しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場・47都道府県を制覇し,南天・皆既日食・オーロラ,空の3大願望を達成した「不良老人」の日記

タグ:リヒャルト・シュトラウス

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 9月。NHK交響楽団の定期公演が帰ってきました。今シーズン最初の,2023年9月9日の第1989回 Aプログラムを聴きました。コンサートマスターは篠崎史紀さんで,これがいいんだなあ。引き締まります。指揮は首席指揮者の ファビオ・ルイージさんで,今回の曲目は,私が苦手とするリヒャルト・シュトラウスの3つの作品でした。
 ここで,私が以前書いた「リヒャルト・シュトラウスのよさとは」を再び載せます。
  ・・・・・・
 ヨーロッパのクラシック音楽が華やかなりしころの終焉と幕引き,それを感じつつ,最高傑作「ばらの騎士」を聴き,その勢いで,交響詩を鑑賞して,そのチャラさに理解を示し,オーケストラの鳴り響くさまから,演奏家の自己満足を同化しつつ,結局は,「最後の4つの歌」で,人間の不条理さを救いに転じる。
  ・・・・・・
 要するに,リヒャルト・シュトラウスを味わうというのは,リヒャルト・シュトラウスのチャラさを理解する,ということになるわけです。NHK交響楽団の演奏がチャラいというわけではありませんよ!
 それはそれでいいのですが,私がクラシック音楽を聴くときに求める,こころに染みる,という感じはまったく味わえません。

 さて,今回の定期公演,まずは,交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」(Till Eulenspiegels lustige Streiche)からはじまりました。この曲のチャラさは,ディズニーの映画音楽みたいなもの,ということだと私は思います。1895年に作曲されたこの曲で,主人公ティル・オイレンシュピーゲルをホルンで描くのは,リヒャルト・シュトラウスの父へのオマージュだそうで,反権威主義的な,乾いた挑発の哄笑と独創性がその底に沈んいます。
 「むかしむかしティル・オイレンシュピーゲルは…」ではじまり,リヒャルト・シュトラウスのさまざまな作品同様に,何がメロディーかもわからないロンド形式の堂々巡りを繰り返し,最後にティル・オイレンシュピーゲルが悲鳴を上げて処刑にされるような音楽が終わると,すべてをあざ笑うかのように,再び「むかしむかし」のテーマが繰り返される,というだけのものです。

 2曲目は「ブルレスケ」(Burleske)で,この曲ははじめて聴きました。
 「ブルレスケ」というのは下品な笑劇のことで,リヒャルト・シュトラウスが作曲した2曲の左手のためのピアノ協奏曲「家庭交響曲余禄」(Parergon zur Symphonia Domestica),「パンアテネ神の大祭」(Symphonische Etuden in Form einer Passacaglia)と並ぶピアノ独奏とオーケストラのための作品だそうです。ピアノは1982年生まれのマルティン・ヘルムヒェン(Martin Helmchen)さんでした。
 冒頭の4台のティンパニによるソロは子気味よく,かつ,挑発的で結構楽しめましたが,これもまた,それだけのことでした。解説では,ブラームスのピアノ協奏曲の影響が濃厚,という話ですが,私には,まったくそうは思えません。しいていえば,ブラームスのピアノ協奏曲第2番のチェロとピアノの掛け合いみたいなものを連想しますが,ブラームスのほうがずっといいです。いずれにしても,リヒャルト・シュトラウスがピアノ協奏曲を作るとこうなる,ということでしょう。それにしても,アンコールのシューベルトの「即興の時」のほうがこころに染みるのだから,困ったものです。

