しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:下北半島

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35 年ほど前に国道394号線を下北半島の東海岸に沿って走ったとき,周囲が木々に囲まれ,まったく海が見えす,しかも,砂利を積んだダンプカーが多く走っていました。北海道の松前半島の海岸線に沿って走ったときはずっと雄大な海が見えたので,この違いに失望しました。しかも,この地にある六ケ所村は,当時,核燃料の再処理工場が計画されており,ダンプカーによる砂利の投棄とともに,本州の北の果てはゴミ捨て場だと思いました。
それから私も歳をとり,いろいろなことがわかってきたので,今回は,冷静にこの地を走って,公開されている施設があれば見学し,下北半島の現在の姿を確認することにしました。

まず見つけたのが東通(ひがしどおり)原子力発電所のPR施設「トントゥビレッジ」でした。
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美しい自然に囲まれた青森県下北郡東通村の豊かな緑の森にあるのがトントゥビレッジです。
この森の中には様々な動植物のほかに豊かな自然の中にしか住まないといわれている妖精たちが暮らしています。
小さな妖精の名前は「トントゥ」。森に住む動植物を観察したりエネルギーのしくみを知ることができる妖精が仲良く暮らす村へようこそ!
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ということで,子供むけの施設でしたが,原子力発電のしくみについてわかりやすい展示と説明がありました。つまり,ここは原子力発電所のPR施設でした。展望台から原子力発電所は見えるけれど写してはいけないとか,かなり神経質でしたが,パンフレットには写真が載っているので,意味ないじゃん,と思いました。
私は,まったくの勉強不足で,東通原子力発電所は稼働しているものとばかり思っていたので,聞いてみると「???」という返事。つまり返事を濁していて,こりゃわけありだな,と思いました。
帰ってから調べてみると
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東通原子力発電所は東北電力と東京電力ホールディングスが敷地を保有しています。
1号機は2005年12月に営業運転を開始しましたが,2011年3月1日に起きた東北地方太平洋沖地震に伴う福島第一原子力発電所の事故の際は定期検査中でした。しかし,それ以降,再稼働することなく,今も停止した状態が続いてます。
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ということで,現在は稼働していません。

次が六ケ所原燃PRセンターでした。
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日本原燃株式会社の六ケ所原燃PRセンターでは,日本原燃株式会社が事業を行う原子燃料サイクル施設を中心に原子力や放射線について大きな模型やパネル,映像を使用してわかりやすくご案内しています。売店やレストランもあります。
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ということで,こちらは展望台から自由に写真を写してもよかったし,かなり大らかな施設でした。逆にいうと,稼働中の施設を維持するためには一般の人たちの理解が必要なので,かなり気を使っているわけです。
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核燃料の再処理,つまり「原子燃料サイクル」というのは,原子力発電所から運ばれてきた使用済の燃料を燃料貯蔵プールで冷却貯蔵し,3センチメートルから4センチメートルの小片に切断したのち溶解槽で硝酸により溶かし,リサイクルできるウランとプルトニウム,廃棄する核分裂生成物質(=廃棄物)に分離し,廃棄物をガラス固化し保管するというサイクルを行うことです。
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原子力発電で使われるウラン燃料は,97パーセントの核分裂しにくいウラン238と,3パーセントの核分裂しやすいウラン235からなります。
原子力発電の軽水炉で,3パーセントのウラン235は,1パーセントのウラン235と2パーセントの核分裂生成物質になります。また,97パーセントのウラン238からは,中性子を吸収することで1パーセントのプルトニウムと1パーセントの核分裂生成物質が出ます。
つまり,原子力発電によって,ウラン燃料は,95パーセントのウラン238,1パーセントのウラン235,1パーセントのプルトニウム,3パーセントの核分裂生成物質になるのです。これが使用済の燃料で,ここから,3パーセントの核分裂生成物質を取り除き,残りの97パーセントを再利用できるようにするのが原子燃料サイクル施設というわけです。
なお,1パーセントのプルトニウムは,新たなウランと混ぜ合わせて,MOX(=Mixed Oxide Fuel)燃料として利用します。これをプルサーマルといい,MOX燃料が使用できる軽水炉(=プルサーマル基)で利用します。現在,日本にはプルサーマル基は4基あります。
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問題はその3パーセントの核分裂生成物質で,これらは高レベル放射性廃棄物(ネプツニウム,アメリシウム,キュリウム,ストロンチウム,セシウム,テクネチウム,ルテニウム,ロジウム,パラジウム等)として残されています。日本では,その量は、最終処分する際の「ガラス固化体」に換算すると,既に約2万6,000本にも及びます。
高レベル放射性廃棄物は,当然,ゴミ捨て場に捨てるわけにもいきません。現在は,六ケ所村にある日本原燃株式会社の高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センターと,東海村にある日本原子力研究開発機構の東海研究開発センターにあって,これらは,30年から50年間にわたり貯蔵・冷却したのち,最終的には300メートルより深い地下に「地層処分」し,「天然バリア」である地層と「人工バリア」である金属や粘土を組み合わせた「多重バリアシステム」によって,放射能の減衰する数万年以上をかけて放射性物質を人の生活環境から隔離することになります。つまり,地下深くに埋めるわけです。
しかし,高レベル放射性廃棄物を地下深くに埋める場所(=最終処分場)がすでに作られているのはフィンランドのみ,計画中なのがスウェーデン,フランス,アメリカで,日本では現在,北海道寿都(すっつ)町,神恵内(かもえない)村が候補となっていますが,最終処分場の場所すら決まっていないのです。

