しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場・47都道府県を制覇し,南天・皆既日食・オーロラ,空の3大願望を達成した「不良老人」の日記

タグ:二川宿

DSC_1860

【Summary】
Five years after the last visit, the user returned to Futagawa-juku on the old Tokaido road. The streets and atmosphere remained unchanged, but the narrow roads with heavy car traffic made walking unpleasant. They revisited the Futagawa Honjin Museum and had lunch there again. They wish to find a place free from car traffic for a more relaxing experience.

######
 豊橋総合動植物園から二川駅まで戻ってきました。これから北東に歩いて行くと,旧東海道の二川宿に入ります。
 以前,二川宿を歩いたのは,今から5年ほど前のことでした。
 昔のブログを探してみると,日にちが書いていないので,よくわからなかったのですが,調べてみると,2020年1月17日金曜日,ハプスブルグ展を鑑賞してから上野動物園でパンダとハシビロコウを見て,夜はNHK交響楽団第1931回定期公演を聴いたあと小田原で1泊して,翌日1月18日に小田原から名古屋まで,蒲原駅と二川駅で途中下車をしながら帰ったようです。また,NHK交響楽団第1931回定期公演というのは,ツィモン・バルトという人がピアノを弾いたブラームスのピアノ協奏曲第2番という,今でも私がトラウマになっている演奏会でした。
 月日の流れは早いのか遅いのかよくわからねど,その後,コロナ禍が世界に猛威をふるいました。

 さて,再びやってきた二川宿ですが,5年前とほとんど何も変わっていませんでした。5年前にも
  ・・・・・・
 江戸時代宿場だったところはどこも車がすれ違いないくらいの幅で狭く,宿場を外れると道路が広くなって歩道ができます。そうした宿場町のなかには道路を拡張してしまい,そのために宿場にあった家々が無残に取り壊されてしまったところも少なくないのですが,二川宿は現在県道404号線となっている道路は宿場の中だけはそのままの幅で残っています。しかし,そうした道路にも現在生活道路としてけっこう車の行き交うところとそうでないところがあって,この二川宿は頻繁に車が行き交うので歩いていてとても不快になります。
  ・・・・・・
と書いたのですが,今回も全く同じで,ここは,街並みこそ旧東海道の名残があっても,あまりに車が多く通り,しかも道が狭いものだから,まったくもって,のんびりと街歩きをたのしむようなところではありませんでした。

 また,5年前に食事をした
  ・・・・・・
 江戸時代,二川宿には本陣と脇本陣がそれぞれ1軒,旅籠が約30軒ほどありました。二川宿の本陣は数度の大火に遭いながらもそのたびに再建されてきましたが,明治後も取り壊されずに残った本陣の一部が1988年に改修,復元が行われました。また,本陣のとなりには旅籠も当時のように再現されていて,その両者が「豊橋市二川宿本陣資料館」として公開されています。また,ここにはレストランがあって,手作りの昼食をとることができました。
  ・・・・・・
もそのままで,今回も,ここで昼食をとることができました。
 気候がいいときに,特に何をする,でもないところに出かけて,時間を費やすのは悪くありません。
 願わくば,車社会と無縁の場所を探したいと思ったことでした。

DSC_1899DSC_1833DSC_1847DSC_1852DSC_1851DSC_1856DSC_1887DSC_1866DSC_1869DSC_1872


◇◇◇


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

hiroshige046_main2020-01-18_12-10-47_5862020-01-18_11-59-45_8652020-01-18_12-13-04_6592020-01-18_13-43-33_5552020-01-18_13-07-36_213

 昨年の4月20日,現在の静岡県にあった新居宿から県境を越えて愛知県にあった二川宿まで歩きましたが,このときのことはすでにブログに書きました。夕方二川宿に着いたとき,予想に反して宿場の面影がずいぶんと残っていて驚きました。そして,今度は二川宿をゆっくりと訪ねてみようとずっと思ったので,今回,それが実現しました。
 二川宿は東海道五十三次の33番目の宿場でした。当時は幕府の天領であった場所で,現在の愛知県豊橋市の東部に相当します。JR東海道線は浜名湖を過ぎ,新居町の駅を越えると,豊橋に向かって北西に進路を変え,旧東海道と別れます。旧東海道は新居宿の次が白須賀宿ですが,海側を通っているので交通の便が悪く,現在では陸の孤島のようになっています。そこで街道歩きをすると,JRの新居町から二川駅までの長い距離を歩く必要があります。前回,この間を歩いてそうしてようやくたどり着いた二川宿だったというわけです。

