しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

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 ともかく,今日宿泊するホテルが見つかってホッとした。そして,食事をしながら,今後の日程について打ち合わせをした。
 友人は,私がニューメキシコ州に行ったあと,再び,サンアントニオに戻ってこないことを恐れているようであった。
 サンアントニオに着いて,はじめに友人と打ち合わせをしたときには,ニューメキシコ州には3日間行って,サンアントニオに戻ってくるということにしたのだが,その後の友人の話を聞いていると,仕事が忙しくて,4日目に戻ってきても,また,今日の二の舞になりそうであった。
 また,最終日は,出発する前に事前に予約をしてあった空港近くのホテルは,こちらに来てからその打ち合わせの中で友人が別のホテルを予約するからという勧めでキャンセルしてしまった。最終日は,早朝,その別のホテルに友人が迎えに来て、空港まで送ってくれることになっていた。しかし,この2日間のことを考えると,これを期待するのもやめた方がいいと思った。友人がその日にドタキャンをしたら,私は帰国することができなくなってしまうのだ。
 そこで,ニューメキシコ州には1日増やして,4日間旅行をすることと,5日目には必ずサンアントニオに戻ることを約束した。

 さらに,私は,当初の予定を変更して明日の朝借りることになったレンタカーの返却日をを,再び変更して,最終日の早朝に返却することにしようと思った。そうすれば,たとえ,サンアントニオに戻ってきたときに,再び今日のような状況になっても,車さえあれば,友人を頼らず,私ひとりで自由に行動できることと,最終日の早朝,ホテルから空港に行くのに,何も心配がいらないというのが理由である。レンタカーの返却日の変更は,ニューメキシコ州へ行ったときに,最寄りのハーツの営業所へ行ってそこでしようと思った。
 また,最終日は空港の近くのホテルを再び自分で予約し直した方がよいと思った。
 結局,この旅に出かける前に日本で計画したとおりの日程で正解だったのだ。

 メキシコ料理は,私の口には合わなかった。たいてい何でも食べられるので,食べられないということはなかったが,私には,どうもこの味は苦手だった。
 食事を終えた。ここでも,友人は,チェックの際,店員に別々(separate)と言って,自分の食べた分だけさっさとクレジットカードでお金を支払ったのにびっくりした。私も慌てて,同じように料金を支払った。
 そのころには,このレストランも大混雑をしていて,多くの人が入口で席が空くのを待っていた。

 私は,予約したばかりの今晩のホテルまで送ってもらうことになった。
 まず,車を停めてあった駐車場に行って,車を出したのだが,ダウンタウンはものすごく渋滞をしていて,まったく車が動かず,最寄りのインターステイツの入口までたどり着くのが大変であった。
 ホテルは,ダウンタウンからは,思っていたよりも遠かった。
 郊外までインターステイツを走った。サンアントニオにも,アメリカのどの都会にもあるように,郊外のインターステイツの環状道路の周りには新しいホテルがたくさん建ち並ぶ一角があった。
 きょう予約したのは,その中でも,特に新しくすてきなホテルであった。
 予約したホテル「ベストウェスタン・プラス」のことは,すでにブログに書いた。
 フロントでチェックインをしようとすると,データがないと言われて,一瞬戸惑った。フロント係の女性が,こういうことはよくあるんですよと言って,調べてくれた。予約した日にちが明日になっていたということであったが,この親切な女性が問題なく部屋を調整してくれて事なきを得た。
 日本と違って,社員教育があるのならないのやら,ホテルのフロントでも,レンタカーのフロントでも,人によって対応が全く違う。だけど,みんな,教育されたままロボットのように笑顔で対応しているのではないから,非常におもしろいし,暖かみがある。
 チェックインをするときに,このホテルからダウンタウンまでどのくらいかかるか聞いた。ホテルの前にバス停があって,バスに乗れば1時間くらいだという話であった。タクシーを使えば,その半分以下の時間で行けるのだという。バスの便があるというのが意外であった。
  ・・
 こうして,3日目が過ぎた。
 ひとりでは行くことができなかったであろうミッションとアラモの砦を見学できたことは非常に有意義であったし,生まれて初めてメキシコ料理も食べることができたので,それなりに思い出深い1日になった。

