しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

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 来た時と同じ経路で,帰りの地下鉄に乗った。
 つまり,タイムズスクエア42ストリート駅から1,2,3番ラインに乗って,14ストリート駅で降りて,6番街14ストリートまで地下の通路を歩いて,Lラインに乗った。
 深夜であったが,頻繁に地下鉄は走っていて,多くの乗客がいた。日本と同じであった。
 Lラインに乗って座っていたら,イーストリバーを越えたあたりの駅で,あまりガラのよくない若者が3,4人乗り込んできた。彼らは,ドル札(ほとんどが1ドル札)の一杯入ったカバンと,音楽デッキを持っていた。
 まず,彼らは,電車の中で札を数えはじめた。
 私は状況が呑み込めなかった。ほかの乗客も見て見ぬふりをしていた。次第にわかってきたことは,彼らは大道芸人だということだった。そして,この札は,今日の儲けというわけであった。それにしても,これほど儲かるとは,と思った。しかし,今考えてみると,1ドル札を束にしてもそうたいした額でもあるまい。
 しばらく札束を数えていた彼らは,それを山分けにした。それぞれの今日の儲けということなのだろう。駅に停まるごとに乗客が降りて,次第に,立っている乗客がいないほどになった。

 この後,予想もしないことが起こった。彼らは,車内で大道芸をはじめ,音楽デッキからけたたましいリズムが流れて,車内で踊りだしたのだった。巧みにつり革や止まり棒を使って,曲芸まがいの踊りに興じた。
 やがて,乗客に帽子を回して,おひねりをせびりだした。乗客はだれもお金を入れようとはしなかったが,それでも,彼らは踊り続けた。近くの乗客は,別に無視するでもなく,話しかけたりする人もいた。別に,車内が険悪な状況になったわけでもなかったし,危害が及ぶような状況ではなかった。
 私は,これもニューヨークなんだなあ,と思ってみていたが,夜遅くでもあり,きょう1日いろんなことがあって少し疲れていたこともあって,すごい音量の音楽だけは,いい加減にしてくれ,と思った。
 写真を写してやろうと思ったが,何事かが起きそうでそれを躊躇した。
 今にして思うには,5ドル札1枚でも恵んでやって写真を写せはよかったと思った。こういうことができないから,私は,トラベルライターには程遠い。
 そういえば,ニューオリンズのプリザベーションホールの時も同じであった。ジャズマンにいくらかのチップを渡せばツーショットで写真が写せたのに,ただカメラを向けたので拒否されたのであった。
 しかし,私の気持ちとしては,数ドルのチップを渡して写真を写すなんていうのは,相手を見下げているというか,まるでその人を物乞いとして扱っているようではないのか? しかし,もともと,チップという行為そのものの本質がそういうものなのではなかろうか。であれば,これは文化の違いとして理解するしかない。やはり,私には,西洋の文化は謎である。

 大道芸人のかれらのボス的存在の体のおおきいアフリカンアメリカンが音楽デッキの操作をしていたが,電車が駅に停車すると,彼はスイッチを切るのである。そして,再び電車が走り始めると,スイッチを入れる,この繰り返しであった。その様子をみると,かれらの行為は違法なのであろう。
 電車に乗っている30分くらの時間がずいぶんと長く感じられたが,やっと,ホージーストリート駅に到着した。
 駅を降りて改札を出て,階段を上がって,無事,ホテルに戻ることができた。
 もし,夕方ブルックリンで道に迷っていなかったら,おそらく,このときに間違った地下鉄に乗って,右往左往していたことだろう。その場合,私はどうなっていたのだろうと考えると,ぞっとした。
 やはり,幸運であったと考えたほうがよいのだろう。
  ・・
 ホテルに戻って,部屋に入った。
 見た目にはましな部屋に見えるだろうが,この部屋は wifi が通じなかった。
 シャワールームは,お湯は出たが,レバーを切り替えても,シャワーは使えなかった。
 一昔前の,退廃したニューヨークを思い出したが,疲れていたので,フロントに行って文句を言う気も失せ,寝ることにした。
 良くも悪くも,ここは,ニューヨークであった。

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 ミュージカル「シカゴ」(Chicago)は,ジョン・カンダー作曲,フレッド・エッブ作詞,フレッド・エッブおよびボブ・フォッシー脚本により1975年に初演されたアメリカのミュージカルである。すでに,ハリウッドで映画化もされている。
 2年3か月のロングラン公演の後,1977年8月27日に一度は終演したが,その後再演され,現在もそれが続いている。
  ・・・・・・
 舞台は1920年代・禁酒法時代のシカゴ。
 スターを夢見るロキシー・ハートは,愛人フレッドを撃殺し逮捕され監獄へ,一方,悪徳敏腕弁護士ビリー・フリンの力で,監獄の中にいながらもスターとなっていたヴェルマ・ケリーは,ビリーの力で無実になる日も近いのだった。
 監獄で,ロキシーは,憧れのヴェルマに近づこうとするが,相手にもされなかった。
 そこで,ロキシーもビリー・フリンを雇い,ビリーによるでっちあげによって,悲劇のヒロインとして一世を風靡するようになっていった。
 嫉妬する側になってしまったヴェルマは,ロキシーに手を組もうと持ちかけるが,今度は,自分が相手にされないのだった。
 そんな中,新たな女性殺人犯令嬢キティが登場し,マスコミの関心はそっちに移ってしまう。
 誰にも見向きもされなくなったロキシーとヴェルマ。ふたりはタッグを組み「殺人犯のふたり」と掲げて,憧れのスターへとのし上がっていくだった…。
  ・・・・・・

