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 この日は鶴ヶ城のボランティアガイドで偶然一緒になった女性と同じコースで観光をすることになって,結局,飯盛山ではずっと一緒にまわることになりました。レンタサイクルにしなったことでいい出会いができました。
 飯盛山で,会津若松市の観光も終わり。あとはまちなか周遊バスで会津若松駅に戻るだけでしたが,飯盛山で時間をとりすぎて,まちなな周遊バスの時刻に間に合いませんでした。どうしようかと考えて,おしゃべりをしながら,会津若松駅まで歩くことにしました。およそ30分の道のりでした。

 会津若松駅近くに七日町があります。来るとき,まちなな周遊バスの車内で見て,帰りに寄ろうと思っていました。私はそこで夕食をとることにしていましたが,その女性は,七日町を少し見てから,今日の列車で帰るということだったので,七日町まで行って,そこでお別れすることになりました。
 七日町には古い家並みがあって,歩いて楽しいところです。
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 大正浪漫の雰囲気のただよう七日町通りは,藩政時代には会津五街道のうち,日光,越後,米沢街道の主要道路が通り,城下の西の玄関口として問屋や旅籠,料理屋が軒を連ねていました。
 明治時代以降も重要な通りとして繁栄を極め,昭和30年代頃までは,会津一の繁華街としてにぎわっていました。その後,一度衰退したこの通りは現在大正浪漫を感じられる通りとして甦り,観光客に人気となっています。
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 七日町で最も気になった建物が福西本店でした。
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 福西本店は,明治時代から大正時代にかけて繁栄した会津若松の商人である福西家が築いた蔵と商家の建築物です。特に,野口英世青春通りに面した店蔵,仏間蔵,炭蔵の外壁は,一般的な白漆喰ではなく手の込んだ黒漆喰で作られています。母屋には広々とした大広間や座敷蔵などがあります。
 さらに,庭を見渡す東南の一角には二階建ての数寄屋があり,二階は客室として利用されています。
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 内部を見学できるということでしたが,もう時間が遅く,閉まっていました。また来いよ,と言われたと解釈しました。

 その後,当てもなく歩いていて,神明通りの東裏,興徳寺の本堂東側に見つけたのは,1590年(天正18年)から会津藩の藩主であった蒲生氏郷の墓でした。この墓は,会津史談会が1953年(昭和28年)に建てた,空風火水地の五文字を刻した五輪塔で,京都大徳寺の本墓から分骨したものと伝えられます。
 また,そのあたりを,野口英世青春通りといい,野口英世が青春時代を過ごし,會陽医院に書生として住み込みで働きながら約3年半にわたって医学の基礎を学んだ場所。洗礼の地は「野口英世初恋の地」ともよばれ,初恋の人・山内ヨネ子と出会ったところだそうです。
 野口英世は,3歳のとき火傷を負った左手を手術した會陽医院の跡が,現在,アンティークカフェで,その2階に野口英世青春館という博物館となっていたので,見学しました。
 さらに歩いていくと,「椿餅」がウリの伊勢屋というお菓子家さんがあって,実にいい外観をしていたので,写真に収めました。「椿餅」は「白虎隊も食べた」といわれている由緒あるお菓子で,創業の地が鶴ヶ城の南口に面していて,城の北面の坂が「椿坂」とよばれていたのが名前の由来です。また,伊勢屋という屋号は,伊勢の松坂城主だった蒲生氏郷が1590年に会津に移封されたときに伝えられた技術を基に創業したからだそうです。

 結局,七日町には,夕食をとる適当な店はなく,会津若松駅まで来てしまったので,駅前にあった寧々家という店でおいしく酒を呑みながら夕食をとりました,
 これで,会津若松市の観光は終わりです。今回は時間がなかったので,ひととおり歩いただけでしたが,会津若松市はとても雰囲気のいい町だったので,また来ようと思いました。
 さて,いよいよ明日は只見線乗車です。空を見上げると快晴で,木星に接近した月がきれいでしたが,明日の天気予報は雪。果たして,列車は動くのか?

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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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