しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:ヤンキースタジアム

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 はじめてMLBを見たのは,今から44年ほど前,生まれてはじめてアメリカに行ったときでした。ロサンゼルス・ドジャースのホームゲームで,対戦相手はシンシナチ・レッズ。知っていたプレイヤーはピート・ローズだけでした。このときの印象はものすごいもので,アメリカは本当にすごい国だと思いました。
 当時のドジャースタジアムにはまったく広告もなく,広い駐車場はすべて無料でした。ピーナッツ売りが遠くの客にピーナッツの袋をコントロールよく投げたり,セブンスイニングストレッチ,そして,子気味よいオルガンの応援メロディーなど,すべてがあか抜けていました。今でもその頃のMLBが私にはとても懐かしいものです。今はボールパークはどこも広告だらけで派手だし,駐車場はすごく高いし,その頃の素朴さはありません。また,当時のボールパークは,現在も残っているシカゴ・カブスのリグレーフィールドやボストン・レッドソックスのフェンウェイパークのような古い,そして,ユニークなところも多く,その多くはすさんだアメリカを思い起こすようなすごみがあって,行くのが楽しみでした。

 その次に見たのが,30年ほど前,ニューヨークのヤンキースタジアムでした。今のヤンキースタジアムとは違って,古く,周りの治安も悪く,とても怪しげでした。私が見た年はデレック・ジーターがルーキーだった年で,周りの観客がみな「ジーター,ジーター」と応援していて,そのときはじめてその選手をしったものです。
 こうして書いているだけでも,その時代に戻りたいものです。
 それから,私は,アメリカ各地でずいぶん多くのゲームを見たのですが,今は,どこも同じようなボールパークになってしまい,また,チケットも高く,かつ,駐車場も高く,あまり魅力を感じなくなりました。
 その後,何十年もして,私は,再びニューヨークでMLBを見ました。チケットをダフ屋から買ったこともありますが,何の問題もありませんでした。

 今は,MLBよりも私はマイナーリーグの方にずっと魅力を感じます。アメリカはやはり少しすさんだ感じの方がずっとアメリカらしいです。そして,田舎のぼろいボールパークでのんびりと時間を忘れて楽しみたいものです。


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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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 試合が終了して,いつのもように,スタジアムに「ニューヨーク・ニューヨーク」が流れはじめた。
 ヤンキースタジアムでは,試合終了と同時に,この「ニューヨーク・ニューヨーク」が流れる。ほとんどはフランク・シナトラの歌うものであるが,時として,ライザ・ミネリのことがある。
 ライザ・ミネリのものがかかるときは何か,特別理由があるのかもしれないが,私は知らない。
 試合が終了したときに決まった曲が流れるスタジアムは,他に,サンフランシスコ・ジャイアンツのAT&Tパークがある。そこでは,トニー・ベネットの歌う「霧のサンフランシスコ」が流されている。
 このような演出は,ご存知ボストン・レッドソックスのフェンウェイ・パーク8回表終了時の「スウィート・キャロライン」同様,すばらしいものだ。私は,この曲聴きたさに,ヤンキースタジアムに憧れたころもあった。
 この「ニューヨーク・ニューヨーク」は試合に勝ったときだけ流れると書いてあったものがあるが,それは間違いである。

 私は,この曲を背に,ヤンキースタジアムを後にした。
 ヤンキースタジアムを出たところに,地上に駅がある地下鉄4番ラインの161ストリート駅がそびえていて,鉄でできた階段を上ると駅の改札に出た。試合終了時なので,さすがに混雑していたが,日本のような身動きできないような状況ではなかった。
 地下鉄4番ラインの161ストリート駅のホームから眺めたヤンキースタジアムは壮観であった。
 スタジアムの南は広い公園となっていた。昔のヤンキースタジアムのあった場所だということであった。
 さらに南はハーレムリバーで,その向こうに,マンハッタンのビル群が見えた。
 今にして思えば,まだ,時間も早かったので,そんなに帰りを急がなくても,ブロンクスを少し散策すればよかった。

 32年前にこの地に来たときは,このあたりは薄暗く,スタジアムの外で営業をしていた民間の駐車場すらやばい雰囲気がありありで,管理をしていた男は,駐車代金のおつりを請求しても,帰りに払うと言ったし(絶対に帰りに彼はいない),駐車場からスタジアムにつながるわずかな距離を歩くだけでも,ずいぶんと気を使う必要があった。
 そのころは,ヤンキースタジアムのあるサウスブロンクスは,かなり,とんでもないところのようであった。
 それが,なんという変化であろうか。ここは,まったくお台場と変わらないではないか。
 現在,ブロンクスがどのようなところかは,知らない。現地に住んでいる日本人に聞いても,あまりよく知らないという。日本人はほとんど住んでいないようなのだ。ただし,まだ日が暮れる前なので,少しだけなら付近を散策してもどおってことはないような感じであった。

