しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:京都

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【Summary】
On November 26, 2024, after a night in Kyoto, I visited Murasaki Shikibu's grave, walked to the tombs of Emperor Sanjo and Emperor Ichijo, and took a bus to Seimei Shrine, revisiting it due to its connection with Hikaru Kimi e. Later, I saw the "maneki" signs raised for the annual Kabuki event at Minami-za, enjoyed sweets at Sasaya Shouen, and attended Seiichi Nakai’s Leica photography exhibition, Leica and Tetsutabi, at Leica Gallery Kyoto.

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 京都で1泊した翌2024年11月26日。
 この日は,まず,紫式部の墓までバスで行って,そこから,三条天皇陵,一条天皇陵とかなりの距離を歩いたのち,竜安寺のバス停から晴明神社の最寄りの堀川今出川までバスに乗りました。
 晴明神社は小さな神社で,これまでにも行ったことがあるのですがほとんど記憶になく,今回「光る君へ」で安部晴明が出てきたこともあり,これを機会に再び行ってみることにしたのでした。

●晴明神社
 一条戻橋のたもとにあった安部晴明の屋敷跡に鎮座する村社である晴明神社は,安倍晴明を主神とし,倉稲魂命(うかのみたま)を合祀します。
 1005年(寛弘2年)に安部晴明が亡くなると,一条天皇はその遺業を賛え,安部晴明は稲荷神の生まれ変わりであるとして,1007年(寛弘4年)屋敷跡に晴明を祀る神社を創建しました。当時は広大な境内でしたが,次第に縮小し,荒れたままの状態となりました。また,隣接して千利休の屋敷がありました。
 平成以降,映画化された夢枕獏の小説「陰陽師」のヒットで安倍晴明ブームが起こり有名となりました。2017年(平成29年)に二の鳥居の社号額が新調されました。また,一の鳥居の社号額には、五芒星の社紋が描かれています。

●一条戻橋
 一条戻橋は堀川に架けられている一条通の橋です。
 794年の平安京造営に際し,平安京の京域の最北・一条大路に堀川を渡る橋として架橋されました。平安中期以降,堀川右岸から右京にかけては衰退著しかったために,堀川を渡ること,即ち,戻橋を渡ることに特別の意味が生じ,伝承や風習が生まれました。歌舞伎に「戻橋」という演目があります。
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 1890年(明治23年),5世尾上菊五郎(鬼女)と初世市川左岡次(渡辺綱)により初演されましたた。
 渡辺綱は源頼光の使いの帰途,戻橋で美しい扇折の娘小百合に逢います。夜道のこととて同道しましたが,実際は愛宕山の悪鬼で,いろいろと渡辺綱を誘惑します。が,ついに正体を見破られ立廻りとなり,鬼は片腕を切られて逃げ去ります。
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 かつて,一条戻橋のそばに妓楼があり,一条戻橋で渡辺綱が鬼である美女と遭遇したという伝説に因んだ源氏名「綱」という遊女がいました。彼女の馴染客のひとりに与謝蕪村がいて「羽織着て綱も聞く夜や河ちどり」(川千鳥の哀切な鳴き声を娼妓「綱」も客の羽織を借り着して聞き耳をたてている)という艶冶な句を詠んでいます。
 現在の橋は1995年(平成7年)に架け直された情緒もたわいもないものですが,晴明神社にそれ以前の一条戻橋を実際の部材を使って再現したミニチュアがあります。

●京都南座
 四条通の南側に位置していることからその名がある南座は,日本最古からその場所にある劇場です。
 江戸時代初期,四条河原には幕府公認の芝居小屋が七座存在しましたが,火事で幾度も焼失したり,興行の中心が大坂に移ったため数を減らし,江戸時代中期には四条通りの南の芝居と北の芝居,大和大路の西の芝居の三座となりました。
 西の芝居は1794年(寛政6年)の大火後は再建されず,北の芝居は1892年(明治25年)四条通の拡張に伴い閉鎖されたので,南の芝居だけが残りました。
 1913年(大正2年)に大改築を行い,さらに,1929年(昭和4年)に建替えられました。
 1991年(平成3年)に改修工事が行われ,桃山風の外観を残しつつ最新設備を備えた劇場として新装開場,また,耐震補強と内装設備の更新を併せた「耐震補強大規模改修工事」が2018年(平成30年)に完了しました。
 出雲阿国が1603年(慶長8年)の春,京市中においてかぶき踊りを披露したことが歌舞伎の起源とされ,南座の前には「阿国歌舞伎発祥地」の石碑があります。
 毎年11月末日から12月末まで行われる吉例顔見世興行は京都の風物詩となっていて,このときに役者の名前を勘亭流で書いた「まねき」とよばれる白木の看板が劇場の入り口上にずらりと並べられますが,まさに,この日がまねき上げでした。

 その後,祇園の四条通にある「笹屋昌園・八坂祇園店」でスィーツを食べてから,祇園花見小路にあるライカギャラリー京都へ行って,中井精也の写真展 「ライカと、てつたび。」 を見ました。

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【Summary】
This account details a visit to various historical sites in Kyoto. Starting at Uji Mausoleum, I took the JR Nara Line to Tofukuji Station and explored Tofukuji Temple, a Zen temple known for its autumn foliage and historical significance. I then visited the nearby mausoleum of Empress Teishi and Imakumano Kannonji Temple, dedicated to Kannon and linked to Kukai’s legend. The journey ended at Sennyuji Temple, a prominent Shingon temple and imperial mausoleum with exquisite architecture, gardens, and artistic treasures like Kano Tanyu’s dragon paintings.

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 今回は,「光る君へ」の登場人物お墓巡りの間に訪れたいくつかの場所について書きます。
 2024年11月25日。
 宇治陵に行ってから再びJR木幡駅から奈良線に乗ってJR東福寺駅で降りました。私の目指したのは泉涌寺の近くにあるという一条天皇の皇后だった藤原定子の陵だったのですが,まずは東福寺を通りました。

●東福寺
 京都五山の第四位の禅寺東福寺は臨済宗東福寺派の大本山の寺院で,山号は慧日山(えにちさん),本尊は釈迦如来です。京都五山は,天竜寺,相国寺,建仁寺,東福寺,万寿寺です。なお,鎌倉五山は,建長寺,円覚寺,寿福寺,浄智寺,浄妙寺です。
 今なお25か寺の塔頭を有する大寺院で,かつては,雲居寺の大仏,方広寺の大仏に次ぐ高さを有する身の丈五丈の釈迦如来座像を有し,威容を誇っていました。
 紅葉の名所として有名で「東福寺の伽藍面」(がらんづら)とよばれます。
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 1236年(嘉禎2年)に九条道家が九条家の菩提寺として大寺院を建立することを発願し,奈良の東大寺と興福寺から1字ずつ取って「東福寺」としたのがはじまりです。
 1319年(元応元年)の大火災で伽藍と釈迦如来座像が全焼。以降,たびたび再建されましたが,1881年(明治14年)の失火で主要な建物は焼失してしまい,現在の本堂、方丈、庫裏などは明治以降の再建です。
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 臥雲橋(がうんきょう)から眺めた東福寺内の通天橋あたりの紅葉が有名な風景です。
 紅葉の時期はJR東福寺駅あたりからすでにすごい人混みなのですが,私が行ったときは,まだ紅葉には早く,予想以上に観光客がおらず,少し拍子抜けでした。  
 臥雲橋の少し手前を東に向かっていくと,観光客もほとんどいなくなり,静かな住宅街となります。そのあたりにあったのが藤原定子の陵ですが,それを過ぎると,今熊野観音寺に突き当たります。

●今熊野観音寺
 今熊野観音寺は真言宗泉涌寺派の寺院で,泉涌寺の塔頭,山号は新那智山,本尊は十一面観音です。
 唐で真言密教を学んで帰国した翌年の807年(大同2年)に東山から光が出ているのを見つけた空海が不思議に思って当地にやってきたところ,老人の姿をした熊野権現が天照大神御作の一寸八分の十一面観音菩薩像を手渡して,この地に一宇を建ててこの観音菩薩を祀り衆生を救済するようにと言いました。そこで,空海は自ら一尺八寸の十一面観音菩薩像を刻み,授かった一寸八分の像をその体内仏として中に納め,熊野権現のいうようにこの地に一宇を建てて奉安したのがはじまりであるとされます。
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 平安時代後期,熱心な熊野三山の信者であった後白河上皇がこの地一帯に目をつけ,新たに熊野権現を勧請し,「新那智山」の山号を授けて東山観音寺を観音寺に改め,山麓に新熊野神社を造営しました。現在の本堂は1712年(正徳2年)に建立されたものです。
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 今熊野観音寺はボケ封じの御利益があるということで,他人事ではなくなった私は,普段は信心がないのに,お守りを買いました。
 坂を下ると泉涌寺に出ました。私は,これまで泉涌寺には何度も来たことがありました。

●泉涌寺
 泉涌寺は真言宗泉涌寺派の総本山の寺院で,山号は東山(とうざん),本尊は釈迦如来,阿弥陀如来,弥勒如来の三世仏。皇室の菩提寺として御寺(みてら)とよばれています。
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 平安時代に弘法大師空海が草創したと伝わりますが,実質的な開山は鎌倉時代の月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)で,霊泉が湧いたので寺号を泉涌寺としたといいます。東山の一峰である月輪山の麓に広がる寺域内には,鎌倉時代の後堀河天皇,四条天皇,および江戸時代の後水尾天皇から孝明天皇に至る天皇陵があります。
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 長い参道の先にある大門をくぐると左手に楊貴妃観音堂があり,正面には伽藍の中心をなす仏殿,舎利殿が建ち,これらの背後に霊明殿,御座所など皇室ゆかりの建築があり,その背後に月輪陵があります。
 仏殿は1668年(寛文8年)徳川家綱の援助で再建したもので,内部は禅寺風の土間とし,柱,窓,組物,天井構架等の建築様式も典型的な禅宗様です。本尊は過去・現在・来世を表す伝運慶作の釈迦如来,阿弥陀如来,弥勒如来の3体を安置し,天井の「雲龍図」,本尊背後の「飛天図」,裏壁の「白衣観音図」は狩野探幽の筆になります。
 また,舎利殿は,1600年ごろの慶長年間に京都御所の建物を移築・改装したもので,天井の「雲龍図」は狩野山雪筆で,「鳴龍」ともよばれ,手を叩くと響きます。現在公開中で見ることができました。
  本坊は1818年(文化15年)に建立されたもので,女官の間,門跡の間,皇族の間,侍従の間,勅使の間,玉座の間などがあります。また,御座所では美しい庭園を見ることができました。

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The 2024年12月8日は土星食でした。

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【Summary】
On November 26, 2024, after staying at Toyoko Inn Kyoto Gojo-Karasuma, I visited the graves of Murasaki Shikibu and Ono no Takamura, then walked to the mausoleums of Emperor Sanjo, Emperor Ichijo, and other Heian-era emperors. These sites revealed rich historical ties, including Murasaki's life, her The Tale of Genji, and Takamura's legendary role in the underworld.

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 京都の東横イン五条烏丸で1泊した翌日2024年11月26日は,まず,市バスに乗って紫式部の墓に行きました。
 紫式部と小野篁の墓は隣同士にあります。場所は堀川北大路を下った西側で,平安時代に式部が生まれ、晩年を過ごしたと言われる雲林院白毫院があった場所になります。
 紫式部は,26歳のとき46歳の藤原宣孝と結婚,賢子をもうけました。2年後,夫が亡くなったあと一条天皇の中宮彰子に女房兼家庭教師として仕え,1012年ごろまで「源氏物語」を書き続けていたようです。晩年は雲林院百毫院で過ごしました。
 小野篁は,閻魔大王が任命したあの世の冥官で,地獄行きかどうかの判決の助言をしていたとされます。閻魔大王からおよびがあると,夜中に六道珍皇寺の「冥土通いの井戸」から冥土の世へ出向き,朝方に嵯峨野にある福成寺の「黄泉がえりの井戸」から現世に戻って宮中に出仕しました。
 「源氏物語」は好色を描きすぎたことで,紫式部は地獄へ落ちましたが,地獄に落ちた紫式部を助け出すため,小野篁は閻魔大王に彼女を地獄から出してくれるようにお願いし,助け出したのち,自分の墓の隣に埋葬したのではないかといわれています。

 ここから歩いて,三条天皇陵へ行きました。
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 67代三条天皇は,976年(天延4年)に生まれ,1017年(寛仁元年)に41歳で亡くなりました。
 63代冷泉天皇(64代円融天皇,65代花山天皇,66代一条天皇)の第2皇子です。
 冷泉・円融両統の迭立に基づき東宮となりましたが,一条天皇より4歳年上でした。1011年(寛弘8年)に一条天皇が崩御数日前に譲位したので,36歳で即位しました。
 3年後,眼病を患い,内裏の焼失や病状の悪化もあり、1016年(長和5年)に後一条天皇に譲位しましたが,翌1017年(寛仁元年)に崩御しました。
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 三条天皇陵は鹿苑寺金閣の東側にありました。付近は超高級住宅地ですが,三条天皇陵はとても小さなものでした。
 
 次に向かったのが一条天皇陵でした。
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 66代一条天皇は,980年(天元3年)に生まれ,1011年(寛弘8年)に亡くなりました。
 円融天皇の第1皇子で,母は藤原兼家の娘・藤原詮子。花山天皇が内裏を抜け出して出家したため,数え年7歳で即位しました。
 一条天皇の時代は藤原氏の権勢が最盛に達し,皇后・藤原定子に仕える清少納言,中宮・藤原彰子に仕える紫式部,和泉式部らによって平安女流文学が花開きました。
 1011年(寛弘8年)ごろに病が重くなり,居貞親王(三条天皇)に譲位し32歳で崩御しました。
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 一条天皇陵は竜安寺の東にありました。麓には後朱雀天皇陵,後冷泉天皇陵,後三条天皇陵がならんでいましたが,その傍らに参道があって,その向こうには鹿よけの柵があり,柵を開けて登っていくと,かなりの標高のところに,巨大な一条天皇陵が,そのとなりの堀河天皇陵とともに存在しました。想像をこえる立派さでした。

 なお,69代後朱雀天皇は,1009年(寛弘6年)に生まれ,1045年(寛徳2年)に亡くなった一条天皇の第3皇子です。70代後冷泉天皇は,1025年(万寿2年)に生まれ,1068年(治暦4年)に亡くなった後朱雀天皇の第1皇子で,紫式部の娘大弐三位が乳母です。71代後三条天皇は,1034年(長元7年)に生まれ,1073年(延久5年)に亡くなった後朱雀天皇の第2皇子です。  73代堀河天皇は,1079年(承暦3年)に生まれ,1107年(嘉承2年)に亡くなった白河天皇の第3皇子です。

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【Summary】
On November 25, 2024, I toured the newly renovated Kansai Shogi Hall before traveling to Kyoto to visit graves of historical figures featured in Hikaru Kimi e. I avoided crowded tourist spots and began at Uji Ryō, a burial site for Fujiwara clan members like Michinaga. Despite some decay, I found sites like Akiko's grave. Later, I visited Empress Teishi’s grander tomb near Tōfuku-ji, reflecting on the stark contrasts between the two and how graves often symbolize the power dynamics of the surviving era.

