しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

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 私が丸岡城に行ったのは3月の半ばのことなので,わずか2か月ほど前のことなのですが,ずいぶんと昔に思えます。この時期あたりまでは新型コロナウィルスによる事態はさほど深刻でなかったのですが,偶然なのか故意なのか,3月24日に東京オリンピックの延期が決まった日から急に感染者が激増してしまいました。
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 さて,東尋坊から再び丸岡城に戻ってきました。早朝に来た時と同じ場所に車を停めて,丸岡城に行きました。
 駐車場からは城郭はみえず,城までは坂道を少し登る必要がありました。すぐに美しい天守が見えてきました。城はそれほど高い場所にあるのではなく,丘の上にある少し大きな家のようで,ちょっとイメージとは違うなあと思いました。
 このときはまだ城は公開していました。城の外にあった受付のような場所で入館料を払う必要があったので,そこでお金を払ってお城に向かいました。私のほかに来ていたのは一組の夫婦連れだけで,静かな時間を過ごすことができましたが,これもまた,今では遠い昔のことのように思えます。

 1階には若干の展示と昔の城下町のジオラマがありました。城内は昔のままで,上の層に登るためのあまりにも急な階段におどろきました。この階段にはロープがつけてありましたが,もしそれがなければ険しすぎて登れないか,あるいは足をふみはずしてしまうか,といった感じでした。
 もともと,天守はシンボル的存在であって,そこで城主が暮らしていたわけでもなく,おそらくは倉庫のようなもので,頻繁に登る必要もなかったのでしょう。
 最上層に登ると,そこからはちいさな丸岡の町がよく見えました。
 降りるときも階段がまるで崖のようで苦労しました。天守の外に出ると,私が行ったときはまだ桜が咲く季節ではなかったのですが,それでも早咲きの桜が少しだけ咲いていたので,桜と天守が一緒に収まる場所を探して写真を撮りました。

 天守の下に博物館があって,そこで丸岡藩と丸岡城について詳しく知ることができました。
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 丸岡城は丸岡藩の居城でした。
 丸岡藩は,戦国時代,織田信長の配下柴田勝家の養子であった柴田勝豊が治めていました。柴田勝豊が賤ヶ岳の戦いののち病死すると,豊臣秀吉の家臣であった青山宗勝・青山忠元父子が丸岡藩に入りましたが,関ヶ原の戦いで西軍に与したため改易され,代わって入ったのは結城秀康の重臣・今村盛次でした。しかし,今村盛次は福井藩重臣による内紛に巻き込まれて流罪とされ,その次に徳川家康に仕えた本多重次の子・本多成重が入りました。
 本多成重と子の本多重能,そして孫の本多重昭の3代は藩政の確立に尽力しましたが,本多重昭の子の本多重益は無能の上,酒色に溺れ,それがもとで家臣の本多織部と太田又八の間で内紛が起こり,幕命により改易されてしまいました。
 このように,丸岡藩の藩主は災難続きでしたが,戦国時代,キリシタン大名で有名な有馬晴信の曾孫・有馬清純が越後糸魚川藩から入部し,やっと落ち着きました。その次の藩主である有馬一準の時代には外様から譜代へ格上げされ,第5代藩主の有馬誉純は若年寄,第8代藩主の有馬道純は老中という幕府の要職に就任しました。
 明治維新ののち,有馬道純は版籍奉還により丸岡藩知事となり,さらに廃藩置県によって丸岡藩は廃藩となりました。
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 丸岡城は,日本に現存する12の天守のひとつです。合戦時に大蛇が現れて霞を吹き城を隠したという伝説により,別名を「霞ケ城」といいます。
 城はもともとは安土桃山時代に建造されたと推定されることから現存最古の天守とよばれ,犬山城の天守との論争がありました。それは,1576年(天正4年)に柴田勝豊が建造したものであるという説と,建築史の観点で慶長期の特徴を多く見ることができるから本多成重が入城した1596年(慶長元年)以降の築造もしくは改修という説なのですが,調査の結果,使われている部材に伐採年代が1620年代以降と推定されるものが多いことがわかって,現在では,天守は1624年の寛永期に藩主本多成重によって整備されたと考えられています。
 丸岡城は天守のみ残っていて,櫓はありません。また,聞いてみると,城下町の風情の残る場所も残念ながらありませんでした。それは,1948年(昭和23年)の福井地震でこの町自体がほとんど壊滅的な被害を受けたためだそうです。そして,この地震で天守も倒壊してしまい,現在の天守は,1955年(昭和30年)に部材を70%以上再利用して組み直して修復再建されたものだそうです。
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 風情のある天守でしたが,思いのほか小さなお城でした。見学をしたあと,駐車場の場所にあったレストラン「一筆啓上茶屋」で地元産の越前おろしそばを食べました。客は私ひとりでした。
 私はグルメではないのですが,その土地に行けばその土地の名物を食べるようにしています。福井県の嶺北地方では,冷たいそばにたっぷりの大根おろしと削り節,刻みネギをのせて食べる越前おろしそばが有名だそうです。
 越前おろしそばは,今から400年以上前の1601年(慶長6年),府中(現在の越前市)の領主としてやってきた本田富正が京都の伏見からそば職人の金子権左衛門を連れてきたことがはじまりです。城下の人々に戦や災害に備える救荒食としてそばの栽培を奨励し,健康面でもプラスになるように大根おろしと一緒に食べるそばを考案したのが越前おろしそばの由来だといわれているとのことです。
 おいしくおそばをいただいて,わずかな時間の滞在でしたが,丸岡城を後に帰宅することにしました。