 しかし,このときは,私も家路を急ぐ満員の乗客とともに地下鉄4番ラインに乗って,ともかく,マンハッタンの59ストリートまで戻った。
 これからの今日の予定は,午後8時30分からアンバサダー劇場でミュージカル「シカゴ」を見ることだったので,それまで,まだ3時間くらいあった。
 ゆっくり食事をするか,それとも,どこかへ行こうかと考えていた。
 59ストリートは,マンハッタンの中央に位置する広いセントラルパークの南に面した道路である。私は,地下鉄4番ラインの通るレキシントンアベニューの59ストリートを地上に出た。昔来た時のように,観光馬車やら,街頭の物売りやらがいて,昔と変わらぬ景色が広がっていた。

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 試合はすでに4回の裏であった。私が新しいヤンキースタジアムに来て,はじめて打席で見たのがイチロー選手であったのが,また,偶然とはいえ,信じられない驚きであった。イチロー選手は,3塁内野安打を放った。と,そう思っていたが,帰国後,これを書きながら調べてみると,3塁のエラーであった。
 私の隣の席に座っていたのは,シンシナチから所用あってニューヨークに来たついでに野球見物のヤングガイであった。

 結果を書くと,この試合は貧打戦であった。対戦相手は,タンパベイ・レイズであったが,ヤンキースは0-1で完封負けをした。この試合に限ったことではないが,この年のヤンキース打線は,全く迫力がなかった。
 この日,イチローは2番であったが,ヤンキースには,ロビンソン・カノーとアルフォンソ・ソリアーノ以外,期待できそうな打者がいない。とにかく,高いお金を出して各球団から獲得した選手はみんな年齢が高くなって,故障だらけであった。2006年までの強いヤンキースのときと選手が変わらず,歳だけ重ねていった感じであった。

 このころのヤンキースは,下部組織もダメだし,フロントも無策だし,このジョー・ジラーディという元ヤンキースの捕手だった監督は,毎日,猫の目のように打順を変えるので,もし,私が選手だったら調子を保つのも大変だと思った。
 イチロー選手の打順も毎日変わるし,出場しないこともあった。
 私は,イチロー選手のファンであるからこういう書き方はしたくないが,冷静に見て,彼がチームに入るとチームが斜陽になるのか,たまたまそういう時期に加入するのか,そのどちらなのかは知らないが,今年のヤンキースの雰囲気はイチロー選手が入団してから順位を急降下させた10年前のシアトル・マリナーズと同じように感じる。
 隣のヤングガイは予定があるのか,「アメリカで楽しんで」と言って,7回くらいで帰っていった。

 私の今日の目的は,チケットを持っている明日の試合が雨天で中止になったときの保険を兼ねて,ヤンキースタジアムに来ることだったから,試合を見るのはほどほどにして,ヤンキースタジアムを歩き回った。
 ボストンのフェンウェイパークに比べれば,とてもつなく豪華で広い球場であった。しかし,正直にいって,私は,ヤンキースタジアムはすごいとは思ったが,もう一度行くとなれば,ぜったいフェンウェイパークのほうがいい。
 ヤンキースタジアムは,バックネット裏の席は,革張りであった。聞くところによると,席の裏にレストランがあるそうで,注文すると座席まで持ってきてくれるのだそうだ。そして,このレストランは,この金持ちシートの客しか利用できない。いわば,この球場は,格差社会のミニチュア模型のようなところであった。

 ともかく,このヤンキースタジアムは,きっと,アメリカのMLBの球場の中で,一番日本人になじみがあって一番多くの人が訪れるところだと思うので,あえてここで写真を載せる必要もないかもしれないが,私もたくさん写真を写したので,この球場の様子を写真でご覧ください。
 センター下にあるのが「モニュメントパーク」とよばれる一角である。この球場の名物のひとつで,球団史に足跡を残した貢献者たちのレリーフが所狭しと並んでいる。試合開始前なら,ここに入ることができるのだが,だれしも,この球場に行けば一度は見たいと思うので,この狭い所に入るにはかなりの時間並ぶ必要がある。ぜひ,ここに行きたいのであれば,開門と同時に,このモニュメントパークに最も近いゲートから入って並ぶ必要があろう。
 また,アメリカの球場を訪れた人にはおわかりだと思うが,このヤンキースタジアムも客席の奥はずっとコンコースになっていて,売店が並んでいる。あるいは,この写真のように,試合を見ながら飲み物を飲んだりすることができる場所がある。
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 ボールパークに限らず,こうした施設を訪れたときに,私は日本と全く違う価値観を感じる。
 アメリカでは楽しむためのさまざまな工夫が,いたるところにある。
 日本では,たとえば,名古屋ドームでは,食堂からはグランドが見えない。国技館の食堂からも土俵が見えない。そして,会場全体も狭く,個人の楽しみで見にいくのに,応援を強要される。
 アメリカの野球にはテレビ中継で試合の内容をみることだけでは決してわからないおもしろさがやまほどある。
 しかし,それでも,ヤンキースタジアムには,他の球場ほどは,観客楽しませる工夫がないように感じた。やはり,ここは殿様商売なのである。いや,野球そのものに自信があるからこれで十分だということなのかもしれないし,事実,そうなのである。

