しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:加納宿

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 鵜沼宿から加納宿まで旧街道に沿って車で走ってみることにしました。ここは歩くと約17キロメートルあるので,4時間程度かかります。しかし,ずっと平地で,現在は国道21号線,JRの高山本線,名鉄の各務原線に沿っている市街地です。そこで,江戸時代のころは田んぼのなかを単調な道がつづいているだけの楽なところだったのだろうと思っていました。しかし,実際は,観光パンフレットによると次のような場所でした。
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 鵜沼宿の西は3里,12キロメートルにわたって「かがみ野」という場所で,ほとんど人家がなく,山賊が行き来する人々を狙っていたために,旅人にとっては恐ろしく難所だったようです。
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 現代の風景しか知らない私には意外でした。平地は山賊が出没し,山は険しい峠越え,川は川止めになるというように,当時の旅は過酷なものでした。

 また,鵜沼宿から加納宿までの旧街道は現在
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 この区間はほとんどが国道21号線やその旧道と重複しているため,往時の面影を求めようとするには非常に困難なものがあります。
 かつては「かがみ野」の原野を通っていたのですが,現在は交通量も多く,商店街などの街並みに変わってしまい,中山道の面影はほとんど残されていません。
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とあるのですが,走ってみるとそんなことはなく,家々の間を車がやっとすれ違えるほどの車幅の道が続いていて,明らかに旧街道だった雰囲気がしました。

 途中,新加納に間の宿がありました。カギの手になった場所や石造りの道標が残っていました。
 こんな長い距離,途中に間の宿があるのは当然か,と思いました。
 そうこう走っていくと,以前,歩いたことがある加納宿に到着しました。そのころ,その先に伊吹山が雪を被ってとてもきれいに見えるようになってきたので,その姿を追い求めてさらに走っていくと,いつのまにか墨俣まで来てしまいました。
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 コロナ禍以降,歩くこともしばらくなかった旧街道でしたが,今回,こうして行ってみて,また,歩いてみようかな,と思いはじめました。

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 前回書いたように,鵜沼宿から東の太田宿までは登り坂で,うとう峠を越す必要があります。このあたり,以前歩こうとして地図で調べたことがあったのですが,よくわかりませんでした。そこで,今回,実際はどうなっているか,少し車で走ってみることにしました。
 うとう峠は観光案内には次のように書かれています。
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 「うとう坂」とよばれたこの峠道は難所で,(その先の)御嶽宿から細久手宿に向かう途中の「謡坂」と同じ名前ですが,こちらの「うとう」は謡うではなく「疎う」。きっと疎ましいほどの場所であったのでしょう。
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とありました。
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 現在,この急坂の途中までは団地として造成されていました。この坂の上の住宅は高級そうですが,私は,こんな坂の上に住むと老後がたいへんなのに,と思ってしまいます。車がないと出かけることもできません。
 それはさておき,団地の先は自動車が通れる道はありません。さらに奥は「日本ラインうぬまの森」とかいう公園になっていて,その先,旧中山道は木曽川まで石畳がひかれて整備されているようでした。 
 まあ,いわば,ここは各務原市の観光資源のようです。かつ,地元の人の散策コースなのでしょう。私は,またいつこの先の旧中山道を歩いてみたいものだと思ったことでしたが,今回はここまでです。

 さて,鵜沼宿に戻って,お昼をとることにしました。国道21号線と鵜沼宿の入口の交差点に小ぎれいな喫茶店があったので久しぶりに入ってみました。若いころは喫茶店もずいぶんと行ったものですが,このごろは行くこともなくなっていました。平日のお昼前なのに,けっこうなお客さんがいました。まだモーニングサービスをやっていたので,遅い朝食,といったところでしょうか。
 私も以前は新聞や雑誌を読むのが目的で喫茶店に入ったものですが,もう,私の世界では,そうしたものは存在していません。紙媒体の新聞こそ,デジタル版だけ購読するより「紙+デジタル」のほうが実は安いので,まだ家には届きますが,読むのはデジタル版だし,雑誌などは情報として価値が低いので書店に行っても全く読まなくなってしまいました。また,そうでなくとも,このご時世では,他人の読んだ新聞や雑誌など手に取るのも不気味です。しかし,店内では,さすがに20年以上前のように店内にはタバコの煙が… というものはなくなっていましたが,私が10年以上も前に目にしていた風景,つまり,モーニングサービスを頼んで,雑誌や新聞を読みふけっている…,というのがそのままありました。
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 こういうところを見ると,この国では,デジタル化,だとか,人工知能,だとかいったところで,何も変わらない世界が大半なのだということを思い知ります。喫茶店でなくとも,マクドナルドでも,座席でモバイルオーダーすればいいのに,注文カウンタの前でスマホ片手にずらりと並んでいる人がたくさんいて,私には??? 疑問が絶えません。これでは世界から遅れをとるはずです。日本はまだまだ昭和なのです。
 お店を出るとき,きっと現金しか使えないだろうと覚悟をしていたのですが,PayPayで支払えるのに,今度は逆に驚きました。レストランにある,空気の流れを妨げ汚いだけのアクリル板といい,この寒い季節に摂氏33度を示すだけで不正確で意味のない体温計といい,いつものように,やったふりばかりの摩訶不思議な日本。どうやら,私は,もはやこの国では生きていけないのかもしれません。