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 私には,もう,こういったことは想定の範囲内であったので,さほど驚きはしなかった。しかし,私にとって問題だったのは,今日の宿泊先であった。
  ・・
 実は,今になってみても,友人は,旅に出る前に私が予約をしたホテルをあえてキャンセルさせてまで,どこのホテルに泊めたかったのか,まったくもって不明なのである。この日も,私の泊まるホテルに,特に当てがあるとは思えなかった。
 確かに,アメリカでは,車さえあれば,少し郊外に出れば,泊まるところなど,どうにでもなる。空き室が全くないなどということは考えられない。しかし,この日の私は,車もなく,明日の朝は午前9時にダウンタウンでレンタカーを借りる必要もあった。しかも,この週末にダウンタウンのホテルに空きがあるとは到底思えなかった。
 もっとはやくこのことがわかっていれば,私なら,もっと前に手を打っていた。

 そして,友人が主張するのは,今日泊まるホテルの近くにレンタカーを借りる営業所を変えろ,ということであった。レンタカーなど,どうにでもなると言った。
 実際,そのとおりどうにでもなるのだが,だからといって,どこの営業所に変えたとしても,あすの朝,友人が私をその場所まで送ってくるれることはできないのであったから,話に整合性がないのだった。
 私は,営業所を変更するよりも,朝,タクシーでレンタカーの営業所に行くから,なるべくダウンタウンに近いところにホテルを探してほしいと主張した。

 そういった話をしていたとき,我々はリバーウォークを歩いてたのだが,リバーウォークは,とても賑わっていていて,観光客はみんなとても楽しそうだったのに,我々は,そこで食事を楽しんだり,写真を写したする,といった雰囲気ではなくなってしまっていた。
 友人は,リバーウォークにあるレストランは高いから,もっと安いところへ行って,そこで食事をしながらホテルを探そうと言った。
 そんなこともあって,そそくさとリバーウォークを後にして,今度はレストランを探すことになった。
 一昨日はプエルトリコ料理,昨日は日本料理だったので,きょうはメキシコ料理,ということになった。
 なかなかよいお店が見つからなかったが,交差点で信号待ちをしているときに,友人は見知らぬ人にメキシコ料理店のある場所をたずねた。私には区別がつかないのであるが,メキシコ人ということが,彼女にはわかるのであろう。そんな風にしながら,見かけは大しておいしそうでないメキシコ料理店を見つけて,そこに入ることになった。

 いつのように,外見とは違い,中はとても広いレストランであった。
 まだ空席があったので,今晩私が泊まるホテルを探して予約する電話がかけられるように,奥まった席をリクエストして,ともかく席に座った。ウェートレスさんがやってきて,食事を注文した。
 私が記憶に残っていることは,そのときのウェートレスさんがとてもすてきな女性だったことと,その女性がものすごく忙しそうに働いていたことであった。しかし,そうであったにも関わらず,友人は,水を頼んでもすぐに運んでくれないといっては怒り,食事が遅いといっては怒り,非常に機嫌が悪かった。
 いくら電話をしても,どこのホテルも満室で予約ができなかった。週末の,しかも春休み。月曜日はセントパトリックデイの祝日とあって,日本のゴールデンウィークと変わらない日に、容易にホテルが予約できるとは,私には思えなかった。私も,せっかくやってきたサンアントニオでこれまでにどれだけ時間を無駄にしたかを思い出して,不機嫌になってきた。

 そうこうするうちに,友人はホテルをさがすのをあきらめ,兄に電話をして,ホテルを探してくれるように頼んだのだった。友人は,わたしの兄はいいやつだから,ちゃんとホテルを探してくれるといって,私を安心させようとしたが,私は気が気ではなかった。
 やがて,しばらくして電話がかかってきて,ホテルが見つかったということであった。場所はこうこうこういうところで,と言われたが,そこがどこなのかは見当がつかなかった。しかし,だからといって,たとえ,そこが結構遠いところであっても,そこに泊まる以外に,私には選択肢がなかった。

