しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場・47都道府県を制覇し,南天・皆既日食・オーロラ,空の3大願望を達成した「不良老人」の日記

タグ:四国の小京都・大洲

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大洲城でチケットを買ったとき,大洲城のほかに「盤泉荘」と「臥龍山荘」のついたセット券があると薦められたので,どういうところか知らなかったのですが,せっかく来たのだからと,それを購入しました。
ということで,昼食をとる場所を探しながら「盤泉荘」と「臥龍山荘」を見てくることにしました。
大洲市の歴史地区,ヨーロッパでいうなら旧市街,といったところですが,そこから東に歩いて行って,歴史地区の外れまで歩いて行くと,それらはありました。多くの観光客は,大洲城には行っても,このふたつの施設を訪れる人はほとんどいないようでした。
こういう知らなかったところを訪れることこそが旅の醍醐味というものです。しかし,ほとんどの観光客は,有名なところしか行きません。そこで,道後温泉は人がうじゃうじゃいたし,東京に行っても,浅草とか原宿とか渋谷駅前だけが異常な混雑をしているから,私は,行きたいとは思いませんが,そこからわずか数百メートルも離れてしまうと,観光客なんてまったくいなくなってしまうのです。多くの人は群れる磁気みたいなものがあるようです。というか,主体性がないのでしょう。私は抗力しか感じませんが…。

はじめに訪れたのが「盤泉荘」でした。私以外に訪れていた人がいなかったので,とてもていねいにひとつひとつていねいに説明を受けながら案内をしてもらえました。
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裏山の岩盤からしみ出す水を利用していたことから「盤泉荘」ともよばれた旧松井家住宅は,マニラで貿易会社を経営するなど,多角的な事業拡大を行い,大きな富を成した松井國五郎氏によって,1926年(大正15年)に建設された,高台の急斜面にせり出すように建つ木造3階の別荘です。
良質な栂(つが)や黒檀(こくたん)が贅沢に使われていたり,南洋材が廊下に20枚連続して使用されていたり,鬼瓦にはイニシャルの「K・M 」を用いられていたりと,近代和風の貴重な別荘建築として評価されています。
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私がおもしろいと思ったのは横井戸でした。裏山の岩盤からしみ出す水を得るために,奥に向けて50メートル以上も井戸が掘られていて,この井戸に奥から流れ込んできた水が台所に設けられた貯水槽に送られる仕組みになっていました。

次に訪れたのが「臥龍山荘」でした。こちらは「盤泉荘」とは違って,何組かの観光客が来ていましたが,そのなかで,とりわけうざったかったのは中国人の家族連れでした。子供は大声で叫ぶわ,年寄りは山荘に座り込んで動かないわ,場違いな人たちでした。ああいう人たちが日本の観光地の雰囲気のすべてを台なしにしているのです。私は不快になりました。インバウンド御免です。
こちらは,録音を聴いての案内で,私は興味深くすべて聞きましたが,案内を聞いている人はほとんどいませんでした。
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「臥龍山荘」は肱川流域随一の景勝地「臥龍淵」に臨む3,000坪の山荘です。
文禄年間,この地は藤堂高虎の重臣であった渡辺勘兵衛が広大な屋敷を構えていたところで「勘兵衛屋敷」の名でよばれていましたが,その後,大洲藩3代藩主・加藤泰恒が吉野の桜・龍田の楓を移植し,庭園に一層の風情を加えました。そして,「蓬莢山(ほうらいさん)が龍の臥す姿に似ている」ことから「臥龍」と命名したといわれています。
臥龍院,不老庵,知止庵の3つの建築は,それぞれ数寄をこらした逸品揃いで,山々と肱川,如法寺河原の自然をとりいれた借景庭園は,自然と人工の典雅な調和をみせ,四季折々に違った顔を見せてくれます。
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その後は,手を入れられることもなく荒廃していましたが,明治の貿易商・河内寅次郎氏が10年余りの歳月をかけ,再興したものだそうです。
こうした建築物が大洲市のすばらしさを一段と深めていた場所となっていました。

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大洲城の窓口で,大洲市の観光案内を聞いたら,地図をもらえて,とても親切に教えてもらうことができました。大洲市の古い町並みが大洲城から少し離れたところで,その中心に「大洲まちの駅・あさもや」という無料の観光用の駐車場があるから,そこに車を停めて,町歩きを楽しんでくださいと言われました。
「大洲まちの駅・あさもや」の北側に「おはなはん通り」がありました。
NHK朝の連続テレビ小説「おはなはん」の放送は1966年(昭和41年)の4月から翌年の3月で,今から57年も前のことです。それが今でもこうして残っているのが驚きでしたが,それほど,当時評判のドラマだったわけです。「おはなはん」は,私が知っている,そして,テレビで見たことがあるはじめてのNHK朝の連続テレビ小説でした。
それにしても,「らんまん」にちなんだ地を訪ねて高知県に来て,まさか「おはなはん」ゆかりの地にも来るとは思いませんでした。
「大洲まちの駅・あさもや」に観光案内所があったので,中に入って食事処などを聞いたのですが,そのときに,係の若い女性に「「おはなはん」なんて見たことないでしょう?」と言った会話をしました。

