しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:会津若松市

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 2024年1月15日月曜日。念願だった只見線に乗ります。
 昨日,会津若松駅で「明日雪だとどうなりますか?」と聞くと「そのときはそのときにならないとわからない」と言われました。運次第だな,と思いました。会津若松駅周辺にはコンビニすらなかったのですが,近くにスーパーマーケットがあったので,昨晩の夕食後,翌日の朝食を買いました。午前6時8分発の只見線に乗るので,東横インで朝食は食べられません。
 午前4時30分に起床して,部屋で朝食を食べ,支度をして,午前5時30分にチェックアウトしました。昨日はとても天気がよかったのですが,朝はすでに雪景色でした。しかし,どうやら只見線は動いているようでした。

 私は,旅に出る前は,先入観ができるといやなのでまったく見ないのですが,帰宅してからYouTubeを見ると,秋の行楽シーズンに満員の只見線に乗った,というようなものがたくさんありました。
 午前5時45分に只見線の列車がホームに入ってくるので,混雑しているときは,早くホームに行って並ばないと座ることすらできないとありましたが,このときの私はそんなことは知らないし,この寒さではホームで待つのもいやだったので,午前6時まで余裕で駅の構内の待合室にいました。午前6時になって改札を通ったのですが,すでに列車はホームにいました。しかし,がらがらでした。
 最終的に,この日,只見線をJR小出駅まで乗りつくしたのは私も含めてわずか8人で,始発の会津若松駅で乗っていたのは,この8人に加えて,途中で下車した高校生が2人だけでした。
 10人の乗客を乗せた只見線は,定刻に出発しました。
 日の出はまだ1時間先のことで,外は真っ暗だったので,風景をみることはできませんでしたが,只見線で景色のよいといわれる場所は,夜が明ける1時間後に到着する会津標津駅から先のことです。

 ところで,この旅の1週間後。1月24日に寒波が襲来して,只見線は不通になりました。
 私は,もし,只見線が不通だったときは,磐越西線で遠回りをして新潟駅まで行こうとぼんやり考えていましたが,磐越西線もまた,雪だとダイヤが乱れるようです。
 それに加えて,これは想定外のことでしたが,1月23日はJR東京駅とJR大宮駅間で架線事故が起きて,東北新幹線も上越新館も止まってしまいました。もし,私が遭遇していたら,今回の旅は不可能でした。
 いつものこと,今回も私は強運でした。

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 この日は鶴ヶ城のボランティアガイドで偶然一緒になった女性と同じコースで観光をすることになって,結局,飯盛山ではずっと一緒にまわることになりました。レンタサイクルにしなったことでいい出会いができました。
 飯盛山で,会津若松市の観光も終わり。あとはまちなか周遊バスで会津若松駅に戻るだけでしたが,飯盛山で時間をとりすぎて,まちなな周遊バスの時刻に間に合いませんでした。どうしようかと考えて,おしゃべりをしながら,会津若松駅まで歩くことにしました。およそ30分の道のりでした。

 会津若松駅近くに七日町があります。来るとき,まちなな周遊バスの車内で見て,帰りに寄ろうと思っていました。私はそこで夕食をとることにしていましたが,その女性は,七日町を少し見てから,今日の列車で帰るということだったので,七日町まで行って,そこでお別れすることになりました。
 七日町には古い家並みがあって,歩いて楽しいところです。
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 大正浪漫の雰囲気のただよう七日町通りは,藩政時代には会津五街道のうち,日光,越後,米沢街道の主要道路が通り,城下の西の玄関口として問屋や旅籠,料理屋が軒を連ねていました。
 明治時代以降も重要な通りとして繁栄を極め,昭和30年代頃までは,会津一の繁華街としてにぎわっていました。その後,一度衰退したこの通りは現在大正浪漫を感じられる通りとして甦り,観光客に人気となっています。
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 七日町で最も気になった建物が福西本店でした。
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 福西本店は,明治時代から大正時代にかけて繁栄した会津若松の商人である福西家が築いた蔵と商家の建築物です。特に,野口英世青春通りに面した店蔵,仏間蔵,炭蔵の外壁は,一般的な白漆喰ではなく手の込んだ黒漆喰で作られています。母屋には広々とした大広間や座敷蔵などがあります。
 さらに,庭を見渡す東南の一角には二階建ての数寄屋があり,二階は客室として利用されています。
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 内部を見学できるということでしたが,もう時間が遅く,閉まっていました。また来いよ,と言われたと解釈しました。