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 3月6日,余部鉄橋を見にいった帰りに福知山城と黒井城に寄ったことはすでに書きました。福知山城は明智光秀の居城だったところで,その美しい姿に一度は見たいものだと思っていたのですが,実際行ってみると,そこは鉄筋コンクリートのお城であることを知って,がっかりしました。そして,どうやら,私は,福知山城と丸岡城をごっちゃにしていることに気づきました。私は城マニアでないので,知識はその程度のものです。
 そこで,「一度は行きたかったでもわざわざ行かなくては行かれない場所に行ってみよう」という計画の続きでいろんなところに日帰りドライブ旅行をしている一環として,丸岡城に行ってみることにしました。丸岡城もまた,どこにあるか,まったく知りませんでした。調べてみると,福井市の北にあるようでした。福井市は以前,仕事で行ったことがあります。そのとき,交通費を節約して高速バスを利用したのですが,福井市が名古屋からずいぶん近いことに驚きました。そして,大都市が近くにない福井市の人は用事があると気軽に名古屋に来るということを知りました。

 よい天気でした。今回もまた,早朝6時に自宅を出て,名神高速道と北陸自動車道を乗り継いで日帰りでドライブすることにしました。これまで行った余部や親不知に比べたら,比較にならないほど近いところで,わずか2時間,あっという間に福井インターチェンジに着いてしまいました。福井インターチェンジを過ぎると,やがて左前方に町が広がり,その中心付近に小さなお城が見えました。丸岡城は山城ではなく,町の真ん中にあって,家々と馴染んでいました。
 ただ,誤算は天気でした。自宅を出たときは晴れていたのですが,日本海はまったくそうではなく,曇天,しかも,とても寒い日でした。
 丸岡インターチェンジで降りて,Google Maps のナビゲーションに従って走っていくと,ほどなくお城の駐車場の着きました。丸岡城は坂井市にありました。坂井市は思った以上に小さな町でした。そしてまた,小さな城郭でした。広い駐車場がありましたが,1台も車は停まっていませんでした。時間はまだ午前8時前。ちょっと早すぎるなあ,と思って,どこか近くに寄る場所でもないかなあと地図を見ると,東尋坊まで25分でした。そこで,まず,東尋坊まで足を延ばすことにしました。
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 というわけで,3月17日の朝8時すぎ,出かけるときに行くとも思わなかった,そして,私以外に誰もいない寒さ震える東尋坊で,私は日本海を眺めていたのでした。

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