しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場・47都道府県を制覇し,南天・皆既日食・オーロラ,空の3大願望を達成した「不良老人」の日記

タグ:富太郎の生まれた佐川町

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佐川町の街中から少し歩いて行ったところに,牧野富太郎博士の墓があるということなので,行ってみたいと思いました。歩いて行くと牧野公園がありました。どうやら,お墓は公園の中にあるようでした。さすがに,団体ツアー客は,ここまではやってきません。静寂の中,すてきな時間を過ごすことができました。
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牧野公園は,日本の桜名所100選,高知を代表する花見どころということですが,それは,1902年(明治35年)に牧野富太郎博士が東京からソメイヨシノの苗を送って,それを地元の有志が青源寺の土手などに植えたことにはじまりました。そして,1958年(昭和33年)といいますから,牧野富太郎博士が亡くなってすぐ,公園内に町道が完成したときに牧野公園と称することになったそうです。
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牧野公園に差しかかる坂道を上りはじめると,まず,保育園があって,その先に青源寺がありました。
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清源寺は,1603年(慶長8年)にこの地を治めていた筆頭家老・深尾家の菩提寺として創建された,臨済宗妙心寺派の寺院で,春は桜,秋は紅葉の彩りが非常に美しい庭園は,同じく,佐川町にある乗台寺と共に,土佐三大名園のひとつで県指定文化財となっています。
枯淡の味わい深い庭園で,禅林の風格を持った簡素さが特徴といいます。先に書いたように,「らんまん」では「名教館」として登場しました。
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牧野公園は,結構歩き甲斐のあるところでした。坂を随分と上っていったその中腹に、牧野富太郎博士の墓がありました。
そういえば,私は,先日,東京の谷中霊園の牧野富太郎博士の墓に行ったばかりです。牧野富太郎博士の墓がどうして2か所にあるかというと,生前「佐川に帰りたい」と言っていたことから,亡くなった翌年に分骨が埋葬されたということです。墓の裏には「バイカオウレン」の群生が広がっていました。
帰り道,「うさぎ堂」という休憩所があったので,そこで少し休憩することにしました。ここの名物はわらび餅ということで,所望しました。とてもおいしかったのですが,お腹がふくれてしまいました。

佐川町はとてもすてきな町でした。泊まるところもあるようなので,今度は,この町で1泊してみたいと思いました。

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次に行ったのが,白亜の洋風建築「佐川文庫庫舎」(旧青山文庫)でした。レトロな洋風建築が少ない高知県で,県内最古の木造洋風建築ということです。
「佐川文庫庫舎」(旧青山文庫)は, 鹿鳴館時代の面影を残した県下最古の木造洋館です。1886年(明治19年)須崎警察署佐川分署として管内各村からの寄付により建築されたのがはじまりで,1922年(大正11年)に佐川警察署として独立,1930年(昭和5年)に新警察署が完成し移転したことによって,青山会に払い下げられました。
当時,佐川郵便局長であった川田氏は,私費を投じて,高知県初の私設図書館・川田文庫を創設しました。それに共感した田中光顕伯爵が基金と蔵書を寄贈,町民有志によって結成されたのが青山会です。名称も,川田文庫から田中光顕伯爵の雅名であった青山文庫へ変更されました。
1963年(昭和38年)に高知県立郷土文化会館が新設されると一時期休館となりましたが,1968年(昭和43年)に,佐川文庫と名称を変え再び図書館として開館しましたが,1978年(昭和53年)に閉鎖され,所蔵物は佐川町総合文化センターへ移されました。 建物自体も再度移築され,今度は民具の展示館として使用されました。そして,2009年(平成21年)に現在の場所へ移築されました。
 1階には「らんまん」の写真展示がありました。また,2階には,この建物に関する説明パネルがありました。

その隣にあったのが牧野富太郎博士も学んだ「名教館」でした。
佐川町は,江戸時代,土佐藩の山内家の筆頭家老・深尾氏が城下町として築き上げた町で,深尾氏は代々,教育に力を入れ,文武両道を推奨し,6代・深尾茂澄が「家塾」を開き,1772年(安永元年),7代・深尾繁公が郷校「名教館」を創設しました。1830年(天保元年)に東元町に広大な校舎を建設し,幕末まで数多くの人材を育成しました。
 明治に入り,廃藩置県・学制の発令により「佐川小学校」と改名し,中本町に佐川尋常小学校としての校舎の建築,玄関を移設しました。当時の門下生は武士の子どもがほとんどで、町人は牧野富太郎博士ともうひとりだけで,身分による差別があったそうです。明治時代に入っても身分制度の風習が残っていて,士族や武士の子供は上段に,一般の農家や商家の子供は下の段に座って勉強したということです。
「名教館」の建物は,2013年(平成25年)現在の場所に移築されました。
「らんまん」では,佐川町の牧野公園にある「青源寺」(せいげんじ)という寺の裏門とそこに続く石段が「名教館」という設定で撮影されました。

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今回の旅で絶対行きたかったのが高知県立牧野植物園と佐川町でした。
高知県立牧野植物園を出て,国道33号線を西に約1時間,佐川町に着きました。高知県のさまざまな町は,どこもこじんまりとしていて,私は好きですが,佐川町もそうでした。市街地は歩いてまわれるほどで,無料の広い駐車場があったので,車を停めました。私が停めたときは,ほとんど車がなかったのですが,やはり,心配していたとおり,「らんまん」の影響で,時折,観光バスがやってきては,私の嫌いな団体ツアー客が小さな町に溢れました。とはいえ,こんなに小さな町,彼らが行く場所は限られているので,わずかな時間で去っていきました。

駐車場から,まず,司牡丹酒造のある「酒蔵の道」を歩きました。風情ある酒蔵が東西に延びる「酒蔵の道」には,江戸時代に建てられたものから最近のものまで,蔵がたくさん並んでいました。大きな煙突の下にある蔵は延長85メートルもあって,そこには,出荷前の酒が眠っているそうです。
1600年(慶長5年),山内一豊に伴い土佐に入国し,佐川1万石を与えられた深尾氏は,お抱えの酒造り職人を伴い,遠来の醸造技術と良質の天然水を融合し,数々の銘酒が作られました。
また,「酒蔵の道」を東へ歩いていくと「竹村家住宅」がありました。竹村家は 江戸時代より造り酒屋として栄えた商家でした。

さらに歩いていくと,町の外れに牧野富太郎博士の生家だったところがありました。現在は「牧野富太郎ふるさと館」となっています。牧野富太郎ふるさと館の展示室では,牧野富太郎博士の遺品や直筆の手紙,原稿等が展示されていて,とても興味深く見学することができました。
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佐川町で生まれた牧野富太郎博士の実家は,「岸家」という屋号で酒造りをしていました。植物研究に没頭して,酒屋を潰してしまったのですが,「岸家」の酒蔵は,のちに,創業が1603年(慶長8年)という司牡丹酒造に譲られました。司牡丹酒造の蒸留器がある場所は「岸家」の酒蔵跡地ということです。
司牡丹酒造の酒は,広く出回っています。また,20年熟成の焼酎をベースとした牧野富太郎博士の名前をとった「マキノジン」(GIN MAKINO)というクラフトジンを販売しています。
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「マキノジン」は,キーボタニカルに牧野富太郎博士が妻の名前から命名した「スエコザサ」を使用し,高知県産のグアバ,ブシュカンやショウガ,ハーブなど全12種類を司牡丹の焼酎に漬け込んで蒸溜しています。
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