しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:井上道義

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【Summary】
Orchestra Ensemble Kanazawa, a small orchestra founded in 1988, held a memorable concert in their Kanazawa home venue, Ishikawa Ongakudo, in November. The program, including Akira Nishimura's Bird Heterophony and Shostakovich's Symphony No. 14, was challenging yet captivating. Conductor Michiyoshi Inoue's final performance before retirement added significance, though it drew a diverse audience beyond classical enthusiasts, impacting the concert's atmosphere. Lyrics were shown in subtitles, aiding comprehension, especially for the Russian text of Shostakovich’s work, making this complex concert experience more accessible.

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 オーケストラアンサンブル金沢は1988年に設立されて,2001年から石川県立音楽堂を本拠地として定期演奏会を行っている小規模なオーケストラです。かねてから一度聴いてみたいと思っていたのですが,なかなか機会がありませんでした。今回,いい機会だということで聴きにいくことができました。当日,早朝,家を出て,車で金沢市まで2時間以上かけて行きました。
 会場は,石川県立音楽堂。2001年に開館した金沢市にあるコンサートホールで,オーケストラ・アンサンブル金沢の本拠地です。まず,金沢駅前の特等地にあるということに驚きました。そして,充実した設備であることにも感動しました。
 コンサートホールは1,560席で,クラシック音楽を聴くにはほどよい大きさです。ただし,中に入ると,今となっては少し古く,座席も狭く,期待していたほどではありませんでした。

 この日の1曲目,西村朗の「鳥のヘテロフォニー」は,私が予習していたものよりもずっとダイナミックでした。曲をさらうだけでもたいへんなのに,これを消化して,聴衆に感動を与えることができるというのは,プロだから当然であるとはいえ,すごいものです。
 こうした,いわゆる現代音楽は,どのように聴いたらいいのか,私にはよくわかりません。どういう聴き方をしたらいいのか,というようなことを,何かの機会にわかりやすく解説してほしいものだといつも思います。
 ショスタコーヴィチの交響曲第14番を聴くのは大変です。何せ,歌詞がわかりません。事前に訳を読んではいても,曲を聴きながら把握できるものではありません。テレビ中継でもあれば,歌詞が字幕で出るからそれでも味わえるのですが,テレビ中継でもないし,また,ドイツ語ならともかく,ロシア語なんて,私には無縁の言語です。と思っていたら,ステージに歌詞が字幕で表示されたので,助かりました。以前,NHK交響楽団の定期公演でショスタコービッチの交響曲第13番をやったときには,こうした配慮もなく,まったくもって消化不良に終わったことを思えば,これは助かりました。
 それにしても,ショスタコーヴィチが,最も聴いてほしかったと思われるロシアで,この曲を演奏することが現在可能であるかどうかは知りませんが,おそらく無理でしょう。であるなら,他の国の人に何かを訴えようとしても,ほとんどの人がわからないロシア語では困難なことです。だから,このような曲をロシア語の歌詞で残したということが私には残念です。

 今回の曲目は,このような小規模なオーケストラでなければ実現しないものであり,また,指揮の井上道義さんが言っていたように,このコンサートでこの曲をはじめて聴いたという観客がほとんどで,これで集客ができるというのも,さまざなま要因が重ならないと無理,というものでした。
 とはいえ,曲目が何であれ,引退を間近にした井上道義さんの最後のオーケストラ・アンサンブル金沢との共演というご祝儀のような演奏会だったので,曲を純粋に楽しむ,という感じではなかったのが私には残念でした。また,終演後に井上道義さんがロビーで現れたのですが,こうなると,一部の常連さんのお別れ会のようになってしまっていて,よそ者の私には,それが大きな疎外感となりました。興行的にはこれでいいのでしょうが…。
 また,ここ数年,ほぼすべてのクラシック音楽のコンサートはカーテンコールの写真撮影が許可されています。しかし,石川県立音楽堂の意向なのかオーケストラアンサンブル金沢の意向なのかは知りませんが,ここでは未だそうした配慮もなく,これだけでも,私は,リピートしたくないな,という気になりました。しかし,多くの人はそれを無視して写真を撮っていました。
 また,神奈川フィルハーモニー管弦楽団の演奏会では,カーテンコールの写真撮影可どころか,終演後,ロビーに団員さんが並んでお見送りもしてくれるので,また来たいな,と思います。
 ファンあっての演奏会です。少しは見習ってほしいものです。

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【Summary】
I attended Orchestra Ensemble Kanazawa's concert, conducted by Michiyoshi Inoue in his final appearance before retirement. The program featured Akira Nishimura's Heterophony of Birds and Shostakovich's Symphony No. 14, both profound pieces. Their appreciation of contemporary music has grown, making the experience especially memorable.

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 2024年11月9日,金沢市に行って,オーケストラ・アンサンブル金沢(Orchestra Ensemble Kanazawa)第487回定期公演マイスター・シリーズを聴きました。
 わざわざ金沢まで行ったのは,前々から気になっていたオーケストラ・アンサンブル金沢を聴きたかったこと,指揮が井上道義さんだったこと,そして,曲目でした。
 指揮のオーケストラ・アンサンブル金沢桂冠指揮者の井上道義さんは,2024年12月30日で引退するので,オーケストラ・アンサンブル金沢を指揮するのはこれが最後となります。私は,このところ,井上道義さんの「追っかけ」をしているような感じになっているのですが,これが最後,これが最後,といいながら,ついに,今回こそが最後の演奏会となります。たぶん。
 この日の曲目は,西村朗の「鳥のヘテロフォニー」とお得意のショスタコーヴィチの交響曲第14番でした。ショスタコーヴィチの交響曲第14番では,ソプラノのナデージダ・パヴロヴァ (Nadezhda Pavlova)さんとバスのアレクセイ・ティホミーロフ(Alexey Tikhomirov) さんが共演しました。
 こんな難解なふたつの曲の演奏会。指揮が井上道義さんでなければだれが聴きに行くのだろう? と思ったりしましたが…。

 「鳥のヘテロフォニー」の作曲をした西村朗さんは,これまで,NHK交響楽団の定期公演をNHKFMで生中継していたときにたびたび解説者として登場していた人ですが,昨年2023年9月7日に69歳で亡くなったときはびっくりしました。
 「鳥のヘテロフォニー」は,西村朗さんが1993年にオーケストラ・アンサンブル金沢のコンポーザ・イン・レジデンス時代に作曲した曲です。初演者の指揮は岩城宏之さんで,オーケストラ・アンサンブル金沢では,現代作品としては異例なほどこの曲を再三実演で取り上げていて,レパートリーになっています。「~のヘテロフォニー」というのは,「同一の旋律を複数のパートが少しずつ違ったやり方で同じに進行すること」だそうです。曲は難解ではなく,響きやリズムの多様性を満喫できるものです。   ・・・・・・
 熱帯的で原始的な雰囲気が漂っているこの曲は,不安定な響きではじまり,弦楽器から鳥のさえずりをイメージさせるような音型が,やがて,打楽器に伴って鳥の数が増えていって,野性的に盛り上がってきます。
 気持ちのよいテンポで展開していったのち,混沌とした感じになり,そのあと,静かで透明な響きが続きます。細かい音の動きと音の強弱の対比が激しい部分が続いたあと,エキゾティックな雰囲気になり,最初の鳥のイメージに戻ります。
 同じようなリズムが徐々に変化していくうちに陶酔的な雰囲気になり,次第にエネルギーが蓄えられていったあと,クライマックスでエネルギーを放出するかのように終わります。
  ・・・・・・
 このような解説があるのですが,現代音楽は,聴く側はどういう姿勢で受け入れればいいのだろうと,私はいつも考えます。とはいえ,どうも,私は,このごろ,好みが変化しつつあり,こうしたものを素直に受け入れられるようになってきたのだから,自分でも不思議です。

 ショスタコービッチの交響曲第14番は「死者の歌」(Lyrics for Death)という副題が付けられていますが,これはショスタコーヴィチ自身によるものではなく,レコード録音の際にそのときの解説者が命名したものだそうです。
 作曲のきっかけは、ショスタコーヴィチが1962年にムソルグスキーの「死の歌と踊り」(Songs and Dances of Death)の管弦楽向け編曲を行ったときにさかのぼり,その後,ショスタコーヴィチ自身の健康の悪化から死を意識するようになり,入院中にこの曲のスケッチを完成させました。
 ショスタコービッチは書いています。
  ・・・・・・
 この曲を書いている間,僕は常に何かが僕の身に起こるのではないかと恐れた。この右手が動かなくなるのではないか,急に盲目になるのではないかと。こうした不安は,僕に安らぎを与えることはなかった。
 死ははじまりではなく,本当の終わりであり,その後には何もなく,何もない。私はあなたが目で真実を見なければならないと感じています。死とその力を否定することは役に立たない。否定しようがしまいが,どうせ死んでしまう。死そのものに抗議するのは愚かなことですが,暴力的な死に抗議することはできますし,そうしなければなりません。
 人々が病気や貧困で死ぬ前に死ぬのは悪いことだが,ある人が別の男に殺されたらもっと悪い。
  ・・・・・・
 晩年のショスタコービッチはこのようなことを書きたかったのでしょう。次の交響曲第15番に比べたら,まだ,生きることへの未練と煩悩があります。
 作品は11楽章から構成され,ソプラノとバスの独唱が付いている歌曲集形式です。この11楽章は,例えば,①1楽章から3楽章 ②4楽章から6楽章 ③7楽章から9楽章④10楽章から11楽章,というように,4つの部分の集まりと考えた4楽章の交響曲と考えることができる,という考え方があるそうです。
 マーラーの交響曲「大地の歌」と似ていますが,ショスタコービッチの交響曲第14番「死者の歌」には交響曲第13番「バビヤール」に通じるものがあり救いがありません。しかし,無駄のまったくない楽器編成から奏でられる曲は美しく,浄化された感動を覚えます。

