昨日来た道を戻って,私は,五所川原市を目指しています。
青森県の西海岸に沿ってあるのが深浦町(ふかうらまち)です。多くの人にとって,こんな場所はあえて行こうと思わなけれ無縁のところでしょう。私もそうでした。しかし,それは認識不足で,このあたり風光明媚なすばらしいところでした。
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深浦町は江戸時代,北前船の風待ち湊として栄え,大阪や京都などからの文化導入の表玄関として発展し,神社仏閣や信仰の対象として大切にされてきた数多くの巨木など,多くの文化財が散在しています。
また,白神山地や,西に広がる夕陽が美しい海岸線,十二湖など、豊かな自然が魅力的です。
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と,深浦町の観光案内にありました。
ところで,私の大好物はリンゴです。
途中で,「日本最古のりんごの木」という道路標示があったので,寄ってみることにしました。というか,日ごろお世話になっているリンゴだから,私は寄ってみなければならないと思いました。
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「日本最古のりんごの木」は,1878年(明治11年)に栽植された柏桑野木田のリンゴ畑に生育している,セイヨウリンゴの「紅絞」(べにしぼり)2本と「祝」(いわい)1本です。当時この畑を所有していた古坂乙吉が弘前の菊池三郎から苗木を譲り受けたものです。それぞれの主幹は,幹囲1.88メートル,樹高は「紅絞」が約6メートルと約5メートル,「祝」は約4メートル。
1867年(慶応3年),蕃書調所にアメリカからいろいろな果物が送られてきました。当時,博物学や農学、園芸学などの多方面において活躍した田中芳男がそれらの果物を試食したところ「アップル」が見た目も味もよかったので,この果物を日本に移植することを発案,セイヨウリンゴとよばれるようになりました。
それまでの在来種のワリンゴは,平安時代末期から室町時代に中国から移入されたものでしたが,小さくて酸味が強い上に硬くて渋みもあったので,セイヨウリンゴに駆逐されてしまいました。
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1871年(明治4年),内務省勧業寮からセイヨウリンゴの苗木30本が青森県に配布され,セイヨウリンゴの栽培がはじまりました。りんごの病害虫が大発生したりしましたが,試行錯誤を重ねた上,青森県の気候風土に合う優良品種7種を推奨し、「紅絞」と「祝」もその中に入っていました。
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「日本最古のりんごの木」は今も立派な実をつけます。収穫したリンゴは一般向けに販売され,一部は「長寿りんご」としてつがる市内の老人福祉施設に毎年寄贈され続けているそうです。私もいつか食べてみたいものです。
青森県を走っていると,まわりはリンゴ畑ばかりで,リンゴ好きの私にはうらやましい限りでした。
そうこうするうちに五所川原市に到着し,市街地を抜け,さらに行ったところに,太宰治記念館「斜陽館」がありました。
今のことはわかりませんが,私が若いころは,太宰治の熱烈なファンは少なくありませんでした。しかし,私は特に太宰治に想い入れがあるわけではありませんし,ファンでもありません。読んだことがある小説といっても,「走れメロス」とか「人間失格」といった学校で習うものくらいです。しかし,なぜか気になるのです。というか,意識しちゃうのです。そうだ,以前,「富獄百景」にちなんだ天下茶屋にもわざわざ足を運んだことがあるのでした。
私は,太宰治に限らず,小説というもの自体があまりよくわからないのですが,なぜか,日本各地を旅したとき,その土地にゆかりのある作家の記念館などを訪ねることがよくあって,そしてまた,そういう場所の雰囲気が好きです。自分が賢くなったような気がするのです。
で,キチンと読んだこともないのに,「太宰治=津軽=さびしいところ」というイメージが私には出来上がっていたのですが,まさか,「斜陽館」に行くことがあるとは思ってもいませんでした。このごろは,そんな場所ばかりです。ここは,もっと寂れた場所だと思っていたので,街中の豪邸であるのに驚きました。きっと,雪の深い冬に来ればイメージも異なったことでしょう。
館内でいろいろな説明を聞き,くまなく見学をして,最後に,太宰治愛用のマントを着て写真を写し,すっかり太宰治きどりになった私は,まさに「人間失格」なのでした。
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金木は,私の生れた町である。津軽平野のほぼ中央に位し,人口五,六千の,これといふ特徴もないが,どこやら都会ふうにちよつと気取つた町である。善く言へば,水のやうに淡泊であり,悪く言へば,底の浅い見栄坊の町といふ事になつてゐるやうである。
太宰治「津軽」
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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは