●たいへんまずいラーメンを食べた。●
美術館を出て,私は再び歩いてホテルに戻ることにした。すでに書いたことがあるが,フィラデルフィアの見どころのほとんどは地下鉄でアクセスできる。しかし,美術館は地下鉄で行くことができないので,どうやって美術館に来るのか不安であったが,距離にしたらわずか2キロ程度で,30分歩くだけだった。ただし,ものすごく暑い日だったので,それだけが身にこたえた。
ホテルまでの帰路,美術館からダウンタウンにつながる北西から南西に走る道路はベンジャミン・フランクリン・パークウェイといった。この道路は中央分離帯の部分が散策道になっていて,夕方だったので多くの人がジョギングをしていた。
やがて,ローガン・スクエアというロータリーにぶつかった。このロータリーのまわりには,自然史博物館(The Academy of Natural Sciences of Drexel University)やフランクリン・インスティチュート(The Franklin Institute)という名の科学館が集まっていた。さらに,Aviator Park という名の公園があった。
このあたり,特に治安が悪そうな場所ではなかったが,私がちょうどそこを通りかかったとき,公園で炊き出しがはじまった。この炊き出しというのはホームレスを対象としたものであって,準備ができると,公園にいたけっこう多くのホームレスが集まってきた。
日本にもバブルがはじけたころの都会ではホームレスが珍しくなかったが,アメリカでも都会にはホームレスが少なくない。しかし,炊き出しというのははじめて見た。
そんなこんなで,夕方のフィラデルフィアを散歩しながら私はホテルまで戻ってきた。この日の夕食は前回フィラデルフィアに来た時と同じフードコートでと考えていたが,今度こそは前回食べられなかったラーメンにすることにした。
フードコートにあったラ―メン店のメニューは写真のようであった。私は味噌バターラーメンなるものを注文したが,こんなものでも90ドル,約1,000円もする。1ドル110円という相場が正しくないことがこれだけでもわかるであろう。
注文を受けた若い男は,たどたどしくかつ不器用に調理を始めた。まあ,いわば,アルバイト初心者がスガキヤでラーメンをつくるようなものである。
ここのラーメン,何がおかしかったかといえば,写真ではわからないであろうが,ラーメンの入った容器はペランぺランのプラスチック,日本のコンビニで買う弁当の容器のようなものであった。これには驚いた。これではまったくおいしそうでないのである。
このあたりで,私はラーメンを選択したことに後悔をした。そしてまた,食べてみると,これもまた期待どおり? たいへんまずかった。
これもまたいつも書いているように,私はまったくグルメではない。私のまわりにはグルメが多いので,お付き合いで結構ご馳走を食べたりすることもあるが,自分ひとりだとまったく無頓着である。
日本でも,ひとりで旅をしているときは,観光地に行っても吉野家で牛丼を食べているくらいである。酒は底なしだが,これもまた付き合いでないと飲まないから,ひとりで居酒屋にも行ったことがない。
このごろはアメリカにも日本と同じようにフードコートがどこにでもあるから便利だ。アメリカのファミリーレストランは何が馬鹿らしいといって,単に食事を運んでもらうだけでチップがいるということなのである。
オーストラリア人が一番合理的だとだれかが言っていたが,私もまさしくそう思う。
オーストラリアでは,一般のレストランは入ったところにあるレジでメニューを見て直接店員に注文してお金を払ってから番号の書いたスタンドを持って自分で空いている席に座る。水はセルフサービスである。そして,待っていると料理を運んできてくれる。チップは要らない。
日本のファミリーレストランは,チップは要らないし店員がやたらと親切(そう)だが,食後のデザートやコーヒーなどを注文してあっても,催促しないと持ってこないから,結局,客の方がストレスを溜め込むことになる。気を使うのは客のほうだ。はたしてこれをサービスとかおもてなしといえるのかどうか? 日本は世界で最もよくわからない不思議な国である。
いずれにしても,食べ物自体は日本が一番おいしいけれど。
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2016夏アメリカ旅行記-フィラデルフィア美術館③
●この美術館の見物はデュシャン●
フィラデルフィア美術館が所蔵する作品は30万点を誇るが,なんといってもここの見物はデュシャンのコレクションである。
マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)はフランス生まれの美術家で,20世紀美術に決定的な影響を残した。デュシャンは画家として出発したが油彩画の制作は1910年代前半に放棄した。また,チェスの名手としても知られた。第一次世界大戦中の1915年に渡米しニューヨークにアトリエを構えたが,1919年に一旦フランスへ帰国し,それ以後はアメリカとフランスを行き来しつつ,おもにアメリカで活動した。
アメリカにはルイーズ&ウォルター・アレンズバーグ(Louise&Walter Conrad Arensberg)夫妻というデュシャンのパトロンとなる人物がいたので,デュシャンの主要作品のほとんどがアレンスバーグ夫妻のコレクションとなり,フィラデルフィア美術館に寄贈されて一括展示されている。
デュシャンは晩年アメリカに帰化した。
デュシャンはニューヨーク・ダダの中心的人物と見なされ,20世紀の美術に最も影響を与えた作家のひとりと言われる。
ダダとはダダイズム(Dadaïsme)のことで,1910年代半ばに起こった芸術思想・芸術運動である。第一次世界大戦に対する抵抗やそれによってもたらされた虚無を根底に持っており,既成の秩序や常識に対する否定,攻撃,破壊といった思想を大きな特徴とする。
デュシャンは現代美術の先駆けとも見なされる作品を手がけたが,他の画家たちと異なるのは,30歳代半ば以降の後半生にはほとんど作品らしい作品を残していないことである。没したのは1968年だが「絵画」らしい作品を描いていたのは1912年頃までで,以降は油絵を放棄し,そののちは「レディ・メイド」と称する既製品(または既製品に少し手を加えたもの)による作品を散発的に発表した。
ここでは,そんなデュシャンの作品から代表作2点を紹介しよう。
ひとつめは「階段を降りる裸体 No2」(Nude Descending a Staircase No.2)である。
降りるということから連続性によって落下をイメージさせているという。階段は室内にあリ,裸体は非文明でもなく犯罪にも遠い。無機的な情感を排除したこの作品は,あたかも散乱した板状の物を寄せ集めたような裸体,物理的にも精神的にも条件を外した無為は裸体の意味を剥奪しており,性的興奮はもとより骨肉という人間の条件をことごとく打ち消しているように,現存を否定し,鑑賞者を寄せ付けない。
作品と鑑賞者に生じる亀裂の空間こそが作品の主眼であろうか。
ふたつめは有名な「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(The Bride Stripped Bare by Her Bachelors, Even)である。通称「大ガラス」」(The Large Glass)という。
この作品はデュシャンが1915年から1923年にかけて制作し,8年間の歳月がかけられたが未完成のまま放棄された。
作品は縦2.7メートル,横1.7メートルを超える2枚のガラス板に機械のような金属が並べられている。「花嫁と独身者という理性に対立する感情的なエロティシズム,周囲の空間と混ざりあう透明なガラス,偶然に出来た塵やひび割れ,メモなど外部の現実や言葉の侵入を受け入れ成立しているのだという。
2016夏アメリカ旅行記-フィラデルフィア美術館②
●フィラデルフィア美術館所蔵の作品●
館内は美術館の外とは違って閑散としていた。私は受付でみんなロッキーに夢中で館内まで来ないね,と話したらスタッフが困った顔をして同意した。ワシントンDCのナショナルギャラリーもそうであったが,世界からやってくる観光客の多くはこうした美術には興味がないようなのである。
簡単に言えば教養がないのである。
私はまず,レストランに行って昼食をとった。ここもまたとても空いていてゆっくりできた。フィラデルフィア観光では,この美術館の館内はお勧めである,というよりもぜひ行くべきである。
では,今日はこの美術館で見ることのできる作品をいくつか紹介しよう。
ます,3番目の写真はルノアール(Pierre-Auguste Renoir)の有名な「大水浴図」 (Les grandes baigneuses)である。この頃の画家の作品に不満を持っていたといわれるデュラン・リュエル(Paul Durand-Ruel)の好敵手的存在であったジョルジュ・プティ(Georges Petit)の画廊で展示された本作は「都会のダンス」(Dance in the City)でもモデルを務めたシュザンヌ・ヴァラドン(Suzanne Valadon)をモデルに女性らの地中海沿岸での水浴場面を描いたもので,ルノアールが印象主義から脱却し,古典主義またはアカデミズム的な表現への傾倒を示した集大成的な作品としてルノワールが最も力を注いで制作した作品である。
輝くような生命力を感じさせる浴女の姿, 動きのある躍動的な人物の姿態の描写,入念に計算された写実的な人物の描写や構成,流麗な輪郭線,非常に明瞭ながら冷艶さや甘美性も兼ね備える色彩とともに,新たな表現・描写様式が至る所に感じられるという評がある。
4番目の写真は不気味な目を描き続けたイタリアの画家モディリアーニ(Amedeo Clemente Modigliani)の「青い目の肖像」(Blue Eyes)である。まるで宇宙人を思わせる細長い顔と青い目が描かれた絵画がここにある。その絵からは興廃した雰囲気と同時に神秘的な雰囲気も感じる。
モディリアーニの作品は描かれている人の体の曲線と長い首,そして尖った目,輪郭が特徴的だが,この作品ではしなやかで官能的な女性特有の曲線をモディリアーニ独特の表現法でうまく描き表しているという。
ここに描かれているのは妻ジャンヌ・エビュテルヌ(Jeanne Hébuterne)である。彼女はモディリアーニが肺結核が悪化し35歳で亡くなったとき,子供を身ごもったまま21歳の若さで後追い自殺をした。
そして,5番目と6番目はゴッホ(Vincent Willem van Gogh)の作品である。
5番目のものは「カミーユ・ルーランの肖像」(Portrait of Camille Roulin) 。デトロイト美術館,ボストン美術館,そしてここフィラデルフィア美術館には5点のゴッホによるルーラン家の人々を描いた肖像画がある。カミーユ・ルーランはジョセフ・ルーラン(Joseph Roulin)の息子である。ジョセフ・ルーランは郵便配達夫で,ゴッホのアルル滞在中に変ることのない親切を示した。ルーランと彼の妻そして3人の子供達はこの時期のゴッホの肖像画に最も頻繁に登場したモデルだった。
不思議なことに,ゴッホはこの時期、自画像も彼の家族の肖像画も描いていない。
そして,6番目が有名な「ひまわり」(Sunflowers)である。「ひまわり」は1888年8月から1890年1月にかけて描かれた花瓶に活けられた向日葵をモチーフとする複数の絵画の名称である。ゴッホにとっての向日葵は明るい南フランスの太陽とユートピアの象徴であったと言われている。
南仏のアルル滞在時に盛んに描いた向日葵だが精神が破綻し精神病院での療養がはじまってからは描いていない。
「ひまわり」は7点が制作され,このうち6点が現存している。 フィラデルフィア美術館にあるのはアムステルダムにある作品と同時期にミュンヘンにある作品を模写したものとされる。
最後7番目と8番目の2点はミロの作品である。私はミロが大好きなので取り上げた。私はミロの絵画を見るとショスタコビッチの音楽を思い起こすのだが,鮮やかな色彩のなかに几帳面さと上品さがあると感じる。
ジョアン・ミロ・イ・ファラー(Joan Miró i Ferrà)は20世紀のスペインの画家である。ミロはパリでシュルレアリスムの運動に参加したことからシュルレアリストに分類されるのが通例だが,ミロの描く人物,鳥などを激しくデフォルメした有機的な形態,原色を基調にした激しい色使いあふれる生命感などは古典的・写実的描法を用いることが多い他のシュルレアリストの作風とは全く異なり20世紀美術に独自の地位を築いている。
1930年代からはバルセロナ,パリ,マリョルカ島のパルマ・デ・マヨルカにアトリエを持ち制作した。
7番目は「馬とパイプと赤い花」(Horse, Pipe, and Red Flower)。ミロが1920年夏の間に描いたものである。おもちゃの馬と長い粘土パイプが場面にカタロニアの味を添えるている。生き生きとした色,騒々しいパターニングと混雑した構成は彼の初期の絵に特有である。
また,8番目の「男と女と子供」(Man, Woman, and Child)は1931年の作で,私が気に入ったものである。
2016夏アメリカ旅行記-フィラデルフィア美術館①
●「ロッキー」とフィラデルフィア美術館●
私がフィラデルフィア美術館へ行くことにした目的はロッキーステップの最上段にあるロッキーの足型を見ることであった。数日前に来たときに念願のロッキーの銅像は見たのだが,時間がなく,足型を見忘れたのだった。
ホテルから30分ほど歩いていくと,まず,右手にロダン美術館があり,その向こうにフィラデルフィア美術館が見えてきた。ロダンの「考える人」は日本でも見ることができるから,特に興味を感じなかったのでパスして,私は目的のロッキーステップに急いだ。
映画「ロッキー」シリーズに登場するフィラデルフィア美術館であるが,シルヴェスター・スタローン扮する主人公ロッキー・バルボアがトレーニングのために駆け上る美術館正面階段が「ロッキー・ステップ」と呼ばれているところで,現在,その階段下の右手の部分にロッキーの銅像が設置されていることはすでに書いたとおりである。
この銅像は「ロッキー3」の撮影のために階段の上に置かれたが,その後「ワコビア・スペクトラム」に移された。
「ワコビア・スペクトラム」(Wachovia Spectrum)はかつてフィラデルフィアにあった屋内競技場である。場所は,私が見たMLB・フィラデルフィア・フィリーズのホームグランドのあるシチズンズパークのあるスポーツコンプレックスであった。
1967年に開場し,1994年からコアステーツ・スペクトラム,1998年にはファースト・ユニオン・スペクトラムと改名し,2003年からはワコビア・スペクトラムと呼ばれていた。ここはNBAのフィラデルフィア・セブンティシクサーズとNHLのフィラデルフィア・フライヤーズ,そしてAFLのフィラデルフィア・ソウルのホームグランドとして使用されていたが,建物の老朽化などで2009年をもって閉場され,2011年に取り壊された。
現在は,NBAとNHL,およひAFL は同じくスポーツコンプレックスにある「ウェルズ・ファーゴ・センター」(Wells Fargo Center)をホームグランドとしている。
銅像は「ロッキー5 最後のドラマ」の撮影時に階段の上に移動され,「マネキン」や「フィラデルフィア」といった他の映画作品にも出てきたが,その後ワコビア・スペクトラムの取り壊しが決まり,2006年に今度は階段の下に置かれることになった。
今回はロッキーステップを上がったところにロッキーの足跡を見つけて写真をとった。自分の足とも大きさを比べたりもしてみた。
これで念願を果たしたので帰ろうと思ったが,せっかくなので,というか,ここまで来たからには美術館に入ろうと思ったのだが,ほとんどの観光客は外でロッキーの思いにふけっていただけで館内に入ろうとしないので,敷居が高かった。
不勉強な私はこのときまでまったく知らなかったのだが,フィラデルフィア美術館(Philadelphia Museum of Art)は,アメリカ有数の規模をもつすばらしい美術館であった。ここは1876年アメリカ建国100周年の際に建設されたメモリアルホールがその起源で,1年後の1877年から美術館として公開された。
所蔵品は30万点を数え,古代からコンテンポラリー・アートまであらゆる時代,地域,分野にわたっている。
特に,アレンズバーグ・コレクションのマルセル・デュシャンの作品群はデュシャンの全貌を知るうえで欠かせないコレクションとなっている。また,日本の作品も浮世絵4,000点以上を含んだ版画5,000点,絵本・画帖100点余を所蔵している。
私はこのときに思い切ってなかに入って本当によかったと思う。
2016夏アメリカ旅行記-映画「ロッキー」のふるさと③
●ロッキーの足型を見損ねた。●
私はロッキーの像と一緒に写真を撮る,という長年の夢を,ついに実現した。この像は,私のように一緒に写真を写そうとする観光客が全世界からやってきて,順番待ちをしているのだが,私が行ったときはまだ早朝だったので比較的人は少なかった。
「地球の歩き方」には「写真を写してあげるといってチップをねだる人がいるから気をつけよう」と書かれてあったが,私が行ったときにはそんなけしからん輩はいなかった。むしろ,私が頼まれて次々とカメラマンをやっていた。もちろん,チップなど請求しなかったけれど。そして,私が写されるときには,やれ右手はもっと上にとか左を向けとかいろいろとポーズのつけ方をアドバイスされたりした。
私は念願がかなったあと,頭のなかで映画「ロッキー」のテーマを奏でながらロッキーステップを駆け上がった。見渡すと,大勢の人が同じことをやっていた。
しかし,あまり時間がなく急いでいた私は,このとき,ロッキーステップの最上段にロッキーの足型があるのをすっかり忘れていて見損ねてしまったのだった。この旅で,そのことをずっと後悔することになるのだが,この数日後に再びここに来ることができて,ロッキーの足型も見ることができたのだった。そのことはまた後日。
レンタカーを返却する午前10時に近づいてきたので,私は急いで車に戻り,レンタカーを返却するために,フィラデルフィアのアムトラックステーションへ行くことになった。
たいていの場合,私がレンタカーを返すのは空港だから,列車の駅で返却するというのははじめての経験であった。はじめの予定では,フィラデルフィアでも空港で返却をするつもりであったが,考えてみれば,車を返してからダウンタウンに行くのだからこの方が便利だと思い直して,変更したのだった。しかし,それはそれで勝手がよくわからなかった。
駅に着いて,まず,レンタカーリターンを探すのが一苦労であった。日本ではJRの駅のまわりはタクシーであふれているが,ここではなんとタクシーではなくウーバーであふれかえっていたのが私には衝撃であった。日本とは全く異なる世界であった。こうして日本人の知らない間に世界はどんどんと進化を遂げている。