ちょうどお昼になったので,別棟にあったレストランで昼食をとりました。
なお,六ケ所村は,この施設のおかげで,ひとり当たりの村民所得が全国平均の5倍にも相当する,日本でも有数の豊かな自治体となっています。

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尻屋崎から下北半島の東岸を南下しようと思っていたのですが,道路がありませんでした。それは,海岸線まで高い山が続いているためのようでした。仕方がないので,来た道を戻り,途中で東岸にアクセスする道路を見つけたので,そこで左折しました。
下北半島を横断していると,道路が二股にわかれます。左に行くと県道172号線,これは尻労漁港で行きどまりとなりますが,GoogleMaps のストリートビューで見ると,尻労漁港にはけっこう大きな集落があります。この地に住むのも,いろいろ不便だろうと思うのですが,日本では,どんなところに行っても人が住んでいます。右手に行くと県道248号線で,私は,この道路に進路をとりました。この道路は下北半島の東岸に沿って南下します。

県道248号線はめったに車も通っておらず,快適でした。以前,ボストン郊外の道路を走ったときのことを思い出しました。県道248号線は海岸に沿ってはいるものの,防風林がつながっていて視界が効かず,まったく海が見れらませんでした。
実は,この一帯の海岸は猿ケ森砂丘なのです。
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幅東西約2キロメートル,長さ南北約17キロメートルの猿ヶ森砂丘は,約6,000年前の縄文海進期以降に太平洋からの砂が堆積して形成されたものです。「猿ヶ森」はアイヌ語の「サル・カ・モライ」(=湿地の上流にある流れの遅い川)に由来するといわれます。
猿ヶ森砂丘は,鳥取砂丘より広く日本最大,とされますが,実際は,猿ヶ森砂丘の広さは約3,000ヘクタール程度で鳥取砂丘とは同程度。ほぼ全域が防衛装備庁の下北試験場なので,一般人の立ち入りはできません。
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ということですが,さらに調べてみると,先に書いた尻労漁港の南のあたりの小径から坂の下という場所までは行くことができて,そこで砂丘の北の端を見ることができるそうです。

猿ケ森砂丘が過ぎたあたりに猿ケ森ヒバ埋没林があるという案内標示があったので,行ってみました。小さな集落があって,それを過ぎると駐車場がありました。そこに車を停めて,森の中に入っていくのですが,クマがでるということなので,iPhone で音楽をかけながら歩きました。
しかし,森に中をどこまで歩いて行っても,どこがヒバの埋没林なのかわかりません。背後から,クマではなく人がひとり,同じように音楽をかけながら歩いてきました。「どこが埋没林なのでしょうねえ?」と声をかけると「たぶんここじゃないのかなあ?」という返事。お互い,よくわからないのでした。以前行ったことがある北海道野付半島のトドワラのようなところを期待していただけに,がっかりしました。
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目的の場所は駐車場から約300メートルで,沢沿い埋没樹がぽつりぽつりとあり,埋没「林」とは思えません。枯れ木と埋没樹がゴッチャになっているため,どれが埋没樹なのか判別が難しくよくわからないのです。
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という口コミを見つけました。来た人はみな,同じように??? となる場所のようでした。
ということで,こうした森を見たことがない人には,ヒバ埋没林が何かわからずとも,森を歩くだけで感動している人もいるようですが,私はアメリカの国立公園で,もっとすごい森を数多く体験しているので,それに比べたら…,とがっかりした場所でした。