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 気が向いたときに旧街道をきままに歩いています。少し前に御嶽宿から西に太田宿まで歩こうと出発したのですが,途中で明智へ寄ったので,伏見宿まででした。その後,今度は加納宿から西へ美江寺宿まで歩きました。ということで,その間の加納宿から伏見宿までが未踏破となっていました。
 先日,国道21号線を走っていたときに鵜沼宿を見つけてそれ以来気になっていたので,今回,鵜沼宿あたりを散策することにしました。
 鵜沼宿からその次の加納宿までは約17キロメートルもあって,歩くと5時間ほどかかりそうです。その間は平地で,JRと名鉄が通っています。そこで,無計画に出かけて電車に乗りながら歩こうと考えていたのですが,コロナ禍でそんな気もすっかりなくなってしまい,今回は,鵜沼宿だけ行って,後は,車で旧中山道を加納宿まで走ることにしました。鵜沼宿は未踏破の加納宿から伏見宿までの間にあります。
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 なお,鵜沼宿から東の太田宿までは8キロメートルですが,ここは登り坂,うとう峠という難所があります。ここを歩く計画を立てていたのですが,これはあとまわしです。そしてまた,私は,坂は下るに限る,という信念? から,もし将来歩くときは太田宿から出発して鵜沼宿に到着するプランを立てることになるでしょう。

 さて,鵜沼宿です。
 旧街道はどこも昔のままであれば車がすれ違える程度の幅しかないので,車両が通行禁止だったりあるいは一方通行だったりするのですが,鵜沼宿はそんなこともなく,車で通行できました。そしてまた,駐車場も広く,無料でした。ということで,無料の駐車場に車を停めて,散策開始です。
 鵜沼宿に残っているのは4,5件の住宅だけなのですが,この住宅が宿場の雰囲気をよく残していました。また,脇本陣が建て直されていて,無料の博物館となっていました。
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 脇本陣の東にかつては本陣があったそうですが,持ち主が経済的な理由から売り払ってしまい,そこに分譲住宅が経ってしまっていました。宿場の保存計画がもう少し早ければそんなこともなかったのにと,博物館で説明をしていただいた係の人が言っていました。
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 鵜沼宿は日本橋から52番目の中山道の宿場です。
 江戸時代は尾張藩領で,南へ約2キロメートルの木曽川対岸に犬山城があります。 鵜沼宿には,神社や石造物,旅籠の面影を残す住宅などが残るものの,周辺の近代化が進んできたために,町屋館(旧武藤家住宅)の修復,脇本陣の復原,宇留摩庵の修復,景観重要建造物(古い家並や酒蔵)の保存改修などが行われ,せせらぎ水路の設置,電線の地中化,案内板の設置,道路の美装化や安全対策が図られ,往時を偲ばせる宿場町として再生されました。
 また,一里塚もかつては三箇所にあり,現在は,「山の前の一里塚」は岩の上に石仏が安置されているだけ,「六軒の一里塚」と「新加納の一里塚」は標識が残っているのみになっています。
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ということですが,歩いていると,なかなかいい雰囲気でした。
 私は,この国では,こうした風情がもっともこころが落ち着きます。

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月,木星,土星,水星,
レナード彗星。

日没後の快晴の西の空。
月齢4.6の月。東方最大離角の水星。
その周りの惑星,そして,レナード彗星。
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 自宅から30分もあれば行くことができる岐阜市ですが,車で通りすぎたり,電車で乗り換えたりすることはよくあっても,町を歩いたことはほとんどありませんでした。また,ここは中山道の加納宿なのですが,それが岐阜市のどこを通っていたのかも知りませんでした。近すぎて関心もなかったのです。
 このごろ,中山道が岐阜県のどこを通っていたのか,ということに興味をもって,前回は御嶽宿から伏見宿まで歩きました。また,今年は大河ドラマ「麒麟がくる」のゆかりの場所として岐阜が脚光を浴びています。そこで,暖かかった2月12日,中山道の加納宿の西にある次の河渡宿もしくはその次の美江寺宿から東に歩きはじめて加納宿まで行き,そののちに岐阜市の観光をすることにして,早朝,家を出ました。
 はじめは河渡宿,もしくは美江寺宿から東に向かって歩くつもりでしたが,河渡宿のもよりの駅であるJR穂積駅から河渡宿までは結構な距離があり,その次の美江寺宿のもよりの駅である樽見鉄道の美江寺駅のほうがずっと便利であったことなどから,どちらの宿場から歩きはじめるか迷ってしまい,それなら逆にということで,岐阜駅で降りて,加納宿から出発して西へ向かい,次の河渡宿もしくはその次の美江寺宿まで歩き,どちらかたどり着いた宿場から電車でふたたび岐阜駅に戻って,そのあとで岐阜市の観光をすることにしました。

