しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:司馬遼太郎

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 2023年5月17日に,NHKBSPで「新・街道をゆく~北のまほろば」が放送されました。私がちょうど青森県に旅行をする前日だったので,まさにぴったりの内容でした。録画しておいて,旅から帰ってから見ました。
 以前,司馬遼太郎さんの書いた「街道をゆく」を映像化した番組が作られたのですが,「新・街道をゆく」はそれを新しく作り直したものです。
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 司馬遼太郎さんが終生深い思い入れを抱き,亡くなる2年前の1994年に旅して記したのが,青森県を歩いた「街道をゆく41~北のまほろば」。なぜ,司馬遼太郎さんが,本州最北の地である青森を,物成がよく豊かな土地を意味する「まほろば」とよんだのか。縄文の巨大遺跡から幻の中世都市,津軽が生んだ芸術家である太宰治や棟方志功…。
 厳冬の津軽半島を舞台に司馬遼太郎さんの足跡をたどる。
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という内容の番組でした。

 司馬遼太郎さんは1923年に生まれ1996年に亡くなった作家です。とても多くの作品を執筆していて,NHK大河ドラマでのよく取り上げられていました。私は大学生のころ,ずいぶんと読みました。
 小説だけでなく,紀行文や対談集も数多く,その深い洞察力と知識に基づいた歴史感は「司馬史感」といわれ,多くの人が影響を受けました。当然,批判的に思う人もいたのですが,私は若かったので,そうした批判をするような知識ももっていなかったし,よくわかりませんでした。だから,ある種,洗脳されたかもしれません。
 また,「街道をゆく」は「週刊朝日」の連載として1971年にはじまり,司馬遼太郎さんが亡くなる1996年まで25年にわたり続きました。「街道をゆく」は,日本民族と文化の源流を探り,風土と人々の暮らしのかかわりを訪ねる旅の紀行文です。
 いつ「週刊朝日」を手に取っても載っていたのですが,若かったころの私にはさしておもしろくもなかったので,これまで読んだこともありませんでした。
 しかし,今回,青森県を旅行してみて,どうして,弘前藩の殿様・津軽家が江戸時代ずっと続いたのにもかかわらず人気がなくリスペクトされていないように思えたのか,太宰治が豊かな家に生まれたのに屈折した小説を書いたのか,この寒い地で3,000年以上も縄文文化が栄えたのか,など,多くの疑問をもって帰宅しました。それからこの番組の録画をみて,まさに私が疑問に思ったことが取り上げられていて,感激しました。そして,はじめて「街道をゆく」という紀行文のおもしろさがわかりました。
 そこで,図書館で「街道をゆく41~北のまほろば」を借りて読んでみました。私は,この歳で,やっと,司馬遼太郎さんが何を書きたかったのかということがわかったのが,喜びでもあり,また,やっと追いついたという思いをもちました。

 縄文時代,この地は,食料の宝庫だったようです。山や野に木の実が豊かで,三方の海の渚では魚介がとれ,走獣も多く,川にはサケやマスがやってくるという,「北のまほろば」だったのです。
 私は,東北地方や北海道に縄文時代の遺跡が多いのは,これらの地が今のように寒くなく,もっと温暖だったからと思っていました。それも多少はあるでしょうけれど,温暖でなければ豊かでない,というのは「街道をゆく~北のまほろば」を読んでみると,どうやらコメ作についての考えのようです。コメ作中心でなかった縄文時代はそうではなく,コメ作が伝わってから,そうした価値観が根づいたと「街道をゆく41~北のまほろば」には書かれてありました。
 ところが,江戸時代,殿様はコメを上方の商人に売りつけることで貨幣に変えていたので,コメは貨幣となりました。そこで,本州最北の地はコメ作には気候的に不向きであったのにかかわらず,領主の津軽家の殿様は米作りを奨励し農地を開いたのです。しかし,5年に一度は「やませ」が吹いて飢饉が訪れるという悲劇が襲いました。これが金を借りるということにつながっていくので,次第に貧しくなっていったのです。
 明治時代になってリンゴ作りがはじまって,やっとこの地に見合った特産物が手に入ったのですが,それでも,ときに台風が襲って,実りの秋にほとんど収穫できないという悲惨な年もありました。
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 私は子供のころ,学校で,縄文時代は生活が不安定で,コメ作がはじまった弥生時代になって生活が安定したと習いました。しかし,実際は違う。縄文時代は貧富の差もなく長く平和が続きました。弥生時代になって,貧富の差ができて,人々は戦いに明け暮れるようになったのです。
 津軽,今の青森県は「北のまほろば」。コメ作りが広がる以前はとても豊かだったです。
 青森県に限らず,どの地も,こうしたさまざまな先人の苦労の上で,今の人々の生活があるということが,実際に行って,その地の空気を吸い,その地を歩くことで,実感することができるということを,私は,旅をすることで知りました。

 余談ですが -という書き方は司馬遼太郎さんの小説によく書かれてある言葉でもありますが- 「街道をゆく41~北のまほろば」の中に「無名の師」(むめいのし)という言葉がありました。浅学の私は,この言葉を知らず,調べてみたのですが,その意味は
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 起こす名分のない戦争。 特に仕掛けられる側だけでなく、仕掛ける側においても必要がなくかつ勝算が確定的でない場合に独裁的な指導者によってなされるものを言う。
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とありました。まさに,現在のお隣の大国のことだ,と思いました。昔も今も,愚かな独裁者をもつと,支配される側は悲劇です。