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 2024年11月25日の午前中,新装なった関西将棋会館の内覧会に行った後,京都へ出ました。京都で1泊して,NHK大河ドラマ「光る君へ」に登場する人たちの墓巡りをしようと考えました。
 昨年の今ごろ,紀伊半島を1周した後で混雑覚悟の京都へ寄って仁和寺に行ったのですが,すでに紅葉のライトアップも終わり,予想とは違い京都はがらがらでした。しかし,今年は,紅葉が遅く,おそらくどこもまだすごい人混みろうから紅葉の観光地を避けようと思ったことと,私が「光る君へ」に凝っていることもあって,墓詣ならいくらなんでも来る人など稀有に違いないと考えたからでした。
 古墳を巡ることを趣味としている人たちがいるらしく,こうした人のことを「古墳マイラー」というそうです。私は特にそうした趣味はないのですが,持ち前の好奇心で,こうなったらもれなく巡ってみようと考えました。
 これまでは,そんな興味もなく,行く先々に天皇陵があっても,まったく気にも留めませんでしたが,調べてみると,天皇陵はあちこちに散らばっていて,「光る君へ」に登場していた天皇の陵墓をまわるだけでも不可能に近かったので,主だったものだけにしました。さらに,藤原道長と紫式部の墓も加えました。

 まず行ったのが,藤原家の人々が葬られているという宇治陵でした。ここに藤原道長の墓があるということでした。
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 宇治陵は地蔵山および御蔵山に散在する古墳群を総称したもので,宇治市にある古墳群と藤原氏とその関係者の陵墓群です。
 地蔵山及びその北側浄妙寺山の南北約1.8キロメートル,東西0.9キロメートル,総面積89,332平方メートルに点在する大小320もの陵墓群で,明治10年に宮内庁によって調査され17陵3墓を木幡陵と定められ,後に宇治陵として1号から37号までの番号が付けられました。
 宇治陵は,藤原冬嗣,藤原基経,藤原時平,藤原道長,藤原頼通などと藤原家から入内した中宮などの女性の埋葬地とされています。
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 JR京都駅から奈良線に乗って,木幡駅で降りるということだったのですが,考えてみれば,奈良線というのは,沿線には,紅葉の名所である東福寺,また,インバウンド名物の伏見稲荷とあるから,それを考えるだけで憂鬱になりましたが,ともかく,満員の列車に乗り込みました。
 さすがに木幡駅まで来ると車内は人が少なくなり,木幡駅で降りたのも,この辺りに住んでいる人くらいのものとなりました。木幡駅から南に県道7号線に沿って歩いていくと,右手に1号墳がありました。1号陵は総遙拝所に当てていて,宇治陵に葬られた藤原家から入内した中宮など皇室関係の人たちの名前がずらりと並んでいました。その中に,藤原彰子の名前もありました。
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 藤原彰子は988年(永延2年)に生まれ,1074年(承保元年)に86歳で亡くなった66代一条天皇の中宮です。後一条天皇、後朱雀天皇の生母です。
 女房には,紫式部,和泉式部,赤染衛門,紫式部の娘・大弐三位,伊勢大輔などがいます。
 藤原道長の長女で,母は左大臣源雅信の女・倫子です。
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 木幡駅の北の住宅街に32号墳がありましたが,何の標示も存在しませんでした。ここが藤原道長の墓とする説があるのだそうです。
 宇治陵は,そのほとんどが朽ちていて,住宅街に埋没していました。

 泉涌寺のちかくに,一条天皇の皇后だった定子の陵があるということだったので,再び木幡駅から列車に乗って,東福寺駅で降りました。東福寺から歩いて,定子の陵に着きました。大きな陵でした。
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 藤原定子は,976年(貞元元年)に生まれ,1001年(長保2年)に25歳で亡くなった66代一条天皇の皇后です。数え15歳の春に一条天皇に入内し,藤原定子に仕え,「香炉峰の雪」の逸話でも知られた女房が清少納言です。
 藤原定子は,第2皇女・媄子内親王を出産した直後に死去しました。
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 一条天皇の中宮だった彰子の陵である宇治陵と比べ,この差はなんだろう? と思いました。とはいえ,わずか25歳で亡くなったこの人の一生は何だったのだろう,と思いました。
 墓というものは,生きていたときとは関係なく,残された者の力関係で決まるものです。

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 いまから30年近く前,突然京都に目覚めました。
 ある年の10月に何かのきっかけで京都を訪れました。当時は,紅葉前の京都は観光客も少なく,気候もよく,静寂に包まれていました。私は,京都のすばらしさを知ってしまったのです。京都は,見るもよし,写真をとるもよし,そして,おいしいものを食べてもよし。それまでの私は,日本にこんなところがあるということすら知りませんでした。
 そこで,購入したのが山と渓谷社から出ていた「歩く地図S・京都」というガイドブックでした。そして,この本を片手に,月に1回は京都に行くようになりました。こうなると,何事もすべてやってしまいたい性格から,この本に載っている寺社仏閣にすべて行こうと思うようになりました。
 今では考えられないのですが,冬の寒いときであっても,夏の暑いときであっても,また,雨が降ろうが雪が降ろうが,例外なく,毎月京都に向かうのでした。
 その結果,梅に雪が積もった景色やら,桜満開の風景やら,紅葉のうつくしいライトアップやら,はたまた,春の都おどりやら,貴船の川床料理やら,節分の舞妓さんの豆まきまで,何から何までを体験することができました。
 現在の,インバントでいつ出かけても人混みだらけの状況では考えられないことです。よき月日でした。

 真夏の過酷な日,私は,山科の北にある毘沙門堂へ行きました。
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 護法山安国院出雲寺,通称・毘沙門堂は,山科区にある天台宗の寺院で,山号は護法山,本尊は毘沙門天です。妙法院,三千院,青蓮院,曼殊院とならぶ天台宗京都五門跡のひとつです。ちなみに私はすべて行きました。
 毘沙門堂の前身は出雲寺で,文武天皇の勅願により703年(大宝3年)に行基が開いたといいます。1195年(建久6年)に平親範が平家ゆかりの平等寺,尊重寺,護法寺を統合し,出雲寺の地に護法山出雲寺として再興し,最澄自刻の毘沙門天像を本尊としました。
  1467年(応仁元年)に応仁の乱によって焼失しましたが,1469年(文明元年)に再建され,1571年(元亀2年)に再び焼失してしまいました。 江戸時代初頭,南光坊天海によって復興が開始され,江戸幕府は山科の安祥寺の寺領の一部を出雲寺に与え,現在地に移転・復興されました。毘沙門天を祀ることから出雲寺は毘沙門堂とよばれるようになりました。
 江戸時代初期,111代後西天皇皇子の公弁法親王がこの寺で受戒し,晩年に毘沙門堂に隠棲したことで,以後,門跡寺院となりました。
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 由緒ある寺はすばらしかったのですが,この季節で物足りなかったのが花でした。夏には,梅も桜も藤もカキツバタもありません。
 と思っていたのですが,セミの鳴く寺の入り口で目にしたのが,美しいサルスベリの花でした。今とは違って,当時の私は,花の名前もほとんど知らなかったので,真夏にもこんな花が咲くんだ,と驚きました。それ以来,私には,京都の夏は,サルスベリ,という印象ができあがりました。
 それ以来,毘沙門堂に行くこともなく,また,夏に京都に行くのは五山の送り火だけとなりましたが,私は,そのときの印象が忘れられず,夏になると,五山の送り火とともに,サルスベリの咲く風景が重なるのです。


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 当初の予定では,仁和寺だけを拝観して帰るつもりだったのですが,人の少ない京都という,うれしい誤算で,すっかりやる気になった私でした。そして,思い出したことがありました。それは「俵屋吉富」(たわらやよしとみ)です。
 2015年から2017年にかけて5回NHKBSPで放送された「京都人の密かな愉しみ」という番組で,常盤貴子さんが主役として「久楽屋」の若女将・三八子を演じたのですが,「久楽屋」のモチーフだった創業260年を超える老舗の京菓子屋「俵屋吉富」がどこにあるか,一度見てみたい,ということでした。
 「俵屋吉富」は,京都御所の北西の室町,つまり,室町幕府のあった場所にあります。仁和寺からは,御室仁和寺駅から嵐電に乗って,終点の北野白梅町で降りて,バスに乗り換え,上京区総合庁舎前で降りて北に歩けばいい,ということがわかったので,そのようにしました。
 今回は,単に場所がわかればいいということで,お店の前を通っただけでしたが,これで納得したので,次回来ることがあれば,お店に入って和菓子でも買おうと思いました。