 最後が,交響的幻想曲「イタリアから」でした。
 当時のヨーロッパの上流家庭では,20歳くらいになると息子に見聞を広めるため,イタリア長期旅行をさせる習慣があって,リヒャルト・シュトラウスもそれに習ったそうで,ローマとナポリを中心に名所旧跡を見て回り,鮮烈な印象を受けて,帰国後に完成させたのがこの作品ということでした。
 第1楽章は「エステ荘から眺めた灼熱の太陽に燃えるローマのカンパーニャ」を描いたもので,ドイツ的なものへの訣別とラテン的なものへの志,第2楽章はソナタ形式で意外なほど古典主義的な音楽でメンデルスゾーンのよう,と解説にありましたが,メンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」のほうがずっといいです。第3楽章は「風にそよぐ葉、鳥の歌、自然のひそやかな声、海の遠い波、岸辺に届く寂しい歌」を描いたもの,だそうですが,これもまた,何がメロディーかもわからない堂々巡り。まあ,別に,という感じです。
 極め付きは第4楽章です。リヒャルト・シュトラウスは,ナポリ民謡だと思い込んでいた「フニクリ・フニクラ」をパラフレーズしたものということで,フィナーレでこうした俗謡を引用すること自体,ロマン派の真面目くさった交響曲伝統への嘲笑であって,まさにチャラさ絶好調のようでした。
 リヒャルト・シュトラウスには家庭交響曲とかアルプス交響曲という名前の交響曲らしきものがありますが,それらもまた,実体は交響詩であって,この曲こそが,リヒャルト・シュトラウスの交響曲でしょう。

 ということで,今回の定期公演は,だれでも知っている交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」で客寄せをしておいて,そのあとに,チャラさ絶好調のリヒャルト・シュトラウスなりに作曲したピアノ協奏曲と交響曲を,まあ,一度は聴いてみてごらん,というものだったと私は理解しました。
 演奏者にとれば,多くの団員が参加できて,しかも,思い切り演奏できるリヒャルト・シュトラウスは,久しぶりの定期公演の肩慣らしにちょうどいいのかもしれません。それにしても,観客の方は,私の座っていた2階席のうしろのあたりはガラガラでしたけれど。
 さて,来月は,待ちに待った巨匠ヘルベルト・ブロムシュテットさんのブルックナー。きっと満員でしょう。お元気で来日されますように!

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 2023年4月15日,第1980回NHK交響楽団定期公演Aプログラムを聴きました。
 今回は,指揮・パーヴォ・ヤルヴィさん,曲目・リヒャルト・シュトラウス作曲の「ヨセフの伝説」から交響的断章と「アルプス交響曲」でした。元来,2020年5月20日と21日に行われるはずだった第1941回NHK交響楽団定期公演Bプログラムで行われるものだったのですが,コロナ禍の緊急事態宣言で公演がなくなり,さらに,2022年2月11日と12日に行われるはずだった第1952回NHK交響楽団定期公演Cプログラムでは,パーヴォ・ヤルヴィさんがコロナ禍の緊急事態宣言で来日できなくなったために,第1952回の定期公演が,指揮・鈴木雅明さん,曲目・ストラヴィンスキー作曲の組曲「プルチネッラ」とバレエ音楽「ペトルーシカ」(1947年版)に変更になったことから再び持ち越されたものです。
 もともとサントリーホールで行われるBプログラムはチケットの入手自体が難しく,また,平日の夜だから行くことはできないので別として,二度目に予定されたCプログラムは休憩なしで,比較的短い曲目をプログラムしたという触れ込みだったのが,三度目の今回はまったく同じ曲目がAプログラムで演奏されて,単に途中で20分の休憩を挟むために時間が伸びた,というだけで値段が約2,000円も高くなった,つまり休憩代が金2,000円也,さらに,Cプログラムではサービスで行われている開演前の室内楽すらAプログラムにはない,ということが私にはちょっと腑に落ちないのですが,まあ,これは大人の事情というものでしょう。
 ともあれ,パーヴォ・ヤルヴィさんが首席指揮者のときにずっと演奏していたリヒャルト・シュトラウスの曲目の集大成として最後に用意していた「アルプス交響曲」を,これだけは譲れないとばかり,2度の延期を経て,ついに演奏できたことが何よりでした。また,コンサートマスターは,このたび,第1コンサートマスターを勇退して特別コンサートマスターになった篠崎史紀さんでした。

 2015年から2021年のシーズンまで首席指揮者を務め,2022年9月に名誉指揮者に就任したパーヴォ・ヤルヴィさんの指揮は,2022年12月10日にドイツ・カンマーフィルを率いて来日したときに聴いたのですが,NHK交響楽団にはひさびさの出演です。次年度2023年9月からの定期公演には出演予定がないのはどうしてなのかな? ととても残念なのですが,この先,また,指揮をしてくれることを期待してます。
 さて,今回取りあげた「ヨセフの伝説」は第1次世界大戦勃発の直前,「アルプス交響曲」は第1次世界大戦の最中に初演された作品で,リヒャルト・シュトラウスがモダニズム最前線に後れを取りはじめた,つまり,時代の流れについていけなくなったころのものだと解説にありました。
 「ヨセフの伝説」(Josephslegende)は1幕物のバレイ音楽で,旧約聖書のエピソードに基づく,ヨセフ少年が裕福な商人ポティファルの妻からの誘惑を断ったために監禁されるものの夢の中に現れた天使によって解放されるという物語ということです。
 この曲では,リヒャルト・シュトラウス独特の官能的な不協和音は和らげられ,豪華絢爛たる音色の饗宴が押し出されているのが,リヒャルト・シュトラウスの創造力の鈍化と酷評されたのですが,初演は大成功でした。今回演奏された交響的断章は,最晩年にリヒャルト・シュトラウスが編曲したものです。私は,聴いていると,子供たちが森の中で妖精と戯れているような映像が浮かんできました。
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 「アルプス交響曲」は「家庭交響曲」以来,10年ぶりに書かれた交響曲です。
 ドイツ・バイエルン州とオーストリア・チロル州の国境にある高さ2,962メートルのドイツ最高峰・ツークシュピッツェ山(Zugspitze)の登山を豪華に描くこの作品は,リヒャルト・シュトラウス自身の10代のころの経験に基づいているといわれ,ドイツ帝国の大ブルジョアの楽しい夏のバカンスの1日が表現された作品です。
 けた外れに長大な作品は,「形式の細分化」という手段で〈夜〉〈日の出〉〈登り道〉〈森に入る〉… といった22の小さな区画から組み立てられています。それは,この作品が成立したころ,映画はオペラや交響曲を駆逐しつつあって,これまでのような交響詩は時代遅れとなったので,効果的な短いショットを次々に繰り出すといった映画的手法で作られたものです。
 音楽批評家のパウル・ベッカーは「相変わらず豊かで魅力的だが,見まがうことなく没落しつつある萎みゆく花の明らかな兆候」と指摘し,「私にはこの作品の標題が,作曲者が考えていたのとはまったく別の,そしてはるかに広い意味で,実現されたように思える。〈下山〉は衰退であり,〈終結部〉は終焉だ」と書き,リヒャルト・シュトラウスが体現していた世紀転換期の輝かしいドイツ・ブルジョア文化の終焉の兆候を聞き取ったとあります。

 パーヴォ・ヤルヴィさんは,「安定のヤルヴィ」というか,長年指揮をしていたからこその安心感がありました。しかし,以前にもこのブログに書いたように,私は,リヒャルト・シュトラウスのよさが「英雄の生涯」と「最後の4つの歌」以外はよくわかりません。いろいろと調べてみたところ,リヒャルト・シュトラウスの音楽は,劇音楽,つまり,なんらかのドラマに付随する音楽だと思えばいい,ということを悟り,それで,やっとなんとなく理解ができるようになったのではありますが,この作品もまた,山登りの雄大な風景のバックミュージックだと思えば退屈はしないわけです。つまり,音楽なんて現実のバックミュージックに過ぎない,というチャラさなのです。要するに,映画音楽なのです。だから,音楽を聴きながら「きれいだなあ」とか「雄大だなあ」と感じればそれでいいわけで,こころに染みる,とか,思わず泣けてくる,という,私が求める音楽とは別のものなのです。
 と悟りながら,アルプスの映像を頭に浮かべて聴いていれば,まあ,眠たくもならないし,聴けなくもないというか,むしろ楽しいものでした。それにしても,ダラダラと同じような旋律の繰り返しは,ブラームスの交響曲第4番第4楽章のような,緻密な計算に基づいた変奏とも違うし,標題音楽といっても,ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」ようなこころに染みるものとも違うし…。というのが私の正直な気持ちでした。
 それにしても,依然として私が納得できないのは,どうしてリヒャルト・シュトラウスの作品はいつもいつもこんなにむにゃむにゃととりとめもなく長く,また,異常に多くの演奏家を必要としているのか,ということです。これは成金趣味なのか? ただし,楽器の弾ける人に聞くと,演奏するのはものすごく難しくて大変だということですが,これでは浮かばれません。なんだかねえ…。苦労が報われません。

