このアメリカ旅行記を書いているところに行ったのは,今からちょうど1年前のことだから,あれから早くも1年が過ぎようとしている… と書くのが普通だろうが,どう考えても,この旅がわずか1年前のことだと私には思えない。
 この旅のあと,私は秋にニュージーランドの南島,その翌年つまり今年の春はハワイのマウイ島,そして初夏にオーストラリアのクイーンズランドと旅をした。ハワイ島に行ったのは前の年つまり昨年の春のことだったが,それまで,私はまともに南十字星すら見たことがなかった。そこで南十字星を見たいとハワイ島に行ってみたわけだが,その時期は南十字星は夜の10時過ぎにならなと地平線から昇ってこないのだった。当時の私はそんなことすら知らなかった。
 しかし,すでにブログに書いたように,ハワイ島で南十字星を見ることができて以来,南天の星空に夢中になってしまった。ついに不治の病である「南天病」が発病したわけだ。その後,私は,現在の旅行記で書いている旅でアメリカ50州とMLB30球場制覇という夢を実現したこともあって,急速にアメリカなどどうでもよくなり,南半球の星空の虜となってしまった。
 それに加えて,あれほど行きたかったのにずっと行く機会のなかった徳島の阿波おどりにも行ったし,どういうわけか,その後,四国にはさらに2回も行った。佐渡島には行かなかったが,いしかわ動物園でトキも見た。
 このように,人は目指す夢が変わると,同時に時の流れの感覚も変わってしまうものらしい。ニュージーランドへ行ったのはまだ数か月前のことで,まだ1年も経っていないというのに,ものすごく昔のことのような気がするのが不思議なことなのである。
 
 先日,クラシック音楽を聴いていて不思議なことを思った。
 私の大好きなブラームスの交響曲第4番を聴いていて,まさに終曲を迎えんとしたときのことである。それは,どうして曲はいつか終わってしまうのに演奏なんてするのだろう,ということであった。聴いている人は曲が流れているのを楽しんでいるはずなのに,なぜか心の奥ではその曲が終わるのを待っていたりもするのだ。しかし,このことは,どうしていつかは死んじゃうのに生きているのだろう? という問いと同じことなのだ。
 なぜかそんなことを思ったのだった。
 そんなことばかりを気にしている,私とさほど歳が違わない友人がいる。そしてまた,巷では終活などに精をだしている人もいる。しかし,そんなことを考えるほど無意味なことはない。なにせ,人生がいつかは終わるという確率は100%なのだ。何かの試験に合格できるかを心配することは確率が100%でないから納得がいくが,確率100%のことをあれこれ思い巡らせていても仕方がないではないか。しかも,年齢とは無関係に確率100%なのである。
 そして私は悟った。いつかは終わる音楽を聴くというのは,それを聴いている過程を楽しむためなんだというあたりまえのことを、である。そう考えるしか救いはない。旅もまた,いや,生きるということもまた,それと同様であるはずなのだ。

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