しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場・47都道府県を制覇し,南天・皆既日食・オーロラ,空の3大願望を達成した「不良老人」の日記

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 私は50年来の念願がかなって,和歌山城に行ってきました。もっと壮大なお城だと思っていただけに,かなり拍子抜けしましたが,行けてよかったです。それとともに,それまでは思っていなかった,どうして陸の孤島のような和歌山市に徳川御三家のひとつがあったのかという疑問がふつふつとわいてきました。いつもそうですが,その地に行ってみないとわからないことがたくさんあるものです。
 あとで調べてみると,私が寂れたところだなあと思った和歌山市は,実際,人口も減っていて,活気のないところのようでした。そもそも,JRの和歌山駅と南海電車の和歌山市駅がずいぶんと離れていて,しかも,その中間にある和歌山城のあたりが市の中心部であるということからして,都市の発展を妨げていますし,これといって産業の目玉もありません。これでは人が流出します。そしてまた,和歌山市から南にいったところで,さらに何もないから,通過点ともなれません。

 もともとこの地にあったのは,JR和歌山駅近くの太田城でした。そのころ,根来寺は寺領72万石,3万兵の僧兵を養い,ここを中心として「紀州惣国一揆」が起きていました。これが紀州征伐の原因となって,豊臣秀吉の水攻めにより太田城は落城しました。その後,1585年,豊臣秀吉が当時若山とよばれていた地に城を築き,豊臣秀吉の弟羽柴秀長にこの地を与え,城が完成すると地名を和歌山と改めました。
 豊臣秀長は城代として家老の桑山重晴にこの城を任せましたが,関ヶ原の戦いで徳川家康に従った桑山重晴の子桑山一晴は大和新庄へ移封となり,代わりに浅野幸長が入りました。1619年,福島正則の改易で浅野幸長が広島へ移り,和歌山城に入ったのが徳川家康の10男徳川頼宜で,これにより紀州徳川家が成立しました。
 徳川家康は,天下を統一したのち,伊達藩など東北への監視として水戸徳川家,関西方面への監視として名古屋に尾張徳川家を置きました。
 ポルトガル船が種子島に鉄砲を伝えたように,種子島や琉球は諸外国との接点でしたが,種子島や琉球には和歌山港から紀伊水道を南下して黒潮に乗って帆船で行き来しました。陸路では広島の毛利家や九州の島津家などの領地を通らねばならず,直接自由に行き来できるものではなかったのです。また,鉄砲の一大製造地であった根来寺は当時砂金も採れ刀など鍛冶職人が多く住み僧兵も根来寺を中心に1万人くらい住みんでいましたし,高野山などの僧兵にも目を配る必要がありました。このように,武器製造地を押さえ,僧兵を監視し,琉球などの海外との接点を独自に管理するための重要拠点として,和歌山の地は重要だったのです。

 幕末。13代の紀州藩主であった徳川慶福が徳川家茂と改名して14代将軍となると,藩主が空席となり,幕命によって,伊予西条藩の9代藩主松平賢吉が紀州徳川家の養子となり徳川茂承と名を改めて14代藩主となりました。徳川茂承は長州征伐に参戦しましたが,戊辰戦争では新政府に恭順,明治維新を迎え,版籍奉還によって和歌山藩知事となりました。

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 堺市役所から,反正天皇陵を通り,仁徳天皇陵経由して,履中天皇陵と3つの天皇陵の拝所を通り,もよりのJRの上野芝という駅まで,ずいぶん歩いてたどり着きました。お昼になったので駅の近くで食事でもと思っていたのですが,お店が何もなかったので和歌山駅まで我慢することにしました。
 阪和線というくらいだから,上野芝駅で乗れば一挙に和歌山市に行けるだろうと思い,そのまま来た電車に乗りました。ところが,電車はふたつめの鳳とかいう駅が終点で,そこで降ろされました。次に来る,前4両が関西国際空港で後ろ4両が和歌山へ行くという8両編成の電車に乗り替えるのだそうです。
 待ち時間が13分でした。この駅に何か食べるところがないかなと探すと,構内にそば屋が1軒あったのですが,わずか10分では食べるのもはばかられ,改札を出たところにコンビニがあったので,バカらしかったのですが,一旦改札を出て,コンビニでパンを買って,これを昼食とすることにしました。