 こうして,期せずして,京都御所の近くまで来たので,次に,京都御所を横切って蘆山寺に行くことにしました。蘆山寺を思い出したのは,来年のNHK大河ドラマ「光る君へ」の主役・紫式部ゆかりの寺だということからです。蘆山寺は以前にも行ったことがありますが,あまり記憶にありません。また,宮中で元三大師の修法を妨害する悪鬼を退散させた故事にちなむ節分行事「鬼法楽」でも行ったことがありますが,すごい人で拝観するどころではありませんでした。
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 広い京都御所もまた,ほとんど観光客がいませんでした。ただし,清所門(せいしょもん)に差しかかると,まばらに人がいて,みな門から中に入っていくのが見えました。門にいた守衛さんに聞いてみると,京都御所の中に入ることができるというではないですか。以前は,事前に予約をして,やっと見学ができたのですが,今は,一般公開されていて,予約なしでだれでも入ることができるということでした。私は,全く知りませんでした。ということで,これもまた,期せずして,京都御所の見学ができました。
 京都語御所の見どころとしては,襖絵が印象的な「諸大夫の間」,即位式などの重要な儀式が行われる伝統技法で作られた屋根の「紫宸殿」,天皇の日常生活の場で獅子と狛犬の2匹の「守り神」がいる「清涼殿」,四季折々の表情が楽しめる「御池庭」,明治天皇が過ごした「御常御殿」とあるのですが,これらもまた,NHK大河ドラマ「光る君へ」の舞台となるから,おそらく,2024年は脚光を浴び,多くの観光客が押し寄せることでしょう。

 京都御所の見学を終えて,蘆山寺に向かいました。
 廬山寺は天台圓淨宗の寺院で,紫式部の邸宅跡として知られ,源氏の庭やお土居などが残ります。
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 938年(天慶元年)に船岡山の南麓に建てられた與願金剛院,1245年(寛元3年)に出雲路に建てられた廬山寺,このふたつの寺の住持を兼務していた明導照源が,1368年(応安元年)に與願金剛院が廬山寺を吸収合併し,廬山天台講寺となりました。
  豊臣秀吉の寺町建設によって,天正年間に現在地に移りました。たびたびの火災で,現在の本堂は1794年(寛政6年)に仙洞御所の一部を移築して作られたものです。1872年(明治5年)に天台宗の寺院となり,1948年(昭和23年)に天台圓淨宗として独立しましたた。
 1965年(昭和40年)に歴史学者の角田文衞によって,蘆山寺のある場所が紫式部邸跡とされました。
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 こうして,予想していた以上に人が少なかった京都を十分に楽しんで,地下鉄に乗ってJR京都駅に着き,コインロッカーに預けてあった荷物を取り出して,途中下車扱いになっていた乗車券と新幹線の自由席特急券で「ひかり」に乗り込みました。ジパング倶楽部では「のぞみ」には乗ることができない,いや,厳密にいえば,「のぞみ」に乗ることはできますが特急料金が安くならないのです。しかし,京都駅から名古屋駅は「のぞみ」でも「ひかり」でも「こだま」でも,何に乗ってもほとんど所要時間に大差ありません。また,何に乗っても空いているので,JR名古屋駅からJR東京駅に行くときのように,グリーン車にこだわることもないので助かります。むしろ,「こだま」はがらがらなので快適です。
 JR名古屋駅に着いて,駅弁を購入して,自宅まで持って帰りました。家で夕食として,買ってきた駅弁を食べながら,旅の余韻に浸りました。
 すべてがうまくいった2泊3日紀伊半島1周の旅でした。しかし,ただひとつ,やり残したことができました。それは…。

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 「国内旅行の最大の問題は,天候です。とにかく,天気が悪ければ,すべてが台なしですが,これは,自分の運を信じることにしましょう」と書きましたが,毎日とてもよい天気,しかも,冬とも思えない暖かな日々でした。今回も晴れ男の面目躍如です。
  ・・
 2023年12月9日土曜日。旅の最終日です。
 JR名古屋駅からJR名古屋駅の紀伊半島1周片道の旅は,今回のように2泊しなくとも,1泊でできるのですが,私が天王寺でもう1泊したのは,最終日に大阪か京都を観光しようと思ったからです。そして,JR京都駅からJR名古屋駅へは新幹線自由席で帰ろうと,切符を持っていました。ただし,大阪か京都のどこに行くかは全く白紙でした。というか,迷っていました。
 大阪を観光してもいいのですが,強いて行きたいところもありません。また,京都は,あまりの人混みで行く気が失せていました。ただし,先日行った将棋の竜王戦第2局の前夜祭のお土産で,対局場となった仁和寺の拝観券をもらったので,これを持参していました。そこで,いろいろと考えたあげく,混雑覚悟で,仁和寺に行ってみることにしました。

 まず,東横インの朝食を取るか取らぬか迷っていたのですが,とにかく1階に降りてみると,人がほとんどいなかったので,東横インで朝食を取ることになりました。天王寺に泊るような人は,前日の夜遅くまで出歩いていたのでしょう。朝が遅いのです。これもまた,うれしい誤算でした。朝食後,早々にチェックアウトして,JR天王寺駅に行きました。京都へは,JR天王寺駅から大阪環状線,東海道線と乗り継ぎます。
 しかし,JR天王寺駅が複雑でわからないこと! 近鉄の難波駅もそうでしたが,大阪は案内板がわかりにくいです。駅員さんに聞いて,何とか大阪環状線のホームにたどり着きました。この国で,東京や大阪を列車で旅することは,海外旅行をすることよりもずっと難解なのです。
 それにしても,JR西日本は,京都線,琵琶湖線,神戸線,嵯峨野線など,どうしてこんな名前をつけるのでしょう。これでは,この地に住んでいない人には理解不能です。東海道線上り・下り,山陰線でいいではないですか。そんな話をすると,東海道線ではわからない,琵琶湖線でなきゃ,と地元の人はいいます。私には,琵琶湖線というと何だか,私鉄やローカル線のように思います。どうやら,頭の中の地図のスケールが違うようです。関西の人は,関西地方だけをイメージし,私は,日本地図をイメージしているのだと,このごろ気づきました。
 ともかく,大阪環状線に乗って,JR大阪駅に着きました。ここで京都線とやらの東海道線上りに乗り換えです。私は,先に来た快速に乗ったのですが,途中で新快速に追い越されました。ほんとうにこれもまた,訳がわかりません。快速がどの駅に停まり,新快速がどの駅に停まるかという経路図が見あたらないのです。ともかく,このようにして,まがりなりにもJR京都駅に着きました。
 これでは,ヨーロッパを鉄道で旅するほうがずっと簡単です。