 曲は次のようなものです。
 -スペインの詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカの詩による-
●第1曲(B):深き淵より
 深く沈んだ死者を悼む曲で,グレゴリオ聖歌の「怒りの日」(ディエス・イレ)からはじまります。
  真っ赤な砂に覆われたアンダルシアの道。
   緑のオリーブが茂るコルドバの街。
  そこに百本の十字架を立てよう,彼らの思い出のために。
  百人の恋わずらいたちが 遠の眠りについた。
●第2曲(S):マラゲーニャ
 一転して,激しい興奮と狂乱の曲で「死は酒場を出たり入ったりしている」という日常に隣り合う「死」を歌います。
  死は入って来てそして出て行った,この酒場を。
  黒い馬と悪漢たちが行きかう ギターの深い谷間を。
  塩の匂いが女の血の匂いが浜辺の熱を帯びた月下香の香りに混じる。
  死は相変わらず入ったり出たり 出たり入ったりを続けている,この酒場を。
  ・・
 -フランスの詩人ギョーム・アポリネールの詩による- 
●第3曲(S/B):ローレライ
 ドイツのローレライ伝説に基づく詩です。
  男たちはブロンドの髪の魔女のもとへ押し寄せ,彼女への恋に身を滅ぼした。
  司祭が彼女をよび出し裁こうとしたがあまりの美しさに赦してしまった。
  「話して聞かせよローレライよ。そなたの瞳は宝石の輝き。誰がお前にかような魔法を授けたのか」
  「死なせてください司教様。私の瞳は呪われています。私の瞳を見た男は身を滅ぼします。おお司教様。私の瞳の炎は 恐ろしい呪いの炎です!」
  「ローレライよ,そなたの炎は強力だ。お前は私を魅了してしまいそなたを裁けない」
  「司教様。そう言わないでください。祈ってください。神様の御心で私を死に導いてください。私の恋人は去り,遠い国へと行ってしまい, 私は悲嘆にくれ,茫然としています。心は死んでしまいたいほど痛みます。こんな姿を見て死にたくなるのです。私の恋人はもはやおらず,その日から 私の魂は真っ暗闇で,全ては空虚なのです」
  司教様は3人の騎士を呼び,修道院に連れて行かせた。
  ローレライをすぐに人里離れた修道院へ連れて行け。行くのだ,愚かなローレ,恐ろしい瞳のローレ! お前は尼になり,瞳の炎を暗くするのだ」
  3人の騎士は娘とともに道を進む。娘は無口のいかめしい騎士たちに話しかけた。
  「あの高い岩山の上にちょっと立たせてください。もういちど私の恋人のお城を見たい。 水面に映ったその姿を見たらそのあと私は修道院の壁の中に入りましょう」
   彼女の髪は風にかき乱され瞳は輝く。騎士たちは叫ぶ
  「ローレライよ,戻れ」
  「ライン川の曲り角に舟がやって来て,そこには愛しい人が乗っていて私をよんでいる。魂は軽やかで,波は透明で…」
  そして,彼女はライン川へと落ちて行った。
  今もこの穏やかな流れの中に見る。ラインの水面に反映する瞳と太陽に輝く髪を。
●第4曲(S):自殺
 自殺者の墓には十字架がない…。ロシア語で,最初の「3本のユリ」が「トゥリー・リリー、トゥリー・リリー」と歌いだされます。これは,歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の最終幕に出てくるモチーフを用いています。
  三本のユリ,三本のユリ,十字架のない私のお墓の上の三本のユリ。
  三本のユリ,金粉を冷たい風に吹き払われ,黒い空から降る雨にときおり濡れ,王様の杖のように堂々として美しい。
  一本は私の傷口から生え,陽が当たるとき 血に染まったようになる恐怖のユリ。
  三本のユリ,十字架のない私のお墓の上の三本のユリ。
  三本のユリ,金粉を冷たい風に吹き払われる。
  もう一本は柩の床の上で苦しむ私の心臓から生え柩の床は虫が食い荒らしている。
  もう一本は私の口から生えたその根で私の口を裂く。
  どれもみな私の墓の上にわびしく立っていて,その周りで,空も大地も私の人生のように美しさを呪われている。
  三本のユリ,十字架のない私のお墓の上の三本のユリ。  
●第5曲(S):用心して
 シロフォンで提示される「骸骨の踊り」は死の女神による死への誘惑,引きずり込みを表します。とても印象に残るところで,きわめてショスタコービッチらしい音楽です。
  塹壕で夜の来る前に彼は死んでいく 私のちっぽけな兵士。その疲れた眼は 一日中銃眼の陰から達成の望めない栄光をみつめていた。
  塹壕で夜の来る前に死んでい 私のちっぽけな兵士,私の恋人で弟。
  だからこそ,私は美しくなりたい。
  私の胸を明るい松明にしよう。
  私の大きな瞳で雪に覆われた畑を融かそう。
  そして私の腰には墓帯を巻きつけよう。
  死が避けられないのなら近親相姦と死のために私は美しくなりたい。
  夕焼けがバラのように染まり牛が鳴く。
  そして飛び立った青い鳥を私は見つめる。
  今こそ愛の時,燃えるような熱病の時,今こそ死の時、戻ることのない。
  バラが枯れるように死んでいく私のちっぽけな兵士私の恋人で弟。
●第6曲(S/B):マダム、ご覧なさい!
 第5曲からアタッカで続きます。夫を,恋人を死の女神に奪われた未亡人が歌う,人をおちょくったような不気味な泣き笑いの歌です。
  マダム,ご覧なさい! 何か落とされたようですね。
  ああ,つまらないものよ!
  それは私の心。むしろ,持って行ってちょうだい。捨ててしまいたい。そうしたい いくらでも取り戻せるもののだから。
  だから私は笑うの。笑うの。ハハハハ,ハハハハ。
  だから私は笑うの。笑うの。死神が刈り取った崇高な愛を。
●第7曲(B):サンテ監獄にて
 失望と屈辱。
  牢屋に入れられる前に俺は裸にされた。
  運命の戦いの片隅から 俺は暗闇の中に追い出された。
  さらば,さらば楽しげなロンドよ。さらば,乙女のほほえみよ。
  俺の上には墓がかぶさる。
  俺はここで完全に死に絶えた。違う,俺は違う。今までとは違う。
  俺は今囚人だ。希望の終わりだ。檻の中をまるで熊のように,俺は行ったり来たりする。だが空は見ない方がましだ。
  ここでの俺には空はうれしくない。檻の中をまるで熊のように俺は行ったり来たりする。
  なぜ俺にこんな悲しみをもたらすのだ?
  全能の神よ,教えてくれ。おお憐れみを!涙も出ない目で 俺は仮面のように見える。
  牢獄の屋根の下にはどれだけの不幸な魂がもがいているのか。
  俺から茨の冠を取ってくれ!それが脳にまで突き刺さっているわけではないが。
  1日が終わった。頭上にランプがひとつ闇に包まれながら燃えている。
  ひっそりと静まった。独房の中でふたりきりだ。 俺と俺の理性と。
●第8曲(B):コサック・ザポロージュからコンスタンチノープルのスルタンへの返答
 オスマントルコからの服従の要求に対し「何言ってやんでえ、べらぼうめ!」的な返事をする,やけくそで向こう見ずな反抗です。
  お前はバラバより百倍極悪人だ。
  ベルゼブル(悪魔の首領)に仕えるやつだ。
  この世で一番卑怯なやつ。汚物と泥で育ったやつ。
  お前の集会に俺たちは行かねえぞ。腐った出来物め。
  サロニク(ギリシャ北部の町)のゴミ野郎,鼻が曲がってちぎれるほど,とても言えねえ気色悪い夢で,お前のカアチャンが痙攣して下痢したときにお前が生まれたのさ。
  ポドリア(ウクライナ西部地域)の極道刑吏め。 お前の傷口は膿だらけだ。 馬のぶざまなケツ,ブタの醜いツラして てめえの金を取っとくんだな
  でねえと傷を治す薬が買えねえぜ。
  ・・
  -この交響曲唯一のロシア語のオリジナルの詩-
●第9曲(B):おお、デルヴィーグよ
 帝政ロシアの旧態依然の沈滞に対してナポレオンの遠征で知った西欧流の近代化を求めた貴族出身の将校,インテリたちによる「デカブリストの乱」でシベリア流刑となった友に贈った詩です。
  おおデルヴィーク,デルヴィークよ!
  報酬は何だ, 偉業と詩作に対して?
  天才の喜びとは何だ,そして,どこにあるのだ?
  この悪党や愚か者ばかりの世の中で。
  ユウェナリス(古代ローマの風刺詩人)の厳しい手の恐ろしい鞭が悪党どもに飛び,やつらの顔から血の気を奪う。
  そして,専制暴君は震える。
  おお,デルヴィーク,デルヴィークよ! 迫害がなんだ?
  不滅の命と 雄々しく気高い偉業と優しい歌の響きがあるではないか!
  だから,我らの同盟も 自由,喜び,そして,誇りも滅びはしない!
  そして,楽しいときも苦しいときも,永遠のミューズを讃える同盟は揺らがない!
  ・・
 -ドイツの詩人リルケによる「詩人の死」-
●第10曲(S):詩人の死
 第9曲に続き、この交響曲の頂点を成す曲です。この交響曲冒頭の「ディエス・イレ」のモチーフが再現し、原点に戻って曲の本質に至ります。
  詩人は死んだ。
  彼の顔は蒼ざめて,すべてを拒絶するようで,彼はかつて世界のすべてを知っていたが,その知識は次第に消え, 再び無関心の日に引き戻された。
  ずっと彼は考えられてきた。世界と彼とはすべてがひとつであると
   湖と谷間が,そして,野原が,彼の顔そのものだったから。
  彼の顔と,広々とした空間があった,その空間は手を伸ばしてまとわりつき果物が腐っていく運命であるかのように。
●第11曲(S/B):結び
 「死」は、あっけなくやってきてそれでおしまい、とでもいうように,巨大な交響曲の締めくくりはあっという間にあっけなく終わります。
  死は偉大だ。
  歓喜のときにも それは見つめている。
  最高の人生の瞬間,我々の中に悶え, 我々を待ち焦がれ, 我々の中で涙している。
  ・・・・・・

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 私が神奈川フィルハーモニー管弦楽団のことを知ったのは,コンサートマスターが石田泰尚さんであることからでした。以前,神奈川フィルハーモニー管弦楽団はさまざまな問題をかかえていたようでしたが,現在はとても人気があって,企業努力をしているというか,好きだという人が少なくありません。そこで,今回,聴くことを楽しみにしていました。できれば,この日のコンサートマスターが石田泰尚さんだったらいいなあ,と思っていたので,そうであることを知って,やったー,と思いました。
 今回の会場は横浜みなとみらいホールというところでしたが,はじめて行きました。というより,横浜に久しぶりに行きました。もっと気候のよい時期なら,コンサートのついでに時間をかけて街歩きを楽しむのですが,この時期ではその気もなく,単に演奏会を聴くだけにしました。
 新幹線を新横浜駅で降りましたが,そこからどう行くのかがわかりません。何とかiPhoneの情報で乗り換えながら,みなとみらいにたどり着きました。この日は土曜日だったので,すごい人でうんざりしました。ともかく人の少ないカレー屋さんで昼食をとり,会場に行きました。なんだか,いつも昼食でカレーを食べているようです…。

 みなとみらいホールはすばらしい会場でした。東京やその近郊にみなとみらいホールに限らずすばらしい会場が多くあって,うらやましい限りです。しかし,もし東京に住んでいたら,コンサート三昧で金欠病になってしまうから,気に入ったものだけを聴きに出かける今の状況のほうがいいのかもしれません。
 演奏会では,まず,プレイベントがありました。打楽器奏者の平尾信幸さんが今回で最後で,新しく金井麻里さんが入団したということで,このふたりでの演奏でした。これだけでもお得感がありました。
 そのあとではじまった演奏会もまた,本当にすばらしいものでした。こんなに興奮したコンサートはこれまでにありませんでした。曲によって照明の明るさを変えたり,いろいろと工夫が凝らされていました。
 最後,恒例になったカーテンコールでは,ピアノを弾いた松田華音さんまで引っ張り出してきたり,あげくには,ステージ上で打楽器奏者たちと記念写真を撮ったりと,そのお茶目ぶりが楽しかったです。
 実は,その裏では,井上道義さんのブログに
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 今回神奈川フィルとのコンサートは40年前からの持病の尿路結石を引き金とする諸々の体調不全で風前の灯,でも自分でも意味不明な情熱があり何とか無事終わることが出来た
  ・・・・・・
とあって,私は,この演奏会がキャンセルになるのではないかと心配していたのですが,聴くことができてほっとしました。マエストロは病院からやってきて演奏会が終わってまた病院に戻っていったらしいです。まさに命懸けだったのです。

 すっかり満足して会場を出ると,団員さんたちのお見送りまでありました。
 今回神奈川フィルハーモニー管弦楽団の演奏会に来て,その人気の秘密がわかったような気がしました。神奈川フィルハーモニー管弦楽団の演奏会のチケットはシニア割もあるし,楽しかったなあ,また来たいなあ,と思うものでした。NHK交響楽団もお高く留まっていないで少しは見習ってほしいものです。
 余韻冷めやらぬ中,横浜駅で夕食をとって,新横浜駅から新幹線に乗って帰宅しました。新横浜駅のホームで列車が来るのを待っていると,突然の雷雨。しかも,これまで体験したことがないような豪雨がホームの屋根や反対側に停車した新幹線を叩きました。まるでこの日に聴いた伊福部昭の音楽のようでした。
 この日に乗った新幹線は,行きも帰りもN700Sでした。

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 選曲のいきさつは知りませんが,井上道義さんは,様々なオーケストラとの最後の共演に際して,そのオーケストラにもっともふさわしい曲を当てているような気がします。神奈川フィルハーモニー管弦楽団との最後の共演は,フランスものを2曲と伊福部昭が作曲したものを2曲選びました。

 前半の,だれもがきっとどこかで聞いたとこがあると思われる馴染みのフランスものは,夢見心地になるファンタジーあふれた音楽ですが,こういう曲こそ,どれほど味のある演奏をするか,それとも,単にスコアをさらっているような味も素っ気もないものになるかで,聴く側が曲に入り込めるかどうかが決まるというものです。だから,こういう曲をアマチュアのオーケストラがやってはいけません。
 今回の演奏は,やはりプロというか,まことにすばらしいものでした。
  ・・
●管弦楽のための狂詩曲「スペイン」(España, rapsodie pour orchestre)
 シャブリエ(Alexis-Emmanuel Chabrier)が1883年に作曲した管弦楽曲です。
 シャブリエは作品の数が極めて少なく,演奏されるのはこの狂詩曲と「楽しい行進曲」など若干の作品のみです。この作品はシャブリエがスペインを旅行した際の情熱的な音楽の印象をもとにして作曲されたといわれています。
  ・・
●ドビッシー「夜想曲」(Nocturnes)
 ドビュッシー(Claude Achille Debussy が1897年から1899年にかけて作曲した管弦楽曲です。 
 「雲」「祭」「シレーヌ」の3曲からなる組曲となっています。

 後半は,「ゴジラ」で有名な伊福部昭のふたつの作品です。
 前回書いたように,2021年12月に井上道義さんが指揮をしたNHK交響楽団の公演の曲目は,前半がショスタコーヴィチの交響曲第1番で,後半が松田華音さんがピアノを弾いた伊福部昭の管弦楽のための「リトミカオスティナータ」と「日本狂詩曲」で,この日の後半の曲目がこれと同じものでした。
  ・・
●ピアノと管絃楽のための「リトミカオスティナータ」(Ritmica ostinata per pianoforte ed orchestra)
 伊福部昭が1961年に完成し,1969年に最初の改訂,次いで1971年に改訂した1楽章形式のピアノ協奏曲です。
 「リトミカオスティナータ」とは「執拗に反復する律動」という意味で,五拍子や七拍子といった日本語の韻文の奇数律動の反復を基礎として六音音階による旋律が展開するという楽曲。中国で見た四方の壁全面に仏像がはめ込まれた堂の迫力と感動が創作のヒントとなったといいます。
 かなり高度なピアノの技法が必要であり,体力が必要であるとしろうとの私は思うのですが,これを楽しそうに弾きこなしてしまう松田華音さんがすてきでした。また,いつものように,ソリストと対決するような井上道義さんの指揮がすごい迫力でした。
 この曲は,どこかしこに「ゴジラ」が潜んでるみたいで,それが突然現れてくるのです。
 松田華音さん,華音と書いて「かのん」とはなんとすばらしい名前でしょう。それにしても,先日聴いたヴァイオリンの服部百音さんもそうですけれど,生まれたときから親の期待を一身に受けて音楽家をめざしたような名前ですが,その重責たるやいかに…。
  ・・
●日本狂詩曲(Japanese Rhapsody)
 伊福部昭はじめての管弦楽曲で,1935年に完成した2楽章形式の曲です。狂詩曲というのは自由奔放な形式で民族的または叙事的な内容を表現したものです。演奏時間は約15分と短く,かつ,ノリのよい曲で,ピアノと管絃楽のための「リトミカオスティナータ」の酔い覚ましとして,また華々しいフィナーレには最適な曲でした。ビオラのソロがなまめかしく魅力的でした。
 外山雄三が1960年に作曲した「管弦楽のラプソディ」という曲がありますが,日本らしいという点でよく似ています。「管弦楽のラプソディ」のほうが作られたのは後ですが…。
 私は若いころは,このような曲がクラシック音楽といえるのかな,と思ったのですが,若気の至りでした。スメタナの「わが祖国」やシベリウスの「フィンランディア」などと同様,日本人の作曲するものは,こうした日本らしさがあるべきだと,今は思います。

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Buck Moon 2024.

55年前人類が月を歩いた日です。
写真は7月20日の月とスミソニアン航空宇宙博物館に展示されている月着陸船です。
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 2024年7月20日。神奈川フィルハーモニー管弦楽団みなとみらいシリーズ第397回を聴きました。
 この演奏会は,井上道義さんと神奈川フィルハーモニー管弦楽団との最後の「狂」演で,曲目は, シャブリエの狂詩曲「スペイン」,ドビュッシーの夜想曲,松田華音さんがピアノを演奏する伊福部昭のピアノとオーケストラのための「リトミカオスティナータ」,そして,伊福部昭の「日本狂詩曲」でした。
 この演奏会に出かけた理由は,指揮が井上道義さんということと,一度聴いてみたかった神奈川フィルハーモニー管弦楽団ということと,曲目に以前NHK交響楽団の演奏会で取り上げられたのと同じ伊福部昭のピアノとオーケストラのための「リトミカオスティナータ」と「日本狂詩曲」だった,ということでした。
 演奏会のことは次回書くとして,今年2024年12月30日で引退する井上道義さんですが,私は,この先,井上道義さんの指揮をする演奏会に行く予定はなく,これが私にとっても最後ということで,今日は,これまでに聴いたさまざまな演奏会についてまとめておくことにします。

 1986年(昭和61年)に放送されたNHK教育テレビ「NHK趣味講座・第九をうたおう」という番組の担当講師が井上道義さんで,私はテキストを購入して興味深く見ました。それまで井上道義さんのことは知っていましたが名前くらいのものでした。
 「第九をうたおう」というのは,もちろん,ベートーヴェンの交響曲第9番の第4楽章のことで,私も多くの人と同じように,一度は第九を歌ってみたいと思ってこの番組を見ました。しかし,この番組で,第九を歌うというのは並大抵のことではないということがわかって,それ以降,歌ってみたいという願望は大それたことだと悟り,その夢をあきらめました。だから,番組がアダになった,ともいえるのですが,決してそうではなく,クラシック音楽のすばらしさと奥深さ,井上道義という指揮者の偉大さ,そして,こうした高貴なものに私のようないい加減なしろうとは足を踏み入れてはいけないということがわかったというだけでも,見る価値がありました。

