しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

タグ:太宰治

DSC_8262

【Summary】
I, a casual Dazai Osamu fan, began visiting places connected to him, starting with Tenka Chaya and Shayokan in Aomori. This led me to other sites, including his grave in Mitaka and his wife's. Surprised to find a related site in Kofu, I visited, enjoying local soba and learning about Dazai's brief residence and landmarks like Seiunji Temple and Kiku-no-Yu Onsen. I also discovered Chiba Sana's grave here, once a fiancée of Sakamoto Ryoma. Travel in Japan brings unexpected encounters, making each journey more enjoyable.

######
 にわか太宰治ファンの私は,ろくに太宰治の作品も読んでいないのに,学生時代に「国語便覧」に載っていた「富嶽百景」ゆかりの天下茶屋と青森県金木の斜陽館がなぜか気になって,いつかそこを訪ねてみたいという動機だけで行ってみたことから,それ以外の太宰治の足跡も訪ねるようになりました。そして,旅のついでに,小説「津軽」の舞台となった場所に行ってみたり,三鷹市の太宰治の墓を詣でたり,最後に,妻だった山崎富栄の墓を探し当てて,これで太宰治ゆかりの地めぐりも終わりと思っていたのですが,なんと,甲府市に,まだ,ゆかりの場所が残っていたのには驚きました。
 その地を訪ねる途中で,昼食をとろうと,おそば屋さんに入りました。おいしいおそばでした。
 おそば屋さんで聞いてみると,地元の人には,当然,太宰治がこの地に住んでいたというのは有名なことでした。

  ・・・・・・
 29歳の太宰治は,荒んだ20代を清算し「思いを新たにする覚悟で」,1938年(昭和13年)9月13日から御坂峠の天下茶屋に滞在していました。その時期,井伏鱒二たちが「太宰をいつまでも独り身にしておくのは危険である」という配慮から,太宰治の結婚相手探しをはじめ,候補に浮上したのが石原美知子でした。
 9月18日,太宰治は,井伏鱒二の付添いで石原家を訪問し,石原美知子と見合いをし,石原美智子と婚約後,住まいを甲府市の寿館に移し,大晦日まで過ごしました。
 年が明けた1月8日,杉並区の井伏鱒二宅で結婚式を挙げ,寿館から歩いて10分ほどの甲府市御崎町に新居を構えました。
  ・・・・・・
 新居のことは,のちに津島(石原)美知子が次のように書いています。
  ・・・・・・
 この家の間取りは八畳,三畳の二間,お勝手,物置。八畳間は西側が床の間と押入,隅に小さい炉が切ってあった。東側は二間ぜんぶガラス窓,その外に葡萄棚,ゆすら梅の木,玄関の前から枝折戸を押して入ると,ぬれ縁が窓の下と南側にL字型についている。この座敷の南東の空には御坂山脈の上に小さく富士山が見えた。
 太宰治は,毎日,午後3時ごろまで机に向かい,それから近くの喜久之湯に行く。その間に支度しておいて,夕方から飲みはじめ,夜9時ごろまでに,六,七合飲んで,ぶっ倒れて寝てしまうのである。
  ・・・・・・
 翌年1939年(昭和14年)9月,太宰治夫妻は,三鷹市に転居しましたから,この町には8か月間住んでいたことになります。その後,1945年(昭和20年)東京がしばしば空襲を受けるようになって妻・美智子さんの実家に疎開しますが,この地でも空襲を体験,太宰一家は,太宰の実家のある金木へ疎開しました。
 現在,津島美知子は,三鷹市の太宰治の墓の隣にある石原家の墓で眠っています。

 これで,奇しくも,私がかつて訪れた金木の疎開した家につながりました。
 甲府駅近くにあった石原家は,1945年(昭和20年)の空襲で全焼し,今はありません。
 太宰治僑居(きょうきょ=仮妻い)跡は,私が食べたおそば屋の近くに,その碑がありました。また,通ったという創業1934年(昭和9年)の喜久乃温泉は改築されましたが,道路を隔てたところに今も営業していました,
 寿館跡は,路地を入ったところにその面影だけが存在していましたが,その路地の先にある清運寺の,太宰治も踏みしめたという敷石は境内の藤棚の下に移されて,今もあります。
 なお,清運寺には,坂本龍馬の婚約者とされる千葉さな子さんの墓もありました。私は,坂本龍馬の馬はお龍さん(楢崎龍=ならさきりょう)だと思っていたので,???でしたが,調べてみると,次のようでした。
  ・・・・・・
 坂本龍馬がお龍さんと出会う以前に,千葉さな子(左奈,佐那)という婚約者がいました。千葉さな子は坂本龍馬が師事した北辰一刀流桶町千葉道場の創設者・千葉定吉の次女として1838年(天保9)年に誕生し,10代で北辰一刀流小太刀の免許皆伝となり長刀の師範でもあった女性でした。
 千葉さな子が剣術修行中の坂本龍馬と出会ったのは16歳のころで,婚約したのは1858年(安政5年)ということです。しかし,坂本龍馬は剣術修行を終えると故郷・土佐藩へ帰ってしまい,そのまま疎遠になってしまいました。
 1867年(慶応3年)11月15日,坂本龍馬は京都・近江屋で暗殺されてしまいました。その後も,千葉さな子は坂本龍馬のことを思い続け一生を独身で過ごしたと伝えられています。
 晩年,千葉さな子は千葉灸治院を開き生計を立てていましたが,そこへ通院していたの山梨の自由民権運動家である小田切謙明・豊次夫婦で,親交を重ねました。1896年(明治29年)千葉さな子は千住で亡くなり谷中谷中霊園に埋葬されましたが,無縁仏になるのを恐れた小田切豊次がこの地にお墓をつくったのではないかといわれます。
  ・・・・・・
各地を旅していると,日本各地で意外なことに遭遇し,ますます旅が楽しくなってきます。

