しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:今後「不良老人」はいかに生きるか

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 情報をすべて遮断してみると,ほとんどは快適なのですが,手持無沙汰な時間があることに気づきました。今まで,そうしたときに何をしていたのかを思い出すと,意味もなく雑誌を手に取っていたということに気づきました。つまり,雑誌の類もまた,単なる暇つぶしだったのです。また,雑誌は,暇つぶしのための絶好な武器なのです。
 ということで,何らかのそうした暇つぶしの雑誌でも,と少し考えてみて,やはり,今の私には,そういう選択肢はない,というのが結論になってしまったのが,残念なことでした。

 今から少し前,私が毎月購入していた雑誌は,「アサヒカメラ」「月刊天文ガイド」「将棋世界」の3冊でした。もっと以前には,こうした雑誌には,「アサヒカメラ」には「毎日カメラ」あるいは「日本カメラ」,「月刊天文ガイド」には「月刊天文」,「将棋世界」には「近代将棋」というように,必ずといっていいほどライバル誌があって,なかなかおもしろい時代でした。それも,インターネットがなかったからこそでした。
 さて,こうした雑誌を毎月読んでいたときは,発売日が楽しみで,購入したあとも,毎日,ほとんどすべてのページをきちんと読んでいました。ところが,インターネットから情報が入るようになると,雑誌に載っている記事の内容が,すでに知っていたことが多くなり,だから,雑誌を作る苦労がはじまりました。

 カメラ雑誌は,現在「CAPA」という雑誌以外は休刊となってしまったのですが,「CAPA」はカメラのスペック比べが主で,「アサヒカメラ」の代用とはなりません。しかし,現在のように,カメラがスマホにしてやられる以前に,すごい勢いで創刊された雑誌は軒並みだめになったのですが,その理由は,読者のニーズに応えられていなかった,ということに尽きます。
 天文雑誌は,今も健在です。私が日本の天文雑誌に魅力を感じなくなったのは,雑誌のせいではなく,私の興味が変わったからにほかなりません。私は,もっと深く掘り下げた天文情報を読みたいのに対して,雑誌の内容は,日本らしい,メカ中心,または,アマチュア天文家が老後の楽しみに私設天文台を作って超新星を発見したとか,さらには,依然として,読者の投稿写真のコンテストとか,そんなことを競っているような他人の自己満足を見る気もありません。
 将棋雑誌は,よほどのマニアでないと,難しすぎます。一時,デジタル版に駒が動くという機能をつけたことがあって,こりゃすごい,これならわかる,と思って感激しtことがあるのですが,おそらく,そうした手間がコスト的に釣り合わなかったのでしょう。今は単に紙ベースがデジタル化されただけになってしまいました。内容は,手の解説をされても,読んでいるだけでは追えないし,詰将棋とか次の1手とかは難解すぎて,まったくできません。

 ということで,日本の雑誌を購入しても,ぼんやりと写真を眺めているだけなので,そんな目的に1,000円以上も投資するのは自分には割が合わないという結論になってしまいました。

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 情報を遮断した私ですが,実は,2冊購読しているものがあります。それも電子媒体でなく紙媒体です。そのひとつは,NHKラジオ語学講座のテキスト「まいにちドイツ語」です。一時,電子書籍にしたのですが,気楽に書き込めないので戻しました。紙は紙の利点があるものだと思いました。ただし,保存が大変です。ここ何年もやっていると,保存しても新しいものが出てくるから結局過去のものはほとんど見ないことがわかったので,1年終わったら破棄することにしました。
 もうひとつは,「Sky & Telescope」というアメリカの天文雑誌です。これは,電子媒体はpdfなのでダウンロードすれば,どのタブレットでもPCでも読めるので便利ですが,電子媒体とともに紙媒体のものもアメリカから取り寄せています。家で手軽に読むには紙媒体もまた捨てがたいものです。
 今日は,その「Sky & Telescope」のお話です。

 私がこの雑誌を知ったのは,今から55年以上も前のことでした。当時は「月刊天文ガイド」が創刊して2,3年過ぎたころでしたが,「月刊天文ガイド」は「Sky & Telescope」をお手本にして作られたものだと友人から聞いたのです。その真偽はわかりませんんが,そのころから,この雑誌を一度読んで,というか,そのころは英語は読めなかったので,見てみたいと思ったのでした。しかし,今とは違って,外国の雑誌を入手するのは簡単でなく,名古屋市内で洋書を取り扱っていると聞いた「丸善」という書店に時折置いてあったのを発見して,感激したものです。しかし,値段は定価の数倍しました。
 年月が経ち,インターネットが普及しはじめたころ,ネットで注文できるようになって,私は定期購読をはじめました。アメリカから直接送られてくるのです。そのうち,アプリができて,電子媒体でも読めるようになったのですが,あるときから,電子媒体のダウンロードができなくなってしまい,私は,サブスクをやめました。噂では,出版社がつぶれたとかいう話でした。
 それからまたしばらくして,どんな経緯があったのか詳しくは知らないのですが,「Sky & Telescope」の発行が継続されていて,以前とは別の方法でしたが定期購読ができたので,復活しました。以前よりも雑誌は薄っぺらくなり,アプリもないのですが,先にかいたように,pdfでダウンロードできるようになりました。いつまで存続するのかわかりませんが,今はそれで十分満足しています。

 以前ずっと購読していた雑誌「TIME」などもそうですが,アメリの雑誌と日本の雑誌は,もともと,本質的にまったく異なるもののように思えます。簡単に言うと,日本の雑誌は,カタログ雑誌だということです。
 子供のころ,私のまわりはみな「月刊天文ガイド」を購読してたのですが,その中のひとりが家で父親が広告だらけの「月刊天文ガイド」を見て,これは広告収入で成り立つ雑誌だから,こんなものにおお金を出すことはない,と言ったというのです。社会の仕組みを知らなかった私は驚きました。また,そのころの「月刊天文ガイド」の人気記事に「望遠鏡をテストする」というものがあったのですが,ある号で,旭精光研究所という今は亡きハイアマチュア向けの望遠鏡が取り上げられ,酷評されて怒ったメーカーが,それ以降,雑誌に広告を載せるのをやめたということがありました。新聞も雑誌も,結局は利益の多くはそういう媒体に載せる広告収入がもととなっているので,広告主の意に反するような記事はないし,記事自体も,広告の一環だったりするのです。
 そう考えると,むしろ,アメリカの雑誌にはほとんど広告がないから,購読料がその収益の多くを占めているわけで,それで成り立っていることの方が不思議な気もしますが,内容は日本の雑誌とは比べものにならないほど充実しています。
 物欲が煽られないだけでも,読んでいて,こころが休まります。

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 若いころから,朝起きると,テレビのニュースを見るか新聞を読むかから1日がはじまっていました。しかし,テレビのニュースも見なくなり,新聞を購読することもやめた今は,優雅で,まるで旅行に出ているような気分になることに,改めて驚きました。
 新聞をやめた人は多いそうですが,それでも,その代わり,テレビやネットでニュースを見ているようなので,それであれば,これまでと何ら変わることもありませんし,情報を遮断したことにはなりません。そもそも,私には,さも訳知り顔で,適当な取材をしてきただけのその道の素人である記者が流すニュースや,本音は売名行為なのに,専門家と称して自説を語っているだけの解説者,いや,怪説者などからの情報を得たところで,百害あって一利もありません。さらに,ネットのニュースで,最もうざったいのが無責任なコメントであって,それはYouTubeなどでも同じです。
 私が知りたいのは事実だけ。特に,天気予報は,知っていないとまずい情報なのですが,それもまた,天気図とここ数日の天気予報だけ十分なのに,明日は寒いから服を1枚余分に着たほうがいいとか,あまりにおせっかいが多すぎるし,全く当たらない1週間後の予報など,知らないほうがましです。本当に日本は幼稚園のようです。うるさすぎます。事実からあとは自分で判断するからおせっかいは必要がないのです。

 そんなわけで,情報を遮断したことで,静かな1日がはじまるのです。
 私は午前4時45分に起床します。私は朝はめっぽう強いのです。まず,カーテンを開け,クラシック音楽を流しながら朝食の準備をし,朝食をとったり,それから何やらしたりすると1時間が過ぎます。
 その後は,頼まれ仕事で外出するときは午前6時に家を出ます。早く家を出るのは,道路が空いているからです。早めに目的地に到着するので時間がたっぷりあって,それから読書をしたり,ラジオのドイツ語講座を聞いたり,仕事の準備をしたり,という感じです。
 何も予定がないときは,雨さえ降っていなければ,カメラをお供に散歩に出かけます。
 散歩をする時間は,日の出前後がいいのです。何といっても,空が美しい。この時間は,早朝も夕方も,つまり,「かたわれどき」も「かわたれどき」も,ともに,自然が最も美しい時間だと思っています。晴れていれば気持ちがいいですが,雲があっても,その雲が昇ったばかりの太陽の光で赤く染まります。木々は太陽の光を反射して,ドキッとする姿を見せます。やがて,太陽が昇りきってしまうと,それまでの幻想的な姿はすっかりなくなってしまう日常に戻ります。
 このように,何事も,何かがはじまる前がすばらしいのです。

 と書いていて,思い出したことがありました。
 それは,例えば,野球の応援をしていて,打者がボールを打った後で,もっと飛べもっと飛べといくら応援したところで,多少は風の影響があるにせよ,そのほとんどは,バットがボールをはじいたときがすべてであって,その後は何も変わらないということです。
  ・・
 それにしても,ニュースは,私がどれほど遮断してもいくらで聞こえてくるもので,私が昨日知ったのは,「出生数,初の80万人割れ確実に」というものでした。
 以前にも書いたことがありますが,ニュースを流したあとで,いまさらいろいろと解説をしても何の意味もないのです。もっと以前から推測できたことなら,そのころに問題定義をするべきだったのです。起きてしまったあとで騒いだところで手遅れです。また,いつものように,こういったニュースの常として,街頭インタビューなるものを流すのですが,それもまた,多く収録したインタビューの中から報道する側が意図した回答だけを取り上げ,あとはボツにして編集しているから,それもまた,世論を反映しているものではありません。そこにはすべて編集する側の何らかの意図が存在しているのです。

 水は高いところから低いところに流れるわけで,いくら政府が禁止したところで,本当に便利なことはなくなりません。それと同じように,生きていて楽しいと大人が思えれば自然と出生率は上がります。そうでなければ,いくらお金だけを配ったところで子供は増えません。それにしても,子供が減ると年金が減ったり福祉行政が行き詰まる,などという意見は,生まれてくる子供のことを考えているわけでもなく,要するに,大人の自分の都合にすぎないものです。
 いろいろな国を旅した私が,こういうニュースを聞いたとき思い出すのは,公共交通機関はベビーカー優先で,母親はベビーカーをもったまま席に座れるようなつくりになっていたウィーンの鉄道や,多くの若い夫婦がベビーカーを引きながら幸せそうに歩いていたヘルシンキの街の姿です。それに比べたら,日本は…。
 【今の日本では】「子育ては罰ゲームだ」といわれています。こういうことを書くと子育てはすばらしいとかいって反論する人がいるわけですが,それは論点が違っていて,「子育てが罰ゲーム」なのではなくて,【今の日本では】ということです。
 前日,私のまわりで,子供が生まれた,というような人が少なからずいたのですが,率直にいって,今【この国で】子供を作るなんて,なんとまあ,奇特な人だこと,と私は思いました。この先,預けようにも保育園がなく,学校に入学すれば,教員になりたい人もいなくなってしまった時代遅れの教育やらドリルをやるだけの塾やらユニフォーム代がめちゃくちゃ高いブカツたら何やらと教育にやたらとお金がかかり,新興宗教が母体で自浄能力もなく親から受けついだ地盤で当選しただけのような世間知らずで庶民の苦労も知らない人が構成する政府にムダ使いだらけの税金をたらふく取られ,女性が,たとえ優秀な成績で学校を卒業して社会に出ても,世界でも有数の男女不平等な国では夢も希望もない。生まれた子供の身になってみれば,将来,老人だらけのめちゃくちゃ大変な世界にほおりだされるわけです。
 そもそも,私がその身だったら,今【この国で】子供なんてやりたくありません。古きよき夢いっぱいだった時代に青春をおくりバブル経済期に無駄遣いをしなかったおかげで結果的に貯蓄が増え,今やりたいことをやっている「不良老人」の私には天国ですけれど。

