しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:ラハイナ

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●ハワイを夢見てきたが流す涙はキビの中●
 州道30を北西にラハイナのダウンタウンを越えたあたりにあるケヌイ・ストリートを左折して海岸に向かって走っていくと目指す浄土寺があったので,寺の横にあった駐車場に車を停めた。寺のさらに向こうは海岸で,地元の人たちが海水浴をしていた。海のきれいさは日本とは比較にならないが,雰囲気だけは日本のようなところであった。

 日本人が最初にマウイ島へ移民として横浜港を出たのは1868年(明治元年)のことであった。
 「金のなる木が生えている」という話を聞き夢を膨らませてハワイ諸島についた人々を待ち受けていたのは,裸にされて体格で値段をつけられ治外法権のサトウキビ畑に売られて強制労働させられる毎日であった。ホレホレ節という民謡を歌いながら炎天下でサトウキビの葉を落とす作業をしなければならなかった。
 「ハワイ,ハワイと夢見てきたが,流す涙はキビの中。いこかメリケン,かえろか日本,ここが思案のハワイ国」。
 勤勉で真面目な日本人はマウイ島人口6万人のうち3万人になっていた時期もあったという。

 ちょうどそのころ,ハワイに仏教寺院が建てられた。
 「ラハイナ浄土院」(Lahaina Jodo Mission)は1925年(大正元年)カフルイ浄土院を開いた原聖道師がラハイナに土地を借りて仮布教所を設置,翌年着任した斉藤原道師が寄付などを集めて1927年(大正3年)に堂を建てたのが始まりである。1930年(昭和5年)現在地に土地を購入して移転,ハワイの他の寺院とは違って日本的に作られま。
 1968年(昭和43年)火災で本堂が焼失する事故にあったが原源照師らの努力で3年後に再建された。日本から大工を寄せて,日本式本堂,納骨堂に利用されている三重塔,このほか鎌倉大仏を縮小したミニ大仏,鐘楼,山門,東屋などが建立された。
 寺院の側にある墓地は中国人や日本人の無縁仏であるが,今はハワイ州が管理しているために勝手な整備ができないそうである。

 ラハイナ観光の最後に私がめざしたのは「ハレ・パイ」(Hale Pa'i)であった。今度は州道30をダウンタウンの方向に少しだけ戻って左折し,山側にラハイナルナ・ロードの坂を上ってずっと奥まで進んでいくと高台には新しい住宅街があって,その先の行き止まりにラハイナルナ高校(Lahainaluna High School)があった。学校の横に広場があって,高校生たちが遊んでいた。そこに車を停めて外に出ると,「ハレ・パイ」はそこにあった。
 「ハレ・パイ」は印刷博物館である。開館時間に着いたはずだったが,なぜか閉まっていて中に入ることができなかったので,ここでは資料から紹介しよう。

 オアフ島に到着した宣教師が来たとき,ハワイ人は文字をもっていなかった。 ハワイ語はアルファベットとして表記をするのが難しかった。 宣教師たちはキリスト教の福音を教えるために,まずは言葉を書く表現法を開発しなければならなかった。
 そうして1822年にハワイで印刷された最初の本はハワイ語のスペルの本であった。

 マウイ島のラハイナに宣教師が上陸したのが1823年。現在のラハイナルナ高校はそのときに時神学校として創立された。
 1831年,ラハイナルナでは印刷の必要が認識されたので,印刷をするための建物が建設され1834年にホノルルから印刷機(Ramage Printing Press)が到着した。そして,1834年に「Ka Lama Hawaii」の初版が印刷された。1837年には現在の建物が作られた。
 「ハレ・パイ」は1846年に印刷が中止されるまで使用され,その後は学校の部屋に使用されたが,1964年、ハレ・パ・チーはラハイナ・レストレーション財団に引き渡された。

 こうして,私はこの日,マウイ島の西海岸,特にラハイナの観光を終えて,ホテル近くのモールでケイタリングの夕食をとった。このように,この島を訪れる日本人の多くはそのことに興味もないが,マウイ島は様々な顔をもつ,そして,歴史のある島である。