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 アラモの砦自体は無料である。列に並んでいたのは,音声ガイドを借りるためであった。
 それにしてもごった返していて,30分くらい並んだだろうか,やっと中に入ることができた。
 日本語の音声ガイドがあったので,私は,それを借りた。
  ・・
 友人は,ミッション巡りをしていたときは,とても熱心だったのに,アラモの砦には,ほとんど興味はなくて,私はもっと時間をかけてゆっくりと見たかったのだが,なにかせかされているように感じた。
 彼女がいうには,ここは再建されたものだから,何の歴史的な意義も魅力もない。
 そりゃ,我々だって,再建された鉄筋コンクリートの天守閣を訪れる外国人に同じようなことを感じることはあるけれど。

  ・・・・・・
 サンアントニオ市ダウンタウンの中心部にあるアラモの砦は,1836年に将軍アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ(Antonio Lopez de Santa Anna)の率いるメキシコ軍隊からテキサスの土地を守る戦いで189人のテキサス愛国者が戦死した場所で,その建物の一部がスパニッシュミッションに再建されたものだ。
 この戦いの防衛者には,有名な辺境開拓者のデヴィー・クロケット(Davy Crockett),派手なテキサス製ナイフ戦士のジム・ボウイ(Jim Bowie)が含まれていた。
  ・・・・・・
 私は音声ガイドを聞きながら場内を一周した。
 砦の中には礼拝堂とかもあって,時代ごとに,その部屋の用途がちがったり,戦いの残骸があったりと,再建されたとはいえ,何か権威がある建物であった。
 残念ながら,建物の中は撮影禁止であった。

 礼拝堂の外に出ると,庭には、美しい花が咲き乱れていた。
 ものすごく暑い日で,この庭にあった売店で,やっと,水にありついた。
 友人は,展示には全く興味がなく,ここで知り合った人とおしゃべりを楽しんでいた。 
 私が見終わったころ、友人が,もういいか,というので,あまり待たせても悪いと思って,アラモの砦を後にした。
 本当に,こんなことなら,午前中にひとりでゆっくりと見学したかったのに,と思った。

 その後,リバーウォークへ行った。
 ここも,友人は,まったく興味がなく,どんどんと歩いて行くだけであった。
 私は,2日目の早朝にリバーウォークを歩いたので,まあ,それでもよかったのだが,せっかくサンアントニオに行ったのに,アラモの砦もリバーウォークもダウンタウンも十分に堪能できなかったことは,非常に心残りであった。
 リバーウォークを歩いていると,突然,友人が不機嫌そうに,明日の朝,レンタカーの営業所まで送ると言ったが,急に都合が悪くなってそうすることができなくなった,と言い出した。
 なんでも,怪我をした娘さんのリハビリの時間が変更になって,朝の7時までにリハビリに付き添わなくてはいけなくなったということであった。

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 最後に行った「ミッション・コンセプチオン」は少し距離があった。川に沿って,「殉教の道」にそってサンアントニオに戻っていくと,途中には,学校やら町並みやらがあって,その先にミッションがあった。
 ここはミッションのなかでも一番巨大で,最も美しく良好な状態で保存されていたので,ミッションの代表的な存在のようであった。まるで城郭のようで,広い駐車場の先には,展示室があったり,案内所があっりした。
 駐車場に車を停めるころに,雨が降り始めたが,たいして強くなりそうにはなかった。
  ・・
 ちょうど,このミッションを案内をしてくれるツアーが始まったので,それに加わって,案内を聞いた。案内をしてくれたのは,初老の女性で,ボランティアの案内係のようであった。
 日本にも,観光地には,こうしたボランティアガイドがいるが,ちょうど,そんなようなものであった。
 案内は,非常に詳しく,ゆっくりとミッションについて説明をしてくれた。中に入ると,教会の壁と天井には,当時の絵画が今でも残っていた。また,礼拝堂以外にも,多くの部屋があって,当時の繁栄ぶりがうかがえた。礼拝堂には,キリストの像や絵画があった。
 こうして,4つのミッションの見学を終えた。
 観光で日本に来た外国人が京都の古寺を拝観したときに感じることがなんとなくわかったよう気がした。