 その後,井上道義という指揮者のことは忘れていたのですが,すばらしいマエストロであると私が意識したのは,2020年12月5日に行われたNHK交響楽団 12⽉公演,指揮井上道義さん,ピアノ松田華音さんで,伊福部昭のピアノとオーケストラのための「リトミカオスティナータ」を演奏したものを翌年3月7日にNHK Eテレクラシック音楽館で放送されたものを見てからでした。これは,今回私が聴いたものと同じ曲目です。
 これ以降,井上道義という指揮者にすっかりはまってしまい,何とかライブで聴いてみたいと思っていたのですが,2022年NHK交響楽団の定期公演11月のAプログラムでやっとそれが実現しました。そして,それを機会に,NHK交響楽団の定期公演を越えて,井上道義さんの指揮する様々な演奏会を聴くために,西に東に通いはじめたのです。
 これまで私が聴いた演奏会は,そのどれもが話題となるすばらしいものでした。

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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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 ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番のあとに休憩がありました。
 休憩後,第2番のまえに演奏されたロッシーニの歌劇「ブルスキーノ氏」序曲が,疲れ果てた私には癒しとなりました。第2番と楽器編成が似ているという理由もあったのでしょうが,この選曲は絶妙でした。
 ロッシーニが作曲した1幕からなるオペラ・ファルサ(Opera Farsa=笑劇)「ブルスキーノ氏,または冒険する息子」(Il signor Bruschino, ossia Il figlio per azzardo)は,現在は,序曲のみが多く演奏されています。序曲は序奏部を持たない小規模なもので,弦の弓で譜面台を叩くという奏法がコミカルなものでした。なお,この演奏会は,簡単なパンフレットが配られただけで,曲の紹介がかかれた小冊子はありませんでした。

 さて,ほっと一息ついたあとに,ショスタコービッチのヴァイオリン協奏曲第2番がはじまりました。服部百音さんの衣装が黒色に変わりました。
  ・・・・・・
 3楽章からなるヴァイオリン協奏曲第2番は,1966年から67年にかけて作曲されたもので,60歳になった晩年のショスタコービッチらしい,思索的,哲学的内容をいっそう深めた作品です。
 室内楽的な明確な輪郭があり,全合奏の部分は極めて少ないのが特徴です。また,ヴァイオリンの独奏パートはまとまって休むことがほとんどなく,各楽章の中間部にそれぞれカデンツァを置いています。
   ・・・・・・
 第2番は,第1番のような派手さがないし,演奏される機会もほとんどなく,私も,これまで演奏会で聴いたことはありませんでした。また,ネット上にも詳しい解説が見当たりませんでした。そこで,今回,私は,何度も聴いて,予習をしました。
 第2番は,はじめて聴いたときには,聴き手を引き込む迫力がありません。しかし,聴きこんでみると,かなり魅力的な作品でした。
 陰鬱な雰囲気ではじまるオーケストラにソロ・ヴァイオリンが落ち着かない主題を乗せていく第1楽章の主調は嬰ハ短調で,これは,ヴァイオリンの曲にはあまり適さない調性ということです。暗く曖昧な第1主題と軽妙な第2主題の音色の変化が対比し,展開部からカデンツァに現れる重音ののち,第2楽章へと続きます。このあたりが,ショスタコーヴィッチ好きにはたまらなく魅力的に感じられるところです。薄暗がりの中に真っ赤な糸がうねりながら光って見えるような第2楽章のヴァイオリンのソロによる主題の提示は,暗い色調の曲に乗る艶っぽい音色が特徴で,唐突に過激なカデンツァがはじまり,朗々とホルンのソロが響きますそして,アタッカで演奏される第3楽章は,諧謔的で光と影がギラギラと入り乱れるような曲想で,かなり長めのカデンツァがあり,終盤は,打楽器とヴァイオリンが掛け合う展開になります。
 この曲は,幾多の試練を乗り越えた晩年のショスタコービッチの,ロシアの狂気に戦い疲れたむなしさとあきらめが表現されているように,私は感じます。「第1番に比べ第2番はそれなりにうまくやってはいるが,どうしても訴えかける力が弱いような気がするのである」という,ある評論を読みましたが,この曲は,人に訴えようと思ってはいないのだ,と私には感じます。ショスタコーヴィチ自身ための,ロシアへの決別であり,多くの犠牲者への鎮魂の曲なのです。

 この第2番の,第1楽章と第3楽章のカデンツァに現れる,ロシアの狂気をあざ笑うかのようなお道化たメロディは,どこかで聴いたことがあるのになあ? 何だったかなあ? と非常に気になって,ショスタコーヴィッチのさまざまな曲を聴いて,やっと探し当てました。それは,1966年に作曲されたチェロ協奏曲第2番のメロディでした。
 チェロ協奏曲第2番とヴァイオリン協奏曲第2番を何度も聴き比べてみると,このふたつの協奏曲は,まさに,兄弟のようなものでした。ちなみに,ヴァイオリン協奏曲第2番の第1楽章の最後とチェロ協奏曲第2番,そして,交響曲第15番のフィナーレは,ショスタコーヴィチお得意の,それぞれ,同じような木管楽器と打楽器との掛け合いの妙で,これが,私にはたまらなくいい。
  ・・
 と,聴きながら想いを巡らせていると,第3楽章の後半部で「事件」(ハプニング)が起きました。服部百音さんが酷使していたヴァイオリンがついに音を上げて,弦が切れてしまったようでした。突如,コンサートマスターのマロさんのヴァイオリンと交換して,続きを弾きはじめたところで,井上道義さんが演奏を止めました。そして,少し戻して,演奏を再開し,無事に何事もなかったように終了しました。ヴァイオリンが変わって,音色が変化したのが,私にはとてもおもしろかったです。
 ちなみに,服部百音さんの使用楽器は,日本ヴァイオリンより特別貸与の1740年製グァルネリ・デル・ジェス(Guarneri del Gesù)。マロさんの使用楽器は(株)ミュージック・プラザより貸与されている1727年製ストラディバリウス(Stradivarius)です。
 私は,一度,NHK交響楽団の定期公演で,ヴァイオリン奏者の弦が切れて,ヴァイオリンを後ろへ後ろへと回し交換する姿を見たことがあるのですが,今回は,ソリストのヴァイオリンの弦が切れる,というもので,これははじめて見ました。ただし,ピアノの弦が切れた,というのは見たことがあります。こうした「事件」と,その的確で冷静な対処を見ると,いかにプロの演奏家がすごいのか,ということを再発見します。

 井上道義さんは,ブログに次のように書いています。
  ・・・・・・
 何と! 最後の最後にあり得ないタイミングで弦が切れ, コンサートマスターのマロさんの楽器を一瞬のうちに手渡され,彼の楽器の素晴らしい音さえ一瞬で引き出し,よい意味で「忘れられない事件」として,2,700人のお客さんの記憶に残すことになったのです。
 道義は,あの時,無理やり続けるかやり直すかという一瞬の判断の分け目で後者を取りましたが,それは,モネが「何かあったらやり直すから」と宣言していたせいでもありました。
 彼女との共演では,以前も肩当てが落ちたこと1回,弦が切れたこと1回と,いつも何かが起こる。
  ・・・・・・
 終了後,服部百音さんは,燃えきれていないような表情を見せて,井上道義さんがそれを慰めるような姿が見えました。しかし,大観衆の拍手で,すべてが救われました。
 今回のコンサートで,人生の仕事のひとつをやり終えることになる,というようなことをXに書いていた服部百音さんでしたが,あまりに完璧にやり終えて気が抜けてしまうよりも,こうした「事件」があったことで不完全燃焼となり,より上を目指そうという意欲が沸き起こったのではないかな,と私は思いました。
 すばらしい演奏会に立ち会えて,大満足でした。

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 ずいぶん前のことなので,チケットを入手したときのことは忘れたのですが,私の席は,前列2列目,そこまではよかったのですが,ステージに向かって左から3番目,つまり端っこでした。こりゃ最悪だ,と思ったのですが,考えてみれば,カーテンコールのとき,一番近くで見ることができるではないか,ということで,思い直しました。
 大阪フェスティバルホールはすばらしいところですが,オーケストラのコンサートではちょっと広すぎます。
  ・・
 この日の前日2024年6月29日に,サントリーホールで同じ演奏会がありました。私が大阪のフェスティバルホールで聴いたのはその翌日となりますが,これが,正真正銘,井上道義さんのNHK交響楽団を指揮する最後となるわけです。NHK交響楽団のコンサートマスターはマロさん。曲目は,前回書いたように,ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番と第2番。この2曲を挟んで,ロッシーニの歌劇「ブルスキーノ氏」序曲でした。

  ・・・・・・
 41歳のショスタコービッチが,1947年から1948年にかけて作曲された4楽章からなるヴァイオリン協奏曲第1番は,12音技法を使うなどの前衛的な書法により1948年2月に共産党による作曲家批判を受けたため,発表を控えました。その後,スターリン死後の雪解けの雰囲気の中,交響曲第10番の初演が成功し,ジダーノフ批判が一段落したと考えられた1955年に発表されました。
  ・・・・・・
 コンサートがはじまりました。
 服部百音さんは,あざやかなブルーの衣装で現れました。ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番は,ショスタコーヴィチの傑作のひとつであり,ヴァイオリン協奏曲の傑作のひとつです。私も好きな曲です。しかし,この曲を聴いていると,貴族趣味のベートヴェンやブラームスの優雅なヴァイオリン協奏曲とは全く異質の,これはまさに現在行われている戦争そのものだと感じられます。
 それにしても,この曲,悲しすぎます。現在のロシアの狂気によって失われた多くの犠牲者に思いを巡らせます。

 今回の演奏を聴いていると,服部百音さんの演奏はまさに命懸け。これから第3楽章のカデンツァが待っているというのに,すでに第1楽章から,これ以上はないというほどの精魂込めたもので,これで,次の第2番まで体力が保てるのか,それ以上に,楽器がもつのか,と思えるほどでした。弓の糸がひっきりなしに切れました。
 これだけ激しい演奏はこれまで聴いたことがありません。これは,芸術というよりも,まさに戦いでした。
 ヴァイオリン協奏曲第1番演奏が終わったとき,演奏者以上に,聴いていた私が疲れ果てました。

