しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:上野寛永寺の徳川6将軍と篤姫の墓

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 上野寛永寺を見学し,上野公園にある寛永寺ゆかりの各所を散策したのち,最後に行ったのが上野東照宮でした。
 東照宮といえば,日光東照宮を思い浮かべますが,東照宮というのは徳川家康を「東照大権現」として,つまり神として祀る神社です。1616年(元和2年)に徳川家康が薨去したとき,柩は久能山に運ばれ,遺言に従って久能山に東照社が創建されました。朝廷は翌年,東照社に「東照大権現」の神号を宣下しました。また,幕府は日光にも東照社を建設し,遷座祭を挙行しました。その後,全国に東照社が造られ,宮号の宣下によって,「東照大権現」は東照宮と号するようになりました。
 危篤の徳川家康が,自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしいと藤堂高虎と南光坊天海に遺言したことから,1627年(寛永4年)に藤堂高虎が創建した上野東照宮は,日光東照宮,久能山東照宮に加え,三大東照宮のひとつに数えられ,徳川家康,徳川吉宗,徳川慶喜を祀っています。現在の社殿は1651年(慶安4年)に徳川家光が改築したものです。

 境内には社殿のほか,狸の木像をご神体とした栄誉権現社や,ぼたん苑があります。
 一見,拝殿の門が閉じられていて,社殿まで行くことができないように思えますが,有料ですが,門から中に入って,社殿まで行くことができて,社殿の立派な装飾を鑑賞できます。社殿内には「唐獅子の壁画」があるそうですが,これは非公開です。
 栄誉権現は,四国八百八狸の総師で,栄誉権現として狸の木像が社殿の左側の小社祠に祀られていて,「お狸さま」とよばれています。法衣を着て座わり,顔を真上に向け,鼻を突き上げて天井を仰ぎ見ている姿を垣間見ることができます。この狸の木像は,江戸時代は大奥に奉納されたものでしたが,そこで大暴れしたり災いをもたらしたので,大奥を追放されていくつかの大名や旗本の家に渡り,追放先でも,大名,旗本の諸家をお家断絶にまで追い込むなど数々の災いをなしたのですが,大正年間に上野東照宮に納められて,ようやく災いをもたらさなくなったといわれています。
 ぼたん苑では,元日から2月下旬に特別に冬に開花するよう促成栽培した冬牡丹を展示する「上野東照宮・冬ぼたん」が開催されていました。ぼたんには早春と初冬,二季咲きの性質をもつ寒ぼたんという品種があるのですが,着花率が低いので,これを正月の縁起花として抑制栽培の技術を駆使して開花させたものが冬ぼたんで,ぼたん苑には160株の冬ぼたんがあって,美しく咲き誇っていました。 
 また,遠くに見える五重塔は,もともとは上野東照宮のものでしたが,明治の神仏分離令で寛永寺の所属となりましたが,幕末の上野戦争で焼失しました。その後現在地に再建され,東京都に譲渡されたものです。

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 南光坊天海は,1643年(寛永20年)に亡くなった天台宗の大僧正ですが,徳川家康の側近として,江戸幕府初期の政策に深く関与しました。生まれは,将軍足利義澄落胤説やら,姿を変えて生き残った明智光秀やらという説があり,また,生年もはっきりしていませんが,100歳以上の長命であったそうです。
 前半生についてはわからず,福島県会津美里町の龍興寺にて出家した後,天台宗を学び,比叡山延暦寺や園城寺,興福寺などで学を深めたといいます。1588年(天正16年)に現在の川越市にあった無量寿寺北院に移り,天海を名乗ったあたりから,足跡が明瞭となっています。
 北条攻めの際,南光坊天海は徳川家康の陣幕にいたとし,その後,家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担いました。1616年(元和2年),危篤となった家康は遺言を天海託し,2代将軍・徳川秀忠の諮問によって,徳川家康の神号を「東照大権現」と決定し遺体を久能山から日光山に改葬,3代将軍・徳川家光に仕え,1624年(寛永元年)に寛永寺を創建しました。
 前回書いたように,寛永寺は,比叡山延暦寺が京都御所の鬼門に位置し,朝廷の安穏を祈る鎮護国家の道場であったことにならい,山号を東の比叡山という意味で東叡山とし,清水寺に習った清水観音堂,琵琶湖を模した不忍池辯天堂, 五重塔,開山堂,大仏殿などの伽藍を作りました。
 と聞いたので,寛永寺の見学を終えたあと,私は,それらの史跡を訪ねました。