 車は,一路,サンアントニオのダウンタウンに戻るために北に進んだ。次第に,サンアントニオの市街地に入っていくと,来るときとは打って変わって,ものすごい人混みと車の洪水であった。
 まず,サンアントニオ市内で車を駐車するのが一苦労であった。
 私ひとりでは,ミッションに行くこともできなかったので,そのことはよかったのであるが,もし,ミッションに行くとしたら,私はこんな計画で観光はしないであろうと思った。
 ミッションはそれほど混んでいないから,私なら,まず,早朝,はじめにアラモの砦へ行ったであろう。週末の午後のダウンタウンに車を駐車して観光をするなどということは,どの国でも無謀に近いのだ。アメリカは広いから、都会でも車を停めるのに苦労しないだろうと思われるかもしれないが,それは違うのだ。車の洪水は,日本とは比較にならない。 
 ともかく,やっとのことで駐車場に車を入れて,駐車場からはさほど遠くないアラモの砦へ,徒歩で行った。アラモ砦のまわりは,当然,ものすごい人混みで,静寂に包まれた四つのミッションとはえらい違いであった。

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 そんなふうにして,出だしは遅くなったが,今日は,ミッション巡りをすることになった。
 ミッションは,ちょうど京都や奈良の古寺を巡るようなもので,非常に興味深く,おもしろかった。友人に連れて行ってもらわなければ,その存在さえ知らなかったから,私ひとりでは絶対に行くことはなかったであろう。まさに,友人さまさまなであった。

 ミッション巡りではじめに行ったのは「ミッション・サンホセ」であった。
 外から見た感じでは,教会というより要塞のようであった。
 先に書いたように,ここは,伝道所の女王とよばれていて,数あるミッションの中でも最も裕福で,最盛期には300人もの人々がそこに暮らしていたといわれている。現在は,穀物倉庫と製粉所が復元されている。
 広い駐車場に車を停めた。結構多くの観光客がいた。
 中に入ると,まずビジター センターがあって,ミッションについての詳しい展示や説明があった。
 サンアントニオにけるミッションの歴史だとか,当時の遺物だとか,そんなものがガラス張りのケースにたくさん展示してあった。私は,ここに来るまで,ほとんど知識がなかったから,よい勉強になった。
 展示室から出ると,周りに昔ここで働いていた人が暮らした家が広場の周りを囲んでいた。
 石で壁ができた広い部屋があった。
 中央には広場があって,学校のグランドくらいの広さがあった。
 その向こうにドーム方の礼拝堂があった。
 礼拝堂は白い壁で包まれて,美しかった。壁にはさまざまなフレスコ画や彫刻が飾ってあった。
 ここは,今でも現役のカトリック教会区として機能しているということだった。
 ちょうど,古びた教会を想像していただければいいと思う。
 礼拝堂をでて,遺跡のような通路を歩いて,外に出た。

 次に訪れたのが「ミッション・サンファン」だった。
 ここは,先に行った「ミッション・サンホセ」の近くにあった。
 「ミッション・サンホセ」に比べて,ここには廃墟のような感じであった。
 中に入ると,先ほどと同じように中央に広場があった。広場には十字架の形のした木の作り物があって,周りをサボテンが囲んでいた。
 また,古びた小屋があって,このミッションを管理していた人の住居跡のようであった。
 その向こうには,とても小さな礼拝堂があった。
 質素なものであったが,入口の扉をあけてこの礼拝堂の中に入ると,美しく,静寂に包まれていて,神々しいミサの音楽が流れていた。
 とても荘厳な素晴らしい雰囲気で,じっと座って聞き入っている人がいた。
 京都の古寺で,じっと庭を見入っている人がいるのと同じようであった。

 その次は,「ミッション・エスパダ」に行った。
 ここの礼拝堂では,何らかの行事をしているようで,多くの若者が集まっていた。礼拝堂の中は,同じような作りであったが,古い木材で構成された天井が美しかった。
 また,ここは管理をしている人が花をたくさん植えていて,それらが庭を包み,とても美しかった。
 また,ステンドグラスやらを作ってはミッションの中の売店で販売をしていた。日本のお寺でも商売熱心なところがあるが,ここもそんな感じであった。
 中央の広場には,古い巨木があった。友人は,この巨木に子供の時の懐かしい思い出があるらしく,しきりに感動をしていた。
 これら3つのミッションは近くに固まっていて,車なら数分で移動することができた。