 JR京都駅で一旦途中下車して,コインロッカーに荷物を預けて,今度はSuicaで改札を入り,嵯峨野線とやらの山陰線に乗ってJR花園駅で降りました。仁和寺はここから北に歩くつもりでした。JR京都駅で降りて,京都市内を混雑するバスやら地下鉄に乗るよりマシだと思ったのです。私は歩くことは苦になりません。
 JR花園駅から北に向かって歩いていったのですが,観光客がほとんど見当たりませんでした。街中だからかな,と思ったのですが,やがて,仁和寺の二王門が見えてきても,やはり,ほとんど観光客はいませんでした。これもまた,うれしい誤算でした。
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 知恩院の三門,南禅寺の三門とともに京都三大門のひとつに数えられる仁和寺の二王門は,3代将軍徳川家光の寄進によって,1641年(寛永18年)から1645年(正保2年)ごろに建立されました。
 知恩院三門,南禅寺三門が禅宗様であるのに対し,仁和寺の二王門は平安時代の伝統を引き継ぐ純和様で建てられています。門正面の左右に金剛力士像,後面には唐獅子像が安置されています。
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 御室の仁和寺には久しぶりに来ました。仁和寺はさすが門跡寺院,立派です。門跡寺院とは皇族や公家が住職を務めたお寺のことです。
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 仁和寺は平安時代の886年(仁和2年)に58代光孝天皇によって発願され,888年(仁和4年)59代宇多天皇によって完成しました。897年(寛平9年)譲位した宇多天皇が出家し,仁和寺1世宇多法皇となりました。以降,皇室出身者が仁和寺の代々門跡を務めました。
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 12月だというのに,まだ,紅葉がきれいだったし,竜王戦で対局場となった「宸殿」(しんでん)も見ることができました。さらに,国宝の金堂北側部分に当たる空間「裏堂」の公開を見ることもできました。これもまた,ツイていました。2018年(平成30年)に372年ぶりに公開されて以来,5年ぶりの公開だそうです。
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 金堂内の本尊阿弥陀三尊の後壁裏に描かれた五大明王像の公開は,寛永年間に御所・紫宸殿を下賜移築されたものです。
 長期間光を受けず人の呼気にもあたらなかったので,輪郭は細部まではっきりしていて,朱が大変鮮やか,ということです。左から大威徳明王,降三世明王,不動明王,軍荼利明王,金剛薬叉明王と並んだ5人の明王は,恐ろしささえ感じます。
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 人が少なかったのが幸いして,久々に京都らしさを堪能しました。
 ゆっくりと仁和寺を鑑賞してから,二王門の前にある「松風」というおそば屋さんで昼食をとりました。紅葉のライトアップが終わって,急に観光客が減った,ということでした。
 京都はこうでなくちゃ。

 ところで,御室の仁和寺といえば,御室桜とともに有名なのは徒然草です。
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 仁和寺にある法師,年寄るまで石清水を拝まざりければ,心うく覚えて,ある時思ひ立ちて,たゞひとり,徒歩より詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて,かばかりと心得て帰りにけり。
 さて,かたへの人にあひて,「年比思ひつること,果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも,参りたる人ごとに山へ登りしは,何事かありけん,ゆかしかりしかど,神へ参るこそ本意なれと思ひて,山までは見ず」とぞ言ひける。
 少しのことにも,先達はあらまほしき事なり。
  「徒然草」第52段
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 学生のころ知った「徒然草」でその名前を知ったのが,仁和寺とともに石清水八幡宮でした。そこで,石清水八幡宮へも一度は行ってみたいと思っていたのですが,なかなかかないませんでした。
 やっと,2016年になって,「仁和寺の法師」の教訓を得て,石清水八幡宮参道ケーブルで男山へ登って,石清水八幡宮を拝んでくることができました。

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 まず,2020年の秋に私が写した京都の姿をご覧ください。
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 今から30年ほど前の京都は,本当にすばらしいところでした。桜の季節,紅葉の季節はもちろんのこと,夏も,冬も,そして,とりわけ,ハイシーズンが来る少し前の10月の京都は,私が最も好きだった季節で,静寂に包まれて,おだやかな時間を過ごすことができました。
 それが何ということでしょう。
 2019年のころには,京都は,すでに,行くべき場所ではなくなりつつありました。インバウンドやらで,やたらと外国人が押し寄せるようになって,それまでの暗黙の秩序もなくなり,他人の家に土足で踏み込むようなマナーの悪さから,街中には注意書きが溢れていました。また,食事をしようにも,どの店も満員,交通機関も満員,そして,市内の繁華街はカオス状態と化していました。私の大好きだった京都はどこに行ってしまったの? と思いました。

 それが,天の恵みというか,天の裁きというか,2020年の春になると,外国人どころか日本人観光客すらまったくいない京都になりました。私は,こんなことはもう二度と起こらないから,今こそ,京都へ出かける千載一遇の機会が来た,と思って,春も秋も,毎週のように,車で京都へ出かけました。
 そこには,静寂に包まれたむかしの古都の姿がありました。
 そのとき私は,しばらくしたら,再び,2019年のころの京都が戻ってくるだろうから,もう,この街のこの静寂に包まれた姿は二度と来ないだろうと思って,別れを告げてきました。
  ・・
 そして,今年2023年の秋。
 はやり,聞くともなく聞こえてくるのは,大渋滞の京都です。しかも,そのほとんどは外国人で,日本人はどこに行ってしまったの? 状態だそうです,私の周囲の京都好きだった人たちも,もう行かない,と言っています。私も同様です。
 すでに書いたように,私は,今年の10月,別れたはずの京都に行きました。それは,将棋竜王戦第2局の前夜祭に出るためでした。それでも,10月ならまだ大丈夫だろう,というのが甘い考えでした。そこで見たのは,2019年の時と変わらぬ無秩序な京都の姿でした。そこで,このときも,前夜祭に行っただけで,京都見物をすることはありませんでした。

 いつも思い出すのは,今から30年ほど前に,毎週のように京都に出かけて,ほとんど全ての神社仏閣を訪ねたときのことです。
 あのころは,本当によかったな。あの京都はもう,どこにもない。それは,まるで,亡き人を懐かしむのと同じ気持ちです。
 そうだ京都,もう行くのよそう。よき思い出を忘れないために。

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 ここ数年は異常なインバウンドでした。それは日本のことだけだと思っている人も多いでしょうが,世界中の観光地がそうだったのです。それでもまだ,都会を離れれば,交通が不便なだけ,アメリカやオーストラリア,また,ハワイもオアフ島を除けば,観光客も少なかったので,私が行くようなそんな場所のほとんどは,移動途中の空港を除けば,インバウンドの影響も少なく,ストレスがありませんでした。
 それに対して,日本は狭く,公共交通が隅々まで発達しているので,どこもかしこも外国人だらけで,行き場がありませんでした。至る所に観光客があふれ,それまでの静寂は消え去り,温泉に行ってもマナーを知らない客に圧倒され,どこにも行く気がなくなっていました。特に京都は最悪だったので,私は2,3年足が遠ざかっていました。それが,2020年は一変しました。まるで沸点を越えた水がすべて水蒸気となったかのように,観光客が蒸発してしまいました。

 そこで,2020年の春は,観光客の去った京都でゆったりと桜を愛でることにしました。
 多くの人はそれどころではなかったかもしれませんが,実は,今年の春は天気に恵まれ,例年とは違って,満開の桜は散ることを忘れたかのように長い間見ることができたのです。おそらく,こんな落ち着いた京都の春はもう二度と来ることはないだろう,そう思いました。しかし,久しぶりに京都に行ってみてがっかりしたのは,以前の京都と違って,街中にあふれた注意書きでした。無断に入るな,写真を撮るな,などなど。これが,インバウンドの結果なのでした。
 それでも,満開の美しい桜は変わってはいませんでした。

 2020年の秋は「Go To Travel」がはじまって,再び,多くの観光客が京都に殺到しました。私はがっかりして,京都の紅葉を見にいくことをやめました。
 しかし,思いもよらず,期せずして京都に行くことになりました。その事情はすでに書いたので,ここで繰り替えすことはしません。いずれにしても,私が京都に行ったのは,紅葉の時期には少し遅れたので,思ったほどの観光客はいませんでした。
 私は,人混みが嫌いですが,たとえ観光地であっても,早朝かあるいは雑誌などで取り上げられる有名な観光地を避けると,急に人がいなくなります。しかし,そんな場所であっても,行くべきところも見るべき場所もたくさんあります。私は,そんなところを散策するのが好きなのです。こころが落ち着きます。そこで,思った以上に,美しい京都の紅葉を楽しむことができました。
 美しい紅葉もいつもと変わってはいませんでした。
 そんなわけで,春の桜と秋の紅葉,2020年は静寂が戻った京都を楽しむことができた年でした。