◇◇◇
Super Blue Blood Moon 2018
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●「プリンセス・ナヒエナエナ」の悲劇●
 引き続き,ラハイナの散策を続けよう。
 ラハイナ監獄からさらに南に歩いて行くと町はずれになってきた。このあたりは寺院が多いが,ここにラハイナの王族の悲劇があることを知る観光客は少ない。

 まず,1番目の写真は仏教寺院の「ラハイナ本願寺」(Lahaina Hongwanji Mission)である。屋根のてっぺんにだんごがささったような変わった建物で,1904年に建てられた。親鸞像がお寺の前にあり,ローマ字で「NOKOTSUDOU」と書かれた納骨堂もある。
 現在このお寺は日本語学校としても使われているそうだが,日系の人たちの集会場という機能もありそうだ。
 さらに歩いて行くと2番目の写真のマウイ島島最古のプロテスタント教会「ワイオラ教会」(Waiola Church)に着く。この教会は1828年に建てられた由緒あるもので,もともとはワイネエ教会(Waine'e Church)といわれた。幾度か改築が重ねれら,現在の名に改名された。
 その教会に隣接するのが3番目と4番目の写真にあるワイオラ墓地(ワイネエ墓地)である。この墓地にはカメハメハ1世の第1王妃ケオプオラニとプリンセス・ナヒエナエナの墓がある。
 前回書いた聖なる土地「モクウラ」が開発の波にのまれ,一度は葬られた「モクウラ」からここ「ワイオラ墓地」に移されたものである。

 カメハメハ1世はカメハメハ王朝の創始者で,ハワイ島コハラの首長の家系に生まれた。カラニオプウ大首長の死後,内戦状態にあったハワイ島を平定して王朝を建てた。
 カメハメハ1世には多く妻がいたが,その第1王妃がケオプオラニである。ケオプオラニは大変身分の高い生まれで,カメハメハ1世でさえ顔を上げて話をすることを許されなかったという。
 カメハメハ1世とケオプオラニの間には,のちのカメハメハ2世と3世となる男子が生れたが,その妹として生まれたのがナヒエナエナである。
 ナヒエナエナは実の兄カウイケアオウリ(後のカメハメハ3世)と愛し合っていて将来結婚することになっていた。今の常識とは違い,当時のハワイアンの習慣として,近親結婚,特に高貴な血を受け継ぐ者同士の結婚はその血筋を守りまた高めるものとして尊重されていた。したがって王とその高貴な妻とのふたりの兄妹は生まれながらにしてその道をたどる運命であった。
  ・・
  ところが,そのころヨーロッパからの宣教師がハワイへ布教を始め,王族の中にもキリスト教を崇拝するものが多くなってきた。ケオプオラニもキリスト教の教えに傾倒していったひとりである。こうして宣教師の影響は次第に王朝の政治にまで影響を及ぼすようになった。
 キリスト宣教師が始めてハワイに到着したとき,ナヒエナエナはたったの5歳であった。ハワイ貴族の娘として育ってきた彼女は宣教師から押し付けられた生き方に賛同することを拒んだ。彼女はイエス様を崇拝することよりも,海の神,風の神,火山の神,自然の神たちを崇拝することを選んだのだ。しかし,母親ケオプオラニが洗礼を受けキリスト教徒になってからは母親からキリスト教を押し付けられることになる。
 ナヒエナエナが表向きだけでもキリスト教を受け入れることになったのは,ケオプラニが死を目の前にした病床での遺言であった。
 「これからは宣教師に育ててもらい,立派なキリスト教徒になるのよ」
 こうして,否応にもキリスト教徒になることを受け入れることになったのだが,それでも古代ハワイアンのしきたりを完全に捨てることができなかった。そして,わざと昔ながらの服を着続けただけではなく,宣教師たちの反対を押し切ってカウイケアオウリと結婚した。
 が,結婚するやいなや宣教師からこんな手紙が彼女の元に届いた。
 「君は最大の罪を犯した。その罪は重く、君は母親のいる天国には行けないだろう」
 それがきっかけで心の病にかかり,かなりな量のお酒を飲み続けた。
 そんな人生の中でも明るい光が差したのは息子を身ごもったことであった。ところがその幸せも長くは続かず,赤子は産まれて数時間のうちに他界した。その事実に耐えられなかったナヒエナエナもまた,その3か月後に21年の短い生涯に幕を打ったのだった。カメハメハ3世として王朝のトップに立ったカウイケアオウリは他の女性と結婚したが,たびたびラハイナにあるナヒエナエナの墓標を訪れていた。
 …今もプリンセス・ナヒエナエナは,母親ケオプオラニと共にラハイナのワイオラ教会の片隅で眠っている。