 このように,「シカゴ」は,二人の女殺人犯ロキシーとヴェルマが,敏腕弁護士の手を借りて,一躍マスコミの寵児となっていくさまを,ダンス満載でシニカルかつユーモラスに描いた作品である。
 米倉涼子さんが2012年に7月10日から7月15日に主役ロキシー役で出演したことで,日本でも話題になった。
 私がもらったプレイ・ビル(PLAYBILL)によると,ヴェルマ役は,米倉涼子がロキシー役をやったときと同じく,有名なアムラ-フェイ・ライト(Amra-Faye Wright),ロキシー役は,エイミー・スペインジャー(Amy Spanger)という女優さんであった。
 久しぶりのブロードウェイのミュージカルであったけれど,これを見て,私は,すっかり夢中になってしまった。この分では,これからはニューヨークに来るたびに,ブロードウェイに足を運ぶことになってしまうかもれない。ついに,またひとつ,禁断の木の実を食べてしまったようだ。

 ミュージカルが終わり,あわただしかったきょうも結果的に充実した1日になった。
 いろんなことがあって,結局,夕食を食べ損ねてしまったので,終演後,ブロードウェイにあったマクドナルドに入った。
 2階が広いコートになっていて,そこで食事をとった。
 隣には,プエルトリコ人であろう父と息子が食事をしていた。こういう姿を見ていると,どこの国でもほほえましいものである。そして,みんな,精一杯生きているんだなあ,と実感した。
 さて,食事も終えたので,ホテルに戻ることにした。
 ミュージカルも終わって,深夜のブロードウェイは,人で一杯であった。
 昔は,馬に乗った警官がたくさんいたのだが,それは,はるかかなたの歴史上のことであった。

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 私は,アンバサダーシアターに到着した。時間は午後7時55分であった。奇跡的に間に合った。
 一時はすっかりあきらめていたので,本当にうれしかった。
 劇場の入口は,開場を待つ観客で列ができていた。
 私は,予約をしていたチケットを受け取るために窓口に行った。私のように,窓口でチケットを受け取る人が少ないのか,予約をしたときにプリントアウトした用紙を見せると,チケットがチケット入れにいれたままキャビネットに保管されていて,すぐに受け取ることができた。なかなか気持ちのよい対応であった。
 列に並んで,劇場に入った。

 ブロードウェイの劇場は,それほどひろくなく,昔の日本の田舎の映画館のようなものであった。
 席は,一番後ろの真ん中であった。なにせ,ブロードウェイはチケットが異常に高くて,見るだけなら,ということで入手した一番安価な席なのであったが,実際,座ってみると,その席で十分であった。
 もし,ミュージカルを見に行きたいなあ,と考えている人があれば,私のように,事前に日本で,ブロードウェイの公式ページ「ブロードウェイ・コム」でチケット入手するとよいと思われる。そして,見るだけなら,体験するだけなら,わたしのように,一番後ろの席で十分である。

 左隣には,オーストラリアから来たという老夫婦が座っていた。
 この旅行に来る少し前に,名古屋で大相撲を見たとき,やはり,オーストラリアから来たという青年がいて,「夏休みか?」と聞いたら,「冬休みだ」と言われたのをこの時思い出して,ここでは,私は,「よい冬休みの思い出ですね」と問いかけたら,親しく話が弾んだ。ヨーロッパを旅して,その帰りであった。
 右隣りには,若い日本人の女性がいた。その向こうに年配の女性がいて,そのふたりは親子であった。
 母親の方は,昔,こちらにすんでいたということで,それを訪ねて観光旅行をしているということであった。
 客席には,若干の日本人がいた。
 1列前に,初老の日本人の夫婦がいた。旦那さんのほうは,まったくミュージカルに興味がなさそうであった。しかも,英語も全くわからないようであった。開演中は写真撮影禁止であるのに,写真を写していて,私の左隣のオーストラリア人に注意されていた。日本人の夫婦は,1幕目が終了したら帰っていった。