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 ここ数年,あまりの外国人観光客の多さでまったく行く気を失くしていた京都ですが,新型コロナウィルスの流行で外国人観光客が途絶えたから空いているよという噂を聞き,それが本当か知りたくなって,確かめてくることにしました。
 京都など,道路が空いていれば自宅から車でほんの1時間30分程度なので,月に数回,星見のために山や海に行くより近い場所なのです。しかし,私は日本では車を利用する旅行をしたくないので,よく京都に行っていたころは,もっばら在来線を使ってゆらゆら2時間以上かけて行きました。しかし,今の時期は特別です。公共交通機関は使いたくないので,もっぱら車移動,ということで,3月11日,早朝に家を出て,車で京都に向かいました。
 名神高速道路を使おうと,新名神高速道路を使おうと,どちらであっても草津からは同じ道です。京都が渋滞するのは,大津インターチェンジを過ぎてトンネルに入ってからの高速道路が急に狭く感じられることと,というのは緊急停止用の路肩が狭くなることですが,そして,トンネルを出るとその先に京都東インターチェンジがあって,この渋滞がトンネルの出口まで迫り1車線が使いものにならなくなって動かないので,京都東インターチェンジで降りない車が追い越し車線に車線変更するためにごった返すからなのです。また,京都東インターチェンジで降りるにせよ,京都南インターチェンジで降りるにせよ,その先の京都市内までの道路が走りにくいことが,さらに京都市内に入るのに難儀な原因に輪をかけることになります。特に,京都東インターチェンジから先の国道1号線の走りにくさはいやになります。その昔から,逢坂の関があったあたりは山が迫り,平地がなく,今でも上洛,いや,東から京都に行くには関所のようなところです。
 そんなわけで,電車を利用しても,車を利用しても,京都に行くには,大津で降りて,あるいは車を大津市内の駐車場に入れて,大津からは京阪電車と地下鉄を使って,直接京阪三条まで行く方がずっと楽なのです。JRの京都駅にたどり着いても,今度は京都駅から京阪三条までがまた渋滞して時間がかかるのも,これで緩和できます。しかし,今回は,電車を利用する気はなかったので,車でそのまま京都まで行って京都南インターチェンジで降りたのですが,道路も空いていて,難なく行くことができました。観光バスがいないからでしょう。

 これまでさんざん京都には行っているので,今回特に行きたい場所というのもなかったのですが,目的は京都が本当に閑散としているかの様子見だったということで,まずは京都南インターチェンジの近くにある城南宮へ寄って,そのあと,祇園に向かうことにしました。1年中人が歩けないほど混雑している花見小路が今はどうなっているかをこの目で見たかったわけです。
 結果を先に書くと,この時期の京都は,梅には遅く桜には早い,といういわば穴場の時期には違いないのですが,それでも,これほど観光客のいない京都に驚きました。確かに今から40年も前の京都はそれはそれは落ち着いたいい町でしたが,そのころに舞いもどったような感じがしました。
 しかし,大きく変わってしまったのは,いろいろなところにあった無粋な立て看板でした。やれ,無断で写真を撮るな,とか,街歩きのルールだとか,要するに,道徳心のかけらもない輩が大挙して押しかけてルールもへったくれもなく京都を荒らしまわったその戦禍・痕跡が至る所にあって,私は嘆かわしくなりました。
 いずれにしても,2020年の春の京都は,今後二度と訪れることのない静寂に満ちた季節になるだろう,嵐山の花見の宴のあとのごみの山がないだろうと思うと,この機会を逃すものかと思ったことでした。私は,桜の下でどんちゃん騒ぎをするような「お花見」は好みません。満開の桜の下,人の少ない屋外を散策するのが最も安全です。
 早く桜,咲かないかなあ…。今年の満開の予想は3月26日から29日です。

 春,桜の季節と,秋,紅葉の季節の京都は人があふれかえっています。数年前なら,それでもまだ,私は訪れる喜びのほうが勝ったのですが,今や,紅葉よりも人の頭を見にいくようなものになってしまい,行く気がすっかり失せてしまいました。そしてまた,お寺の拝観料も高くなってしまいました。こうして京都のよさのほとんどがなくなりました。食事をする場所すらどこも混雑していて,探すのがたいへんです。
 この人が多い時期よりも,私はむしろ冬の寒い時期や紅葉前の10月の京都が好きだったのですが,今やそんな時期さえも当時の面影がなく,1年中混雑するようになってしまいました。
 そんな京都であっても,やはり,多くの人は京都に行ってみたいと思っていることでしょう。紅葉の時期,私のつたない経験から,そんな京都を少しでも楽しむ方法を書いてみましょう。

 まず,この時期の京都に車で行くというのが無謀なことであるのは容易に想像ができるでしょう。しかし,どうしても車でなければ,という事情があるときは,京都まで行かず,大津に車を停めましょう。そして,大津から電車に乗るのが正解です。
 走ってみればわかりますが,京都というのは盆地にあって,周りを山が囲んでいるので,結構アクセスする道路がないのです。高速道路も大津を過ぎると大渋滞になります。当然,定期バスで行くというものまた同じことです。そんなものに乗ると,到着する時間がまったく読めなくなります。
 次に,この時期京都に出かけるなら,早朝に到着することがもっとも大切なのです。遅くても朝7時には到着することです。そして,目的地に向かって,一目散にバスや地下鉄に乗ることです。京都に宿泊して,ホテルで優雅に朝食を,などという愚かな行為だけは絶対に慎まなくてはなりません。
 ホテルで優雅に朝食をとるために京都に行く必要はないのです。
 そして,目的地に着いたら,そこからはなるべく歩くこと。いくら道路が混雑していても,地下鉄の駅まで行けば渋滞を気にせずに帰ることができます。
 それでも優雅に食事を楽しみたいと思うのなら,夜の食事付き定期観光バスを利用するのがいいかもしれません。

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 私が京都に熱中したのは今から20数年前のことでした。当時は今のように旅慣れてはいなくて,京都のこともほとんど知りませんでした。ずっと昔からカメラは好きでしたが,いざ写真を写そうとしても,特に写したいと思うものもないありさまでした。10月,というから,紅葉シーズンの少し前,比較的観光客の少ない時期でしたが,ふと訪れた京都に魅せられました。被写体になるものがいくらでもあるのです。そうして私の京都通いが始まったのです。
 今でも使っている「歩く地図」というガイドブックの京都編を購入して,最低月に1回は出かけて,そこに書かれた神社仏閣を舐めるように見て歩きました。朱印帳ももちました。やがて神社仏閣だけでは物足りなくなって,食べ歩きやら都をどりやら,京都にある何もかもが知りたくなってきました。
 京都には魔物が住んでいるのです。一旦取りつかれると大変なのです。

 人はだれも昔を懐かしむのです。私には,そうした時期の京都こそが私の京都であり,今もそのころの京都を追い求めているわけです。しかし,それは何でも同じことですが,すべては変わっていくのです。
 前回紹介した新聞の記事によると,京都のよさというのは,おしいパン屋さんやカフェがたくさんあるとか,心底は迎合しないクールさとかが挙げられていました。そしてまた,京都の嫌いなところは混雑して行きたくないとか,外国人観光客のマナーが悪いとか,拝観料や飲食代が高いといったことが書かれていました。
 私は,そのなかで,京都の嫌いところにかかれていることすべてに同意します。とにかく,混雑しすぎです。私はもう,そうした観光としての京都にはまったく行く気持ちがありません。そしてまた,拝観料が高いということには腹立たしい思いがあります。昔,紅葉の永観堂はお庭を見るだけなら無料でした。それが今では1,300円もします。でありながら,なんのガイドもなく,ただ中に入るだけのお金です。
 私が京都に行くとすれば,その目的は,何もない観光客のいない路地を散歩することだけなのです。しかし,そんな場所,今の京都にどれだけ残っているのでしょうか?