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 グスタフ・マーラ―の交響曲第3番は,演奏時間が約100分もあり,当時,世界最長の交響曲といわれました。私がこの曲をはじめて知ったときは,確か「夏の朝の夢」といった表題があったようですが,現在は聞きません。これだけ長いのに,もともとはもう1楽章あって,割愛された楽章は次の交響曲第4番の第4楽章となったそうです。
 はじめに第2楽章から第6楽章までが作曲されて,最後に第1楽章が書き上げられたようです。

 この第1楽章は,高貴な雰囲気でもなく,特に美しいわけでもなく,私は,ちょっと長すぎるのでは,と思います。表現は悪いのですが「だらだらと」続いてしまうので,ちょっとうんざりします。そして,これだけ長いと,ぬるい温泉につかりすぎた感じになってしまい,それを冷ますのにずいぶんと手間がかかるのです。逆にいえば,先に作曲された第2楽章から第6楽章まで,というか,もともとは第7楽章までの前座を担うには,これだけの長さが必要になってしまったのかもしれません。
 井上道義さんは,第1楽章だけでお疲れになって,この楽章が終了したところで,座り込んでしまい,最後まで演奏できるのかな? と私は心配になりました。
  ・・
 口に水を含みなんとか立ち上がったマエストロが,だれかが思わず拍手をしたのを制して,静かに第2楽章がはじまりました。
 交響曲第3番は,第4楽章と第6楽章が聴かせどころだと私は思うのですが,第4楽章をはじめの見せ場にするには,第2楽章と第3楽章が必要なのでしょう。どちらかなくてもいいかな,と考えても,第2楽章の次に第4楽章があったら変だし,第2楽章を省略して第3楽章では,やはり,うまくないです。先に書いたように,長大な第1楽章の熱さましをするには,第2楽章と第3楽章が必要になってしまうのです。
 いずれにしても,マーラーは,このあたり,音楽をどこにもって行けばいいのか迷いさまよっている感じがして,この交響曲で一体何がいいたいのかな,何を表現したかったかな,という疑問が,私には起こります。

 しかし,そんな疑問は第4楽章で吹き飛びます。交響曲第3番は,第4楽章からが魅力的です。ここでは
  ・・・・・・
 O Mensch! Gib Acht!
 Was spricht die tiefe Mitternacht?
 „Ich schlief, ich schlief –,
 Aus tiefem Traum bin ich erwacht: –
 Die Welt ist tief,
 Und tiefer als der Tag gedacht.
 Tief ist ihr Weh –,
 Lust – tiefer noch als Herzeleid:
 Weh spricht: Vergeh!
 Doch alle Lust will Ewigkeit –,
 – will tiefe, tiefe Ewigkeit!“
  ・・
 おお人間よ! 注意して聴け!
 深い真夜中は何を語っているのか?
 「私は眠っていた
 深い夢から私は目覚めた
 世界は深い
 昼間が思っていたよりも深い
 世界の苦悩は深い
 快楽-それは心の苦悩よりもさらに深い
 苦悩は言った。滅びよ!と
 だが,すべての快楽は永遠を欲する
 深い永遠を欲するのだ!」
  ・・・・・・
と,アルトが歌うのですが,これは,ニーチェ(Friedrich Nietzsche)の「ツァラトゥストラはこう語った」(Also sprach Zarathustra)の第4部第19章「酔歌」の第12節「ツァラトゥストラの輪唱」から採られたものです。
 これを歌った林眞暎さんが本当にすばらしかった!

 そして,第5楽章ですが,ここでは一転して,児童合唱が鐘の音を模した「ビム・バム」を繰り返し,アルトと女声合唱が
  ・・・・・・
 Es sungen drei Engel einen süßen Gesang,
 Mit Freuden es selig in dem Himmel klang,
 Sie jauchzten fröhlich auch dabei,
 Daß Petrus sei von Sünden frei.
  ・・
 3人の天使が美しい歌をうたい
 その声は幸福に満ちて天上に響き渡り
 天使たちは愉しげに歓喜して叫んだ
 ペテロの罪は晴れました!
  ・・・・・・
と歌うという,ユニークなものです。この歌詞は,交響曲第4番につながっていきます。
 このように,交響曲第3番は,交響曲第2番で「復活」しちゃったのを第4楽章で終結させて,第5楽章で交響曲第4番で天国に昇天させるための橋渡しとしているのでしょう。そのために子供たちと女性の声が必要なのです。男性の声があると,天国よりも地獄,ショスタコービッチの「バビ・ヤール」になってしまいます。

 いよいよ,最後の第6楽章。
 交響曲第3番は,この第6楽章ですべてが救われます。Langsam. Ruhevoll. Empfunden. (ゆるやかに安らぎに満ちて感情を込めて)とありますが,実際は「アダージョ」。
 この楽章の美しさと神々しさは,筆舌に尽くしがたいものです。そして,マーラーの音楽の数々のすばらしい「アダージョ」のなかでも,第3番の第6楽章は癒しの「アダージョ」であり,真骨頂です。井上道義さんは,こうしたメロディアスな楽曲を指揮すると,本当にいい。

 今回はじめての,すみだトリフォニーホールと新日本フィルハーモニー交響楽団でした。外に出ると,スカイツリーが迫ってきます。このホールは,規模的にもホールの形状もウィーンの楽友協会に似ていて,同じような響きがしました。ただし,それがホールのせいなのか,オーケストラのせいなのか,私の席のせいなのか,専門家でないのでわかりませんが,今回の演奏では,弦と管のバランスがちょっと悪かったです。というか,管が昭和時代のオーケストラのようでした。私は,管をもう少し抑えたほうがいいように感じました。
 何はともあれ,美しかった第6楽章で,長い長い交響曲のすべてが報いられました。そして,いつものように,今回もまた,井上道義さんのスタンディングオベーションがいつまでもいつまでも続きました。

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 名古屋フィルハーモニー交響楽団とのブルックナーの興奮も冷めやらぬ2024年3月9日,今度は,すみだ平和祈念音楽祭2024として,すみだトリフォニーホール大ホールで,アルトの林眞暎(まえ)さんを迎えて,井上道義さんが新日本フィルハーモニー交響楽団を指揮する,マーラーの交響曲第3番を聴いてきました。林眞暎さんは,2023年11月18日に,同じく井上道義さんが指揮をした読売日本交響楽団の演奏会でマーラーの交響曲第2番「復活」ですばらしい歌声を聴かせた人です。
 私は,新日本フィルハーモニー交響楽団も,すみだトリフォニーホールもはじめてでした。このような演奏会がなければ,そのような機会はなかったことでしょう。墨田区というととても遠い印象ですが,すみだトリフォニーホールはJR錦糸町にあって,東京駅からほんのわずかな距離で,私がよく行くNHKホールのある渋谷区とはまったく異なる,下町情溢れる場所でした。また,新日本フィルハーモニー交響楽団は,1972年に,小澤征爾さんと山本直純さんの掛け声の下,楽員による自主運営のオーケストラとして創立したもので,ここでもまた,小澤征爾さんの偉業がひとつ,世に残りました。私は,そのころのいきさつをよく知っています。そうした経緯もあって,当時,山本直純さんが司会をする「オーケストラがやってきた」というクラシック音楽啓蒙のすぐれた番組があって,新日本フィルハーモニー交響楽団が出演していたのですが,このごろは,テレビでは見る機会もめっきりなくなりました。

 今回の曲目であるマーラーの交響曲第3番,私はよく聴くのですが,生演奏を聴いたのは,どうやらはじめてのことでした。この交響曲は,第6楽章まであり,というか,もともとは第7楽章まで構想されていたということですが,第1楽章だけでも30分と,通常の交響曲ほどの長さがあるから,全体はものすごく長く,しかも,途中に女性のソロがあり,その後で合唱が入りというように,この時期のマーラーがやりたかったことを全部入れ込んだ,そんな感じがする大曲です。しかも,第1楽章,そして,急にけだるくなる,でも,優美な第2楽章,第3楽章,そして,アルトが歌う第4楽章を,子供たちがステージ上で何もせず座り続けるのも大変で,一体どうやって演出するのか? という問題もあり,演奏会で実演するのは,大変な曲に思っていました。
 しかし,私には,その大きさとは反対に,地味で,というか,軽く,第2番「復活」の思い入れのある深いテーマの交響曲や,天国の快楽を愉快に奏でる第4番の間にあって,その存在感が希薄なのです。交響曲第2番で,「蘇らせてしまった」マーラーが,このあと,一体何を奏でたいのだろうか? と聴きながら思ってしまうわけです。第2番を彷彿とさせる第4楽章が異質ですが,全体として,この曲は,次に何がくるか,その展開が予測でき,しかも,予測通りに展開するので,気分がよく,聴いていてさわやかで疲れないのです。

 今回は,第3楽章の終わりのところで,林眞暎さんと子供たちが音もなくステージに姿を現すという粋な演出で,一体どうやって演出するのか? という私の謎は解けました。
 感想は次回書きますが,私が最も印象に残ったのは,最終楽章である第6楽章の美しかったこと。この曲を作曲のは1895年から1896年なので,マーラーが35歳のときと,まだ若いのですが,私は,この楽章が,交響曲第5番の有名な第4楽章アダージェットや最後の完成作となった交響曲第9番の第4楽章につながるものだと思いました。静謐感に満ちた美しい楽章こそ,マーラーの,最も優れたものだと,私は,いつも思います。そして,引き込まれてしまうのです。

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 ブルックナーの交響曲は,マーラーの交響曲に比べれば,形式は古典的なので,わかりやすいです。しかし,それぞれの楽章がかなり複雑で,つねに煮え切らず,だらだらとしていて,次にどんなメロディーがくるのか予測不能なところがあります。まるで,ぐずぐずしているモテない男のようで,女性にブルックナーが苦手,という人が多いのも納得がいきます。
 特に,第5番はそうした煮え切らなさが顕著です。
 私が,これまで第5番をほとんど聴かなかったのもそんな理由からでした。しかし,今回,はじめてまともに聴いてみて,こりゃすごい,ということがやっとわかりました。