 その後,当てもなく歩いていて,神明通りの東裏,興徳寺の本堂東側に見つけたのは,1590年(天正18年)から会津藩の藩主であった蒲生氏郷の墓でした。この墓は,会津史談会が1953年(昭和28年)に建てた,空風火水地の五文字を刻した五輪塔で,京都大徳寺の本墓から分骨したものと伝えられます。
 また,そのあたりを,野口英世青春通りといい,野口英世が青春時代を過ごし,會陽医院に書生として住み込みで働きながら約3年半にわたって医学の基礎を学んだ場所。洗礼の地は「野口英世初恋の地」ともよばれ,初恋の人・山内ヨネ子と出会ったところだそうです。
 野口英世は,3歳のとき火傷を負った左手を手術した會陽医院の跡が,現在,アンティークカフェで,その2階に野口英世青春館という博物館となっていたので,見学しました。
 さらに歩いていくと,「椿餅」がウリの伊勢屋というお菓子家さんがあって,実にいい外観をしていたので,写真に収めました。「椿餅」は「白虎隊も食べた」といわれている由緒あるお菓子で,創業の地が鶴ヶ城の南口に面していて,城の北面の坂が「椿坂」とよばれていたのが名前の由来です。また,伊勢屋という屋号は,伊勢の松坂城主だった蒲生氏郷が1590年に会津に移封されたときに伝えられた技術を基に創業したからだそうです。

 結局,七日町には,夕食をとる適当な店はなく,会津若松駅まで来てしまったので,駅前にあった寧々家という店でおいしく酒を呑みながら夕食をとりました,
 これで,会津若松市の観光は終わりです。今回は時間がなかったので,ひととおり歩いただけでしたが,会津若松市はとても雰囲気のいい町だったので,また来ようと思いました。
 さて,いよいよ明日は只見線乗車です。空を見上げると快晴で,木星に接近した月がきれいでしたが,明日の天気予報は雪。果たして,列車は動くのか?