 ハワイでのウエディングに憧れた日本人がこの教会で結婚式をあげる。ウェブサイトにもハワイでの結婚式の会場としてこの教会が取り上げられている。しかし,こうした歴史の悲劇が書かれたものは皆無である。
 ハワイに関する観光ガイドブックは多いが,それらの情報はショッピングやらグルメばかりである。ここラハイナにもまた,ショッピングやグルメ,そして,ウェディングで日本から訪れる人も少なくないが,こうした歴史を知る,あるいは興味をもつ人は多くない。しかし,この歴史を知ってこの地を訪れると,別の感慨がわくであろう。そしてまたこの教会で結婚式を挙げるということの重さを知ることができるであろう。
 旅をするというのはそういうものであるし,そうでなければならない。

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●「ラハイナ・ヒストリック・トレイル」●
 カメハメハ王国初期の首都であったラハイナには「モクウラ」(Moku’ula)と呼ばれた地域に王と神官,そして妻たちが住んでいたが,今は跡形もない。「モクウラ」は現在のフロントストリートに面していた場所にあった。私はこの日,このフロントストリートを歩きながらラハイナの名所の散策をしている。
 ラハイナの史跡を見て歩くのに最適なのは「ラハイナ・ヒストリック・トレイル」(Lahaina Historic Walking Trail)と題したウォーキングセルフツアーである。このトレイルは町の史跡保存協会がフロントストリートを中心に南から北へ史跡に番号をつけたものであり,町中のあらゆるところに地図がおかれ「ラハイナ・ヒストリック・サイト」という看板には史跡の名前と番号がかかれていて非常にわかりやすい。現在もコースは整備中で,最終的には62か所の見どころが設定されるということだ。
 このトレイルを歩いてラハイナの歴史を巡る時間の迷路を散策するのが古都ラハイナのもっとも楽しい過ごし方なのだが,何だかアメリカの観光地というよりも,日本の観光地のようであった。

 フロントストリートを南に向かって歩いて行くとショッピングエリアを抜けて町はずれになってきた。ここに町営の広い駐車場があって,ずいぶんと駐車スペースが空いていた。この日私はラハイナのダウンタウンで車を停める場所に苦労したが,ここに停めればよかったと後悔した。はじめて来た場所で最もわからないのがこういったことなのである。そしてまた,こういうことはガイドブックには書いてない。
 この駐車場のあたりから海岸向かったところに「イキパーク」があった。

 1番目の写真はその「イキパーク」(Kamehameha Iki Park)である。ここは「モクウラ」の跡地にあって,かつては王家の居城があった。敷地には「モクヒニア」という池があって,その池に住む「キハーワヒネ」というトカゲの姿をした女神には聖なる強い力があり,深く崇められていたということである。カメハメハ1世の第1王妃ケオプオラニ及びその子どもたちは,死後この池に埋葬されたといわれる。
 居城は石で積み上げられた家であったため「ハレ・ピウラ」(鉄の屋根の家)と呼ばれたが,カメカメハ3世が都をホノルルに移したあとは使われなくなり,解体されて石は裁判所建築の際に使われた。
 この聖なる土地も一度は開発の波にのまれたが,住民の大きな反対運動で中断された。開発の際にこの場所に埋葬された墓はワイオラ教会の横に移された。現在は写真のように,池や遺跡を復元するための活動がされている。