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◇◇◇

☆☆☆
木星と金星の大接近。

3月1日の夕方。薄雲があります。
3月2日まで近づいていきます。 DSC_1225s


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 「不良老人」にとって,こころ静かに,日々を穏やかに過ごすことこそが,もっとも大切なことです。
 いつもそう願っているのですが,ここ数年,「不良老人」の私にとって,コロナ禍よりも禍だったのは報道でした。つくづく愛想が尽きました。
 今ごろになって,老後の年金問題,外国人労働者,海外移住者の増加,といったことを盛んに話題にしているようですが,そんなこと,もうずいぶん以前からわかっていたことです。この少子高齢化の時代に国が成り立つには,年寄りにいつまでも働かせるか,減った若者の労働者を海外から人を入れて補うか,しかありません。そんなことは私にもわかります。また,まじめに将来を考えている若い人なら,自分が将来どう生き延びるかを模索すれば,国別幸福度ランキング54位のこんな国を捨てて海外に活路を見出すのが最も得策だと思うのは当然の利であり無理もないことなのだから,海外に移住する人が増加しているというのは当然のことです。
 だれしもが考えつくようなこのようなことが現実となった今になって,そんなことを報道しているようでは情けない限りです。それは,報道が,この深刻な問題に対して,これまで,汗を流して現実を取材して,真摯にどうすればいいのかを提言をしてこなかったからです。今更… なのです。
  ・・
 一方,政府は,少子化対策とかいって,相も変わらず,増税してそのお金をばらまこうとしているのですが,そもそも,少子化の原因は,子育てをするお金がないということ以上に,子供を育てることに意義がみいだせない,夢がない,魅力がないということに尽きます。教育と称した金儲けが横行し,中学受験は過熱し,教育費は高騰し,しかし,待遇を改善しないから教師の質は落ち,学校では新しいこと,社会に出てから有益なことは何も学べないのです。また,国別男女平等ランキング116位のこの国では,女性は,仕事と育児の両立などできないほど労働環境が悪質です。
 これでは,お金に余裕のあったところで,子育てをする魅力がありません。こうした根本的な原因があるにもかかわらず,お金だけ配ったところで,少子化は何も改善されないのです。
 そうした問題を取り上げ,読者や視聴者と考えるのが報道の役割です。
 しかし…。

 雑誌は,もともとインターネットの普及で売れなくなったものをなんとかしようとあがき,売れればいい,というだけが目的のおどろおどろしい見出しが躍り,庶民の老後や生活の不安を煽るだけで,無責任で,実にひどいものです。お金を出して購入して読んだあげく不快になるような,そんなものでは買う気にもなりません。
 テレビのニュースも同じようなものです。今や,いつでも,どこでも,ネットで好きな時間に見ることができるのだから,テレビ番組表を見て,その時間にテレビを見たり録画をする,などということ自体が時代遅れです。だから,テレビなどライブで見ていないのだから,ニュースがあろうがなかろうが定刻に決まった時間枠でノルマをこなすようにして放送をしているだけのものをテレビで流す価値などありません。野球中継や大相撲中継の途中にニュースを挟む理由もわかりません。また,地震や台風の情報を,NHKのすべてのチャンネルで定時番組を中断してまで流す,その理由がわかりません。その結果,私は,もう,そんなものを見ていても不快になるだけなので,今後テレビからの報道の一切を遮断することにしました。
 新聞は質が落ちました。新聞社には将来性がないからよい人材が集まらず,また,政府の言論統制のようなひどいやり方に委縮してしまって,書きたいことも書けないでいます。新聞でなければ得られない情報がないのです。そんな理由で,私は,新聞を購読するのもやめることにしました。ミサイルが飛んで来ようと,日産が脱ルノーしようと,三菱が国産ジェットを断念しようと,そんなニュースを知ったところで,私には何もできないわけだから,そんな情報を知っても仕方がないし,知らなくても何も困らないのです。また,コロナの感染者が何人とか,未だに,そんな,もし知りたければ新聞などに載せなくてもどこにでもあるようなことにスペースを割いています。新聞は,新聞を読まなければわからないような,もっと重要な情報を伝えるべきです。大学の出願者とか入試問題も同様です。そのような情報はインターネットにいくらでも転がっています。さらに,以前にはあった,吉田秀和さんの「音楽展望」のような,お金を出してまで手に入れたいと思う,質の高い文章もありません。また,私は,将棋の観戦記を読むのも新聞を購読する大きな動機でしたが,今や,わずかなスペースに棋譜の解説だけ延々と書かれたようなものを見ても何も消化できないし,新聞に書かれている程度の情報なら,すでに,ABEMAなどの将棋中継やYouTubeにある棋譜の解説でもっと詳しく知ることができます。
 このように,今は,新聞など購読しなくても,好むと好まざるに限らず,いくらでも情報は入ってきますし,新聞に載る記事のそのほとんどは,すでに知っていることなのです。新聞は,そうした情報の上に立ったもっと深い記事や解説や分析や問題定義を載せなければ,もはや,存在意義などないのです。

 昔は,情報を手に入れるにはどうするか,ということが問題でした。しかし,今は,いかにくだらない情報を手に入れないか,知らないでいられるか,ということの方がこころの平穏には大切な問題なのです。報道に殺されちゃたまりません。
  ・・・・・・
 「養生の術」は,まず心法をよく慎んで守らなければ行われないものだ。こころを静かにして落ちつけ,怒りをおさえて欲を少なくし,いつも楽しんで心配をしない。
 これが「養生の術」であって,こころを守る道でもある。心法を守らなければ「養生の術」は行われないものだ。
 それゆえに,こころを養い身体を養う工夫は別なことではなく,ひとつの術である。
     貝原益軒「養生訓」
  ・・・・・・

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 東京から脱出する人が増えているということです。
 もともと私は人の多いところがきらいなので,大都会に住みたいという人の気持ちがわからないのですが,このご時世,これまで人の多いところに住んでいたのに自然の中にいるほうがずっと快適だと気づいた人が増えてきたのでしょうか。
  ・・
 大都会に住んでいる人にも,その理由はさまざまで,いろいろな楽しみが多いからという人もいれば,仕事のためしかたなくという人もいるのでしょう。しかし,このネット社会では,どこに住んでいてもできる仕事をしているも増えてきたし,また,何かを手に入れるにも,通信販売が利用できるから,大都会にいる必要もないわけです。それでもって,このコロナ禍で人との交わりを避ける傾向があるのなら,大都会に住むメリットもなくなってきました。

 日本のような狭い国で,しかも,公共交通が発達していれば,必要があるときだけ大都会に出かければそれでいいので,普段はもっと人の少ないところで穏やかに暮らすほうがずっと豊かな生活ができると私は思っています。とはいえ,あまりに辺鄙なところでも不便だし,であるならば,どんなところがいいのかな,と考えていて,気づいたことがありました。
 それは,人が快適に住むことができるところは,車を駐車するときに駐車料金の要らない程度の都会だということです。たとえば,ショッピングモールでも駐車券も必要なく自由に何時間でも車が停められる,公園に行っても広い駐車場がある,役所や図書館などでも無料で制限なく車を停めることができる,といった程度の町です。
  ・・
 考えてみれば,アメリカは広いからどこでも車が停められると思っている人も多いことでしょうが,アメリカの大都会は異常に車が多く,結構駐車するのに苦労します。しかし,以前話題にしたことがあるモンタナ州の州都ヘレナとかノースダコタ州の州都ビスマルクなどでは,州都であっても無料の広い駐車場があって,どこにでも車を停められるので,とても快適な旅をすることができました。
 というわけで,どうやら,人が快適に生活することができる町かどうかは,日本でもアメリカでも,車を自由に停めれらるかどうかで判断できるような気がします。

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 京都の龍安寺のつくばいに「吾唯足知」(吾れ唯だ足るを知る)と刻まれています。
 「吾唯足知」は「仏遺教経」に書かれた「知足の者は賎しとも雖も富めり」「不知足の者は富めりと雖も賎し」からとったものだそうです。つまり,こころが満ちたりていれば貧しくも豊かであり,こころが満ち足りていなければ豊であろうと実は貧しい,ということでしょう。
 また,孔子は「足ること知るものは心安らかなり」と書いています。
 こういう言葉をすぐに説教くさく「贅沢を考えずに不平不満を持たずに今あるもので十分ということを知りなさい」と説く人がいますが,そうした人ほど煩悩に満ち満ちていたりします。
 それよりも,あるブログに「自分が満ち足りていることを知っている人」こそ, 実は贅沢ができる余裕もあるし, 「必要なものがすべてすでにある」という状態こそが 爽快で,私はこんなふうに宇宙と一緒に生きたい,と書かれてあったのですが,まあ,そんな気楽な状態だと捉えればいいのかもしれません。

 「吾唯足知」は,私が以前
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 朝起きたときに「何もすることがない」という生活が理想だと憧れていたのですが,そんな理想の生活ができるようになってきました。さらにには「何も欲しいものがない」という状態こそがもっとも幸せだとも思っていたのですが,これもまさに実現しつつあります。
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と書いたことと通じる言葉であると気づきました。
 「何もすることがない」と「何もしたいことがない」とではまったく意味が違い,「何もすることがない」とは「何もしなければならないことがない」ということであり,朝起きて,その日に「やりたいと思ったことが何の束縛もなく自由にできる」ことが最も幸福だということです。
 また,「何も欲しいものがない」というのは「何も持っていない」ということとは違い,「何も欲しいものがない」というのは「自分に必要なものを手に入れた上での状態」です。ここで,「自分に必要なものを手に入れた上での状態」こそが,「吾唯足知」です。

 何かを手に入れると,それ以上のものが欲しくなり,そうした欲望は際限がないのです。しかし,自分の大きさも与えられた時間も限りがあるから,その中で何が必要かがわかるというものです。つまり,何事も「必要十分」な状態を知るという,きわめて当たり前のことをいうのです。

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 人の生き方はそれぞれですが,では,果たして定年制というのは何なのでしょうか?
 ずっと働きたいと思っていても,その限度が決められているというのは,もっと働きたいという人にも,もっと早く仕事を辞めたいと思っている人にも,共に,意味がないような気がします。
 定年制などやめて,自分が辞めたいときに働いた年数に応じた退職金をもらうのがよいのではないかと私は思うのですが,今の日本の制度だと,自己都合で辞めると退職金がかなり目減りしていまいます。この「滅私奉公」こそが日本に生まれた宿命なのかもしれません。気の毒に…。
  ・・
 日本では,昔,定年は55歳でした。それが60歳になり,今は65歳に移行しつつあります。
 60歳で仕事を辞めて,あとは自由気ままに生きたいと夢見ていた我々の年代の人たちは,ゴールが近づいたら逃げていったといいます。
 いずれにせよ,少子高齢化によって年金の支給が遅くなっていることと定年が遅くなっていることはリンクしています。
 私は定年を待たず仕事を辞めてしまったのですが,これが結果として大正解でした。それは,やりたかったことができる年齢のラストチャンスというのは50代の後半から60代の前半までだということが,経験してわかったからです。私がこのブログに書いているような自由気ままな旅ができたのは,この年代だったからなのです。65歳まで働いて,その後に私がしたような旅をはじめようと思っても,旅のノウハウもなければ,体力も気力もありません。おまけに,今は予期しなかったコロナ禍です。
 そこで,経験者である私は語ります。
 定年などあてにせず,遅くとも55歳で早期退職ができるような人生設計をすべきです。人生は1度っきりです。

 では,アメリカでは定年制というのはどうなっているのでしょうか?
 アメリカには「The Age Discrimination in Employment Act」という法律があって,使用者は、年齢を理由に差別することを禁止しているので,「60歳になったら会社を辞めてもらう内容の契約をする」ということはできません。定年制があるのは,公共交通機関の業務や警察官,消防士などだけです。アメリカでは年金支給年齢は65歳ですが,現在,67歳まで段階的に引き上げられているということです。カナダ,イギリス,オーストラリアなども同様です。
 一方,ヨーロッパ諸国では,定年年齢と年金受給年齢がリンクしていて,年金受給年齢に達した際に解雇の通知なく雇用関係を解消するといった労使合意を交わすことによって定年が定められています。現在,年金受給年齢は65歳ですが,今後,年金受給開始年齢の引き上げが議論されていて,現在は67歳まで段階的に引き上げられているところだそうです。
  ・・
 そう考えると,アメリカやヨーロッパよりも少子高齢化が進んでいる日本なのに,未だ65歳すら達成されていないのはいいのか悪いのか,という感じです。しかし,アメリカやヨーロッパのように,現役のときから休みが多く,つねに人生を楽しんでいる人たちが多い国と,奴隷のように会社に尽くしてまるで懲役刑のように働き続ける「滅私奉公」の人たちが多い日本との定年制を一概に比べても意味がないように私は思います。
 現在の現役世代の人たちは,仕事を辞めてから人生を楽しもうなどという気持ちを捨てて,現役のころからもっと休みをとって,いつも人生を楽しむようにすることの方が大切です。そしてまた,長期休暇がとれないような会社は早く見切りをつけましょう。でなければ,満足に旅行もできずやりたいこともできずに人生が終わります。そのときに後悔しても遅いのです。
 もっと仕事をすればよかったといって死んでいく人はいません。


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 これまでに何度も書きましたが,定年が65歳に延長されるのは,いつまでも働きたい人が増えたわけではなく,少子高齢化の影響で,年金の支給年齢が遅くなり,働かざるを得なくなったから,というのが理由です。
 素直にそういえばいいものを,それを,ごちゃごちゃとうそで塗り固めるのが,「撤退」を「転進」に,「敗戦」を「終戦」に言い換えるという,昔から変わらぬこの国の手法です。
 うそを正当化するためにさらにうそをつく,その愚は小学生でも知っています。道徳教育が必要なのは,小学生ではなくこの国の支配者層でしょう。