 なお,私は,前回までのCプログラム2日目土曜日のマチネから,今回からAプログラム1日目土曜日のソワレに変更したのですが,こちらの方がずっと雰囲気がよかったです。

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 私はリヒャルト・シュトラウスがわからない,けれど,「4つ最後の歌」と交響詩「英雄の生涯」はわかります。…と以前書いたことがありますが,2020年のNHK交響楽団名古屋公演の演目は,ウェーバーの歌劇「オイリアンテ」序曲に続いて,まさに,この私がわかるリヒャルト・シュトラウスのふたつの作品でした。

 「4つの最後の歌」( Vier letzte Lieder)というのは,1948年リヒャルト・シュトラウスが亡くなる1年前84歳のときに作曲された管弦楽伴奏の歌曲集です。「春」(Frühling),「九月」(September),「眠りにつくとき」(Beim Schlafengehen),「夕映えの中で」(Im Abendrot)からなり, 第3曲までがヘルマン・カール・ヘッセ(Hermann Karl Hesse),第4曲がヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ(Joseph Karl Benedikt Freiherr von Eichendorff)の詩に曲づけされています。
 リヒャルト・シュトラウスはまずヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフの詩「夕映えの中で」に出会いこ曲をつけました。その後,ヘルマン・ヘッセの詩集から「春」,「九月」,「眠りにつくとき」を歌曲にまとめました。
 この4曲がセットになったのは作曲者の死後で,だれがそうしたのかは不明です。いずれにしても「作曲家の最後の歌」だとみなされていましたが,のち,「あおい」(Malven)という歌曲が発見されました。
 この最晩年の歌曲は,それまでのリヒャルト・シュトラウスの脂ぎった作品とは異なり,静寂感や肯定感,終わりという感覚に満たされているもので,透明感と哀愁があります。
 今回この曲を歌ったクリスティーネ・オポライス(Kristīne Opolais)さんの透き通った歌声はこの曲にふさわしく,とてもよかったと思いました。

 一方,交響詩「英雄の生涯」(Ein Heldenleben)はリヒャルト・シュトラウスの交響詩としては最後の作品ですが,リヒャルト・シュトラウスがもっとも活躍していたときに作曲された作品です。「大管弦楽のための交響詩」 (Tondichting für großes Orchester)という副題が示すように,ステージ上には所狭しと100人以上の4管編成のオーケストラがぎっしりと乗り,まさにリヒャルト・シュトラウスの作品といった感じです。
 私がリヒャルト・シュトラウス作品が苦手なのは,まさに,この大編成なのです。何を大仰な,といつも思ってしまいます。そしてまた,傲慢な,とも思ってしまいます。大仰でかつ傲慢といえば,この曲の題名である「英雄」というのはリヒャルト・シュトラウス自身を指すといわれています。これがベートーヴェンの交響曲第3番とは異なる点です。
 しかし,そうした大仰でかつ傲慢な多くのリヒャルト・シュトラウス作品とは違い,「英雄の生涯」は曲全体にまとまりと芯があります。特に,交響詩「 ツァラトゥストラはこう語った」のような,出だしは有名でもそのうち何が何だかわからなくなってきて,くっちゃくちゃの旋律が脈絡なくでてくるものとは違うので,私は同化できるのです。 
 そしてまた,今回のコンサートマスターは,ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターだったライナー・キュッヒル(Rainer Küchl)さんでした。ある意味,ヴァイオリン協奏曲のようなこの曲のヴァイオンの独奏をライナー・キュッヒルさんでたっぷりと味わうことができたのには感動しまた。