 ここから東にプリズンストリートを歩いて行くと,左手にあったのが2番目の写真の「ラハイナ牢獄跡」であった。ここはラハイナが捕鯨で栄えた1850年代に使われていた小さな牢獄の跡で,ハワイ語で「監禁の家」を意味する「ハレ・パアハオ」とも呼ばれる。
 囚人の多くは飲んで暴れた海の荒くれ者たちであった。そのほか船から脱走した人,馬の乗り方が悪かった人,さらには安息日に働いた人なども投獄された。囚人たちが自ら建てたという獄舎は壊された砦から取ったサンゴ石で基礎を作った木造の建物である。囚人たちは足かせや鎖などで拘束されながら建造作業に携わったため「鉄で縛られた家」とも呼ばれている。ここは石塀とともに当時のままの姿を残していて,廊下の両側に並ぶ独房の中の様子が見られるほか,収監されていた人物などの資料も展示されている。

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●知らなければただの石●
 では今日も私が歩いた順にラハイナの見どころを紹介していこう。
 1番目の写真は「パイオニアイン」(The Pioneer Inn's)である。
 ラハイナ港のすぐ目の前にあるこのホテル&レストランはラハイナのランドマークとなっている。ここは1901年に創業したマウイ島最古のホテルであり,ハワイ全体でも初期のころに誕生したホテルである。アメリカンスタイルの風情と古めかしさを感じる外観は,ハワイ,そしてオールドアメリカンの良き時代を体現している。
 内装はもちろん改装がなされていて,インテリアの細部にまでこだわりが感じられる客室はどこか懐かしい雰囲気に満ちているのだそうだ。内部の壁には捕鯨時代初頭の鯨捕りの様子や捕鯨船の写真,捕鯨用具などが展示されているが,このホテルがオープンした1901年には,すでにクジラの油に代わり石油の時代となっていたという。
 レストラン「パイオニア・イン・グリル&バー」では,昔ながらのアメリカの雰囲気にあふれたランチやディナーを堪能することが可能であるという。
 2番目の写真は「ボールドウィンホーム」(The Baldwin Home)である。
 ここは19世紀に米本土からマウイ島に移住した,宣教師で医師のドワイト・ボールドウィンの邸宅で,1834年に建設された旧邸宅はのちに改装されて,現在は博物館となっていて,当時の生活を垣間見ることができる興味深い展示が並んでいるという。

 そして,3番目の写真が「ハウオラの石」(The Hauola Stone)である。
 この石は,そのことを知らなければ見逃してしまうただの石であるが,実は「魔法の石」なのである。
 ラハイナ港の岸壁の海側にその石はある。この石は,ここで出産すれば富と健康が約束されると信じられハワイ王族たちが出産の場所にしていた聖なる石なのである。よって,ここに座ると子どもを授かることが出来るとか,海に向かってこの石に座り,寄せる波に足を洗わせると,病気や怪我が治った,生まれたこの臍の緒をこの石の上に置くと,その子は強く健康に育つなどとの言い伝えがある。

 最後の写真がカメハメハ3世スクールという名のついた学校である。
 カメハメハ3世(Kamehameha III)はハワイ王国第3代の王である。1825年,兄カメハメハ2世の死を受けて即位したが,1832年までは義母カアフマヌが摂政を務めた。カアフマヌはカメハメハ2世に洗礼を施しハワイの伝統的信仰を廃するなどしている。
 当時ハワイは重要な捕鯨地域として,また砂糖の産地として注目されていたが,。こうしたなかでカメハメハ3世は王国の改革に努め,1840年にハワイ語の憲法を制定し1840年代半ばにはイギリス,フランス,アメリカから独立国として承認された。
 しかし,憲法制定後の政府では白人が要職を握り,ハワイ人が主体的に政治参加することが妨げられていた。近代的な土地制度も導入されたが私有観念の希薄なハワイ人が土地を失う結果に終わった。