そこを抜けると,なんとかレンタカーリターンの道路標示を見つけることができたので,それに従って走っていくと,駅の地下駐車場に入っていった。さらに進んでいくと,一番奥まったところにハーツレンタカーの駐車スペースがあったのだが,係員はだれもいなかった。アメリカではこういうのがふつうなのである。こうした場合,何事も自分で判断しないとはじまらないわけだ。私はとりあえず空いていた場所に車を停めて,カバンをトランクから出して,地上階の駅の構内にあるハーツレンタカーのカウンタまで行き,走行距離を言って車のキーを返した。日本とは違って返却するときに車を調べるわけでもなくこれで契約は終了である。
キーを返したときに,係員が「車は快調だったか?」と聞いた。まあ,いろいろとあったけれど,無事に3,878キロ(日本列島2往復に相当),ここまで走り通すことができたからよしとしようと思った。
2016夏アメリカ旅行記-映画「ロッキー」のふるさと②
●映画「ロッキー」の撮影された町●
映画「ロッキー」(Rocky)は1976年に公開された。主演と脚本はシルヴェスター・スタローン(Sylvester Gardenzio Stallone)で,第49回アカデミー賞作品賞と第34回ゴールデングローブ賞ドラマ作品賞を受賞した。
この映画は好評で,その後に続編「ロッキー2」「ロッキー3」「ロッキー4炎の友情」「ロッキー5最後のドラマ」「ロッキー・ザ・ファイナル」」が製作された。
「ロッキー」はフィラデルフィアを舞台としたボクシング映画である。
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フィラデルフィアに暮らす「三流」ボクサーのロッキー・バルボア(Rocky Balboa)は素質があるのにこれといった努力もしない自堕落な生活を送っていたが,近所のペットショップで働くエイドリアン(Adrian)に恋心を抱き,やがてお互いになくてはならない存在になっていく。そんなある日,世界ヘビー級タイトルマッチで,チャンピオンのアポロ・クリード(Apollo Creed)の対戦相手が負傷したことから「イタリアの種馬」(Italian Stallion)というユニークなニックネームをもつというだけの理由で,ロッキーが対戦相手になる。
ロッキーは申し出を断るが,アポロは半ば強制的に試合の開催を決定し,ロッキーの戦いが始まる。最終ラウンドまで耐えたロッキーの猛ラッシュ,場内にロッキーコールが巻き起こった。よろめくアポロを最後のゴングが救い,試合は判定に。ロッキーは,渾身の力を振り絞りエイドリアンの名を何度も叫ぶのだった。
告げられた判定結果は僅差でチャンピオンの勝利であったが,ロッキーとエイドリアンの二人にはもはや勝ち負けなど関係なかった。「アイラブユー,ロッキー」「アイラブユー,エイドリアン」。二人は熱く,固い抱擁を交わすのだった。
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この映画で描かれたフィラデルフィアのうらぶれた下町やロッキーがトレーニングで駆け上がるフィラデルフィア美術館前庭の階段(「ロッキー・ステップ」という)などが私に強い印象を残していて,一度は行ってみたいと長年ずっと思い続けていた。しかも,ロッキーの銅像がこの美術館のどこかに今もあるということを知り,ぜひ,この像と一緒に写真を写したかったのだが,これまではなかなか行く機会がなかった。この日,とうとうそれが実現する。
私はフィラデルフィアの西側のスクールキル川(Schuylkill River)沿いに車を走らせ,なんとかレンタカーの返却時間の1時間前に美術館に到着した。あたりは文化的な雰囲気のただようところであったが,車を駐車するスペースを探すのに苦労した。
日本では「車は走るだけではだめでどこかに駐車しないと意味がない」という当たりまえのことすら行政は認めないから,道路を作るときに駐車スペースを作らない。その結果,やたらと歩道が広いのに道路は車を停めるスペースさえないという状況が生まれる。それでも車は停めなくてはいけない必要があるからただでさえ狭い道路なのにそこに違法駐車をする。だからさらに渋滞が起きる,という悪循環が繰り返されることになる。
それに対して,アメリカでは大概の場合,道路はどこでも路肩に駐車スペースが作られている。しかし,早朝だったのにも関わらず,フィラデルフィア美術館のあたりのほとんどの駐車スペースはすでに一杯だったので,私は周辺を走り回って,やっとスペースを見つけることができた。
そこからずいぶんと歩いていって,小高い丘の上にある美術館に連なる「ロッキーステップ」の下右手に,待望のロッキー像があるのを見つけたときは感動した。
なお,映画「ロッキー」に登場するロッキーのロードワークシーンは,この美術館の南,スクールキル川の西側に広がる下町で撮影されたものである。
果物屋の店主がジョギングをしているロッキーにオレンジを投げ渡す場面があるが,これは,この映画の撮影で走っていたシルヴェスター・スタローンを本物のボクサーと勘違いしたことで起きたハプニングである。