 特に,年配の人にとって,それまでの人生が趣味もなく仕事一筋であったときには,退職したら一生の思い出に海外旅行,といっても,結局はその面白さの半分以上はわからないであろう。
 人生とはかくも過酷なものである。
 わたしのように若いころから遊び歩いていても,いろいろと楽しさを覚えるにつれて,何事もどんどんと深みにはまっていって,行きたいことやらやりたいことがますます増えてくる。そして,次第に,歳をとって,今度は人生の残り時間との勝負になってくるのだ。
 人生とは,かくも短い。
 50歳を過ぎて,役職について仕事に費やす時間が多ければ多くなるほど,退職後に何か別の世界を知ってしまったときに,結局,それがいかに時間の浪費であったかということに気づくことであろう。
 人生は1度きりなのだ。

 やがて,ミュージカルがはじまった。
 聞きなれた「シカゴ」の音楽とともに,俳優がステージに現れた。
 やはり,生バンドで,本場のミュージカル,というのは,最高であった。
 はじまってからも,遅れて入ってくる観客がいるし,いつまでも少しざわついていて落ち着かなかったが,まあ,ブロードウェイのミュージカルとはこんなものである。

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 ミュージカルがはじまる午後8時まで,あと1時間を切っていた。まあ,これなら間に合うなあ,ときわめて楽観的になっていた。
 これまでもそうだったが,旅をしていると,こうした予期しないアクシデントがよくあるし,きっと,今回の旅行でいちばん忘れられない思い出というのは,こういう出来事だったりするのである,と今だからいえる。
 予定では,ミュージカルが終わって深夜にホテルに戻るのが心配であったので,予行演習のつもりで一旦ホテルに戻ってみようとしたことが,これだけの大事になってしまったのであった。
 しかし,もし,この予行演習をしなかったら,その時はどうなっていたのであろうか?
 そう考えただけでもぞっとする。
 だから,結果的に,このトラブルは,非常に幸運だったのだ。

 人生とはおもしろい。でなければならぬ,とか,このほうがいい,とかいった価値観は,実は,どうでもいいことの方が多い。いったい人は何を目指して生きているのであろうか。
 雑誌に載っている店を探し,ガイドブックに書いてある通り旅行をし,人と比べ,周りを気にして,ブランド品に身を飾って生きている人は,人生で何をしようとしているのだろうか…。
 いろいろあったが,私は,ともかくも地下鉄Lラインの乗客となった。
 そして,ミュージカルをみる49ストリートのアンバサダーシアターを目指していた。
 ブロードウェイにはたくさんの劇場があるが,49ストリートへ行けば何とかなるであろう。アンバサダーシアターの場所は確認してあった。
 Lトレインはマンハッタンの14ストリートを西に進む。ブロードウェイの劇場街は42ストリートから50ストリート,そして,先ほど書いたようにアンバサダーシアターは49ストリートなので,どこかで乗り換えて北に行かなくてはならなかった。
 私は,Lラインを6番街駅で降りて,地下通路を1ブロック7番街駅まで歩き,そこで南北に走る1,2,3番ラインに乗り換えて42ストリート駅で降りたということが,あとで写真で確認できた。

 どうして6番街から7番街まで歩いたかといえば,Lラインには7番街駅がないということであった。また,もうひとつ前の14ストリートユニオンスクエア駅で降りて,N,Q,Rラインに乗れば,このラインがブロードウェイの下を通っているのに,どうしてそうしなかったかといえば,この日,このラインは運休だったからであった。そんなわけで,なかなかめざす劇場までは,まだまだ遠かった。42ストリートの次の50ストリートのほうが近いのであるが,50ストリート駅は,1番ライン以外は通過するのであった。
 私は,42ストリート駅から外に出て,観光客で込み合ったブロードウェイをかきわけかきわけ北上して,なんとか開演前に,無事,アンバサダーシアターに到着したのだった。着いたときは汗だくであった。
 ブロードウェイが思った以上に混雑していて,人をかきわけかきわけ,なんとか開演に間に合ったというのが,奇跡というか,またしても幸運というべきであった。
 人だらけでごった返す渋谷駅界隈を土曜の夜にNHKホールに行くようなものであった。

 ここまでお読みになって,ニューヨークの地下鉄を利用することは,結構たいへんだとお思いになったことであろう。はじめて行く人に参考になるだろうから,これ以外の,ガイドブックにかいていないニューヨークの地下鉄の乗り方の注意点について,書いてみよう。
  ・・・・・・
 まず,地下鉄の路線図を手に入れること。私は,ホテルのフロントでもらった。
 路線図をもらったら注意深く見てみよう。
 駅は,その複数の路線が通っているときは,停まる路線と通過するものがあって,そうした駅は黒丸で印がある。すべてが停車する駅は白丸で印がある。これは日本の電車の急行と各駅停車があるようなものだ。
 駅に停まるか通過するかは,路線図の駅の名前のあとに記号で書いてある。たとえば,「23St. F・M」とあれば,23ストリート駅は,B,D,F,Mトレインが通っているが,停車するのはFとMだけ,というわけである。
 また,すでに書いたことだが,私が間違えたように,同じ名前の駅がいくつかあることがあるので,ラインを間違えないように! そして,特に週末は,サービスを停止していたり,ホームがことなっていたりするので,必ず,駅の掲示を確認すること。
  ・・・・・・