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 12月16日の朝日新聞のBe版に「奈良と京都,訪れたいのはどっち?」という記事があって,結果は奈良が39%で京都が61%でした。奈良も京都もガイドブックに載っている見どころはすべて行ったことがある私としてもこれには書きたいことが山ほどあるので,思いつくままに書いてみたいと思います。

 私は,どちらといわれると文句なく奈良と答えます。しかし,名古屋近郊に住む私としては,奈良は非常に遠いのが最大の難点です。距離的には遠くないのですが,交通がとても不便なのです。ずっと以前,名古屋からはJRの急行が奈良駅まであって,これは便利で,日帰り旅行ができました。今,鉄道で行くとなると,新幹線を使って京都を経由していくか,あるいは,近鉄で行くかということになるのですが,近鉄は奈良市まで行くにはぐるりと遠回りする必要があるのです。
 車は名阪国道というのがあるのですが,この道路は高速道路でもなく,一般国道でもない,という非常に中途半端な道で,おそらく,もっと後で作られていたのなら,いまよりもずっと走りやすいように建設できたと思うのですが,いまさらどうにかなるものでもなく,しかも,この道路,制限速度などあってないようなもので,無法地帯なのです。特にトラックが危険です。というわけで,鉄道にしても車にしても,行くのが楽しくないのです。

 新聞の記事には,さらに「訪れたい観光名所は?」というのがあって,有名なお寺が羅列されていました。確かに奈良や京都に出かける観光客のお目当てはそうした場所なのでしょうが,私としては,もちろん,そうした場所も見どころにはちがいないのですが,それよりも,その土地の町を歩いたり,地元の人が行くような食事処などで時間を費やすことのほうに魅力を感じます。そうしたとき,記事にもあったように,このごろの京都はあまりに観光客が多すぎて,これではまったく旅情がなくなってしまいました。
 日本の旅はこころでするもの,とは,私がいつも書いていることですが,そう考えると,「万葉集」や「日本書紀」をこころに描いて奈良の普通の町を散策することこそ,最も落ち着く旅になると,これは私がずっと思っていることなのです。

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 「京都人の密かな愉しみ」。
 評判がよかったようで,2ndシーズンが放送されました。題して「Blue 修業中/送る夏」だそうです。1stシーズンでは,「密かな愉しみ」とは,実は不倫の愉しみだった,というのがオチでしたが,われらがアイドル常盤貴子さんは愛人を追いかけてフランスに行ってしまい,私は,「京都人の密かな愉しみ」の「ホンマモン」? の2ndシーズンは,むしろNHKEテレの「旅するフランス語」であると固く信じているのですが,こちらの方の「マガイモン」? の続編は.若者たちの修行の物語なのだそうです。おそらく考えに考え抜いた構想なのでしょう。
 「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」が「ローカル路線バス乗り継ぎの旅Z」になったように,「京都人の密かな愉しみ」もまた,はじめは作る気がなかったのに大人の事情で作らざるをえなくなった新しいシーズンだと思うので,新シーズンがあるだけでもとまどうのに,常盤貴子さんが出演されないとあっては,私はテンション下がりっぱなしです。さらに,それに輪をかけて,この番組の予告編を見ただけでその内容に私は抵抗があってすっかり興味も失せていたのですが,ともかく,一度は見てみることにしました。
 曰く,この番組は,
  ・・・・・・
 作庭,陶芸,京料理など,京都の伝統的な文化を継承し,自分なりの生き方を見いだそうとする若者たちの姿を五山の送り火に向かう情景の中で描く。厳しい親や師匠との葛藤あり,涙あり,笑いあり。ドキュメンタリーとドラマを行ったりきたりしながら,イチゲンさんでは知りえない京都の奥深い世界へ。
  ・・・・・・
ということだそうです。

 NHKの朝ドラでは,「ひよっこ」のような,登場人物がすべて善人のドラマと,登場人物に「いびり」が得意な人物を配置して,そうした「サビ」? を利かしたドラマの2種類があります。私は後者のドラマは大嫌いです。この「いびり」こそが「イジメ」の根源なのですが,本質的に陰湿な日本人は,こういうの大好きなんです。苦節○○年とか,この道○○年を美化し,そのために「辛抱」とか「我慢」を強要する。それだけならまだしも,その間は修行とか仕込みと称した「いじめ」に会うわけで,それを正当化するのが大好きなんです。そして最後に,親方の厳しさが今の私を作った,とかいう美談に仕上げるのです。そんなことにだまされてはいけません。
 何事にも「ホンマモン」と「マガイモン」があります。「マガイモン」のことを「メッキ」と言います。はじめっから「メッキ」であると表示してそれを安価で売っているものはそれはそれで価値があり問題はないのですが,「メッキ」なのに「ホンマモン」と称したまさに「マガイモン」が幅を利かせているのが問題なのです。そして,それが「メッキ」であることを見抜けない「見る目がない」人たちがだまされているわけです。
 たとえば「名品」とか名づけてそれを紹介する雑誌には「名品」ぶった「メッキ」が多々登場します。私は以前「高級」をうたった少し値段の張る旅のツアーに参加したことがあるのですが,そのときのガイドが何も知らない人,つまり「マガイモン」で,この旅行会社は「メッキ」だと落胆したことがあります。そもそも,この国の,本来は生きる能力を身につけるのが目的であるはずなのに,学歴という「ブランド」,いや「メッキ」を手に入れることだけが目的となってしまい,そのためのドリル学習をするだけで何も身につかない「教育」の名を借りた「マガイモン」もまた同じようなものです。

 さて,そこでこの番組のお話です。この「京都人の密かな愉しみ」は「ホンマモン」を売りにしているからこそ魅力的であり,実際,映像も美しくまさに「ホンマモン」で,番組に登場する人物もそして風景も「ホンマモン」であったからこそ素晴らしい番組に仕上がっていたわけで,今回もまた私はそれを期待しました。しかも,今回の内容は若者が「ホンマモン」になるための辛い修行をしているというものでした。
 しかしまあ,どうして「ホンマモン」になるために,若者は気難しい親方にどやされなくてはならないのでしょう? 私にはそれがさっぱり理解できません。私はこれまで60年も生きてきて,こうした「どやす」ことの大好きな自称「ホンマモン」にずいぶんと出会い,迷惑をこうむりましたが,彼らは決して「ホンマモン」なんかではなく,肩書という「メッキ」の好きなプライドの高い単なる「奸物」たちでした。正真正銘の「ホンマモン」にはオーラがあり,まさに本物の「ホンマモン」は「マガイモノ」が得意とする「どやす」ような武器は必要がないのです。
 私は,「どやす」という武器を行使する気難しい親方,それをさも京都の「ホンマモン」文化を今もなお受け継ぐための美談として紹介するだけでも抵抗がありました。しかしそれでも,それをドラマとして見ている分には,現在そうした「マガイモン」の親方に出会ってしまって不幸な境遇に置かれた若者がこの番組を見たときそれを自分の境遇に同化できるから救いがあるかもしれません。しかし,私は五山の送り火のシーンで見てしまった「PM8:00点火」のテロップに落胆しました。「PM8:00」は誤用であって正しくは「8:00PM」と書きます。「ホンマモン」の番組だからこそ,こうした間違いがあってはいけません。すべてがその程度の番組になってしまいます。
 どうか,この「ホンマモン」志向の番組も,今回のような,まだ修行中の若者の醸し出す未熟さから脱して,もし次回があれば,ぜひ本当の「ホンマモン」に成長できますようにと祈っています。
 では私は気持ちを新たにして,常盤貴子さんを見るために,10月4日から新シーズンのはじまる「京都人の密かな愉しみ」の「ホンマモン」? の2ndシーズンであるEテレの「旅するフランス語」のほうを愉しむとしましょうか。

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したたかな千年の古都-「京都人の密かな愉しみ 桜散る」①
びっくりポンの結末は-「京都人の密かな愉しみ 桜散る」②

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 初秋の京都はすてきです。まだ,観光客がほとんどいないので,のんびりと散策ができます。
 しばらくぶりに,ふと,そんな京都を味わってみたくなって,京都に向かいました。今年の天気は異常で,初秋どころか,梅雨時のような蒸し暑さに,せっかくの旅情も台なしでした。それでも,コスモスの花や,キンモクセイの香りは,確かに初秋のものでした。
 学生が行き交う百万遍のあたりを歩いているとき,ふと,懐かしく思い出されたことがありました。