 では,定年が65歳に延長されたとき,定年後に人生を楽しむ「残り時間」はどれだけ残っているのでしょうか?
 健康寿命というものがあります。
 平均寿命は延びているけれど,健康でやりたいことが自由にできなければ意味がありません。ということで,健康寿命というのは,平均寿命から「健康に問題のある期間」を差し引いた期間のことです。つまり,日常生活が制限されてしまうような「寝たきり」や「認知症」といった介護が必要になる期間を平均寿命からひいた期間です。その期間は,平均して,男性では約70年,女性では74年といいます。であるならば,65歳で定年退職をすると,男性の場合,残りはわずか5年程度となります。
  ・・
 早いもので,私も,もはや,健康寿命もあと5年程度を残すのみとなりました。人生は短いものです。しかし,幸いなことに,私は早期に退職したので,ここ10年ほどで,やりたいことをほとんどすべてやりつくすことができましたし,旅行も,いきたいところはすべて行きつくすことができました。
 今思うに,もし「まともに」定年退職まで勤めあげていたら,退職するころにこのコロナ禍に見舞われて,何もできず,どこへも行くことができずに,健康年齢のほとんどが過ぎてしまっていたのだから,考えるだけでぞっとします。本当に早期に退職して幸運でした。

 さて,この「健康に問題のある期間」を約10年として,この間も,生かされている限りはできうる限りの生活を楽しまなければなりません。そのときに必要なものはお金です。中でもその第一が医療費と介護費用です。
 人が一生に使う医療費総額は2,700万円程度だそうですが,その半分以上は65歳以降にかかるということなので,老後の医療費は約1,300万円程度となります。現在の医療制度では,自己負担分額はその1割から3割となります。これも次第にすべて3割となっていきます。また,介護費用は,全国平均で月額8万円程度であり,一時費用の平均は約70万円ですが,これもまた増額されていくでしょう。介護期間の平均は5年ということなので,計算すると,現在の水準でおよそ500万円程度が必要ということになります。
 つまり,そうした費用の総額は現在の水準で約2,000万円ということです。
 それらを考慮して蓄えを残した上で,そうした費用を減らすためにも,1年でも長く健康年齢をのばして,せっかく生まれてきたからには,やりたいこと,したいことを自由に楽しむことができるのが幸せというものです。
  ・・
 私の「不良老人」生活もベテランの域に入り,若いころに散財してこなかったおかげで,この先も困ることはありません。しかし,65歳定年となって,元気なうちは働かされ,退職後のほんのわずかな期間しか「毎日が日曜日」の楽しい人生を過ごせないという今の若い人が気の毒でなりません。


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 コロナ禍の前は,国内だと旧街道や,時には,東北や四国,あるいは,信州に1泊や2泊の旅行をしていました。また,年に6回程度,海外旅行をしていました。しかし,現在は夕食後に1時間程度の散歩しかできません。海外には出かけられないし,国内は遠出しても楽しくないからです。
 そんなときのお供はカメラです。
 これまでいろいろと試行錯誤をしたのですが,やはり一眼レフカメラです。スマホも悪くないのですが,望遠やら魚眼やらとなると,やはり,カメラのほうがいいのです。
 そんなカメラですが,重さが1キログラムもするような重くて大きなものは,どんなにそれが高性能であっても私は御免です。いろいろと細かい性能にこだわる人もいますが,私はそんな腕前でもないし,記録ができればそれで十分です。とはいえ,カメラが売れないらしいので,どのメーカーも高級品にシフトしてしまって,私が使いたいものが続々と製造中止となっています。私は10万円以上するようなカメラは縁がありませんし,巷の流行もコマーシャルも関係ないし,影響もされません。自分でよいと思っているものを大切にいつまでも使い続けるだけです。
 
 ということで,何も買わないという基本方針の例外として,製造中止になったことでこの先は手に入らなくなると思ったので,私が元気なうち末永く使えるようにと,新たに在庫処分のニコンD5600 と中古のDX魚眼レンズを手に入れました。これで,私が持っている一眼レフカメラは,ニコンのD5100が2台,D5300が2台,D5600が1台,D3500が1台,さらに,キヤノンのEOS Kiss7,EOS kiss8i,EOS Kiss9がそれぞれ1台となりました。さらに,携帯用にとニコン1が3台あります。
 キヤノンのカメラとニコンのD5100 は天体撮影用に改造がしてあります。また,レンズはすべてニッコールで,キヤノンのカメラにはアダプターを介して使用しているというように,目的ごとに使いわけていて,ムダなものは1台もありません。
 レンズも,けっこう持っていますが,もっとも重宝するのが先に書いた対角魚眼レンズなので,すでに1本持っていたのですが,壊れるといけないので,もう1本追加したというわけです。
 普段,散歩に持っていくのはニコンD5600にシグマの18ミリから250ミリのズームレンズですが,これだけでほぼ,事足ります。画質がどうのとか,こだわる人もいますが,私には,便利で写ればそれでいいです。

 カメラ好きの人たちで盛り上がっているブログがあって,それを読むと,カメラは大きくて重くて性能がよいものがよい,とか,値段にこだわわらず,新しい製品が出るたびに,やれ買いだ買いだと盛り上がっていますが,プロのカメラマンは別として,そんな高級品を持って写真を楽しんでいる人は,私が知る限り,まわりにはほとんどいません。
 紅葉のシーズンなどに観光地に出かけると三脚に大きなカメラを持って場所を占拠している人が群れています。また,ドクターイエローが通るとなると,鉄道の線路の近くの田んぼのあぜ道に三脚を立てて陣取っている人たちが群れています。そうした人たちはかなり迷惑です。趣味を楽しむのはひとそれぞれですが,迷惑はいけません。
 そこまでしなくても写せると思う私は,何を大げさな,と思ってしまいます。かくいう私は,そんな大きな機材を持って,旅をする気にもなりません。
 車だって,ほんの一部の車好きの人たちがこだわりをもって高級車に乗っています。その中には運転が乱暴な人が少なからずいます。しかし,ほとんど人は国産の適当な車に乗っていて,車に特に興味があるわけでもないのです。そもそも,そんな高級車がその性能を発揮して走れるような道路がこの国にはありませんし,カメラもまた同じで,その性能を発揮できるような風景すらないのです。 
  ・・
 私は,先に書いた機材だけで十分なので,これからも,それらを利用して,散歩をしながら,あるいは旅をしながら,楽しく写真を写すことにします。
 さあ,これですべて買いそろえたので,これからは,新たに何かを買い足すということは一切ありません。そんなお金があったら,コロナ禍が収束するのを待って,私は旅に出ます。


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 私は,このところ,さらに楽しい生活を過ごすためにいろいろなことを見直してきていて,ときどきこのブログにもそんなことを書いてきたのですが,やっと調子がでてきました。そこで,それらをまとめておくことにします。
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 自宅で暇しているときの時間つぶしといえば,これまではテレビでした。しかし,私は,テレビについて,BSはNHKBSの2,3の番組を除いて,まったく見なくなりました。2,3の番組というは,「にっぽん横断こころ旅」と「コズミックフロント」,そして,「キャッチ!世界のトップニュース」の金曜日「@NYC」です。また,地上波は2,3の気に入ったドラマだけをアプリで見るだけで,まず,見ません。それでも,これまでは,Eテレで日曜日の夜にNHK交響楽団の定期公演が放送されていてそれを楽しみにしていたのですが,4月の番組の改編とともにそれも減ったことと,それ以上に,コロナ禍以後のクラシックのコンサートはそれ以前とは出来がまったく違うので,興味をなくしてしまいました。その代わり,CS放送の「CNNj」と「スーパードラマ!TV」を契約して,「CNN」は夕方から夜にかけての放送を,「スーパードラマ!TV」は気に入ったアメリカ発のドラマを見るようになりました。
 私は,テレビに限らず,インターネットでも,日本の報道番組やニュースのコンテンツはまったく見ません。あまりに内容がひどいからです。その代用として,紙媒体の新聞を1紙だけ読むことにしています。それは,情報がないのも困るという消極的な理由からだけです。

 また,昔は,時間があれば当たり前のように書店に立ち寄っていたのですが,それもなくなりました。専門書でもない限り本は読まなくなってしまったからです。書籍もまた,内容があるものが本当に少なくなりました。特に雑誌の類はひどく,読むに値するものがありません。それだけならいいのですが,読むと逆に不快になるだけのものばかりです。
 その代わりに,再び「SKY AND TELESCOPE」の購読をはじめました。これは,部屋でクラシック音楽を聴くときのお供でもあります。音楽といえば,YouTube にかなり質の高いクラシック音楽がアップロードされています。YouTube もまた,くだらないものが90パーセント以上ですが,探せば,なかには,かなり質の高いものがあります。また,YouTube 以外には,手元にある音源から,ベートーヴェンのピアノソナタと弦楽四重奏曲,そして,ハイドンとモーツアルトの交響曲,そして,モーツアルトのピアノ協奏曲などを聴きはじめました。聴いてみるとそれがまたとてもおもしろいのです。こんな機会でもなければ聴くこともなかったと思うと,不思議な気がします。
 それに加えて,毎週日曜日の午後2時からNHKFMで放送されている「×クラシック」が楽しみです。担当している才女・市川紗椰さんのおしゃべりを最高に気に入っています。

 とまあ,家にいるときはそんな時間を過ごしているのですが,このように,自分には意味のない情報を遮断することで,なんとまあ,こころが落ち着き,精神的に豊かな時間が過ごせるのだろうかと,しみじみ感じるようになってきたこのごろです。


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 昨年東京に行って,東京駅からサントリーホールまで,国会議事堂のあたりを経由して歩いていたら,都立日比谷高校がありました。こんなところにあったのか,と田舎者の私はびっくりしました。というのも,昔読んだ,庄司薫さんの書いた「赤頭巾ちゃん気をつけて」の舞台がこの都立日比谷高校だったからです。
 1969年に芥川賞を受賞したこの作品は
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 風邪をひいて,万年筆を落として,東大入試は流れるという災難に見舞われた日比谷高校三年の薫くん。そのうえ12年も飼ってきた犬に死なれ,左足の親指の爪まではがしてしまった。幼馴染の由美とはささいなことから仲違い。踏んだりけったりのスタートを切った薫くんの1日は…。
 真の知性とは何か。戦後民主主義はどこまで到達できるのか。青年の眼で,現代日本に通底する価値観の揺らぎを直視し,今なお斬新な文体による青春小説の最高傑作。
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というものです。そういえば,私も昨年の秋,湖東三山に出かけて,百済寺の庭石に足を取られて左足の親指の爪をはがしました… と,これは余談。
 この本で私が忘れられないのは,当時の都立日比谷高校の様子が描かれた部分です。少し引用してみると
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 学年の変り目に,なんと生徒の方に,その年とる講義と先生を選ばせる儀式で,(略) つまりぼくたちは。或る朝1学年全員が校庭に集まってきて,それぞれの思惑に従って,1課目ごとに好きな先生を選び,そして好きなクラス担任を選んでその旗のところに集まる。
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というものでした。今の日本の高校の様子を考えると,信じられない世界です。
 私の卒業したのも,同じように,補習もなく模試も強要されず,3年生は1月から休みだった自由な学校でしたが,東京にはその上を行く,生徒の自主性に任せた学校があるのかと驚きました。
 当時は,そんな学校を卒業したエリートたちが東京大学に入り,卒業後は官僚となっていったわけです。

 都立日比谷高校も,そのお隣にある国会議事堂や霞が関の官庁もその場所は変わらずとも,この国の精神はそのころとはすっかり様変わりしてしまったようです。今や,学校では民主主義を習わず,生徒は反抗もせず,社会に疑問も持たず,思索にふける暇も与えられず,教師の指示に従って大量の課題をこなすだけになってしまったし,官僚もまた,忖度やらに神経を費やし,国会議員の顔色を窺って多忙な毎日をおくっているだけの存在となりました。そしてまた,忖度される側のこの国の支配者たちは,自分の言葉で話すことすらできませんし,まれに自分の言葉で話せば,今度は,時代遅れの認識と価値観が暴露されるという結果になるわけです。
 以前,ブログに
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 私がどうしても理解できないことは,60歳を過ぎて,まだ野心をもっている人の気持ちです。
 若いころなら,自分にはどれだけ能力があるのだろうかと社会に問うのは,おそらく人としての本能だと思うのですが,そうした時期を過ぎて,しかも幸いにも自分なりに成功し,将来に対する不安もないくらい財を成した人が,せっかく悠々自適に好きなことをして過ごせるようになったのに,どうしてまた,と私は思ってしまいます。
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と書きました。また,
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 功成り名を遂げ歴史に生きた証を残したところで,地球上に人間という摩訶不思議な生き物が生存できる時間などたかがしれていて,そのうち何もかもなくなってしまうのに,そこに何かを残すことなど,まったく意味がありません。そもそも,そうして名を残すことが生きる目的なのでしょうか?
 生きること自体が困難で,だれかがリーダーとなってそれを改革しなければならない,という状況下で,リーダーたる能力をもって生まれた人が嘱されて集団を束ねるというのは自己犠牲の上に成り立つもので,立派なことです。しかし,はじめに地位が存在していて,そこに誰かが就いていなければ組織が成り立たないというだけの規格化された今日の社会で自ら手を挙げて俺がその地位に収まりたいというのは,それとは違います。
  ・・・・・・
とも書きました。
 そんな時代に,自らの人生を権力者として捧げる人たちは尊いのでしょうか。そもそも出世願望というのは劣等感の反映です。だから,だれも頼んでもいないのに,そうした地位に就くことが生きる目的だと思うほど自分に自信がなく愚かなのでしょうか?
 「週刊朝日」や「サンデー毎日」がやれ〇〇高校から東京大学合格何人だのとはやし立てても,その大学を卒業したその果てに待っているのが,一生出世争いをし,政治家の顔色を伺い,多忙なだけの官僚というものなのでしょうか?
 そもそも,このご時世,東京に住んでいるというだけで,幸せの半分を手放しているようなものです。