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 会津武家屋敷で,再び,鶴ヶ城のボランティアガイドを一緒に聞いた女性と会いました。旅は道連れ,そして,目的地が同じなので,ここから次に行く飯盛山へ,同じまちなか周遊バスに乗りました。こうして,奇しくも楽しい旅となりました。
 飯盛山は標高314メートル,会津の城下町を一望に見渡すことのできる小高い山で,飯を盛ったような形から名づけられました。讃岐の飯盛山と共通の山だと思った日本武尊(ヤマトタケル)の魂が白鳥になり舞い降りたなどの神話も残る信仰の山ですが,白虎隊十九士自刃の地として知られています。
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 1868年(明治元年)の会津戦争は,薩摩藩,土佐藩を中心とする明治新政府軍と会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの旧幕府軍との間で行われた戦いです。
 京都御所警備という任務に就いていたのにかかわらず,情報軽視や身分が硬直していた会津藩は,武士や地主以外の領民軽視で戦争の準備も軍制改革も遅かったことに加えて,和平主張する者を排斥したことから,藩内強硬派によって,悲惨な戦争が起きてしまう結果となりました。
 会津藩では,年齢ごとに,白虎隊,朱雀隊,玄武隊,青龍隊,幼少隊などが組織されました。藩士子弟の少年たちで構成される白虎隊の士中二番隊は戸ノ口原の戦いにおいて敗走し,飯盛山に逃れましたが,鶴ヶ城周辺の城下町が燃えているのを城が燃えているのと勘違いをして,敵に捕まり生き恥を晒すよりはと自刃してしまいました。
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 ハスを降りて,飯盛山への登山口まで来ました。登山口からは急な石段がありました。動く坂道「スロープコンベア」というエスカレータがあるということでしたが,あいにくこの日は運休だったので,雪が積もってすべりやすい階段を手すりを頼りに苦労して登りました。
 飯盛山は観光地となっていて,多くの土産物屋さんがあったのですが,今はシーズンオフで,閉じているのか,営業していてもお客さんがいないか,さびれ感満載でした。
 どうにか山頂に到着しました。山頂には,白虎隊十九士の墓,各地で戦死した三十一士の墓があり,自決した場所には慰霊碑がありました。自決した場所から鶴ケ城を見ることができるということでしたが,目を凝らしてもなかなか確認できず,自宅に戻って写真を見て,やっと判明しました。
 帰り道,中腹にあった栄螺堂(さざえどう)へ迂回しました。
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 日本でも珍しい木造建築物である栄螺堂は,1796年(寛政8年)に建立された,高さ16.5メートル,六角三層のお堂で,正式名称を「円通三匝堂」(えんつうさんそうどう)といいます。
 もともと,飯盛山には正宗寺(しょうそうじ)という寺があり,その住職であった僧・郁堂(いくどう)の考案した建物だそうです。その独特な2重螺旋のスロープに沿って,昔は西国三十三観音像が安置されていて,参拝者はこのお堂をお参りすることで三十三観音参りができるといわれていましたが,明治新政府による廃仏毀釈に伴い,明治以降は,養老の滝の話などの,8代藩主・松平容敬が編纂した会津藩の道徳教本であった皇朝二十四孝の絵額が掲げられています。また,上りと下りが全く別の通路になっている一方通行の構造で,たくさんの参拝者がすれ違うこと無く安全にお参りできるという世界にも珍しい建築様式です。
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 なかなか興味深い建物でした。

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 御薬園を出て,次の見どころは会津武家屋敷でした。さすがにそこまでは歩くのがたいへんだと,まちなか周遊バスに乗ることにしたのですが,地図を見ると,その間に,近藤勇の墓がある天寧寺とか書かれてあったので,興味が湧いて,結局,歩き通してしまいました。
 これでは1日乗り放題のチケットを購入した意味がありません。いや,さまざまな施設に割引で入れたので,意味がなかったわけでもないのですが…。
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 余談ですが,いろいろなところで,割引だとかポイントだとかがあっても,それをどう使うか四苦八苦しているだけではないか,とこのごろ思うようになりました。そして,苦労ばかりが多くなって,結局,いくら得をしたのか? と思うと,何だか馬鹿らしくなってきました。所詮は数百円から多くても数千円くらいのものです。死んだあとに残るお金ならあってもなくても同じ。ならば,そんなことに関わっても,わずらわしいだけであまり意味がないのではないか? だから,簡単に割引になるものならともかく,工夫や知恵を絞ってまで,割引の恩恵の預かろうとするのは本末転倒…。
 閑話休題。

