がアムトラックを待っていたし,デンバーでもアムトラックの駅で列車が来るのを多くの人たちが待っていたのを見て,その思いが強くなっていた。
そこで,この機会に利用することにした。しかし,ワシントンDCからフィラデルフィアに戻るときに利用した格安高速バスのほうが少し時間はかかったがはるかに便利で安価であった。
これも常々書いているが,アメリカという国は何事も単純で,このアムトラックも航空機を利用するのとシステムは変わらない。事前にインターネットで予約をし,駅にある掲示板を見て,時間になったら係員がホームに降りる階段のもとに来るので,IDと予約したときにプリントした紙を見せてチェックを受けてホームに降りて,列車が来たら乗り込めばいい。アムトラックの座席は指定ではなく,空いたところに座ればいいということであった。
2016夏アメリカ旅行記-アムトラックでワシントンDCへ①
●フィラデルフィアの地下鉄は日本製●
☆10日目 8月5日(金)
今日はこの旅の10日目である。
午前9時35分発のアムトラックに乗って,フィラデルフィアからワシントンDCへ向かう。
まず,今後の日程を書いておくことにしよう。
今日のお昼にワシントンDCに到着してから14日目の8月9日の朝までワシントンDCに4泊する。そして,9日の午前9時30分発のメガバスという名の高速バスで,再びフィラデルフィアに戻り2泊して,16日目の8月11日の朝9時49分発のデルタ便で帰国というスケジュールである。つまり,ワシントンDCの滞在は実質3日半,フィラデルフィアは1日半ということになる。
私は,この旅の計画をはじめたときには,まさかワシントンDCに行くとは思ってもみなかった。サウスカロライナとノースカロライナを中心として,南の方面にマイアミが加わり,さらに北の方面には,ボルチモア,ワシントンDC,フィラデルフィアのボールパークに行ってみようということことから次第に距離が延びていき,ボールパーク以外の観光地を調べているうちに,ワシントンDCが最も見どころが多いことから,ワシントンDCの滞在日数がどんどん増えていったというわけである。
・・
帰国してから思うに,今回の旅でこれだけ欲張って本当によかったと思う。私は50州制覇を成し遂げて以来,もう,アメリカの東海岸のような遠いところに行こうという情熱がなくなってしまったからだ。
アメリカは,西海岸やロッキー山脈あたりののどかなところは捨てがたいが,東海岸のように人も車も多く都会ばかりのところは,日本の雑踏が嫌いで旅をする私には,まったく不向きなところなのである。
今日の4枚の写真は,早朝ホテルを出て,アムトラックステーションに向かう地下鉄の駅までの様子である。
1番目の写真には「リバティプラザ」の看板が写っている。「リバティプラザ」は2棟あって,これは,そのうちのワン・リバティプラザの屋上の展望台を示す看板である。この展望台にも行ってみようと思ったのだが,すでに市庁舎に上ったので,えらく入場料が高いこの展望台に行く気がなくなったのでやめた。
2番目の写真はホテル近くのダウンタウンの様子である。どこにもあるアメリカの大都会という感じであるが,何度も書くように,フィラデルフィアは日本の大都会,そう,名古屋のような感じの街であった。
また,名古屋といえば地下街であるが,3番目の写真は,まさに,フィラデルフィアの地下街の風景である。アメリカの都会でこんな地下街があるのはまれだと思う。私は,フィラデルフィア以外で見たことがない。
そして,4番目の写真が地下鉄のホームである。ニューヨークの地下鉄同様,フィラデルフィアの地下鉄も日本の川崎重工製であった。
2016夏アメリカ旅行記-フィラデルフィア・フィリーズ⑧
●フィラデルフィアにもあった「ユニクロ」●
私は今晩予約したホテルに戻り,チェックインを済ませ,預けてあった荷物をもって部屋に向かった。
アメリカの大都市のホテルは,エレベータに乗るときに部屋のキーカードが必要で面倒だが,セキュリティ上はこの方がずっといいのかもしれない。しかし,こんなものはだれかが先にエレベータに乗っていればそれだけのことである。
エレベータを降りて廊下を歩いて部屋に入った。アメリカのホテルにしては部屋が狭かったが,ずいぶんと「マシ」で清潔で,非常に快適だった。
私は今晩この部屋で一泊して明日はワシントンDC に向かい,数日後に再びフィラデルフィアに戻り,また同じホテルに宿泊することになる。今晩は特に何をするということもなく,ホテルの近くで食事をして,部屋で休むことにした。
私は日本でも旅に出たときに夜飲み歩くということをしないし,そんなことをしても楽しくない。また,ショッピングをして楽しむということもないから,都会を旅行しても退屈なだけである。
フィラデルフィアはよい街だったが,もう一度行こうとは思わない。おそらくリピートするほどの魅力がないのだろう。これがニューヨークとの違いだろうか。ニューヨークにはブロードウェイがある。
ここフィラデルフィアは日本の都会とほとんど変わることもなく,ホテルのとなりにあったビルにはユニクロが入っていた。また,フィラデルフィアには,アメリカの都市にしては珍しく地下街もあった。これは後日知ったことだが,この地下街にあった食堂が非常に安価であった。
フィラデルフィアには食事については結構面白い場所がたくさんあって,苦労することはない。しかし,このときの私はそんなことはまだ知らなかったから,この日の夕食もまた,朝食と同じモールで食べることになった。
何を食べようか探していたら,中国料理のファーストフード店にいた日本人顔(実際は中国人だったが)の愛想のよいおばちゃん店員と目があって,そこで焼きそばなるものを食することになってしまった。この店の名前が「Kato's」といったから,私は日本食の店だと間違えたのだった。
ここの食事はおいしかったが,食べながら観察していると,その右隣の店もまた中国料理の店で,その店の方がずっと繁盛していたから,私は失敗したと後悔した。
反対側にはメキシコ料理店と並んでインド料理の店もあった。私はアメリカに行くと,急に食べたくなるのがカレーライスなのである。しかし,アメリカのインド料理店のカレーライスというものが,どういうものなのかよくわからない。そこで,カレーライスを食べることをいつもためらってしまうのだ。近頃は,日本でも,日本式のカレーライスの店に加えて,インド人のやっているカレーライスの店が増えてきたが,私は「ナン」というものがどうも苦手だし,同じカレーライスなら日本式のカレーライスのほうが好きである。
ともかく,この日はおなかを十分に満たすことができたから,私は満足した。帰り道,となりのビルのユニクロに寄ってからホテルに戻ることにした。ユニクロはニューヨークの5番街にもあったが,そのときは店の前を通っただけだった。なかに入ってみると,すっかりそこは日本であった。売られているものもまったく同じであったし,値段もほとんど同じであった。
かくして,どんどん海外に行くときめきがなくなっていくのである。