 最後に行った「ミッション・コンセプチオン」は少し距離があった。
 ここはミッションのなかでも一番巨大で,最も美しく良好な状態で保存されていた。
 まるで城郭のようであった。
 案内をしてくれるツアーがあったので,それに加わって,案内を聞いた。
 教会の壁と天井には,当時の絵画が今でも残っていた。

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 結局,ブレーキランプを見つけることができなかったその店の近くの小さな車の部品屋で,やっとブレーキランプを見つけることができた。ブレーキランプを友人は自分では交換できないということなので,店の中からメキシコ人の店員が出てきて,工具を取り出して,やっとのことでランプを交換した。
 このようにして,きょうは,出発時間が遅かったとこに加えて、ブレーキランプ1個のためにくだらない時間を延々と費やして,お昼になるころに,ようやく目的地に向かって出発することとなった。
 きょうも昼食は抜きであった。
  ・・
 日本なら,ブレーキランプが切れたときにはカーディーラーに行くであろう。
 何事もDIY(Do it yourself)の国なんだなあと,変なところで感心をしたのだが,本当に,私は,わざわざサンアントニオに来て,何をやっているのだろうか…?
 まあ,友人には悪いが,おもしろい経験をしたとは思った。しかも、アメリカの庶民の暮らす下町をドライブするという経験もできたし,どういう生活をしているかもわかった。

 すでに書いたが,きょうこの友人が私を連れて行こうとしたのは,現地の人には非常に有名でしかも重要な4つのミッションであった。有名とはいっても,これらのミッションについては,日本ではなじみがなく,知っている人もまずいないし,テレビ番組に紹介されたのを私は見たことがない。
 サンアントニオのミッションについて,パンフレットをもとに紹介してみよう。
  ・・・・・・
 サンアントニオには,18世紀にまでさかのぼるスペイン系のミッションとよばれる伝道所が四つ現存していて,現在,「サンアントニオ・ミッション国立公園」を形成している。
 この「国立公園」になっている,ということがおもしろい。たとえば,日本で,京都の清水寺とか高台寺あたりを国立公園にするようなものだ。これを書いていて,私は,そうか,京都だって,世界遺産にする前に,国立公園にすればいいんじゃないか,と思った。
  ・・
 もともと,サンアントニオの街というのは,18世紀に入植したスペイン人の宣教師たちによって,ミッションの周囲を囲むように建設された。この小規模なコミュニティには農場や教会,職人の工房,そして居住スペースなどが全てそろっていた。そして,豊かな農場から採れる農産物は,当時発展しつつあったサンアントニオの街に供給されていたのだった。
 19世紀に入って,それらのコミュニティは閉鎖されたのだが,「ミッション・コンセプチオン」「ミッション・サンホセ」「ミッション・サンファン」「ミッション ・エスパダ」の四つが現在も保存されている。
 それらが,サンアントニオのダウンタウンの南,サンアントニオ川沿いに点在していて,国立公園となっているというわけなのである。