 私は,東京のNHKホールでNHK交響楽団を聴くときは2階の最後尾に席をとるのですが,チケットのとりやすい名古屋では最前列で聴きます。この席では,音がいいとか悪いとかを越えて,ステージ上で聴いているような感じになるので,思わぬ発見がたくさんあります。団員さんはこんな感じで音を聴いて演奏しているんだなあ,と思います。
 ところで,数年前の一時,東京のNHK交響楽団定期公演で,曲が終わったときの静寂を楽しめない人がフライング拍手をしたり,ブラボーとさけんだりということが頻発した時期があったのですが,このごろはそうしたこともなくなり,落ち着いて楽しむことができるようになりました。ならば,名古屋はどうでしょう。ブルックナーやらマーラーやらがプログラムのときはフライング拍手が心配でいつも楽しめないということになるわけですが,まさにその心配は的中します。だから,名古屋の演奏会では最後に静寂を楽しむものは向きません。
 「英雄の生涯」は通常演奏されるもののほかに,静かに終わる初稿版があるのです。指揮者のファビオ・ルイージさんはそちらがお好みだそうなので,心配しましたが,やはり,おひとりの観客がフライング拍手をはじめました。どうしてそんなに拍手を急ぐのでしょう。こうしたとき私はお前の拍手を聴きに来たんじゃない,と思います。ブラボーも同様です。
 余談になりますが,交響曲の楽章間で拍手が起きることがあります。それがタブーかどうか… これにはさまざまな意見があります。私はこれについては別にいいのではないかと思っていますけれど,気にする人は気にします。今回の「英雄の生涯」は交響曲でないのでないので楽章間の切れ間はありません。 
  ・・ 
 しかし私は,海外でも音楽を聴くようになったことと歳をとったことで,まあ,そうしたいろんなことにそれほどストイックにならなくてもいいんじゃあないのと,このごろは少しずつ思うようになってきました。それよりも,もっと楽しく,そして,ステージと客席の精神的な距離がないほうがいいなあ,と感じるようになりました。日本のクラシックのコンサートは,まるで修行のようです。
 団員さんもまた,もっと楽しそうに演奏したらいいのに,と思います。特にNHK交響楽団はそれが顕著で,無表情。まるでロボットが演奏しているかのようです。しかも,体を使って演奏してないので,動きがなさすぎ。これはいただけません。ほかの楽団,特に外国のオーケストラと比べると,これだけは気に入りません。先日,東京都交響楽団のコンサートに行って,昔NHK交響楽団にいた団員さんが数人移籍していたのを見て,こりゃ脱出だ,と思ったのですが,「お高い」と揶揄されるNHK交響楽団は楽しくないのかもしれません。
 NHK交響楽団の名古屋定期,せっかく1年に1回だけ名古屋に来るのだから,開演前に30分程度でいいからステージでトークをするとか室内楽をやるとか,そんな場があってもいいと思うのですけれど。

 リヒャルト・シュトラウスを楽しむには,また,「リヒャルト・シュトラウスを理解するには,彼の生きた時代背景を知らなくてはいけない」のだそうです。
 彼の時代には,ロマン主義はもう通用しなくなっていました。高雅な貴族社会は過去のものとなりつつあり、実利と戦争の時代が来ていたからです。リヒャルト・シュトラウス自身はそんな時代が嫌だったけれども,現実はしっかりと見つめていた上で,というか,そんな時代だからこそ,滅びゆくロマン主義の最後の燃えかすを,せめて豪華に彩って葬ろうと考えました。彼は,自分の作品で「これから来る時代より,これまでの時代のほうがすばらしかった」といいたかったのです。
 だから,「これまで栄華を誇ったハプスブルグ家を代表とするヨーロッパの王侯貴族社会が没落していく,その黄昏を予期したようなすばらしい芸術を作ったと考えて彼の音楽を聴きなおせば一興に値する」ということになるのです。

 では,結論です。
 リヒャルト・シュトラウスのよさとは
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 ヨーロッパのクラシック音楽が華やかなりしころの終焉と幕引き,それを感じつつ,最高傑作「ばらの騎士」を聴き,その勢いで,交響詩を鑑賞して,そのチャラさに理解を示し,オーケストラの鳴り響くさまから,演奏家の自己満足を同化しつつ,結局は,「最後の4つの歌」で,人間の不条理さを救いに転じる。
  ・・・・・・
ということなのです。
 なんだか,徳川幕府の幕引きに,勝海舟の「氷川夜話」を読むみたいなものですな,これでは。