 近藤勇の墓に至るのは,「奴郎ヶ前」(やろうがまえ)という場所にあった狭い坂道で,かつ,かなり距離があったので,結局行くのをやめました。「奴郎ヶ前」には案内板があって,それによると,このあたりは,昔,処刑場があり、罪人が最後の食事として田楽と清水が与えられた場所だった,とありました。柵を意味する矢来の前だったことから「矢来の前」。これが転じて「奴郎ヶ前」と変化したといわれています。
 現在,この場所には会津三大茶屋のひとつである「奴郎ヶ前の田楽」を提供する「お秀茶屋」がありました。四方を山で囲まれた盆地である会津。峠には茶店ができ,その茶屋の料理が名物になりました。それらを三大茶屋といいます。
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 滝沢街道にある「強清水(こわしみず)の天ぷら」
 日光街道にある「一ノ堰(いちのせき)の棒たら」
 東山街道にある「奴郎ヶ前の田楽」
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 どうして,この場所に近藤勇の墓が? それはつぎのような理由からです。
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 28歳で京都守護職を拝命した9代藩主・松平容保(まつだいらかたもり)は,江戸帰還を命ぜられた浪士組のうち京都残留を希望する近藤勇らを御預として,のちに新選組となった「壬生浪士組」を誕生させました。
 新選組は,戊辰戦争に参戦するも敗北を繰り返し,近藤勇が西軍へ投降してもなお抵抗し,宇都宮から会津へと転戦。会津では斎藤一ら一部の隊士が如来堂において西軍に急襲され全滅したといわれます。
 近藤勇は東京板橋で斬首され,京都の三条河原において罪文とともに晒し首にされましたが,土方歳三が近藤勇のために建立したといわれる墓がこれです。土方歳三は,足の治療を続けている間,毎日この現場に来て指図し,建立させたそうです。また,近藤勇の戒名「貫天院殿純忠誠義大居士」は,松平容保が贈ったものであるといいます。
 墓に葬られているのは,京都の三条河原から新選組隊士が奪ってきた首であるとも,また遺髪であるとも。
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 奴郎ヶ前を過ぎ,さらに歩くと,会津武家屋敷に到着しました。今回もまた,歩き通してしまいました。私は,会津武家屋敷というのは,江戸時代の武家屋敷が残る風情あるところだと勘違いをしていました。実際は,日新館藩校同様,会津藩家老・西郷頼母(さいごうたのも)の屋敷を復元して見せる観光用の施設で,土産物屋などが併設されていました。本来の西郷頼母邸はこの場所ではなく,鶴ヶ城正面の追手町にありました。
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 西郷頼母は,幕末の会津藩の家老です。西郷家はもともとは保科姓で,信州高遠藩の藩主だった保科正直の弟三河守正勝からはじまり,のちに会津藩主となった保科家の分流です。
 西郷頼母は,田中土佐と共に松平容保に京都守護職辞退を進言したので,松平容保から怒りを買い,家老職を解任されました。戊辰戦争が起きると家老職に復帰し,白河口総督として戦いますが,敗れ,会津へ戻り,その後,長男を連れて会津から出ました。新政府軍が城下町に乱入したとき,家族ら21人は邸宅で辞世の句を残して自決しました。西郷頼母自身は,紆余曲折ののち,明治時代は福島県伊達郡の霊山神社で神職を務め,辞職後は会津若松に戻り,1903年(明治36年)に会津若松の十軒長屋で死去しました。
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 会津若松市の観光で,最後に残ったのは白虎隊で有名な飯盛山でした。そこまではさすがに遠く,まちなか周遊バスに乗ることにしました。しかし,まちなか周遊バスが来るには,まだずいぶん時間があったので,近くにあると思われた松平家墓所まで行ってみることにしました。
 松平家墓所は,入口まではさほどの距離でなかったのですが,そこからが大変でした。雪が残る山の中へ滑りやすい苔むした石段を登り,到着までは片道20分以上かかるとありました。また,熊注意,ともありました。さすがに冬は冬眠中だから熊は出ないだろうと思ったのですが,あまりの遠さにどうしようかと思っていたところ,途中にも墓らしきものがあったので,それだけを見て引き返しました。
 帰ってから調べてみると次のようでした。
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 江戸時代,墓所の場所全体が院内山とよばれていたので,松平家の墓所は「院内御廟」(いんないごびょう)といいます。
 「院内御廟」には,2代藩主・保科正経から9代藩主・松平容保までの歴代藩主とその側室や子どもが埋葬されています。ちなみに,初代・保科正之の墓所は猪苗代町の土津(はにつ)神社にあります。
 1657年(明暦3年)保科正之の子ども保科正頼が18歳で早世し,その埋葬場所として,南向きの山でよい清水が出るためこの場所が選ばれました。その後,2代藩主が葬られ,3代藩主も院内山に埋葬されることが決定して以来,歴代の藩主の埋葬地として歴史を刻むこととなりました。
 墓所は15ヘクタールにもおよび,荘厳な景観をつくりだしているそうです。
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 結局,私が行くことができたのは,保科正頼の墓までだったのです。