 これら四つの各ミッションを構成している主な建造物は,荘厳なアーチとか彫刻とか色とりどりのフレスコ画,そして鐘楼である。
 ミッションの中でも,「ミッション・コンセプチオン」の教会は,最も美しく良好な状態で保存されていて,教会の壁と天井には,当時の絵画が今でも残っている。
 「ミッション・サンホセ」は,伝道所の女王と呼ばれていて,数あるミッションの中でも最も裕福で,最盛期には300人もの人々がそこに暮らしていたと言われていて,現在は,穀物倉庫と製粉所が復元されている。また,ここにはビジター センターもある。また,今でも現役のカトリック教会区として機能している。
 「ミッション・ サンファン」にある礼拝堂および鐘楼も,今でも使用されている。
 そして,「ミッション・エスパダ」の灌漑用水路は,現在も一部は水路とダムで機能している。
  ・・
 これらのミッションの終着点とでも呼べる場所にあるのが,アラモの砦なのであった。
 かつて,流血と惨事,勇気ある数々の行動の舞台となったこのアラモは,アメリカの自由の象徴であり,今でも,テキサスの独立の重要な旗印となっている。
 1718年にサンアントニオ川の近くに建設されたこの砦は,テキサス革命中に200人のテキサス軍がサンタアナ将軍率いる5,000人のメキシコ軍と13日間にわたって攻防戦を繰り広げたことで有名になった。この攻防戦は1836年3月6日,サンタアナ将軍が教会堂を攻め取り,テキサス軍をほとんど壊滅させて終結した。
 圧倒的な損失を被りはしたものの,サム・ヒューストン将軍は 兵士と補給品を集めてさらに東に進む機会を捉え,6週間後にはテキサス南東部で行軍していたサンタアナ率いメキシコ軍を阻止し,やがてはテキサス独立をもたらした。
 アラモの砦なくしては,テキサスの独立のために戦い,命を捧げたデビー・クロケットやジム・ボウイのような人々の逸話がアメリカの歴史に浸透することはなかったであろう,といわれている。
  ・・・・・・
 以上のようなことであった。
 なお,サンアントニオには,このミッションにちなんで,サンアントニオ・ミッションズという名のマイナーリーグ2Aの野球の球団もある。

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 友人がポリスに停止を命じられた理由というのは,実は,ブレーキランプの片方がついていなかなかったということであった。友人は,片方のランプが切れているということは知っていたから,これは確信犯には違いがなかった。
  ・・・・・・
 私が若いころにはじめて買った車は初代の日産マーチだったが,この車は,欠陥車であった。
 まず,ブレーキランプがすぐに切れた。それだけならともかく,ずいぶんと暖気をしないと,エンジンがいつも停止してしまうのだった。あげくの果てには,奈良にドライブに行ったときに,交差点で右折をしようとしたとき,オートマチックの接続ベルトが切れて,車が停止したまま動かなくなってしまった。
 ずいぶんとひどい車だった。生まれてはじめ買った車がそうだったから印象が悪く,私は,それ以来,日産車を買う気がなくなった。
  ・・
 そんなこともあって,ブレーキランプなどというのもはすぐに切れるものであると思っていたから,ブレーキランプの両方が灯らないというのならともかくも,片方だけが切れているからといって,その場で反則切符を切るなどというのは,言いがかりにすぎないと思った。
  ・・・・・・

 確かに,これはアメリカでも言いがかりであった。
 友人は,私は,これまでちゃんと税金も納めているし,50数年まじめに生きてきて,何にも悪いことなどしていない。しかも,きょうははるばる日本から来た友人を乗せているから,こんなことに関わっている暇はないなどと,ポリスに延々と話していた。
 私は,そんなことよりも,ブレーキランプは今切れたところで,修理に行く途中だとでも言えばいいのに,と思った。ポリスはポリスで意地になって,文句があるなら裁判所に出頭しろ,の一点張りであった。
 こちらのポリスは単独行動であった。こんなもの,個人の裁量だけであった。
 私は,もし,自分が運転していて,アメリカでこんなことになったらたまらないな,と思った。
 友人はプエルトリコ人である。こういうことがアメリカのポリスの人種差別なのだろう。私はそれを身をもって体験した。