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●美しい海岸線は原宿のようであった。●
 ラハイナはビルを建ててはいけないという規則があるのでいまでも昔の風情の残る港町になっている。
 車を停めて,ラハイナの町を散策することにした。この町は端から端まで1キロほどの徒歩圏内で,多くの見どころがある。アメリカというよりも,どことなく高山のような日本の観光地みたいなところであった。
 まず,町の中央にあるのが巨大な「バニヤンツリー」(The Banyan tree)である。1873年にラハイナでのキリスト教布教50周年を記念して当時の保安官であったウィリアム・スミスによって植えられたハワイ諸島最大級の巨木である。蔦が地面につくと今度はそれが支えとなっていくので1本の木なのに妙な形になっているのである。こうして,自然に日陰が作られるのだそうだ。
 高さは約18メートル,2,700平方メートルの木陰ができていて,多くの人がここで日差しを避けていたが,週末にはフリーマーケットなどが行われる。

 次に行ったのが「オールドラハイナ・コートハウス」(Old Lahaina Courthouse)であった。1859年に建てられた裁判所は1925年に建て直されたが,現在は郷土文化博物館になっている。
 当時は罪を犯した船乗りたちがここで裁判にかけられたのだという。
 階段を上って2階にいくと,写真や模型などでハワイの歴史が説明されていた。カイルアコナにもよく似た博物館があったが,こうした古い建物がきちんと整備され保存されているのが素晴らしかった。
 また,裁判所もそのままの姿で残っていて,壁にはクジラを捕獲するための鉄砲や船の模型などが展示されていた。
 また,建物の外に置かれている大砲は1816年,ラハイナ沖で沈没したロシア船から回収したものである。
 博物館から外に出ると,美しい海岸とヨットハーバーがあって,この海岸に平行に走る道路を「フロント・ストリート」(Front Street)といい,このストリートに沿って,多くのブティック,レストラン,そして,ギャラリーがならんでいて,まるで原宿のようであった。

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●商店街を壊滅させたショッピングモール●
 リゾートを過ぎて州道30をさらに南に走っていくと古い町に出る。ここがハワイの古都ラハイナ(Lahaina)である。日本でもそうであるが,そうした町のはずれの交差点にはショッピングモールがある。ここラハイナもまた,例外ではなかった。
 日本の町は,こうしたショッピングモールのために,古くからある商店街は寂れてしまっていて,惨憺たるものである。いまでも昔からの商店街が存在しているのは,皮肉なことに,そうしたショッピングモールを作る土地がない東京である。というか,東京だけなのかもしれない。しかし,このラハイナは,昔ながらの町はしっかりと30年前のまま存在していた。

 まず私はこのモールの駐車場に車を停めて中に入っていった。
 モールというのは,日本もハワイもアメリカ本土も,さほど変わるものではない。売っているものもそれほど違いがない。いわば,無国籍である。しかし,便利なものである。
 今から20年近く前,アメリカは好景気に沸き,日本はバブル経済がはじけて,都会には家をなくしホームレスとなった人のブルーシートが公園に林立し,駅には得体のしれないイラン人がうろうろしていたころがあった。
 今の若い人はそんな状態が信じられないであろう。思えば,そのころから日本はどこかおかしくなったのだが,ちょうどそのころ,アメリカではこうしたモールが作られはじめた。日本にはまだなかったから,アメリカを旅すると私はずいぶんと驚いたものだった。そのうち,日本にもよく似たものが作られはじめたのだが,何事も右倣えの日本では,ものすごい勢いで過剰にそういうものができて,その結果,地元の商店街が壊滅したのだった。

 私は,このモールに車を停めて,ラハイナを散策しようと考えたのだが,この日は暑く,また,ラハイナの町はモールから歩くには少し遠かったのであきらめて,国道30を右折して,ラハイナの町,つまり,海岸通りを走って車を停める場所を探すことにした。
 ラハイナに行ったことのない人は,湘南海岸の様子を思い浮かべてみるとよいであろう。
 ところが,ここもまた,ものすごい車で,なかなか車を停める場所が見つからないのであった。
 ずいぶんと走って,一度ラハイナを通り過ぎて,再び戻って,私は民間の駐車場に車を停めることにした。
 その駐車場もかなり混雑していたが,なんとかスペースを見つけて車を停めることができた。
 