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 私は,30分以上,ホージーストリートを北,だと思っていたが,実際は北東に向かって歩いただろうか,やがて,ホージーストリートは突き当りになって,そこで終わりになった。すると,右手に,見慣れたホテルがあった。
 ずっと不安ではあったが,ホテルのある地名と同じ名前のストリートを歩いているのだから,何とかなるとは思っていたが,それにしても遠かった。そして,ホテルに隣接して,見覚えある地下鉄の駅の入口がちゃんとあった。
 なんだか,キツネにつままれたようであった。
 何と,地下鉄はJラインではなくて,Lラインではないか! まさか,同じ名前の別の駅があるなどという,日本ではありえないことになっているなんて夢にも思わなかった。

 ここで事態は好転した。
 この時点で,ミュージカルの開始まであと1時間もなかったが,これならなんとか間に合いそうな気がした。
 そして,ミュージカルが終わっても,こういうことなら何の問題もなく戻ってこられることもわかった。このホテルに2泊しても何ら問題がないこともわかった。
 私は,ホテルの場所さえ確認できればそれでよいわけだから,すぐにここから地下鉄に乗ってブロードウェイに引き返すことにした。
 私の気ままな旅は,いつもこんな感じになる。

 ホテルに隣接した「ホージーストリート」駅の入口を降りると,そこは,マンハッタンとは反対側行きのホームにしか行くことができなかった。マンハッタン方向は,一度地上に出て,道を横断した向こうの入口から降りなければならないのであった。
 ボストンでもそうであったが,日本とは違って,地下鉄の上りと下りに地下での連絡通路がない。
 一旦地上に出て,道路を横断して,道の向こうの入口を探した。
 反対側の入口は,商業店舗の横に隠れるようにあったので,その場所を見つけるのに少し苦労したが,ちょうど道を横断するときに一緒になった若者が地下鉄を利用するようで,地下鉄の入口に向かって歩いていくので入口を見つけることができた。
 階段を降りていくと,まるで30年前にもどったような鉄格子に囲まれた改札口に出た。
 改札を入ると,「ホージーストリート」という表示がくすんだ壁に書かれた,広告もない暗いホームに出た。
 ホームで待っていると,これまでの人の苦労も知らず,何事もなかったかのように,地下鉄がホームに入ってきた。
 これなら何の問題もなく深夜に戻ってこられると,ほっとしたと同時に,どっと力が抜けた。
 何か,これまでに起こったことがすべて夢のようだった。とともに,今回もまた,何とかなったのだった。
 ケネディ空港からマンハッタンに行く地下鉄Eラインは最新式のきれいなものであったが,この地下鉄Lラインは外見は変わらないが,古びていた。でも,間違えて乗ったJラインはもっと古びていた。
 けれど,古きよきニューヨークの香りがした。
 わずかこれだけの経験であったけれど,ブルックリンというところがどういったところか少しずつわかってきた。それは,はじめて東京に来て,渋谷駅から地下鉄銀座線に乗って,浅草駅で降りるような感じ,とでもいえばわかっていただけようか。

 これも後で知ったことだが,私は地下鉄Jラインが「マートレストリート」駅で迂回してMラインの路線に曲がってしまったので,あわてて次の駅で降りて引き返したのだったが,次の駅で降りずに,そのままあと2駅乗っていれば,Lラインの「マートレストリート」駅(ここも同じ名前だ)に到着して,そこでLラインに乗り換えることができて,ホテル横の「ホージーストリート」駅は,その次の駅だったのだった。
 こんなわけで,私は,道に迷ったことで,ブルックリンについて,非常に詳しくなった。
 こういうことは,行く前にどれだけ調べてもわからない。まさに百聞は一見にしかずなのである。
  ・・
 結局,私は,このようなことがあって,ブルックリンがマンハッタンよりも好きになった。
 くすんだニューヨーク。ビリージョエルの「ピアノマン」の歌がきこえるような,そんなニューヨークはいいなあ。

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 セントラルアベニュー駅で少し待ったら逆向きの電車が来たので,とにかくそれに乗って,マートルアベニュー駅まで戻った。
 ホームをから階段で地上に降りると,そこは,東京のどこかの下町のようなところであった。もう,私には,何が何だかわからなかったけれども,ともかく,ホージーストリート駅まで行けばいいわけだから,何とかなると言い聞かせた。
 駅を出ると,地下鉄の係員がいて,あわただしく代替バスの案内をしていた。
 なにか日本みたいだ,と妙におかしかった。