 会津武家屋敷の先に,今回は行くことができなかった,天平年間に開湯した東山温泉がありました。東山温泉には,江戸時代,会津藩の浴場と保養所があり,負傷した土方歳三はここで湯治しました。明治以降は,この風情に魅せられた文人歌人も多く,与謝野晶子や竹久夢二などが訪れ,数々の作品を残したということです。いつか,ゆっくり行ってみたいものです。
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 湯あみしてやがて出じとわが思ふ会津の庄のひがし山かな
 半身を湯より出して見まもりぬ白沫たてる山あひの川
 自らを清しとすれど猶あかず会津の山の湯を愛でて浴ぶ
 湯の川の第一橋を我がこゆる秋の夕のひがし山かな
   「青海波」与謝野晶子
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 ただし,東山温泉は,様々な問題で,現在は,廃墟化しているホテルもあるということです。日本の温泉地の多くは,同じような問題を抱えています。

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 日新館天文台跡は鶴ヶ城の西にあって,こんなマニアックな場所はほとんどの人にはまったく興味はないから,まちなか周遊バスのコースではありませんでした。そこで,その場所まで歩く必要があったのですが,こうしたはじめての町を歩くのは,とても楽しいものです。
 次に目指したのが,鶴ヶ城からは,はるか東にある御薬園(おやくえん)でした。途中からまちなか周遊バスのコースになるので,そのあたりでバスに乗ればいいかな,と思っていたものの,結局,歩き通しました。
 幸い,この日は天気もよくとても暖かでした。
 御薬園へ行く途中で見つけたのが,田中玄宰(たなかはるなか)の屋敷跡でした。田中玄宰は江戸時代後期の会津藩家老で,会津藩5代藩主・松平容頌(かたのぶ),6代藩主・松平容住(かたおき),7代藩主・松平容衆(かたひろ)に仕えた偉い人です。天明の大飢饉の窮地を乗り越えるため,殖産興業の奨励を図り,今日の会津地方の伝統産業の基礎を築くなど,高く評価されたそうです。
 そして,県道64号線沿いには,若松城の土塁が今も残っていました。

 30分程度歩いて,やっと御薬園に着きました。
 見どころということでやってきた御薬園ですが,私は御薬園が何か知りませんでした。御薬園は藩主の庭園でした。
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 約635年前,この地に住む喜助が病気で難儀していました。朝日保方(あさひやすかた)という白髪の老人が鶴の舞い降りた泉の水で喜助を介抱し,喜助はもとのからだに戻りました。喜助は疫病から救ってくれた恩人として,朝日保方を霊泉の傍らに手あつく葬り,祠をたてて朝日神社とし,霊泉の泉を鶴ケ清水と名付けたということです。この祠は今も御薬園にあります。
 1432年(永享4年),当時の10代当主・葦名盛久(あしなもりひさ)は,この地は霊地であるとして別荘を建て,16代当主・葦名盛氏(あしなもりうじ)は別荘を復興,これが御薬園の創始とされています。
 その後,永い戦乱で別荘はまったく顧みられませんでしたが,初代藩主・保科正之は霊地の由緒を正して庭園を整備し,保養所として用いるようになりました。2代藩主・保科正経(まさつね)は、貧しい領民を疫病から救い,病気の予防や治療などを施したいとの願いから,園内に薬草園を設け,各種の薬草栽培を試みました。
 現在の庭園は3代藩主・松平正容(まさかた)の時代,1696年(元禄9年)に小堀遠州の流れを汲む園匠目黒浄定(めぐろじょうてい)と普請奉行辰野源左衛門(たつのげんざえもん)の手に成るもので,規模を拡大し借景を取り入れた池泉回遊式の大名庭に大補修を加えたものです。
 周囲約540メートルの長方形で面積は1.7ヘクタール,約5100坪あり,北に千古の雪を頂く飯豊の霊峰や,東には磐梯の秀峰と背あぶり山・東山の連山が望まれた借景のすばらしい庭園として造られました。
 また,薬園が整備拡充され,朝鮮人参を試植し,これを広く民間に奨励したことから,領民からお殿様の薬園,御薬園(おやくえん)とよばれるようになりました。
 戊辰戦争後,維新政府は御薬園を没収し官有地としましたが,これを憂いた現在の若松市柳原町の豪商・長尾和俊は,会津一円に募金を呼びかけて買い戻され、旧藩主の所有となりました。
 1932年(昭和7年)国の名勝に指定され,1953年(昭和28年)から一般に公開されました。
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 御薬園は,中央に心字池がある池泉式回遊式大庭園で,思った以上にすばらしいところでした。ここは,大河ドラマ「八重の桜」のロケ地となったところでもありました。心字池の周りを歩くようになっていたので,景色を眺めながら歩きました。心字池の中央に亀島と楽寿亭,池の西側に御茶屋御殿,庭園北側に藩政時代の薬草栽培地跡を利用した薬用植物標本園がありました。
 少しだけ雪が残り,それはそれはすばらしい雰囲気でした。
 池泉式回遊庭園の池の水源は,猪苗代湖と東山の湯川の2系統から引き入れているということです。
 ひときわ目につく数寄屋造りの楽寿亭は,主として藩主や藩重役等の納涼や観光の場であり,茶席や密議等の場としても使われていたようです。楽寿亭の命名は保科正容によるもので
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 松平正容は,平素から政務は「仁」と「知」が大切であるといい,「仁知」の2字を座右の銘としていました。時折り御薬園に来て山水を見ていましたが,それは,自然の造化のなかにも「仁」者の「寿」と「智」者の「楽」のあることを感じ「楽寿亭」の名をつけた
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といいます。

 このすばらしい庭園に訪れていたのは,私のほかにひとり女性がいただけでした。が,その女性は,奇遇にも,鶴ヶ城で一緒にボランティアガイドの説明を聞いた人でした。

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 鶴ヶ城の見学を終えたころ,ちょうどお昼になったので,どこかで食事を,と思いながら歩いていると,城の北の丸のあたりに「本丸茶屋」という店があったので入りました。
 会津若松市の名物は「会津ソースカツ丼」ということなので,これを注文しました。
 「会津ソースカツ丼」は,どんぶりの飯の上にキャベツを敷き,その上にとんかつを載せ,ウスターソースをかけたものでした。
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①大正年間に早稲田大学向かい鶴巻町にあった洋食店「ヨーロッパ軒」が1913年(大正2年)東京の料理発表会で「ソースカツ丼」を披露し,その数年後には店で提供していた。
②1921年(大正10年)早稲田高等学院生の中西敬二郎が「ソースカツ丼」を考案した。
③1920年(大正9年)岩手県一関市の「和風レストラン松竹」にて誕生した。
④東京の「ヨーロッパ軒」が1923年(大正12年)の関東大震災で再建不能となって福井へ移り,翌年福井市の「ヨーロッパ軒」にて誕生した。
⑤大正の末,群馬県桐生市「志多美屋本店」にて誕生した。
⑥1930年(昭和5年)会津若松市の「若松食堂」にて誕生した。
⑦ 昭和年間に前橋市の「西洋亭」にて誕生した。
➇昭和初期,長野県駒ケ根市,恵那市にて誕生した。
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といった数々の発祥説があるそうですが,会津若松市は「「ソースカツ丼」に最初にキャベツを入れた町 」だそうです。
 「ソースカツ丼」,私は長野県駒ケ根市のものしか知らなかったのですが,ほかにも,群馬県桐生市だの,新潟市古町だの,福井名物だのと,全国にわたって,「ソースカツ丼」なるものは存在しているようです。要するに,カツ定食を一緒にしただけのものですからだれでも考えつきます。我こそは元祖,と言ったものが勝ちです。
  ・・
 今回は食べませんでしたが,「ソースカツ丼」以外の会津若松市のグルメは,馬刺しとかラーメンとかです。
 会津馬刺しは, 熊本,長野と並ぶ「日本三大馬刺し」のひとつに数えられているそうです。会津では,みそに唐辛子やニンニクなどを混ぜた「 辛みそ」をしょうゆに溶かして食べるのが一般的ということです。
 また,福島県で有名なのは「喜多方ラーメン」ですが,「会津ラーメン」というのもあって,「 喜多方ラーメン」との違いは,味が全体的に濃いめで,具はシンプルそのものでチャーシュー,ねぎ,メンマが一般的であり,この黄金比こそが「会津ラーメン」の真髄だそうです。ちなみに,会津では味噌ラーメンも少し変わっていて,野菜,もやし,肉をふんだんに入れた味噌タンメンを指すということです。ところで,「日本三大ラーメン」というのがあって,それは,一般的に,北海道の「札幌ラーメン」,福岡県の「博多ラーメン」,福島県の「喜多方ラーメン」を指すそうです。