DSC_8251DSC_8250DSC_8256DSC_8257DSC_8254DSC_8263DSC_8261DSC_8260DSC_8259


◇◇◇


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_1418DSC_1422

######
 太宰治の足跡を訪ねて三鷹界隈を散策しています。
 風の散歩道に沿って歩いて,太宰治の最寄り駅である三鷹駅にもどりました。
 「新郎」では,三鷹駅前の広場が描かれています。
  ・・・・・・
 けさ,花を買って帰る途中,三鷹駅前の広場に,古風な馬車が客を待っているのを見た。明治,鹿鳴館のにおいがあった。私は,あまりの懐しさに,馭者に尋ねた。「この馬車は,どこへ行くのですか。」 「さあ,どこへでも。」老いた馭者は,あいそよく答えた。
  「新郎」
  ・・・・・・
 また,三鷹駅前郵便局は太宰治が原稿料受取りなどに利用した郵便局で,随筆「男女川と羽左衛門」では、横綱男女川を見たことをユーモラスに描いています。
  ・・・・・・
 やはり,自転車に乗って三鷹郵便局にやって来て,窓口を間違ったり等して顔から汗をだらだら流し,にこりともせず,ただ狼狽しているのである。
 私はそんな男女川の姿を眺め、ああ偉いやつだといつも思う。よっぽど出来た人である。必ずや誠実な男だ。
  「男女川と羽左衛門」
  ・・・・・・

 かつて,三鷹駅周辺には,次のような,太宰治に関わりのあった飲食店などが多くあったのですが,現在は,面影すら感じることができません。  
 現在永塚葬儀社である場所は,山崎富栄が2階に下宿していた野川家のあったところで,太宰治は,山崎富栄と親しくなった1947年(昭和22年)年9月ごろから,ここも仕事場にしていました。太宰治最後の日,ここからふたりは玉川上水へ向かったそうです。
 現在Brillia MITAKAである場所は,小料理屋千草のあったところで,ここの2階も仕事場にしていました。
 現在藤和シティスクエア三鷹駅前は,中鉢家のあったところで,1946年(昭和21年)に疎開から戻った太宰治は,ここに仕事場を借りて,「ヴィヨンの妻」などを執筆しました。「朝」はこの部屋が舞台です。
 太宰治が編集者との打ち合わせ場所にしていた馴染みの屋台・ウナギ若松屋は品川用水沿いにありました。
 サイゼリア三鷹駅南口店のある場所は田辺肉店離れの跡で,「斜陽」を書き継ぐために,ここのアパートを借りていました。この店を舞台にして書かれたのが「犯人」です。
 ムサシ三鷹ビルの東側の通りは太宰横丁という名前で,小さな飲食店が軒を並べているのですが,太宰治行きつけの小料理店「喜久屋」がこの通りにありました。また,太宰治なじみのすし屋・美登里家鮨は,「鷗」と随筆「酒ぎらい」に「三鷹駅近くのすし屋」として書かれています。

 三鷹駅を通り過ぎて,さらに西に線路沿いを進むと見えてくるのが,太宰治ファンには有名な跨線橋(三鷹跨線人道橋)です。跨線橋は,1929年(昭和4年)に旧鉄道省が現在の三鷹車両センターの前身三鷹電車庫を開設する際に人の往来を確保しようと建設したもので,全長93メートル,幅約3メートル,高さ約5メートル。三鷹駅の約400メートル西に,JR中央線などの線路を南北にまたぐように架けられています。太宰治が三鷹へ引っ越してきたのは,跨線橋の完成から10年後の1939年(昭和14)年でした。当時は高層ビルもなく,跨線橋は広々とした武蔵野の風景が見渡せる場所として,太宰治のお気に入りだったようです。
 JR中央線の上にかかるこの跨線橋は,老朽化のために解体,撤去されることになり,工事が昨年2023年12月からはじまったということは知っていたので,すでにもうないのかな,と思っていたのですが,足場はあるものの,竣工した当時の姿を今も何とか留めていました。しかし,すでに渡ることはできまず,半年ほど来るのが遅かったのが残念でした。

 三鷹駅に戻りました。
 駅前にあったCORALという商業ビルの5階の三鷹市美術ギャラリーに太宰治展示室があるというので,行ってみることにしました。2020年(令和2年)12月に開設されたのが,太宰治の自宅の一部を再現したこの展示室です。
 太宰治は1939年(昭和14年)に三鷹の住民となり,亡くなるまで過ごしました。自宅は約12坪半ほどと,妻子と暮らすには十分とはいえない質素な借家で,太宰治はこの家を,作品の中で「三鷹の此の小さい家」「三鷹の私の家」「三鷹下連雀の家」「三鷹の陋屋」「東京の私の草屋」「あばらや」などと表現しているそうです。また,「善蔵を思ふ」(昭和15年)、三畳間から見える夕陽の描写とともに再生と家庭への決意を誓う「東京八景」「十二月八日」など,多くの作品の舞台にもなりました。

 ビルを出ました。
 近くに,太宰治文学サロンがありました。ここは伊勢元酒店の跡で,2008年(平成20年)に,太宰治歿後60年と翌年の生誕100年を記念して,開設されたものです。館内には,山内祥史文庫」の蔵書があって,太宰珈琲や太宰の郷里・青森のリンゴジュースなど飲みながら時間を過ごすことができるという,すてきな空間でした。
 太宰治一家が利用していた伊勢元酒店は「十二月八日」に店名が登場します。
  ・・・・・・
 夕飯の仕度にとりかかっていたら,お隣りの奥さんがおいでになって,十二月の清酒の配給券が来ましたけど,隣組九軒で一升券六枚しか無い,どうしましょうという御相談であった。順番ではどうかしらとも思ったが,九軒みんな欲しいという事で,とうとう六升を九分する事にきめて,早速,瓶びんを集めて伊勢元に買いに行く。
  「十二月八日」
  ・・・・・・