 私は,これだけのことを調べたあとで,テレビで放映していたザルツブルグ音楽祭2014のオペラ「ばらの騎士」を見ました。そして感動しました。これはやっぱリすごい,と。それとともに,オペラといっても,これはだたの大衆演劇じゃあないか,とも思いました。物語としてとてもおもしろくて,3時間30分を越えるのに退屈しませんでした。でも,やはり,音楽は心に残りませんでした。このことはモーツアルトのオペラとは真逆です。
 たとえば,「魔笛」を見たあとなら,魔笛に出てきたアリア「鳥刺しパパゲーノ」を口ずさんだりできるでしょう。「ばらの騎士」ではそれができない…。
 しかし,そのことこそが,リヒャルト・シュトラウスの狙いだったのです。だから,彼のオペラ「ばらの騎士」にはアリアがありません。彼は,クラシック音楽なんて高尚なもんじゃないのですよ,没落する貴族と同じでね,音楽なんて現実のバックミュージックに過ぎないんですよ,とほくそ笑んでいるわけです。だから,こころに染みるわけがないのです。
 もっと大きな音を出したいのを我慢して,あるいは,自分の技功を出すときもなく,いつもこころに染みる音楽を期待されているオーケストラのメンバーが,たまには俺のうまいところを聴いてくれ,という欲求不満を解消してくれる音楽なのです。聴く側は,そうしたオーケストラのメンバーの腕自慢を適当に聞き流したり,ときには,ひいきのプレイヤーの技功に感動したりしながら,あるいは,なんとなくほかごとでも考えながら,娯楽音楽として,または,バックミュージックとして,まだ演奏してるわ,お上手ね,程度の聴き方でいいのです。
 そういった意味では,「英雄の生涯」と「最後の4つの歌」は,聴く側のこころに染みてしまうから,リヒャルト・シュトラウスの狙いがはずれているのです。

 こうして,私は調べたことが本当によくわかりました。やっと,私に,リヒャルト・シュトラウスがほほ笑んでくれたようです。ぜひ「ばらの騎士」を見てから,この文章を読まれることをお勧めします。そうすれば,とても納得していただけると思います。私自身がそうであったように。
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 リヒャルト・シュトラウスは,もともと,「改革者」ではなく「保守的」な作曲家なのだそうです。だから、何かを新しく創始するということには関心がなくて,では何をしたかというと,「芸術性と娯楽性が両立するオペラ」を終わらせたという役割があったということだそううです。
 ワーグナーが楽劇を創始した後,後世の作曲家はオペラの作曲というものにとても悩んだのです。ちょうど,ベートーヴェンが交響曲を確立してしまった後のブラームスが交響曲の作曲に悩んだ,それと同じようなものです。

 当時の聴衆は,もはや、長い時間拘束されるワーグナーの楽劇に辟易していて,オペレッタやメルヘン・オペラなど,娯楽性の強いものに惹かれていきました。
 芸術性を突き詰めていった結果,一部の作曲家,たとえばシェーンベルクがたどり着いた先は「無調」だったのですが,しかし,無調なんていう小難しいことは,オペラの作曲にとっては真逆だし,また娯楽性,という観点からもこれほど厄介なものはないのです。その一方で,リヒャルト・シュトラウスは,当時,「ワーグナー以降のドイツ・オペラの継承者」とみなされていました。
 リヒャルト・シュトラウスに限らず,マーラーなども,また,小難しいシェーンベルクの方向性には批判的で,別の「芸術性」の模索を始めるわけです。それが,リヒャルト・シュトラウスの場合,オペラ「サロメ」や「エレクトラ」となっていったというわけです。
 このようにして,「芸術性」というものは,小難しい無調などに頼らずともできることを,彼は立証したわけです。

 しかし,当時の聴衆の興味は,それにも飽き足らず,さらに,ロココ(軽快で優美なもの。たとえばモーツァルトの「コシ・ファン・トッテ」),あるいはオペラ・ブッファ(娯楽性のあるオペラ。たとえばモーツァルトの「フィガロの結婚」)といったものに向いていったので,ワーグナーのオペラに対抗でき凌駕することさえできる「モーツァルト」らしさが,今度は,俄然,浮上してきたのでした。そこで,リヒャルト・シュトラウスは,不協和音,ロココ的様式,モーツァルト的な簡明さ,楽劇的な官能性,さらには,当時はやっていたウィンナ・ワルツなどの要素を咀嚼して,「ばらの騎士」を完成させて,圧倒的な成功をおさめたというわけです。
 このようにして,リヒャルト・シュトラウスは,「芸術性」と「娯楽性」が融合した最後のオペラを書いたのです。いってみれば,彼の作品をもって,「オペラの時代」を「終わらせちゃった」のです。

 さて,次回は,結論です。
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 管弦楽曲のよさがわからないということに対比して,リヒャルト・シュトラウスの歌曲や楽劇がすばらしいということは,多くの人が書いていました。たとえば,オペラ「ばらの騎士」は,優美なメロディーと,それに合ったベタベラなオーケストラが奏でられる楽しい作品です。オペラというと高尚なものに思えますが,「ばらの騎士」は,宝塚歌劇団のミュージカルみたいなものです。また,歌曲「4つの最後の歌」は,人間が作った音楽でもっとも美しいものといってもいいほどの超傑作です。
 このように,歌が入ると,リヒャルト・シュトラウスの音楽はまったく別人のように生き生きするのです。実際,リヒャルト・シュトラウスは,ワーグナーやモーツァルトと並ぶドイツのオペラ作曲家で,「オペラを聴かないでリヒャルト・シュトラウスを語るのはナンセンス」なのだそうです。