 それにしても,この国の「劣化」は,留まるところを知りません。教育という名のもとで点数争いをしているだけで,若いころに自由を謳歌し,あるいは,生きる意味について悩み苦しんだ経験のある真のエリートを育ててこなかったからこの様です。今の政治家は,まるで「ドクターX」に出くる悪徳医を地でやっているようなものです。そんなドラマが現実となりつつあります。
 国民が忘れてならないのは,国にはお金はないということです。国のお金というのは,国民の税金を集めたものと国債とかいう名の借金なのです。そして,国の決めた施策を実行するのも国ではなく企業です。つまり,政治家がやっているのは,予算を決め,その施策を実現するために国民の税金を原資として企業に発注するということなのです。わかりやすくいえば,さまざまな口実を作っていかに多くのお金を国民から巻き上げるか,そして,そのお金を,どのような理由をこしらえて企業に分配するか,ということです。だから,企業は,いかにして国からお金を分配してもらうかということに苦心するわけです。そこに癒着が生まれ,接待が行われるのです。
 このように,何ごともやっていることには裏があるのです。だから,作らなくてもいい道路やダムができるし,教育改革といいながら実は教育産業やIT企業に金儲けをさせるために丸投げはするし,コンピュータの知識もないから不完全なアプリを高額で発注し欠陥品を納入するわけです。
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 非常事態宣言とかを発令していますけれど,そもそも,自粛をよびかけていたその時期に,忘年会をやって7万円もする料理をおごってもらっただの,県境を越えて移動するだの,仲間の選挙の応援に走り回るだの,そうしたことを率先してやっていた当事者たちが,そういうことをするなという宣言を発令しているのだからお笑いぐさです。それは,酒飲みのおやじが酒を飲まない息子に酒を飲むなと説教しているようなものだからです。
 政治家も医者も日ごろから宴会や飲み会,そして,群れることなど「気の緩むこと」が大好きな人たちでしょう。そうした彼らが口癖のように上から目線で偉そうに国民に「気の緩み」などと決して言ってほしくないものです。そしてまた,少し前にGo To Travel とやらを東京を除外して仲間はずれにしたときはそれに抗議をしておいて,今度は東京は非常事態宣言を続けよなんて,よくもまあ,いけしゃあしゃあと言えたものです。そもそも,国が一丸となってコロナ禍に取り組まなけばならないのに,足の引っ張り合いをし,利権争いをし,ごまかすことに全霊を捧げる様を見ていると,若者が新型コロナウィルスを軽視しているなんていえたものではなく,自分たちが一番軽視していることが容易に見てとれます。

 まあ,私は,飲み会もしないし,旅行は行き飽きたし,権力争いも興味ないし,利権も関係ないし,忖度もしないし,一向に何も困らないから,欧米や中国,ロシアのように自国でワクチンも作れないエセ先進工業国はワクチン接種すら滞っていることだし,2週間だの1か月だのとけち臭いことをいわずに,いつまでたってもリーマンショックの後始末もできないで金融緩和を続けているのをよきお手本として,永遠に非常事態宣言とやらも続けてもらって,ついでに,利権に群がっているだけのオリンピックも中止しちゃいましょう。そうすれば,以前のようにインバウンドで外国人が観光地に押し寄せて迷惑することもないし,世の中静かで安らぎます。飛行機も新幹線もコンサートホールも空いているしねえ。私はこのほうがいいや。
 この国の去勢された国民はそのくらいにしないと暴動なんて起こさないし,そんな事態にでもならなければ,食うに困っていない権力者たちは庶民の苦労なんて絶対わからないのだから。
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 以前,「私は理解できない」とこのブログに書いたのですが,それ以降,私は増々,行っていることとやっていることが裏腹な日本の社会が理解できなくなりつつあるこのごろです。

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ブドウ

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 きょうはイソップ童話のお話です。
 まずは,「北風と太陽」です。これはとても有名なので,何もコメントをする必要もないでしょうが,私の大好きなお話で,このブログ「しない・させない・させられない」の根底に通じるので,載せておきましょう。
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 北風と太陽が,どちらが強いかで言い争っていました。
 議論ばかりしていても決まらないので,それでは力試しをして旅人の着物を脱がせた方が勝ちと決めようという事になりました。
 北風がはじめにやりました。北風は思いきり強く「ビューッ!」と吹きつけました。旅人は震えあがって,着物をしっかり押さえました。そこで北風は,一段と力を入れて「ビュビューッ!」と吹きつけました。すると旅人は「うーっ,寒い。これはたまらん。もう1枚着よう」と今まで着ていた着物の上に,もう1枚重ねて着てしまいました。北風は,がっかりして「きみにまかせるよ」と太陽に言いました。
 太陽はまずはじめに,ポカポカと暖かく照らしました。そして,旅人がさっき1枚よけいに着た上着を脱ぐのを見ると,今度はもっと暑い強い日差しを送りました。ジリジリと照りつける暑さに,旅人はたまらなくなって着物を全部脱ぎ捨てると,近くの川へ水浴びに行きました。
 ・・・・・・

 さて,話を本題に戻します。私が書きたいイソップ物語は「北風と太陽」ではなく「キツネとブドウのふさ」のお話です。
 ・・・・・・
 「お腹が空いたよう」とキツネが森の中を歩いていました。すると,おいしそうなブドウがブドウ棚からたくさんぶら下がっていました。キツネは,何とかして取ってやろうと思いました。でもブドウ棚は高くて,どうしても手が届きません。
 するとキツネは「ふん。あのブドウは,まだ酸っぱいのさ」とひとりごとを言って,どこかへ行ってしまいました。
 ・・・・・・
 この,プライドの高い人と負け惜しみの強い人と無知な人に対する戒めとなるお話は,だれにもありがちなことです。 
 「日本はすばらしい」とこころから信じている人がいます。実際に世界を多く見てきて,その結果そう思うのならよいのですが,中には,本当は旅立ちたいのにそれができないのを強がっていることも少なくないのです。で,「日本はすばらしい」と強がるわけです。そして,この国はいい国だいい国だと自分にいい聞かせているわけなのです。
 あるいは,コンピュータが使えない,スマホが使いこなせない人が,そんなものは害である,となるわけです。これもまた同じことです。
 人は歳をとると頑固になりがちです。そして,自分のできないことを,このようにして強がって正当化しようとします。そうしたときに,この寓話を思い出して,頭を柔軟にできればいいなあ,といつも思います。


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 少し前,スーパー銭湯に行ったら,露天風呂にテレビが設置してありました。テレビなど見たくもないのに意識しなくても音が聞こえます。画面も見えます。これは不快極まりない状況でした。そういったものを忘れてリラックスしたいのに,なんだこれはと思いました。もうそこには二度と行くまいと決意しました。
 それと同じように,病院の待合室や理容店など,当たり前のようにテレビがかかっています。一昔前なら,これがサービスだったのでしょうが,今は不愉快なものの代表となりつつあります。見たくもないものを強制的に見させられているわけです。見たくもないものを強制的に見させられるのは,拷問ですらあります。特に,民放のワイドショーや,NHKの報道番組は最悪です。
 ホテルなどの部屋にも,当たり前のようにテレビがありますが,私は近年,つけたことがありません。
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 テレビが押しつけてくる情報は極力遮断することに限る,これがこころ穏やかに生活するための最善の方法だと気づいて以来,娯楽の代表だったはずのテレビが,いまや,私には最も迷惑な存在と化してしまいました。
 いつごろから,こんな状況になってしまったのでしょう?

 ところで,先日,私の見ているテレビが不調になったので,当たり前のように,ついうっかり買い換えてしまいました。とはいえ,私が見ているのは19インチの小さなテレビですが…。このごろは4Kだの8Kだのという大型のテレビが電器店に並んでいますが,いったいそれで何を見ようというのでしょう?
 ということで,新たに小さなテレビが家に来たのですが,そこでハタと,これでいったい何を見るのだろう,と思いました。民放やNHK総合のドラマなら,テレビでなくとも,インターネットで見ることができますので,私は今はそれを iPad で見ています。こうなると,わざわざ時間を決めて番組を見たり,録画することすら面倒になってきました。また,これまで見ていたNHKEテレのクラシック音楽番組も,ラジオで音だけを聴くほうがはるかに快適だとわかってきたので,テレビでは見なくなりました。
 あえて今,テレビでなければ見られないものといえば,NHKBSPで放送されているドラマや科学番組,旅番組くらいのものでしょうか。NHK+ではBS放送が見られないので,仕方なくテレビで見ているわけです。NHKは高い受信料を払っている割にものすごく不便です。受信料などやめて,番組ごとに課金すればいいのです。また,多くのチャンネルがあるのに,地上波とBSで同じ番組をやっていたり,何度見たかわからないような再放送ばかりを流しています。ラジオも,FM放送ではニュースなど流す必要はなく,音楽だけで十分です。
 いずれにしても,この情報化の時代に,テレビはむしろ,情報過多でおせっかいなだけの存在。人を不安に陥れるだけの不愉快な存在。生活を豊かにすることとは相反して,苦痛を与えるものになってしまったのが,まことに皮肉なことです。


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 NHK連続テレビ小説(朝ドラ)「エール」が終わってしまいました。二階堂ふみさんの笑顔がすてきでした。
 私が以前から書いているように,多くの人もまたテレビの報道番組を見ることに疲れ,あるいは嫌気が差し,テレビなどほとんど見なくなってしまったようです。このことはテレビ局側の責任ですが,その中で,かろうじてドラマだけが,非日常をもたらしてくれるものとして,テレビを見る機会となりました。しかし,ドラマといってもそれぞれで,ともかく一度見てみないことには,それが自分に気に入るものかどうかわからないのです。そこがドラマ選びのむずかしいところです。

 私は,これまで朝ドラを見る習慣がなかったので,当然「エール」も見ていなかったのですが,コロナ禍で放送が中断されてしばらく再放送になったときに,なんとなく見る機会があって,それではまりました。
 私が4月の中頃に愛知県新城市の「エール」の舞台となった小学校跡地に行ったのも,「エール」が動機ではなく火野正平さんが自転車で巡る「にっぽん縦断こころ旅」でその場所が放送されたのがきっかけでした。そこが奇しくも「エール」の撮影場所だったわけです。
 そのころに足繁く行った岐阜県や福井県,また,兵庫県のさまざまな場所もまた「麒麟がくる」にちなんだところばかりだったのですが,それもまた,偶然で,不思議な縁を感じました。

 いつも書いているように,テレビは娯楽であって,見ていて楽しくなければ意味がないのです。教えてやる,伝えてやる,という感じの不安を煽るだけの傲慢な報道番組は一切御免です。その意味で「エール」は元気が出るとてもよいドラマでした。
 この国は,昭和30年とその前後生まれが「勝ち組」です。そのひとりである私は,東京オリンピックの中継をテレビで見て,その開会式で流れたオリンピックマーチに感動したことを覚えていますが,これが「エール」の主人公である古関裕而さんの作曲とは知りませんでした。この年代は,東京オリンピックも,大阪の万国博覧会も,アポロ11号の月着陸も,実際にその生中継を,あるいは現場を見ることができた最も幸せな世代なのです。今とは違って,金儲け優先ではなく,もっと人間ドラマが先にあった希望のあふれた出来事でした。と,子供心には思われました。

 この番組が終わってしまったとなると,今後の「エール」ロスが心配です。大河ドラマ「麒麟がくる」の帰蝶ロスに続いて,今度は「エール」ロスです。そんなロスは私だけかと思っていたのですが,どうやらそうではないようです。
 私は,ドラマといっても,いじめとかいびりとか,そういう試練に打ち勝つとか,そういったものは見る気になりません。「おしん」もダメです。次作は「おちょやん」だそうで,その主人公である浪花千恵子さんも当然知っています。予告編を見ただけですが,どうも,明治時代や大正時代,また,昭和初期の日本にはびこった,そして,今でもそういうのが好きな日本人の,こうした修行ドラマはだめです。受けつけません。再放送している「澪をつくし」もおもしろくありません。
 日々こころおだやかに生活するために,報道番組を一切見なくなった今,いったい私は「エール」に代わるどんなドラマを楽しめばよいのでしょう?