DSC_1419DSC_1421DSC_1423DSC_1425 DSC_1536DSC_1537 DSC_1533DSC_1530 DSC_1534 DSC_1542DSC_1543DSC_1540


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_1473DSC_1520DSC_1527

######
 太宰治の足跡を訪ねて三鷹界隈を散策しています。
 禅林寺にある太宰治の墓に行ったので,このあとは,東側から反時計回りに回ることにしました。
 まず向かったのが,太宰治一家が通っていた銭湯・連雀湯跡ですが,ここは,現在ホンダのディーラーとなっているだけのところで,何の面影もありませんでした。
  ・・・・・・
 ひとりで夕飯をたべて,それから園子をおんぶして銭湯に行った。ああ,園子をお湯にいれるのが,私の生活で一ばん一ばん楽しい時だ。園子は,お湯が好きで,お湯にいれると,とてもおとなしい。お湯の中では,手足をちぢこめ,抱いている私の顔を,じっと見上げている。ちょっと,不安なような気もするのだろう。
  「十二月八日」
  ・・・・・・

 そして次が,新橋。
 入水自殺をした太宰治と山崎富栄は,6月19日に,このあたりで紐で結ばれて発見されたといいます。とはいえ,今は,橋のたもとに明星学園という学校があるだけで,ほかに何もありませんでした。
  ・・・・・・
 万助橋を過ぎ、もう、ここは井の頭公園の裏である。私は、なおも流れに沿うて、一心不乱に歩きつづける。この辺で、むかし松本訓導という優しい先生が、教え子を救おうとして、かえって自分が溺死なされた。川幅は、こんなに狭いが、ひどく深く、流れの力も強いという話である。
  「乞食学生」
  ・・・・・・

 そこから西に,平和通りまで引き返し,北に進路を変えます。平和通りは狭い路地で,あたりは,住んでみたいと思わせる新しい住宅街が続いていました。
 1939年(昭和14年)年9月から,亡くなる1948年(昭和23年)6月まで,疎開の一時期を除き,太宰治は,この場所に住んでいて,当時は,同じ造りの平屋の借家が3軒並んでいました。
 現在,かつて太宰治邸のあった場所から路地を挟んだ反対側にあるのが,三鷹市の和風文化施設の井心亭で,太宰治邸の「玄関の前の百日紅」が庭に移植されています。
  ・・・・・・
 朝に言い出し,お昼にはもう出発ということになりました。一刻も早く,家から出て行きたい様子でしたが,炎天つづきの東京にめずらしくその日,俄雨があり,夫は,リュックを背負い靴をはいて,玄関の式台に腰をおろし,とてもいらいらしているように顔をしかめながら,雨のやむのを待ち,ふいと一言,
「さるすべりは,これは,一年置きに咲くものかしら。」
と呟きました。
 玄関の前の百日紅は,ことしは花が咲きませんでした。
「そうなんでしょうね。」
 私もぼんやり答えました。
 それが,夫と交した最後の夫婦らしい親しい会話でございました。
 雨がやんで,夫は逃げるようにそそくさと出かけ,それから三日後に,あの諏訪湖心中の記事が新聞に小さく出ました。
  「おさん」
  ・・・・・・

 さらに北に進むと,玉川上水に至ります。右手に,三鷹市山本有三記念館があったので,そこに入りましたが,このことは,また,後日書きます。
 三鷹駅から南東に,玉川上水が続いています。今は,玉川上水に沿って,風の散歩道という美しい道路がありますが,ここが,太宰治終焉の地です。
 当時の玉川上水は流れが速く,地元の人たちは「人喰い川」とよんで恐れていたそうです。現在のような鉄柵もなかったから,そのまま用水に飛び込むことも可能だったことでしょう。
 太宰治と山崎富栄が入水をしたと思われる場所には,現在,玉鹿石が置かれています。太宰治を偲んで,故郷青森県五所川原市金木町産の玉鹿石を石碑としたということですが,目立たず,なかなか場所がわからず,一旦通り過ぎてしまいました。同じように,場所がわからず,戸惑っている人たちがいました。
  ・・・・・・
 私は,家の方角とは反対の,玉川上水の土堤のほうへ歩いていった。四月なかば,ひるごろの事である。頭を挙げて見ると,玉川上水は深くゆるゆると流れて,両岸の桜は,もう葉桜になっていて真青に茂り合い,青い枝葉が両側から覆いかぶさり,青葉のトンネルのようである。ひっそりしている。ああ,こんな小説が書きたい。こんな作品がいいのだ。なんの作意も無い。私は立ちどまって,なお,よく見ていたい誘惑を感じたが,自分の,だらしない感傷を恥ずかしく思い,その光るばかりの緑のトンネルを,ちらと見たばかりで,流れに沿うて土堤の上を,のろのろ歩きつづけた。だんだん歩調が早くなる。流れが,私をひきずるのだ。水は幽かに濁りながら,点々と,薄よごれた花びらを浮かべ,音も無く滑り流れている。
  「乞食学生」
  ・・・・・・