 だんだんとミュージカルの開演時間が迫ってきたことだし,別に,今ここで代替バスに乗ってホテルに戻らなくても,ブロードウェイに引き返してミュージカルを見ればいいとも思ったが,あのものすごく無愛想なおばさんがバスにのんな,とにらんでいるし,気の小さい私は,もうどうにでもなれと,バスに乗ることにした。
 それにしても,このあとミュージカルを見てから,深夜にここに戻って,今のように代替バスでホテルに戻るなどという恐ろしいことは不可能に思えた。第一,深夜に代替バスなんであるんかいな? だから,このあとミュージカルを見に行くにしてもここで一度予行演習をしなくてはいけないと思った。
 それに,予約したホテルには2泊するので,その翌日もマンハッタンの夜景ツアーのあとで,この代替バスでホテルに戻って来なくてはならないのだ。私は,安価なだけの理由で,こんなところにホテルを予約したことをつくづく後悔した。
 ホテルが地下鉄の駅の隣だから便利だと思って決めたのに,地下鉄が走っていないなんて,これでは詐欺ではないか。
 私はこの時点で,今晩ミュージカルを見ることはあきらめた。
 いくらこれまでアメリカでいろんなことを経験したといっても,今回のトラブルは,絶望的だった。

 バスの運転手に,「ハーセル行くか」と聞いたが,発音が悪いみたいで,なかなか通じなかった。わたしはずっと「ハーセル」だと思っていたが,「ハーセル」でなくて,「ホージー」と発音するのであった。
 命まではとられないだろう,最悪の場合はここからタクシーに乗ればいいではないか,ともうどうにでもなれと腹をくくり,バスに乗り込んで,座っていたが,バスは次の電車が来るのを待っているようで,なかなか発車しなかった。時間はどんどん過ぎていくし,3時間も余裕があると思っていたが,もう,すでに1時間以上過ぎてしまっていた。
 やがて,次の電車の乗客も乗りこんでバスが出発したのだが,今度は,道が大渋滞で,バスがなかなか前に進めなかった。もう,いい加減にしてくれ,と思った。
 そのうち,どうにかバスが動き出したのだが,はじめは地下鉄の高架下を走っていたので,わからないなりにも,ホージーストリートの駅は見つかると思っていたのに,バスは渋滞する高架下の道から進路を変えて,訳のわからないところを走りはじめた。

 必死に運転手の言うことを聞いていたら,しばらくして,どうやら,「ホージーストリート」と言ったらしい。
 私は,戸惑いながらもそこでバスを降りた。降りるときに,無愛想な女性が,向こう向こうと言って,指を指した。それは,「ホージーストリート」は降りた場所から1ブロック後ろの道だということを言っていたということを後で知ったのだった。
 バスを降りた途端に,私は頭が白くなった。周りを見回しても,ホテルらしきものはどこにもなかったし,警官もいないし,タクシーもなかった。ここがどこなのか,全くわからなかった。道の名前すらわからなかったし,たとえわかったとしても,その道がどこへつながっているか見当もつかなかった。
 後で知ったことだが,実は,私が代替バスを降りた地下鉄Jラインの「ホージーストリート」駅はホテルに隣接する「ホージーストリート」駅とは違うものだった。この時は,そんなこととは全く知らなかった。だから,もし,代替バスでなく,そのまま地下鉄が走っていて「ホージーストリート」駅で降りることができたとしても,降りた時点で,同じようにパニックになったのである。

 これから書くこともまた,帰国後にわかったことだが,地下鉄のJラインの高架が通っている道は「ブロードウェイ」という名前の道で,代替バスの走っていた道はその一本北を平行に走るブッシュウィックストリートであった。私の降りたところがエルダートストリートとブッシュウィックストリートの角で,1ブロック後ろへブッシュウィックストリートを戻ると,そこがホージーストリートであった。
 私は,この時点では,地下鉄の駅に行けばホテルがあると思っていたのだが,そこへ行くにはどの方向を目指せばいいかがわからなかった。まわりを見回したら,美容院があったので,道を聞こうと店の中に入って,ホテル場所の地名を書いた紙を見せて,道を尋ねた。
 店員どうしがスペイン語で何やら話して,まず,ホージーストリートは1ブロックこの店の後ろだと言った。そして,目指すホテルにはバスで行くといい,と言った。
 しかし,私は,ここでまたバスに乗ることにしても,バスがいつ来るかもわからず,だから何時に着くかもわからないなあと思った。それに,ホテルはそこからそれほど遠いところだとも思っていなかったので,歩いていく,と言ったら,ホージーストリートを北の方へ向かって行けと言われた。
 私は,代替バスが地下鉄の線路から北のほうに進路を変えたので,ホテルはてっきり南の方にあると思っていたので,間違ったことを教えてくれたのではないかととまどったが,素直に指示に従って北に行くことにした。
  ・・
 言われたとおり歩いていくと,どんどんと,下町の住宅街に入っていった。道を通行止めにしてお祭りをやっていたりした。そのあたり,セサミストリートにでてくるような,ニューヨークの下町だった。英語以外の言葉が飛び交っていた。
 ここは怖い所なのか,そうでもないのかさえ,さっぱりわからなかった。そして,ゆけどもゆけども,ホテルの場所がどこかなど,皆目見当がつかなかった。
 今にして思えば,パトカーの1台も見かけなかったわけだから,案外と治安のよいところだったのかもしれない。が,そのときは,足が震えていた。まだ,明るかったので,なんとかなるわい,と思ってはいたものの,そして,確かに歩いていた道はホージーストリートだったので方向はともかくこの道を歩いている限り何とかなるとは思っていたものの,英語が通じそうにない場所でもあり,自分が自分でないような,でも,いつもこういう事態になっても最後には何とかなっているし,みたいな不思議な楽観気分でいた。
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 帰国してからグーグルのストレートビューで見てみると,その場所は,たしかに素敵なところじゃあないか。映画やらテレビドラマに出てくるニューヨークの下町これぞブルックリン! そのものじゃあないか,と思った。だから,この場所がどこなのかとてもよくわかった今となっては,今度ニューヨークへ行ったときは,ぜひ,またここを訪れてのんびりと歩いて見たいなあと思っているのだった。
 だから旅はやめられない。