 まず,ほとんどの人は,この存在を意識していませんが,上野の森美術館の前に,天海僧正毛髪があります。南光坊天海が亡くなったのち,諡号(しごう)を慈眼大師とし,墓所は日光山輪王寺に造られ,1643年(寛永20年)に弟子の晃海(こうかい)によって本覚院伝来の毛髪を納めた塔が建てられ,毛髪塔とよばれるようになりました。お坊さんの毛髪…?
 次に,清水観音堂にのぼり,不忍の池を見下ろしました。清水観音堂は京都の清水寺を模した舞台造りのお堂で,1631年(寛永8年)に南光坊天海により建立されました。また,本尊も清水寺より恵心僧都(えしんそうず)作の千手観音像を迎えて秘仏としてお祀りしました。はじめは上野公園内の擂鉢山に建てられ,元禄初期,今の噴水広場の地に寛永寺総本堂の根本中堂建設が決まると,その工事に伴って1694年(元禄7年に現在地に移築されたもので,上野に現存する創建年時の明確な最古の建造物です。
 最後に上野大仏に行きました。1631年(寛永8年)に初建された上野大仏は,度々罹災し,その都度復興されましたが,関東大震災で首が落ち,第2次大戦で軍の供出令によって胴体が徴用され,顔のみが残されました。現在,大仏殿の跡地にはパゴダが建立され,本尊として旧薬師堂本尊の薬師三尊像が祀られています。
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 大仏を埋めて白し花の雲
    子規
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  胴体を失った顔面は「これ以上落ちない」という意味に変化し,2000年代前半ごろから受験生が祈願するようになり「合格大仏」とよばれています。


 上野はよく行くのですが,これまで,こうした場所を歩いたことはなかったので,とても興味深く感じました。

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 2024年1月13日,JR東海ツアーズ主催の特別公開に参加して,上野の東叡山寛永寺に行って,徳川将軍の墓を見てきました。
 2023年10月14日に芝の増上寺と谷中霊園に行ったとき,次のように書きました。
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 徳川将軍の墓所は1か所にあるのではなく,日光東照宮,上野の寛永寺,芝の増上寺,そして,谷中霊園の4か所にわかれています。
 初代将軍・徳川家康と三代将軍・徳川家光の墓は日光東照宮にあります。
 そして,芝の増上寺に墓があるのが,2代将軍・徳川秀忠,6代将軍・ 徳川家宣,7代将軍・徳川家継,9代将軍・徳川家重,12代将軍・徳川家慶,14代将軍・徳川家茂であり,上野の寛永寺に墓があるのが,4代将軍・徳川家綱,5代将軍・徳川綱吉,8代将軍・ 徳川吉宗,10代将軍・徳川家治,11代将軍・徳川家斉,13代将軍・徳川家定。そして,谷中霊園に墓があるのが15代将軍・徳川慶喜です。
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 芝の増上寺にある徳川将軍の墓は公開されているので見学できますが,今回行くことができた寛永寺にある徳川将軍の墓は普段は未公開なので,やっと念願がかないました。