 第4番は自然の中を彷徨しているような感じがするのですが,第5番は古びた荘厳な教会を思わせます。奥まったところは暗く,不気味です。
 マエストロ井上道義は,この重厚な交響曲の第1楽章を,ゆっくりめのテンポでありながら重くならず,指揮をしていきました。第2楽章が緩徐楽章で,第3楽章がスケルツオというのは,ブルックナーの第7番までの流儀で,第8番と第9番は,ベートーヴェンの第9番と同じように逆になっています。
 この第5番の緩徐楽章の美しかったこと! まさに,井上道義さんが名フィルとの決別を惜しむかのように聴こえました。そして,第3楽章は,スケルツオとはいいながら,これはメヌエットでもあり,井上道義さんお得意の踊る指揮,ダンスが見られました。
 第1楽章と第4楽章は,同じようにはじまります。まず,これが驚きです。そして,第4楽章は,第1楽章,第2楽章,第3楽章の旋律が出てきてはそれが否定されながら,盛り上がっていくので,伏線回収,ベートーヴェンの交響曲第9番をほうふつとさせます。しかし,これまでの楽章を否定したところで,だから,歓喜の旋律が出てくるのかと,期待しても,何も起きないのです。これこそが,煮え切らないブルックナーなのです。
 しかし,何も起きずとも,これまでの旋律が複雑に絡み合いながら巨大な建築物ができ上って行くのです。そんな第4楽章の盛り上がりが見事でした。

 マエストロ井上道義は第5番をはじめて指揮をしたということなので,演奏し慣れた曲のような,力の入れ方や聴かせどころのツボはわかっていないと思うのですが,それがいい効果を生んでいました。曲の最初から最後まで緻密な演奏だったのです。
 私は,来週は東京で,マエストロ井上道義のマーラーの第3番を聴くことになるのですが,こちらは指揮し慣れたものです。この対比が,いまから楽しみです。

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 2024年3月2日,豊田市コンサートホールで井上道義さんが指揮する名古屋フィルハーモニー交響楽団の特別演奏会が行われたので聴いてきました。これは,井上道義さんが名古屋フィルハーモニー交響楽団を指揮するラスト・コンサートで,曲目は, モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」序曲とブルックナーの交響曲第5番でした。なお,「ドン・ジョヴァンニ」序曲は,豊田市ジュニアオーケストラとの合同演奏でした。
 このところ,井上道義さんの追っかけをやっているような感じになっていて,つい先日は東京のNHKホールでショスタコービッチの「バビ・ヤール」を聴いたばかりですが,今回はブルックナーです。演奏会のチケットは発売早々に手に入れたのですが,満員札止めとなっていました。私はこの日をとても楽しみにしていました。
 ブルックナーの交響曲は,ブルックナー指揮者という名前で語られるように,齢を重ねたマエストロに似合います。これまでにも,多くのすばらしい歴史的な演奏がありました。しかし,井上道義さんは,特にブルックナー指揮者という感じではなく,多くの作曲家の作品を取り上げています。そんなマエストロが,果たして,ブルックナーをいかように? と興味がありました。

  ・・・・・・
 ブルックナーの交響曲の中で,第5番は第8番と並んで規模の大きなものです。対位法の技法が活用されていて,音の横の流れを多層的に積み重ねて,壮大な音の大伽藍を築き上げていることに特徴があります。
 第5番は,第4番を完成させた翌年,ブルックナー51歳の1875年に作曲に取りかかり,紆余曲折ののち,1878年に完成しました。しかし,初演の機会に恵まれず,交響曲第8番完成後の1894年になって,ようやく初演されました。すでに老齢であったブルックナーは立ち会うことができませんでした。そして,ブルックナーが亡くなったのは,その2年後のことでした。
  ・・・・・・
という解説が載っています。

 私は,ブルックナーの交響曲の中では,第4番を最も好んでいて,第5番を聴くことはまれでした。ブルックナーの他の交響曲とは少し趣が異なっているなあ,と思っていたくらいのものでしたが,実は,これまで,根を詰めて聴いたことがないのです。昨年10月,NHK交響楽団の定期公演で,マエストロ・ブロムシュテッドがこのブルックナー交響曲第5番を取り上げるということだったので,そのときに勉強しようと思っていたのですが,演奏会は中止となってしまい,その機会を逸していました。
 さらに実は,何と,井上道義さんがブルックナーの交響曲第5番を指揮したのは,これがはじめてだったという話でした。本当かな? 引退を前にして,やりたいことはみんなやる,という感じでしょうか。
 そんなわけで,私には,とても刺激的な演奏会でした。
 感想は,次回。

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 2024年2月3日のNHK交響楽団第2004回定期公演Aプログラム,曲目はヨハン・シュトラウスII世のポルカ「クラップフェンの森で」,ショスタコーヴィチの舞台管弦楽のための組曲第1番-行進曲」「リリック・ワルツ」「小さなポルカ」「ワルツ第2番」,交響曲第13番「バビ・ヤール」(Babi Yar)でした。
 指揮は井上道義さん,歌はバスのアレクセイ・ティホミーロフ(Alexey Tikhomirov)さん,そして,オルフェイ・ドレンガル(Orphei Drängar)男声合唱団でした。今回が,2024年末で引退を表明している井上道義さんのNHK交響楽団との定期公演出演の最後となります。
 今回の定期公演の目玉はなんといっても,井上道義さんお得意のショスタコーヴィチから,交響曲第13番「バビ・ヤール」です。私は,演奏会では,はじめて聴きました。
 ショスタコービッチには15曲の交響曲があります。第2番「十月革命に捧げる」,第3番「メーデー」,第11番「1905年」,第12番「1917年」は聴いたことがなく,また,聴きたいとも思いませんが,それ以外の11曲は聴きごたえがあります。特に,私は交響曲第15番が大好きなので,ショスタコービッチ独特の響きは琴線に触れ,歌詞がわからずとも大丈夫です。それに,交響曲第13番「バビ・ヤール」は5楽章形式でわかりやすく,楽しめます。
  ・・
 それにしても,今年度のNHK交響楽団定期公演Aプログラムは,楽しみにしていた指揮者ヘルベルト・ブロムシュテッドさんとウラディーミル・フェドセーエフさんが来日できないというように受難続きであったことと,マーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」をはじめとして,なじみの薄い過酷な曲が続きます。私には,定期会員でなければ,チケットを買うこともないような曲目ばかりで,こんな機会でもなければ,聴くこともないから,それはそれで是としましょう。
 せっかくなので,今回は改めて勉強して,何度も録音を聴いてから出かけました。

 交響曲第13番「バビ・ヤール」は,エフゲニー・エフトゥシェンコ( Yevgeny Yevtushenko)の詩によるバス独唱とバス合唱つきの5つの楽章からなっていて,第1楽章の標題である「バビ・ヤール」をこの交響曲の通称とします。歌詞はロシア語だし,なじみの薄い曲なので,翻訳を見なければさっぱりわかりません。
  ・・・・・・
●第1楽章「バビ・ヤール」
 「バビ・ヤール」に墓碑銘はない」(Nad Babim Yarom pamyatnikov nyet)という暗くおどろおどろしい独白からはじまり,ユダヤ人の迫害や恐怖の歴史を歌い,反ユダヤ主義をナチス・ドイツに絡めて非難し,弔いの鐘が鳴り続けます。
●第2楽章「ユーモア」
 「王様や権力者たちはすべてを支配したいのだろうけれどユーモアだけは支配出来ない」(Vlastiteli vsei zemli, Komandovali paradami, No yumorom, no yumorom ne mogli)と歌います。ショスタコービッチが1942年に作曲した「イギリスの詩人による6つの歌曲」(6 Romances)の中の「処刑台の上で踊り出すマクファーソン」(Makferson pered kazn’ju)のダンスが使われています。
●第3楽章「商店で」
 「レジの列に立ちっぱなしで体が冷える。女たちはすべてに耐えてきた!」(Zyabnu, dolgo v kassu stoya, Vsyo oni perenosili)と、ロシア名物の行列と女性の忍耐強さを歌います。
●第4楽章「恐怖」
 「ロシアで恐怖が消えてゆく」(Umirayut v Rossii strakhi)と歌います。「密告の恐怖」や「外国人と話す恐怖」が登場します。
●第5楽章「出世」
 「ガリレオは常識外れだ。だが,時の流れが証してみせた。常識外れこそがほんとうは賢い」(Shto nerazumen Galilei, No, kak pokazyvayet vremya, kto nerazumnei, tot umnei)と歌います。
 力なく微笑むような不思議な脱力感のあるコーダで曲は消えていきます。チェロ協奏曲第2番,交響曲第15番と共通するショスタコービッチお得意のフィナーレです。
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 交響曲第13番「バビ・ヤール」は,舞台中央にバスがひとり,その背後に男だけの大合唱がユニゾンで,「ユダヤ人」とか「虐殺」を連呼し,ロシアにおける「恐怖」や「不条理」や「死後の出世」を歌うのです。

 ベートーヴェンの交響曲第9番で「人類は皆兄弟」(Alle Menschen werden Brüder)と歌うのも,マーラーの交響曲「大地の歌」で「春になれば花は咲き新たな緑は萌えてくる,永遠に…永遠に…」(Die liebe Erde allüberall Blüht auf im Lenz Ewig... ewig...)と歌うのも,そして,ショスタコーヴィッチの交響曲「バビ・ヤール」で「バビ・ヤールに墓碑銘はない」と歌うのも,創造主が何かの間違いで地球上に作ってしまった愚かな人間が,その英知とやらを振り絞って,かなえられない願望や,あきらめや,そして,懺悔などを音楽で表わしているのです。そして,それらが受け入れられ人々に感銘を与えるのは,人間の性(さが)と自分の力ではどうしようもない現在の世界情勢を反映しているからです。
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 今回の演奏会は,満員の観客のそのほとんどが知らないロシア語で語られる歌を約1時間延々と聴かされて,それでも,女性の声が聞こえるのなら救いがあるけれど,バスと男性だけの大合唱では,まったく救いがない曲だ,と思いました。
 私は,ふと我にかえったとき,狂気の中にいるような錯覚を覚えました。そして,どんなに演奏がすばらしくとも,いや,すばらしければすばらしいほど,これは音楽をはるかに超えて,人を大虐殺する人間の恐ろしさとそうした社会に生きなけらばならない恐怖を感じて,切なくなりました。