 再び改札を通りホームに降り,電車が来たので乗りました。しかし,今度は,和歌山市には和歌山駅と和歌山市駅があって,その位置関係がさっぱりわかりません。そもそも,駅の名前の付け方からしてよくわかりません。名古屋に名古屋駅と名古屋市駅が,京都に京都駅と京都市駅があるようなものです。そもそも私はこれまで和歌山市にまったく関心がなかったのです。乗った電車の終点は和歌山駅で,和歌山市駅はそこからまた盲腸線のような支線に乗り換える必要があるのでした。
 で,一体,和歌山城は和歌山市のどこにあるのだろうと調べてみると,それは和歌山駅と和歌山市駅の中間あたりでした。ならば和歌山駅から歩けばいいではないかということで,終点で電車を降りてお城まで歩くことにしました。
 降り立ったJRの和歌山駅周辺は,正直言ってかなりさびれていて,想像以上に活気のないところでした。三重県の四日市市のJRの駅の周辺に似ていました。日本の地方都市というのは,どこもみなそんな感じです。栄えているのは東京だけです。日本はオリンピックなんてやっている場合じゃないんです。
 駅前通りのアーケード街は,御多分にもれずシャッター商店街で,人通りもほとんどありませんでした。なのに,景気づけなのか活気づけなのかずっと民謡のような音楽がかかっていてやかましいというか,まったく歩いていて楽しくありません。ここの商店街のお偉い人はこういう趣味なのでしょう。なんだかなさけなくなってきました。
 ずっと西に向かって大通り沿いに歩いて行ったのですが,和歌山城まではかなりの距離がありましたが,やがて,やっとお城が見えてきました。
 和歌山城は,江戸時代,徳川御三家のひとつ紀州家の居所,いわば,老舗です。だから,威厳があるだろうと思っていたのですが,天守閣はかなりの石段を上ったところにあり,私は上るのにへろへろになりました。昨年行ったオーストリアのザルツブルク城はもっと険しかったのですが,ザルツブルグ城と違うのは,和歌山城はおどろくほど閑散としていて,観光客もまばらで,しかも,ぼろっちいお城でした。お城の中の展示もなさけないほどのモノでした。ただし,「和歌山城おもてなし忍者」とかいうかわいいくノ一が数少ない観光客にいちいち声をかけては一緒に写真を撮ってくれたので,それだけはいいところだなあ,と思いました。

 ところで,私が興味があったのが,どうしてこんな辺境の地が,江戸時代には重要な場所だったのだろう,ということでした。そこで調べてみました。
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 その昔,今から50年近くまえの大河ドラマに「国盗り物語」というものがありました。司馬遼太郎作品で,主人公は斎藤道三と織田信長。この作品でかっこよかったのが,林隆三という俳優さんが演じた鉄砲の名手であり,織田信長を苦しめた雑賀孫市でした。その雑賀衆の住んでいたのが和歌山市,だったわけです。そんなわけで,戦国時代から江戸時代のはじめはここは重要な軍事拠点,鉄砲というのが戦国時代の最新兵器であって,その武器庫だったのです。それで納得しました。しかし,今となっては,特に何もないところです。これ以上のことはまた後日書くことにします。
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 お城の帰りに博物館に寄ってから,私は和歌山城を後にして和歌山市駅まで行き,南海電車の乗って大阪に戻りました。南海電車のほうは終点が和歌山市駅なのです。帰りは新今宮駅で環状線に乗り替えました。
 大阪駅に戻る途中,ひとつ前の福島駅で降りて,福島駅近くにある将棋連盟関西本部にある将棋メシの聖地「レストランイレブン」に寄って,「珍豚美人定食」なるものを食べました。この日,ちょうど対局のあった藤井聡太七段の食べた昼食のメニューが同じものだったということを,帰宅後に知りました。
 帰り,東海道線が強風で遅れが生じていたのですが,常日ごろ,うるさいくらい車内放送がかかるのに,電車の遅れやら接続する電車の情報となると全く流れないというのもまた,日本らしい現象でした。要するに,これぞ日本,どうでもいいことはくどいほどの情報を流すのに,必要な情報はいつも全く流れない,というわけなのです。
 しかしまあ,こういった,ある意味どうでもいいプチ旅行というのは悪くないものです。