 結構な時間,ああでもないこうでもないを繰り返していたが,友人はさすがにあきらめて,サインをしてしまった。後で,私は友人に,ブレーキランプが片方切れているだけで反則切符など,日本でも聞いたとこがないといったら,そうでしょう!と大きな声を出した。
 ポリスが去ってから,友人は,不機嫌そうに無言で再び iPhone でなにやら検索をはじめて,車を発進させた。私にはこれからどうするかというような何の話もなく,友人はサンアントニオの郊外に向かって黙々と車を進めていった。私も話しかける勇気がなくなった。どうやら,目指す先が変わってしまったらしい。
 友人は何がしたかったかというと,車の部品を売っている店を探していたのであった。そして,やっとのことで店が見つかって,車をパーキングに停めて,ブレーキランプを探しにその店に入っていった。そして,しばらくして戻ってくると,その店には,この車に合うブレーキランプが見つからなかったと言った。その店の店員が,ブレーキランプが一方切れたからといって反則切符を切られたなど,聞いたとこがないと言ったということであった。
 そんなこともあって,確かにテキサス州は治安はよいのかもしれないが,死刑の執行数も異常に多いし,何かしら州全体がピリピリした感じで,私は,どうも好きにはなれないところであった。
 アメリカでは,どの交差点にも信号機の上に監視カメラが付いていて,たとえポリスがいなくても信号無視でもすれば捕まってしまうのであるらしいが,そんなことを知ると,私は,交差点で監視カメラ(=1番目の写真の右上端)を見るだけで,なにかしら,テキサス州の敵意に満ちたような雰囲気を感じてしまうのだった。

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 友人は,自分で,今日の予定を立てていたのにもかかわらず,どこへ行きたいかと聞いた。
 私は,サンアントニオは,リバーウォークとアラモの砦くらいしか見どころは知らなかったので,まず,アラモの砦に行きたいと言った。なにせ,もう,10時過ぎであった。しかも,泊まっていたホテルの目の先でもあり,これまでにいくらでも行く機会があったのに,それを果たせないでいた。
 友人は,そんなところはつまらないから,今日の予定の一番最後でいい,と主張した。

 はじめて京都に旅行して,ともかく金閣寺(鹿苑寺金閣)に行きたいというのを,そんなところはつまらない,と言って,外国人にマイナーなお寺めぐりをすすめるようなものであった。しかも,昨日のことを考えると,きょう,一番最後でいいといったアラモの砦は,戻ってきたときにはすでに閉館時間を過ぎてしまっているのではないか,と思えた。
 午前10時過ぎに出発するのであれば,この日の朝,自分ひとりで,朝一番に,アラモの砦など見学できたではないか。なにせ,ホテルから歩いて5分とかからない場所なのである。しかも,私は,友人に,そんなに忙しければ,自分ひとりで観光するから無理しなくていい,とまで連絡したのだが,それを彼女は無視した。
 本当に,私は,サンアントニオに何をしにきたのであろうか,と思った。

 しかし,この日友人が案内したところは,とてもすばらしいところであった。しかも,私ひとりでは,絶対に行くことができないところであった。それは,ほとんどの日本人には全くといっていいほど知名度のない名所であった。当然,私もこの日まで全く知らなかった。
 サンアントニオの南部には,有名な古いミッションが四つ現存し,国立公園となっているのであった。
 友人が行くと主張したのは,その場所であった。そこは,観光地化したアラモの砦なんかよりもずっとすばらいい所だと言った。そこが本当にすばらしいところだということをそのときは知らなかった私は,そこはかなり遠そうなところであったし,あまり気乗りがしなかった。しかし,まあ,どうでもよくなりつつあった私は,アメリカ人に自己主張をしても,日ごろの訓練ができていない日本人が勝てるわけもないと認め,友人の言いなりになることにした。
  友人は,いつものように,iPhoneで行く場所を検索して,行き先を見つけたiPhoneの指示に従って,車を出発させた。
 車は,目的地を目指して,サンアントニオの町中を走っていった。

 ところが,ある交差点に差し掛かった時,友人は,突然,うしろのパトカー(といっても,ランドクルーザーのような車であった)に停車を命じられたと言って,車を道路わきに停めた。
 私は,そのとき,いったい何が起こったのか,さっぱり理解ができなかった。
 車線変更禁止の場所で車線変更でもしたのかいな,と思った。
 しばらく,車の中でじっとしていると,後ろの車から,腕に入れ墨をした若いポリスが現れて,友人に,免許証となんらかの書類(車検証のようなものだろうか)の提示を求めた。提示すると,それを持って,ポリスはパトカーに戻り,また,しばらく待っていると,ポリスが戻ってきた。
 私は,何を話しかけていいかもわからず,写真をとることもできず,動くとろくなことが起こらないだろうと緊張して,助手席に座っていた。