 京都・大原の寂光院は「平家物語」の灌頂巻に
  ・・・・・・  
 西のやまのふもとに,一宇の御堂あり。
 すなはち寂光院これなり。
  ・・・・・・
とあります。
 建礼門院は,1171年(嘉応3年)後白河法皇の猶子として高倉帝に入内,中宮となり,安徳帝を出産しました。安徳帝とともに入水しますが助けられて一命をとりとめました。平家一門が滅びたのち,1185年(文治元年)に出家して大原に隠棲し,晩年をおくりました。
 「平家物語」の灌頂巻は,大原で平家一門の後世を弔う建礼門院を中心にした物語です。建礼門院は,訪ねてきた後白河法皇を相手に,自らの生涯を六道の体験になぞらえて語ります。
 「平家物語」は,こうして,建礼門院の往生を以って完結するのです。

 それは,15年ほど前の冬の日のことでした。
 その寂光院を訪れようと,三千院から続く雪の積ったあぜ道を歩いていたとき,ひとりの学生さんに出会いました。今となっては理由を覚えていないのですが,その日は,残念ながら,寂光院は拝観中止でした。
 道の途中でそのことが書かれた掲示を見つけた彼女は,少し困った様子で,偶然後ろを歩いていた私に「今日,寂光院さんはお休みみたいですね」と話しかけてきたのです。
 もう夕刻で,京都市内に帰るしかなくなったので,なんとなく同じバスで戻ることになりました。彼女は,バスの中で,カメラを持ってきたけれどうまくフィルムが入れられなくて,今日は全く写真がとれなかったというようなことを話しました。
 当時は,今とは違って,カメラはすべてフィルムを使うものでした。
 京都駅まで向かう私に,その途中の出町柳で下車する彼女は,バスを降りる前に,「『柳月堂』という名曲喫茶を知っていますか? 私は,そこでアルバイトしているので,今度京都に来る機会があったらぜひ寄って下さい」と言いました。
 「柳月堂」は,叡山電鉄の出町柳駅前にあって,私がこの喫茶店を知ったのはそれよりもはるか20年も昔,つまり,今から35年も前のことでした。
 当時大学生だった私は,京都大学で法学を学んでいた友人を訪ねた折に,ふたりして京都の有名な喫茶店を梯子していました。
 そのころ,仲間内ではやっていたのは,ブルックナーとマーラーを聴くことだったので,そのとき,この喫茶店にも足を運んだことがあったのです。

 話は変わりますが,京都の喫茶店といえば,京都大学のある百万遍の近くに進々堂というあまり目立たない喫茶店が今もあります。
 ここは京都でもっとも古い喫茶店で,昔から京都大学の教授や学生が議論したり,勉強したりしていて,とても雰囲気のある,いい喫茶店です。
 この喫茶店について,京都大学で社会学を学び,やがて東京大学の文学部教授になった上野千鶴子さんが「ミッドナイト・コール」(朝日文庫176ページ)に次のような有名な文章を書いています。
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 京都大学の近くに,学生がたむろするので有名な進々堂という喫茶店がある。そこでたまたま居合わせた女子学生が,一心に読んでいる本を目にしたとき,私は激しい嫉妬に駆られたことがあった。彼女が読んでいたのは,ラテン語の教科書だった。
 ラテン語という,今は死にたえた言語。目の前の用には立ちそうもない死語を学ぶというとてつもないぜいたくに,目前の必要に追われてその日暮らしをしていた私は青ざめた。
  ・・・・・・

 閑話休題。
 それから2か月ほどして,ふたたび京都へ行く機会があったので,彼女が写真とれなかったと言っていたのを思い出して,そのときに写した数枚の写真を手に「柳月堂」を訪ねてみました。フィルムもまともに入れられないドジがどこの大学の学生かを知りたいという好奇心もありました。
 残念ながら彼女はいなかったのですが,別の店員さんに尋ねると,そのときのことを彼女が話していたということで,その店員さんは私のことを知っていました。彼女は大学を卒業して,実家のある鎌倉へ帰ったという話でした。また,お店に遊びにくることがあるので,そのときに写真はお渡しします,ということでした。
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 それからしばらくして,彼女から,写真を受け取ったというお礼の手紙が来ました。
 実は,彼女は,湘南高校を卒業して京都大学の文学部に入学した学生さんで,大学を卒業した後,東京のある出版社に就職したと書いてありました。
 私の高校時代,「俺は男だ!」という湘南を舞台にした青春ドラマが人気でした。私は,そんな高校生活にあこがれ,自分の不毛な高校生活を顧みてはテレビを見てうらやましいと思っていました。彼女は,そんな湘南で実際に高校生活を過ごし,京都大学で文学を学んだというすごい才女だったわけです。私はそんな彼女に嫉妬しました。
 彼女とは,その後,私が東京に行った折に何度か会う機会がありました。話を聞くと,家族に問題を抱えていて,いろいろ大変そうでした。一見うらやましそうにみえる人生をおくっている人にも,それぞれいろんな苦労があるものだと思いました。その数年後,彼女は東京の会社を辞め,姫路に嫁いだということなのですが,今も元気だといいなあと思います。

 京都を訪ねる度に,あれやこれや,これまでにこの地で起こった,このような,さまざまなことを思い出すのですが,今となっては,そのどれもが,なつかしいことばかりです。
 人生って,いいなあ。
 そんな思い出も手伝って,私は,久しぶりに「柳月堂」に足を運びました。店内には,ブラームスの交響曲第1番の懐かしいレコードの音が流れていました。

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蛇足ですが,「なのにあなたは京都へゆくの」は,1971年,脇田なおみ作詞,藤田哲朗作曲,チェッリシュという,現在も活躍している夫婦デュオが歌ってヒットした曲の題名です。
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 なのにあなたは 京都へ行くの
 京都の町は それほどいいの
 この私の 愛よりも
  ・・・・・・
と歌われます。

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 8月16日は京都五山の送り火です。
 送り火は京都の山々に東から西に順に灯ります。午後8時に大文字,10分後に妙法,その5分後に船形と左大文字,最後に鳥居形が8時20分に点火されるのです。 

 それぞれの点火はその方法が全く違います。
 大文字は,75か所の薪で積み上げられた火床があって,燃やされるのは護摩木です。ふもとにある弘法大師堂から運び出された灯明から火がともされるのです。
 妙法は,ふもとにある日蓮衆の檀家がそれぞれの火床を担当して同時に点火します。点火の合図はふもとから行います。
 巨大な船形は,先祖の魂を西方浄土におくるという意味で,ひとりがリーダーとなって,18人の若者が79か所の火床に一斉に走って行って同時に点火をします。
 左大文字は,50キログラムある大松明から分けられた火が山全体に灯されるのです。
 そして,鳥居形は,親火床が数か所あって,丸い皿のような火床に,20キログラムの薪の束「そく」をその親火床に突っ込んで火をつけて,これを担ぎ上げて突き刺す,つまり,山の中を火が走るという独特な点火の方法をとるのです。

 亡くなった御霊が移動するには,闇の中を篝火のもとで行われると,日本では信じらています。京都では,北の山々があの世,京都市内がこの世といわれ,この世からあの世に向かって,送り火が点火されるのです。

 この日,京都市内は,すごい人ですが,遠くに住む人が五山の送り火を目にしたいとするならば,少し早めに山のよく見える川べりへ出かければ大丈夫です。五山の送り火は午後8時から午後9時前の1時間足らずの時間です。
 その後,京都の町をのんびりと歩いて地下鉄に乗れば,京都駅まで簡単に戻ることができますし,新幹線も空席があります。

 私は,出町柳を高野川の方向に少し上った高野橋の手前の川べりに,夕暮れよりもずいぶん前から座って,じっと大文字の送り火が点火されるのを見るのが好きです。
 やがて,空が暗くなってくると,大文字の送り火が灯りはじめ,次第にくっきりと夜空にしっかりと「大」の字が浮かび上がるのです。
 今年も生きた証として,大文字を見るのです。
 そして,暑かった日本の夏に終わりを告げるのです。

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