 そこで,次に,リヒャルト・シュトラウスのオペラについて調べてみました。 
 リヒャルト・シュトラウスのオペラには,あまり恰好のよい人物は出てきません。でも,「恰好のいい人物が,正義に燃えて,正しいことだけをする英雄譚だけを見て,人は満足するものなのでしょうか? リヒャルト・シュトラウスにしてみれば,そういうのは尊崇するワーグナーで最後にしていいと思ったのでしょう」ということでした。
 「リヒャルト・シュトラウスのオペラを聴くには,人間的な深い省察を鍛えるとよい」と書いてあるものもありました。人間には,弱い面や,よいときを懐かしむ心や,ずるがしこさ,妬み,そのほかにも,人と変わった面がたくさんあります。頭の中では,こうしたほうがうまくいくだろうとわかっていても,そのとおりにはなかなかできないものです。リヒャルト・シュトラウスは,そういう人間のマイナス面を単なるマイナスではなく,いかにも人間くさいおもしろさとして描いた人物なのだそうです。
 こうした話なら,私は納得できます。
 でも,この意見は,リヒャルト・シュトラウスのオペラの内容がおもしろいというもので,音楽がすばらしい,という答えではありません。

 リヒャルト・シュトラウスのオペラは,天才らしいセンスのいい作品多く,気張ってないところが好きだとか,ワーグナーが重いとか,イタリアもののオペラがダメとか,モーツァルトが子供っぽいと感じる人には丁度いいかも知れない,という意見もありました。
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 ウィーンに「ザッハトルテ」というお菓子があります。それは,コートのチョコレートが甘すぎて,毒のような味がするお菓子なのだそうです。それゆえに,大量の味のしないクリームをかけて食べるのだそうです。リヒャルト・シュトラウスの役割は,そのクリームであって,彼が包んでいるのは毒なのですが,だからこそ,その内側はとびきり甘くなくてはならないのですよ! といった面白いたとえもありました。
 これもまた,わかったようなわからないような,そんなお話でした。

 まだ続きます。
バラの騎士

 リヒャルト・シュトラウスのどこがいいのか,という問いに対して,最もよく書かれてあったのは,「(どこがいいのかわからないような)音楽を無理に楽しまなくていいんですよ」というものでした。
 しかし,それでは,答えになっていません。
 私が知りたいのは,「リヒャルト・シュトラウスの楽しみ方」ではなく,私がそのよさがさっぱりわからないのに,これだけ演奏される機会があるのは,きっとそのよさを認めている人がいるからなのでしょうから,「そのよさとは何か」を知りたい,ということだからなのです。そして,やっとのことで私が見つけた答えは,「そのチャラさがシュトラウスのよさです」というものでした。
  ・・
 この作曲家は,相当にいろんなことを考えて作曲をしていて,自筆譜などを見ると,「このパッセージはこういう意味」「このパッセージは××のメタファー」というような解説が山のように記載されているのだそうです。だから,そういう情報が載っている詳しい解説本などを見ると,理解を深めながら面白く聞くことができるということだそうです。
 さらに見つけた答えには,「彼の交響詩は,物語を自分の中である程度想定しないとどうしようもない」ということでした。でないと,ただ,ぼわぼわぼわぼわ暑いオケが鳴っているだけなのだそうです。でも,その答えの続きに,「だから,別に,オ-ケストラ曲を無理して聴く必要などない」と書かれてあっては,堂々めぐりです。
 これもやはり私の期待する答えではないのです。