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☆3日目 3月15日(土)
 3日目の朝になった。外を見ると雨が降っていた。天気予報によれば,この後,雨は上がるらしいということであった。
 いつものように,とても早く目が覚めたので,朝食を食べたり,あたりを散歩したりした。
 サンアントニオという大都会も,ピッツバーグやらクリーブランドといったアメリカの普通の大都会と同じく,朝は静寂に包まれて,散歩していても気持ちがよかったが,まだ,少し雨が残っていた。
 出会った人に,あいにく雨ですね,といった会話をしたが,すぐに上がるだろうと言われた。

 やがて,午前9時を過ぎた。そして9時半になろうとしていた。しかし,友人からは何の連絡もなかった。
 私は,だんだんといらだってきた。
 本来ならば,この日の朝8時にレンタカーを借りて,ニューメキシコ州へドライブに出かける予定であった。友人が,2日間サンアントニオの観光をするから,変更するように言ったので,1日この予定を延長することになったのだった。

 あすは,日曜日で,レンタカーの営業所(ホテルのカウンタ)が開くのは通常よりも1時間遅く,午前9時であった。しかも,昨日このレンタカーのカウンタに行ったときのことを考えると,時間通りに車が借りられとは思えなかった。だから,日曜日の出発になると,さらにニューメキシコ州へ出かける時間が遅くなってしまうのだった。ニューメキシコ州は果てしなく遠いのだが,それがさらに遠く感じてしまった。
 こんな状況では,きょうまでしか予約のないこのホテルをチェックアウトして,今晩は友人が住む家の近くのホテルに移っても,あすの早朝に,友人が私をダウンタウンのレンタカーの営業所に時間通りに送ってくれるとはとても思えなかった。

 私は,友人など当てにせず,今晩のホテルは自分で探して,明日の朝は自分で営業所に行くことを考えた方がよさそうだと思った。しかし,昨日,ホテルのフロントで観光客が満室だからと予約を断られていたのを考えてみても,今晩部屋があるとはおもえなかった。私は,ホテルのフロントで,もう1泊このホテルに宿泊できないかと聞いたが,やはり,満室ということであった。
 アメリカには学生でなくとも春休みというのがあるらしく,今がその時期,しかも,月曜日はセントパトリックデーの祝日であった。日本のゴールデンウィークと同じであった。
 ダウンタウンの近くのホテルはどこも高級ホテルだったし,きっとどのホテルも満室だろうと思った。いったい,今晩はどうなるのだろうかと心配になった。

 そうこうするうちに,午前9時30分をとおに過ぎて,それでも,友人からは何の連絡もなかった。
 昨日のこともあるし,友人のことなどどうでもよくなりかけていた。
 もう,友人など無視して,変更した予定をまた変更して,きょうレンタカーを借りて,このままニューメキシコ州へ行こうと思って,レンタカーの営業所のあるマリオットホテルへ歩いていった。
 もし,ここでレンタカーの営業所にスタッフがいたならば,私は,この日にレンタカーを借りて,友人を無視して,ニューメキシコ州へ旅立ったに違いなかった。しかし,レンタカーのカウンタには,すでに先客がいたが,スタッフは不在であった。その先客に聞くと,スタッフはレンタカーの駐車場に行っているのではないか,と言った。でも,きっとそうではなく,このスタッフがまた遅刻しているだけであろうと思った。
 スタッフがレンタカーの駐車場に行っているのであろうと,それともきょうも遅刻しているのであろうと,これで私は気合いがそがれてしまって,私は,きょうレンタカーを借りるのをやめて,友人が来るのをいつまでも待とうと,泊まっていたホテルに戻った。
 すでに午前10時を過ぎていた。

 ホテルに戻ってみると,友人が不機嫌そうに,ホテルの駐車場に車を停めて待っていた。
 彼女は,朝,家を出ようとしたときに,急に仕事が入って,なんらかのトラブルをかかえ,その対処に手こずっていたといった。困ったクライアントだ,と捨て台詞を吐いたが,私は私で,プライオリティはどっちだ,と思った。
 今日もまた朝からそんな状況であったが,ともかくも,ホテルのチェックアウトをして,カバンを友人の車のトランクに詰めて,出発した。

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