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県道6号線は尻屋崎に近づくにつれて最果て感満載になってきました。しかし,そこに飛び込んできたのは巨大な工場群でした。それは,いくつかの会社のセメント工場でした。私のイメージしていた最果て感とはまるで違うその景観に驚きました。
そのうちのひとつであるUBE三菱セメントは,セメント需要の減少と燃料価格の上昇で2023年3月末をめどに閉鎖されたということで,現在は,その後処理の最中だそうですが,このような巨大な工場は,すべて片づけられるのでしょうか? それとも廃墟となるのでしょうか? もし廃墟となるのなら,それは環境破壊だな,と悲しくなりました。

さて,県道6号線は,このような多くのセメント工場の間を過ぎると,次にそこにあったのが閉じられたゲートでした。尻屋崎はゲートで閉じられてていて,行くことができないのかな? と思いましたが,この時期,午前7時から午後4時45分までは車が近づくと自動で開くことがわかりました。ここにゲートが設置されている理由はわかりません。
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尻屋崎の北側は津軽海峡,東側は太平洋で潮の変わり目で,また,濃い霧がよく発生するため,海上交通の難所として古くから恐れられていました。これが北前船がこの場所をさけて,日本海経由で運ばれた理由でした。
1876年(明治9年)に尻屋埼灯台ができました。尻屋埼灯台は国内最大級の光度53万カンデラを誇ります。
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ゲートをすぎると,やっと,私が描いていた雄大な景色が広がっていました。朝早く,私以外にはだれも来ていなかったので,これがまた最果て感を増長しました。
ドライブウエイは海岸線に沿ってずっと続いていたので,それを走っていくと別のゲートに着いたのですが,そのゲートは午前9時に開くということで,そこから出ることはできませんでした。Uターンして今走ってきた道路を逆に進むことになりました。
尻屋崎灯台は中に入ることができるということですが,私の行った時間が早すぎてまだ閉まっていたたので,灯台に入ることができなかったのは残念でした。

再び,入ったときと同じゲートから出ました。
ゲートの際に放牧場があって,多くの寒立馬(かんだちめ)の姿がありました。ここにやって来たという内容の多くのブログがあります。ブログのほとんどが寒立馬を見ることができなかった,とあるのですが,私はこういうとき,当たり前のようにうまくいくのです。
ただし,それはそれで,大変なこともままあって,昨年の8月下旬に隠岐諸島に行ったときは,放牧された牛の大群に車を囲まれて動けなくなったし,アメリカのノースダコタ州では道路の真ん中にバッファロー2頭現れて進むことができなくなったこともありました。そこで,私はそうしたことがトラウマになっているので,放牧された動物は好きではありません。

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旅の3日目は,下北半島の北東端の尻屋崎へ行って,そこからずっと下北半島の東岸を南下して八戸市まで行くことにしました。広範囲な地図では尻屋崎へ行く道路がないように見えますが,むつ市から尻屋崎までは県道6号線がつながっています。
ホテルをチェックアウトして少し行くと斗南ケ丘市街地跡がありました。車を停めて降りて,説明書きを読んでみると
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戊辰戦争に敗れた会津藩が,1869年(明治2年),藩主・松平容保(たかもり)の嫡男・松平容大(たかはる)による家名存続が許され,新領地として斗南の地(現在の三戸、上北、下北の 3 郡と岩手県の一部)に斗南藩が成立しました。この地は,移住してきた藩士達の屋敷が造られた跡です。
  ・・・・・・
ということでした。
そういえば,今年の1月,会津若松市へ行ったとき,会津藩の歴史について興味をもったので,帰宅後調べていて,斗南なる名前を見た記憶があるのですが,それがむつ市であったとは…。また,昨晩泊った「むつグランドホテル」に保科正之(ほしなまさゆき)の資料や会津松平家の系図が展示してあったのですが,どうしてここに? と思ったのでした。
私がこれまでに旅で行ったところは,いつも何かしら不思議な縁で結ばれています。