◇◇◇
土曜日の朝7時からNHKBS1で「ワールドWAVEモーニング」という番組をやっています。というか,3月29日がその番組の最終回でした。その番組の中に「@NYC」というコーナーがあったのですが,これがすばらしいコーナーでした。土曜日の早朝,コーヒーを飲みながら気分はニューヨーク,なんて素敵でしょう。ということで,このコーナーで昨日取り上げられた内容について紹介しましょう。
6月はトニー賞。それに関連して,ブロードウェイの新作の話題でした。
今年の新作は「アラジン」(Araddin)。作曲は「美女と野獣」のアラン・メンケンさん。「マジソン郡の橋」(The bridges of Madison County)。これは素晴らしい! 私の大好きな小説&映画のミュージカル化です。そして,「ロッキー」(Rocky)。シルベスター・スタローンが自らプロデュースです。リバイバル作品の中では「ラ・ミゼラブル」(Les Miserable)。6年ぶりの復活です。
今年もトニー賞が楽しみです。
このブログで書いているように,ニューヨークは距離の違いだけで,東京へ行くのと変わりません。レンタカーを借りる必要もありません。また,ふらっと行ってみたいなあ,と思ったことでした。
なお,この「ワールドWAVEモーニング」の後番組「キャッチ!世界の視点」でも「@NYC」は継続するそうなので楽しみです。やっぱ,アメリカはいいわ。

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 地下鉄の路線図を見ると,6番街の下を南に走りセカンドアベニューあたりで東にまわってブルックリンに至る地下鉄のB,D,F,Mラインに乗って,イーストリバーの直前の駅エセックスストリート駅でJラインに乗り換えれは,容易にホージーストリート駅へ行くことができるようであった。

 私は,このときまで,まさか,ニューヨークの地下鉄が,時間によって,乗り場が変わったり,あるいは,電車が運休停止になるなどということが日常茶飯事であるとは,夢にも思わなかった。また,同じ路線でも,駅によっては停まる電車と停まらない電車があることも知らなかった。さらに運が悪かったのは,今日が週末だということだった。ウィークデイなら,ほぼ通常に運行されているが,運休になるのは週末が多い。
 そういえば,地下鉄のホームには,やたらとたくさんサービス変更の掲示があった。でも,まさかねえ,こんなことだとは知らなかったので,その掲示を読みもしなかった。

 残念ながら,私は,これから起きたことを,正確に記することができない。
 これを書きながら,そして,写してきた写真を探しながら,思い出そうとしているのだが,どうしても,記憶がひとつの線にならない。それに,ほとんど写真もない。きっと,かなり動揺していたらしい。そこで,なんとか思い出しながら書いていくことにする。

 まず起きた事は,それがどこの駅であったのかは明確でない(おそらくは42ストリートブライアントパーク駅だろう)のだが,乗り換えようとした地下鉄のホームに行く途中で,ホームから駅員らしき男が,このホームには,もう電車は来ない,と言いながら,手を振って我々に向かって歩いてきたことだった。
 私を含む乗客は,何が起きたか一瞬わからなかったのだが,そのホームに行っても仕方がないということだけはなんとか理解して,同じ方向に向かう別の地下鉄のラインのホームへ向かった。
 それまでは走っていたのだから,この時間以降は,運休になったということであった。

 私がはじめに乗ろうとした地下鉄が何であったのかは思い出せないが,私の写してきた写真に地下鉄Fラインの車内のものがあるので,私はここで予定を変更してFラインに乗ったらしいのである。

 そして,Jラインに乗り換えるために,イーストリバー駅で下車した。イーストリバー駅でホームを移動して,少し待って,Jラインが来たので,これに乗り込んだ。
 あとは,Jラインのホージーストリート駅で降りるだけであった。

