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私は,南から北,つまり,京から江戸の方向に向かって車で旧中山道を走ってきたのですが,高宮宿に差しかかる前にあったのが無賃橋でした。堤は桜が満開でした。無賃橋の正式名称は高宮橋といいます。
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琵琶湖に注ぐ犬上川には,中山道の諸宿場が整備されてからも長らく橋が架られていませんでした。
1767年(明和4年)に高宮宿の庄屋・問屋有志が彦根藩に申請し仮設橋を架けましたが,幾度もの大雨で橋が度々流されていました。この状況を危惧した彦根藩は,1832年(天保2年)に近隣の豪商である小林吟右衛門,馬場利左衛門,藤野四郎兵衛らに命じ,石造りの橋をかけました。さらに,翌年の1833年(天保3年)には高宮宿の有志が彦根藩より高宮橋株を買取り,無料で通行ができるようになりました。
この経緯から,橋のたもとに「無賃橋」の標石が建てられ,無賃橋とよばれるようになったそうです。
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橋を渡ると高宮宿に入ります。
高宮宿は旧中山道64番目の宿場で,宿内家数は835軒,うち本陣1軒,脇本陣2軒,旅籠23軒で宿内人口は約3,500人でした。
本陣は小林太左衛門家,脇本陣は塩谷家が担っていました。
橋を越えたあたりから眺められる高宮宿は,当時の面影を残していて,なかなかの風情でした。
高宮宿は,中山道の宿場町としては埼玉県の本庄宿に次ぐ大きな宿場として繁栄しました。また,多賀大社の参道沿いの門前町として多くの参拝者が利用しました。
宿場の中央には多賀大社の一の鳥居がランドマークとなっていました。この高さ11メートルの大鳥居は寛永112年に着工されたものです。また,高さ6メートルの常夜燈も建立されました。
多賀大社は式内社で,旧社格は官幣大社,現在は神社本庁の別表神社です。古くから「お多賀さん」として親しまれ,神仏習合の中世期には「多賀大明神」として信仰を集めました。お守りとしてしゃもじを授ける「お多賀杓子」という慣わしがあり,「お玉杓子」や「オタマジャクシ」の名の由来とされているそうです。
特産品の麻織物は,高宮布として近江商人を介して日本各地に流通し,彦根藩から将軍家への献上品にもなっていました。宿場には高宮布を扱う問屋などの業者が何軒も軒を連ね,高宮神宮参道と向かい合っている加藤家住宅は,かつて「布惣」の屋号で高宮布を扱う麻布商で,高宮布を収めた5つの蔵が今も残り,往時の様子がしのばれます。
また,街道沿いにある円照寺は古刹として知られ,大坂の陣の際には徳川家康が立ち寄り腰掛けたと伝わる「家康公腰懸石」がありました。
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1684年(貞享元年)には松尾芭蕉が高宮宿を訪れ小林家で宿泊し,句を残しました。
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たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子
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小林家では芭蕉の為に紙で作った衣服を贈り,帰った後に塚を築きその衣服を納めて「紙子塚」としたと伝えられています。
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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは