DSC_5844

######
 御薬園を出て,次の見どころは会津武家屋敷でした。さすがにそこまでは歩くのがたいへんだと,まちなか周遊バスに乗ることにしたのですが,地図を見ると,その間に,近藤勇の墓がある天寧寺とか書かれてあったので,興味が湧いて,結局,歩き通してしまいました。
 これでは1日乗り放題のチケットを購入した意味がありません。いや,さまざまな施設に割引で入れたので,意味がなかったわけでもないのですが…。
  ・・
 余談ですが,いろいろなところで,割引だとかポイントだとかがあっても,それをどう使うか四苦八苦しているだけではないか,とこのごろ思うようになりました。そして,苦労ばかりが多くなって,結局,いくら得をしたのか? と思うと,何だか馬鹿らしくなってきました。所詮は数百円から多くても数千円くらいのものです。死んだあとに残るお金ならあってもなくても同じ。ならば,そんなことに関わっても,わずらわしいだけであまり意味がないのではないか? だから,簡単に割引になるものならともかく,工夫や知恵を絞ってまで,割引の恩恵の預かろうとするのは本末転倒…。
 閑話休題。

 近藤勇の墓に至るのは,「奴郎ヶ前」(やろうがまえ)という場所にあった狭い坂道で,かつ,かなり距離があったので,結局行くのをやめました。「奴郎ヶ前」には案内板があって,それによると,このあたりは,昔,処刑場があり、罪人が最後の食事として田楽と清水が与えられた場所だった,とありました。柵を意味する矢来の前だったことから「矢来の前」。これが転じて「奴郎ヶ前」と変化したといわれています。
 現在,この場所には会津三大茶屋のひとつである「奴郎ヶ前の田楽」を提供する「お秀茶屋」がありました。四方を山で囲まれた盆地である会津。峠には茶店ができ,その茶屋の料理が名物になりました。それらを三大茶屋といいます。
  ・・・・・・
 滝沢街道にある「強清水(こわしみず)の天ぷら」
 日光街道にある「一ノ堰(いちのせき)の棒たら」
 東山街道にある「奴郎ヶ前の田楽」
  ・・・・・・

 どうして,この場所に近藤勇の墓が? それはつぎのような理由からです。
  ・・・・・・
 28歳で京都守護職を拝命した9代藩主・松平容保(まつだいらかたもり)は,江戸帰還を命ぜられた浪士組のうち京都残留を希望する近藤勇らを御預として,のちに新選組となった「壬生浪士組」を誕生させました。
 新選組は,戊辰戦争に参戦するも敗北を繰り返し,近藤勇が西軍へ投降してもなお抵抗し,宇都宮から会津へと転戦。会津では斎藤一ら一部の隊士が如来堂において西軍に急襲され全滅したといわれます。
 近藤勇は東京板橋で斬首され,京都の三条河原において罪文とともに晒し首にされましたが,土方歳三が近藤勇のために建立したといわれる墓がこれです。土方歳三は,足の治療を続けている間,毎日この現場に来て指図し,建立させたそうです。また,近藤勇の戒名「貫天院殿純忠誠義大居士」は,松平容保が贈ったものであるといいます。
 墓に葬られているのは,京都の三条河原から新選組隊士が奪ってきた首であるとも,また遺髪であるとも。
  ・・・・・・

 奴郎ヶ前を過ぎ,さらに歩くと,会津武家屋敷に到着しました。今回もまた,歩き通してしまいました。私は,会津武家屋敷というのは,江戸時代の武家屋敷が残る風情あるところだと勘違いをしていました。実際は,日新館藩校同様,会津藩家老・西郷頼母(さいごうたのも)の屋敷を復元して見せる観光用の施設で,土産物屋などが併設されていました。本来の西郷頼母邸はこの場所ではなく,鶴ヶ城正面の追手町にありました。
  ・・・・・・
 西郷頼母は,幕末の会津藩の家老です。西郷家はもともとは保科姓で,信州高遠藩の藩主だった保科正直の弟三河守正勝からはじまり,のちに会津藩主となった保科家の分流です。
 西郷頼母は,田中土佐と共に松平容保に京都守護職辞退を進言したので,松平容保から怒りを買い,家老職を解任されました。戊辰戦争が起きると家老職に復帰し,白河口総督として戦いますが,敗れ,会津へ戻り,その後,長男を連れて会津から出ました。新政府軍が城下町に乱入したとき,家族ら21人は邸宅で辞世の句を残して自決しました。西郷頼母自身は,紆余曲折ののち,明治時代は福島県伊達郡の霊山神社で神職を務め,辞職後は会津若松に戻り,1903年(明治36年)に会津若松の十軒長屋で死去しました。
  ・・・・・・

 会津若松市の観光で,最後に残ったのは白虎隊で有名な飯盛山でした。そこまではさすがに遠く,まちなか周遊バスに乗ることにしました。しかし,まちなか周遊バスが来るには,まだずいぶん時間があったので,近くにあると思われた松平家墓所まで行ってみることにしました。
 松平家墓所は,入口まではさほどの距離でなかったのですが,そこからが大変でした。雪が残る山の中へ滑りやすい苔むした石段を登り,到着までは片道20分以上かかるとありました。また,熊注意,ともありました。さすがに冬は冬眠中だから熊は出ないだろうと思ったのですが,あまりの遠さにどうしようかと思っていたところ,途中にも墓らしきものがあったので,それだけを見て引き返しました。
 帰ってから調べてみると次のようでした。
  ・・・・・・
 江戸時代,墓所の場所全体が院内山とよばれていたので,松平家の墓所は「院内御廟」(いんないごびょう)といいます。
 「院内御廟」には,2代藩主・保科正経から9代藩主・松平容保までの歴代藩主とその側室や子どもが埋葬されています。ちなみに,初代・保科正之の墓所は猪苗代町の土津(はにつ)神社にあります。
 1657年(明暦3年)保科正之の子ども保科正頼が18歳で早世し,その埋葬場所として,南向きの山でよい清水が出るためこの場所が選ばれました。その後,2代藩主が葬られ,3代藩主も院内山に埋葬されることが決定して以来,歴代の藩主の埋葬地として歴史を刻むこととなりました。
 墓所は15ヘクタールにもおよび,荘厳な景観をつくりだしているそうです。
  ・・・・・・
 結局,私が行くことができたのは,保科正頼の墓までだったのです。

 会津武家屋敷の先に,今回は行くことができなかった,天平年間に開湯した東山温泉がありました。東山温泉には,江戸時代,会津藩の浴場と保養所があり,負傷した土方歳三はここで湯治しました。明治以降は,この風情に魅せられた文人歌人も多く,与謝野晶子や竹久夢二などが訪れ,数々の作品を残したということです。いつか,ゆっくり行ってみたいものです。
  ・・・・・
 湯あみしてやがて出じとわが思ふ会津の庄のひがし山かな
 半身を湯より出して見まもりぬ白沫たてる山あひの川
 自らを清しとすれど猶あかず会津の山の湯を愛でて浴ぶ
 湯の川の第一橋を我がこゆる秋の夕のひがし山かな
   「青海波」与謝野晶子
  ・・・・・・
 ただし,東山温泉は,様々な問題で,現在は,廃墟化しているホテルもあるということです。日本の温泉地の多くは,同じような問題を抱えています。

DSC_5826DSC_5828DSC_5846DSC_5834DSC_5836DSC_5842DSC_5841DSC_5845キャプチャキャプチャ


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。