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 2023年5月12日,地元名古屋の名古屋フィルハーモニー交響楽団第512回定期演奏会を愛知県芸術劇場コンサートホールで聴いてきました。最高に楽しく,最高に難解で,最高に疲れたコンサートでした。
 名古屋フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会に行くのは数年に1度のことで,定期会員になろうと考えたこともあるのですが,NHK交響楽団の定期公演に比べて,私にはプログラムが凝っているように感じてちょっと敷居が高く,いつも見送っていて,時折,とても魅力的な曲目や指揮者,独奏者のときだけ出かけています。数年前には,私の好きなショスタコービッチの交響曲第15番がプログラムにあったので期待したのですが,コロナ禍で中止になってしまいました。
 井上道義さんが指揮をする今回の演奏会の曲目は,バルトークのルーマニア舞曲Sz.47a BB 61, バルトークのヴァイオリン協奏曲第2番 Sz.112 BB 117,クセナキスの「ノモス・ガンマ」(Nomos Gamma),ラヴェルの「ボレロ」でした。
 今回は「継承されざる個性」というテーマだったのですが,私は,ヴァイオリン協奏曲第2番と「ボレロ」以外はまったく知らず,なんじゃこの曲目たちは,という感じだったのですが,その道の人たちには,有名,というか,井上道義さんは,これらの曲を演奏会でとりあげたことがこれまでにも何度もあるという,いわば,十八番であり,また,井上道義さんの指揮に限らず,「ノモス・ガンマ」「ボレロ」と続く演奏会も行われているようです。

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 「継承」が通季テーマなのに,誰も継承できない唯一無二の個性を発揮したプログラムを組みます。井上をリスペクトする服部百音とのバルトーク,スコア指定通りに円形配置で演奏するクセナキス,そしてそのままの配置での「ボレロ」。コンサートが歴史的事件となります!
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 「ノモス・ガンマ」と「ボレロ」を続けて聴けば「音楽史上最もクレイジーな曲」の第1位と第2位をいっぺんに体験したことになるのではないかと。これが人類の創造力の極北!!
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というのが,このコンサートのウリだそうですが,2024年末の引退を間近にした井上道義さんが,やり残したことをすべてやってやるぞ,という感じに私には思えました。だれもこんなコンサートマネできねえよ! と叫んでいるような…。つき合うほうは大変です。しかし,考えようでは,こうしためったに接することのできない曲を聴くことができるたのは貴重な経験でした。
 浅学の私は,こうした難しい曲はさっぱりわからないのですが,今回聴きにいった理由は,指揮・井上道義さん,ヴィオリン・服部百音さんという絶妙な組み合わせのコンサートをぜひ一度聴いてみたかった,ということに尽きます。が,できることなら,ショスタコービッチのヴァイオリン協奏曲が聴きたかった! とはいえ,井上道義さんが言うには,最も難解な協奏曲だと思うバルトークをぜひやりたい,と主張したのは,23歳の服部百音さん自身で,本人もオーケストラもとても大変だったけれど,いい出来だった,ということでした。
 この難解な曲たち,ゴールデンウィーク後の週末, どれだけのお客さんが入ることだろう? と思っていましたが,明日,土曜日は完売,この日は,当日券を求めて長蛇の列ができていました。

 まったく不勉強な私自身のために,まず,バルトークの作品番号について調べてみました。これは3種類存在します。
●「Sz番号」
 ハンガリーの音楽学者であるセールレーシ・アンドラーシュ(Szollosy, Andras)が作成したバルトークの音楽作品と音楽学論文の目録です。1921年生まれのアンドラーシュ・セーレーシは,バルトーク以後のハンガリー作曲界の最長老的存在です。リゲティやクルタークと同世代にあたります。
●「BB番号」
 バルトーク研究の権威でブダペスト・バルトーク研究所の二代目所長のラースロー・ショムファイ(László Somfai)によって作成された作品目録の番号で,厳密な作曲時期によって配列されます。BBはバルトーク(Bartók Béla)のことだと思われます。
●「DD番号」
 ブダペスト・バルトーク研究所の設立に貢献し,初代所長を務めたベルギーのカトリック司祭で音楽学者のデニス・ディーレ(Denis Dille)が作成した作品目録の番号で,多くはセールレーシ・アンドラーシュの分類から漏れている,主に初期に作曲されたものにつけられた番号です。
●「Op.」
 作曲者本人による番号ですが,つけ直しによって番号が重複しています。

 次に,今回の曲目についてです。誰もが知る「ボレロ」は省略ですが,こういう曲の指揮は,井上道義さんノリにノルのでお似合いでした。それにしても,最後に「ボレロ」がなければ,それまでの3曲で張り詰めたこころの持っていく場がなかったいというか,そんな感じもしました。
●ルーマニア舞曲
 この曲は,2つのルーマニア舞曲Sz.43 BB56 Op.8aの第1曲を編曲したものです。よく似た名前のピアノ版ルーマニア民俗舞曲Sz.56 BB68とそのオーケストラ版Sz.68 BB76があります。
 短い曲ですが,舞曲だから当然子気味よく,次のヴァイオリン協奏曲第2番を聴くためのこころの準備のような感じでした。
●ヴァイオリン協奏曲第2番
 1937年から1938年にかけて作曲した作品で,生前はバルトークの唯一のヴァイオリン協奏曲と思われていましたが,死後,ヴァイオリン協奏曲 第1番が再発見されたことで,第2番となりました。
 「ヴェルブンコシュ」(verbunkos)というハンガリーの民族舞曲が基になっているこの曲はとてもバルトークらしく,民族色豊かで,調性感が強かったり弱かったりとめまぐるしく変化したり,非常に美しい旋律が散りばめられていたりして,私は嫌いではありません。おそらく聴き込んでいくとその魅力にはまっていくだろうと思える曲です。緊張感がたまりません。
 服部百音さんのtwitterには「人生初の,そしてマエストロとは人生最初で最後のバルトーク」と書かれてありました。2022年12月8日に東京オペラシティコンサートホールでパーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団を聴いたとき,偶然,私の席からふた席ほど左隣りでお見かけした服部百音さんがステージにいるというのが私には一興でした。
 服部百音さんがTwitterで「カッコウ」の旋律があると書いていましたが,確かに第3楽章に「カッコウ」が何度も出てきました。また,ヴァイオリンソリストと指揮者の丁々発止の掛け合いがおもしろかったです。
●「ノモス・ガンマ」
 作曲したヤニス・クセナキス(Iannis Xenaki)は,1922年にルーマニアに生まれ,2001年に亡くなったギリシャ系フランス人です。今回演奏される「ノモス・ガンマ」は,宇宙の創生,ジャングルの大嵐,森羅万象…といった,ほとばしる熱気とは裏腹に数学を基盤にして作られた曲です。オーケストラは円形に配置され,8人の打楽器奏者が円の縁を取り巻く形で,フルートの隣がチェロのような通常ではあり得ない配置で演奏されます。
 この曲でクセナキスが追い求めたのは,徹底した自由の精神,ということだそうですが,演奏している人も,聴いている人も,何を思い,感じて聴いているのだろうと思いました。私は,何か,宇宙の創成に立ち会っているような,あるいは,未開の大地に放り込まれたような気がしました。そんな映画のバックミュージックにしたら似合いそうです。悪くない,というか,ものすごくおもしろかったです。
 なお,名古屋フィルハーモニー交響楽団のTwitterによると,「ノモス・アルファ」はチェロ協奏曲,「ノモス・ベータ」は室内楽の委嘱に備えて飛ばし,この「ノモス・ガンマ」はロアイヤン(Royan)というフランスの都市の音楽祭での委嘱で書かれた大編成オーケストラのための作品だそうです。

 S席,前から3列目,ヴァイオリンソリストの真ん前だったので,ヴァイオリン協奏曲第2番には最高の位置でしたが,「ノモス・ガンマ」と「ボレロ」は,むしろ,2階席や3階席,ステージ後方P席のほうがよかったかもしれません。ただし,私の座った席は臨場感は抜群でしたが…。井上道義さんは,S席が上席とは限らないコンサートだと書いていました。してやられた!
 いずれにしても,聴きにいってよかったコンサートでした。

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 今回のブログの題名「蔓延する同調圧力に屈せずに」というのは,NHK交響楽団のホームページあった文章を一部引用すると
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 コンサートに予定調和を望まず,聴き手に新鮮な驚きを与えることが井上道義の信条だ。コロナ禍に蔓延する同調圧力にも抗い 続けてきた。
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と書かれていたものからからとったものです。
 実は,今回の11月定期公演Aプログラム2日目,ショスタコービッチの交響曲第10番が終わったとき,禁止されているはずの「ブラボー」が大声で飛んだのです。2日目は放送されないので,これはNHKホールにいた人しか知りません。
 井上道義さんは自分のブログに次のように書いています。
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 録画があった昨日(と違って)今日は楽員さんも開放感からか,現実の戦争には大反対の老兵士は相応のエネルギーでこの名曲が本来の姿をとって刻まれていく時をちょっとだけ客観的に共有できたと感じた。僕が最も誇りとした一瞬はマスク越しのこころからのブラボーの嵐が続く流れを生んだ曲の終わりでのブラボーの一声だった。
 目立ちたいだけのブラボー,よい声を聞かせたいブラボー,終わりを俺は知っているぜのそれ,ひどい演奏への悪意あるそれ,等々聞いてきたが… 今日のあれは違った。
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ということだったので,このブラボーは井上道義さんには好印象だったのでしょう。
 ただし,私は,禁止しているのにそういう声が出たということを責めているのではなく,本質的にブラボーは嫌いです。いや,それが空気になじんでいるのならともかく,日本人のそれは,歌舞伎の大向こうのようなものだからです。今回のコンサートは例外で,このコロナ禍ではコンサートではブラボーと叫ぶ輩がいないので,むしろ私にはここちよいのですが,NHK交響楽団の定期公演には,フライングの拍手とか,時折,おかしな観客が混じっています。