 1795年といえば,日本では徳川家斉が将軍で文化文政時代華やかなりしころである。フランスではフランス革命戦争が起こっていた。
 この年,カメハメハ大王がハワイを統一した。この年から1845年にカメハメハ3世がホノルルに遷都するまで,ラハイナはハワイ王国の首都であった。このころ,アメリカの捕鯨船がハワイ諸島に来航し,首都ラハイナは捕鯨船船団の基地として活気づいていた。また,アメリカ本土から宣教師が訪れて,学校や教会を建てたり英語を教えたりとハワイの近代化に貢献したのだった。その時代の史跡が今もラハイナに残っているわけだ。

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●どこから通行禁止なのかわからない。●
 この西マウイ島の西側の海岸道路は,おそらくはマウイ島で最も景色の美しい道路であろう。
 この数日後に再び私はこの道路を走ることになるのだが,このときはそんなことは知らない。ともかく,私の予約したホエールウォッチングツアーの出航までは1時間以上あったから,とりあえず30分ほどこの海岸道路を走ることにしただけであった。
 夕日の美しい時間は大渋滞になるということだが,この時間,道路は空いていた。ツアーを予約したマウイ・オーシャンセンターのあるマアラエア港(Maalaea Harbor)からラハイナ(Lahaina)というマウイ島で最も栄えた港町までは特に町もなく,右手には山が迫り,左手には美しい海岸線がずっと続いていた。その海岸線の向こうに見えるのは,東マウイである。

 私はこの旅をもって,ハワイはホノルルのあるオアフ島,そして,前回行ったハワイ島,そして,このマウイ島に行くことができた。
 多くの日本人にとってのハワイというのはオアフ島のことであり,オアフ島から数日間のオプショナルツアーのような形でハワイ島やマウイ島にやってくる。私のように,マウイ島のみに滞在するという日本人は少ない。また,キラウエア火山といった有数の観光地があるハワイ島にくらべると,マウイ島を訪れる日本人はずっと少なくなる。私はこの島に滞在中,ハレアカラ山の星見ツアー以外,ほとんど日本人を見かけることがなかった。
 また,このマウイ島は,アメリカ人の大金持ちが別荘を持っているか,あるいはリゾートで訪れる場所なので,ハワイ島にくらべると,ものすごく豪華で広いリゾートタウンが点在しているが,そうした場所を離れると,今度は急に未開の地やらのどかな村落があったりするので,それらが同じ島だとイメージできず,私の記憶が今なお混乱をきたしているのである。

 今走っている西マウイの海岸沿いは,ラハイナから先は,カアナパリ(Kaanapali),ホノコワイ(Honokowai),カパルア(Kapalua)と,ずっと,リゾートであった。このように,風光明媚なところは,みな,金持ちのリゾートが占領してしまっているのである。
 この数日後,私は,ラハイナで車を停めて歴史あるこの町を散策することになるが,この日は,ただ海岸にそった道路を走っただけであった。それでも,道路から眺めた海は,さすがハワイと納得できるものであった。

 マウイ島は小さな島だから,この日のように,車を停めて歩き回るのでなければ,30分も走ると西マウイのカパルアまで行くことができた。
 マウイ島は島の外周を一周する道路があるにはあるが,断崖絶壁のところや道幅の狭いところがすくなくなく,そうした場所はレンタカーは通行が禁止されている。カパルアから先もまた,そうであった。
 通行が禁止されている,と言っても,走っていることが知れると捕まるわけではないし,罰金を取られるわけでもない。しかし,何かあったときに保険が適用されない,という,いわば自己責任である,らしい…。「らしい…」と書いたのは,よくわかないからである。というのも,聞く人によって,違うことを言うからである。
 私はそのような冒険はもはやしないが,それよりも困ったのは,レンタカー会社でもらった地図に「●●(地名)から先は通行禁止」と書かれていても,その禁止になる●●という場所がどこなのかがさっぱりわからないことであった。それは,アメリカ本土と違って,町の入口にその町の名を示す道路標示がなく,しかも,町らしき町すらないいということなのであった。走っていると道路が狭くなって,すれ違うことも困難な1車線道路になったところがそうだと,自己判断するしかないのだった。

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