木曽路を訪れると,いつもは旧中山道を1宿間歩きます。今回はそうした予定はなかったのですが,宿泊先に向かう間に時間があったので,宿場間の移動は車にして,旧中山道の宿場歩きを楽しむことにしました。
巴渕から南に行くと,宮ノ越宿になります。宮ノ越宿は中山道36番目の宿で,宿内家数137軒でした。うち本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠21軒で,宿内人口は600人ほどでした。
前回来たときは,ここにあった義仲館に行きました。義仲館は源義仲の生涯を人形や絵画を使って紹介した展示がある博物館でした。
今回は,宿場の中心あたりを少しだけ歩いてみました。前回行かなかった本陣跡が公開されていたので入ってみました。1883年(明治16年),旧中山道宮ノ越宿は大火にあい,90軒の家が燃えてしまいました。この大火で本陣の主屋部分も焼失しましたが客殿部分は焼失を免れました。木曽11宿の中でたった1宿残されたこの客殿部分は再生され,2016年(平成28年)から一般公開されているのです。
私のほかに観光客はだれもいませんでした。本陣の中には宮ノ越宿の年代別の宮越宿割図の複製等が展示されていました。
宮ノ越宿を出て,旧中山道を南に走ると,中山道の中間地点に着きました。ここが旧中山道六十七次のちょうど中間地点だった場所です。当時の人はこの碑をみて,「やっと半分来た…」と思いながら木曽の山々を眺めたことでしょう。
中山道は山間部を通るため東海道に比べて歩くのが困難なようですが,実際に歩いてみると,東海道も箱根峠,鈴鹿峠に加えて,橋のない大井川などがあって,それなりに大変で,しかも,水嵩が増すと川止めになってしまい予定が立たないので,むしろ中山道のほうがその点では楽だったといいます。
東海道と中山道は距離は中山道の方がずいぶん遠回りに思えますが,実際は40キロメートルくらい中山道が長いだけです。
さらに南に民家のある旧中山道の狭い道路を進むと,いよいよ福島宿に到着します。
福島宿は中山道37番目の宿場でした。福島宿の宿内家数は158軒,うち本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠14軒で宿内人口は約1,000人でした。
この地は,戦国時代には領主木曽氏の城下町として,江戸時代には木曽代官山村氏の陣屋町として栄えました。
福島宿の北側の入口には箱根,新居,碓氷,福島の四大関所のひとつ福島関所が設けられていました。福島関所跡は発掘調査により番所敷地及び門,塀,棚等の配置が確認され,1979年(昭和54年)に「江戸幕府の交通政策史上における遺構として極めて重要なものとして旧中山道に接する家中屋敷部分を含め関所跡」として「福島関跡」の名称で国の史跡に指定されました。
現在は,発掘された遺構の一角に関所が復元され,資料館として往時の姿を物語る用具類などが展示されています。前回,私はそこに訪れたので,今回はパスして,さらに進みます。
福島宿は,宿場であった上町,下町は1927年(昭和2年)の大火で焼失してしまったので,残念ながら現在は古い建物は残されていませんが,地形や道路から往時をしのぶことができます。また,上之段地区にだけ江戸時代末期の建造物が所々残っており,往時の面影をとどめています。
町中の観光客の駐車場に車を停めて,上之段地区に向かいました。私は,このあたりの雰囲気が好きです。まず,高札場が出迎えてくれます。その先は,件数は多くはないのですが,古い木造家屋やなまこ壁の土蔵が残っています。また,新しい建物の中には景観に配慮した外装になっているものもあります。町のあちこちに水場があり,道端の水路にもきれいな水が勢いよく流れていて木曽の水の豊かさを感じることができます。
往時の暮らしに思いを馳せながら散策し,町の雰囲気を味わうのに最高です。
私は,馬籠宿やら妻籠宿のような観光地化されたところよりもむしろこうした場所のほうが好きですが,多くの日本人の旅というのは,食事をし土産を買い,ということが主になってしまうので,人が少ないところは次第にさびれていってしまうのが残念です。
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中山道を歩く-山並みの美しい秋の奈良井宿③
奈良井宿を出て,木曽福島まで戻ることにしました。
国道19号を走っていくと,宮ノ越に着きました。いつもそのまま通り過ぎるので,一度くらいはと思って,そこで国道を降りて,町に入りました。
宮ノ越宿は旧中山道36番目の宿場だったところですが,旧街沿いの街並みには当時の面影はほとんどなく,道だけが街道のころの名残をとどめ,そこが舗装されて車道となり,周りの住居が建て直されたというどこにでもある町でした。ただ,当時の本陣跡には立派な建物が再現されていました。江戸時代,宮ノ越宿の宿内家数は137軒で,うち本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠が21軒あって,宿内人口は約600人であったということです。
宮ノ越宿は,宿場関連の史跡よりもむしろ木曽義仲関連の史跡が多いところです。義仲館という博物館があったので,訪ねてみました。義仲館というのは,木曽義仲の生涯を人形や絵画を使って紹介したもので,入口に義仲・巴御前の銅像が建っていました。
木曽義仲といわれる源義仲は平安時代末期の信濃源氏の武将です。河内源氏の一族である源義賢の次男で,源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたります。
以仁王の令旨によって挙兵し,都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護,倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京しました。飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたのですが,治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化,皇位継承への介入などによって後白河法皇と不和となり,源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢によって粟津の戦いで討たれました。
私たちの年代では,歴史の教科書というよりも,むしろ,古典の教科書のほうで習った「平家物語」で有名だったりします。
宮ノ越宿は木曽義仲頼みで観光客を誘致しようとしているのはよくわかるのですが,奈良井宿などに比べたらまったく宿場の風情がないので,ほとんど観光客はいませんでした。義仲館もおそらくはずいぶんとお金をかけて維持しているのでしょうが,なかなかその苦労が実っていないのがしのばれました。
日本にはこうした観光地が各地にみられますが,結局のところ,博物館頼みでは観光客は来ません。そこに必要なのは昔の風情とおいしい食べ物なのです。
その後,紅葉がきれいだと聞いた開田高原に寄り道しました。確かに美しい紅葉が広がっていました。さらに,ススキ野原が心を癒しました。ただし,この日は御岳に雲がかかっていて,山頂付近が見えませんでした。
前回来たときは,前夜は雨で星は見えなかったのに,翌日は晴れわたり,雲ひとつなくはっきりと御岳が見えました。本当に観光というのは天気次第だと痛感しました。
それでも,こんなのどかな場所が私の住んでいる近くにあるというのがとても不思議な気がしました。
これで宿泊先のペンションに帰ろうと思ったのですが,せっかくここまで来たので御岳ロープウェイの乗り場まで行ってみようと気が変わりました。私はこれまで御岳のロープウェイは乗ったことがありませんでした。
乗り場は思ったよりも遠く,山道を延々と走っていくと午後4時少し前にやっとロープウェイの乗り場に到着しました。まだ乗れるかと聞くと,帰りの最終が4時15分とのこと,そして,山頂駅まで15分かかるので,着いたらすぐに降りる必要があるという話でしたが,せっかく来たので乗ることにしました。ロープウェイの車内からの景色がとてもよかったので,単に登っておりるだけだったけれど,それでも満足しました。私がこの日の最後の乗客でした。
翌日帰宅しました。
こうして,今回の木曽路の旅は,星も紅葉もすべて思った以上に素晴らしいものになりました。家からも近いので,これからも機会があれば何度でも足を運びたいものです。こんどはもっと時間をとって御岳ロープウェイにも乗ってみたいと思いました。