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 11月3日火曜日はアメリカ合衆国の大統領選挙です。そこで,今日の写真は,2016年に私が行ったときに写したホワイトハウスと初代大統領ジョージ・ワシントンの墓です。
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 さて,人それぞれ,法律に違反しなけれは何をしようと自由だし,人生観も価値観もそれぞれ異なるので,それにとやかくいう気持ちはないのですが,私がどうしても理解できないことは,60歳を過ぎて,まだ野心をもっている人の気持ちです。
 若いころなら,自分にはどれだけ能力があるのだろうかと社会に問うのは,おそらく人としての本能だと思うのですが,そうした時期を過ぎて,しかも幸いにも自分なりに成功し,将来に対する不安もないくらい財を成した人が,せっかく悠々自適に好きなことをして過ごせるようになったのに,どうしてまた,と私は思ってしまいます。

 たとえば,現在のアメリカ合衆国の大統領は人がうらやむような大金持ちで,何ひとつ不自由ない生活ができる財力をもっているのに,あの年齢になっても,どこにあれだけの戦闘的な情熱があるのか,私にはまったく理解ができません。ある意味,すごいです。しかし,国を分断して,他人を散々攻撃してまで,自分の地位を守ろうとするとする熱意は,いったいどこからきているのでしょうか?
 それは,自分の身を投げうってまで,世のため人のために尽くしたい,捧げたい,という強い使命感からくるものなのでしょうか? それとも,歴史に名を残したいという名誉欲から来るものなのでしょうか? あるいは,人の上に立って社会を自分の思うがままに操りたいという支配欲からのものなのでしょうか? はたまた,やりたいことがないから暇つぶしをしているのでしょうか?
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 しかし,功成り名を遂げ歴史に生きた証を残したところで,地球上に人間という摩訶不思議な生き物が生存できる時間などたかがしれていて,そのうち何もかもなくなってしまうのに,そこに何かを残すことなど,まったく意味がありません。そもそも,そうして名を残すことが生きる目的なのでしょうか?
 生きること自体が困難で,だれかがリーダーとなってそれを改革しなければならない,という状況下で,リーダーたる能力をもって生まれた人が嘱されて集団を束ねるというのは自己犠牲の上に成り立つもので,立派なことです。あるいは,どこぞやの国家のように,たまたま,そうなるしかないという家柄に生まれてしまったら,それは,ある意味,不幸だともいえます。
 しかし,はじめに地位が存在していて,そこに誰かが就いていなければ組織が成り立たないというだけの規格化された今日の社会で自ら手を挙げて俺がその地位に収まりたいというのは,それとは違います。

 たいそうな大統領を例としなくても,身近にも,露骨に出世願望が強い人がいます。
 私は,出世願望というのは劣等感からくるある種病気のようなものだと思うのですが,今の平和なこの国では,そうした出世願望の強い人が自分の望む地位に就くことはわりに簡単にできるのです。しかしそれは人望が厚いというわけでなく,もともとやりたい人が少ないから,やりたいと手をあげれば,順送りで4,5年そのイスに座れる,というだけのことです。
 組織として厄介なのは,その中に,何を勘違いしているのか,そうした地位にいることに過剰なプライドをもっている人が存在している場合です。かつて私が出会って迷惑をこうむったのもそんな輩でした。そういう人は自らの地位を守るためにはパワハラもいとわないのですが,そうまでして,かつ,多くの人を傷つけて,いったい何を得ようとしているのでしょうか。おそらくそれは自分の弱さを隠す手段でしかないのでしょう。惨めなはなしです。
 しかし,私も齢をとり,そうした人の哀れな末期をずいぶん見てきました。結局,山に登っても,その上には何もないのです。というより,そもそも山自体がないのです。たった一度の人生,そんなことに自分の貴重な時間を差し出すなんて,私には最も理解しがたいことです。それは,自由に生きるという,人としての究極的な幸せとは全く正反対のことだからです。

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 いかにこころ落ち着く日々を過ごすかを話題にしています。
 まず,情報はできるだけ遮断してしまおう,と書きました。次に,モノを買うのは必需品以外はやめましょう,と書きました。そうして,家で過ごすときは,本を読んだり,音楽を聴いたり,旅をするときは,人の少ない自然の中を,なるべく予定を立てずに散策する,これだけを心掛けるだけで,日々がとても楽しくなります。
 そもそも,地球上に生き物がいなくても何の問題もないのです。それが,創造主の気まぐれで,何かの偶然で人間ができてしまった。そして,そこに自分が宿ってしまったというだけのことなのです。未来永劫などない,そして,人間がこしらえた地位だの名誉だのに何の価値もないのです。さまざまな価値観や道徳もまた,人が作っただけのものです。だから,何事も難しく考えずに,宿っている間を楽しく過ごせばいいのです。と書いてきました。
 今日は,日々をより楽しくすごすための音楽の話題です。

 私はこれまで,時にはコンサートに出かけ,行くことができないときは,テレビやラジオなどで音楽に親しんできました。その多くは,クラシック音楽です。クラシック音楽のよさは,それに関する芸術やそれが生まれた歴史などを深く知れば知るほど,よりおもしろく聴くことができることです。ここ数年,オーストリアやフィンランドに出かけて,そのことがよりわかりました。オーストリアではハイドンやマーラー,フィンランドではシベリウスの音楽のおもしろさを再発見することができました。そうした音楽は,やはり,ライブで演奏を味わうに限ることもわかりました。
  ・・
 とはいえ,いつもライブで演奏を聴くわけにはいきません。しかし,このごろ,私がとても残念に思うようになったのは,テレビなどの映像で音楽を味わうことが苦痛になってきたきたことがあります。その理由はふたつあります。
 そのひとつは,数年前の演奏を見るとき,演奏家の昔の姿を見るのに耐えられなくなってしまったことがあります。人はだれでも平等に老いるのです。しかし,楽しむための音楽で,老いを感じてむなしくなるのはせつないのです。マエストロや演奏家が年々老いていく姿を見るのがつらいのです。
 そしてもうひとつは,今年のコロナ禍で,ステージ上で一部の奏者がマスクをして演奏している姿を見たくないのです。観客は別として,演奏者が,リハーサルならともかく,私語を発するわけでもなく飛沫が飛ぶわけでもないのだから,予防効果はなく感染者が自分の飛沫が飛ぶのを防止するのが目的であるマスクなど全く意味がないのに,あの姿はいただけません。まるで下着姿で出てくるようなものです。また,感染者であるなら当然ステージに上がってはいけません。力士がマスクをして相撲をとるのと同じです。
 日常を離れて音楽に没頭したいのに,あれでは台なしです。
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 というわけで,私は,自宅で音楽を楽しむには,映像を見ることはやめて,音楽だけを聴くことのほうがずっと楽しいということに気づきました。それは何もクラシック音楽に限ることではありませんが,映像から離れてみると,何と音楽がよりすばらしく聴こえることか。それは新鮮な驚きでした。
 コロナ禍は,こんな,当たり前のことを気づくことができただけでも,意味があったのかもしれません。これもまた,塞翁が馬でした。

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 日々やすらかに生活するために,テレビのニュースやウェブからの情報を遮断して,再び紙媒体の新聞だけを読むようになったと書きました。そうして,改めて新聞を読んでみると,新聞には突っ込みどころが満載です。それがまたおもしろいというか,ちゃちゃを入れていると退屈しません。そこで今日は,その一例として,2020年10月10日の朝日新聞be版にあった「生まれ変わったら日本人になりたい?」という記事をとりあげてみます。
 記事の中にも記者の反省の弁がありましたが,この質問自体が間違っています。この記事には「生まれ変わったら日本人になりたい?」という質問の次に「日本以外で生まれ変わるならどこ?」という質問があるのですが,このふたつは並列したものではありません。ふたつめにそのような質問をしたいのなら,はじめの質問は「日本に生まれてよかったか?」「生まれ変わるとしたらまた日本に生まれたいか?」というものでなければなりません。また,この質問の回答を読むと,どうやら,回答者は「日本人に生まれたいか?」ではなく,「日本に住みたいか?」と解釈して答えているようです。
 また,かつて,大相撲で「日本人横綱」という言い方が問題となりましたが,一般の人が会話の中で使うならともかく,マスコミが容易に「日本人」という言い方をするようではその時点で失格です。配慮なさすぎです。日本人というのが民族のことをいっているのか,国籍のことを言っているのかわからないからです。しかも,日本人といっても,そこには,歴史的に多くの問題を抱えています。

 いずれにしても,この種の質問は,「生まれ変わるとしたらまた男(女)に生まれたいか?」(とはいえ,第3の性を考慮する必要があるので,この質問も配慮が必要ですが)というものと同様,質問に無理があります。それは,リンゴとみかんの両方を食べてみて,その結果「どちらが食べたいか」ということとは違い,その一方のみの経験しかできないのに,どちらがいいかと質問をしているようなものだからです。しかし,「生まれ変わるとしたらまた男(女)に生まれたいか?」という,もうひとつの立場に立つことが不可能な質問よりは「生まれ変わるとしたらまた日本に生まれたいか?」のほうが,生まれるということは無理としても,外国生活を長くした経験があればその経験をもとにして比べることは可能だから,少しはましなのかもしれません。そういったことを考えると,海外で生活をしたことがある人とそうでない人とでは,おのずから回答が異なるから,それを考慮せずに集計しても,本当の結果はわからないのです。
 また,「日本に生まれてよかったか?」という質問だったら,〇〇という国に生まれるくらいなら日本のほうがマシ,という前提で「日本に生まれてよかった」と答える人もあれば,〇〇という国に生まれることができるのなら日本よりいい,と考える人もあるから,こうした質問の答えは,より高い理想を持つ人と,まず最悪を考える人によって,変わると思います。
 ともかく,こうした質問の答えとして,日本がよいと答える人の多くは,実際に外国に生活をした経験のない人や海外の現状を知らない人が多いと私は思います。そしてまた,ふたつめの質問である「日本以外で生まれ変わるならどこ?」についても,実際にその国で生活をしたわけでもない人には,それは単にその人がその国に抱くイメージでしかありません。

 この記事の「また日本人に生まれたい」という人の理由は,「また日本人に生まれたい」ではなく「また日本で暮らしたい」という意味での回答だと思うのでちぐはぐです。
 それはともかく,その理由で「治安・秩序が保たれている」というものが最も多かったのですが,私には納得がいきません。確かに物騒な国はたくさんありますが,その逆に,日本より「治安・秩序が保たれている」国はほかにもたくさんあります。日本では,殺人事件こそあまりありませんが,窃盗は少なくないし,振込め詐欺が横行しお年寄りには暮らしにくい国だと思うし,車の運転は傍若無人だし,日本人は人の目がなければ平気でごみは捨てるしやりたい放題なので,本質的には日本は無秩序な国だと私は思います。
 また,理由の3番目に「自然が美しい」という回答がありましたが,これだけ自然が破壊され,野山を歩けば廃墟だらなのに,それはないよと思います。それはよほど外国を知らない人の意見です。日本は,京都の庭園のような,手をかけた人工の美しさは確かにすばらしいけれど,自然と限定して考えれば外国の自然のほうがずっと美しいです。富士山だって遠くから見れば美しいけれど実際はゴミだらけだと聞きます。それに比べたら,アメリカの国立公園などはゴミひとつなく,また,人工物の建設なども制限されていて,自然が守られています。日本はどこに行ってもゴミだらけ廃墟だらけです。オーストリアやニュージーランドの山村地帯など,日本の信州などに比べたら,比較にならないほど美しいです。

 私は,幸いにも,これまで,多くの国に行くことができて,どの国も,いいところもあればよくないところもある。そして,その人の生き方によって,住みやすい国とそうでない国は異なってくるということを実感しました。また,人もそれぞれで,どの国でも,親切な人もいれば,そうでない人もいるのは当然なので,一般論では語れません。
 そうしたことを含めて,私の経験からは,芸術や歴史に触れるなら文句なくオーストリア,自然が美しいのはニュージーランド,星を見るならオーストラリア,スポーツ鑑賞や大自然のなかでアウトドアに興じるならアメリカ,心豊かに生活するならフィンランドに住みたいと思うようになりました。
 日本のよさというのは,食べ物に尽きますが,日本で嫌いなのは,何といっても人が多すぎることと,自然破壊がひどすぎることです。そして,人が陰湿で,クレーム大好き,裏表ありすぎ,責任のがれのやったふりばかりだということです。
 日本は,地理的に,海外のどこに行くにも中途半端に遠いのですが,考え方を変えると,どこに行くにも9時間で行くことができるから便利だともいえます。オーストラリアやニュージーランドに生まれても,歴史のないこうした国ではアウトドア好きならともかく,することがなくなって退屈します。オーストラリアやニュージーランドから海外に行こうと思っても東南アジアや日本以外の外国はヨーロッパもアメリカも遠すぎます。また,競争社会のアメリカでは,才能なく生まれたら生きるのがたいへんです。暮らすという意味では,フィンランドやオーストリアなどに生まれたのなら,日本よりマシだったかな,と私は思います。
 現実は,好むと好まざるにかかわらず日本に生まれちゃったので,日本ではおいしい食事を楽しみ,日本でしかない文化を楽しみ,ときどき海外に出かけては日本にないよさを味わうのが一番かな,と思ってこれまでずっと生活してきました。しかし,今は海外に行くことができないので,多くの楽しみが奪われてしまい,とても残念です。

💛

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 前回はマスメディアについて書きました。振り返れば,世の中にあふれかえる情報,そのほとんどは,自分にはいらないものだということがわかりました。
 今日取り上げるのは,生活必需品以外のモノについてです。
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 昔,本屋さんで,男性向けの雑誌のコーナーに並んでいるのが車関係のものばかりであることに気がついて驚いたことがあります。私は,車は故障せず動けばいいと思っているので,車種とかメカにはまったく興味がなかったのですが,そんな人は例外で,多くの男の人は車が好きなんだということをはじめて知りました。
 それは今も同じで,私には,狭く渋滞だらけの日本の道路を走るのに,車にこだわる気持ちがまったく理解できません。高価な車にこだわっているくらいなら,そのお金でほかにいろんなことができるのに,と思ってしまいます。狭い駐車場で大きな車を入れるのに苦労をしているのを見ると,何をしているんだか,と不思議な気がします。
 その代わり,私は,子供のころからカメラと天体望遠鏡に興味がありました。これだって,理解できない人にとれば,どうでもいいことでしょう。
 しかし,天体望遠鏡はともかく,カメラ好きの人も多いらしく,インターネット上には,やれ,どこの製品がすぐれているだの,新製品が出るだの今度は買いだのといった情報があふれています。天体望遠鏡は,カメラほどではありませんが,これもまた,星好きの人にとっては,関心の的のようです。天文雑誌には天体の話題よりも機材の話題のほうが多いくらいです。
 私はお金もないので,趣味として不自由ない必要最小限のモノだけは持っていますが,それ以上のモノを購入したことがありません。新しい製品が出ても,もっぱらカタログを眺めていただけです。