DSC_1468DSC_1469DSC_1471DSC_1479DSC_1481DSC_1487DSC_1518DSC_1523DSC_1519DSC_1525


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

IMG_4136DSC_1445DSC_1449

######
 三鷹市は本当にいい街で,文化水準も高く,私は大好きです。もし,東京に住んでいたら,こんな街で暮らしたいものだと,いつも思っていました。
 2024年5月11日,今回は,太宰治ゆかりの地を訪ねるということで,JR中央線に乗って,三鷹駅に降り立ちました。まず,駅前にあった観光案内所で「みたか散策マップ」というパンフレットをもらいました。そして,そこに書かれた「太宰治の足跡コース」に従って,歩くことにしました。
 まずは,太宰治の墓のある禅林寺を訪ねなければ話になりません。
  ・・・・・・
 夕方,職場から帰った産業戦士たちが,その道場に立寄って,どたんばたんと稽古をしている。私は散歩の途中,その道場の窓の下に立ちどまり,背伸びしてそっと道場の内部を覗いてみる。実に壮烈なものである。私は、若い頑強の肉体を,生れてはじめて,胸の焼け焦げる程うらやましく思った。うなだれて,そのすぐ近くの禅林寺に行ってみる。この寺の裏には,森鴎外の墓がある。どういうわけで,鴎外の墓が,こんな東京府下の三鷹町にあるのか,私にはわからない。けれども,ここの墓地は清潔で,鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も,こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら,死後の救いがあるかも知れないと,ひそかに甘い空想をした日も無いではなかったが,今はもう,気持が畏縮してしまって,そんな空想など雲散霧消した。私には,そんな資格が無い。立派な口髭を生やしながら,酔漢を相手に敢然と格闘して縁先から墜落したほどの豪傑と,同じ墓地に眠る資格は私に無い。お前なんかは,墓地の択り好みなんて出来る身分ではないのだ。はっきりと,身の程を知らなければならぬ。私はその日,鴎外の端然たる黒い墓碑をちらと横目で見ただけで,あわてて帰宅したのである。
  「花吹雪」
  ・・・・・・

 森鷗外の墓が禅林寺にある理由はつぎのとおりです。
 1922年(大正11年)7月9日に永眠した森鴎外の遺骨は,森家が1872年(明治5年)上京後しばらくは向島の地に住居を構えていたことと旧主亀井家と関わりのある寺であったことなどから,墨田区向島の弘福寺に納められました。しかし,弘福寺が関東大震災で罹災したため,1927年(昭和2年)12月,同じ宗派の禅林寺に改葬されました。
 その禅林寺に,まさか,太宰治自身が眠るなどということは,夢にも思わなかったに違いありません。
 静かな寺でした。墓地のほぼ中央に太宰治の墓がありました。そして,森鴎外の墓はその斜めうしろにあって,その隣に,悪女といわれた妻・志げの墓もありました。私が訪れたときは,だれもいませんでしたが,頻繁に誰かが訪れている形跡がありました。
 太宰治の死後,美知子夫人が夫の気持ちを酌んでここに葬ったということです。自分とは別の女性と心中した男の墓をここに葬ったとは,何とできた女性なのか,と思いました。
 太宰治は,最初の妻・初代の浮気を知ったショックで自殺未遂を起こしたのちに離婚し,筆を絶っていました。心配した井伏鱒二が再婚相手として探し出したのが石原美知子でした。美知子と出会ってからの太宰治は,公私ともに健康を取り戻し,ユーモアと明るさにあふれた作品を書き連ねていきました。「東京八景」には,三鷹の自宅で妻に再起を誓う印象的な場面があります。
  ・・・・・・
 私は,夕陽の見える三畳間にあぐらをかいて,侘しい食事をしながら妻に言った。「僕は,こんな男だから出世も出来ないし,お金持にもならない。けれども,この家一つは何とかして守って行くつもりだ」その時に,ふと東京八景を思いついたのである。過去が,走馬燈のように胸の中で廻った。
  「東京八景」
  ・・・・・・

 美知子は,太宰治という芸術家を愛していたといわれ,太宰治のやりたい放題にやらかしていたということですが,まさか,自分を置いて,別の女性と心中をするとは思っていなかったことでしょう。
 太宰治の死の翌年1949年(昭和24年)6月19日,第1回の桜桃忌(おうとうき)が禅林寺で開かれました。桜桃忌という名は,太宰治と同郷の津軽の作家で,三鷹に住んでいた今官一によってつけられたものです。「桜桃」は死の直前に書かれた小説の題名で,6月のこの時季に北国に実る鮮紅色の宝石のような果実が,鮮烈な太宰治の生涯と珠玉の短編作家というイメージに最もふさわしいとして,友人たちの圧倒的支持を得たのです。
  ・・・・・・
 もう,仕事どころではない。自殺の事ばかり考えている。そうして,酒を飲む場所へまっすぐに行く。
「いらっしゃい」
「飲もう。きょうはまた,ばかに綺麗な縞を,…」
「わるくないでしょう? あなたの好く縞だと思っていたの」
「きょうは,夫婦喧嘩でね,陰にこもってやりきれねえんだ。飲もう。今夜は泊るぜ。だんぜん泊る」
 子供より親が大事,と思いたい。子供よりも,その親のほうが弱いのだ。
 桜桃が出た。
 私の家では,子供たちに,ぜいたくなものを食べさせない。子供たちは,桜桃など,見た事も無いかもしれない。食べさせたら,よろこぶだろう。父が持って帰ったら、よろこぶだろう。蔓を糸でつないで,首にかけると,桜桃は,珊瑚の首飾りのように見えるだろう。
 しかし,父は,大皿に盛られた桜桃を,極めてまずそうに食べては種を吐はき,食べては種を吐き,食べては種を吐き,そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は,子供よりも親が大事。
  「桜桃」
  ・・・・・・

 美知子は,1912年(明治45年)に生まれ,1997年(平成9年)に亡くなりました。
 太宰治の作品に登場することも多く,「日本のまづしい家庭の主婦はどんな一日を送ったか」について書かれた「十二月八日」では,主婦のモデルが美知子で,主人は太宰治自身として登場します。
  ・・・・・・ 
 背後から,我が大君に召されえたあるう,と実に調子のはずれた歌をうたいながら,乱暴な足どりで歩いて来る男がある。ゴホンゴホンと二つ,特徴のある咳をしたので,私には,はっきりわかった。
「園子が難儀していますよ。」
 と私が言ったら, 「なあんだ。」と大きな声で言って,「お前たちには、信仰が無いから、こんな夜道にも難儀するのだ。僕には,信仰があるから,夜道もなお白昼の如しだね。ついて来い。」
 と,どんどん先に立って歩きました。
 どこまで正気なのか,本当に,呆れた主人であります。
  「十二月八日」
  ・・・・・・
 美知子は,太宰治の墓の隣,津島家の墓に眠っています。

DSC_1528DSC_1436DSC_1453DSC_1451DSC_1442DSC_1447DSC_1455


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_1428

######
 私は,読書青年ではなかったし,太宰治は「走れメロス」「人間失格」くらいしか読んだことがありませんでした。そして,「人間失格」のイメージと入水自殺をしたという事実が強すぎて,入り込めませんでした。それが,なぜか,「富獄百景」の天下茶屋に惹かれて行ってみたり,青森県五所川原市金木の斜陽館が気になって足を運んでいるうちに,関心をもつようになってきました。それを決定的にしたのが「津軽」でした。

 まず,自分のために,太宰治の生涯についてまとめてみます。
  ・・・・・・
1909年(明治42年)6月19日 青森県北津軽郡金木村に生まれる。本名は津島修治。
1923年(大正12年)青森県立青森中学校に入学し,遠戚宅から通学。
1927年(昭和2年)官立(今の国立)弘前高等学校文科甲類に入学。
 弘前市内の藤田家に下宿。芸妓紅子(=小山初代)と知り合う。
1929年(昭和4年)下宿ではじめての自殺をはかる。
1930年(昭和5年)東京帝国大学仏文科に入学。東京市本郷区に下宿。
 銀座のカフェに勤める田辺あつみ(=田部シメ子)と鎌倉小動崎の海岸で薬物心中を図り,女は死亡。
1931年(昭和6年)小山初代と品川区で所帯をもつ。
1933年(昭和8年)井伏鱒二宅に近い杉並区天沼に転居。はじめて太宰治の名で作品を発表。
1935年(昭和10年)都新聞の入社試験に失敗し鎌倉で縊死を図るが未遂。大学を除籍される。
1937年(昭和12年)太宰治の義弟と初代の不義を知り,谷川温泉で心中未遂。初代と離別。
1938年(昭和13年)井伏鱒二が滞在する御坂峠の天下茶屋に赴く。
1939年(昭和14年)石原美知子と結婚式を挙げ、甲府市御崎町で新婚生活に入る。
 「富嶽百景」を発表。東京府北多摩郡三鷹村下連雀の家に転居。
1940年(昭和15年)「走れメロス」「乞食学生」を発表。
1941年(昭和16年)長女園子誕生。太田静子と恋に落ちる。「帰去来」刊行。
1944年(昭和19年)長男正樹誕生。「津軽」刊行。
1945年(昭和20年)妻子を連れて津軽の生家へ疎開。
1946年(昭和21年)疎開生活を終え妻子と共に三鷹の自宅に帰る。
1947年(昭和22年)次女里子誕生。山崎富栄と知り合う。
 太田静子(しずこ)との間に、治子誕生。「斜陽」刊行。
1948年(昭和23年)「人間失格」執筆。「桜桃」発表。
 6月13日夜半,山崎富栄と共に玉川上水へ身を投じ,6月19日39歳の誕生日,死体が発見される。
  ・・・・・・

 しかし,考えてみれば,私は,太宰治が命を絶った三鷹市の太宰治にちなんだところへは行ったことがなかったのです。私には,三鷹市は東京天文台しか頭にありませんでした。そこで,今回,三鷹市の太宰治に関したところを訪ねてみることにしました。そして,太宰治が小説で描いた三鷹の地を歩いてみようと思ったのでした。
  ・・・・・・
  結婚後,私にも,そんなに大きい間違いが無く,それから一年経って甲府の家を引きはらって,東京市外の三鷹町に,六畳,四畳半,三畳の家を借り,神妙に小説を書いて,二年後には女の子が生れた。北さんも中畑さんもよろこんで,立派な産衣を持って来て下さった。
 今は,北さんも中畑さんも,私に就いて,やや安心をしている様子で,以前のように,ちょいちょいおいでになって,あれこれ指図をなさるような事は無くなった。けれども,私自身は,以前と少しも変らず,やっぱり苦しい,せっぱつまった一日一日を送り迎えしているのであるから,北さん中畑さんが来なくなったのは,なんだか淋しいのである。来ていただきたいのである。昨年の夏,北さんが雨の中を長靴はいて,ひょっこりおいでになった。
 私は早速,三鷹の馴染みのトンカツ屋に案内した。そこの女のひとが,私たちのテエブルに寄って来て,私の事を先生と呼んだので,私は北さんの手前もあり甚だ具合いのわるい思いをした。
  「帰去来」
  ・・・・・・

DSC_1429DSC_1430


◇◇◇


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_11728a2647c0

私が昨日知ってぜひ行ってみたいと思った,太宰治が弘前高校(現在の弘前大学)時代に下宿をしていたという家に,やっと来ることができました。
保存公開に際して,当時の家が,元の立地から約100メートル南東に向きを変えずに移築され,「太宰治まなびの家」として公開されていて,場所は,弘前大学にほど近いところでした。
  ・・・・・・
「太宰治まなびの家」は,太宰治が1927年(昭和2年)から1930年(昭和5年),旧制弘前高校在学時の3年間を過ごした藤田家住宅です。藤田家は太宰治の実家である津島家の親戚筋にあたりました。
この家の2階奧の,押入,縁側,出窓がついた6畳間が太宰治の部屋でした。
  ・・・・・・
太宰治は,1929年(昭和4年)12月10日の深夜,この部屋で,常用していた多量の睡眠剤カルモチンを飲み,最初の自殺未遂を敢行しました。当時つき合っていた,小山初代との関係が真因ではないかと推測されている一方,偽装自殺説もあるそうです。

「太宰治まなびの家」を出てから,弘前大学に向かいました。
弘前大学では,2009年(平成 21 年)太宰治生誕 100 年の節目の年に,太宰治と弘前大学との縁を恒久的に伝えるため,太宰治文学碑が建立されました。碑面には,「津軽」の一節が刻ま れていますが,この碑文は,太宰治の長女・津島園子さんが最も好きだというものだそうです。
なお,弘前大学資料館にも太宰治の資料が展示されていると「太宰治学びの家」で聞いたのですが,今回は時間がなく,そこまでは行くことができませんでした。
どうやら,私は,もういちど,弘前市に足を運ぶ必要があるようです。
  ・・・・・・
私には,また別の専門科目があるのだ。世人は仮りにその科目を愛と呼んでゐる。人の心と人の心の触れ合ひを研究する科目である。私はこのたびの旅行に於いて,主としてこの一科目を追及した。どの部門から追及しても,結局は,津軽の現在生きてゐる姿を,そのまま読者に伝へる事が出来たならば,昭和の津軽風土記として,まづまあ,及第ではなからうかと私は思つてゐるのだが,ああ,それが,うまくゆくといいけれど。
  太宰治「津軽」序編
  ・・・・・・

これで,今回の3泊4日の旅が終わりました。
ゆっくりと昼食をとる時間がなかったので,コンビニで買ったサンドウィッチを弘前駅のベンチで座って食べてから,午前12時15分のバスで青森空港へ向かいました。青森空港着午後1時10分。青森空港のラウンジで一服して,午後2時15分のFDAに乗って帰宅しました。
この日は曇りがちの天気で,一面雲がありましたが,ほどなくして,御嶽山のあたりだけ雲が切れて,1か月前よりずっと雪を被った山頂が見えました。
今回も天気に恵まれ,というか,恵まれすぎて暑かったのですが,念願だった天童市の人間将棋と弘前市の弘前城の満開の桜を堪能することができました。

DSC_1167DSC_1166DSC_1180DSC_1178DSC_1170DSC_1179DSC_1188DSC_1195DSC_1205DSC_1233DSC_1237DSC_1240


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

◆◆◆
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_7923DSC_7914

津軽半島に桜で有名な公園があることすら私は知らなかったので,驚きました。
帰ってから調べてみると,ネットに桜が満開の美しい芦野公園の写真がたくさん載っていて,今回,私が経験した芦野公園のイメージとはまるで違いました。私が行ったときは,ちょうど雪が降り積もったばかりで,さびれ感満載の白銀の姿。このような写真は1枚もありませんでした。しかし,これがまた,いいものでした。
芦野公園に太宰治の銅像があるというので津軽鉄道を降りて行ってみることにして,雪降る芦野公園駅で降りたわけですが,踏切を渡って北に約400メートルほど歩いていくと,桜松橋という藤枝ため池にかかる吊橋があって,そのたもとにめざす目的地が見つかりました。

そこには,太宰治の銅像だけでなく,「津軽三味線発祥之地」と書かれた石碑がありました。
津軽三味線は,津軽地方で発達した三味線です。明治時代に「坊様ボサマ」とよばれた盲目の旅芸人・仁太坊(にたぼう)が,家毎の軒先で三味線を弾き金や食料をもらって歩く「門付」(かどづけ)の芸としてはじまったものということです。
  ・・・・・・
仁太坊は金木の生まれで,幼くして天然痘にかかり失明,さらに両親を失って天涯孤独となり,生きるために門付けを行い三味線を弾き歩きました。やがて「叩き奏法」を編み出して自分の三味線芸を創り上げていったのです。そして,弟子のひとり・白川軍八郎が三味線の独奏で曲芸のような弾き方である「曲弾き」を編み出しました。
  ・・・・・・

さらに,吉幾三さんが歌った「津軽平野」の歌碑もありました。
  ・・・・・・
山の雪どけ 花咲く頃はよ かあちゃんやけによ そわそわするね
いつもじょんがら 大きな声で 親父うたって 汽車から降りる
お岩木山よ 見えたか親父
    吉幾三「津軽平野」
  ・・・・・・
この歌碑の裏には「風を截る音色・津軽の魂が宿る 儀一」の文字が刻まれていました。これは,作家の藤本義一本人が記した文字でした。どうして藤本義一さんが? と思ったのですが,それは,1976年,帝劇で上演された舞台「津軽三味線・ながれぶし」の作者が藤本義一さんなので,これと関わるのでしょう。

太宰治の銅像は,鹿児島市在住の彫刻家・中村晋也さんが作成した,高さ約2メートルの全身像です。
2009年6月19日の太宰治生誕百年記念日に除幕式が行われました。
これもまた,どうしてここに? と思ったのですが,芦野公園は金木町なのだから,当然なのです。津軽鉄道の線路は「つ」の字に回っているので,遠そうなのですが,芦野公園と太宰治の生家「斜陽館」は目と鼻の先の距離なのです。
「斜陽館」は午前9時に開館で,太宰治の銅像から歩くとちょうどその時間になるので,金木町を歩いて,「斜陽館」まで行きました。今回も「斜陽館」の中に入ってみましたが,「斜陽館」のことは以前書いたので,ここでは省略します。
はじめは閑散としていい雰囲気だったので30分ほど滞在していたのですが,やがて,インバウンドの人たちがバスでやってきて,雰囲気が一変したので,退散することにしました。
金木駅に向かって歩いていると,前回訪れたときは知らなかったのですが,途中に「太宰治疎開の家」があったので,寄ってみました。
  ・・・・・・
「太宰治疎開の家」は太宰治の長兄・津島文治が,1922年(大正11年)の結婚を機に新築したのもで,津島家では新座敷とよばれていました。1945年(昭和20年)の7月末から1946年(昭和21年)11月12日まで,太宰治が戦禍から逃れ,妻子を連れ故郷に身を寄せた場所とされています。
  ・・・・・・
太宰治は,新座敷に暮らしていた間に「パンドラの匣」「苦悩の年鑑」「親友交歡」「冬の花火」「トカトントン」など23の作品を書き上げていて,文豪デビュー後に居宅としていた建物では唯一現存するものということです。
そんなこんなで,この日は朝から金木の町ですっかり太宰治に浸りました。

  ・・・・・・
金木は,私の生れた町である。津軽平野のほぼ中央に位し,人口五,六千の,これといふ特徴もないが,どこやら都会ふうにちよつと気取つた町である。善く言へば,水のやうに淡泊であり,悪く言へば,底の浅い見栄坊の町といふ事になつてゐるやうである。
    太宰治「津軽」
  ・・・・・・

DSC_7906DSC_7915DSC_7911DSC_7912DSC_7913DSC_7917DSC_7922DSC_7928DSC_7936DSC_7937DSC_7952DSC_7967DSC_7956DSC_7961

◇◇◇


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは 💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_7065DSC_7074DSC_7072DSC_7034

 NHKFMに「朗読の世界」という番組があります。ラジオNHK第1にも「朗読」「らじる文庫」という番組があるほか,それ以外にもさまざまな番組の中に朗読のコーナーがあるようです。若いころは,こんな番組だれが聴くのだろう? と思っていたのですが,今の若い人も同じことを言っていました。しかし,本を読むのも,特に,小説を読むのも面倒になってきた私は,こうした番組の意義がわかってきました。喜ぶべきか悲しむべきか…。
 その「朗読の世界」で,太宰治の「津軽」が全35回で取り上げられていたので,聴きました。
 先日,青森県を旅して,太宰治の生まれた家,現在の「斜陽館」に行ったこともあって,これまでは存在だけを知っていた小説「津軽」に興味をもったのですが,思ったよりも分量が多くて,また,この時代の小説は読みにくいので,断念しました。そんなことこともあり,まさに,ちょうどいい時期にこの小説の朗読に出会ったのです。

 「津軽」は,1944年,太宰治が34歳のときに書かれた小説です。紀行文ですが,その中にフィクションが交えられていることから小説に分類されているそうです。太宰治が,生まれ故郷である青森県津軽を訪れ,過去に世話になった人々と出会いながら津軽出身者という自分のアイデンティティを確立していくという,美しくも,切ない物語です。
 「津軽」では,太宰治,本名・津島修治を「私」と称し,越野タケを「たけ」としています。
  ・・・・・・
●序編
 私は,現在の五所川原市である青森県金木村に生まれました。親は大地主でした。
 出版社の編集者から「津軽の事を書いてみないか」と言われたことから,津軽人とはどんなものであるかを見極めたくて,当時住んでいた東京を出発し,津軽半島を3週間ほどかかって1周することになりました。
●巡礼
 青森に着いて,かつて私の実家である島津家に仕えていたT君の出迎えを受けます。
 T君は,昔,金木家で一緒に遊んだ仲間だったのですが,私がT君を親友だと思っているのに対して「あなたはご主人です」と答えるT君でした。
 明日,T君とともに,青森県蟹田へ出かけます。
●蟹田
 蟹田で出会うのは中学時代の友人であるN君です。今は蟹田の町会議員となっていて蟹田になくてはならない人物です。
 蟹田の山へ花見に行き,その後,蟹田分院の事務長をしているSさんの家にお邪魔し,熱狂的な接待を受けますが,津軽人である自分自身の宿命を知らされた気になり,「津軽人としての私を掴むこと」を目的とする私は,津軽人の愛情の表現は少し水で薄めて服用しなければならないと感じるのでした。
●外ヶ浜
 N君と農業について語るうち,青森の郷土史に5年に1度は凶作に見舞われているのを発見し,哀愁を通り越し憤怒を感じます。
 翌日,N君の案内で外ヶ浜街道を北上し,竜飛岬にたどり着きます。竜飛は,烈風に抗し怒涛に屈せず懸命に一家を支えて津軽人の健在を可憐に誇示していました。
 竜飛の旅館で歌いながら寝てしまった翌朝,寝床で,童女が表の路で手毬唄をうたっているのを聞き,希望に満ちた曙光に似たものを感じて,たまならい気持になるのでした。
●津軽平野
 竜飛で1泊した翌日,私はひとりで,生まれた土地である金木町へ出発します。
 金木の生家に着くと,実家には長兄の文治と次兄の英治,長兄の長女の陽子,陽子のお婿さん,姪ふたり,祖母などがいましたが,あまり会話が弾まず,気疲れがします。
●西海岸
 翌日,金木から父の生まれた五所川原の木造駅に行きます。五所川原へ戻った私は,3歳から8歳まで育ててくれた女性たけに会うために,小泊を訪れました。
 小泊港に着き,たけの家を見つけたのですが,戸に南京錠がぴちりとかかっていて固くしまっています。筋向いのタバコ屋に聞くと運動会へ行ったとのことでした。
 運動会でたけと再会したのですが,たけは私を小屋に連れて行き「ここさお坐りになりせえ」と傍に座らせただけで何も言いませんでした。いつまでたっても黙っていると,たけは肩に波を打たせて深い長い溜息をもらしました。「竜神様の桜でも見に行くか。どう?」
 竜神様の森の八重桜のところで,能弁になったたけは「30年近くお前に逢いたくて,そればかり考えて暮らしていたのを,はるばると小泊までたずねて来てくれたかと思うと,ありがたいのだかうれしいのだか,かなしいのだか。よく来たなあ」。
 兄弟の中で,私がひとり,粗野でがらっぱちのところがあるのは,この悲しい育て親の影響だったという事に気づいて,このときはじめて,育ちの本質をはっきり知らされたのでした。
  ・・・・・・
 
 作品のなかでは,たけとの会話がクライマックスになっていて,それが「津軽」の中核をなしていますが,実際は,ひとことも言葉を交わすこともなく,太宰治はひとり離れて周りの景色を見ていた,といいます。おそらく,これは,太宰治の願望を表わしたものでしょう。そして,自分のどうしようもなくいたたまれない本質の源流が越野タケのせいだと言いたかったのかもしれないなあ,と私は思いました。そういう意味では,この小説は太宰治の狂気です。
 「津軽」は,太宰治のことをよく知り,また,実際に津軽の地を見てくると,より作品を深く味わうことができるのだろうと思います。だから,先に「津軽」を読んで,その想い入れを持って実際にその地を訪れるか,あるいは,私のように,その地を知ってから「津軽」を読むか,そのどちらにしても,その両方をしなければ,作品は理解できないでしょう。
 私は,小説「津軽」に接して,いつかまた,再び津軽の地を旅してみたいと思いました。


◇◇◇
Thank you for coming 410,000+ blog visitors.