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 地上に駅がある地下鉄4番ラインの161ストリート駅を降りて,チケットを手に入れて,地下鉄の駅の階段を降りた。目の前は,ヤンキースタジアムの6番ゲートであった。
 セキュリティで荷物をチェックして,先ほど買ったチケットを係に見せた。バーコードを機械に当てると何の問題もなく,中に入ることができて,ほっとした。
 事前にネットでしらべたところ,ここヤンキースタジアムは,セキュリティが厳しく,大きなカメラなどを持っていると中に入れないとか書かれてあった。もし,そういう事態になっても,カメラを預けるところもないということであった。
 私が持っていたのは,ニコン1J3というミラーレスの一眼レフと10から100ミリのズームレンズであった。35ミリカメラに換算すると,27ミリの広角から270ミリの望遠までのズームで,この日のために購入したものであった。このカメラなら小さいので問題はないと思っていた。しかし,私の予想に反して,結構大きなバッグを持った観客でも何の問題もなくゲートをくぐっていた。私の心配は取り越し苦労であった。
 こういう情報は,結構いい加減なものが多く,ヤンキースタジアムのセキュリティも他のボールパークより厳しいというものでもなく,同じであった。

 2009年4月,総工費15億ドルを投じて,旧ヤンキースタジアムの隣にオープンしたこの新球場は,とてつもなく豪華なものであった。同じころに作られた他の球場の3倍の費用をかけただけのことはある。
 「グレートホール」と呼ばれる巨大なコンコースが迎えてくれた。私は何度足を運んでも,アメリカのボールパークの客席の仕組みがどうもよくわからない。というか知る気もなかった。持っていたチケットには,「テラスセクション313・ROW3・SEAT16」とあったが,これで1塁側の4階席だとはわからないであろう。とにかく,この球場は,チケットが異常に高価なのである。
 MLBは1990年代から新球場が続々と誕生して,チケットがどんどんと高くなった。それ以前は,1,000円も出せば,上席で見ることができた。今はその10倍はするようになった。係員がいたので,チケットを見せて,席はどこかと聞いたら,横のエスカレータに乗れと言った。「グレートホール」にあったエスカレータに乗る。3階まで上がって,また,係に聞いたら,もう1階上だと言った。70ドルもするチケットが,こんなにスタジアムの上の方の席なのである。

 やっとのことで,席を見つけた。席につくと,眼下にはテレビでよく見るヤンキースタジアムのフィールドがあった。
 この球場は,外野も客席に囲まれて,外の景色が見られない。
 他の多くの球場のように,外野の後方に摩天楼が見えたり,ナイトゲームターのときには夜景が見られたりするようにデザインされていれば,ここはニューヨークなのだから,どんなにすてきであろうか,と思っていたので,私は,このスタジアムは今ひとつ好きになれなかった。しかし,こうして実際に来てみると,これはこれですごい威厳なのであった。
 さすがに興奮した。
 試合はすでに4回裏がはじまっていた。すごい盛り上がりであった。
 打席には,何と,イチローが立っていた。 

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 地下鉄Eラインは,すばらしい電車であった。車内の表示も電光掲示であった。地下鉄の案内標示は,英語,スペイン語,中国語,そして,ハングル。しかし,日本語はなかった。
 30年も前のニューヨークの地下鉄は,そりゃひどいもので,落書きだらけ,乗るにも命がけであった。車内には警官が乗り込んでいた。日本製の,落書きのできない車両が導入されてから,落書きがおさまったそうであるが,窓ガラスに傷をつけてまで落書きがしてあるのを,いまだに見かける。
 また,ラインによって,雰囲気が全く違う。JラインとかZラインとかは,今だ,やばい時代の空気が感じられたが,このEラインは,最新式であった。

 ジャマイカ・センターからマンハッタンまで,このEラインは特急電車で停車する駅は少なかったが,思ったよりも時間がかかった。
 およそ30分以上乗っていただろうか,列車は,5番街&53ストリートに到着した。私はここから4番ラインに乗り換えるものと思っていたが,経路図をよく見ると,ここには4番ラインは通っていなかった。
 ということで,一度,地上に出た。
 警官がいたので聞いてみると,レキシントン・アベニューへ行け,と言った。レキシントン・アベニューは5番街から2ブロック東であった。そこまで少し歩いた51ストリートで乗り換えることができるらしい。
 私には久しぶりのマンハッタンであった。
 レキシントン・アベニューは,マンハッタンのセントラルパークの東側を南北に通る5番街のその東のマジソン・アベニューのその東の道であることを思い出した。
 マンハッタンのビル街を歩いてレキシントン・アベニューに着いたが,地下鉄の入口がない。実は,私は,51ストリートではなく,53ストリートを歩いていたのだが,地下鉄の駅は51スリートであった。私は,ちょっととまどった。そこからレキシントン・アベニューを南に2ブロック行けばよかったのに,北に歩いて行ってしまった。それでも,59ストリートから地下鉄4番ラインに乗ることができた。

 4番ラインの車内はけっこう混雑していた。車両もEラインのような新しいものではなかったが,昔のような暗い感じはなかった。
 86ストリートで大勢の乗客が下車していったので,そのあとは,座席がほぼ埋まるくらいの状況になった。
 どうして,この駅でこんなにたくさん降りるのかと思ったが,そこは,メトロポリタン美術館の最寄駅であった。銀座線に乗って上野に着いたようなものであった。
 私は座っていたが,この駅で降りなかった乗客を見渡すと,私以外は,全員アフリカンアメリカンであった。ちょっとびっくりした。久しぶりのニューヨークでおのぼりさん状態から我に返って考えると,この先は,イーストハーレムなのであった。
 イーストハーレムなんて,昔は「怖いところ」であった。その当時は,観光客がマンハッタンの北行きの地下鉄に乗るなんて,考えられなかった。今,私がひとりでその地下鉄に乗っているという事実が,なにか,とても不思議な気がした。今や,すっかり安全になったニューヨークは,ハーレムも問題なく歩くことができるようになった。だから,ハーレムに住むアフリカンアメリカンも昔とは違うようであった。この地下鉄に乗っているアフリカンアメリカンの人たちも,ファッショナブルで,男の人たちは体が大きくてかっこいいし,女の人たちもものすごくきれいだった。
 すてきだなあ,と思った。

 ヤンキースタジアムにつながるこの地下鉄4番ラインは,野球見物に出かけるらしい,NYマークのついた帽子をかぶったり,ユニフォームを着た乗客も若干は乗ってはいたが,すでに,試合開始時間を過ぎていたので,スタジアムに向かう観客で混雑しているということはなくて,通常の状態のようであった。やがて,地下鉄がハーレム川を越え,地上に出て149ストリートを過ぎると,車窓からは,南には摩天楼,北には巨大なヤンキースタジアムが眺められるようになった。これには,大いに感動した。
 地下鉄は161ストリート駅に着いた。ここは,すでにブロンクスである。
 私はホームに降りた。
 目の前に,豪華なヤンキースタジアムがそびえていた。
 とうとうヤンキースタジアムに着いたが,すでに試合開始時間を20分ほど過ぎていた。
  ・・
 私は,この日のチケットは持っていなかったが,まあ,なんとかなるだろうと思ってここに来た。地下鉄を降りたとき,ホームに,チケット買わないか,という黒人のおじさんがいたが,この駅で下車した人たちは,みんな無視してスタジアムに急いでいた。私は,ここで躊躇していても野球が見られないので,意を決して声をかけた。おじさんは「いい席だよ」と言った。おじさんに,私の後ろから来たカップルも声をかけて,値段の交渉を始めた。
 私は,そのカップルとの値段交渉が忙しいおじさんから,ともかく1枚のチケット受け取り,値段を見た。70ドルだった。財布に20ドル札が4枚あったので,それを渡してお釣りをくれと言おうとしたが,考えてみれば,この国で,こういう状況で,お釣りをくれるわけがない。思い直して,10ドル札をさがして,70ドルちょうどにして,「これでいいか?」といって,チケットを受け取った。試合がすでにはじまっていたが,チケットは正規の値段で手に入れた。
 このチケットがフェイクでないことだけを祈ってスタジアムのゲートを目指した。おじさんは,まだ,そのカップルと値段の交渉を続けていた。

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