 このごろ,ディジタルカメラの売れ行きが芳しくないということで,カメラ業界の将来が心配されています。一応写真が趣味の私も,普段使っているのはスマホのカメラになりました。それで充分に事足りるということもあるのですが,それ以上に,カメラを持って旅に出るのがめんどうになったというのが理由です。これでは趣味失格です。
 しかし,スマホのカメラでは写すことができない対象もあるので,カメラ持って出かけることもあります。特に,海外旅行をするときには,どんなカメラを持っていくか毎回悩まされます。なるべく小型でいろんなものが不自由なく写せるのが理想です。ところが,ディジタルカメラの売れ行きが芳しくなくなってきた今,メーカーは高級品に特化しはじめて,私の満足するカメラがどんどんなくなってきました。ほとんどのカメラメーカーは,ミラーレスカメラにシフトしたら,レンズはとんでもなく高価になり,また,ミラーレスになっても思ったほど小さく軽くなったわけでもありませんでした。高性能,高機能であっても,それは,私には必要がないのです。どうやら,カメラは,私の世界から,あちら側,つまり,私の手の届かない世界に行っていってしまったようです。
 そうなると,カメラにはまったく興味が失くなりました。
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 天体望遠鏡もまた,同様です。現在の天体望遠鏡はパソコンを利用して天体が自動で導入できたり,自働で追尾ができるといったように,確かに,非常に機能がすぐれ,また,光学性能がよいものになりました。もし,そんな機材を十分に活用できる場所に住んでいたら欲しくなってしまうかもしれません。しかし,満足に星も見えないところに住む私は,それを買っていったいどこで使うの? と思ってしまいます。
 日本は,晴天率に恵まれず,また,空の暗いところもほとんどありません。これでは,海もないのに潜水艦を買うようなものです。今は行くことができませんが,たとえば,南半球やハワイなどの星のきれいなところに出かけたり,あるいは,国内でも,四国や信州,北海道など,わずかに残る星の美しいところに出かけて,旅先で星を見たり写真を写そうと思えば,三脚も含めて2キログラムほどのポータブル赤道儀で事足りるし,大きなものは持っていくことすらできないのです。
 このように,現実を知らなかった子供ころには欲しいと思ったものも,そんな現実を知ってしまうと,いまさら新しいモノを欲しいとも思わなくなってしまいました。

 私のような世代は,子供のころには,大人になったらなんとかに手に入る程度のほどほどの優れたモノががたくんあったので,いつかはそれを手に… と,恋に恋するように憧れていたものです。このような状況が一番幸せだったのかもしれません。それに比べると,今の若い人には,そうしたモノがまったくなくなってしまったので,気の毒です。
 昔より性能は優れていても,一般の人が少し無理をすれば手に入れることができるほどの手ごろなモノがないのです。普通の車を買いにいったらトラックしか売っていなかったというような感じです。いくら性能がよいからといって,たかが趣味なのに,カメラも天体望遠鏡も,それが車1台ほどの値段がしては,車のように毎日使うモノとは違って,たかだか月に1,2度の使用頻度では手が出ませんし,それをいつも活用するような場所もありません。置き場所もありませんし,要らなくなったときに廃棄するにも困ります。また,そんな高性能のモノはプロでない限り必要がなく,もはや,アマチュアが楽しむ世界ではなくなってしまったのです。
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 私には,何十年も前の,私でも手に届くころに買ったモノで今も十分満足だし,愛着をもって使えます。当然,今のモノにくらべたら性能も劣りますが,だからといって,困るほどのこともありません。仕事ならともかく,趣味であれば,その不便さこそが楽しいものです。だから,現在のような,新製品が高価で手に入らないという状況は,それを手に入れようという邪気が起きないだけより好ましいのです。その結果,お金を散財することもなく趣味に没頭できるというものだから,むしろ,心落ち着く日々が過ごせるのです。
 今の若い人の多くは車にも興味がないというし,こんなことでは,ますますモノは売れますまい。

💛

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 人を精神的に傷つけるのは,肉体的に傷つけるより,よほど悪意に満ちています。しかも,物理的に罪を犯していないので,刑罰を受けることもありません。私のかつての上司はそういう輩でした。精神的に傷つけられた人が自殺でもすれば,やっと殺人と同じになりますが,自殺でもしない限り,そうした悪意が世に問われることもありません。これが悲しい現実です。
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 若いころ「犬が人間を噛んでもニュースにならないが,人間が犬を噛むとニュースになる」と聞いたことがあります。ところが,最近はどうも違うようで,当たり前のことがニュースになります。
 外出を自粛せよといわれて人出が減るのは当然なので,それで人出が減ってもニュースにならないはずですが,今では,そんな当たり前のことでもニュースになります。その一方,自粛を緩和すれば人出が増えるのもまた当然だから,人出が増えたといって大騒ぎをすることなどないし,そんな当たり前のことを伝える必要もないのです。しかし,人出が増えたことをさもいけないことのように伝えるのだから,悪意に満ちています。
 本当に,このごろの報道はなんと質が低下しているのでしょうか。もっと悪質なのは,何かというと「マスクをしていなかった」とかいう,それが原因であるかどうかはわからないことを意味もなくつけ足すのに,その逆に,小学校で集団感染が起きたとき「小学生がマスクをしていたのにもかかわらず,集団感染した」とは書かないのです。
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 このごろ,芸能人の自殺が相次いでいます。それは,報道によって芸能人を精神的に追い詰めたことが原因ということで,報道の在り方が問われています。
 人の不安を煽るような報道ばかりしておいて,何をかいわんや,です。それは,きちんとした根拠も裏付けもなく,話題になることだけをおもしろおかしく,しかも,オーバーに報道しているからです。芸能人のスキャンダルは,たとえそれが真実であったとしても,そこに書かれていることだけが真実ではないのです。このことが最も大切なのです。そんな報道は,象のしっぽだけを見て,これが象だといっているようなものだからです。

 ということが理由で,これまで再三書いているように,報道は作為と悪意に満ちているから,私は,テレビなどのニュースは,自然災害などの緊急な報道でない限り,一切見ないことにしました。
 さすがに,まったく世の流れを知らないのも危険なので,デジタル化した今の時代の流れに反して,昔に戻って,紙媒体の新聞を読むことにしました。新聞社もまたインターネットでニュースを配信していますが,インターネット上の速報というのは,吟味をすることなく流されるので,必要でない情報に溢れています。そこで,それを読むことは精神的にも危険なのです。紙媒体の記事であれば,物理的な制限があり,また,時間差があるおかげで,ニュースが取捨選択されているから,むしろそのほうがよいのです。
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 私は,朝起きると,コーヒーを飲みながらクラシック音楽をバックに新聞を読みます。手に入れる情報はそれだけです。それだけで十分です。
 テレビは,1週間前に番組表から必要なモノだけ選択して予約し,決めた時間にあとでまとめて見ます。その多くは,クラシック音楽の番組や質の高いドラマ,語学番組,ドキュメンタリーの類です。民放はめったに見ないのですが,ドラマなどでよいモノがあれば,それだけを,先に CM だけをカットしておいて,あとで落ち着いて見ます。雑誌は買いませんし,書店に行くのもやめました。
 こうした生活をはじめると,なんとこころ落ち着く日々が過ごせることでしょうか。

 ただし,紙媒体の新聞には広告というものがあって,これがまた,私には,一切見る必要のない情報ばかりなのです。紙媒体の新聞や雑誌に限らず,このごろは,ウエブ上にもところかまわずクッキーを利用した広告が表示されるので,うざったい限りです。
 そもそも,新聞や雑誌の広告に限らず,テレビのCMなどもまた,まったく見ないに限ります。
 これだけモノがあふれている時代,もはや,欲しいものなどありません。これがないと困る,という生活必需品ができたときに限り,CMには踊らされず,じっくりと調べたうえで入手すればそれで事足りるのです。
 私は Facebook や Twitter などの SNS も利用していますが,そのような SNS 上にも,見たくない広告が山のように届きます。私は,Facebook も Twitter も,そうした広告をすべて着信拒否し続けた結果,その成果が実って,いまではほとんど広告が表示されなくなったので,きわめて快適になりました。また,ウエブ上にある口コミやコメントの類は,百害あって一利ありませんからまったく見ませんし,何かを利用したあとに決まって届くアンケートには一切答えません。また,企業からのメールの類も,必要なもの以外はフィッシング詐欺の巣窟だと心得て,即座に削除します。電話も登録してある人から以外は出ません。
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 ネット社会では,このように,いかに情報を手に入れるかということより,いかに情報を遮断し関わらないかということのほうが大切なのです。今の時代は,まさに「見ざる言わざる聞かざる」で,知らないほうがいいことばかりなのです。
 国が企てるさまざまな政策もまた,その本質は,国民から少しでもムダにお金を散財させるか,あるいは,税金を分捕るかということだけが目的であるから,そんなものに踊らされてはいけません。
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 まあしかし,私のような人ばかりだと,モノは売れず,景気もよくならないので,多くの人は,決して私のマネをしないで,せいぜい,宣伝に惑わされ,また,GoTo とやらで,行く気もなかった旅行に行き,安くなるからと,CMに踊らされて,いつもより豪華な宿泊を楽しみ,ホテルの夕食では一品余分に注文し,さらには,日ごろはしない外食をしたりと,大いに散財をしてもらった方が世のため人のためになることでしょう。
 みなさま,せいぜい,お好きなようになさいませ。

💛

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 あと4日で,2020年も10月が来ます。
 2008年に襲ったリーマンショックのときも,立ち直るのに半年,いや,1年…,などという話で,時が経つのを待ちこがれたものですが,いつの間にかリーマンショックも過去の歴史となりました。今年のコロナ禍もまた,同じように,解決する日を待ちわびていても,気づいたときには過去の歴史となっているのでしょう。
 ただし,忘れてならないのは,こうしたさまざまな問題は,ゲームが終了するように,これで終わり,というときが明確に来るのではなく,なんとなく気づいたときには終焉していて,しかし,終焉したからといっても,それで,世界がバラ色になるわけでも元通りになるものでもなく,また,別のさまざまな出来事が起きて,常にならんらかの不安が世界を襲っているということです。それが人の世です。
 とはいえ,どんな状況であっても,その状況を嘆き悲しんでいても何も変わらず,むしろ,せっかくの時間をむだに過ごすことになります。現実を嘆いていても何もはじまりません。それに,若い人ならともかくも,歳をとると時間は貴重です。
  ・・
 自粛自粛と騒ぎたてている人もいますが,目的は感染予防であって自粛ではありません。
 何も身についていないのに答えを写して課題を提出していい子になっている学生さんと同様,100パーセント飛沫が漏れるからムダなだけのフェイスシールドをしてごまかしている人や,早朝だれもいない屋外でマスクをして犬の散歩をしている世間体を気にしているだけで何もわかっていない人たちや,顎マスクをしてタバコをふかしている人たちや,喫茶店で飛沫を防ぐことすらできない自作の目の粗いマスクをして大声で話をしている年配の人たちのグループのように,やったふりではまったく意味がないのですが,これが日本の教育の成果なのでしょう。
 日本で,1日にがんを発病する人は平均して約2,700人います。新型コロナウィルスに感染する人の約5倍です。新型コロナウィルスに感染しても何もしなくても9割の人は治りますが,がんは死に至ります。なのに,新型コロナウィルスの感染を恐れてがん検診を受けない人が多くいるそうです。また,昨年は少なかったとはいえ,ワクチンがあるにもかかわらずインフルエンザに感染した人は約700万人いて,治療薬があるにもかかわらずインフルエンザが原因で死んだ人が約7,000人いました。しかし,インフルエンザでクラスターが発生してひとクラスで10人以上が感染し学級閉鎖が頻繁に起きていてもせいぜい新聞の地方版に小さく報道されるだけなのに対して,新型コロナウィルスで学校全体で数人が感染しただけでクラスター発生と大騒ぎで全国に報道するのは不安を煽っているだけです。ぜひこの冬は,新型コロナウイルスの県別の感染者数を新聞紙上に毎日掲載するのなら,同じように,インフルエンザの県別の感染者数も新聞紙上に毎日掲載してもらいたいものです。そして,感染者の多い県への移動の自粛を要請してほしいものです。