保科正之は,2代将軍徳川秀忠と下級女中との子です。母親の身分が低かったのでその存在が隠され,旧武田家臣の高遠藩主・保科正光が預かりました。のち,保科正光の後を継いで藩主となり,山形藩藩主を経て,会津藩初代藩主となりました。
家老・友松氏興が建言し,保科正之と朱子学者・山崎闇斎が共同で作成したといわれる「会津藩家訓15ヶ条」は,200年にわたり会津藩の精神的支柱として存在しました。これが幕末,会津藩の悲劇につながってしまうのです。
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第1条
大君の儀,一心大切に忠勤を存すべく,列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば, 則ち我が子孫に非ず,面々決して従うべからず。
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2代藩主・保科正経(ほしな まさつね)には男子がなく,保科正之の子・正容(まさたか)が3代藩主となると,幕府から松平姓と葵の紋を与えられ,会津藩は徳川親藩になりました。
9代藩主・松平容保(たかもり)は,越前の松平春嶽や一橋慶喜らに京都守護職への就任を要請されます。この「会津藩家訓15ヶ条」第1条の内容を引き出された松平容保は要請を承諾するしかなく,これが戊辰戦争での悲惨な白虎隊の最期を引き起こす要因となりました。

斗南の名の由来は,中国の詩文の中にある「北斗以南皆帝州」(=北のこの地も天皇の国と変わりはなく,ともに北斗七星を仰ぐ民である)から来たもので,望郷への想いとともに,いつかは南に帰りたいという願いが込められているといわれます。また,憎むべき南(=長州・薩摩)と斗(=戦)うという解釈もあります。
しかし,ここは最北の僻地でした。入植した藩士たちの生活は困窮を極め,開墾に夢を託した藩士たちは,志半ばにして命を失い,あるいは,この地を去るものが続出しました。そのわずか1年後,政府は廃藩置県を断行し,斗南藩は消滅しました。
しばらく進んでいくと,旧斗南藩士の墓がありました。 当時,入植者が亡くなっても生活が苦しかったことから墓石が置くことができませんでした。そこで,これらは,1976年に斗南会津会が整備したものだそうです。

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おいしいマグロ丼に満足して,「むつグランドホテル」を目指して国道279号を走ります。
大間崎から下北半島の北岸を東に走っていると「布海苔(ふのり)発祥の地」という碑を見つけました。布海苔って何? と思ったのですが,刺身のつまでついている紅色の海藻だと思い当たりました。
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布海苔養殖法は1868年(明治初年)佐賀平之丞により考案され,その後,祖父の意志を継承し,佐賀清太郎が完成させました。これ以後,布海苔養殖法は村内はもちろん,県内および全国で採用されるようになりました。
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ということでした。
国道279号線は通称「むつはまなすライン」といい,道路沿いは点々と住宅が立ち並んでいて,最果て感はありませんでした。まもなく,むつ市街に入りました。

下北半島では,霊場恐山,仏ケ浦海岸,大間崎と,行きたかったところにすべて行くことができました。この日宿泊する「むつグランドホテル」はむつ市街の高台にありました。
それにしても返す返す私がいい加減なのは,予約をしておきながら「むつグランドホテル」がどんなものか把握していなかったということです。泊まることさえできればいいや,と思っていたので,「むつグランドホテル」はビジネスホテルに毛が生えたようなところだと思っていました。到着して驚きました。そこは,ものすごく豪華なホテルだったのです。
団体ツアー客がたくさんいました。下北半島を団体観光ツアーでまわろうとなると,宿泊先は「むつグランドホテル」一択となるようでした。帰ってから調べてみると…,ありましたありました。「仏ケ浦上陸とJR五能線 下北・津軽2大半島3日間」というツアーが。宿泊先は1泊目が鯵ヶ沢の「ロックウッドホテル」で,2泊目が「むつグランドホテル」でした。
ここは斗南温泉という場所なので,外来の日帰り温泉もありましたが,宿泊者だけの温泉も併設されていて,宿泊者は宿泊者専用の温泉と日帰り温泉の両方に入ることができました。部屋も立派で申し分なかったのですが,私は団体ツアー客が多いというだけでうんざりしました。
素泊まりだったので,夕食はすでに食べてきたのですが,朝食は近くに食べられるようなところもなかったので,ホテルで食べることにして,チェックインするときにフロントで予約しました。
温泉は団体ツアー客がいるから混雑するので,彼らが食事をしている時間に行ってみました。やはり空いていてなかなかいい湯でした。

2024年7月6日。旅の3日目です。この旅は,結果的には2泊3日でもよかったのですが,私が行きたかった場所が何日でまわれるのか見当がつかなかったので,おまけの1日,つまり,予備日を設けてありました。この日の宿泊先は「東北温泉」。これもまた,どういうところなのかはよくわかっていませんでした。
早朝,午前5時から温泉に入れるというので行ってみましたが,すでにけっこう人がいました。年寄りはみな早起きであり,時間なんて無視なのです。旅館によってはその時間以前に行っても入浴できないところもあるのですが,ここはそうではありませんでした。
朝食は午前7時からで,バイキング形式でしたが,これが問題でした。団体ツアー客の食事時間が午前7時30分からだと見込んだのが大間違いでした。彼らは私が思ったよりも出発が早かったのです。こんなことなら,私は,午前7時に温泉に入り,午前8時から朝食をとるべきだったのです。
ホテルや旅館によっては,団体ツアー客がいる場合,個人客とは部屋を別にしていることもあり,これが好ましいのですが,「むつグランドホテル」では,同じ大広間でした。こうなるといけません。ずらっとならんだ団体ツアー客は,まるで修学旅行生で,こんなところの端に個人客が押しやられてはたまったものではありません。これだけで,私には,このホテルはリピートの候補から外れます。
今改めて調べてみると,「むつグランドホテル」に泊まらずとも,下北半島には,大間崎を含め,団体ツアー客が泊まることのない小さな旅館がたくさんあったのです。そして,その多くはおいしそうな食事つきで,評価も高いのです。私としてはうかつでした。

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朝,津軽半島の先端龍飛崎の「龍飛崎温泉ホテル竜飛」を出発して,一路,下北半島を目指したのですが,思ったよりも早く下北半島までたどり着いて,霊場恐山にも行き,さらに仏ケ浦海岸まで足を延ばすことができました。
この日予約してあったのは,むつ市の「むつグランドホテル」,素泊まりでした。
地図を見ると,仏ケ浦海岸からは,下北半島を南の海岸線に沿って反時計回りに来た道を戻るのも,時北の海岸線に沿って時計回りに大間崎を経由して戻るのも,ともに同じような距離だったので,大間崎に行って,そこで夕食をとることにしました。きっとおいしいマグロが食べられることでしょう,という期待を込めて…。

仏ケ浦海岸から下北半島の西岸に沿って国道338号線を走るのですが,海岸線はずっとすばらしい景色が続いていました。下北半島に限らず,日本海側の風景は変化に富んでおもしろいものです。
しばらく走っていくと集落が見えてきました。国道338号線はここで終点で,引き続き国道279号線になるのですが,国道を走っていくと大間崎を通り越してしまいます。国道338号線の終点で,道路標示に従って,大間の市街地を北上していくと,大間崎に着きました。
広い駐車場があったのですが,車は全く停まっていませんでした。車を停めて,まず,大間崎の日本最北端の地碑まで行きました。すごい風でした。
大間崎は,35年ほど前に一度来たことがあるのですが,そのときのうっすらとした記憶では,もっと閑散とした漁港だったように思います。現在は,立派な観光地に変貌を遂げていましたが,観光客は皆無でした。聞くところによると,北海道の宗谷岬や美瑛の青い池はインバウンドであふれかえっているとか…。それだけで,私は行く気がなくなるのですが,それに比べて,ここは最高でした。

時刻はまだ午後5時前でしたが,夕食をとることにしました。
何軒か,食事のできる店があったのですが,車を停めたとき声をかけてくれた人の店に行くことにしました。注文したはもちろん極上のマグロ丼です。マグロを釣ったという人の息子さんがやっている店ということでした。出来上がったマグロ丼を食べていると,私の食べているマグロを釣りあげたという人が入ってきました。小柄な初老の人で,この人が一本釣りしたとは信じられませんでした。
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マグロといえば「大間の一本釣り!」と答える人も多いくらい有名な,大間のマグロです。小型船に乗ってマグロが回遊する沖まで出て,釣竿で1本のマグロを釣り上げるのです。
一本釣りは,傷が少なく状態もいいため単価がよくなりますが,1本ずつ釣り上げるので手間のかかる作業になるし,漁に出ても全く釣れないこともあるといいます。
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何事もすごいものだと感動しました。