 さて,加納宿です。
 加納宿は,JR岐阜駅から少し南に行ったところにあって,旧中山道は,JR東海道線に平行にありました。岐阜駅から少し南東に行ったところが中心だった場所で,私は,例によって,加納宿の東の端まで行って,そこから西に向かって歩きはじめました。
 当時の建物はほどんど残っていなかったのですが,道幅は当時のまま,そして,歩きやすいように街道筋だけ別の舗装がしてあって,宿場としてのなごりが感じられるような整備と保存がされていました。岐阜市にこんなところが残っているのに驚きました。

 現在の岐阜市の北側は斎藤道三,そして,娘婿の織田信長の時代に栄えたのですが,その後のことを私は知りませんでした。そこで今回調べてみることにしました。

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 鎌倉時代,美濃に土着した源氏系の氏族が荘園の現地荘官となり勢力を拡大しました。これが美濃国の土岐氏です。
 土岐氏は南北朝時代には守護となり,拠点を現在の土岐市である土岐から岐阜城の南山麓の長森,そして岐阜市南部の加納のさらに南の川手に移しました。次第に守護代の斎藤氏が力をもつようになったのは「麒麟がくる」でも描かれていました。第11代土岐頼頼芸を追放したのが斎藤道三。斎藤道三は美濃国を手中にし,当時井乃口とよばれた稲葉山の山麓に城下町を形成します。斎藤道三の死後,斎藤道三の孫斎藤龍興を追いやり美濃の国を手中にした織田信長は「井乃口」を「岐阜」と改め城下町を発展させました。と,ここまでは有名な話です。
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 織田信長が本拠地を岐阜から安土に移した後,岐阜城は嫡男の織田信忠に与えられ,さらに織田信孝,池田元助,池田輝政,豊臣秀勝,信長の孫織田秀信が城主となりましたが,1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの前哨戦で岐阜城は落城し,徳川家康の命により廃城となりました。そして,関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は岐阜を直轄地にして幕府領として支配します。その後,岐阜は幕府領から尾張藩領となります。
 一方,徳川家康は豊臣方に対しての戦略の一環として岐阜の南,加納の地に加納城の築城を命じました。これが加納藩の成立です。そして,初代の加納藩主に長女亀姫の婿である奥平信昌を入封させました。このように,現在の岐阜市は,江戸時代はJR東海道線の北側が尾張藩領,南側が加納藩だったわけです。
 1602年(慶長7年)奥平信昌は隠居して,家督を三男の奥平忠政に譲りましたが,その12年後に奥平忠政は35歳で先立ち,翌年奥平信昌も死去。家督は奥平忠政の子奥平忠隆が継いだのですが,奥平忠隆も25歳で死去してしまい,奥平氏は断絶します。代わって奥平信昌の外孫である大久保忠職が入ったのですが,明石藩へ移封となり,次に松平光重が入りました。松平光重の後は子の松平光永,そして孫の松平光煕が継ぎましたが,やがて山城淀藩へ移封,代わって備中松山藩から安藤信友が入りました。ところが,安藤信友の跡を継いだ安藤信尹は無能で,家老たちは安藤信尹を幽閉しますが,この騒動が幕府に露見するところとなり,嫡男安藤信成に家督を譲って強制隠居させられました。
 1756年(宝暦6年)陸奥磐城平藩へ移された安藤信成に代わって,武蔵岩槻藩主永井直陳が入ります。永井氏は幕末まで続き,最後の藩主永井尚服は戊辰戦争で岩倉具定に帰順して新政府側に与し,版籍奉還により加納藩知事となりました。
 加納城には廃藩置県によって加納県となり県庁が置かれましたが,1872年(明治5年)廃城令により廃城処分となり建物は破却,城門などは売却され,今は本丸跡が公園となっていて,郭の形状と石垣だけが残っています。
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  江戸時代,加納藩では和傘の生産が盛んで,年間50万本も生産されていました。また,中山道の要衝として栄えました。中山道53番目の宿場だった加納宿は,本庄宿,高宮宿,熊谷宿,高崎宿に次ぐ大宿で,人口2,728人,家数805軒, 本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠が35軒ありました。

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