 そんなわけで,このわけのわからない,かつ,人の本性が明らかになった2020年もすでに9か月が過ぎ,また,2020年度も半年が過ぎたので,一体その間に私は何をしたか,ここらあたりで振り返って,今後の糧とすることにしましょう。
  ・・
 まず,1月。やがて来る不安な将来もまだ予感できなかったころ,昨年に続いて,私は朝日杯将棋オープン戦の名古屋対局で,藤井聡太・現二冠の対局を観戦しました。その後,当時七段だった若き天才棋士はタイトルをふたつも獲得し,再び時の人となりました。私は,タイトルを獲得するまでは,ということで熱を入れて応援していたのですが,そろそろそれも卒業したいと考えています。私の性格では,将棋も相撲もそうですが,勝負ごとに対して熱をあげて応援するのは,ひいきの人が負けたときに疲れ落ち込むだけで楽しむことができないのです。私は勝負ごとの観戦を趣味にするのは不向きなのです。
 2月の上旬には深夜バスに乗って,高知県へ行き,ぜひ行ってみたかった念願の足摺岬と四万十川を訪れました。とてもよいところでした。このことはすでにブログに書きました。そして,下旬には,これもまたぜひ行ってみたかったハワイのモロカイ島に足を運びました。モロカイ島は私にはとても魅力的なところでした。ギリギリ間にあって行くことができて本当によかったです。これをもって,私がどうしても一度は行ってみたかった海外の場所は,ほぼなくなりました。
 3月の上旬になると,すでに,新型コロナウィルスの不安がひたひたと迫りつつあって,日本国内からは海外からの観光客が潮を引いたようにいなくなりました。そんなインバウンドの去った折,私は絶好の機会と思って,車で,ずっと行きたかった新潟県の親不知海岸や兵庫県の余部,豊岡,京都府の福知山,さらには,福井県の丸岡や一乗谷に行くことができました。そして,3月の下旬には,観光客が少ないのを幸いに,連日京都市内に出かけて,満開の桜を堪能しました。この先,こんな機会は二度と訪れないだろう人の少ない生涯最高の春の京都でした。
 さすがに4月になると,遠出をすることができなくなりました。そんな折,空の上には立て続けに明るい彗星が現れ,私は,それをどこで見るか頭を悩ませながらも,日ごろは行くこともない地元の史跡を訪ね歩きました。こうした楽しみを知っていてよかったと思ったことでした。
 5月も終わるころは一度は新型コロナウィルスの感染も収まって,再開した木曽駒高原のペンションに行って満天の星を見たり,旧中山道の鳥居峠を歩き,ひとひとりいない奈良井宿を散策しました。
 そして,7月にはネオワイズ彗星を見たいという一念で,北海道のサロベツ原野まで足をのばしたわけです。ネオワイズ彗星は,私の住んでいる場所は連日の悪天候でまったく見ることができませんでしたが,快晴の北海道で,肉眼でその美しい姿をしっかりとらえることができました。もし1,2か月ネオワイズ彗星の接近が早かったら北海道に行くこともできなかっただろうし,逆に,今の時期なら,7月のころとは違って,多くの観光客がもどってきていて,私がでかけたころのような,人の少ない北海道を楽しむこともできなかったかもしれません。幸運でした。

 実は,本来なら,2020年は,3月の下旬はオーストラリアのアデレード,6月下旬には白夜のフィンランド,そして,8月の下旬はアメリカのフェニックスに行くことにしてあって,航空券も手配済みだったのですが,それはすべてかなえられませんでした。また,定期会員であったNHK交響楽団の定期公演もすべて中止となってしまいました。さらには,山形県の天童や山寺,はたまた,青森県弘前市の桜を見に行こうと密かに計画したのですが,それもかないませんでした。しかし,それらはこれから先でもできること。
 こうして振り返ってみると,私には,この半年は,できなかったことよりも,こういう状況であったがためにできたことのほうがずっと多かったことに気づきます。おそらく,こんな状況でなければ逆に,静寂な京都や奈良井宿を散策することも,ネオワイズ彗星を見るために北海道に行くこともなかっただろうと思うと不思議な気がします。
 それにしても思うのは,人が生きるというのは,どんな状況であっても,精神的に健康でなればならないということです。それが生きるという糧につながります。生涯独房の中で100歳まで孤独に生きても詮ないのです。人は,肉体よりも精神を病むことのほうがより危険なのです。
 私のように普段からひとりで読書や音楽鑑賞や自然を楽しむことが好きならばそれでもなんとか切り抜けられても,そういう人ばかりとは限りません。そこで,生活に制限があるときこそ,楽しみが必要なのです。それなのに,唯一の楽しみはテレビを見ることという病気で入院している人や年老いた人や体の不自由な人も少なくないのに,テレビ番組は,人の不安を煽るようなものばかりでした。娯楽番組までQRコードを常時表示したNHK総合テレビ,これでは逆に精神を病んでしまいます。マスメディアは自分たちが何たるかをまったくわかっていません。

 9月になると,経済活動の限界を恐れて,それまでの自粛要請はどこへやら,国は需要の喚起に乗り出しました。そしてまた,主体性のない,人の目だけを気にして自粛をしたふりをしていた人たちは,もう我慢の限界とばかりに,今になって,GoToキャンペーンとやらで背中を押され,ここ半年外出もままならなかった反動で再び旅行をしはじめて,観光地には人がもどりつつあるようです。こういうときこそ,これまで自粛警察をしていた人は旅行などしないでさらに人々に自粛を促し,かつ,自らが率先して自粛をしなければいけないのではないでしょうか。
 しかし,消費税が10パーセントになった当初に行われたキャッシュレス5パーセント還元も,10万円配るのも,5,000円分のマイナポイントをつけるのも,GoToキャンペーンでクーポンを配布するのも,財源はみんな国民の税金であることを忘れてはいけません。そのうち,巨額の増税が待っています。
  ・・
 私は,以前から,人が多い観光地には行きたくなかったし,群れることが嫌いなので,これからはそろそろ巣ごもりにもどりたいと思っています。そうなると,これまで読めなかった本やら,覚えたかった外国語やら,聴く機会を逸していた音楽などが,最高の楽しみとなります。また,星図を眺めていたら,これまではまったく興味のなかった重星や変光星に興味がわいてきました。こうした対象ならば,空が多少明るくても楽しむことができそうです。空の上にも,まだまだ楽しいことは残っているのです。人のまったくいない,寝静まった深夜に星空と一体となるのは,ほかの何ものにも代えがたい楽しみのひとつです。
 それにしても,こうして改めて振り返ってみると,このわけのわからない2020年だったからこそできたことがこんなにたくさんあったことに,今更ながら驚きます。まさに,思想書「淮南子」のいう塞翁が馬です。

  ・・・・・・
 近塞上之人有善術者
 馬無故亡而入胡
 人皆弔之
 其父曰此何遽不為福乎
 居数月其馬将胡駿馬而帰
 人皆賀之
 其父曰此何遽不能為禍乎
 家富良馬
 其子好騎墮而折其髀
 人皆弔之
 其父曰此何遽不為福乎
 居一年胡人大入塞
 丁壮者引弦而戦近塞之人死者十九
 此独以跛之故父子相保
 故福之為禍禍之為福化不可極深不可測也
  ・・
 砦の近くに住んでいる人で占いに精通している者がいました。
 飼っていた馬が理由もなく逃げてとなりの国の胡に行ってしまいました。
 人々は皆これを気の毒に思ってなぐさめました。
 しかしその老人が言うことには「これがどうして幸福にならないと言えようか」。
 数か月たってその馬が胡の駿馬を連れて帰ってきました。
 人々は皆これを祝福してくれました。
 しかしその老人が言うことには「これがどうして禍となることがありえないだろうか」。
 老人の家は良馬が増えました。
 その老人の息子は乗馬を好み落馬して太ももの骨を折ってしまいました。
 人々はこれを見舞いました。
 しかしその老人が言うことには「これがどうして幸福にならないと言えようか」。
 それから1年が経ち胡の人が大軍で砦に攻めてきました。
 体の丈夫な若者は弓を引いて戦いましたが砦の近くの人で死者は10人中9人になりました。
 この老人の息子だけは足が不自由なことが理由で父子ともに無事でした。
 福が禍となり禍が福となるその変化を見極めることはできずその奥深さを測ることはできないのです。
  ・・・・・・

💛

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 2020年の春から夏にかけてコロナ禍でいろいろなことができなくなったおかげで,さまざまなことを見直すことができたのは幸いでした。
  ・・
 旅行は,自分が本当に行きたかったところがどこなのかがわかってきました。
 私は,これまでの数年間で,奇跡的に,国内外共に,行きたいと思っていたところはほぼすべて行くことができましたし,やりたいこともすべてやってきました。これまで行ってみた中で,できればまた行きたいと思うところは少なくないのですが,これからはじめて行きたいと思うところも,行きたかったのに行けなかったというところも,行きつくしやり終えた今となってはもうありません。そうしたときにコロナ禍が襲ったのは幸運なことでした。
 また,欲しいなあと思っていたものは,冷静に考えてみると,手に入れたところできっと使わないなあ,と思うものばかりでした。欲しい欲しいの熱病が冷やされて,余分な散財をしないで済みました。そして,改めて身の回りを見直してみると,使えるのに使っていなかったものが多々あって,それらを有効に使ってみればいいということもわかりました。さらに,不具合があっても時間がなくてそのままになっていた家庭のLANなどの配線も直すことができました。
 これまでは気晴らしにカフェに立ち寄ったりしていたこともよくあったのですが,それもまた,この時期,わざわざ出向いても気晴らしになるどころか,むしろ気が重くなることのほうが多いので,自宅でコーヒーでも飲みながら読書するほうが楽しいということに気づきました。
  ・・
 そうした多くの見直しの中でも,私が最も関わり方が変わったのはマスメディアに対してでした。
 本や雑誌の類も,テレビの番組も,また,インターネット上の情報も,知らないほうがいいと思うものがほどんどだということがわかりました。結局,名目上はニュースという名で伝えられているものの,実際は不安を煽り,なんらかの金儲けの手段にすることが真の目的であるとしか思えないものばかりでした。
 特に,テレビは新聞などとは違い,目や耳からこちらの意思に関係なく入ってくるので,テレビをつけておけば,情報が流れるのを防ぎようがありません。とても迷惑なメディアだということを思い知らされました。そして,知りたいニュースは,テレビなどは使わずに,こちらが主体となって,インターネットや紙媒体で手に入れればいいということをしみじみ思い知りました。
 ニュース番組ならはじめからニュースを見ることが目的だからともかくも,娯楽番組を見ていて,そこにニュースが侵入してくるのは,よほどの緊急ニュースでもない限りは暴力でしかないということを痛感しました。娯楽番組に出現するL字テロップなど最悪の代表です。せっかく嫌なことを忘れて楽しもうとしているのにこれでは気が滅入るだけです。NHKの総合テレビがまさにその筆頭でした。そんな情報は必要な人だけがdボタンを押せばわかるようにすれば事足りるでしょう。見ている人全員に情報を伝えてやろうという傲慢さとおせっかいに満ち満ちていました。常時画面に表示されるQRコードといい,さらには,学校の生活指導部のような「ご指導」といい,上から目線で庶民を小ばかにしているようで腹立たしくなりました。
 今ごろになって,コロナ禍によって精神を病み自殺者が増えているという報道をしていますが,その原因を作っている一因はテレビにあるのをご存知だろうか? よって,私は必要なニュースのほとんどはインターネットや紙媒体の新聞にして,テレビはNHKBSPとNHKEテレしか見なくなりました。それも,見たい番組は事前に番組表で調べて録画してその番組だけを見ます。あるいはNHK+で十分です。それでも,先日,NHKEテレのクラシック番組の途中で臨時ニュースのテロップが出て,それだけならともかく,音楽を遮断して警告音まで加わっては,番組がすべて台なしになりました。いい加減にしてくれ,という怒りがこみ上げてきました。
 また,インターネット上のニュースのポータルサイトこそ,まさに玉石混交。中でも最悪なのはYahooニュースのようなコメントのあるものでした。コメントはまったく無意味で,百害あって一利もありません。読んでいても不愉快極まるだけのものでした。
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 時間をもてあましたので,1か月 Kindle Unlimited を契約してみました。
 1月980円で12万冊の和書が読み方という触れ込みでした。しかし,読み放題だったのは,単独では売れないような雑誌や旬をすぎた単行本ばかり。で,そこにあった多くの雑誌を手当たり次第読んでみました。しかし,すべて,2週間くらい読んだら食傷気味となり,いやになりました。読まないほうがいいようなものばかりでした。これでは,暇つぶしに間食をしたらおなかを壊したようなものです。

 この半年,精神的に健康に生きるためにわかったのは,いくら安かろと,不快になるモノとは関わらないこと,関わりをもつのは十分に時間とお金をかけた良質のモノだけで,それをきちんと自分で選んで主体的にお金を出して手に入れること,それが私の結論でした。

💛

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 これほど精神的に「ヤワな」私が,よくも60年以上生きてこられたものだと,このごろつくづく思います。打たれ弱く,すぐに動揺し,嫌なことがあるとずっとそれを気にする,ガラスのような精神の私でも,なんとか,いわゆる世の中の「定年」といわれる歳まで無事に? 生きてきました。
 人が生きるのに必要なのは,何はなくとも第一に健康ですが,その次が,精神的に強いということです。打たれ強く,嫌なことはすぐに忘れられる,という人を,本当にうらやましく思います。私のような,すぐに傷つき,立ち直れず,いつまでもそれを引きずっていては,もし,私に何かの才能があったとしても,何もモノになりません。才能がなかったからこそ,生き延びられたのでしょう。