 Jラインは,イーストリバーを越える前に,地上に出た。地下鉄は高架になった。鉄骨がむき出しの,古い路線であった。
 それはそれでいいのだが,私の向かうホテルに隣接したホージーストリート駅は,地上の駅ではない。ホテルに隣接した駅は,おぼろげな記憶によると,確かに地下にあった。一瞬,何かがおかしいなあとは思った。だが,私はこの地下鉄だと確信していたので,それほど疑問には思わなかった。ただし,イーストリバー駅からは,J,Z,Mラインが同じ方向に向かい,Mラインだけが途中で方向を変えるから,Mラインに乗り間違えなければいいと思っていた。実際は,ZラインはJラインと同じ路線を走るのだが,ホージーストリート駅は通過するから乗ってはいけない。私はそのことも知らなかった。
 イーストリバー駅を過ぎて,ウィリアムズバーグブリッジでイーストリバーを越え,そのあとも地下鉄は高架のままさらに4つの駅を過ぎた。
 その次のマートルアベニュー駅に着く前に,何やらの車内放送があって,サービスがなんとか言っていたが聞き逃した。ほかの乗客もなにやら戸惑っていた。やがて駅に着くと,多くの乗客が,やむを得ないという感じで下車していった。
 私の目的地ホージーストリート駅まであと3駅であったので,私は,何か様子がおかしいとは感じたが,そのままその電車に乗っていた。

 電車が駅を出ると,なんと,電車は大きく左にカーブして,間違えて乗ってはいけないと注意していたMラインの路線に向きを変えてしまった。私には,何が何だかわからなかった。そして,パニックになった。
 やがて,電車はJラインではなくMラインの次の駅セントラルアベニューに到着した。このまま乗っていたらどこに行ってしまうか不安になったので,その駅で下車した。同じようにパニックになった乗客数人が同じように電車から降りた。私と同じ扉から降りた中国系らしきおばさんにどうなっているのか聞いたら,どうやら,Jラインはセントラルアベニュー駅から先が運行休止なので,地下鉄は別のMラインの路線を走って迂回をするので,Jラインの駅に行きたければ,1駅前の,多くの乗客が降りたマートルアベニュー駅から出る代替輸送のバスに乗り替える必要がある。だから,ここから1駅戻るのだと言った。
 私は,ブルックリンなんてはじめて来たんだし,ホテルは駅の隣にあるから地図なんていらないと思っていたので,調べる手段もなく,わけがわならなくなった。それに,ニューヨークで,代替輸送のバスに乗るなんて,夢にも思っていなかった。おばさんはものすごく無愛想で,なにか怒っているような雰囲気だったので,怖くてちょっと離れていたけど,ものすごく無愛想な顔で「私についてきな」と言った。私がお礼をいうと「お礼などがらじゃない」と言って,さらにこわい顔で遠慮した。でも,こわいのは見かけだけで,実はとても親切なおばさんだった。

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 ずっと心配だったのは,ミュージカルが終わった後のことであった。
 今晩泊まるブルックリンにあるホテル「レッドカーペットイン」にはレンタカーで到着して,ひとまずチェックインこそしたものの,チェックイン後,ホテルからレンタカーでジョン・F・ケネディ国際空港に行って,そこでレンタカーを返却してしまった。車という手段を失った私のこのあとの計画では,そのまま,空港からヤンキースタジアムのあるブロンクスへ地下鉄で行き,その次に地下鉄でブロードワイへ行ってミュージカルを見て,ミュージカルが終わった深夜に,ブロードウェイから地下鉄でホテルまで戻るというものであった。

 しかし,深夜に地下鉄で戻ることにいまひとつ自信がなかった。
何せ,安価なことと地下鉄の駅の隣にあるということだけを理由に,高価なマンハッタンをさけて予約した不案内なブルックリンのホテルであった。帰国した今でこそ,ホテルがどこにあってどのように行けばいいのかよくわかるが,旅行中は,ホテルがブルックリンのどこにあるかさえ明確でなかったし,そこが治安のよいところかどうかも知らなかった。
 一応,出発する前に,インターネットから地図を印刷し,地下鉄の最寄の駅も調べてあったが,やはり土地勘がないので不安であった。しかも,ホテルのあったところは,想像とは違って,けっこうやばそうなところであった。
 値段が高くても、マンハッタンのホテルを予約しておけばよかったのにと後悔した。

