【Summary】
I, a casual Dazai Osamu fan, began visiting places connected to him, starting with Tenka Chaya and Shayokan in Aomori. This led me to other sites, including his grave in Mitaka and his wife's. Surprised to find a related site in Kofu, I visited, enjoying local soba and learning about Dazai's brief residence and landmarks like Seiunji Temple and Kiku-no-Yu Onsen. I also discovered Chiba Sana's grave here, once a fiancée of Sakamoto Ryoma. Travel in Japan brings unexpected encounters, making each journey more enjoyable.
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にわか太宰治ファンの私は,ろくに太宰治の作品も読んでいないのに,学生時代に「国語便覧」に載っていた「富嶽百景」ゆかりの天下茶屋と青森県金木の斜陽館がなぜか気になって,いつかそこを訪ねてみたいという動機だけで行ってみたことから,それ以外の太宰治の足跡も訪ねるようになりました。そして,旅のついでに,小説「津軽」の舞台となった場所に行ってみたり,三鷹市の太宰治の墓を詣でたり,最後に,妻だった山崎富栄の墓を探し当てて,これで太宰治ゆかりの地めぐりも終わりと思っていたのですが,なんと,甲府市に,まだ,ゆかりの場所が残っていたのには驚きました。
その地を訪ねる途中で,昼食をとろうと,おそば屋さんに入りました。おいしいおそばでした。
おそば屋さんで聞いてみると,地元の人には,当然,太宰治がこの地に住んでいたというのは有名なことでした。
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29歳の太宰治は,荒んだ20代を清算し「思いを新たにする覚悟で」,1938年(昭和13年)9月13日から御坂峠の天下茶屋に滞在していました。その時期,井伏鱒二たちが「太宰をいつまでも独り身にしておくのは危険である」という配慮から,太宰治の結婚相手探しをはじめ,候補に浮上したのが石原美知子でした。
9月18日,太宰治は,井伏鱒二の付添いで石原家を訪問し,石原美知子と見合いをし,石原美智子と婚約後,住まいを甲府市の寿館に移し,大晦日まで過ごしました。
年が明けた1月8日,杉並区の井伏鱒二宅で結婚式を挙げ,寿館から歩いて10分ほどの甲府市御崎町に新居を構えました。
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新居のことは,のちに津島(石原)美知子が次のように書いています。
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この家の間取りは八畳,三畳の二間,お勝手,物置。八畳間は西側が床の間と押入,隅に小さい炉が切ってあった。東側は二間ぜんぶガラス窓,その外に葡萄棚,ゆすら梅の木,玄関の前から枝折戸を押して入ると,ぬれ縁が窓の下と南側にL字型についている。この座敷の南東の空には御坂山脈の上に小さく富士山が見えた。
太宰治は,毎日,午後3時ごろまで机に向かい,それから近くの喜久之湯に行く。その間に支度しておいて,夕方から飲みはじめ,夜9時ごろまでに,六,七合飲んで,ぶっ倒れて寝てしまうのである。
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翌年1939年(昭和14年)9月,太宰治夫妻は,三鷹市に転居しましたから,この町には8か月間住んでいたことになります。その後,1945年(昭和20年)東京がしばしば空襲を受けるようになって妻・美智子さんの実家に疎開しますが,この地でも空襲を体験,太宰一家は,太宰の実家のある金木へ疎開しました。
現在,津島美知子は,三鷹市の太宰治の墓の隣にある石原家の墓で眠っています。
これで,奇しくも,私がかつて訪れた金木の疎開した家につながりました。
甲府駅近くにあった石原家は,1945年(昭和20年)の空襲で全焼し,今はありません。
太宰治僑居(きょうきょ=仮妻い)跡は,私が食べたおそば屋の近くに,その碑がありました。また,通ったという創業1934年(昭和9年)の喜久乃温泉は改築されましたが,道路を隔てたところに今も営業していました,
寿館跡は,路地を入ったところにその面影だけが存在していましたが,その路地の先にある清運寺の,太宰治も踏みしめたという敷石は境内の藤棚の下に移されて,今もあります。
なお,清運寺には,坂本龍馬の婚約者とされる千葉さな子さんの墓もありました。私は,坂本龍馬の馬はお龍さん(楢崎龍=ならさきりょう)だと思っていたので,???でしたが,調べてみると,次のようでした。
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坂本龍馬がお龍さんと出会う以前に,千葉さな子(左奈,佐那)という婚約者がいました。千葉さな子は坂本龍馬が師事した北辰一刀流桶町千葉道場の創設者・千葉定吉の次女として1838年(天保9)年に誕生し,10代で北辰一刀流小太刀の免許皆伝となり長刀の師範でもあった女性でした。
千葉さな子が剣術修行中の坂本龍馬と出会ったのは16歳のころで,婚約したのは1858年(安政5年)ということです。しかし,坂本龍馬は剣術修行を終えると故郷・土佐藩へ帰ってしまい,そのまま疎遠になってしまいました。
1867年(慶応3年)11月15日,坂本龍馬は京都・近江屋で暗殺されてしまいました。その後も,千葉さな子は坂本龍馬のことを思い続け一生を独身で過ごしたと伝えられています。
晩年,千葉さな子は千葉灸治院を開き生計を立てていましたが,そこへ通院していたの山梨の自由民権運動家である小田切謙明・豊次夫婦で,親交を重ねました。1896年(明治29年)千葉さな子は千住で亡くなり谷中谷中霊園に埋葬されましたが,無縁仏になるのを恐れた小田切豊次がこの地にお墓をつくったのではないかといわれます。
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各地を旅していると,日本各地で意外なことに遭遇し,ますます旅が楽しくなってきます。
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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは
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