 JR蒲原駅から電車に乗って静岡駅で豊橋行きに乗り換え,JR二川駅に着きました。
 蒲原では小雨でしたが,浜名湖を過ぎたら急に青空になって,すっかり雨が上がりました。
  ・・
 二川宿は,1601年(慶長6年)の東海道設定当初から西側の大岩村と東側の二川村のふたつの村で宿場として人馬継立業務を担当していたのですが,ともに小さな村でしかも1キロメートル以上離れていて負担が大きく,江戸幕府は1644年(正保元年)に大岩村を東に二川村を西に移動させてくっつけて加宿大岩町と二川宿として再構成しました。つまり,むりやり作った宿場というわけです。
 明治になって旧東海道沿いに鉄道が敷設されて,駅が作られることになったのですが,二川宿跡の中心あたりは住民の反対にあって駅は町の西のはずれに作られました。よくある話です。そこで,JR二川駅は西のはずれにあって不便なのですが,皮肉にもそのために町は発展から取り残され宿場町の雰囲気が現在まで残ったのです。
 江戸時代宿場だったところはどこも車がすれ違いないくらいの幅で狭く,宿場を外れると道路が広くなって歩道ができます。そうした宿場町のなかには道路を拡張してしまい,そのために宿場にあった家々が無残に取り壊されてしまったところも少なくないのですが,二川宿は現在県道404号線となっている道路は宿場の中だけはそのままの幅で残っています。しかし,そうした道路にも現在生活道路としてけっこう車の行き交うところとそうでないところがあって,この二川宿は頻繁に車が行き交うので歩いていてとても不快になります。こうした町を歩くときはあえて左側を歩くほうが楽で,右側を歩くと常に車と対面してしまいます。

 江戸時代,二川宿には本陣と脇本陣がそれぞれ1軒,旅籠が約30軒ほどありました。二川宿の本陣は数度の大火に遭いながらもそのたびに再建されてきましたが,明治後も取り壊されずに残った本陣の一部が1988年に改修,復元が行われました。また,本陣のとなりには旅籠も当時のように再現されていて,その両者が「豊橋市二川宿本陣資料館」として公開されています。また,ここにはレストランがあって,手作りの昼食をとることができました。
 食事を終えて,資料館と本陣を再現した建物の中を見学しました。作り直した感がありありなので,昔のままの建物を期待する人には残念でしょうが,江戸時代の様子がとてもよくかわって興味深いものでした。聞いてみると,江戸時代に旅をしていた庶民は意外にも女性が多く,行商などでお金を稼ぐことができたので,それで旅をしていたということです。また,旅籠といっても,1晩に宿泊していた客というのは4,5人程度ということだったので,想像していたよりも快適だったように思いました。
 もし,今,江戸時代にタイムトラベルしたら,いったいどんな感じなのかなあと思うのですが,私の子供のころを思い出すに,それはわずか50年ほど前のことなのに,そのころのお風呂とかトイレを考えると,それを知らない今の若い人は驚くほど旧時代のものでした。電化も自動化もされていなかったのは50年前も200年前もそれほどの違いはなさそうなので,江戸時代は私の子供のころと同じようなものだったのでしょう。ここ50年の変化がすごいのです。
 さらに,二川宿には宿場で有数の商人だった田村家の店舗兼住居の「駒屋」も復原され公開されていたので,見学することができました。

 旧東海道歩きをしていると,静岡県は宿場町を観光用に整備して情報も多いのですが,愛知県に入ると宿場町についての情報も少なくなってしまうのが残念です。そのためにこれまで知らなかった二川宿ですが,ここは,本陣と旅籠屋,そして商家の3か所を見学できる日本で唯一の宿場町となっているいいところでした。