マグロは日本海を回遊して,津軽海峡に入り,太平洋へ向かうのですが,津軽海峡は海流が早く,身が引き締まっておいしいマグロになるということです。ちょうどこの時期から漁がはじまりますが,この季節のマグロは赤身ばかりだそうで,油ののったおいしいマグロは冬に捕れたものだそうです。
釣ったマグロは,マイナス60度にして都会に送るそうです。
といった話を聞いていたときはそんなものか,と思ったのですが,後で考えてみると,冬の漁は,ものすごく寒い時期ではないですか。過酷です。
店で出されたものは,冬に捕れたものということで,私が生涯食べたものの中でも最高の味のひとつでした。上質のトロと上質の牛肉を足したような味。こんなおいしいものを食べてしまうと,帰宅してから,トロにぎりは食べられないなあ,と思いました。
さすが大間のマグロでした。

ところで,先日,NHKBS「にっぽん縦断こころ旅」で大間崎を取り上げていましたが,晴れた夜には,大間崎から函館の夜景が海の上に浮かび上がって見えるのだそうです。
そんなことを知ると,ぜひ,一度はそれを見てみたいなあ,と思ったことでした。

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霊場恐山がどういうところかわかってすっかり納得しました。
時刻はまだ午後3時前でした。下北半島は思ったよりも広くありませんでした。これは,交通量が少なく信号がないので,移動に時間がかからないからでした。
今日の宿泊先は「むつグランドホテル」で,素泊まりでした。それは,何時に到着できるかわからなかったことと,翌日の予定も未定だったからです。そこで,この時期は日没も遅くまだ十分に時間があったので,下北半島のほかの観光地を巡ることにして,まず見つけたのが仏ヶ浦海岸というところでした。
仏ケ浦海岸は下野半島の西海岸沿いの中央あたりにありますが,霊山恐山から直接行く道路がなく,再びむつ市まで戻って,今度は下北半島の南岸を国道338号線に沿って,下北半島の海岸沿いに時計回りに進みます。
しかし,国道338号線は途中が不通になっているという看板があったので,はたして行くことができるのか心配になりました。不通区間がどこなのかわかりません。まあ,行くことができなければ戻るだけ,と思って進みます。途中の川内町で右折して県道46号線を行けとカーナビが示すので従うことにしました。これは三角形の斜辺,つまり,ショートカットになります。また,国道338号線の不通区間の迂回路なのだろうと勝手に判断しました。県道46号線は反時計回りに大きく曲線を描き,12時のところで県道253号線との分岐になって,県道253号線に進路を変えて進むと,やがて,再び国道338号線と合流して,しばらく進むと,無事,仏ケ浦海岸の駐車場に着きました。やはり,迂回路でした。

ここで問題がおきました。私は,仏ケ浦海岸は道路に面しているとばかり思っていたのですが,それは大きな誤解だったのです。実際は,仏ケ浦海岸は,駐車場から,クマが出ることもあるという100メートル以上の高低差がある急峻な坂道を30分ほど歩かなければならなかったのです。それでもこのような道を作った人に感謝です。そうでなければたどり着けませんでした。
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仏ヶ浦海岸は,古くは仏宇陀(ほとけうた/ほとけうだ)と称しました。陸奥湾口の平舘海峡に面した峻険な海岸沿いに2キロメートル以上にわたって奇異な形態の断崖・巨岩が連なる海蝕崖地形で,1,500万年前に海底火山から噴出した火山灰が押し固められ削り取られて形成されたものです。
陸上から近づくのが困難な土地だったので,長らく地元民のみに知られる奇勝でした。大町桂月が1922年(大正11年)に下北半島を訪れた際,仏ヶ浦海岸を見て強い感興を覚え「神のわざ 鬼の手つくり仏宇陀 人の世ならぬ 処なりけり」の和歌をもってその奇観を賞しました。仏ヶ浦海岸が世に広く知られるようになったのは大町桂月の紹介によるものです。
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海岸沿いに展開する長大な景観なので,海上からでなければその全体像は把握できないということで,佐井村佐井港およびむつ市脇野沢港からの観光船が出ているそうですが,知りませんでした。
幸いクマと遭遇することもなく到着し,絶景を楽しむことができましたが,汗だくになりました。