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 仁徳天皇陵,履中天皇陵,反正天皇陵に行ったので,ここで,この時代の天皇について書きます。
 古代史がおもしろいのは,わからないことが多いからですが,そこで,調べれば調べるほど興味が増してきます。権力者の系譜というのは,それがどこまでが真実であるかということよりも,そうした権威をいかに神聖化するかということが組織を束ねるためのひとつの目的となっていくので,それと史実を同等にはできませんし,それは政治であり学問ではありません。

 初代神武天皇以来,2代綏靖天皇から9代開化天皇までの「欠史八代」ののちの10代崇神天皇からが実在した可能性のある天皇なのですが,その後の15代応神天皇までもその実在性は定かでありません。15代応神天皇の子が16代仁徳天皇,その子どもが17代履中天皇,18代反正天皇であり,このころからほぼ実在していたと思われます。また,今に伝わる天皇家の系図をみると,その後,25代武烈天皇と26代継体天皇に大きな隔たりがあり,26代継体天皇はその5世代前の15代応神天皇までさかのぼったその5世孫の傍系で越前国からやって来たとなっています。
 そこで,学問としての歴史は,王朝交代説を唱えるわけです。私は歴史学者でないので,それ以上のことは知りませんが,ともかく,紀元300年ごろまでになんらかの形で今の奈良県にあたる地方に有力者が生まれヤマト政権を成していて,紀元400年ころに今の大阪府にあたる河内出身の15代応神天皇あるいは16代仁徳天皇とされる有力者がそれに代わり,その正当性を主張するためにそれ以前のヤマト政権と系譜を同一にして25代まで続き,紀元500年ころにまた別の系統の今の福井県あたりからやってきた有力者がとって代わって26代継体天皇の系譜となってそれが今に続くような感じに私はみえます。
 また,後世,50代桓武天皇の母は百済系渡来人氏族和氏の出身である高野新笠です。

 当時の日本のことを伝える中国の文献は,卑弥呼で有名な「魏志」の倭人伝以降「晋書」の四夷伝に266年倭国から朝貢があった,という記述があるのち,「晋書」の安帝紀に413年倭国から安帝に貢物を献ずる,とあるまで,約150年間記述がありません。その時代を伝えるのが後世に作られた古事記と日本書紀だけであることから,この時代は「空白の4世紀」とよばれています。
 この時代の日本は古墳時代で各地に大きな古墳が大量に作られていることから,多くの有力者がその覇権を争っていたことが想像できます。そして,その覇者としての政権が誕生し,「宗書」の倭国伝にみられる「倭の五王」の時代を迎えるわけです。これが百舌鳥古墳群に葬られた天皇の時代です。
 「倭の五王」である讃,珍,済,興,武のうち,済,興,武はそれぞれ19代允恭天皇,20代安康天皇,21代雄略天皇を指しているのですが,讃は15代応神天皇か16代仁徳天皇か17代履中天皇,また,珍は16代仁徳天皇か18代反正天皇のいずれを指しているのか諸説があります。
 いずれにしても,巨大古墳が存在してるのは事実であり,そこに誰かが葬られたことも事実なので,そこにどういった史実があったのかは定かでないにしても,実際に百舌鳥古墳群を見ていると,どうしてこんな巨大なものが必要だったのか,また,そんなものが作れる権力があったのか,あるいは,作る必要があったのかなど,いろんな想像が膨らんできて,おもしろいものです。
 それにしても,その日を生きるのも大変だったのに,よくもまあ,こんな巨大なものを作ったものです。

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 まあ,ともあれ,堺駅に着きました。ところが,どちらの出口を出ればいいのかわかりません。観光案内所と書かれた標示があったので,それを目当てに行ったのですが,いっこうに観光案内所も見つかりません。探して探して,あんな標示でわかるものか,という駅の奥まった,しかも階段を降りた場所に,やっと観光案内所をみつけました。
 さあ,ここで体制立て直しです。
 観光案内所の人はとても親切でした。堺の町は思っていたよりずっときれいでした。堺東駅は堺駅からはるか1.6キロメートルほど東だったのですが,私は歩くのはまったく苦ではないので,地図をもらって歩くことにしました。20分ほど歩いて行くと,堺市役所に着きました。エレベータで21階の展望台に行きました。
 世界遺産になった百舌鳥古墳群ですが,教科書や雑誌などでよく見る写真は空から写したもので,あの姿をみることができる展望台はありません。天皇陵を仰ぎ見ることに抵抗があって,展望台を作らないのでしょうか。地上を歩いていてもこんもりとした小山が見えるだけなので,知らずに行ってもおそらくがっかりします。
 唯一高いところから見ることができるのが堺市役所21階の展望台だけということだったので,行ってみたわけです。
 エレベータで昇りました。冬休みということで,平日でしたが,子どもを連れた家族が数グループ来ていました。ボランティアの説明員もいました。しかし,正直いって,展望台といっても21階では高さが足りないので,前方後円墳の形には見えず,がっかりしました。
 それより私が興味をもったのは,どうして奈良でなく大阪にこの時代の天皇が葬られていたのかということですが,それはおそらく,この時代の国の権力者の力を大陸に見せつける必要があったからなのでしょう。今も昔も,日本は大陸,つまり中国の力に怯えて虚勢を張って生きるしかないのです。歴史を知ると,人は何も変わっていないということを実感します。