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 今日の写真は,飛行機の機内から見た冬のシベリア,荒涼たる大地です。
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  司馬遼太郎さんが書いた「ロシアについて -北方の原形-」という本があります。現在は文春文庫で読むことができます。
 日本の歴史に造詣の深い司馬遼太郎さんが外国のことを書いたものは珍しいのですが,「坂の上の雲」で日露戦争を,「菜の花の沖」で高田屋嘉兵衛を通して日露交渉を描いことで,日本と関わりのある隣国ロシアについて考えざるを得なかったのでしょう。
 この本を読みながら,面積だけが巨大な,近くて遠いロシアという国の,現在の時代錯誤の他国への侵略の意味を考えてみました。
 一部,「ロシアについて -北方の原形-」から引用します。
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 別にロシアそのものを考える義務をだれから負わされたわけでもないのに,ロシアが関係するふたつの作品,「坂の上の雲」と「菜の花の沖」を書くために,十数年もロシアについて考え込むはめになった。 そのことは,私の年齢の40代と50代で終わったはずなのに,余熱がまだ冷えずにいる。
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 「ロシアについて -北方の原形-」の冒頭では,被害者としてのロシアが描かれています。
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 ロシア人は国家を遅くもった。
 ロシアにおいて,国家という広域社会を建設されることが,人類の他の文明圏よりもはるかに遅れた理由のひとつは,たとえば,遊牧民族・フン族や中国で蠕蠕とよばれたアヴァール人のような強悍なアジア系遊牧民族が東からつぎつきにロシア平原にやってきては,わずかな農業社会の文化であるとそれを荒らし続けた、ということがある。
 ロシア人の成立は外からの恐怖を除いて考えられないといっていいだろう。
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 司馬良太郎さんは,ロシアが周りの国々から侵略され続けた歴史を振り返るのです。
 4世紀から6世紀まで,強悍なアジア系遊牧民族が中国周辺において活躍し,やがて,西方に大移動し,ロシア平原に出現します。このときには,まだ,ロシア人による国家はなく,スラヴ人系の農民が散在するような小さな社会を作って,平原の原野を耕作していました。そこに,東から来た遊牧民族がスラブの社会をかき回し,その女たちを奪い多数の混血児をつくったのです。これが,ロシアやウクライナの遠い祖先です。

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 9世紀になって,やっとウクライナのキエフの地に,ロシア人の国家「キエフ国家」ができたことは,ロシア史を見る上で重要なことだと思う。しかし,キエフ国家は,ロシア人が自前につくったのではなく,国家をつくる能力のある海賊を稼業としていたスウェーデン人たちだった。
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 こうして,882年に,キエフ大公国が建国されました。
 キエフ大公国は,東スラヴ人,バルト人,フィンランド人が,リューリクによって創設されたリューリク朝の治世下で複数の公国が緩やかに連合していた国で,いまのウクライナ,ベラルーシ,ロシアの各国はいずれもキエフ大公国を文化的祖先としています。
 ところが,13世紀のはじめに,ロシア平原にチンギス汗が起こした大モンゴルがやってきました。大モンゴルは,農耕社会という定住文明に対する破壊者であり掠奪者でした。
 1227年,チンギス汗が亡くなった8年後,チンギス汗の孫のバトゥを総帥として,ヴォルガ川の流域 -ロシア平原- とその西方を征服するため派遣されました。当時,ロシア平原には都市ができつつあったのですが,その代表的な都市モスクワはモンゴル人によって破壊され,人々は虐殺されつくしました。そして,キプチャク汗国が建国されたのです。

 キプチャク汗国によって,キエフは陥落し,キエフ大公国は滅亡。以後,ロシアにおいて「タタールのくびき」(ロシア人などの祖先であるルーシ人の,2世紀半にわたるモンゴル=タタールへの臣従を意味するロシア史上の概念)といわれる暴力支配の時代が259年の長きにわたって続くことになります。
 キプチャク汗国の支配というのは「収奪」でした。キプチャク汗国の権力の実体は、すべて軍事力で,ロシア諸公国の首長を軍事力でおどし,隷従させ,彼らを通じ農民から税をしぼりあげるというものでした。キプチャク汗国がロシア農民に対して行った搾りあげはすさまじいもので,ロシア農民は半死半生になったといいます。
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 やがて,クリム汗国はイワン三世のロシアと共同でキプチャク汗国を攻め,1783年,エカテリーナ女帝のときに,ロシア帝国に併合されるかたちで,このチンギス汗の末裔の国は滅亡しました。
 こうして,武力のみが国家をた保つという物騒な思想を,ロシア帝国は,かつて自分たちを支配したキプチャク汗国から学び,引き継いだのです。そして,武力を失えば,クリム汗国のような最後をとげるという教訓を得ることになります。
 16世紀になって,はじめてロシアの大平原にロシア人による国ができましたが,その国家の作り方やあり方は,キプチャク汗国が影響します。
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 ①外敵への異様な恐怖心  ②病的な外国への猜疑心 ③潜在的な征服欲  ④火器への異常信仰    
 ロシアが支配する側に回り国家体制を構築したとき,キプチャク汗国の支配と強烈な被支配の長い体験から生まれたこれらの思想がロシアという国の骨髄まで沁みわたる原風景。
 これが司馬遼太郎さんの考えたロシアという国の姿です。

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