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「おはなはん」は,明治中期,大洲市出身の,愛称をおはなはんという,底抜けの明るさとユーモアを持った女性・浅尾はなの一代記です。
女学校卒業を機に軍人と結婚し,子どもも生まれましたが,夫が病死したことで,おはなはんは医学を志し,助産師となります。2人の子どもを育てながら,明治,大正,昭和の時代を,たくましく,周囲に笑いと力と幸福を与えながら生き抜きます。
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という内容のドラマでした。
随筆家の林謙一さんが母・はなの半生を綴った「おはなはん一代記」が原作です。実際のおはなはんは徳島市の生まれでしたが,「戦災で徳島の古い街並みがほとんど失われたため,古い街並みの残る大洲が選ばれた」というのが表向きの理由だそうです。本当は,徳島市がドラマの舞台になることに難色を示したから,とかいわれていて,このドラマの人気が出てからくやしがった,という話です。
最終回は「おはなはん」自身が自分を主人公とするドラマの第1回放送を見るシーンで終わっているのですが,私は今でも,このときの番組をとても鮮明に記憶しています。

また,大洲市は,サラリーマンの永尾完治(=カンチ)と同僚の赤名リカ(=リカ)の関係を中心に東京に生きる若者たちの姿を描いた「東京ラブストーリー」でもロケ地となりました。大洲の町は主人公カンチの故郷という設定でした。
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「東京ラブストーリー」は,柴門ふみさんによる日本の漫画作品で,フジテレビの「月9ドラマ」として1991年に放映されました。
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リカがロサンゼルスへの転勤を断って,誰にも行き先を伝えずにどこかへ行ってしまいます。カンチはリカが「カンチの故郷を見たい」と言っていたのを思い出し,カンチのふるさと愛媛に探しに行きます。ふたりは再会し,大洲の町を巡ります。
おはなはん通りは,そのとき,リカとカンチが子供時代を思い出しながら歩いていた通りです。そして,カンチと一緒にいたリカが,カンチに気づかれないように,こっそりと別れの手紙を投函した郵便ポストが残っています。

大洲市を訪れたのは大当たりでした。ここはすばらしいところでした。日本にはこのようなすてきな小さな町があるのです。住んでみたいとさえ思いました。
ゆっくりお昼を,と思って入ったのが,あとで行くことになる臥龍山荘の,脇にあった「臥龍茶屋」というカフェでした。食事といっても,ここはカフェで,チャーハンとカレーライスくらいしかなかったのですが,ほかに人もおらず,窓から見える庭がきれいで,落ち着いた時間を過ごすことができました。

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今回行くとも思っていなかったのに,突然思い出して,佐田岬へ行くことができたのですが,その帰り,高知龍馬空港に行く途中で,どこに寄って行こうか,と考えて選んだのが,大洲市でした。
佐田岬半島を貫く国道197号線は,前回書いたように,西には,海を越えて九州までつながっているのですが,反対に,四国では,東に,八幡浜市から大洲市,そして,四国カルストの山麓を通って梼原町(ゆすはら)を経由して,太平洋岸の須崎市までつながっています。今回,私は,このルートを通って高知龍馬空港まで帰ったのですが,今年の1月に高知県に来たときにも,その時点ではまったく意識していなかったのですが,四国カルストへ行くために国道197号線を走ったことになります。すてきな町だった梼原町に「龍馬脱藩への道」という案内がありましたが,それこそが国道197号線の元の姿だったのです。今は「龍馬脱藩への道」に沿ってバイパス化され快適な自動車道となっているのですが,バイパスが整備されたのはわずか2年前のことでした。

さて,大洲市に到着しました。
大洲市といっても,私は大洲城の存在だけ知っていたので,目当ては大洲城だけでした。
四国には城がたくさんあります。今回の旅では,すでに,今治城,松山城と行ったので,これで3つ目の城ということになります。今治城は鉄筋コンクリート造りでがっかりし,松山城は予想以上のすばらしさでした。そして,大洲城。この城は,木造による再建天守でした。そして,予想を超える豪華さでした。
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大洲は,歴史的には交通の要衝といえる場所でした。
鎌倉時代末期1331年(元弘元年),守護として国入りした宇都宮豊房が,肱川(ひじがわ)と久米川の合流点にあたる地蔵ヶ岳に築城したのがはじまりです。
宇都宮氏は,その後,200年以上にわたってこの地を支配しましたが,毛利氏の伊予出兵で降伏し,土佐の長宗我部元親と通じた家臣の大野直之によって大洲城を追われました。しかし,1585年(天正13年)大野直之も小早川隆景によって攻め滅ぼされ,小早川隆景が入封しました。その後,戸田勝隆が城主として入りました。1595年(文禄4年)には,藤堂高虎が入城すると大規模に修築がされ,伊予大洲藩の政治と経済の中心地として城下町は繁栄しました。
江戸時代になり,1609年(慶長14年)に淡路の洲本から脇坂安治が転封され,次に,1617年(元和3年)に伯耆米子から加藤貞泰が入り,以後は加藤氏が12代にわたり大洲藩主として治め,明治維新を迎えました。
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明治維新後,本丸の天守や櫓は一部保存されましたが,老朽化と構造上の欠陥のために,1888年(明治21年)に解体されてしまいました。そして,2004年(平成16年)大洲市市制施行50周年記念事業として,木造で復元されました。
大洲城は,正確な資料が多く残っていたことと,市民の情熱があったことで,こんなに立派な木造の城を再建することができたようです。ここは一見の価値があります。これまでにも,高橋英樹さんをはじめてして,多くの歴史好き,城好きのタレントさんが訪れているようです。

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