IMG_2510IMG_2514IMG_2519IMG_2522

 白須賀宿は旧東海道の江戸から32宿目,京都からは22宿目の宿場でした。宿場は約1.6キロメートルにわたり,人口は2,704人で613軒の家があって,本陣は大村庄左衛門家の1軒,脇本陣が三浦屋惣次郎家の1軒,旅籠屋27軒だったそうです。
 潮見坂を登り切った高台に展望台がありました。そして,道の反対側に小学校と中学校があり,その向こうに白須賀宿の町並みが続いていました。ちょうど学校から先生が出てきたので,少しお話をして町のことをお聞きしました。
 この高台から雄大な太平洋が眺められましたが,富士山は方角が違うのでこの展望台からは望むことはできないということでした。

 展望台を過ぎて歩いていくと,やがて,宿場の面影を残す町並みとなりました。特に町ぐるみで保存活動をしているような風はありませんでしたが,国道から離れているので,昔のままの町が残っているのでしょう。
 いつも書いていますが,旧東海道の宿場だったところはどこも町の誇りを感じます。それとともに,この道幅と町並みこそが日本人がもっとも落ち着く空間の広さと空気なのでしょう。
 明治以降,急激に訪れた車社会で江戸時代の町並みがずたずたになって,その流れから取り残された場所にだけ,今もそうした日本のよさが残ることになったのです。ただ残念だったのは,この日,町は選挙の真っ最中で,ポスターやら選挙事務所ののぼりやらで,その景観が台なしになっていたことです。

 白須賀宿にもいろんな旧蹟が残っていて,ゆっくり歩けばいろんなおもしろい場所に出会えるであろうと思われましたが,時間がなかったので,単に歩いて通り過ぎることになってしまったのが悔やまれました。歩きの私は,5キロ先の二川宿まで歩いていかなければ公共交通機関がありません。
 白須賀という地は江戸時代後期・文政年間の国学者である夏目甕麿(みかまろ)という人の生まれた場所だそうです。
 酒造業を営む名主の家の生まれで,司馬江漢と交友があり,酒好きだったといいます。本居宣長の門人となり,宣長の没したのちは本居春庭に入門しました。地名の語学的研究を行い「駿河国号考」を著しました。1822年(文政5年),昆陽池で遊び,船から月を取ろうとして溺死しました。

 やがて街道は左に曲がって宿場を過ぎたあたりで,国道42号線と合流しました,このあたりが前回書いた猿が馬場です。猿が馬場という地名は,豊臣秀吉が小田原城攻めの際,ここの茶店であん入り餅を食べたそのときの茶店のお婆の顔が猿に似ていたことから「猿が婆の勝和餅」と秀吉が命名し,それがいつしか猿が馬場の柏餅と変わっていったといわれています。
 江戸時代はここから先二川宿まで松並木が続いていて民家はなかったということですが,今は往来の激しい国道,そして,周りはキャベツ畑で,大きなキャベツがたくさん実っていました。愛知県はキャベツの生産地なのです。
 この先旧東海道は現在の国道と同じになってしまい,もはや旧街道歩きの楽しさはまったくなくなりました。やがて,境川にかかる境橋を渡ると,国道は国道1号線と合流しさらに交通量を増し,愛知県に入りましたが,次の二川宿まではさらに約1時間ほど国道の歩道を歩く必要がありました。
 何のおもしろみもない国道1号線に沿った歩道を進んでいくと神鋼電機の大きな工場が現れました。右手には新幹線の高架が接近してきました。
 ここで国道から離れ右に曲がって新幹線の高架下をくぐり,東海道本線の踏み切りを通過すると,二川宿の面影が残る古い町並みが現れてほっとしました。

 このように,新居宿から白須賀宿までは昔の面影の残る街道歩きを楽しめましたが,登り坂だったことだけが誤算でした。その先の白須賀宿から二川宿までは単なる国道の歩道を歩くだけで,まったく楽しくないものとなりますが,二川宿自体はなかなか風情のある宿場町でした。そこで次回は,二川宿から吉田宿までを時間をかけて歩いてみたいと思うので,今回は二川宿について書くことは省略しましょう。

このページのトップヘ