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霊場恐山に到着しました。一体どんなところやら想像もつかなかったのですが,第一印象は不気味さ漂うところでした。広い駐車場があって,その奥に,荘厳な寺院がありました。
時刻はお昼過ぎでした。それまで適当なところがなかったので,できれば,霊場恐山に着いたら昼食をと思っていましたが,食事をするようなところはないのかしら? あるいは,みやげ物店や食事どころが立ちなぶような門前町があるのかしら? などなど,半信半疑でした。実際は,1軒の食堂とみやげ物店がありました。食堂はふたりの女性が働いていました。
不謹慎な私は,お参りをする前に腹ごしらえをしました。
おいしいおそばでした。それにしても,こんな山奥に毎日通っているのも大変だと思って聞いてみると,慣れているから,ということでした。また,ここは冬は閉鎖していて,5月から10月の間だけ開山しているということでした。

食事を終えて,入山しました。ほとんど人はいませんでした。これはさびれているのか,私が行ったときがたまたまだったのか?
  ・・・・・・
恐山は,下北半島の中央部に位置する活火山群の名称で,古くは宇曽利山(うそりやま)とよばれたものが転訛して恐山となりました。最高峰は標高878メートルの釜臥山で,それに加えて,大尽山,小尽山,北国山,屏風山,剣の山,地蔵山,鶏頭山の八峰からなり,恐山という山はありません。
中央のカルデラ湖である宇曽利湖(うそりこ)の湖畔にあるのが,恐山菩提寺で,これが俗にいう霊場恐山です。なお,恐山山地というのはもっと広範囲の下北半島の上部全体の山岳地を指します。
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宇曽利という名は1057年(天喜5年)の「扶桑略記」や「今昔物語」に見られます。恐山の噴火記録はなく,最後の噴火は1万年以上前と見られていますが,今でも,水蒸気や火山性ガスの噴出が盛んです。霊場恐山の「地獄」付近には火山性ガス(=亜硫酸ガス)が充満していて硫黄臭を放出しています。このガスによる影響で草木が生えず動物も稀であることから,地獄のような様相を呈し,これが霊場としての雰囲気を醸し出しているのです。
  ・・
恐山菩提寺は9世紀ごろに天台宗の慈覚大師円仁が開基しました。本尊は延命地蔵尊で,曹洞宗の寺院です。
地蔵信仰を背景にした死者への供養の場として知られ,明治・大正期に「恐山に行けば死者に会える」と俗信されるようになりました。
イタコの口寄せが行われるようになったのは戦後になってからで,これは,霊場恐山にやってくる人を目当てにしたエンターテインメント。恐山菩提寺とは関わりがありません。
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このように,風景の異様さから,言葉は悪いですが,あの世をテーマとしたアミューズメントパークのような寺院であると私は思いました。

山門をくぐった左手に無料休憩所があったので入ってみたのですが,ほかに人影もなく,奥まったところにイタコの女性が座っていて,びっくりしました。私はご先祖様に詫びることしかしていないので,口寄せはためらいました。帰ってから調べてみると,口寄せは人気で,待ち時間が何時間にもなると書いてあったのですが,私が見たときは閑散としていました。
以前,黄金崎の不老ふ死温泉に行って,浜辺の露天風呂に入ったとき,青森県の温泉めぐりを楽しんでいるという人と話をしたのですが,恐山には自由に入ることができる温泉があると言っていました。そのときはイメージがわかなかったのですが,恐山温泉のことでした。恐山温泉は,明治から昭和初期かけて存在した恐山鉱山の掘削時に噴出したもので,寺院の境内に,男性用の「古滝の湯」(こたきのゆ),女性用の「冷抜の湯」(ひえのゆ),男女交代制の「薬師の湯」,混浴の「花染の湯」の4つの湯小屋がありました。しかし,これに入るには勇気が要りました。亜硫酸ガスが充満するので開けっ放しで,外から丸見えです。
また,霊場恐山には宿坊もあって,宿泊することも可能です。
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本坊の奥に,白い岩肌の溶岩台地が広がっていて,その奥に宇曽利湖がありました。この気味悪さがあの世をイメージさせるわけです。霊場恐山というのはこういうところでした。