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_2445DSC_2374DSC_2348DSC_2364DSC_2362

######
 さまざまなところで紹介されている天下茶屋ですが,調べても,場所がよくわかりませんでした。検索すると大阪市にある地名が出てきたりと,私は混乱しました。また,峠の茶屋というものもあって,こちらとも混乱しました。
 太宰治の「富獄百景」に出てくる天下茶屋は,創業は1934年(昭和9年)。旧137号線沿いのトンネルの手前にあります。河口湖と富士山を一望できる景勝地で古くから富士見三景のひとつでした。
 「富士見茶屋」「天下一茶屋」などとよばれていたこの茶屋は,徳富蘇峰が「天下茶屋」として紹介して以来,その名で知られるようになったそうです。1938年(昭和13年),井伏鱒二に連れられて太宰治がここに滞在し「富嶽百景」を書いたことで,さらに有名となりました。
  ・・
 御坂峠は甲府から東海道に抜ける鎌倉往還の要衝でしたが,1967年(昭和42年)に新御坂トンネルが完成したことで交通量は減少し,天下茶屋も休業となっていたのですが,1978年(昭和53年)から営業を再開しました。
 
 2階が太宰治文学記念室となっていて,食事の準備ができるまで,まず,記念室を見学しました。
 太宰治文学記念室とは,かつて太宰治が逗留していた部屋が天下茶屋の2階にあって,富士山と河口湖を一望できる6畳間でした。現在は復元されて,太宰治が使用した机や火鉢などが置かれています。床柱は初代の天下茶屋のものがそのまま使用されているということです。
 「富獄百景」「斜陽」「人間失格」などの初版本や「太宰治」「斜陽館」などのパネル,「太宰治文学碑建設趣意書」「のれん」などが展示されていました。
 見学を終えて,井伏鱒二や太宰治も愛したというほうとうを食べました。
 若きころ,私はほうとうなる食べ物を知らず,山梨県へ行ったときに,それは何だろうと思った記憶があります。ほうとう(餺飥)というのは山梨県を中心とした地域で作られる郷土料理で,小麦粉を練りざっくりと切った太くて短い麺をカボチャなど野菜と共に味噌仕立ての汁で煮込み,熱いうちに提供される料理ということですが,名古屋生まれの私には,味噌煮込みのほうが舌にあいます。かつて山梨では「ほうとうをうてないと嫁に出せない」という文化もあったそうです。

 そうこうするうちに雲が切れてきて,富士山の山頂付近がよく見えるようになってきました。  
 いつもながら,運のいい私です。
  ・・・・・・
 「おや,月見草」
 さう言つて,細い指でもつて,路傍の一箇所をゆびさした。さつと,バスは過ぎてゆき,私の目には,いま,ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ,花弁もあざやかに消えず残つた。
 三七七八米の富士の山と,立派に相対峙あひたいぢし,みぢんもゆるがず,なんと言ふのか,金剛力草とでも言ひたいくらゐ,けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は,よかつた。
 富士には,月見草がよく似合ふ。
   太宰治「富獄百景」
  ・・・・・・  

IMG_3152FullSizeRender


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_2313DSC_2375DSC_2371

 しばらく旅に出ることもなかったのですが,気持ちのよい秋になったので,1泊2日でドライブに出かけることにしました。
 天気を見て,10月14日から15日なら晴れそうだと見当をつけて,いつもの定宿である木曽駒高原に予約を入れました。
 といっても,どこに行くかという目的もなく,いつものように中山道を歩くという気持ちも起きず,さらに,今の私には列車で行くという選択肢もないので,かねてから行ってみたかった太宰治が「富獄百景」を書いたという天下茶屋に寄ることにしました。

 「富獄百景」のあらすじは次のようです。
  ・・・・・・
 昭和十三年の初秋,かばんひとつ提げて旅に出た「私」は,師の井伏鱒二が滞在する甲州御坂峠の天下茶屋に身を寄せる。そこは嫌でも向き合わなければならないほど富士がよく見える場所であった。
 しかし,あまりに「おあつらえ向き」だと富士にあまりよい印象を抱かなかった「私」だったが,旅先での出会いや自己との対話を通し,富士への思いを変えてゆく。
 やがて,甲州を去る前に見た富士は,これまで見ていた富士とは違った。
  ・・・・・・

 私は文学青年でもなかったし,あまり多くの作品を読んでいません。しかし,私が育った時代はまだ昭和初期の人たちが活躍していた時代だったので,夏目漱石,森鴎外,志賀直哉,芥川龍之介,そして,太宰治などの小説は,国語の授業とか,ましてや受験などとは関係なく,身近なものとしてありました。
 そんな中でも,太宰治は不思議な魅力があり,さらに,富士山を望む天下茶屋はさまざまなところで取り上げられているので,一度は行ってみたいところでした。しかし,バスの便は非常に悪く,また,自宅から車で行くとなっては,かなり遠いこともあり,なかかなか機会がありませんでした。今回は,意を決して,午前5時前に家を出て,東名高速道路を走り,御殿場インターチェンジから北上することにしました。その後,甲府,諏訪と経由して,木曽谷を戻るというルートです。
 富士五湖のひとつ西湖を通り,午前10時少し前に,念願だった天下茶屋にやっと到着しました。
 ちょうど天下茶屋が開く時間だったのですが,晴れるという予想とは違って小雨模様,富士山がどこにあるのかさえ定かではありませんでした。

DSC_2360


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

このページのトップヘ