 もしも深夜に道に迷ってしまったら「大変なこと」だけでは済まないのであった。
 車は車で別の心配があるが、車という移動手段を持たないというのは、別の慎重さが必要なのだった。そこで,MLBを見たあと,ミュージカルの開演には,まだ3時間もあったので,ホテルへ行っても1時間くらいで往復できるだろうから,バカらしい気もしたが,深夜に帰る練習として,一度,ホテルに行って経路を確認してみようと思った。そして,再び戻ってきて食事をすれば,ミュージカルの開演にちょうどよい時間になるように思えた。
 この決断が,大変な事態に遭遇することになってしまったのだったが,また,深夜に無事にホテルに戻ることにもつながった。
  ・・
 事前に調べてあったことは,私の予約したホテルは,地下鉄の「ホージーストリート」(Halsay St.)駅の隣ということであった。
 今では,グーグルアースで,およそ世界中の街並みを写真で見ることができるし,ストリートビューを使えば,特にアメリカの都会は,まるで,そこを歩いているかのように,ものすごく鮮明な写真でみることができるようになったので,レッドカーペットインの建物も,その横にある地下鉄の入口もどうなっているかは知っていた。しかし,それだけではわからない「何か」があるのだった。
 だから、旅をするのがおもしろい,ということも言えるのだけれど…。
 地下鉄の「ホージーストリート」駅は,私が調べた限り,地下鉄「Jライン」の駅であった。マンハッタンからイーストリバーを地上の橋で越えて,ブルックリンを東に7駅である。この,「Halsey St」も,地図に書いてあっても,読み方がわからなかった。
 外国の地名は読み方がわからない。だから,道を聞くのも大変なのである。
 イーストリバーを越える地下鉄の路線はいろいろあるが,川底をトンネルで走るものと地上の橋で越えるものがある。きっと,それは建設された時代によるのであろう。

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 はじめてこの地を訪れた若き日,このあたりを何度も往復したことを思い出していた。
 そのときは,マンハッタンの南半分を何度も何度も南北に行き来した。歩いていると,旅行者の人に道を聞かれたりもした。そんなときは,ここに住んでいるような,いい気分になったものだ。
 月日の流れるのはなんと早いことなのであろう。再びこの地を歩くと,そんな大昔のことが,まるで,昨日のことのように蘇ってきた。
 もっと年齢を重ねて,また来ることがあったとしたら,人生とはたかがこれだけのものだったのかと思うのであろうか。

 今もこの地にあこがれて,日本から来て住んでいる若い人もいるし,何度も足を運んでいる人もいる。私も若いころは,そうしたあこがれを抱いたひとりであった。
 残念ながら,私は,この地に住むことはできなかった。というよりも,住むだけの努力をしなかったというほうが正しいのだろう。
 人生は,やりたいということがあって,そうしたいという真剣な情熱さえあれば,結果がどうなるがは別として,どうにでもできるのだ。だから,できないのは言い訳に過ぎない。私には,それだけの情熱がなかったのだ。
 しかし,齢を重ね,多くの地を訪れたり,それなりの経験をした今は,そこがどんなにあこがれた地であっても,暮らすという日常になってしまえば,どこで暮らしても,それはそれで同じような悩みやら怠惰やら不満やらが生まれてくることを知ってしまった。
 旅は,非日常であるからこそ,旅なのだ。

 その点,現在のニューヨークは,確かにすばらしいところではあるけれど,私には,非日常として語るには,あまりにも身近なところになってしまった。
 若いころ,ニューヨークはものすごく遠いところだと思っていたのに,今や,新幹線に乗ることを飛行機に乗ることに置きかえた以外には,東京に行くのとさして変わらない。それは,交通手段の進歩によって物理的な距離が近くなったことに加えて,歳を重ねて様々な経験を積んだことで,ある意味,夢をなくしてしまうことと同じなのかもしれない。今は,そのことが残念である。

 私は,マンハッタンの5番街を59ストリートから南に歩いていた。遠くにはエンパイアステートビルが見えた。
 やがて,57ストリートを過ぎたところに,ティファニーを見つけた。ティファニーの外観は,32年前から全く変わっていなかった。あのときは,この店に入っても宝石を買えなかったので,ティファニーのブランドがデザインされたトランプを買ったことを思い出したが,そんなトランプは今も売っているだろうか。
 次に見えたのが,53ストリートのセントマーチン教会であった。このあたりは,大勢の観光客が写真を撮ったりしていた。さらに進むと,52ストリートにユニクロがあった。ここは,東京でいえば,銀座である。
 一度アメリカへの進出を失敗したユニクロは,今度は,高級店としてマンハッタンの一等地に再び進出した。外から,ビルの中のエスカレーターがあってお客さんが中に入っていくのが見えた。流行っているのかどうかはよくわからなかった。
 もう1ブロック南に行って,51ストリートを西へ6番街まで歩くと,そこは,トニー賞の受賞式を行うラジオシティーミュージックホールがあった。

 ブロードウェイは観光客で一杯であった。ここにはどれだけの国籍の人がいるのだろうかと思った。さまざまな国の言葉が飛び交っていた。きっと,この人たちも,あこがれを胸に,人生一度の思い出としてこの地に来た人のであろうか。
 確かに,人と車であふれていたのであるが,東京の渋谷の交差点のような異常な人口密度ではなかった。また,以前は,このあたりはポルノショップだらけであったが,いまや,ディズニーランドと変わらないところになってしまっていた。
 日本食の食べられるレストランもあったので,久しぶりに日本食でも食べようかと思った。聞くところによると,ニューヨークは,いま,ラーメンが大流行中であるのだという。それにしても,あまりに,日本にいるような感じだったので,旅をしているワクワク感はあったけれども,海外に来たというゾクゾク感はまったくなかった。

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