 そんなことを思うと,一芸に秀でた人は,本当に偉大だと,これまで以上に尊敬するようになりました。
 その筆頭が勝負に生きる人たちです。スポーツ選手とか囲碁や将棋の棋士のように,毎日,勝ち負けのある人生なんて,私は想像するだけでぞっとします。ほんとうに感心します。私など,応援している人が負けただけで,本人以上に落ち込んでしまいます。
 飽き性の私は,もし才能があったとしても,学者にも音楽家にもなれません。学者さんは,何かの研究に打ちこんでいても,それが趣味ならともかく,仕事としてなら途中で飽きちゃっても逃げ場もありません。音楽家も,毎日のように,それも,好きな曲目ばかりならともかくも,自分の好きでもない曲も演奏しなければならない,そして,難解な曲であってもできないといえないから,日々練習して演奏ができるようにしなければならない,なんていうことは,私には,これもまた,想像もつきません。
 芸能人もまた,,毎回,人に見られ,評価されて生きるなんて,さぞかしストレスがたまることでしょう。どうしてそんな生き方ができるのだろうと友人と話していたら,「私を見て! 見て!」という性格だからできるんだよ,と言われたのですが,そんな性格をもつ人がいるなんて,私には想像もつきません。

 しかし,よほど精神的に特別にタフな人を除けば,私ほどひどくなくても,やはり,だれしも,傷つくし落ち込むこともあるでしょう。そこで,それをいやすための手段というものがいろいろあるわけです。
 アルコールに頼る人も少なくありません。飲んで飲んで忘れる,というような手段です。しかし,一番体に悪そうです。温泉につかる,というのも効果がありそうです。これは私にも経験があります。温泉が体の血行をよくして,元気になるのでしょうが,これは体にもよさそうです。
 クラシック音楽もまた,効果があります。先日,Eテレで放送されたNHK交響楽団の演奏会で指揮者の井上道義さんが,こんなことを言っていました。「音楽は死にそうな病に直面している人には何の力もないけれど,人生の困難に直面している人には必ず力になる」と。おそらく,宗教もまた,人の精神の弱さを補填するためにあるのでしょう。それで救われる人もあれば,その逆に,弱い人をだますことを企てる人も存在するのが,人の世の常です。
  ・・
 いずれにしても,精神というのは,形として見えないだけに,それを把握するのは困難ですが,人が生きる力の源は,精神の強さがもっとも大切なようです。私も,楽しく生活するために,いまさら精神の強さを磨くことはむりとしても,せめて,何があっても動じない鈍感さだけでも身につけていきたいものだと思います。

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 退職して仕事を離れると「毎日が日曜日」といわれます。であっても,やりたいことがあり過ぎる人から,毎日が退屈で仕方がない人まで,人それぞれです。おせっかいにも,よほど本が売れないのか,企画がないのか,あるいは,暇な人しか読者がいないのか,こうした「毎日が日曜日」の人向けの生き方の本がたくさん出版されています。かくいう不良老人の私も「毎日が日曜日」のような生活をしています。
 私にも,かつてはやりたいことがたくさんありました。そうしたやりたいことをほぼ実現してしまった今は「ステージ1」を卒業して「ステージ2」にステップアップ,そんな状況となりました。そこで,この先10年ほどをいかにより楽しく過ごそうか,そうしたことを考えながら過ごすようになりました。
 
 これまでずっと海外にだけ関心があった私ですが,昨年あたりから,私は,日本にも関心が戻ってきました。とはいえ,いつも書いているように,私は日本の旅にさほどの魅力を感じているわけではありません。そうでなく,考えてみれば,これまで行ったことがない場所が結構あることに気づいて,元気なうちに一度は行ってみようと思うようになった,というだけのことです。
 おそらく,そうした場所のどこへ行ったとしても,日本では同じようなところばかりでしょうが,これもまたいつも書いているように,日本の旅はこころでするものです。それは,まさに,NHKBSPで放送されている「こころ旅」という番組名が示すように,単なる風景であっても,その人の思い出がまつわると懐かしくなるというものと同じです。
 私の場合は,思い出というよりも,その地の歴史やら風土を思い浮かべるということになります。そこで,訪れる場所の歴史やら文化を知れば知るぼど,行った場所が光り輝くことになります。

 今,旧街道が再び脚光を浴びています。昔の状態に復元するような活動をしている場所もけっこうあります。しかし,そうした場所にも二面性があります。そのひとつは,観光地として人を集めることが目的で,テーマパークのようになってしまった場所です。テーマパークのようになってしまった場所には,団体ツアーをはじめとして,多くの観光客が訪れます。そうした場所は,伊勢であり,私が以前行った大内宿です。馬籠宿もそれに近い状態です。私が行きたいのは,そうした場所ではありません。
 もうひとつは,明治以降,新しい道路や鉄道が作られたときにその場所を避けて作られたために取り残されたために,期せずして昔のままの姿で取り残されたところを,近年になって整備している場所です。私は,これまで数多くの宿場町に行きましたが,そうした場所の中で,これは,と思ったのは,旧東海道の土山宿や旧中山道の大湫宿でした。私が行きたいのは,むしろそうした場所です。
 このようなところは情報も少なく,そこで,私が知らないだけのすばらしいところがまだ多く残っているように思います。そうした場所をこころであじわうためにも,日ごろは,これからも,歴史や文化を楽しく学んでいきたいものです。

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藤井聡太新棋聖誕生

おめでとうございます。

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 自宅籠城をした結果,私には,それまでこだわってきたさまざまことの多くがどうでもよくなってきました。それはある意味,これまでの生活を見直すきっかけになったとも言えます。そんな中で,私にとっての「ないもの」もずいぶんと増えてきました。今日はそうした私には「ないもの」を書いてみます。
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 たとえば「セブンイレブン」です。
 ずっと以前よりキャッシュレスに努めていた私ですが,当初は nanaco カードが便利で最強だと思っていました。そこで,コンビニに行くなら「セブンイレブン」と決めていました。それが,いろいろと不祥事があり,キャッシュレスの主役がカードから iPhone に代わると,nanaco カードにはまったく魅力がなくなりました。今の私には「セブンイレブン」はもはや「ないもの」の筆頭です。そもそもコンビニというのは高いだけなのでめったに行かないのですが,今では,たまに行くとなると「ローソン」です。「ローソン」なら,iPhone で Apple Pay を指定して買い物をすればポンタカードが紐ついているので楽に支払いができるからです。
 次に,私にとって「ないもの」となったのは「NHK総合テレビ」です。
 もともと民放は見ないのですが,新型コロナウィルスの報道で「NHK総合テレビ」が大嫌いになりました。ニュース番組でL字型に情報が出る「字幕テロ」はもとより,QRコードが常に画面に出ているのが,癇に障ります。不愉快です。よって,「NHK総合テレビ」は,どんな番組であろうと,私はそれは「ないもの」として見なくなりました。
 以前,このブログに,「今や,情報は手に入れるより手に入れないことのほうが大切だ」と書きましたが,考えてみると,巷にあふれるニュースのほとんどは,私にとって「どうでもいいもの」です。芸能人がどうこうしたといっても,そうした芸能人を知らない私にはまったく関係ないし,お隣の国がミサイルを飛ばしたといわれたところで「それで私に何ができるのですか?」という感じです。
 インターネット上にもニュースのポータルサイトがあふれていて,そうしたニュースをネタにコメントを書く人もまた,あふれていますが,そうした人の書いたものを読んでも不愉快になるだけです。
 さまざなな興味本位の見出しが躍る週刊誌や月刊誌の類もまた,私には「ないもので」です。
 そのほかにも,さまざまな「ないもの」が増えてきました。それらを書き連ねていても限がないのでこれくらいにしますが,こうした不快になるだけの多くのものを自分にははじめっからこの世に「ないもの」としてしまうと,実にこころ穏やかに毎日が過ごせることがわかりました。

 「ないもの」だらけになると,ひとつ問題ができました。それは,お金を使わなくなってしまったことです。そもそも,マスクをして買い物に行かなくてはならないということ自体,息苦しいし楽しくないので,よほど必要でない限り買い物に行く気すら失せてしまいました。
 私はもともと欲しいものがあまりありません。必要なものは少しばかり値がはっても一度いいものを買えば,いつまでも使えます。そのようにこころがけて買いものをしてきたら,必要なものがすべてそろってしまうと,その後は,古くなった服や靴などの消耗品を買い替えるほかには,買うものすらなってしまいました。
 たとえば,新しいカメラが発売されると「買いだ買いだ」と今まで持っていたものを処分してつねに新しいものに買い替えるマニアがいますが,私には,そうしたことに興味がありません。所詮趣味で楽しむだけなので,今使っているものを末永く愛着をもって使えればそれで十分満足だからです。車も同様に,不自由なく走ればそれで十分です。
 これまでいろいろなものを買ってきた結果,買ったあとの姿が見えてしまうのもまた,ものを買わない理由のひとつです。買うまでは欲しくても,手に入れたあとは使わずそのままというものが少なくないのです。それにまた,一時の広告に迷わされて自分に不必要なものを買っても仕方がありません。たとえば,高級車を買ったところで,日本では満足に走る道もないし,維持に管理に手間がかかります。家を買ったところで,日本には住みたいという場所すらありません。…といった感じです。
 私は,これまで,お金を自分なりに贅沢に使う先は旅行くらいのものでした。しかし,旅行すらできないとなると,旅行に費やしていたお金も,その使い道がなくなってしまいました。
 これを贅沢な悩みというのでしょうか?

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 世の中が平常に戻りつつあります。というより,無理やり平常に戻しつつあります。でないと,経済が成り立たないからでしょう。
 そもそも,人間のやっていることのすべては,死ぬまでの暇つぶしにすぎないわけですが,どうせなら楽しく暇つぶしをするために,さまざなことを生み出しました。それを文化というわけです。
 しかし,文化よりも先に,まずは生きるためには食わなければならず,食うためにはお金がいる,お金を儲けるには働かなくてはならない,… というスパイラルがあるので,いつまでも何もしないで自宅籠城をしているわけにはいかないのです。だから,自宅籠城も,せいぜい3か月が限度であって,それを越すと,いろいろと正当化する理由をつけて,平常化してしまうわけなのです。

 だから,生きるための生業があって,その次に文化が存在する,という順番になるのでしょうが,文化というものはとかく人によって異なるモノであり,仕事に上下がないのと同じように,本来,文化にも上下はありません。
 そもそも,カラオケだって,それをやらない人から見れば危険があるだけだからやめればいい,というし,パチンコだって同じことです。それを,好ましくないと思う人は,これを機会とばかりなんやかやと理屈をつけて,標的とするわけです。これをいじめといいます。
 そもそも,いくらマスクをして授業を受けて万一生徒のなかに感染者がいても他人にうつさないような配慮をしても,同じ教室でマスクをはずして昼食をとるのだから,食事中しゃべるなといったところで現実的は無理があるから,そんなことはすべて意味がないわけです。しかし,それよりも台に向かって黙々と人としゃべらずパチンコするほうがマスクなどしなくてもよほど感染の危険が少ないのにもかかわらず,パチンコは危険だと決めつけるのです。それは,学校はみんなが必要だと思っている一方で,パチンコを好ましいと思わない人が少なからずいるから標的にされる,というだけのことでしょう。正義の味方気取りで「自粛警察」をやっているお人の中にも,キャッシュレスとは無縁で未だに細菌まみれの現金を使ったり,顎マスクにしてタバコをふかしていたりする方もおられることでしょう。
 つまり,みんな自分勝手なのです。だから,自分の行動は正当化し,自分の嫌いなことは,これ幸いに目の敵にするのです。カラオケもやらず,パチンコも人生で一度もやったことのない私には,そうした騒ぎはすべて他人事ですが,この春,人の本性だけはとてもよくわかりました。

 さて,平常化がはじまって,そろそろ飛行機も再び飛びはじめました。
 これで私も,海外はまだまだですが,国内であれば旅にも出かけられるというものです。しかし,仕事でやむをえず利用するのならともかくも,乗る前に検温して乗っている間中マスクをしてまで,旅などしたくもありません。旅というのは非日常だからこそ楽しいのです。ただ,当分の間,唯一期待ができるのは,まだ,観光地には人が少ないということです。特に,このところ私が嫌悪感を抱いていたインバウンド,これがないことでしょう。
 今年の春,私は,史上最後のチャンスだと,何度も桜咲く京都へ行きました。人が少なく,特に,外国人が皆無で,今年の春の京都は最高でした。桜の季節が終わるころになったら状況が悪化して,県外に行くなといわれはじめました。今になっても,統計的に新型コロナウィルスの感染者のいない岩手県では県外への移動に制限がなくなった今も「県外者お断り」と書かれた店があるといいます。そんな店は,感染が収まったあとでも行ってやるものか,と大人げなく私は思うわけですが,これもまた,日本人の「攘夷」思想の流れでしょう。これまで,あれだけ県外や国外からの人が落とすお金で儲けてきた人たちが手のひら返しをしたわけです。
 私は,もう少しして,新型コロナウィルスが収束,いや,終息して,心置きなく旅ができるようになっらたら,日本一周の旅をする夢を抱いています。しかし,漏れ聞こえるところでは,2030年には,最も海外からの旅行者が多かった2019年の3倍もの観光客を呼び込もうと国は計画しているというから,油断もスキもあったものではありません。国は,基幹産業をきちんと整備したり,力のある技術者を育てるといった基礎教育にお金を使わず,海外からの観光客にお金を落とさせて見せかけの好景気を作り出そうという戦略なのです。
 そこで私は,再びインバウンドが起きる前に何とか日本一周の旅を実行に移さなければ,と狙っているこのごろです。ただし,「不良老人」の私が旅をしても,その地方の有名な観光地には行かないし,必要のないお金も使わないので,旅先としては迷惑なだけかもしれませんけれど…。ごめんなさい。

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