 展望台を降りて,古墳の周りを歩いてみることにしました。
 百舌鳥古墳群には多くの古墳が今も残っているのですが,なかでももっとも大きなものが仁徳天皇陵として知られている大山陵古墳です。百舌鳥古墳群で,現在天皇陵として指定されているのは,仁徳天皇陵のほかに,履中天皇陵となっている七観山古墳と,反正天皇陵となっている田出井山古墳なので,この3つの拝所に行ってみることにしました。履中天皇と反正天皇は仁徳天皇の子供です。この3つの古墳は天皇陵となっていることで宮内庁の管轄で拝所があり,学問的に古墳を発掘することに制限があるわけですが,そもそも,そうした古墳を天皇陵として特定したのが近年のことであって,それが実際その天皇の陵だったかどうか疑わしいわけです。この3つの陵にしても,特に,反正天皇陵は実際はこれとは異なっているという学説が有力です。私個人としては,本来と違うものを祀っていることの方がよほど無礼だとずっと思っているのですが…。
 いずれにしても,こうして,昔学校で習った百舌鳥古墳群を一度は見てみたいという念願がかないました。堺という町は,戦国時代の遺構はほとんど残っておらず,百舌鳥古墳群以外に大した見どころもなかったので,次の目的地・和歌山城に向かうことにしました。

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 堺という町は,大仙陵古墳と戦国時代の鉄砲で歴史的に有名なので,学生時代から50年ずっと行ってみたいと思っていたのですが,これまで行く機会がありませんでした。また,和歌山城は,徳川御三家のひとつ紀州徳川家の居城ですが,これもまた,行く機会がありませんでした。
 名古屋生まれの私には,和歌山県というのは縁遠く,大阪からほんのわずか行くだけなのに,なかなか行くことができませんでした。和歌山県に限らず,愛知県から縁遠い県というのは,群馬県や茨木県,秋田県などがあります。私は「このごろ日本国内でこれまで気になっていて行く機会のなかった場所に出かける機会を作っている」と書いたことがありますが,わざわざ行ってみようと思わない限り行くことのないそんなところに今わざわざ行かなければ一生行くこともないだろうと痛切に思うようになりました。そこで,昨年2019年12月27日,堺と和歌山城に行ってみることにしました。

 これもまた,いつも書いているように,日本は狭いようで広く,便利なようで不便で,新幹線と在来線の特急を乗り継げばどこだって行くことができるのでしょうが,どこへ行くにも結構高価です。しかし,日本国内の旅にそんなお金をかける気にもなりません。また,そんな旅行をしても楽しくないので,今回もまた,いかに安価に行けるかを考えました。車など使っても高速道路は渋滞し運転マナーも悪いので論外です。
 はじめは大阪までバスで行こうと思ったのですが,思い立ったのが数日前だったので早割チケットは完売。そうした割引がなければ在来線で行っても値段は変わらず,さらに列車のほうが時間が正確なので,始発と終電の時刻だけを調べて在来線で行くことにしました。
 当日は,早朝,始発に乗って出発しました。名古屋から和歌山というのは,いわば,オーストリアでウィーンからザルツブルグ,あるいは,フィンランドでヘルシンキからナーンタリまで日帰り旅行をするようなものなのですが,私には海外でそうした旅をするほうがずっと楽です。それは,日本では,どこも人だらけで混んでいるということ,意味のない車内の放送がうるさすぎること,そしてまた,駅の標示や電車の運行がわかりにくいことなどが理由です。さらに,目的地に着いても,日本はどこの町も同じように雑然としているだけで歩いていてもさほど楽しくないのです。
 