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 天台宗の別格大本山東叡山寛永寺は,1625年(寛永2年)に,徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため,江戸城の鬼門にあたる上野の台地に,南光坊天海によって建立されたものです。比叡山延暦寺が京都御所の鬼門に位置し,朝廷の安穏を祈る鎮護国家の道場であったことにならい,山号は東の比叡山という意味で東叡山とされました。江戸時代には格式と規模において我が国随一の大寺院となり,現在の上野公園の中央部分,噴水広場にあたる竹の台に,間口45メートル,奥行42メートル,高さ32メートルという壮大な根本中堂が建立され,現在東京国立博物館に当たる場所には本堂があって,小堀遠州による名園が作庭されました。また,清水寺に習った清水観音堂,琵琶湖を模した不忍池辯天堂, 五重塔,開山堂,大仏殿などの伽藍が競い立ち,子院も各大名の寄進により三十六坊を数えました。
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  幕末の戊辰戦争で,境内地に彰義隊がたてこもって戦場と化し,全山の伽藍の大部分が灰燼に帰してしまい,1885年(明治18年)に,輪王寺門跡の門室号が下賜され,天台宗の高僧を輪王寺門跡門主として再出発しました。
 根本中堂は,1879年(明治12年)に,川越喜多院より本地堂を移築し,再建されたもので,伝教大師作の本尊薬師如来や東山天皇御宸筆「瑠璃殿」の勅額は,戦争の中運び出され現在の根本中堂に安置されています。また,根本中堂正面側にある銅燈籠と銅鐘は,徳川家光(大猷院)霊廟に奉納されたものということです。
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 今回案内していただいたのは,5代将軍・徳川綱吉と8代将軍・徳川吉宗,13代将軍・徳川家定とその正室である天璋院篤姫の墓でしたが,これらの霊廟は,立派な勅額門の奥に広がっていました。建立当時は敷地内に拝殿や鐘楼,回廊などさまざまな建造物があったそうですが,現存するのは,宝塔を除いて,勅額門と水盤舎のみです。徳川綱吉の墓はとても立派ですが,徳川吉宗以降は,豪華な霊廟を新たに造ることが禁じられ,宝塔だけを造り合祀するようになったということです。生類憐みの令で有名な徳川綱吉は,巨大な犬小屋を建てるなどして,贅沢に徳川家の財産を食いつぶしてしまったのです。徳川将軍は,御宝塔の真下に江戸城を向いて公家装束をまとって座るように土葬されているそうです。
 今回案内していただいたのは,寛永寺の石田亮岳執事でしたが,奇しくも,この日の夜9時から放送された「世界ふしぎ発見」という番組に出演されていました。
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 特別公開で案内されて見ることができたのはこれだけでしたが,そこで,残りの4代将軍・徳川家綱,10代将軍・徳川家治,11代将軍・徳川家斉の墓はどこなのか疑問が残りました。そこで調べてみました。
 寛永寺には,4代将軍・徳川家綱の厳有院と5代将軍・徳川綱吉の常憲院の霊廟があります。以前は,現在のものよりも立派なものだったそうですが,1945年(昭和20年)の空襲で焼失し,現存するのは,その一部ということです。
 今回見ることができたのは,そのうちで,5代将軍・徳川綱吉の常憲院の霊廟で,その入口にあったのが勅額門,そしてそれをくぐると,水盤舎,奥院唐門がありました。さらに,霊廟の中には,併せて,奥院宝塔として,8代将軍・徳川吉宗の有徳院宝塔,13代将軍・徳川家定の温恭院宝塔、徳川家定夫人の天璋院宝塔,そして,明治以降,16代徳川家基の孝恭院宝塔と17代徳川家正の宝塔が建っていました。なお,18代徳川恒孝さんは御存命です。
 4代将軍・徳川家綱の厳有院霊廟は,道路を越えた寛永寺第二霊園にあって,道路に面して,勅額門だけは見ることができて,その奥に,水盤舎,奥院唐門があり,併せて奥院宝塔として,10代将軍・徳川家治の浚明院宝塔,11代将軍・徳川家斉の文恭院宝塔があるそうですが,厳有院霊廟は非公開です。

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