 昼食を終えて,鶴ヶ城付近の見どころを探すと,会津藩の藩校であった「日新館」の跡地というのが見つかりました。私は,日本各地,様々なところに行くと,城跡に加えて,藩主の菩提寺と藩校を探すのですが,それは,江戸時代,その地を治めた殿様の治世がよくわかるからです。
 「日新館」は,1868年(慶応4年)戊辰戦争により校舎は焼失してしまい,現存するのは会津若松城趾西側に残る天文台跡のみです。調べてみると,現在,「会津藩校日新館」というものが別の場所にありますが,それは,藩校に関する資料が残っていたため,総工費34億円を費やして1987年(昭和62年)に会津若松市河東町に復元して開館した観光施設です。
 1782年(天明2年)から数年間続いた天明の大飢饉をはさんで,会津藩内でも様々な問題が出てきました。その諸問題を解決すべく,5代藩主・松平容頌(たかのぶ)のとき,家老・田中玄宰(はるなか)は藩政の改革をするよう進言し,その中心に「教育の振興」をあげました。それが「日新館」創設のきっかけとなりました。
 江戸時代,全国各地に天文台が建設されましたが,現存しているのは日新館の天文台跡のみなので,全国的にも貴重な史跡であり,天文学的にも貴重なものであることから,日本天文遺産認定となりました。日本天文遺産とは,歴史的に貴重な天文学・暦学関連の史跡・建造物や物品,文献などの遺産を大切に保存し,文化的遺産として次世代に伝えるために,日本天文学会により創設された制度です。

 こうして,会津若松市街地を歩いていると,はじめて来た地なのに,どこか似たところを歩いたことがあるなあ,と思いましたが,それがどこだったのか,なかなか思い出せませんでした。このごろいろいろなところに行っているので,記憶がごちゃごちゃになってしまっているようです。家に帰ってから調べてみると,それは,山形県米沢市でした。ということなのですが,偶然,私が,天文台跡まで歩いている途中に目にしたのが,直江兼続邸跡・山鹿素行誕生地でした。
 直江兼続は上杉景勝の家臣で,米沢のひとです。それがどうして?
 豊臣政権時代,会津藩を統治していたのが上杉景勝でした。しかし,関ヶ原の戦いののち,上杉家は米沢に移されたことで,直江兼続もまた,会津から米沢に移ったわけです。
 山鹿素行が生まれたのは,そののちのことになります。山鹿素行の誕生地を記念した碑石は地元の自然石で「山鹿素行誕生地 大正15年春 元帥伯爵東郷平八郎書」と刻まれています。山鹿素行という名は高等学校の日本史の教科書にもありません。それがどうして私が山鹿素行を知っているのだろう?
 それは,赤穂義士が討ち入りをしたときに「山鹿流陣太鼓」を鳴らしたという物語(創作)からです。山鹿素行は,江戸前期,赤穂藩士の教育などを行った儒学者です。3代将軍・徳川家光の師範でしたが,徳川家光の死後,赤穂藩から学問師範として迎えられ,軍学や儒学を教えました。その後江戸に出て民間の学者となりましたが,反政府的なことを説いて,赤穂藩に流刑を言い渡されました。
 浅野内匠頭は山鹿素行の「教え」をイデオロギーとしていたといいます。
 そこで,討ち入りのときに,大石内蔵助が陣太鼓をたたき,それを聞いた吉良上野介の家臣たちは「一打ち二打ち,三流れ… アレは山鹿流の陣太鼓か」と言って,刀もって飛び出して行く,という創作が生まれたとか。

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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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