 ともかく,JRの東海道線で大阪までの往復チケットを窓口でクレジット払いで買って出発です。Suica は,JR東海を越えた範囲まで行くときは改札では使えないというバカげた話なので困ります。この例で最もあほらしいのが名古屋から彦根へ行くときです。JR東海とJR西日本をまたぐので Suica が改札で使えず,窓口でチケットを買う必要があるのですが,窓口に人の列ができていると最悪です。チケットを買う時間がないとホームに列車が停まっていても乗れません。
 この日は,早朝だというのに平日でもあり,通勤通学で車内は結構混んでいました。私の乗った列車は大垣止まりで,そこで今度は米原行きに乗り替えるのですが,その大垣から乗った2番目の列車は座る席すらありませんでした。それでも,米原で再び乗り換えた3番目の列車では座ることができて,予定どおりの時間に大阪駅に着きました。大阪駅からはめちゃめちゃ混んでいた地下鉄で難波まで行き,難波から南海電車に乗りました。本当は環状線で新大宮駅まで行ったほうが便利だったのですが,知りませんでした。
 南海電車なんて,これまで乗ったこともありませんでした。私が知っている南海というのは,昔大阪にあったプロ野球球団,鶴岡一人監督と野村克也捕手の南海ホークスとその本拠地であった大阪難波球場くらいのものです。
 私は,南海電車は路線がひとつしかなく,難波駅でそのまま停まっている電車に乗ればすべて堺に行けると思っていました。しかし,ホームに大きく掲示されていた路線図を見ても,私が降りようと思っている堺東という駅がないのです。路線図には堺という駅はあっても,堺東という駅がありません。後で,堺東駅は別の路線である高野線だということがわかったのですが,南海電車の難波駅に大きく掲示されていた路線図はなぜか南海線しか書かれていないのでした。そして,ずらっと並んだホームには,和歌山へ行く南海線の電車ばかりでした。しかも,いろんな種別の列車があって,南海電車では特急は別料金なのかそうでないのかとか,要するに,私の知りたい情報はどこにも書いてなくて,はじめて来た私にはとまどうことだらけでした。ここでもまた,あきらめているとはいえ,大切なことを勘違いしている日本らしい話でした。
 そもそも南海電車のマーク自体,地元の人ならともかく,知らない人にはそれが南海電車だとはわかりません。そこで,表示にそのマークが書かれていても,それが南海電車だということすらわからないのです。まあ,聞けばいいのでしょうが,堺東駅でなくても堺駅で降りてあとは歩けばいいだろうと,停まっていた電車に飛び乗りました。

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 今はまったく見なくなったNHKの大河ドラマですが,かつては夢中だった私がこの大河ドラマで最も傑作だと思っている「花神」には,「適塾」で学ぶ村田蔵六,のちの大村益次郎が出てきます。
 あくまでドラマなので事実がどうなのかは知りませんが,このドラマで描かれた「適塾」でのストイックなまでの大村益次郎の姿に,若かった私はえらく衝撃を受けました。
 今の学校教育のような「エセ」ブランドの学歴を手に入れるためだけのドリル学習とは違い,そこには人が学問をするということの本質がある気がしました。
 「適塾」は大阪駅からほど近い場所にあって,現在も建物が保存公開されています。私も以前訪れたことがあって,今回再び行ってみたのですが,地震の被害にあって修復中ということで,残念ながら中には入ることはできませんでした。
 大阪といえば,難波のあたりはとんでもない人混みであり,また,多くの観光客がめざすのはUSJですが,私はそうした観光地には興味がなく,この静かな一角のほうに惹かれます。このあたりを歩いているとずっと心が和み,幸せな気分に浸ることができます。