 交響詩「ドン・キホーテ」などは,「完全に劇音楽(というかBGM)の流儀で書かれているから,そのまま映像を乗せることができる」のだそうですが,このことを知らないで聴くと,「ダラダラしたかと思うと急に曲想が変わるつかみ所のない曲としか思えません」ということでした。
 どうやら,リヒャルト・シュトラウスは,元祖「劇伴」作曲家であるようです。だから,リヒャルト・シュトラウスの管弦楽曲は,NHKの大河ドラマのバックに流れる音楽だけを聞くようなものです。つまり,リヒャルト・シュトラウスは,映像や歌曲・オペラのように,上に「何かが載って」いる状態で最高の力を発揮するので,オーケストラ作品だけを聴いても,それは,「中抜け」のおまんじゅうを食べていることに等しくて,「何とも内容のない,飽き飽きする音楽に感じても何の不思議もない」わけです。
 これらを読んでいくと,改めて,私と同じような意見が多いなあと思ったのです。だったら,なおさら,どうして,オーケストラ曲がこれほど演奏されるのでしょうか。このことは調べても調べてもわからず,なぞは深まるばかりでした。
 つまり,結局,納得のできる答えは見つからなかったわけです。
 何が偉大なのかわからないけれど,周りが怖がって持ち上げられている人っているじゃないですか。そんな感じですよ,これでは…。

 このお話はまだ続きます。
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 今年はリヒャルト・シュトラウスの生誕150年です。そこで,リヒャルト・シュトラウスについて書こうと思うのですが,残念ながら,「4つの最後の歌」と,しいていえば,交響詩「英雄の生涯」以外のリヒャルト・シュトラウスの音楽のよさが,私には全くわかりません。
 10年近くもNHK交響楽団の定期会員だったので,これまで結構多くのリヒャルト・シュトラウスの作品に接する機会がありました。リヒャルト・シュトラウスは,N響定期公演でも演奏される機会が非常に多いのです。また,リヒャルト・シュトラウスはアマチュアのオーケストラの演奏会でもよく演奏されます。
 私が全くよさがわからないのに,これだけ演奏されるのだから,きっと何か秘密があるのでしょう。そのよさを知りたいと,ずっと思ってきました。なので,ここで書くのは「リヒャルト・シュトラウスのよさとは何か」ということです。

 アマチュアのオーケストラをやっている友人に,どこがいいのかと聞いてみたことがあります。そこで話してくれたのは,リヒャルト・シュトラウスの曲は規模が大きいから,オーケストラのだれにも出番があるということと,音がよく鳴るから演奏していておもしろいいから,というのが答えでした。
 実際,リヒャルト・シュトラウスは,オーケストレーションに色彩感をもたらした作曲家として歴史的に評価されています。オーケストラの色彩感としては「幻想交響曲」などで知られるベルリオーズが筆頭に挙げられるのだそうですが,ベルリオーズの油絵の具べったりの色彩感に比べると,リヒャルト・シュトラウスは,小技の効いたカラー写真のような鮮明な色彩感という感じがして,その色彩感のテクニックは,20世紀作曲家のオーケストレーション技術に普遍的に取り込まれたと書かれてありました。
 しかし,そんなことは,曲に感動できるかどうかとは関係がないではありませんか。それに,だれにでも出番のある曲を演奏したいアマチュアならともかくも,プロのオーケストラでもこれほど多く取り上げられる理由にはならないではないかと,私には納得がいきませんでした。
 それに加えて,私は,リヒャルト・シュトラウスの曲は,「チャラい」というか,基本的には冒頭のインパクトしかないと思うのです。有名なのは,映画「2001年宇宙の旅」の冒頭で使われた,交響詩「ツァラトゥストラはこう語った」(Also sprach Zarathustra)です。冒頭部だけが最高にかっこよくて、そこだけに全力を尽くしちゃうので,あとはダラダラつまんないメロディーが続いていって,聞いていても,ただ音がきらびやかに鳴っているだけで,どこがいいのか,全くわかりませんし,心に染み入るものもありません。
 私は,冒頭以外にはほとんど旋律も思い出せないし,いつも眠たくなります。

 この曲に限らず,リヒャルト・シュトラウスというと,曲が始まる前に,ステージの上に所狭しと異常に多くの演奏家がのっているのを見ただけでげんなりとします。たいした曲でもないのに大げさな… と。調べて見ると,私と同じことを思っている人がいるようで,交響詩「ドン・ファン」などを例に,「あのうっとうしい盛り上がりと,意味の不明の音形の羅列,効果のない,一見上手そう見えて実は非常に無駄の多いオーケストレーション…」などという文章が書かれているから,私もそれを読んで,気を強くしました。
 そこで,私は,この,リヒャルト・シュトラウスのどこがいいのか,という問いに対する答えをいろいろと調べてみることにしました。
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