国内・海外問わずこれまでいろいろな場所を旅して,私が行きたい場所や旅先でやりたいことがわかってきました。それは,人の少ないところであって自然が残っているところ,そして過ごしやすい気候であること,そうした場所で時間を忘れて落ち着けるところなのです。
海外にはそうした場所がたくさんあるのですが,日本国内となると,ほとんどありません。なにせ,国が狭く山ばかりなのに人が多く,どこに行っても昔から人が住んでいて,しかも過疎化のために不便なところは廃墟となっているし,現在観光地となっているところは人だらけだからです。
このごろ,海外からの観光客が非常に多いのですが,それは何も日本だけのことではありません。そのなかで日本を選んで来るのは,日本の古さと混雑さが珍しいのだと私は思います。
木曽谷は中津川を過ぎて中央自動車道が伊那谷に別れを告げたあたりからが魅力的です。そこに続く旧中山道の宿場は国道19号線が走っていて,車中からは眺めても,私はこれまで降りて歩いたことがありませんでした。当然,木曽福島の町も歩いたことがなかったので,とても楽しみでした。
木曽福島の第一印象は郡上八幡と似ているなあ,ということでした。とても落ち着いたよい町並みです。
江戸時代の福島宿はJRの木曽福島駅よりも北側で,関所から続く上の段と呼ばれているあたりには今も宿場町の風情が残っていてびっくりしました。この宿場にもまた,宿場のシンボルである高札場が復元されていました。
観光客が少なかったのも私には魅力的でした。
アメリカの町でいう,いわゆるダウンタウン,つまり現在の繁華街は国道19号前がバイパスとなっていて町と離れていることもあって,そのままの道幅で町屋が続いているのも好感がもてました。私はこうした町を夕暮れにのんびりと散策するのが好きなのです。
町は木曽川の南東にあって,木曽川を越えた北西にあるのが山村代官屋敷と興福寺です。
関所跡に行ったあと,私が行ったのはまずこの山村代官屋敷でした。山村氏は戦国大名木曽氏の旧臣で関ケ原の戦いでの功労によって木曽代官を命じられ福島関所を預かったのだそうです。当時の屋敷は壮大で,その一角が現存して公開されているのです。
昔,代官家を守る「山村いなり」に「おまっしゃ」という木やりを歌うキツネが住んでいて,町の人はその歌で吉凶を占ったのだそうです。この屋敷を解体修理した折にこの屋敷からキツネのミイラがでてきて,現在それがお祭りされていて,お願いすると見ることができました。
次に行ったのが萬松山・興禅寺でした。このお寺さんは先ほどの山村家の菩提寺です。宝物殿をはじめとして,多くの庭があるのです。
極めつけは看雲庭という石庭でした。この石庭は一木一草をも用いない枯山水の庭として東洋一の広さを誇るものだそうです。この庭は外からはまったく見ることができないので,突然現れたこの壮大な庭に入ってびっくりしました。
紅葉の時期になると素晴らしい景色が見られるということなので,ぜひまた来てみたいものだと思いました。
何が素晴らしいかといえば,ほどんど人がいないということで,京都のお庭ではこういう経験は決してできません。
このお寺には木曽義仲公の墓もあります。源義仲(みなもとのよしなか)は平安時代末期の信濃源氏の武将です。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたります。木曽義仲の名で知られていて,「平家物語」においては朝日将軍と呼ばれています。
以仁王の令旨によって挙兵し都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護,倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京します。荒廃した都の治安回復を期待されましたが,治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化,皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となり,源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により,粟津の戦いで討たれました。31歳でした。
護衛わずか13騎,そのなかには巴御前の姿がありました。墓には、「義仲死に臨み女を従うは後世の恥なり。汝はこれより木曽に去るべし」と遺髪を巴に託した…という遺髪が収められています。
さらに,寺の隣には御料館という旧帝室林野局木曽支局庁舎があって,公開されていたので見ることができました。
最後に開田高原に足を延ばして御岳山を見てから帰宅しました。もっと歳をとって車に乗ることができなくなったとき,JRに乗ってこの地に行ってきままに観光するのもいいかな,と思ったことでした。
木曽谷を走っていると「地酒・中乗りさん」の看板が目につきます。そういえば,子供のころよく聞いた木曽節で唄われる「木曽のナア~なかのりさん」って何だろうと思いました。御岳信仰のことを聞いてなんか薄気味悪い気がしたのがこの地方を知ったはじめでしたが,今回調べてみてその意味がやっとわかりました。
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ひとつめの説は,その昔木材を木曽川で運搬した際に木材の真ん中に乗った人のことで,木材の先頭を「へ乗り」,後ろを「とも乗り」そして真ん中を「なか乗り」といったというものです。ふたつめの説は,馬の鞍の中央に乗った人を真ん中に乗るという意味で「中乗りさん」といったというものです。そして最後は,木曽御嶽山の信仰宗教である御嶽教の神様のお告げを神様に代わって信者に伝える人の事を「中のりさん」といったというものです。
そのなかで有力なのが,ひとつめの,木材の真ん中に乗った「いかだ乗り」の説なのだそうです。
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