 江戸時代の末期,緒方洪庵の開いた大坂大学の前身である「適塾」は,正式には緒方洪庵の号から適々斎塾,また,適々塾とも称されました。
 緒方洪庵は1810年(文化7年)に生まれ1863年(文久3年)に52歳で亡くなった江戸時代後期の武士であり医師であり蘭学者です。 
 人柄は温厚で,およそ人を怒ったことがなかったといいます。「適塾」の塾生だった福澤諭吉は「先生の平生,温厚篤実,客に接するにも門生を率いるにも諄々として応対倦まず,誠に類い稀れなる高徳の君子なり」と評しています。
 やはりここでも,真に偉大な人物というのは,私がこれまでに出会って迷惑をこうむった輩のような偉そうに威張っていたり高圧的であったりパワハラまがいの小者ではないのです。
 開塾25年の間に3,000人と伝えられている門下生が学び,その中でも,福澤諭吉,大鳥圭介,橋本左内,大村益次郎,長与専斎,佐野常民,高松凌雲など幕末日本のエリートを多く輩出しました。
 勉強法は蔵書の解読で,塾に1冊しかない「ヅーフ・ハルマ」の写本が置かれていた「ヅーフ部屋」には時を空けずに塾生が押しかけ,夜中に灯が消えたことがなかったといいます。
 「ズーフ・ハルマ」(Doeff-Halma Dictionary)というのは江戸時代後期に編纂された蘭和辞典です。これは「フランソワ・ハルマ」(François Halma)という蘭仏辞書をベースに作成されたもので,約50,000語を収録していました。複製は写本で行われたために出版数は33部前後と少なく,ページ数が3,000を越えたこともあって大変貴重なものでした。
 塾生は,立身出世を求めたり勉強しながら始終わが身の行く末を案じるのではなく,純粋に学問修行に努め,物事のすべてに通じる理解力と判断力をもつことを養いました。

 大村益次郎は1824年(文政7年)に生まれ,1869年(明治2年)暗殺によって非業の死を遂げた長州藩の医師であり西洋学者であり兵学者でした。維新十傑のひとりで,長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し勝利の立役者となりました。また,日本陸軍の創始者でもあります。
 防府でシーボルトの弟子の梅田幽斎に医学や蘭学を学んだのち,1864年(弘化3年)から「適塾」で学び塾頭まで進みました。
 緒方洪庵の孫である緒方銈次郎は父親や祖母の緒方八重から聞いた話として,大村益次郎の「適塾」時代は,
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 伝えるところによれば,村田(大村益次郎)は精根を尽くして学び,孜々として時に夜を徹して書を読むことを怠らずとあるほど猛勉強をし,暇さえあれば解剖の本を読み,しばしば動物の解剖を行うなど研究熱心であった。塾頭としても綿密に考えて講義をし,遊びをしない品行方正な人格であった。
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としているそうです。
 また,大村益次郎は豆腐好きで,ドラマ「花神」の原作であった司馬遼太郎の「花神」には,
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 蔵六は緒方家の物干し台にのぼり,豆腐の皿を膝もとにひきつけておいて酒をのんだ。星空の下でひとり豆腐を食い,酒をのんでいる。師匠である緒方洪庵の蔵六評は「ひとりで酒盛りをしている男」である。
 江戸の長州藩邸に起居する時代になると彼の豆腐好きはいよいよ昂じていて,「毎夕三丁なければ酒が終わらない」と豆腐への傾倒はますます激しくなる。
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と書かれています。
 実際,生活は質素で,芸者遊びや料亭も行かず酒を好む以外は楽しみはなかったということです。兵部大輔の高位になった後も「先生は非常に気力旺盛な方で豪傑でありました。強記博聞おのれを持することが極めて質素でありました」と曾我祐準が証言するほどであったといいます。
 改元とかでかまびすしい今,こうした人たちの力で今の日本があることをもっと知るべきなのかもしれません。

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 東京や京都はよく出かけるので,その町の様子は住んでいるようにとてもよくわかります。しかし,大阪となるとほとんど行ったことがないので,いまひとつよくわかりませんでした。
 これまで大阪に行く機会はあっても,用事が済むとすぐに帰ってしまったので,町を散策する機会もあまりありませんでした。そこで,地名は知っていてもどこがどういうところなのかどんな場所にあるかという位置関係すらよくわかっていませんでした。
 そんな,私にとってなぞに包まれていた大阪はなじみがないことが幸いして,大阪に来ると海外旅行をしているような,そんな楽しみを感じます。 
 今回,エストニア祝祭管弦楽団のコンサートで大阪に来る機会があったので,そのまま1泊してその翌日も加えた2日間,大阪市内を歩いてみることにしました。街を知るには歩くに限るのです。
 着いた日の夕方からのコンサートその前に少し時間があったので,梅田から福島あたりを散策しました。その晩私が泊まったのは東横インの通天閣前だったので,翌日は早朝にホテルをチェックアウトして,北に向かって十三まで歩きました。難波から十三まで距離にしたらわずか10キロメートルもありませんでしたが,なかなか楽しい道歩きになりました。
 このブログは町案内をするのが目的ではなく,自分の思いを残すことが目的なので,ここでは私自身の大阪に抱くイメージごとに,歩きながら思ったことを書いていくことにします。