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今日は津軽半島の蟹田から一気に下北半島の恐山までを紹介します。
津軽半島を時計回りに進んで,蟹田の駅前に着きました。ここで少し休憩して先を急ぎます。JR津軽線は青森駅から津軽半島の東岸にそって蟹田駅まで行って,そこから津軽半島の北岸にある今別駅まで内陸部を進むのですが,現在,蟹田駅から先は運休しているので,ここが終着駅となります。
私は,JR津軽線に並行する国道280号線を海岸沿いに南下しましたが,この先は青森市街地に近づいていくので,周りは住居ばかりになって,見どころがなくなりました。最北感あふれる奥津軽は,蟹田や金木以北です。やがて,青森市街地に着きました。国道280号線はここで終了し,片側4車線もある国道4号線に入ります。
早く青森市を抜けて,野辺地へ行き,そこから下北半島を北上したいのですが,青森市に入ると車が増えて,信号も多く,なかなか先に進めません。そんな青森市の市街地は何となく高知市の市街地に似ています。違いは城がないことで,これが,青森市の市街地に魅力を感じない原因となります。要するに,ねぶた以外は何もないのです。青森市の見どころとして三内丸山遺跡や浅虫温泉などが観光案内に書かれてあるのですが,これらはいずれも青森市の郊外です。
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この海岸の小都会は,青森市である。津軽第一の海港にしようとして,外ヶ浜奉行がその経営に着手したのは寛永元年である。ざつと三百二十年ほど前である。当時,すでに人家が千軒くらゐあつたといふ。それから近江,越前,越後,加賀,能登,若狭などとさかんに船で交通をはじめて次第に栄え,外ヶ浜に於いて最も殷賑の要港となり,明治四年の廃藩置県に依つて青森県の誕生すると共に,県庁所在地となつていまは本州の北門を守り,北海道函館との間の鉄道連絡船などの事に到つては知らぬ人もあるまい。
現在戸数は二万以上,人口十万を越えてゐる様子であるが,旅人にとつては,あまり感じのいい町では無いやうである。たびたびの大火のために家屋が貧弱になつてしまつたのは致し方が無いとしても,旅人にとつて,市の中心部はどこか,さつぱり見当がつかない様子である。奇妙にすすけた無表情の家々が立ち並び,何事も旅人に呼びかけようとはしないやうである。旅人は,落ちつかぬ気持で,そそくさとこの町を通り抜ける。
  太宰治「津軽」
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なんとか市街地を過ぎ,車も車線も減ってくると浅虫温泉です。さらに東に走り,やっと野辺地に着きました。野辺地駅は「にっぽん縦断こころ旅」や「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」でよく出てきた場所,交通の要所です。
野辺地駅前に車を停めて休憩しました。日野正平さんがここで購入したお守り「モーリー」くんを買おうと思って,野辺地駅の売店に入りました。昨年来たときは売っていたのですが,そのときは興味がありませんでした。今回,なぜか欲しくなって探したのですが,売り切れていて,入荷予定もないということでした。人生何事もこんなものです。「その機会」を逃してはいけません。
さて,いよいよ,ここから下北半島を北上していきます。
私は,以前,下北半島の東側を反時計回りに大間崎まで走ったことがあるのですが,その時は大間崎へ行っただけでした。今回の最大の目的は霊場恐山です。下北半は,つけ根は狭いのですが,先端が大きく膨れていて,しかも山岳地帯ということで,果たしていつたどりつけるのやら,と心配していました。

今回は,下北半島の西側を走っていきます。特に何もなく道路がまっすぐに続いているだけでしたが,私は,ボストン郊外のケープコッドを走ったときを思い出しました。過去に様々な場所を訪れた印象がこころの奥に貯金として残っていて,何かのきっかけでそれがすてきな思い出に加工されて出てきます。
そうこうするうちに,予想に反して,あっというまにむつ市に着きました。
基幹産業は林業と漁業だそうですが,むつ市が思った以上の都会だったのにも驚きました。このような最北の地にこれほどの大きな町がある理由というのが私にはわかりませんが,やはり,人口は減少しているようです。むつ市に限らず,東北を旅していると,旅行するにはいいのですが,住むとなると考えてしまいます。ということで,多くの若者が東京を目指して南下していく様が理解できます。

思ったより早くむつ市まで来ることができたので,そのまま霊場恐山をめざして,さらに進むことにしました。
車にはカーナビもついているし,iPhone の GoogleMaps を見ることもできるのですが,道路標示に恐山とあってわかりやすかったので,それを頼りに走りました。霊場恐山までは,むつ市からは思った以上に遠く,山また山の中のくねくね道を走っていくことになりましたが,やがて霊場恐山というゲートがありました。それをくぐってさらに進むと,とんでもない風景が現れました。それが宇曽利湖(うそりこ)でした。こんな場所に湖があるのに驚きました。こりゃ,この世ではないと思いました。

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