 ところで,アメリカやヨーロッパでのクラシックのコンサートやオペラはマナーがいいと思っている人も多いでしょうが,実際は,日本よりもずっとざわざわしています。マナーも特にいいとはいえません。しかし,自然体というか,馴染んでいるというか,それが場に溶け込んでいるので,全く不快なものではないのです。演奏前は,まるでパーティに行くように着飾った人たちが集まってきて,演奏の合間にはアルコールを親しみながらおしゃべりをして,コンサートが終わると自然と立ち上がり,花を投げる,といった行為すべてをこころから楽しんでいるのです。
 それに比べたら,やはり,日本人にとってはクラシック音楽というのはよそ者であって,外国人が着物を着ているような,そんな感じが否めません。また,演奏前に,まるで小学校の朝礼の先生の「ご注意」のように,うるさいくらいに何度も何度も注意を喚起する場内放送がかかります。アメリカやヨーロッパのコンサートでは記憶にありません。チケットを買ってもらって聴きにくる観客に対して失礼です。コンサートを楽しみに来る大人に対して,こりゃないぜ,と私は思います。観客の不快な行為以上にこの放送が私には不快です。これもまた,日本らしき責任逃れのやったふりです。
 文化水準の低い,そして,知的好奇心の低い日本人は,いつまでもずっとガキなのです。社会全体が幼稚園です。それは,欧米ではベイビーシッターに子供を預けて大人の時間を楽しむべきレストランに,日本では子連れでやってきて,客席を子供たちが走り回る,という日々の光景とも重なります。何も考えず,言われたことを従順にやるのがよい子という教育なので,そうして育って齢だけ大人になっても自分がないのです。精神的には大人になっていないのです。だから,人と同じことをまねるしかなく,同調圧力が幅を利かすのです。そして,何が真実かも正義かも知らないのにそれに外れた行為を見ると「先生に言ってやろ」が正しい行動だと,それを当然と思っているなさけない人が存在するのです。

 それはともかく。 
 今回もまた,私は,このところの定番である,新幹線N700Sのグリーン車で名古屋・東京間を往復しました。優雅な旅です。
 これで,私の聴いた9月,10月,11月,3回のAプログラムは終了です。それぞれのコンサートはまったく異なる特徴があって,興味深いものでした。まだしばらく海外に行くのもたいへんなのでNHK交響楽団の定期公演で満足することにして,次回からは,再びCプログラムに戻って,土曜日のマチネを楽しみたいと思っています。

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 2022年NHK交響楽団の定期公演Aプログラムは,9月のファビオ・ルイージ首席指揮者就任記念ヴェルディ「レクイエム」,10月の桂冠名誉指揮者ヘルベルト・ブロムシュテッドさんのマーラー・交響曲第9番とならんで,11月は,今,私が最も聴きたかった日本人マエストロ井上道義さんで,とても楽しみしていました。2022年11月13日,その日が来ました。
 井上道義さんは1946年に生まれ,1971年にミラノ・スカラ座主催グィド・カンテルリ指揮者コンクールで優勝したという経歴で,新日本フィルハーモニー交響楽団音楽監督,京都市交響楽団音楽監督,大阪フィルハーモニー交響楽団首席指揮者,オーケストラ・アンサンブル金沢音楽監督を歴任しました。
 2014年に大病に倒れるも復帰しましたが,それ以降の神がかり的な活躍で,私は興味をもちました。
 なお,2024年を限りに引退を表明しているので,今が聴く最後のチャンスとなります。

 今回のプログラムは,伊福部昭の「シンフォニア・タプカーラ」とお得意のショスタコーヴィチの交響曲第10番です。
 伊福部昭は1914年(大正3年)に北海道で生まれ,2006年(平成18年)に亡くなった作曲家ですが,日本の民族性を追求した民族主義的な力強さが特徴で,映画音楽「ゴジラ」で有名です。前回2020年に井上道義さんがNHK交響楽団のコンサートに登場したとき,ピアノとオーケストラのための「リトミカ・オスティナータ」という曲を指揮して,私は感動しました,今回はそれに続くもので,「シンフォニア・タプカーラ」は代表作。この曲はアイヌの人々への共感とノスタルジアから書かれたものだそうです。
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 西欧的な主題展開を拒否したモザイク的な形式や息の長い旋律,執拗なオスティナートといった独特の音楽語法が凝縮されていて,特に第2楽章冒頭のハープに惹かれ,フルートの低音域とコールアングレの息の長い旋律が美しく,また,第3楽章の勇壮な感じなど,そのリズム感がたまりません。
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という説明が書かれてありました。
 伊福部昭さんは「すべての芸術はその民族の特殊性を通過して共通の人間性に到達する」といいます。
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 ショスタコーヴィチの交響曲第10番ホ短調作品93は,1953年,プロコフィエフと同日にスターリンが死去した年,満を持して発表した交響曲です。
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 交響曲第5番で確立されたショスタコーヴィチの純器楽的な交響曲は交響曲第10番で頂点を極め,さまざまな表現イディオムが暗号のように張り巡らされる一方で楽章をまたいだ主題動機の回想や予告によって全体は幾重にも関連付けられているといった魅力的な語り口とその意味の広がりは他に類をみないものです。
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 ソビエト連邦下の抑圧的な体制で,苦しみながら時代と個人の真実を体現してきたショスタコーヴィチの交響曲ですが,皮肉にも,今のロシアの有り様が,そのころのショスタコービッチの想いと重なって,救いのない絶望感の中に,ある種の救いを見出す苦しみのように感じます。

 この日のコンサートは,前回のヘルベルト・ブロムシュテッドさんのときとは客層が少し違っているように感じました。もちろん,定期会員の人たちは同じですが,それ以外は,年齢が若く,井上道義さんファン,というか,そんな感じでした。当然のことですが…。
 クラシックのオーケストラではないですが,かつて「踊る指揮者」といわれた人がいました。それはスマイリー小原さんですが,井上道義さんの指揮はまさにそんな感じで,指揮というより曲のイメージを体で表現して踊っているように見えました。お元気です。というか,元気すぎるというか。また,カーテンコールが異質で,何度もステージに出てきては団員さんのまわりを駆け回りました。そんなカーテンコールはこれまでに見たことありませんでした。
 11月の定期公演は,今回のAプログラムだけが井上道義さんなので,この日で終わりです。そこで,恒例で花束が贈られたのですが,贈るほうでなく,受け取るほうの井上道義さんがひざまづくなんて,何だか不思議な光景でした。
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 今回取り上げられた曲は,どちらも,打楽器が異様に響き,人間の生命の鼓動を表現しているという感じで,それが強いものだから,聴いている者のこころに訴えるというよりも,扇動するという,そんな感じで,私には,少々,食あたり気味になりました。
 ショスタコービッチの音楽は,私が忙しかったその昔は,気が乗らないときはそれを聴いて自分を奮い立たせたものですが,その必要もなくなった今となっては,まあ,もう少し静かにしてよ,みたいな気にもなります。それは,演奏のよし悪しとはまったく関係がありません。それよりも,音楽を聴くというのは,そのときの精神状態がかなり大きな意味をもつものなのです。

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 「厳選クラシックちゃんねる」というYouTube の番組があるのですが,そこに,指揮者の井上道義さんのインタビューがあります。このインタビューは,井上道義さんのすばらしさがとてもよくわかる極上のものです。
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 井上道義さんは1946年生まれ。2007年から2018年までオーケストラ・アンサンブル金沢の音楽監督,2014年から2017年まで大阪フィルハーモニー交響楽団の首席指揮者を務めました。2024年で引退することを表明しています。
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 ずいぶん前,NHKEテレ,そのころは教育テレビといっていたのですが,そこで「第九を歌おう」という,ベートーヴェンの交響曲第9番の第4楽章,合唱の部分を歌うことができる講座という番組が放送されていて,その講師を務めていたのが井上道義さんでした。私はそのときに井上道義さんを知ったのですが,それ以降,さほど関心があったわけではありませんでした。
 当時の日本の指揮者として有名だったのは,何といっても小澤征爾さん,朝比奈隆さん,そして,岩城宏之さんといったところだったでしょうか。やがて世代替わりとなって,井上道義さんが岩城宏之さんの後をうけてオーケストラ・アンサンブル金沢の音楽監督となり,その次に,朝比奈隆さんの後継者として大阪フィルハーモニー交響楽団の首席指揮者となったときは,無知な私は,格下になったと思ったものでした。 
 しかし,それは大いなる誤解でした。
 井上道義さんは,近年,それまではほとんど登場しなかったNHK交響楽団の定期公演を指揮するようになったので,私も聴くようになりました。とりわけショスタコーヴィチの交響曲の演奏には定評があり,これはすごい指揮者だ,と思うようになりました。今や,日本でナンバーワンのマエストロです。

 オーケストラのすぐれた指揮者には巨匠という言葉が似合います。また,カリスマ指揮者といういい方もします。その昔のカリスマ指揮者はとても近寄りがたく偉そうだったのですが,現在はそうした偉そうな感じとは異なって,こころからその音楽に浸っている人間的にも尊敬できる求道者のような感じです。そうした指揮者が演奏する音楽に感動しないわけがないのですが,なかでも,井上道義さんは,私が今,最も聴きたいと思う指揮者のひとりです。しかし,その指揮に接することができるのも,あと2年ほどになってしまったわけです。その井上道義さんのインタビュー,というのだから,これは貴重でした。
 このインタビューでは,どうして引退を決意したのかも語っていますが,それは要するに,晩節を汚したくない,というものでした。現役のときにあれほど評価されても,引退するとなぜかほとんど聴くことのなくなる指揮者も少なくないのですが,おそらく,井上道義さんの指揮した演奏は,この先もずっとこころに残ることでしょう。
 私は,9月から,再びNHK交響楽団の定期公演を聴きにいくことにして,Aプログラム2日目のチケットを購入しましたが,その11月の公演で井上道義さんの指揮するショスタコービッチの交響曲第10番を聴くことができるので,それを今から楽しみにしています。


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