 まず今日は,私にとっての大阪はまず坂田三吉ということで,将棋に関することにしましょう。
 この頃は藤井聡太七段ですっかり有名になった日本将棋連盟の関西本部ですが,このビルがあるのは大阪駅のひとつ西のJR福島駅の北側です。大阪駅からはJRに乗らなくてもほとんど人が通らない地下道をずっと西に歩いていくと福島駅までたどり着くことができました。
 ずっと以前,この建物ができたころに興味があって来たことがあります。その当時は確か地下1階だったかに将棋博物館もありました。アメリカなら将棋殿堂のような,過去の大棋士の殿堂が作られるのだろうと思いますが,やっかみの強い日本人にはそうした過去の偉人そのものを称える文化はありません。あるのは第〇〇世〇〇とか第〇〇代〇〇のように功績のあった人に称号をつけることです。それはその人を称えるというよりその名跡に権威をつけることが目的です。
 野球だけはアメリカのように野球殿堂というものがありますが,それはアメリカのマネしているだけで,日本の文化ではありません。
 それにしても,今でこそ将棋ブームですが,一昔前に,東京と大阪によくもこんな将棋会館というビルを建てることができたものだとその大変さがわかるこの歳になると感心します。これは大山康晴十五世名人の功績です。
 このビルの1階にイレブンというレストランがあるのですが,なぜか私が行くときに限ってこのレストランが開いていたことがなく,残念ながらまだ中に入ったことはありません。

 今でこそ教育のひとつの素材となって地位の向上した将棋ですが,私の子供ころは博打打ちと変わらぬ認識しかなく,むしろ興味をもつ子供は厄介者でした。人の価値観やら常識などというものは,このように時代とともに変わっていくもので,今の常識もまた疑ってかかったほうがいいのです。
 大阪の通天閣あたりにある将棋道場は,今なお,そうした頃のある意味ヤバい面影をとどめていますが,こういう場所だからこそ,村田英雄の歌った「王将」で有名な「銀がないている」という言葉を吐いた坂田三吉名人王将ゆかりの地として味わいの深いところであるわけです。
 私が子供の頃の将棋道場なんて,昼間っから仕事もしないおっちゃんがタバコをくゆらせながら1日中かけ将棋をやっているようなところでした。

 今回,私が福島駅のあたりを歩きまわったのは,ちょうど朝日新聞の土曜be版に取り上げられていた,若くして世を去った天才棋士村山聖九段の面影をさがすことが目的でした。
 村山聖九段は1969年(昭和44年)に生まれ1998年(平成10年)にわずか29歳で亡くなった棋士です。幼少の頃から腎臓の難病であるネフローゼを患いながらも異例の早さでプロ入りを果たした,いわゆる「羽生世代」の強豪のひとりでした。
 薄れていく意識の中で棋譜をそらんじ「……2七銀」が最後の言葉であったといいます。後年,映画「聖の青春」が上映されたことで有名になりました。
 この村山聖が苦悩の青春をすごしたのがこの福島町界隈で,住んでいたアパートの部屋が今も空き部屋として残っていて,彼をしのんで訪れる人が今もいるといいます。私は外から見ただけですが,部屋の窓には映画「聖の青春」のチラシが無造作に張られていました。

 人の一生なんて,どんな偉業を何を成し遂げようが,所詮,成し遂げたあとでは。それがどんな偉大なことであっても自分がしたという認識よりも小説を読んだのと同じような他人事に風化してしまいます。人は現在だけを認識し,未来を思い生きているのです。
 何かを成し遂げた人はそれだけなのに,何かを成し遂げたいとう願望がありながらそれがかなわなかったときの後悔のほうはずっと心に刻み込まれるのです。それが人の「業」(ごう)というものでしょう。だから,何かを成し遂げたいという願望があったとしても凡人はそれを成し遂げる才能すら授かっていないのだから,もともとそんな願望などもっていない人のほうがよほど幸せな人生が送れるのかもしれません。
 そのように,多くの人はその願望を成し遂げる才能すら授かっていないわけですが,村山聖は成し遂げられる才能を授かっていながら病気によってそれがかなわないうちに急逝してしまった,そのことが悲劇なのです。この町を歩いていて,私はそうした人の悲しさと辛さ,そして生きることの尊さを感じました。

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